2011年05月29日

20キロ圏内の南相馬市小高区の強制退去の理不尽 (浪江町も海側は1マイクロシ-ベルトにも満たない地域がある)


20キロ圏内の南相馬市小高区の強制退去の理不尽
 (浪江町も海側は1マイクロシ-ベルトにも満たない地域がある)


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●理不尽な政府の強制された命令
 


「家に帰ったら逮捕するのか」 原発20キロ警戒区域設定に住民は不満
2011.4.20 13:21


これでは、罰金付きで一律退去を強制される住民は納得できないだろう。政府の原発事故避難対策は矛盾だらけ、これに関しては政府は無能というほかない。一方では、本来は1ミリシーベルト以下にとどめる べき年間被曝量を、放射線の影響を受けやすい子供についてさえ20ミリシーベルトまで許容、子供を見殺しにするのかとの批判さえ呼ぶ”現実的”な選択をする。かと思うと、このレベルに達しない区域の住民はすべて強制的に追い立てる。何の罪を犯したわけでもないのに、理由も告げられず、行先も保証されないで出て行けと言われて納得できる住民がいるだろうか。
http://www.juno.dti.ne.jp/~tkitaba/earth/nuclear/tepco-nuclear-disaster/11042201.ht


◆2011年4月21日(木) 立ち入り禁止(警戒区域指定)は憲法違反だ
政府は、22日午前0時から福島第一原発から20キロ圏内を警戒区域に指定し、罰則を伴った立ち入り禁止措置を取るという。
http://blog.goo.ne.jp/kanayame_47/e/628bdb5b6343cc6c1c783030ad68d3ac


自己責任なら別に帰っても良いでしょ?
どっちみち国はちょこっとしか補償しないんだしね
伝染病ならともかく放射能が移るわけでもないんだし
そこまで規制する必要なんてどこに有るんだろ?
家畜とか残してきた人も居るんだから心配なのは当り前でしょ?
一体国は政府は何がしたいの???



放射線量地図で見れば明らかなように小高区の平地から海側は原町区とほとんど変わりない、0・7とかであり放射線の影響はない、浪江でも平地は0・7があった。浪江というと常に一番高くなった山側なのであり平地だと0・7になっているところもあるのだ。浪江は高いなといつも全国の人が見ているけどこまく見れば0・7の所があるのだ。放射線量は本当に一様ではない、南相馬市鹿島区の橲原など山側は高いから3-4-5マイクロシ-ベルトとなると避難地域になる。そういう細かい割り振りで避難地域が決められていないのだ。つまり今回はやはりチェルノブリを参考にして30キロ圏内を立入禁止区域にした。チェルノブリでは適用されたことを浜通りでは適用できない、なぜなら地形とかがまるで違っていたからだ。海があり山があることが全く違っていた。海側に半分は風で放射性物質は流れたのも大きく違っていた。だから海側は10キロ内でも浪江でも0.7があった。チェルノブリは30キロ圏内は一様に高かった。日本では違っていたのだ。もちろんまた爆発したとき30キロ圏内は危険なことは危険だから準備しなければならないし何か科学的理由もあるのかもしれない、しかし他の人も言っているように理不尽でありこれは科学的根拠というより政府の勝手な意図が働いた。それで地元の人が大迷惑した。南相馬市は一番迷惑をこうむった。三つに分断されてしまったのだ。


●立入禁止区域は中央政府の権力の横暴


小高区の人は明かに帰れる、それを全部立入禁止区域にしたことは政府の横暴であり大迷惑である。立入禁止区域になって入ると罰金までとられるから理不尽である。政府の一方的強権的命令でありこれは確かに憲法違反にもなる。そんな簡単な線引きができるのかとなる。中東地域が勝手に欧米列強によって国境を線引きされたのとにている。そして国境によって分断された人々がいる。イスラエル紛争のようにガザ地区に閉じ込められたのともにている。検問所を通らないと外に出れないからだ。小高区の人は原町区の小学校にまだ避難していた人がいた。別に帰ってもいいのに散り散りにされてしまった。これは放射線量を根拠にしたら理不尽な仕打ちであり過酷であり政府が何を意図しているのか疑うというのもわかる。めんどうだから20キロ圏内を立入禁止区域にした。スポットスポットで高くてもそうすると行政でめんどうになるためなのか?それにしてもそこに住んでいる人にはその土地から離れられないような人がいる。その人たちは不満だからあえて出なかった。でも強制的に退去させられて立入禁止区域にされたのである。


政府と東電によって浜通りはずたずたにされた。地元も責任あったが事故のあとの対応でもいい加減でありきめ細かい対応はしていない、飯館村が高いのだから早い時期に避難指示をだすべきところを同心円で避難指示を出した。南相馬市は一時避難地域に指定されて物資が入らず困窮した。ともかく地方自治はなく政府の強権によって踏みにじられた。住民はただ政府の命令のままに従順に従うだけでいいのか?何らかの住民の自治が要求される。小高区は明かに帰ってもいい地域なことは一目瞭然なのである。つまりそこで今までのように普通に生活できる所なのだ。鹿島区とも同じであり放射線量は変わらないのだ。結局政府の強権によって翻弄されるだけたった。事故の処理も政府の間違いがあったらしいとか政府の対応は悪かった。そのために一番苦しめられたのは地元の住民だったのである。


●浪江町の海側は南相馬市小高区、原町区、鹿島区と同じレベルで低い


作業中の放射線量は常に1時間当たり1マイクロシーベルト未満だった

(請戸に一時的に帰った人)

浪江町がいつも高いなと全国の人は見ているけどそれは浪江は阿武隈山中に深く入っているえびつな町の領域になっているからだ。津島など三春に近くここが浪江町かと思うほど山奥になる。爆発したとき浪江の人が距離をとるために津島に逃げたのはそれたけ遠いと思ったからである。浪江町でも放射線量はばらつきがある。権現堂などでは1・5とかだが海側は0・5とかなっているからいかに低いかわかる。それも4月18日とか初期の段階で低かったのである。

放射線量は最初に爆発したときなど大量に流れるから最初である程度決定する。あとは増減はなくなる。でも海側は0・5とかなると低いしここだったら生活しても支障がない、海側の請戸の港は1・5だから多少高くても福島市と同じである。ここは原発から10キロ圏内であり福島第一原発の煙突が見える場所だった。そんなに近くても1・5なのである。これは4月2日頃計ったものだからその後はまだ低くなっている。なぜ海側が山側に比べてこれほど低いのか、やはり海に風で流されたからだろう。相馬焼きで有名な大堀はマイクロシ-ベルトとと高くなっている。山側になるとみんな高くなる。でも浪江町でも南相馬市でも山側と海側ではこれだけ放射線量にばらつきがあるのだ。それが全然考慮されていないのである。放射線量は地形の影響も大きく
チェルノブリでは山もないし海もなかったから30キロ圏内を立入禁止区域にした。日本も習ってしたのか、日本では同じようにならなかったから同心円の30キロ圏内で決めることは間違っていた。政府の間違った判断で住民は苦しめられた。東電の対応も悪くて住民はふりまわされて苦しんだのである。

明かに六号線は浪江まで1マイクロシ-ベルトくらいであり封鎖する必要がなかった。海側は1マイクロにみたない低い放射線量の地帯がつづいていた。海側に放射性物質は流れた。風の影響もあり低かった。山側はどこも高くなった。放射線量の詳細なマップを作れば浪江ですら帰れる所がある。町内から海側は福島市と郡山市と同じレベルでありそれより低いのである。
原発が見えるくらい近いのだから警戒地域にしたことはわかるにしても科学的な根拠はない、
六号線は浪江まで通じて何ら放射線量としては健康に害はない、なぜなら福島市や郡山市より低いからだ。

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2011年05月30日

南相馬市小高区の縄文時代 (津波で縄文の海に戻った)


南相馬市小高区の縄文時代
(津波で縄文の海に戻った)

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黄色は六千年前
赤は3,000年前以上(新しい)
桃色は縄文遺跡



小高も津波で縄文時代の海になった。その貝塚分布を見るとその地点がちょうど入江になった貝などをとるに一番適した地点だったことが証明された。黄色の●の6千年前の縄文遺跡、上浦の宮田貝塚からは鯨の骨のようなものが発見されている。かなり大きな魚とっていたのか?
そんな大きな魚なら入江に入り打ち上げられたのたもしれない、縄文時代でも最初に人間が住み着いたのは海より離れていた。人間は最初から海の近くには住んでいない、狩猟、採集が先であり貝とか海の魚を食べたのは後だった。シカとかイノシシとかウサギとかそうした動物とか木の実を採集して食べていた。だから縄文時代の遺跡の分布は小高でわかりやい。縄文早期は赤い小さな点が遺跡の発見された所である。六千年前に海の入江の奥に貝塚ができたことは自然の地の利から当然だった。人間の生活は自然村であり自然の条件にそって作られたのである。海に最も近い角部や浦尻は3000年前とかなるから新しいのである。栗(くり)が
グリ(石)となったのはやはり栗のように固いものとして海岸の石を同類のものとして表現した。

平地や山側が先に生活の拠点となった。狩猟や採集の縄文時代は長かった。海に進出して生活するのは新しかったのである。四国に狩浜とあるのはまさに魚をとることは獣を狩りすると同じだったのである。海岸に接して角部とか浦尻に貝塚ができてから縄文晩期になると貝塚はできず集落も縮小した。その原因は海が後退して狭まったためか?何らかの自然の変化によるのだろうか?縄文時代もゆきづまると人口は伸びない、自然に制約されていたら人口は伸びない、縄文時代の人口は停滞する。

人口が伸びるとき何らかの技術革新などが起きた時である。縄文から弥生と米を作るようになると飛躍的に人口は増える。人口のグラフを見たら明治維新から異常な伸びでありかつてこれほどの伸びがあったことはない、なだらかにしか増えていない、明治維新からの欧米化文明化は異常な人口の増大でありそれは自然に大きな負荷を与えたのだ。自然に反する行為だった。その行き着く先が原子力の事故だったのである。

明治維新から百年の近代化は実際は異常な無理をした時代であり自然の負荷も極端に増大した。それが今回の大津波とか原発事故の原因になっている。なぜ縄文時代の海に戻ったのか?それが本当に不思議だった。こんなことがありえるのかと驚嘆した。一見米作り田作りは文明でないと思っているが相当な文明である。稲荷が田の神だというとき鋳成りであり鉄の神だった。田を作るには米を作るには鎌など鉄器が必要であり大規模な田作りは灌漑も必要であり土木事業だから大きな文明だった。鉄の王が天皇の起源だったというのもそのためである。


今回の津波の驚きは縄文時代の海の状態を再現したことである。一番驚いたのは八沢浦だった。あれだけ満々と水をたたえた入江になっているのに驚嘆した。それだけ凄い津波だったのである。六号線も津波は越えてきた。井田川(浦)は大正時代に開拓されたとなると遅い。丸木船など残っているからここでの漁労生活はずっとつづけられていた。ともかく浜通りは松川浦しか入江がないと浦がないと思っているけどいかに浦が多いか入江が多い場所だったか知るべきである。太平洋の東北でもこの浦伝いに航行すれば船も使える。外海は無理にしてもこれだけ浦があるということは浦伝いに遠くまで行けることになる。瀬戸内海はそうだったが太平洋でも浦が多かったのである。日本は浦だらけだった。そこが牡蠣の養殖の場になり今日につづいている。その浦が今回の津波にのまれた。海に接して集落を形成した所は壊滅した。それは弥生時代から始まった青松白砂の光景はそもそも海だったところを開拓してできたものでありその海だったところは松をなぎ倒して再現された。田や米作りの文明を破壊したのである。液状化で苦しんだところももともと海だったり沼だったりした軟弱な地盤だった。これも自然条件に見合わない作り方でそうなった。人間は自然条件に逆らい生活圏を拡大した。それが大津波で破壊されたのである。原子力発電だって自然に逆らうものでありそれが自然の力で破壊された。

自然はやはり何か人間に対して復讐するということがありうるのか?そういう大きな自然の力を感じたのが今回の津波だった。

いづれにしろ郷土史研究の一つの場が20キロ圏内の立入禁止区域で失われた。小さい範囲でも地理とかわかるのは時間がかかる。学問も時間がかかる。何かを理解するには時間がかかる。郷土史は地理が地形が基だとするとそれを知らなければ理解できない、小高は海の方にも一回くらいしか行っていない、意外と海が近かった。桃内駅辺りまで津波が来ていた。立入禁止区域になって入れなかった。小高の人は原町の小学校に避難していた。高見地域の小学校だった。あそこを通ったから小高の人がまだいたのかと思った。小高の人は散り散りになった。これも信じられない、立入禁止区域だと入れないことが困る。小高は放射能がそれほど高くない、平地とか海側は原町区や鹿島区と変わりない、0.7から1マイクロシ-ベルトなのだ。
20キロ圏内となるとやはり爆発したとき危険だから立入禁止区域にした。でも海側は住んでも何ら支障なく低いのである。だからあそこなら帰れると思う。飯館はむずかしい。ともかく行けなく名た所が多いから困る。住んでいる所が刑務所化、塀の内になってしまったのである。



浦尻貝塚の概要
http://www.city.minamisoma.lg.jp/mpsdata/web/3189/2.pdf


鯨の骨 (宮田貝塚)

http://green.ap.teacup.com/naraha/709.html

posted by 老鶯 at 19:48| Comment(0) | TrackBack(0) | 地震津波関係

2011年05月31日

瓦職人が屋根から落ちて死ぬ

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瓦職人が屋根から落ちて死ぬ

●瓦職人死す


瓦直してもらったけど瓦は今回の地震で軒並み壊れた。小高の瓦屋の人が忙しく一時的な処理をしてくれた。グシは曲がっていて直す必要があると言っても今はできない、瓦屋とか建築土木関係当分忙しい。その瓦屋が屋根に上がったとき怖かった。屋根の縁を歩いていた。自分の屋根は怖いくらい高い屋根だった。その縁を歩いていたのでびっくりした。前はグシを直したがグシは真ん中だから怖いとは感じないが縁を歩いていたら滑ったりするから怖い。


前にも書いたけどアンテナとりつけたアルバイトのように雇われた人60才くらいの人が屋根から落ちて死んだ。この人はプロだけど屋根から落ちて死んだ。42才だから若い。昨日は風も雨も強かった。こんなとき仕事していたのは仕事が忙しく休むなかったためだろうか?工事とか建築現場でも危険がある。頭を通う仕事は楽と言えば楽である。でも頭が良くなければ力仕事で危険でも現場で働くようになる。今回の原発事故では頭を使う仕事より現場で命懸けで事故をおさめる人の価値が高くなった。事故がなければ原子力となると人間の頭脳が作り出すものであり現場より頭脳の価値が何百倍もの価値があった。原子力は特に最高の頭脳が必要だからである。だから給料が高くても許されるし文句は言えないことがあった。それが一旦事故になったらその価値は現場で働く人より極端に下落した。現場で放射線の中でガレキでもとりのぞいてこいとかしきりに言われる。原子力を作り出した人の責任はまさにその頭脳をになった人たちだからである。

この時期瓦職人が屋根から落ちたというのも象徴的な事件だった。

地震保険で審査する人が見にきた。5パ-セントなら保険が出るがそれまでになっていまかどうかわからない、入院して保険に入ってたら保険金が出た。自分も入っていれば10何万かもらえた。保険は意外と大事なものであり得するものである。明日は仙台の交通事故センタ-に行き保険金の交渉である。
交通が相馬まで自転車になり相馬からバスになる。相馬まで15キロもあり自転車では疲れる。電動自転車は本当に役に立った。体もなんとか動けたので一人でも介護してやっていけた。
常磐線は亘理までは復旧した。そのあとはいつ復旧するかわからない、ただ原発事故の双葉などは見込みすらないが仙台の方へはいつか復旧するだろうがその先は長いのだ。

飯館方面も立入禁止区域になったり小高から先は立入禁止区域となり回りが通れなくなる。
この辺は塀の内の刑務所化している。もちろん一日足りも自由に介護になってから出れないことも刑務所になっていた。こんなことがあっていいのかということが未だにわからない。

まあ、旅も30年したから思い出が生きがいだともなる。刑務所で平和なときを思い出して過ごす、それも老後の楽しみだとなる。


●一週間くらいの備蓄は必要


南相馬市で10人餓死したというのはやはり津波があり原発事故がありその最初の一週間くらいで助けがなく衰弱死した人かもしれない、一週間の貯えがない人は食料を調達できなかった。幸い米が一袋くらいあったからそれでしのぐことができた。米が配布されたのはかなり遅かったのだ。一週間ではない、10日間くらいから後のことである。津波が起きてからすぐは回りの援助は全く得られない、救助されるまでは時間がある。その時間に間に合わなかったら死ぬ。津波にあった救助されない人は衰弱死したとしたら餓死とは違う。そのあとに食料が欠乏して死んだら餓死になる。ともかつ一週間分くらいの食料は備蓄しておくべきである。

 
posted by 老鶯 at 15:21| Comment(1) | TrackBack(0) | 時事問題の深層

復興へ向かう短歌十首


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夏菊の白と黄色の風にゆる

この道や昨日の嵐に倒れたる菖蒲のあわれ我が見て通る


 復興へ向かう短歌十首


墓倒れ故人も驚く地震かな安らけき日のいつ戻りなむ


墓倒れ地割れの道や復旧の道のり長くこの道を行く


雨しとと蛙の鳴きて我が一人昼餉の用意なお余裕あれ


悲しみのなおも深きも生き残る人はひたすら生きるほかなし


生き残る人はなお湧きぬ力あれ樹々の芽吹きてここに生きなむ


家族をも家をもなくしこれよりは何をよすがに生きむとせむ


故郷に長くしあれば離れじを生きる力のここより生まれむ


よすがなる牛や土地や仲間とも分かれて生きる何を頼りに


その土地に長くしありし石なれば動けざるかなここに生きなむ


荒廃の津波の跡に芽吹きかな残れる人は生きるが勤め


復興の力の湧かむもろともに海と地と山再生へ向かふ

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昨日は嵐だだった。松川浦ではまた地盤が低くなった所が冠水した。毎日通るところにひっそりと咲いていた菖蒲が倒れていた。墓も倒れて直されていない、この災害は長く尾をひく、歴史的災害である。神戸の震災では商店が復興するのに10年かかった。長かったと言っていた。経験者の言葉だから重い。この復興には長くかかるということを覚悟する必要があるのだ。とても一年に二年とかで復興するものではない、長い根気のいる復興の時間が必要になる。
だから50代とか60代の人は第一次産業に従事している人はあきらめる人も出てくるかもしれないもともとも跡継ぎのいない人もあきらめるかもしれない、これから長い時間をかけても復興するという人でないとやっていけないかもしれない、即席には解決しない、嘆いてもどうにもならない、こういうときみんなあせっているけどかえって今なんとかしようとするとできないかもしれない、長い目で見て復興するならば復興できるかもしれない、その長さに耐えられるのか?それが問題になってくるだろう。神戸の商店街では10年かかったというときまさにそれだけの長さが復興には必要となる。だから途中で投げ出す人もでてくる。こういうときやはり50代以上になると苦しい、でも第一次産業は50代以上は本当に多いのだ。農業でもそうだしそこに大きな復興の問題がひそんでいた。かえって原発事故なら保証してもらった方がいいという人もでてくる。
そもそも跡継ぎがいない人が多いからだ。でもその土地に残る人は復興ということが課せられている。テレビでも地元の人が無償で便利屋を勝手でている。若いときはワルであっても今は違う。なんとか地元のために復興のために力をになろうとしている。でもこれは先が長い、ポランティアは遠くから来てくれたが一時的なもので終わる。ところが地元に住む人は延々とつづくのである。放射能汚染は元にもどるのに何十年かかるというからこれも先が長いのである。その頃、年寄は死んでいるのだ。そんな先の長いことに耐えられない人もでてくるのだ。


 

posted by 老鶯 at 19:39| Comment(0) | TrackBack(0) | 地震津波関係