2011年05月24日

原発と産業廃棄物の問題 (発展途上国は日本の地方と同じ?)


原発と産業廃棄物の問題
(発展途上国は日本の地方と同じ?)

桜井市長は、現在も、行政・法廷の命令で、産業廃棄への反対運動を煽ったとのことで「業務執行妨害」との判断で、給料の差し押さえ
http://ameblo.jp/azizaworld/entry-10887237207.html

共栄クリーンが念願の最終処分場建設工事に着工。(第1期工事200億円)


(株)原町共栄クリーンは既に処分場の第1期工事に着手しており、金200億円と言われている工事費用はNECが負担していると聞いていますが、(株)シンシアが中平から買い取った株券が偽造ということが事実であればNECにとって重大な問題となりますね。
http://keiten.net/articles/big_business/051_01.html


これももしかしたら原発利権とにていたのか?200億円としたら原発とは比べられないけど巨額だ。こうした巨額な金が動くときやはり人間の欲も動く。原発利権と同じ構図ができる。ここは20キロ圏内の立入禁止区域内に入り御破算になった。廃棄場以上の放射能汚染地帯となった。でもなぜ今頃になって桜井南相馬市長が裁判で敗訴して給料までさしおさえるような判決が出たのも解せない、今こんな問題にかかわっていたら市長自体が復興の仕事に集中できない、これも無関心だったけど明かに原発ではないにしろダイオキシンなどの毒を出す施設だからにていた。この産業廃棄物問題も文明そのものの問題だった。膨大な産業廃棄物を出すのが文明なのである。文明は結局様々な毒になるものを出すのである。電気を作るにも火力でも二酸化炭素を出して空気を汚すし原子力発電は二酸化炭素を出さないからいいと推進された。これもそれ以上悪性の放射性物質を出して福島県を塗炭の苦しみに陥れた。この毒は産業廃棄物だけではない、人間そのものから発せられていた。利権と欲がからみ背後に暴力団も関係していた。原発の作業員も暴力団が関係してホ-ムレスを働かせていたように危険な仕事をさせてピンはねしてもうけていた。それで作業員が放射能汚染で死んだ人もいた。原発で実際は千人くらい放射能汚染で死んでいるのではないかと疑われている。それも巨大な権力で国までかかわるのだから隠されていた。


用地買収に絡み7000万円の自作自演の強盗事件が過去発生している、電源開発側から自作自演の強盗犯である買収工作請負人に1億が渡され、そのうちの7000万円が”あさこはうす”所有者に渡る予定だったものを、急遽強盗と見せかけて奪取した事件だ。
(TBS報道特集)


これも買収工作請負人とか原発の用地買収には暴力団が関係していた。そういう裏の仕事は東電でも暴力団にまかせていたのだ。だから東電の前で右翼は街宣車を出さないのも不思議だった。やはり東電から金をもらっていたからなのだろうか?国民がこれだけ憤っているのに右翼もそれに便乗しないのも不思議である。やはり東電の巨額な工作資金が動いているのだろうか?右翼と暴力団の区別とつきにくい、とても愛国心とか崇高な志がある団体とは思えない、結局様々な団体や組織は利権で結びついているのだ。会社そのものが利益を追求する団体であり利益のためなら悪いこともする。会社が利益追求のみを目的化して肥大化することが原発事故の一因にもなっていた。東電は巨大な利益を生む会社であり政府もそれに加担した。学者も官僚もマスコミも加担した。


現代の問題は国より会社が大きな存在になっている。トヨタという一企業がすで日本なのかもしれない、そこに膨大な労働者をかかえるからトヨタがつぶれることは日本がつぶれることだとさえなりかねない、東電だってそうである、東電がつぶれたら国がつぶれるという感覚になる。だから労働組合も企業側にたつ、利益追求は経営者と同じだからである。マスコミだって一会社だから東電から宣伝費として金をもらっていれば東電の悪いことは言わない。すべてが利益追求から成り立っているからそうなる。組織団体はすべて自分たちの権益を追求している。そこにモラルは消失する、権益であり金がすべての社会になる。その利権のために暴力団も背後で動くことになる。これはカルト宗教団体も同じである。団体の利権追求でありモラルはゼロである。創価なども目的は権力奪取だと公然と言っている。まさに今権力をもって甘い汁を吸っている官僚やら政治家やら企業の代わりを自分たちもその利権にあづかりたいということなのだ。実際に公明党が政権をとればそうなるのだ。まず組織団体で本来の宗教があるところはゼロである。世間のどろどろしたものがそこに集る。そして誰でもこの世に生きる限りこの利権からは逃れられない、この利権から脱することが仏教で言う出世だった。今や国より巨大化した組織集団が国を動かしているのであり国はその付属品のようになっているのだ。だから会社の横暴を規制できない、保険会社でも何でも会社の有利に法律が作られている。社会とは社(やしろ)に会すものだったけど今や会社が国以上のものになってしまった。


共栄クリーンもNECの子会社だとするとNECもそんな土地売買とか産業廃棄物にも関係していたのかと思う。コンピュ-タ-の会社だったと思っていたからだ。いづれにしろ現代は会社国家であり会社の利益追求のみが優先され、それにお墨付きを与えるのか国や県の仕事になっている。国や県でもそうした莫大な利益を生むものに加担する。前にも言ったように国でそうしたものを規制したり制限することはできない、経営者だけではない労働組合でも加担している。
そこで最初に産業廃棄物問題でも一地域の住民が反対した。南相馬市市民が全部反対したわけではない、六人だけが裁判に訴えたのである。だから多勢に無勢となる。企業の横暴というときやはり原発でも金をばらまいて地元民を買収したようにとりこまれてしまう側にも責任がある。巨大な企業の横暴を許さないためにはどうするのか?双葉町の家族がばらばらにされた人がロウソクでも暮らした方がましだったといっていたけど極端にしろ個々人の生活を見直さねばならなくなる。江戸時代に帰れとは言わなくてもやはり地方の人が第一次産業を大事にした質素な生活でもいいから美しい自然との共生を計る道を選ぶ、そういう個々人の意識改革も必要である。結局これが絵空事として現実化するのが一番むずかしいから巨大な企業の利益追求にのまれてしまうのである。自分自身もそんな理想を言っているけど電気使わないで暮らせるかとかなるから同じ面はある。でも車がなくても暮らせないことはないのだ。現実不便でもわずかでも車なしで田舎でも暮らしている人はいる。全員にそうしろとは言えなくてもやはりできないことはないのである。文明は負の部分が必ずありそれが交通事故から産業廃棄物から原発の事故による放射能の問題だった。そういう負の部分を背負って文明がある。その負の部分を全くなくすことはできない、それが呪いのようにふりかかってきたのが原発事故だったのである。


現在のグロ-パル経済システムで得しているのは低賃金の零細下請業者に生産を任せ、原生林を伐採し、人件費削減のために新技術を導入して何万人もの従業員を解雇し有害廃棄物を垂れ流し、政界に圧力をかけて人間より会社を優先する政策を進めさせる大会社とそこで莫大な年収を得ている重役であるこのシステムでは彼らの行為にともなうコストはすべて弱者に押しつけられる。弱者は解雇されて収入を失い、森林に暮らす人々は生活の場を奪われスラムの近くに有害廃棄物が持ち込まれ会社のしりぬぐいに国民の税金が使われる、者の目にはコストは映らず、自分は単に新しい富を生み出していると思い込んでいるが実際は庶民の生活や地球環境を犠牲にした富の集中が図られている。
(グロ-バル経済という怪物-デビットコ-テン)


今回の原発事故は構図が発展途上国とG7の先進国の問題とにている。零細下請業者に生産を任せ・・は放射線で被曝して千人くらい死んでいるとかいう零細下請業者がいて暴力団がからんでいる。暴力団が脅しの役目を果たしている。政界に圧力をかけて人間より会社を優先する政策を進めさせ大会社とそこで莫大な収入を得ている重役である・・・・となるとまさに原子力村を構成していた政治家から官僚から学者から技術者からマスコミやら大きな収入を得ている人が多かった。そういう人たちが一番責任あったことはまちがいない、地元の人も発展途上国とは違うからやはり責任はあった。


森林に暮らす人々は生活の場を奪われスラムの近くに有害廃棄物が持ち込まれ会社のしりぬぐいに国民の税金が使われる


森林に暮らす人々(地方)は生活の場を奪われ・・・有害廃棄物(放射能・・)を持ち込まれ会社のしりぬぐいに国民の税金を使われる、国策としてやったことにしても会社が国よりも大きくなっているからそういうことが起きる。会社の力が国を圧倒するからそうなる。そもそもアメリカのGEが日本に原子力を売り込んだことが契機となり日本も原発先進国になった。アメリカに原爆を落とされて次に原発を売り込まれて第二の原子力による惨事が生まれたのである。それも国より巨大化した会社が世界をグロ-パル化して動かすようになったからである。グロ-パル化した世界では会社の力が圧倒する。会社が利益になることは国でもとめることができない、グロ-パル化した企業となり国より大きな力を持つようになっているのだ。先進国の原発は地元も利するから違ってるけど構図はにている。特に経済的疲弊した地域に産業廃棄物とか原発が持ち込まれることではにていたのである。

posted by 老鶯 at 20:29| Comment(0) | TrackBack(0) | 福島原発事故関連

新緑(南相馬市原町区も正常化してはいるが・・・)

 
新緑の風にそよぎて原町に人も戻りて店も開きぬ


高台に菖蒲の咲きて行く人もまれにし静か事もなきかも


紫の菖蒲の色濃く静まりぬ藤の花垂れ夕べとなりぬ

イオンとかツタヤも開いていた。原町も正常化している。ただ原町はまだ公共的ななところ、学校や病院などが正常化していない、生徒は鹿島区に通い市立病院は応急措置しかしていない、治療はできない、それから耕すなというとき田畑が使用できないことは農家でも困る。
これはしかたないのだろう、なぜなら飯館が放射線量が一番高い、そして放射性物質は土とか葉とか木にたまりやすいとあった。土にたまったセシウムなどは木を通じてまた土にもどり循環するというやっかいなものだった。これから梅雨で雨がふると最初を気をつけろとあった。空中にたまったセシウムなどが雨と共にふってくる。そしてその放射性物質、セシウムなどが山から流れてくる。飯館からなら南相馬の原町区でも鹿島区でも相馬市でも流れてくる。なぜ赤字木(あこうぎ)地帯があれほど今でも20マイクロシ−ベル近くになっているのか、やはり地形的要因として谷間であり森でもあったからだ。森がセシウムなどを吸収したために一段と放射線量が高くなっていた。その森や山の土から放射性物質が川などに流れてくる。それでヤマメなどからも基準値を越えた放射性物質が発見された。その川の水がダムに流れ田んぼに流れて来るとしたら危険になる。


ただ水はどうなっているのか、水道の水はダムなどから取水している。それがどうなるのか、その辺は調べているのだろうか不安になる。山側は放射線量が平均して高い、丸森も高いのである。だから相馬市では田植えしているが山側からの水が田んぼに流れ込んでいることは確かなのである。そうなると相馬市でとれた米が果たして基準値内に放射性物質がベクレルでおさまるのか疑問になる。南相馬市と相馬市でそれほど放射線量が変わると思えないのに相馬市では田植えが許可されている。福島市だって南相馬市より放射線量が高い、政府では放射線管理区域にもしていない、だから自主的に子供の親は校庭の土を除去するなど放射線量を減らす作業をした。政府は国民の命を守ってくれない、福島市とか郡山市とかは人口が多いから避難地域には指定しない、保証しきれないからだ。そしたら市町村で独自に命を守るほかない。政府と地方自治の対立がでてくる。そもそも地方自治体で原発を拒否できた。でも一旦許可したら県でも市町村でも政府指導になり原子力村には逆らえなくなっていた。国策だから地方の権限は喪失していた。原発の事故ではいかに地方自治がしっかりしていないと命の保証すらされないことがわかった。国にまかししていたらただ犠牲にされる。放射能のいい実験材料にもされる。これからは地方でも積極的に政治に参加しないと命の安全も図れないことがわかった。福島県は原発事故の犠牲になったのである。


鹿島区の川子の高台から海をみると実はその足下まで海だった。津波でそれがわかったのである。川子の高台の家の下まで津波がおしよせていた。あの辺は低い土地でありあの高台の下は全部が海だったのである。みちのくの真野の草原遠けれど面影にして見ゆというものを(笠女郎)の万葉集の歌のように草原は港でありあの辺は一面海だった。だから八沢浦が海になったように美しかった。そして海だったのだから津波が来たような所には人は住んでいない、それで磯部でもそうだがあそこは海に接して砂州だった所である。そういう所に人が密集して住むようになったか、烏崎でもそうであり松川浦でもそうである。津波が来るなど全く想定していない、
でも海側に住んでいる人は必ず海にのまれる夢をみる、それが生々しい夢であり恐れを常に抱いている。自分もちょうど小学校の前辺りに浪がおしよせてくる夢を見る。その前に家がないから直接海に通じている感じになっていた。それが実際に現実になったことに驚くのだ。まちがいなく海は怖いものだったのである。いつかそういう時が来るのではないかと夢に見ていた。

津波のことをもっと警戒しても良かった。それが全然警戒していない、今度小学校でも津波の避難訓練したというが今までそんなことを全くしていなかった。いづれにしろ海に近い平地がいかに危険だったか、大内村でも烏崎村でも高台に家があれば被害はなかった。でも高台になると不便であり多くの家は建てられない、それで平地に家が密集するようになった。これは三陸でも同じである。高台の土地は少ないし平地が便利だから平地に家が密集したのである。でも三陸だったら何度も津波に襲われているから危険をもっと危険を感じるべきだったろう。

原町でも人がいなくなれば自然すら映えない、街は死んで自然も死んでしまう。人工的なものと自然の両方がマッチして活きたものとなる。でも植田がないということは自然が失われた。

鷺をみかけない、鷺が消えたのである。ということは夏の風物であり季語が喪失したことになる。帰るも田んぼに鳴いているのが自然であるがそれも消えた。こんなことを田を米を作りはじめてから経験しないだろう。だから回りは索漠としている。でもなんとか人が戻ったから正常化している。