2011年06月01日

JRの代行バスで仙台まで行く(浜吉田駅まで津波が来ていた)


仙台まで行く(浜吉田駅まで津波が来ていた)

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向こうに見えるのは磯部の海である。かなりの段差があることがわかる。津波で土地の高低がはっきりしたし地盤沈下もしたので水がたまりやすくなっている。


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山下駅から海までは壊滅していた。六号線まで津波がおしよせた。山下町の被害は大きかった。この津波の被害は写真だけではテレビの映像だけでも実感としてわかりにくい。物見遊山で行くのもなんだが実感として知るには現場をじかに見ないとわからない、そして津波の被害にあった人に直接話を聞くとさらに実感する。テレビで見るより生々しくなるのだ。そうすると本当に共感することができる。ただそういうところにはボランティアなどしないと行けない、ボランティアは無駄ではない、ガレキをかたづけ泥をかき分けてみると被害にあった人たちと共感できるのだ。ただ写真だけをとりに行くようだと嫌がられるかもしれない、ただ実感したいなら現場に行かないかぎり本当の共感は生まれないだろう。宮城県でも海岸沿いが実際に行っているからどうなったのか知りたいのでまた行ってみよう。

 


今日仙台に行ってきた。相馬の道の駅があるところから磯部の方を見ると嵐で大雨になった水がたまって津波きて水に満たされた同じ状態になっている。そして六号線からみると磯部に近い方はかなり低い。地盤沈下してさらに低くなったのかもしれない、それであんなに湖のように水がたまってしまった。おそらく海の潮水が入り雨水がたまり淡水湖のようになる。それは北海道に多い。海の近くの湖は淡水湖になりやすいのは潮水に雨水がたまるからである。どうして湖ができたのか原初の状態が再現されたから不思議である。今回の津波はいろいろ興味深いことが解明された。次のサイトが面白い。

先人たちは、津波をよけて街道・宿場町を作った
http://tokyotimetravel.wordpress.com/2011/04/24/
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本当に意外と相馬から亘理から岩沼とかまで津波は奥深く押し寄せていた。そして昔の宿場となっているところまでは津波は来ていない、昔の街道には津波は来ていない、相馬から原町宿までもなぜ鹿島の一石坂のような急峻な坂を上る街道になったのかわかりにくい。でもあの坂を上らないで山裾を回った所は津波が来ていたのである。不思議に津波をさけたような山裾の道を旧街道になっていた。浜街道は六号線のように津波が来るような道を通っていなことは確かである。

新地駅-坂本駅-山下駅-浜吉田駅まで津波がおしよせてきたし亘理でも駅近くまでおしよせた。あの辺は海が見えないので海を意識していなかったが近かったのである。浜吉田も浜とついているから近かった。あの駅まで津波が押し寄せた。


壊滅した線区では駅舎はもとより路盤から築く必要があるので、新線を敷設する
のと同じくらいの規模の工事になります。
http://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q1058670280


常磐線は当分開通しない、それも何年とかなると長い。代行バスが出るようになった。亘理まで30分間隔とかで出ているから便利である。切符も相馬から千円にもならず仙台まで行けるから仙台までの足は確保できた。ただ原町から鹿島の便は少ない、それから快速でないと昔の駅の所に停まるので時間がかかる。快速だと亘理まで50分でありすぐに亘理駅から仙台まげ行けるから便利である。だから仙台に行くのそれほど不便を感じないだろう。
当分はバスの利用であり本当に開通はいつになるのか?その先は長くなるし開通するのかどうかすらわからなくなっている。

posted by 老鶯 at 21:12| Comment(0) | TrackBack(0) | 時事問題の深層

2011年06月02日

夏の海-常磐線は消えるのか?(海が見えた駅は津波が来た)


常磐線は消えるのか?(海が見えた駅は津波が来た)

相馬出て尼鷺見ゆる植田かな


山下駅出勤の人や菖蒲かな


久々に遠出するかなバスの外ノカンゾウの群れ咲くを見ゆ


新地駅坂本駅や山下駅津波に消えて夏の海見ゆ


新地駅通過の電車まちあわせ数分の間下り虫の音聞きぬ


やっぱり海が見えた所は海が近く津波の被害があった。海が見えるのは新地駅くらいであり常磐線は海にそっているけど海が見える地域が少ない、山下駅からあとは海が見えない、でも坂本駅から浜吉田駅まで津波で浸水した。松原になり海が見えないから海を意識しなかった。
亘理駅にしても鳥の海までそれほど遠くないから津波の被害が大きかった。富岡駅も海が見えるから津波の被害があった。末続駅までも津波が来たのか?駅そのものは津波にのまれてはいない、あそこから海は見えるがかなた高い所である。それでも今回は高いなと思っても津波の被害があった。地形により津波は高くなる。やはり常磐線で海が見えた地域は駅は津波の被害にあった。四倉は被害があっても家がかなり残っているから被害が少なかったみたいだ。あそこは砂浜の面積が広いからそれが影響して街が海岸に接しても壊滅状態にはなっていない。壊滅状態になった所は家の土台しか残っていない、この辺では磯部とか海老とか烏崎であった。山元町もひどかった。


そして不思議なのは家とか松原がなくなった結果、広々として海が見えるようになった。景色が変わってしまった。磯部の方面への所もまた雨がふって広々とした海のようになっていた。かなり低い所でありさらに地盤沈下したためだろう。相馬から亘理までは元のようには線路は作れないだろうという、迂回して六号線の西に線路をもってゆく案が出されている。でもこれは新線を作ると同じだから容易ではない、それだけ作って元がとれるとか考えるだろう。パスは割安になる。寸断された常磐線は原発事故もあるしいつ復旧するか全く見通しがたたないし廃線になる区間も出てくるかもしれない、その他も三陸方面の線もなくなるかもしれない、そういうことか想像もできなかった。この世に永久に存在するものはないのかもしれない、常磐線がなくなるなど考えた人もいないだろう。過疎化してなくなる線もあるが常磐線がなくなるとは誰も思っていなかった。


今度常磐線が六号線の西にできたらそこから広々とした海が見えるから景色としてはいい。浜通りと言っても電車から海が見えるのはほんの一部だった。それは松原とか家にさえぎられていたからだった。自然の風景が津波で変わってしまうことの驚きである。常磐線とかでも電車の旅が長かったから思い出深い。線路にそって旅した時間が長い。常磐線は日常的に使うものだから旅で乗るのとは違っている。鉄道の旅が長いからマニア的になった所もあった。
北海道では廃線になった所が実に多い、そこに記念としてここに駅があったとか残っている。
そんなふうに常磐線もなってしまうのか?これも本当に信じられないことである。


新地駅は交換の待ち合わせで長く停まることが多い。そこでホ-ムに下りたりしていた。海が近くても集落があり家並にさえぎられて見えないのである。小さな川があるところからわずかに見えるだけだった。日本は海に囲まれていても松原があるから海が見えなくなっていた。あれだけ広々とした海が見えたら夏は涼しく気持ちいいことは確かである。松原も良かったあれだけ遠くから海が見えることは新しい風景を津波が再現したのである。


ともかく今や異常なことが多すぎる。相馬市から南、原発から30キロ圏内は田植えしていない!
そこには田植えしていたさ必ず白鷺が飛んでいた。その鷺がどこに行ってしまうのだろうかと思う。もちろん阿武隈高原の葛尾(かつろう)村とか飯館村でも田植えをしていない、広大な地域が田植えしていない、そこに鷺は飛んでいない、見かけないのだ。青鷺など見かけたがあれは足が長いから沼などで餌をとれるのかもしれない、白鷺は足が短いから沼なのでは餌をとれないだろう。尼鷺は南から渡ってくる。相馬を出て北に行くと田植えしていたから見かけた。
あれは沖縄で水牛の側を歩いているのをみかけた。ただ田植えができるようになったら鷺は確実に戻ってくる。自然まで変わり田までなくなる異常な光景になった。田植えができなくなるということは飢饉でもありえなかったろう。なぜなら江戸時代のような自給自足の社会ではそれでは死んでしまうからである。だから何があっても田畑をやめるわけにはいかない、自前で作らない限り死ぬからだ。その時遠くからは食料は入ってこないし買うこともできないからだ。

2011年06月03日

津浪が明かにした日本列島の地形のダイナミズム (奈良盆地は海湾→海水湖→淡水湖→盆地に変化した)


津浪が明かにした日本列島の地形のダイナミズム
(奈良盆地は海湾→海水湖→淡水湖→盆地に変化した)

人が住むところに道ができるのは当たり前だが、ではなぜ「山の辺の道」は標高60m〜70mの高度を保ちながら三輪山の山麓をめぐっているのだろうか。その理由を大和湖の存在に求める学者がいる。三輪山麓に人類が住みついた縄文前期の約6千年前、大和盆地にはまだ巨大な淡水湖が存在し、その湖岸にできた道が山辺の道の最初の姿だというのだ。
http://www.kodai-bunmei.net/bbs/bbs.php?i=200&c=400&m=201616


地図
http://yamatai.cside.com/katudou/bonntiko.htm


後に紀伊半島の地盤隆起に従って、大和平野の地盤は次第に海面から離れて行くことになった。(中略)つまり、大和盆地はもと湖であったが、地盤の隆起につれて排水が進行すると湖面が次第に低下し、最後には干上がって浅い摺鉢状の盆地になったと理解されます。(樋口清之「日本古典の信憑性」『国学院大学日本文化研究所紀要』第十七輯
http://www.asahi-net.or.jp/~sg2h-ymst/kaguyama.html


奈良のカラ-の地形図
http://www.asahi-net.or.jp/~vm3s-kwkm/edo/index.html

大阪平野、山城平野、奈良盆地は太古は海だった。その海がしだいにしりぞいてゆき今の地形が形成された
海湾→海水湖→淡水湖→盆地


大和には 群山あれど とりよろふ 天の香具山 登り立ち 国見をすれば国原は 煙立ち立つ

海原は 鴎立ち立つ うまし国ぞ 蜻蛉島 大和の国は


この歌はまさに太古の情景が作者のイメ-ジの中にあり作られた。極めて日本の典型的な地形の歌だった。国見をしたら海原が見えとは海が実際に奈良盆地までつづいていた。そして群山があるのも極めて日本的である。今回の津波の驚きは海湾→海水湖→淡水湖が再現された。写真にとった磯部方面の田が津波で冠水して広大な海湾になった。次に海の水はひいたが大雨になり雨水がたまり広大な淡水湖になった。それから奈良盆地になったというのはここではない、その変化のスケ-ルは余りにも大きかった。でも今回の大津波で自然の変化のスケ-ルの大きさを実感した。こんなことがありうるのだということを実感した。

日本最古の山辺の道は太古の盆地湖をさけて山側に作られた道だった。その山辺の道にそって巨大な前方後円墳が並んでいる。代々の大和の王の墓が並んでいる。そこが日本の国の発祥地だった。


やまとは 国のまほろば たたなづく 青垣 山ごもれる やまとし うるわし


ここには海が欠けて山に囲まれた地をまほろばとしているが実際は海であったところが後退して盆地になったのだ。そうした自然の大きな変化のスケ-ルを読み込む必要がある。それが実感となったのが今回の津波の経験だった。


陸前浜街道も津波が来た所をさけて通っていたという発見もそうだった。常磐線の浜吉田駅から新地駅まで津波に襲われた。名取付近も奥深くまで津波に浸水してかつて海だった所であった。浜街道は広大な海であった所をさけて道が作られていた。これは奈良の山辺の道と同じだった。万葉集は太古の古代の地形の記録を残している雄大なものだった。それは失われた日本の地形を歌っていた。「 陸奥(みちのく)の、真野(まの)の草原(かやはら)、遠けども、面影(おもかげ)にして、見ゆといふものを-笠女郎-もそうである。津波で実際に塩崎まで潮水がおしよせた。そこに船着という地名があり船も流れてきたから驚きである。奈良の場合はさらにスケ-ルの大きい地の変化があったのだ。そういう視点をもつことはなかなかできない、でも今回の津波で現実化したからこういうこともありうるのだと実感した。海だったところが湖となり平地となりやがて山に囲まれた盆地になり大和(ヤマト)となった。その名残としして山辺の道が日本最古の道として残ったのである。そういうスケ-ルの大きな自然の変化から万葉集を読みまた歴史を解読することが必要なのだ。歴史でも太古から見ればそこにスケ-ルがいかに巨大かわかる。
津浪は恐るべき自然のドラマだった。津浪にのまれた人々もまた様々な語り尽くせないドラマと伝説を作った。こういうこと一生の間でもなかなか経験できないだろう。何百年と生きてしか経験できないことである。しかし自然の時間のスケ-ルは余りにも長く大きいから計り知れないものとなる。日本列島は実際に大陸とは違い桁外れに若いというのは本当なのだろう。だから絶え間なく地殻変動があり火山の爆発があり地震があり津浪が襲ってくるのだ。でもこれだけの津浪を経験するのは5百年に一回くらいとなるから歴史を忘れていたのである。


日本では現在の海岸線よりずっと内陸まで海になる時期が長くつづきました。縄文時代の貝塚が栃木県のような
内陸の山奥でも発見されるのはそのためです。そしてこれは現在の日本の海岸線がの多くが数千年前はには海底だったことを意味します。したがって海岸線はどこでも堅牢な岩盤ではなく土や泥が堆積してできたもろい地盤が多いのです。(広瀬隆)


これらの地域は、古東京湾の最も奥(今の渡瀬遊水池付近)につくられたものです(地図)
http://www.maibun.or.jp/qa/a21.html

こう分析して日本の原発は危険地帯にみんな建っているから危険だと警告しているのもわかる。つまりそうした千年とかのスケ-ルの歴史で見ないことが今回の原発事故を防げなかったの要因である。日本は大陸とは違い変動しやすい大地であり地形である。特に海に囲まれているから海の変化を受けやすい、それが津浪だったのである。


先人たちは、津波をよけて街道・宿場町を作った
http://tokyotimetravel.wordpress.com/2011/04/24/



 

posted by 老鶯 at 03:10| Comment(0) | TrackBack(0) | 地震津波関係

2011年06月04日

田もないのに白鷺がいた!



高台に老鶯鳴くや昼間かな

田のなしに白鷺見つけほっとする


ヨシキリやせわしく我も暇のなし


この道の樅の木陰の深くして植田に白鷺餌あさるかも



昨日は相馬市に行ったけど磯部の方を見ていたら白鷺が一羽飛んできた。その時新鮮だった。白鷺は普通に見えるものだが今は見ることができない、白鷺は田んぼないと生きられないだろう。白鷺の餌は田んぼにいる蛙とか田んぼにいる生き物を食べている。


水鳥なので、カワセミのように、魚を食料とします。
他にどじょう、蛙、水生昆虫、サワガニ等です


現在は自然の小川などがない、コンクリ-トの側溝になっている。小川があるとそこではタニシやら水生昆虫でもメダカもいた。だから田がなくても小川があれば白鷺などは餌がある。
人間は便利だからとなぜ小川なども側溝にして破壊してしまうのだろうか?水の流れを良くするのはわかるが全部がそうなってしまって小川は消えた。


春の小川はさらさら流る。
岸のすみれやれんげの花に、
にほひめでたく、色うつくしく
咲けよ咲けよと、ささやく如く。
二、

春の小川はさらさら流る。
蝦やめだかや小鮒の群に、
今日も一日ひなたに出でて
遊べ遊べと、ささやく如く。



兎追いし彼の山
小鮒釣りし彼の川
夢は今も巡りて
忘れ難き故郷


まさにこういう故郷の風景があった。それが消失したことに故郷の人すら惜しいとも思わないのだろうか?ただすべて便利さだけを追求してそく社会だった。兎追いし・・・というときこの辺で結構兎が出てくるのだ。今でも出てくる。びっくりしたのは裏山で立っていたら後ろに兎がいたのである。兎はすぐ近くの山、里山にいる。町からほんのわずか離れた田んぼにもでてきたしこの前は六号線のすぐ近くにも出てきたので驚いた。兎は行動範囲が広いらしい。ぴょんぴょんと遠くまで飛び跳ねてくるのかもしれない、いづれにしろ今や本当にこの辺はどうなってしまうのだろうか?もう20キロ圏は住めなくなるとかやがけはチェルノブリのように森におおわれ自然の楽園になるとか?動物の楽園になるとか言われる。様々な憶測をもって言われる。


白鷺なんかは別に人間がいなくてもそこに川や小川や餌があればいなくなることはない、つまり人間がいなくなっても動物は生きている。放射能で動物や生物でも植物でも死に絶えることなどない、現実に今日田植えされていない土がむきだしの所に白鷺一羽をみかけた。雨がふって水たまりができたからそこに蛙などがいたのかもしれない、蛙は鳴いているからいなくなったわけではない、不思議なのはそうしていくら放射能で汚染されても生物が死に絶える訳ではない、・・・ということは人間も生物だから動物や植物が生きている所には住めるのではないか?チェルノブリではただ老人だけが住んで死んでいった。老人は放射能の影響を受けない、癌になるといってもほとんど同じ割合で癌になる。そうなら慣れ親しんだ所にいた方がいいとなる。現実にチェルノブリでは老人などは移住した人がその心労や何やらで死んだ人が多いというのもわかる。ともかく放射能というのは目にも見えないしわからないから憶測ばかりが多すぎる。一ミリシ-ベルトから20ミリシ-ベルトと危険の範囲の差が大きすぎるのもそのためである。学者すら低い放射線や晩発性障害については何もデ-タ-もないしわからないからそうなっているのだ。福島人は放射能のモルモットだと言われるのもそのためである。まあ、自分なんか放射能をそんなに恐れない、子供は何倍の影響があるから避難するほかない、そうすると世代間で放射能に対する対処が違ってくるから困る。老人より次の世代の子供の方が大事だとなるのもわかる。飯館村などでも老人は最後まで居残ることは確かである。


白鷺がいるのは当たり前だった樅の林がありその木陰が広く涼しかった。その前に田んぼがあり静かに白鷺が餌を漁っている。これは当たり前の光景だった。相馬市のあそこが樅の林だったということは今気づいた。相馬市で田植えをした。でもその米をが他に売ることはむずかしいだろうと言われる。そうなら地元の人を食べろとなるが子供はまずいとなる、家族で食べられないとなるとどうなるのか?老人は食べてもいいのだ。内部被曝と言ってもさほど影響ないのである。


高台に老鶯が鳴いていた。低地に人はもともと住んでいない、湿地帯とか虫の害があり人類はもともと高台に先に住んだ。ヨ-ロッパでも丘のようにな所に街があるのもそのためだった。低地は文明が進んでから人が住むようになったのである。

東南の風が本流となり飯館村に放射性物質を運んだ


東南の風が本流となり飯館村に放射性物質を運んだ

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http://hamanora.blog.ocn.ne.jp/kaiin02/

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一の図と下の自分が描いた図は風の流れと一致する。3月15日の福島原発からの放射性物質は東南の風にのって浪江の赤字木(あこうぎ)椚平(くぬぎたいら)辺りに一番多く放射性物質を運んだ。その時そこに雪が降ったから余計にそこに堆積したのだ。太い赤い線が大きな強い風の流れだった。それが放射性物質の本流の流れを形成した。そして塩浸(しおひで)が別れ道であり風の別れ道にもなった。だから津島も放射線量が際立って高くなった。塩浸から広い道がありそこを風が流れた。塩浸から手七朗方面に流れた風は本流の風である。東南東の風でありそれは谷間を通り道にして流れ飯館村まで放射性物質を大量に運んだ。ただ距離があるからその時相当強い風が吹いたのか?津島だったら距離がないから風で大量に運ばれるのがわかる。飯館とかさらに霊山辺りになると遠い。福島市になるとさらに遠いから風の流れがどうなっているのかわかりにくい、段差も関係していた。高いところから低いところ風は流れやすい、山から風が吹き下ろす、そうすると飯館は標高が高いからその段差があって福島市の方面に吹いた風が放射性物質を運んだ。八木沢峠から吹き下ろした風が谷間を通り大原の大葦辺りに放射性物質を運んだ。だからその辺にある家も計画的避難地域に指定してくれとなる。放射線量が高いからだ。それから橲原渓谷を風は下り南相馬市の橲原村も高くなった。これは風の方向からもわかりやすい、地形からもわかりやすい。


でもわからないのが田村市の三春が放射線量が低いことなど風の流れや地形がどう関係したかわかりにくい、葛尾(かつろう)村は一時期高い時があったが津島と隣り合わせなのに今は低いのはなぜか?これも風の流れから分析すると葛尾(かつろう)村は高瀬川にそって流れた風に影響された。そこはかなり急峻であり風をさえぎった。方向的にも東南の風とはちょっとずれている。都路はまた隣だが山にさえぎられている。つまり飯館村に吹く本流の強い大きな風とは違う風が吹いたのかもしれない、伊達市の霊山辺りも風の流れは本流の流れにそっていてわかりやすい、わかりにくいのは二本松市とか郡山市とか白河市とか田村市である。福島市はわかるにしても本流の風の突き当たりになり盆地だから滞留したことはイメ-ジできる。ところが郡山市がなぜ高いのかとなるとわかりにくい、白河も結構高いから一旦白河に風が流れてその白河から福島市の方に風が吹いて阿武隈川をそって福島市に流れたと分析する人もいた。
白河の風の方向は茨城方面の平野から吹くのが多いからだ。でもその時は福島県では西風とか北風が吹く、東南の風が本流の流れを作ったとするとむしろ福島市に滞留した放射性物質が阿武隈川にそって郡山市に流れて白河市に流れたとみるのが自然なのかもしれない、放射線量も郡山>白河になっているからだ。もし白河から郡山に流れたなら白河市の方がもっと放射線量が持続して高くなっているはずである。


放射性物質はやはり爆発したり一気にもれたときの風の流れが影響して地形が影響した。海側は放射線量が低かったのは海に風で流れたからである。30キロ圏内の避難指示は地下水の汚染などや警戒地域として設定された。飯館村や浪江の山中は原発の地下水の影響はないからだ。放射性物質の流れはやはりその時の風の方向で明暗を分けた。地形も影響したことは確かである。谷間は風を吸い込むような働きもするし段差のある山の頂上からは風が吹き下ろし谷間に沿って吹いてくる。実際に四国の祖谷のかづら橋の袂に吹いてきた風は相当に低い場所から海の方向から吹いてきたかもしれない、あそこは相当に奥であり高い地域である。だから飯館村も標高が高いから海からの東南の風が谷間に沿って吹き上ってくることはありえたのである。祖谷(いや)でも谷間が切れ込んで深いからそこから高知の海であれ瀬戸内海からも風が吹き上げてくることはありうる。山が高いだけに谷も深いからだ。ただ風の流れは本当にとらえにくい、それが今回の放射性物質が福島市とか郡山市に高かった謎を作り出したのである。


詳しい地図とグラフをを集めたサイト
http://hamanora.blog.ocn.ne.jp/kaiin02/

posted by 老鶯 at 21:56| Comment(2) | TrackBack(0) | 飯館村

2011年06月05日

仙台平野の津浪の歴史

仙台平野の津浪の歴史
 


 
長稱寺記録によると慶長十六年(1611)大津波があり、寛永九年(16
32)二木村から七軒の百姓が井土浜のこの地に移住し荒地を開墾、草分け百
姓になったという。

仙台市・三本塚の旧集落は慶長津波によって荒廃し,長く放置された
という記録もある.我々は,以上のような歴史記録に残され

山元町と亘理町の調査測線沿いで,現在の海岸線からそれぞれ3 km,4 km内
陸まで追うことができた.従って,貞観津波は仙台平野南部(山元町・亘理町)において,少なくとも 2−3kmの遡上距離を持っていたということになる.
http://unit.aist.go.jp/actfault-eq/Tohoku/06_08_03.pdf


古老の話によると、慶長津波の後に福島県相馬地方の武士であった相澤家、
大友家、柴崎家などが移住して中野集落ができたと言伝えられる。相馬の地名
にちなんで中村屋敷、吉田屋敷とよばれていた。この地は現在も住宅地である。

(六郷の会)
http://www.stks.city.sendai.jp/citizen/WebPages/wakachu/
archives/sagufuji.pdf


藤塚・井土両民が、潮風を防ぐため三十万本の松を植えた記念碑がある。石
碑は大正三年(1914)に建立された。
碑には、次のように記されている。両区で開拓が行なわれたが、潮風による


塩害に悩まされた。そのため六郷村山田甚助村長の尽力により、二十五町歩の
荒地(砂浜)に潮風を防ぐため三十万本の松を植林した
(六郷の会)



貞観津浪は今回津浪が押し寄せた地点とほぼ同じ地点にあった。浜堤という堆積物から証明された。それは相馬でも同じだった。今回と同じ規模の津浪が押し寄せていたのだ。その研究から最近警告されていた。福島原発でも貞観津浪のことがあるから津浪対策をしろと忠告されたが全く無視された。これは科学的に証明されたものだから現実味があった。ただ千年前ということであり起こり得ないと判断されたのである。

その後江戸時代にも津浪は仙台平野に押し寄せていた。仙台平野に慶長十六年(1611)に津浪がありより海岸に近い所が新たに開拓者入った。相馬藩でも開拓に入った。この頃日本全国が開拓であり土地を求めていたからそうした津浪で荒廃した地にも人が入ってきた。
人口を増やすのには開拓して土地を増やすしか日本では方法がなかった。だから危険な海側や荒廃した地でも土地があればそこで米作りをしたのである。仙台平野は広大であり貞山堀も作られて船げ米を輸送するように作られたが未完成で終わった。伊達藩の米倉となり江戸にも船で運ばれた。仙台平野の開拓により伊達藩の財政的な力を増大した。

津浪がありそのあとに混乱があり人の移動があり社会が動いた。それは今の状態とにている。

この津波が相当大きなもので記録に残された。津波のあとで開拓に入った。他の人も慶長津波の後に新しく開拓に入っている。名取もヌタリであり湿地帯が海の方に向かって広がっていたのだ。津波の後に伊達藩では開拓に入る人を必要とした。それで相馬藩からも呼んだとなるのか、相馬藩でも飢饉のとき人口が減り越中から人を呼んだからだ。相馬、相馬と草木もなびく・・・という民謡は相馬に人を呼ぶのために作られた。

農家をしている人は新しい土地を求めて移住して働けとかいわれるのもそのためである。原発事故の難民化した農民にも言われている。でも現代は農業一辺倒でないし高齢化しているからそれもままならないのである。ただ今回のような津浪が歴史的にふりかえれば500年前にあったし500年単位でみれば必ず大きな地震や津浪がきていたのである。だから山元町でも海に近いし新地や相馬もそうである。津浪は三陸違いここには来ないとしていたが実際は奥深くまで来ていた。その対策は全くちられておらず壊滅してしまった。

三十万本の松を植林したということはいかに塩害に悩まされていたかわかる。松原は景観のために作られたのではなく塩害を防ぐ実用的なものとして作られたのである。そうでなければ三十万本の松を植えない、それだけ塩害は大きいものだった。陸前高田市でも7万本の松が植えられ一本しか残らなかった。30万本の松も根こそぎ津浪でなぎたおされた。いたるところに松の残骸が今も無惨にさらされている。
posted by 老鶯 at 10:57| Comment(0) | TrackBack(0) | 地震津波関係

南相馬市鹿島区に移り住んだ浪江の人

 
南相馬市鹿島区に移り住んだ浪江の人

川俣町の小学校などが避難所へ指定され、同町へ至る国道114号は
住民のいわきナンバーの車が約950台、数珠つなぎになった


今浪江から移り住んでいる人に六号線のコンビニであった。その人は浪江の人だった。車のナンバ-見ているといわきナンバ-の車が多いことに最近気になっていた。どうしていわきナンバ-なのだろうといぶかっていた。なぜなら六号線は閉鎖されているし浪江町には避難区域で人は住んでいない、六号線を通らないとするとかなりの遠回りになる。中通りを回ったら遠回りである。その人は二本松に仕事に行っているという、二本松に会社を移したことも聞いている。二本松に通うとなるとまた大変である。



第1区 福島市、相馬市、南相馬市、伊達市、伊達郡、相馬郡
第5区 いわき市、双葉郡

なぜ浪江町がいわきナンバ-かというと双葉郡内に入っていて選挙区で区が違っていたからである。


旧・標葉郡
浪江町(なみえまち)
双葉町(ふたばまち)
大熊町(おおくままち)
葛尾村(かつらおむら)


旧・楢葉郡
富岡町(とみおかまち)
楢葉町(ならはまち)
広野町(ひろのまち)
川内村(かわうちむら)




標葉郡と楢葉郡とが一緒になって双葉郡になった。双葉町とか戦後できた名である。
双葉駅は元は長塚駅だった。双葉郡の選挙区福島県の5区になっているからいわきナンバ-になる。福島のナンバ-は一区だから福島になっている。いわきというと磐城太田駅や葛尾(かつろう)村の落合に磐城落合とかのバス停があるように磐城国に入っていた時があった。その後双葉郡は相馬藩内に入っている。旧楢葉郡は磐城藩の領域である。


その人は最初に防護服を来た人が爆発した時入ってきていたという、その人たちは国の関係の人たちだった。そして津島に逃げろと指示された。それは浪江町で指示したのであり国ではない、その時浪江の山の方に放射性物質が流れるとは思っていなかった。国の関係の人もわからなかった。だから相馬市に逃げた人も最初津島に逃げた。それは距離が遠いということで逃げたのである。ところが津島は放射線量が今でも本当に高い場所だった。国でも町でも放射線のことがその時わからなかったのである。その後浪江の人の移動がはじまった。その人は95才とかの祖母をかかえているのと子供が小学一年生をかかえていた。最初は会津に避難した。今でも祖母は会津に置いてきて鹿島区で空家を借りて二本松に仕事に通っている。空家がいま田舎でも多くなっているから家族の人数が多い場合は移り住むのにはいい。
ともかくなぜいわきナンバ-が多いのかと気になっていたが鹿島区であれ相馬市であれ浪江から移ってきた人がかなりいるのだた。そのためにいわきナンバ-の人が多いのである。相馬の方だと親戚とか知り合いとかいるから移る人が多いのだ。その人は前に鹿島に住んでいた。

いろいろ話してみると請戸は金持ちが多かったという。漁業権をもっていた人は東電からかなり保証金をもらっていた。でも船主でないともらえないとか言っていた。鹿島区でも火力発電所が建ったとき烏崎では金が入り町の呉服屋で高価な着物が売れたと聞いた。浪江では原発の下請けで働いていた人を知っている。浪江は思った以上に原発に近かった。10キロ圏内にも入っている地域があり請戸からは原発の煙突が見えていたのだ。


鹿島区や相馬市には浪江の人であれ移り住んでいる人が増えているのかもしれない、いわきナンバ-がこんなに多いということはそのためだった。仮設住宅も三百戸以上できているが今のところ入居した人も見ない、そこにも人が入ってくると外部から入ってくる人が増える。原町区避難準備地域で移り住みにくいし医療関係や学校などが正常化していないし仕事もできないなど住みにくくなった。浪江の人が会津から大阪まで避難したのをyoutubeで見たけど全国に散らばった人はこれからどうなるのか?一体いつ帰れるのだろうかとなる。田植えもできない田が広範囲に広がり異常な状態はいつまでつづくのか?鹿島区は移り住む人で人口が増える。
相馬市も増えている。


原発20キロ圏、警戒区域に 区域人口7万8千人


これだけの人が避難している。福島県外にも避難している。そういう異常な動乱状態がいまでつづくのか?原発事故の先が読めないから困るのだ。

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2011年06月06日

三陸の港の津波被害の短歌20首 (日本の地形から考える津波の被害)


三陸の港の津波被害の短歌20首
(日本の地形から考える津波の被害)

●短歌20首


野の浜を津浪襲いぬ年なれば漁師やめるとあわれなるかも


野の浜に暮らす歳月その漁師津浪のあとに思い出語る


小さなる漁港点々津浪きて暮らし奪いぬ誰か跡継ぐ


弁天島津浪防ぎぬ助け合う小竹の村や春の日暮れぬ


細々と小さき湊に暮らせしを無情の津浪なべて奪いぬ


水なくば水汲み運ぶ老人やたくましきかな村を支えぬ


小さななる湊にしあれ水揚げの喜びのありその日思いぬ


小さなる湊も代々受け継がれそもなくれば淋しかるべし


貧しさに身を寄せあいて暮らしける三陸の湊に無情の津浪


漁師として暮らす歳月長きかな小さき湊の愛しかるべし


残谷(のこりや)の地名を残し三陸を再三襲う津浪なるかも


高台に集落作り助かりぬ先人の形見石碑尊し


今日もまた津浪の残骸トラックに運ぶや尽きぬガレキの山かも


三陸の鉄道無惨に砕かれぬトンネルくぐり人歩み来ぬ


悲しみ尽きざりしかも万人の死を償うは何にあるべし


何故の犠牲なりしも天と地と海に慟哭のやまざりしかも


何をもて償うべしや万人の死の悲しみ尽きざりしかも


東北の海岸瀬や津浪あと語り尽くせぬ涙なるかも


七万の松なぎ倒し一本の松あ残して街壊滅す


今日も見ゆ松の残骸あわれかな故郷に長く立ちてありしも



●津波の被害を受けた海岸線の相違


今回の津浪の被害は神戸の地震とは根本的に違っていた。東北の第一次産業地帯を特に海岸線に被害が集中した。その海岸線でも仙台平野から名取から福島県の浜通りは三陸のリアス式海岸地帯とは様相や暮らしも違っていた。仙台平野は伊達藩時代から開拓された田が広がるところであり三陸の漁村とは違う。その広範囲な田が津波の被害を受けたのだから漁港の被害より農業の被害が大きい。塩害で田植えもできなくなった。実際に70万本もの松を塩害を防ぐために植えられた。その松が根こそぎなぎ倒された。その松は田と関係していた。青松白砂の美は塩害を防ぐために作られたものであり土地がないために海側に田を開拓したために作られた人工的美だった。確かに漁港もあったから漁港の被害も大きいのだが三陸は背後に平地がなく牡蠣とか漁業だけで暮らしている所だった。それも零細なものであった。それは日本的典型的風土から生まれた生業である。日本の地形は平地が少ない、山と三陸のような平地がない土地なのである。平地がないからやむを得ず狭い平地に集落を作る。津波にあっても高台は不便だから平地に家を建てることになる。仮設住宅すら建てる場所がない土地である。ただ豊かな漁場がありそんな不便なところでも暮らすようになった。


日本が小さな村が生活の基本になったのは共同体の基本になったのは日本の地形がそうしたのだ。三陸にしても小さな湊が多いというとき、小さな湾があり入江がありそこが港となるか他との港とは山にさえぎられ隔絶される。そもそも日本は山が多いから隣の村は山の向こうとなり行き来もままならないから小さな村で助け合い自給自足の生活を強いられた。坂は境になり村々は地形的に隔絶された。
ただ魚は米と交換する必要があり売らねばならないとなるとき漁業から商業に変化しやすいことはあった。漁師でも商売人になる素地はあった。牡鹿半島でも唐桑半島でも三陸でも点々と小さな漁港が隠れるようにある。日本はそうした小さな港や小さな村々が多いのである。そういう地域が今回の津波の被害を受けたのである。

NHKで放映していた。小竹浜は真正面に弁天島がありそれが津波をさえぎったので被害が少なかった。松島も島があり塩釜も入江が深く島々にさえぎられているから被害が少なかった。

松川浦でも原釜は海とじかに接しているから被害が大きかった。小高い山をうしろにかかえた松川浦に面した所は被害はあっても家ごと根こそぎ破壊されていない、被害の大きいところはどこも壊滅して家の土台しか残っていない、名取辺りからは直接海に面していて被害が大きかった。この辺では磯部-海老-烏崎が壊滅した。磯部は一軒の家もなくなった。ちょっとした地形で津波の被害は違っていた。東京湾は奥深いので津波の被害は少ないだろうというのは地形から見てそう言っている。ただ隅田川を津波がさかのぼっていた。川を通じて津波がさかのぼってくるから川のあるところは危険である。四倉では広い砂浜があって比較的被害が少なかったのか?海に直接面している久之浜などは被害が大きかった。やはり丘であれ広い砂浜であれ前に津波を和らげる緩衝地帯かあるといいみたいだ。波除けブロックや低い防波堤は何の役にもたたなかった。人間の力も地形そのものは変えられない、そこに防災の限界があるような気がする。


残谷(のこりや)とかの地名が残ったのも三陸らしい。つくづく津波の後にこの家は良く残ったな感心してし見てあるったからだ。つまり今回の津波はそうした想像だけではない、実感として切実に感じることが多かった。こんなことが本当にありうるのだということを実際に見たことが違っていた。そうでなければ切実にはならない、空想的なものとして終わっている。だから残谷(残り家)という地名まで残っていることの意味は重いのである。実際に街全体が破壊される残っている家がなくなった!残っている家は貴重だったのである。


女川町野々浜

posted by 老鶯 at 20:28| Comment(0) | TrackBack(0) | 地震津波関係

2011年06月07日

20キロ圏内立入禁止区域の理不尽の謎(2) (動物を理不尽に殺すものは人間も理不尽に殺す)


20キロ圏内立入禁止区域の理不尽の謎(2)
(動物を理不尽に殺すものは人間も理不尽に殺す)

●原発事故の避難者は楽観的すぎないか?


「なぜ20キロ圏内が立入禁止にして動物まで殺処分にしたのですか」
「20キロ圏内は放射線が高いからだよ」
「30キロ圏内でも10キロ圏内でも低い所はありますよ、1・0以下の所がありますよ」
「20キロ圏内は近いのだからいつ危険な状態になるかわからない、警戒のためだよ」
「そうすると南相馬市の一部のように避難準備地域で別に住民を全部追い出して住まわせない立入禁止区域にする必要はない、動物までみな殺しにするのは残酷でしょう」
「それはしかたないことだよ、原発がいつ爆発するかわからないんだから・・・」
「そのことは今のところははっきりと予測できないでしょう、住民にとっては住めなくなり体育館に避難していることがどれだけ辛いことかわかりますか」
なぜ放射線量の低い所にわざわざ大業な防護服を着させて20キロ圏内に入らせているのですか そんなに危険な所ですか?浪江山中のの赤字木ならわかりますがず1・0マイクロシ-ベルの所にそんな防護服着させる必要があるのですか、そうさせているのは政府であり20キロ圏内は特別危険だからみんなに知らせるためにそうしている、それが政府の何か意図がありそうさせていると地元でなくても全国の人も見ているんですよ、そのものものしい姿は原発の中ならわかりますがね・・・」
「政府に意図などありませんよ、危険だからそうしているだけですよ」
「放射線量からしたら危険とはならない、そこが納得いかないんですよ、理屈的にわからないんです」
「しつこいな、20キロ圏内はもう何十年もすめない・・」
「それはどうしてですか?」
「原発から近いし危険地帯であり放射線量は減らない」
「放射線量が10キロ圏内でも低い所がありますよ」
「地下水なども汚染されているし専門家でないとわからないことなんだよ」
「なるほど専門家ですね、専門家が出てきたらすべて素人は何も言えない、立入禁止と言えばそうなるし動物も殺処分にされる、専門家に言わせているのは政府じゃないですか?」


「近い内に帰れるよ、原発事故もまもなくおさまるだろう、そしたらみんな帰れるよ、政府も国策でやったことだし東電もあるし保証はされるよ、一時的なものだからもう少しの辛抱だ」
「いや、あなたたちはだまされている、政府と東電にだまされている、あなたたちはもう故郷には帰れない・・・」
「放射線量は高くないのに・・・」
「そういうことは関係ないよ、とにかくわからないけど20キロ圏内立入禁止区域でこの何十年もそうだよ、チェルノブリは今でもそうなっているように」
「本当に帰れない、土地も家も仕事も奪われて飼っていた牛も殺されて・・・でも保証はあるだろう」
「百万くらいで終わりかもしれんよ、そんなに東電でも政府でも払えないよ、法律的には天災になり人災だという証拠はなかなか証明できないよ」
「そんなことないよ、いや、あなたたちは政府や東電がどれだけ力をもっているかわかるかい、今度のことでわかったろ、自分の家や土地にすら入ることもできなくなった、入ったら警察に逮捕され罰金までとられる、こんな理不尽なことがあるかい、でも検察も政府側に立つんだよ、そしたら裁判では負けるに決まっている、つまりあなたたちは端金で土地も家も仕事も奪われて自分の家族の一員だった牛でもペットも殺されたようあなたたちもそれと同じ運命になるんだよ」
「馬鹿な、そんなことありえないよ、むしろ手厚い政府の保護あるとうらやましがられているからな・・・」
「それは甘いな、政府も東電も自分を守るために非情だよ、国民だってあいつらは原発で得していたんだからということをしきりに言う人がいるからな、世論は必ずしも原発誘致した地元の人の味方とは限らないよ、政府で保証金払うとしたら国民の税金だから国民も原発の避難者のために払いたくないともなるしな・・・」


「ええ、帰れなかったらどうするんだ、浪江から南相馬市の方に避難してきたけど二本松に会社を移したからそこまで通いつづけねばならないのか?90才のばあちゃんは会津の避難所に置いたままだし子供のことがあるから避難したけど浪江に帰れないとしたらどうなるんだ・・・
二本松まで通いつづけられないよ・・・・・」



20キロ圏内立入禁止にしたことがなぜなのか?そのことが理屈としてもわからない、素人には放射能のことはわからないというが放射線量はわかる。10キロ圏内でも低い所はある。浪江の山中の赤字木(あこうぎ)からその周辺や飯館村の長泥ならわかるけどそれ意外は何を基準にしているのかわからない?政府でも明確に説明していない、だから核の廃棄場にするだとか何か政府の意図があるのだと疑う人もいる。人が住まなくなることは政府や東電にとって何か都合がいいことがあるのか?それでも保証金の問題もあるから避難した人を放置するわけにはいかない、でも百万くらいで打ち切り放置されるとしたら20キロ圏内の人は悲惨である。犠牲者にされる。30キロ圏外でも自分も犠牲者の一人である。政府の権力は強いのだから逆らうことはできない、そしてただ犠牲者にされるだけなのか?そのことを追求している人も少ない、メデアは東電などから多額の宣伝費をもらっているからそうしたことは追求しない、かわいそうだなとかは放送するがあくまでもおなみだ頂戴で終わりである。事の真相はマスメデアは追求しない、もしそういうチェック機能があったら原発のことをもっと批判していただろう。そいうことは全くなかった。完全に原子力村にしきられて一言も批判できないし安全神話を作ってきたのもマスメデアである。そうなると結局20キロ圏内立入禁止とか避難準備地域とかなぜ南相馬市など放射線量が低いのにそうした指示で取り仕切られているのかわからないのだ。


●動物を理不尽に殺すものは人間も理不尽に殺す


半径20キロの圏内に、家畜のウシ3300頭やブタ、ニワトリなど計65万匹以上が取り残されているとみられることが、福島県の調べでわかった。大半は死んでいるとみられる。



私が、自分の脳で2週間、悩み苦しんだ末にわかった真実は、動物たちの殺処分だけでなく、この原発から20キロ圏内に暮らしていた福島の住民たちに対する、恐るべき政治的殺処分が行われようとしているのである。そのことに私はようやく気付いた。


補償金など数百万円にもならず、農家の場合は、「農協を通して実額で損害額を請求せよ」という残酷なものである。 東電が自分たちに思
いやりをもって、処遇してくれるであろうと、自分たち原発避難民や住民たちは、勝手に甘いことを考えている者たちもいる。自分たちが、実質、口封じされ、猿ぐつわを咬(かま)まされ、殺処分されつつあるのだということに気付かない。しかし、本能で、勘づいている。

http://ski.vitaljapan.net/?eid=1283070



これが現実になろうとしたら恐るべきことである。今回起きたことは平時と違う,津波もそうだし原発事故もそうである。平時的感覚では対処できない、そして事の真相はやはり原発安全神話を作られたように隠されている。秘密裏に行われている。一見被害にあった地元の人が強いように見えるし権利を主張できるように見える。でも現実に地元の政治家が原発を誘致して利権にあづかったのだから政治家は政府や東電の味方になる。そういう人がどうして住民の権利を代弁できるのだろうか?もちろん地元の雑誌であれ放送局であれいろいろ報道しても何かそうした真実を追求はしないことは確かである。だから真相はいつも闇になってしまうのだ。背後に圧力かけるアメリカなどが表にでないからである。国際機関もアメリカの手先だというのもそのためである。今回も国際機関がレベル7にしたというのもそのためである。
楽観的だというとき危機を言う人がいなこともある。津波にしても危機感がたりなかった。平和がつづくと危機感がなくなる。だから原発事故でも危機感はないし立入禁止になってもすぐに帰れると楽観的であり危機感がたりないのである。また当事者意外は見物人化するから危機感をもてないのである。そのうちいつのまにか見捨てられ殺処分にされる。そしてあとでなぜこうなったのかとか時はすでに遅しとなる。


動物が人によって飼い馴らされ
貧困と困難の末に話しだしたとき
避雷針によって非常に有害な稲妻は
地面からとられて空中に浮かぶ
(ノストラダムの予言)


このように動物はある意味ですでに人間化した動物であり今のペットは家族の一員と化している。実際に話しだしているのだ。人間の心を持ち人間と話し通じ合っている。
「貧困と困難の末に話しだしたとき」と言っているがまさに何度も放送されている。ペットが飼い主が車で去ってゆくときなんとか一緒に連れていってくれとよってきて話そうとしてしいたとかペットとの辛い別れを聞くし見ている。避雷針によって非常に有害な稲妻は・・とは電気のことである。東電の電気のことであり地面からとられて空中に浮かぶとは原子力発電所の電気であり空中に浮かぶとは放射性物質が空にばらまかれたことなのである。予言にはこじつけがあるにしろそれなりに現在の状況にマッチしているのだ。動物を殺すものは人間も容易に殺す、原発事故の避難者は政府と東電に殺処分にされるかもしれない、それだけ政府と会社の権力は大きなものなのである。だから一地域など簡単に見殺しにされる危険がある。それは戦争で犠牲にされた日本民衆ともにているかもしれない、今は確かに動物が犠牲にされた、その動物にしたって人間に近いすでに人間の心をもった動物である。それを殺した時、その怨念はその土地に残るし人にもふりかかる。つまりそこは呪われた土地になり人間にも呪いがふりかかってくることはまちがいない。


神と生き物は一体であり無闇に人間が殺せば神が許さない、恐ろしい罰が与えられるかもしれない、今回の津波にしても何か人間の力を越えた力が働いた。それは天罰だったのか何かわからない、でも人間を超えた力が働く場合があることを実際の経験として知った。原発事故だって人間の傲慢に与えた神からの罰とも考えられる。20キロ圏内をそんなに簡単に立入禁止にして動物を勝手に殺処分したことは許されるのか?その罪は非常に重いし神に自然に復讐されるかもしれない、そういう畏れを感じなくなったこと無視していることがやはり津波とか原発事故とか関係しているかもしれないのだ。今回の大津波にはそうした人間を超えた大きな力を神の力を感じた。それは人間の作った文明など一撃で木っ端みじんにしてしまう恐るべきものだった。さらに勝手に動物を殺処分にしていると恐るべき罰が人間に下されるかもしれない、そういう畏れが今やなくなっている。そこがまた恐ろしい結果となって現れたことはありうるのだ。

posted by 老鶯 at 19:06| Comment(0) | TrackBack(0) | 福島原発事故関連

2011年06月08日

20キロ圏内立入禁止の理不尽(3) (地下水汚染のため?-明確な説明がされない)


20キロ圏内立入禁止の理不尽(3)
(地下水汚染のため?-明確な説明がされない)


●戦争のときもあった理不尽な強制


ユダヤ人も、最初の頃に捕まって貨物列車で運ばれた人達は、
ちょっと事情聴取されるか作業が課せられるだけで、早く帰れると思ってたんだよね。


土壌汚染マップに応じて、陸ではイスラエルの壁のようなものが、不定形で建築され隔離
されると思う。100年とかの単位かもしれない。塀の外は土壌の入れ替えや作物による
放射性物質の吸収などが行われると思う。


これが旧ソ連だったら住民が戻らないように
家屋を破壊されて、ペットも家畜も全部殺処分だぞ


土壌の入れ替えしても無理だよ。これから地下水脈に侵入するんだから。
どんだけの汚染された土の量やねんw


昔の満州と同じ。
無敵関東軍がいるから、絶対大丈夫と長年言い続け、東北出身の大勢の日本人が住み着いた。
ある時、不意に、列車に乗って、全員脱出しろと軍に言われて、危険なのかと聞くと、
念のため、とりあえずだと言われる。結局拒否。危険でもないのに、脱出の必要はない。
そしたら、軍は軍人家族だけを列車で脱出させた。
全員を逃がせる列車はなかったから、ペテンにかけて、軍人家族だけをうまく逃がしたわけだ。
残った一般日本人は、中国人の襲撃で、ぼろぼっろ。

東北人は本当に間抜けだ。

そういう無責任な政府だから制空権を完全に奪われても

保身の為に戦争を続けて
原爆x2や沖縄や日本大空襲のような悲劇を招いた
今の民主政権と重なるわ


戦争(原発)開始自体は当時の状況考えると間違っていなかったが
危険なものに対して国民守る意識が利権の為に欠如しているが諸悪の根源

戦争を続けた東条のように菅やミンス政権、東電幹部や保安員幹部、
御用学者は重過失の戦犯として裁かれるべき


土壌は入れ換えても農業は完全に無理。燃料棒が溶解してどんどん地下に進行してる。
水脈から一気に拡散する。

上司から、違法行為を命じられた警察官は、
その違法行為が、発覚しかけると、口封じのため、
仲間の警察官によって、殺害されている。
http://raicho.2ch.net/test/read.cgi/newsplus/1307221957/

 



20キロ圏内の強制的に避難させられた人は帰れると思っている。そう長いことではないと思っている。政府でも帰れないとは言わない、たまたま何十年も帰れないと言ったのは本心がもれたためだというのもわかる。避難させられた人たちは深刻に考えていない、一時のことであり
帰れると思っている。でも何か変だとも思っている。なかなか自分達の置かれた状態を理解しない人たちも多いだろう。自分も本当に今回は津波であれ原発事故から一体何が起こったのか理解できない、これは家族が認知症になってから身の回りに起こったこともそうだった。様々な悪いことばかり起こったからだ。一体これは何なのだろうと未だに理解できない、そういう状態にあるのかもしれない、でも人間は突然そうした最悪の状態に強制的にもちこまれることがありうる。それが戦争の例だったのだろう。単に一時のことだと思っていたがそうでとはなかったし命まで奪われることになった。

政府の命令でそうなり命令した人は逃げて助かった。それは東電の人が爆発したとき逃げたのとにている。残った50人は称賛されている。命令する政府が緊急の場合は自分のことの方が大事であり命令しても責任はとらない、原子力の村の人たちも誰一人事故の責任をとらない、とらされたのは地元の住民である。原発で利権を得ていたから自業自得だとか今になって責められる。国民も必ずしも全部が同情するわけではない、だから動物が殺処分にされたように20キロ圏内の人たちもそうさせられることはありうる。平和時にそういうことがありうるのか戦争ではない、でもこうした平時ではない、ある意味で戦争状態のような時には満州で起きたようなことが起きる。政府自体が東電自体もう機能しなくなっていた。そしたら命令することさえできない、現場の所長も生きるか死ぬかだったと言っていた。そういうとき現場の人は爆発した原子炉を見ているのだから凄い恐怖心があったことがわかる。離れていればそういう恐怖心はない、そして放射能のことを知らない人は余計にない、自分も全くしらないから爆発したとき外に出歩いていた。しかし原子炉を見ていた人の恐怖は凄いものだったろう。その人たち放射能の危険を知っていたから当然逃げる人もいたのである。

ここに警察のことを出ていたがこういうこともありうる、警察でも検察でもきれいごとではすまない、どろどろしたものがある。権力にかかわる
ものはそういう一面が必ずある。政治家が汚いというときどうしても利権にかかわるからそうなる。利権にかかわるものはみんなそうなる。宗教団体でも利権団体だから汚いものがある。利権を追求している組織は大なり小なり汚いものをがある。
表面ではきれいごとを言っても裏ではそうではない、権力を追求するものはそれぞれ命懸けであり敵を抹殺しなければ生きていけない、それは戦後時代から同じだろう。共産主義の粛清で殺された人はどれだけいるのか、中国では一千万人殺されたとかなるから一地域の住民が殺処分に犠牲にされることはありうる。そんなことをしないだろうとかやはり甘い見通しのなかで避難生活しているのだろう。現実に地元の政治家は原発利権にあづかった人たちであり何ら避難した人たちを助けない、見捨てているではないか?だから見捨てられることはありうるのだ。


●20キロ圏内の立入禁止は地下水汚染のため


僕は北海道旭川市の生まれですが、核廃棄物最終処理場が予定されていた、北海道幌延町において、それが住民投票で破棄されたのは、地下水脈汚染の問題があったからなのですよね。


地下水は何十キロと、水脈が繋がっているからです。

↓下は、臨界の時に出てくるセシウムが地下水に流れ込んだということでしょう。


地下水も河川水と同じように高い所から低い所へ流れます。
http://blog.goo.ne.jp/hiroyasu-king/e/b9b4c40e69bb70317f44a753f3021f41


地下水脈は数十キロという長さで流れています.
そして一度出た放射性物質は全て地下に向かってゆきます.
地上にあるものの行きどころは全て地下なのです.
場所によることは確かですが, 地下水が安全. 土壌が濾過するという認識は正しくありません.
福島の地下水脈に高濃度の放射性物質が浸透するのにそれほど時間が掛かるわけもなく, その水脈と繋がっている地下水は上水よりもより危険です.

空気中に散布した放射性物質等とは比較にならない高濃度の放射性物質が今福島原発の地下に向かってどんどん潜ってます.
誰も止められません.
間違いなく拡散しますし, コレは放射線のように2乗で減水せずそのまま物質として流れてきます.
放射性セシウムの半減期30年は100年たってようやくゼロになるかどうかです.



大量の汚染水を海に流したり地下にしみこんだことは確かである。でもその地下水が20キロ圏内に影響するものだろうか?高い所から低いところに流れるとしたら海に流れるのが普通である。汚染された地下水は海に流れる。でも飯館村の土壌が汚染されているからそこからしみだして地下水に流れれば麓の南相馬市や相馬市は確実に地下水が汚染される。それで八木沢を下った南相馬市鹿島区地蔵木では井戸水を使っているところがあるし山の湧き水を利用している所もある。そうした水がどれくらい汚染されているのかわかりにくい、政府でもそうしたものを詳細に教えていない。つまり20キロ圏内を立入禁止にしたことでも政府は明確な説明をしていないのだ。地下水にしてもそしである。放射線量が低く報告されているのにどうして立入禁止なのかも説明せずにあなたたちは今日からここを出てください、そうしないと罰金をとります、一時帰宅はものものしい防護服を着せられて数時間しかいられない酷さである。実際は一マイクロシ-ベル以下のところすらそうしているのだ。それはなぜなのだろうと疑問に思う人がいる。いづれにしろ飯館村にある「作見の井戸」は豊作をうらなうために井戸水を見ていたがその井戸水はどれくらい放射能汚染されたのか?そいうこともわからない、豊作かどうかなど井戸を見ていたとき今からすると平和な時だったなと思う。今や人は消えて無人化しつつある飯館村だからである。計っているのは放射能だけだという悲惨である。

放射能汚染のことは素人にはわかりにくい、そもそも地下水汚染のことは政府では説明していない、放射性物質がどれくらい汚染しているのかもわからない、ただ説明もなく一方的に20キロ圏内立入禁止とか避難準備地域とか設定されたのである。別に出たくない人は出なくてもいい、年齢にもよる。立入禁止にしたら牛やペットもみな殺しになった。そういう非情さはかつての満州でも起きたから歴史はくりかえすというのは本当である。あまりにも平和が長くつづいて人間は自分もそうだが麻痺していたのである。だから甘い見通しかたてられないのだ。しかし現実はそうではない厳しさがある。明かに今は平時ではない、戦争状態とにているからこんな理不尽なことも起こりうるのだ。そういうことを自覚できない、それは津波にのみこまれし一瞬の内に死んだ人とにている。否応なく一瞬で命は奪われてしまった。そういうことが自然界ではなく人間界でもありうるしかつてもあったけど平和がつづいていたから忘れていたし戦争の異常状態の出来事として関係ないと思っていたのである。

posted by 老鶯 at 01:13| Comment(1) | TrackBack(0) | 福島原発事故関連