2011年05月14日

原発事故で東電社員は逃げた (残ったのは50人-あぶりだされた真実)


原発事故で東電社員は逃げた
(残ったのは50人-あぶりだされた真実)


14日に亡くなった60歳代の協力企業の男性の死因は、わかっていないものの、 
放射線量を気にしながらの防護服での作業は、身体的、精神的な負担も大きく、 
作業員に不安が広がっている。 
http://www.yomiuri.co.jp/national/news/20110514-OYT1T00511.htm 



女「これは○○(大学名)の方から聞いたんだけどね、
  原発でトラブルがあった直後からニュースで報道されるまでの間にね
  政治家の上のほうの方たちの家族とね、東電の重役の家族が
  国外へ避難したそうよ。
男「国外ってどこへ」
女「スイスやドイツとかヨーロッパの別荘とか言ってたわ」
男「チケットなんてとれるのかね」
女「政府や大企業の家族には特別措置がはかられるのがあるじゃない。
  それよりそういった家族全員が海外へ避難したのを確認してから
  ニュース報道がされたそうよ」
男「そりゃひどい」

 



大阪に逃げた浪江の女性もビデオで語っていたけど東電職員は危険をいち早く察知して逃げた。子供を逃がした。やはり放射能の危険を知っていたからだ。日頃から放射能のことを現実的仕事として知っていたからこそ逃げた。自分は15日間テレビばかり見ていた。そしたら放射能は危険ではない、直ちに影響はないとかばかりテレビの言うことを聞いていたので放射能なんか恐れるひつようがないと思って外にでていた。爆発したときは30キロから二三キロ離れても回りの人は逃げた人が多かった。結局自分は放射能に無知だったのである。はじめてのことだから放射能が何かとっさにわからなかった。日頃から放射能の危険を知っている人は逃げたのである。自分の場合は介護しているから逃げようもなかったこともある。それにしても爆発がつづいたときは放射能のことを知っていれば逃げるのが普通だろう。飯館村はかなり被曝してから計画避難地域になった。やはり一か月くらいは一時的にでも避難すべきだったのだろう。あまりにも今でも放射線量が高いからだ。南相馬市では一号機が爆発したとき3時間くらい20マイクロシ−ベルにもなったから高かった。そのあとは急速に低下した。だから外に出ていても幸運にも被曝量が少なくてすんだということがある。東電社員は原発で常時働いているのだからとっさに反応して逃げた。残ったのは50人だけであり外国からも無名の50人として称賛されている。


でも原発については無関心だった。原子力発電所内で働いている人でこれまでも被曝して死んだりしていた人がいたが隠されていた。そういうことにも無関心だった。原子力で働くことは危険なことだった。人間はそうした底辺で働く人を注目していない、別にこの世の中で建設現場でも危険な労働をさせられている人は普通にいる。そんな人を注目している人はいない、なぜ今回はそうした底辺で働く人が注目されたのだろうか?これも原発事故がなかったら別に注目していない、危険だとしても金になるからやっているだろうくらいにしか思っていない、それがなぜこれほど注目されるようになったのか?世論ではみんな原子力利権で潤った幹部たちが社長であれ原子力委員であれ御用学者であれ東電の社員が率先して危険な現場で働いて原発事故をおさめろと言っている。それも当然だと思う。どれだけの金を手にしたか、普通の庶民とは桁違いの金である。これも別に事故さえ起こさなければ責められることがなっかた。それだけの責任をになっていたからである。今になってあまりの責任の重さがあったことを自覚した。日本全体を放射能汚染して世界も汚染した。その被害の大きさが自覚させたのである。


結局原子力という危険なものにたづさわっていてもその危険を真剣に考慮していなかった。一旦事故になったらどうなるのかを考慮していなかった。危険はわかっているはずでも真剣に考慮していなかった。そしてただ莫大な原子力利権のみがその金が官僚や学者やら政治家にマスコミに回り安全神話が作られたのである。今回はなぜか右翼の街宣車が東電前で騒がない、右翼系統は放射線は健康にいいという人が多い。これも変だなと思う。官僚とか学者とかを責めているけと東電をあまり責めないのは何故なのだろうかと思う。やはり金が回っていたのかなる。右翼はまた暴力団と関係していることが多いから東電の金が回っていたのかもしれない、地元でも東電に勤めている人は暴力団的な役割を果たしていた。原子力は危険だと言わなくさせていたのである。利権にかかわっていたら食堂の人でも原子力は危険だなと言えなくなるのだ。現実今でも原発あるところでは地元で生活する人は恩恵があるからそうなっているのだ。現実利権はそれだけ大きいからそれで安全神話が作られていった。国策でもあるのだから逆らうことはむずかしい。文部科学省も危険だという項目を教科書入れさせなかったのである。それだけ危険ということを言わせないなら原子力の危険性を知っていたかというとそうでもなかった。危機感もなかった。いかに原発がずさんだったかをみてもわかる。今回の津波か原因だけではない、地震でも主要部分が壊れたのである。


ともかく人間の価値観はその時々に変わってくる。価値が一定していることがない、こういう事故とか大災害が起きると価値観も変わってしまう。今回の事故では否応なくあぶりだされたものがある。エリ-ト層が断罪されたことである。濡れ手で粟の収入を東電から得ていたが原発で一番肝心の安全のためには働かなかった。東電から金をもらいあとは適当に茶を濁して金をもらうだけだった。安全のことなど何ら手を打つことなく安全だと言っているだけだったのである。事故が起きても放射能は安全だと言いつづけている。普通だったら底辺の労働者に注意を向けられることはない、価値を認められることはない、今回は放射線をあびてガレキ一つでも取り除くことが価値あることになった。東電社員はそれをやれとみんな言っている。社長や学者でも原発推進者は事故現場に行って底辺労働者になれと言われる。つまり頭だけではどうにもならない、結局最後は原発事故を収めるのはチェルノブリのように人海戦術になる。人の手でやるほかない。ロボットでもやれないことがわかった。その時犠牲になる人は価値ある人になる。

60以上の退職した人が放射線の影響をあまり受けないから志願した。そのことが褒めたたえられている。確かに技術も必要だけどそれ異常に犠牲的精神が望まれている。特攻隊のような犠牲的精神が必要とされている。やはり最後は機械ではない人間が解決する、そして人間の精神が最も大事になってくる。エリ-トの頭のいい上層部はただ自分の保身しかないから醜いずるいとなる。その時犠牲になるのは底辺層でありその人たちただそうした志があるとは限らない、今一番大事な仕事をしているのだ。日本人の命を救うために奮闘している。普通だったら建築現場で底辺で働いてもさほどの評価はないし注目もしない、今は違う、みんながち注目しているのだ。上層部は何にも役に立たない、お前ら原発事故現場で働けと言われる。そこに価値の変化が起きた。原発事故でいかにエリ-トがずるい人たちでありモラルがなくただ金だけをもらう人たちだったか、そのことがあぶりだされたのである。その人たちがなぜ高額の金をもらっていたのか、今現場で命をかけて働いている人たちに払いと言われる。責任を果たしていれば事故がなけれはこうは言われなかったのである。


利権の構図
http://www47.atwiki.jp/goyo-gakusha/pages/13.html


冷却の仕事を放り出して逃げた福島原発東電社員が行方不明

http://kashiwataro.iza.ne.jp/blog/entry/2206970/


浪江の人の原発からの逃避行

http://www.youtube.com/watch?v=EcF_75slgwk
http://sankei.jp.msn.com/affairs/news/110429/dst11042903050002-n2.htm

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2011年05月16日

飯館村に行く

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飯館村のコンビニにとまっていた

山の村石に風鳴り菖蒲かな

何残す人去るあとにすみれかな


山の道行く人まれに鶯の警戒音のみ高くひびきぬ


声合わせ蛙の鳴きて春の来ぬ飯館村に我は休みぬ


飯館に耕す人も見えずして春になれども淋しかりけり


飯館を去りにし家やとりどりに庭に花咲く春になれども


飯館に生まれ育ちて暮らせしにいでよと酷し春となりしも


飯館を人は去りゆく石のみそここに残りて帰るを待つかな



飯館村ではセブンエレブンとス-パ-一軒しかやっていない、ス-パ-の品物は減っている。昨日から計画的避難がはじまったらしい、引っ越しの会社の車がきていたのもそのためらしい。
今日テレビでそのことをやっていた。役場の方に行けばそのことがわかった。あいのさわで休んで帰ってきた。あそこにいい石がある。飯館は石の村としても石の彫刻が多い。ともかく飯館村は確かに山の村はどこにもありこの辺でもあるが何かが違っている。病気の人がいて風にあたると気持ちよくなるとか言っていた。何か特別な自然の癒しの効果がある。それは説明つかないものであり自然の神秘の作用である。自然の中に説明のつかない場の効力がある。同じ山の村でも違っている。おそらく標高が一番高いということで空気がより新鮮に感じるためでもあった。飯館村はまた広いから一軒一軒が森に隠れるようにある。川俣町とは全然違っている。川俣町は町のなかは狭苦しい感じになる。飯館村は街といってもコンビニとス-パ-一軒くらいしかなかったのである。人より牛の方が多い村でもあった。そういうアルカディア、桃源郷的な村が放射能汚染の村になったということが信じられないのだ。何の因果でそうなったのかとそこに住んでいる人もわからない、なぜ移り住まねばならないのかわからないと言っていた人がいたが当然である。突然一か月以内に村を出なさいということを簡単に受け入れることはできない。放射能にして俺はもうたっぷり放射能すったよと笑っていた年配の女性がいたが放射能に対してそんな感覚しかない。


実際は飯館村はやはり放射線量が異常に高かった。だからどうしても子供には影響するから問題になった。老人はもう放射線なんか関係なく移りたくない人はいる。おそらく最後まで強制退去になるまでいるのではないか?ただみんないなくなるとどうしても生活しにくくなるからこまる。ス-パ-でも閉鎖されてしまったら困る。車があれば川俣とか買いにいけるのは行ける。でもやっぱり村の人がいなくなり村が機能しなくなるのだから暮らしにくくなる。やがて電気が水道もとめられることになるかもしれない、人がいなくなればそうなる。
そして20キロ圏内と同じように立入禁止区域になるのだ。ここがまた立入禁止区域になると交通の問題がでてくる。20キロ圏内が立入禁止区域になった結果六号線は閉鎖され物流や人の出入りが制限される。飯館村が立入禁止区域になるとやはり福島市とかの物流や人の出入りが制限される。一体飯館村に人が住まなくなったらどうなってしまうのだろうか?ある人はイノシシ料理を出している人はイノシシの楽園になるだろうとか言っていた。イノシシは人がいなくなったら我が物顔に里にでてくるのだろうか?立入禁止区域は将来的にどうなってゆくのだろうか?ここでも隣が緊急避難準備地域とか回りが立入禁止区域とかそんなふうになっていることは暮らしにくいのだ。介護するようになってから刑務所に収監されたような状態になりさらに回りが立入禁止区域になり身動きがとれず刑務所に入れられたようにさらになってしまった。海の方に行けば津波の被害でありその避難者が千人も町に来る。やはり350戸くらい仮設住宅が建つ。


つくづくなぜこんなふうになってしまったのかと思う。仙台に行こうとしたら相馬市からバスしかない、亘理までは復旧している、四倉までは常磐線は復旧しているがここはいつになったら復旧するかもわからない、刑務所に入れられたと同じになっている。自由にしていた自分の生活にしてもここ五年間は介護になってから刑務所に入れられたと同じだったがさらに回りが立入禁止区域になりそこを通ることもできなくなってしまった。こういう状態は一体何なのだろうかと思う。今や自分だけではない津波の被災者でもそうだし原発で強制的に避難させられる人もそうである。浜通りは気候的には住みやすい場所だった。海が見えるということはやはり山だけの閉ざされた世界と違い心を解放する、自然は心に大きく影響する。会津のわかりにくいのは山国であること、山だけに囲まれ生活しているとどういう気分になるのかわかりにくいのである。高い山があるからその高い山を見ているとこれも心に影響することはまちがいない、でもそこに住んでいる人でないとわかりにくいのである。ロシアでは海に接していないから海に憧れるというのはわかる。海は人間を開放的にする。山でもそうだが自然に心に影響する、性格も作る。

ここは海もあり山もあるからいい場所だったのである。それが立入禁止区域になり行くことさえできない、それが信じられないのである。こうして何か毎日疲れてしまうのだ。人を助けるといっても自分が疲れてしまっていてはできない、とにかく閉塞された世界でありそれがますますひどくなってしまったのである。

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posted by 老鶯 at 10:38| Comment(0) | TrackBack(0) | 飯館村

放射性物質は南相馬市といわき市は半分は海の方へ風で流れた


放射性物質は南相馬市といわき市は半分は海の方へ風で流れた

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3月12日に女川の方向へ南風が吹いている、南風とはいってもより海側に吹く風もある。
一方は北風も吹いた。これも方向は一定していない、より海側に吹けば放射性物質は海の上に流される
それで南相馬市といわき市は放射性物質が山の中より堆積しなかった。?

参考にした地図とグラフ

http://lockerz.com/s/84349337

 


南相馬市で放射線量が増大したのは3月12日の20から23時だった。水素爆発したのは3月12日の06だとするとその間に時間差がかなりある。風は赤線と紫の線であり南風き北風が吹いた。同じ方向に風は吹かない、放射線量は14日にいわき市が増大して次に15日に浪江の山中から飯館村から福島市と増大した。南相馬市といわき市は3時間で急速に放射線量が低下した。南相馬市に一時期南風が吹いた、でも南風はすぐ北風に変わる。この時期一定して南風は吹かない、女川の原発で高い放射線量が計測されたのは南風の赤い線上に女川原発があるからだ。ただ06時に爆発したとしてなぜ20−23時に南相馬市で放射線量が増大したのか、時間差がある。南風とはいえ海岸線は海側による風だと海に流れてしまうのである。つまり海側に海の上に放射性物質は拡散されたのではないか?
なぜ南相馬市といわき市は意外と放射線量が少なくてすんだのか?それは風の影響もあったが海に半分以上拡散されてしまった。風は陸地より海に吹く時期である。海の方に吹いた風は放射性物資も海へ飛ばしたのでは?


一方で15日に放出された放射性物質は浪江の山中から飯館村から福島市に持続したのは
放射性物質は比較的低いところを飛び山にさえぎられ滞留した。谷間のようなところに滞留しやすいともあり浪江の山中の請戸川に沿う谷間に滞留して土に堆積してしまった。
そこが今でもセシウムなどの影響で放射線量が高いのである。放射性物質は風の流れに影響されまた地形に影響される。海岸線は半分は海の方へ流れてしまう。汚染水も海に流したように海に放射性物質を流してしまった。だから海が相当に汚染されたことはまちがいない、ただ海によって拡散されたことも確かである。海側に沿った所はだから海に放射性物質が拡散されるからそんなに飯館村のような山中のように堆積しないのかもしれない、南相馬市といわき市は3時間くらいしか放射線量が上がらなかった。あとは低下する一方だったのである。
チェルノブリは大陸であり地形も平坦であり風の影響もまた違っている。何より大きな海がない、海がないということはやはり陸地に放射性物質は堆積しやすい、それが雨もふらないとなると流れない、堆積したままにずっと長く影響する。だから放射性物質はそうした風土の影響も受けやすいから世界的に一様な影響にはならないのではないか?


日本の特徴は海に囲まれていることでありそれが今回も大きく影響したのでは?原子炉を海に沈めろというのは極端でも最後の手段としてそれも考えられる。ロシアの原子力潜水艦が事故で海に沈んだ。その後のことは不明なのである。放射能も海で浄化する。それは汚染であるけど陸地が汚染されるより救いがあるのか?飯館村は山中の村だから放射性物質が堆積してしまった。海岸線の街は放射性物質も海に半分は流れてしまうのではないか?人間は住んでいる場所で幸不幸がある。海側に住んで津波で悲劇が生まれ山の中に住んで放射能で悲劇が生まれた。必ず人間の事象にはいい面と悪い面がともなうのである。

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2011年05月17日

大津波、原発事故の意味するもの(2) (暴走する技術、制御、制限されない技術)


大津波、原発事故の意味するもの(2)
(暴走する技術、制御、制限されない技術)
http://musubu.jp/jijimondai-41#atomic4(時事問題の深層41へ)

今回の大津波や原子力事故は今までの価値観を変える大きな変化をうながすものだった。原子力発電は戦艦大和とと同じだった。巨大技術を運営するのには軍隊となり国家的使命感が必要となる。月給をもらうだけのサラリ-マン意識ではとても巨大技術は運営できないと武田教授のような技術者が言っているのは興味深いことである。技術を越えたものが必要であり技術と言っても最後には人間の精神が大事なんだと言っている。つまり今起きていることがそうである。技術だけではどうにもならない、なんとか事故をおさめてくれ、国民の命がかかっている、国家存亡の時だとなると単なる技術だけはどうにもならない、日本は原爆落とされて敗戦して国家をひたすら否定してきた、国家は悪いものだとして否定してきた。しかしここになって原子力のような巨大技術は国家的使命感なくして運営できないものだった。国家的威信をかけてやるものだった。もう最後は技術を越えてなんとか日本を救わねばならない、国民を救わねばならないという特攻精神が求められているのも不思議である。利とか技術を越えたものを要求されているのだ。原子力とはそういう巨大技術でありそもそも人間の手に負えるものではなかった。そして人間は技術を制御する思想がない、技術は暴走してイカロスになり墜落する。それが原子力でもあった。人間は減らすということができない、電力を減らすとなるとどんなに大変なことになる計画停電になりわかった。減らすという思想が現代文明にはない、だから技術に歯止めがかからない、危険な技術でも歯止めがかからない、そうした様々なことが今回の津波や原子力事故で明らかになったのである。
 
 
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2011年05月18日

神奈川県の足柄の茶の葉から基準値を越えるセシウム発見(東京も安全地帯でなかった)

 

神奈川県の足柄の茶の葉から規制値を越えるセシウム発見
(東京も安全地帯でなかった)


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東京から神奈川県や千葉県や栃木県まで風で放射性物質は運ばれた
途中に高い山がなければ遠くまで飛んでゆく



なぜ神奈川県の足柄まで放射性物質が飛んで足柄茶の葉からセシウムが出てきたのか?これも風と地形の影響だった。放射性物質が大量に放出されたとき北風が吹き茨城県と関東平野には高い山がなく神奈川県の足柄まで飛んだ。そこに丹沢などの高い山々がある。足柄茶を作っているところは山の斜面なのである。この山の斜面とか谷間が放射性物質が滞留しやすい、放射性物質が飛んできたときちょうど雨か雪が降っていた。それに付着して土にたまって根からセシウムが葉に蓄積した。浪江の山中の赤字木(あこうぎ)地帯も谷間でありその時雪がふっていて放射性物質が土にたまってしまった。神奈川まで放射性物質が飛んだのだから途中の関東平野の東京にも放射性物質のホットスポットができた。それはビルが谷間の役割を果たして滞留したのである。神奈川まで飛んだなら東京もそうしたホットスポットができても不思議でなかった。それにしても放射性物質はずいぶん遠くまで飛ぶことに驚く。福島市が放射線量が20マイクロシ−ベルになりその後ずっと下がっていない、それもやはり神奈川の足柄と同じだったのだろうか?吾妻山などの高い山がさえぎり放射性物質が雪に付着して降ったためなのだろうか?

阿武隈山脈は阿武隈高原というように1000メ-トル級の山はない、低山地帯である。
飯館の役所のあるところなどが一番標高が高い地点である。飯館村でも放射線量の高いところと低い所がある。長泥などが高いのは浪江の赤字木(あこうぎ)地帯からつづいて高いのである。山が壁となり斜面のようになる所は放射性物質も滞留しやすい、その一つが霊山子供の村が高いのは霊山が壁のようにさえぎったからである。伊達市霊山町(原発の北西48キロ)で年間21.2ミリシーベルトと予測された。伊達氏ではこの辺の一部に避難指示を独自に出した。あの辺から今度は高い山がないから福島の盆地まで飛んで吾妻山などにさえぎられ放射性物質が滞留した。風と地形と気象に放射性物質の行方はかなり影響されることがわかった。同心円には広がらない、海側だと明かに海に風で飛ばされる割合は確実に大きくなる。

これから南風が吹いたとして仙台方向に飛んでも半分は海に風で飛ばされる。ただ山側は滞留しやい。その時の気象条件、雨や雪も影響した。それにしても神奈川まで飛んだということはその途中の東京も安全地帯ではなかった。風向きではそれだけ放射性物質は飛びやすいのである。距離だけでは計れない、東京も200キロ離れているから安心ではなかった。たまたま山がなかったから通りすぎて足柄まで飛んで滞留したのである。


放射性物質は同心円で計れない、浜通りでも海に接している所は低いのである。風で海に流されるのが多いためである。陸地から海に吹く風の季節は特にそうである。今回はそういう時期だった。福島は東京から離れているかと安全地帯ではないことがわかった。もしそうなら東京都民は福島に原発を建てても実際は安全でなかったのである。東京都民にとっても危険な場所にあったのである。実際にチェルノブリでは200キロ300キロまで放射性物質は広がり強制的に避難させられた人たちがいたことでもわかる。風向きと放射性物質の放出される量によっては東京もチェルノブリと同じになった。なぜなら途中にさえぎる山がない、茨城から関東平野には高い山がない、やっと神奈川県の足柄で高い山々がありそこでさえぎられたからである。風向きしだいだが3月は北風が多く吹くから明かに神奈川の足柄もその影響であり東京も影響があったのである。

 
 
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2011年05月19日

常磐線はいつ復旧するのか


常磐線はいつ復旧するのか

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福島第一原発から、常磐線の一番近いところで約3km圏内。
原子炉から燃料棒を抜き取り、廃炉までには最低10年間は掛かる見通しですから、常磐線の全通見通しは、放射線量次第ではありますが、まったく立っていないでしょうね。


双葉町とか浪江町とか他に住民が避難した人たちは一体どうなるのだろうか?あまりにもいろいろな問題がありすぎて考えるのも大変である。まず双葉町の人は10キロ圏内だからそう簡単には帰れないだろう。でももし一年であれ二年であれ帰れるのか?そうした見通しがない、それにしてもいつまでも避難しつづけることもできない、その先が一体どうなるのだろうか、双葉町の問題だけではない、常磐線も四倉までは通じたがそこから先は通じない、放射能汚染地域となり交通が閉ざされる。飼っていた牛をはじめとして20キロ圏内の立入禁止区域の生き物は殺処分になった。牛で生活していた人は生活する手段をたたれた。10キロ圏内は何十年も立入禁止区域となり人は住めなくなるだろうという人もいる。双葉町は結局消えてしまうのだろうか?
浪江町も消えてしまうのだろうか、小高町はどうなるんだとかこの先考えるとこの辺は一体どうなってしまうのだろう。いづれにしろ常磐線でも六号線でも簡単には通じない、大動脈がたたれる状態がつづくことは支障が大きすぎる。浜通りと中通りは交流が地理的にしにくいが六号線は国道であり東京と直接通じていた。常磐線も東京とス-パ-ヒタチなどで通じていた。それもたたれてしまう。

そして双葉町とかの歴史をふりかえるともともと相馬藩と磐城藩の境目であり未開の地だった。夜ノ森とは相馬藩主が余の森だとして磐城藩と境を争った所だった。だからこそ明治になって
森を切り開き開墾された所だった。大野とか広野とかあるのはまさに広い原野が広がっていたのである。


1900年(明治33年)農村開発のモデルケースとして新しい村づくりに理想を求めた相馬郡小高町出身の半谷清寿は、夜の森地内の共有原野4万平方メートルと大菅地内の1万2千平方メートル、併せて5万2千平方メートルを入手。
不毛の原野を朝日ヶ原と名付け、開拓にとりくむ。清寿は原野開拓記念に、宅地周辺に「染井吉野」桜300本植樹


半谷清寿まず、父の半谷清寿は安政5年(1858)に相馬藩小高郷大井の郷土の家に生まれ、幕末維新という激動期に育ち、福島の師範学校卒業後、小浜や二本松の小学校で教べんをとるその後、郷里小高に戻り21歳で酒造業を始める。
  明治26年、日本鉄道の磐城線(今の常磐線)の建設が始まると、世情に関心のうすい農民からの土地の買収が次々に行われ、これに義憤を感じた清寿は激しい抗議運動を展開、結果的には新価格での買収交渉が実現したが、反対派の告訴により8ヶ月も監獄生活を送ること
になった。


こういう歴史があった所である。そこが原子力発電でまた街は無人化して荒野に森に帰ってしまうのだろうか?チェルノブリは森におおわれたり原野化して今も立入禁止区域になっている。

双葉の長塚駅は昔の宿場町 その駅名の消えて 思い出語るもあわれかな
大野、夜ノ森 広野は 昔は未開の野なり 夜の森は相馬藩主の余の森なりしと
磐城藩との境をなして 鉄道は道を開きて 一路平へとつき進む
久之浜、波立海岸の岩礁に 白波よせて沖に船 鴎飛びゆく太平洋

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そもそも南相馬市の原町区でも相馬市でも仙台方面と生活で関係が深い。原町区から仙台へは一時間おきとか電車が出ているがいわきの方へは二両くらいの電車であり乗っている人も少ないのである。新地に旧家があり武家であり新地が相馬市と合併しなかったのは伊達氏とのつながりがあったからだという、今でもその旧家は伊達氏とのつながりを強固に主張しているという。そういう歴史的なことが境にはある。夜の森もそういう地帯であり小良が浜(おらがはま)も境界だからおらの浜だと争った地域である。この辺はいわき市と相馬藩だった境目にあった。
それで未開発の地域として積極的に原発誘致した。前の平市に近いと人口が多いからめんどうになる。相馬に近くても同じである。立地的にはいい条件であった。


宮城県山元町の斎藤俊夫町長は17日、河北新報社の取材に対し、亘理駅以南が不通になっているJR常磐線の復旧について、町内では内陸部へ大きく迂回(うかい)するルートによる整備を、JR東日本などに要請する考えを示した。
http://www.kahoku.co.jp/news/2011/05/20110518t13009.htm


いづれにしろ亘理までは常磐線は通じるようになった。そこから相馬まではいつ通じるかわからない。その間に原発はないのだからやがて通じるのだろうか?それも先は長いだろう。交通的にも遮断されている。それよりこの先、移動した人たちは帰れるのかということがある。移動した先で若い人は定着したら確実に人口は減り老人だけの姥捨山のような街になったらますます常磐線でも六号線でも通らず過疎化がすすむ。文明時代から時代が逆戻りしていく感じになる。交通は遮断され原発があるところは昔の余の森に還ってしまうのか?そして不便な江戸時代のような生活を強いられるかもしれない、そこまでいかなくても交通的には過疎地域になってしまう。仙台まで通じれば新幹線で東京まで行けるから仙台まで通じればかなり改善される。
ただそれがいつになるのかわからない、やはりそれぞれの村でも町(街)でも道があって互いに通じて成り立っていた。小高でも浪江でも双葉でも欠けてしまったら鉄道だった利用する人がいなくなるのだから廃れてしまうのである。点々と村があり町があり市があり道があり鉄道があり社会が成り立っていた。途中がぬけることは歯がぬけると同じになってしまうのだ。回りが立入禁止区域になること自体、浜通り全体の破壊だった。その痛手は大きすぎたのである。結局
津波であれ原発事故であれ変わり方が激しいからそれぞれどうなるのだろうかという先が見えない状態に置かれている。



昨日は小便がまた出なくなって大変だった。南相馬市立病院は実際は医療は崩壊している。いろいろな科がなく機能していない、一カ所で応急措置しているだけである。それで相馬市立総合病院に移ったばかりだった。救急医療もできない、救急車呼ばないでタクシ-で行ったら往復9千円もかかった。原町より倍遠いからだ。電車は通らない、車はない、不便になってしまった。鹿島区では田植えもしていないが相馬ではしていた。南相馬市と相馬市では原発事故以来かなりの差がでたのである。南相馬市では学校にも行けないから鹿島区の学校に窮屈な教室で授業を受けている。やはり病気は一番困る。電車がないと車がない人はさらに困る。

相馬市>南相馬市(鹿島区)>南相馬市(原町区)の順に色分けされる。原町区は東電の保証があるからまた違っている。鹿島区はあいまいな区域であり相馬市は東電の保証がない地域と分かれている。常磐線も内陸を通すほかないのだろう。新地とか山下駅(山元町)が意外と海に近かった。その駅が根こそぎ津波でやられた。相馬地方は仙台とのつながりも深い。新地に伊達氏とのつながりがあり相馬市とは合併を拒んだというのもそのためである。相馬市立総合病院には東北大から来ている医者が多いのである。南相馬市立病院では福島医大であり東北大の医者は来ていない、相馬市はより宮城県と関係が深くなっているのだ。今回は地域によってその被害の差があった。30キロ圏から数キロ離れていたのもその一例であり地域によって運不運もあった。30キロ圏外は東電からの保証はどうなるのか、おそらくむずかしい面はあるが農家などは保証されるだろう。他は保証はむずかしいとなるかもしれない、被害を受けたのは30キロ圏内だけではない゛広範囲だからこの距離だけにこだわることはできないのだ。
自分の場合、自分自身も苦しいから他者を助けるということができない、自分のことで精一杯であり余裕がないと他者を助けることができない、実際に一か月後にまた入院になるとしたらそうである。こっちが助けてもらいたいとなるがそれもない、自分自身の問題で精一杯だとなる。

常磐線の復旧は相馬から仙台でもむずかしい。新地から浜吉田駅まで津波が押し寄せていた。新地とか山下駅は壊滅した。
新線を作ると同じであり今と同じル-トでは作れないとか開通の見通しは何もない、つまりこの先開通するかどうかもわからない、
ただパスは30分おきくらいに相馬から亘理まででている。その点は改善した。
原町から相馬までのパスの便は不便である。でも明らかなことはこれからどのくらいになるのか開通の見込みがたたないことを
覚悟してパス利用にするほかない、どうにもならいのだ。

浜吉田駅まで津波が来た
http://musubu.sblo.jp/article/45281722.html

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戦後の焼け野原から60年経てまた焼け野原に・・・ (津波や原発事故で感じたこと)


戦後の焼け野原から60年経てまた焼け野原に・・・
(津波や原発事故で感じたこと)


双葉町は東電から金もらっているからと責められている。戦後は原始的な釜で塩を作って東京に売りに行った。つまり東京には塩すらなかった時だから塩でも売れたということである。塩田があった地帯だったのである。東京でも戦後は焼け野原で物資がなかった。物資がない時代は十年以上はつづいた。東京には物資がないから地方から集める。磐城の常磐炭田でもそうだし小名浜から船で積み出したり石炭がエネルギ-源の時があった。それから森林が木材資源となり東京に運ばれた。全国にある森林鉄道はそのためであり常磐線の原町機関区ができたのも拠点となったのもそのためである。物資がない東京に物を運ぶために鉄道も作られたのである。その後高度成長時代になり原発を作られた。

1971年(昭和46年)3月26日 :1号機の営業運転を開始する。


すでに40年は過ぎていた。40年というと結構長い。だから古くなっていることが問題にされていた。古ければどうしても事故を起こす確率が高くなってくる。その頃農家の東京への出稼ぎがはじまっていた。東北でそれで結構金を稼いだ。東北の農家でも子供を大学に出している家も多くなっていたのである。ただすでに常磐炭田が廃止になりエネルギ-源は石油に変わっていた。自分の子供のときは炭だったからこれは江戸時代と変わりなかった。炭→石炭→石油→原子力となっていた。浜通りは火力発電所も多い。南相馬市にもあり津波のとき千人も取り残されたことに驚いた。退職した人が警備員などで働いている人が多いのだ。火力発電所でもそうだが原発も働く人が多い。南相馬市でも東電の社員の人が働いていた。浪江となると現実に遠い親戚の人が働いていた。その人は東電の下請けの会社だった。結構金は入っていたのだろう。原発は浜通りではそれなりに関係している人が多い。葛尾(かつろう)村の小出屋に住んでいた人は一原発で働いていたが不幸にも死んだ。放射線が原因ではない、葛尾(かつろう)村なども山だから仕事がないから浪江の街に下りててきた。原発が働き口になっていた。葛尾(かつろう)村は自分の父親が双葉の前の長塚の新山の酒屋の丁稚になったところだった。だから親の歴史をたどれば双葉町は確かに関係していたとなる。勤めていたのは富沢酒店の近くの酒屋だったのである。

南相馬市原町区の人で大熊に勤めた人がいた。大熊というと遠いけどそこまで通うということはそこに働き口があった。原発の回りはそれなりに景気のいいところだったとなる。この辺でも原発が金になるとか働きに行っていた人がいた。小高の大工さんは近くに原発できるから景気良くなるぞとか原発ができることを待ち望んでいた。建築関係などが不景気になって仕事がなかったからである。小高では原発に強固に反対する人がいた。双葉町にはそういう人自体いなかったのか?そうかもしれない、町あげてあそこまで原発を誘致して原発の町になってしまった。


経済の方向は地方から物資や材料を東京に運ぶ時代は終わり外国から石油などを運ぶ時代、グロ-パル化の時代になった。その時すでに地方では材料や物を運び売る時代ではなくなった。何を売るかとなると労働力を売る時代になった。それが出稼ぎだった。それで現金収入となり潤った。批判されこともあったが農閑期に行くのだから別に良かったわけである。その後東京の経済は肥大化してゆく、グロ-パル化してゆくなかで地方は衰退してゆく、福島県はまだ東京の部品工場とかでまた潤っている。距離的にも近いからである。東京から近いということで福島県の双葉町が立地的に適地として選ばれたのである。原発事故がなかったら浜通りは結構経済的にも良かったかもしれない、常磐高速道も開通しつつあった。それが原発事故で一転した。放射能は第一次産業に痛手になることがわかった。基本的な土とか水とかを空気を汚染されることが致命的だった。自分としても俳句や短歌や詩に出していたようにこの辺は山あり川あり海ありで気候的にも雪はふらないし温暖で住みやすい所であった。どうしても会津とか新潟とかなると雪に閉ざされて寒いという感覚になる。海があると何か心も開放的になる。海洋性の性格が作られるのである。もちろん瀬戸内海とか違って荒寥とした船の行き来の少ない海ではあるが海は海なのである。その海によって津波の大被害を受けるとは思いも寄らなかった。海はやはり危険がひそんでいたのである。なぜならこの辺では小学校の前まで津波がおしよせた。自分の住んでいる場所から一キロも離れていなかった。良く夢でその辺まで海の水が来る夢をみる。おそらく海辺に住む人は海の水が押し寄せてくる夢を見る。それが実際に津波であり夢ではなかった。海にのみこまれる夢をみるがそれは実際に起こる津波だったのである。


とにかく今起きていることが何なのか理解することがむずかしい。南相馬市地域は今年は田植えをしていない、米を作っても売れないから作るなとか言われている。ところが相馬市では田植えしていた。田植えがないということは生物にも影響していた。蛙はそもそも田植えされた水の中にいる。だからそこから蛙が鳴く声が聞こえるのが普通である。もちろん蛙は鳴いているが少ない、雲雀は普通に鳴いている。でも白鷺は見えない、白鷺は植田の蛙を食べる。その田が今年はないだから白鷺が見えないのである。白鷺は夏の季語である。日本的な夏の風景が失われた。こんなことは今まで一千年生きてもありえないことだった。田んぼは乾燥した土がむきだしになっている。もちろん減反の休耕田はそちこちあったがこういう光景はありえなかった。

だからこれは一体何なのだろう、今住んでいる場所は何になってしまったのだろうと絶えず考える。これまでの人間の営みがたたれた。つまり放射能汚染は人間の生活を根こそぎ破壊する。飢饉でもこういうことはなかったろう。放射能はなかなか消えないということも問題である。放射能汚染に日本は初めて経験することだった。原爆は落とされたがその時は都市であり田舎の農耕地に影響したことはない、今回の被害は東北を主にした第一次産業に津波でも打撃を与えたのである。その傷はあまりにも深い。手足をもがれた感じになる。放射能汚染の貴重な研究の場になるとか追跡調査されて福島の人は実験材料にされたとか言う人もいる。確かに放射能汚染は実際にどう人体に影響するか誰もわかっていないからだ。だから貴重な資料が得られるともなる。そんなことで重宝がられるのも悲惨なことである。


原発は事故を起こした後も影響しつづける。その処理に何十年もかかるとかなると廃炉にするのにそんな時間がかかるとするそこに働きつづける人が多数必要になる。チェルノブリでは今もそうである。福島原発も同じである。湯本は温泉郷であり今はその原発で働く人の宿泊所と憩いの場所になっている。千人もの人が常時はたらくとなると経済的にも以前として影響が大きい。経済的には原発は事故後も影響を及ぼすのである。でも実際はマイナスの影響が大きすぎた。鉄道は通れない、国道も通れない、ゴ-ストタウン化してゆく街が浜通りにできるとは想像すらできなかった。津波と同じように今来ていることは悪夢なのかと思う、すでに一身上のことで自分は認知症やら犯罪やら自らの病気やら災難つづきだった。その災難のつづきとして津波と原発事故が重なったのである。これほど悪いことが重なるのは異常である。悪夢としか思えない、地獄に突き落とされたとしか思いようがない、こんなことが人生にはあるのだと思った。戦争を経験した人は驚かないかもしれない、そこで何百万人も死んだのだから万単位で死ぬことに驚かないかもしれない、そういう経験をしないものはやはり今起きていることが何なのか?現実なのか悪夢なのかわからなくなる。頬をつねってみたらやっぱりこれは悪夢だった。夢だったと一安心するかもしれない、そういう感覚からぬけられないのだ。それは津波で家も家族も失った人もそういう感覚からぬけでれない人がいる。あまりに異常なこと異様なことは人間は受け入れられない、そこに今回の津波や事故から立ち直ることのむずかしさがある。

今や無数に悲劇の人がいる。一人一人をとても語りきれない無数の悲劇の人を大量生産してしまったのである。神戸の震災もそうだったが遠いので今回の東北の災害とはまるで違ったものとして見ていた。でも司会者が家事となった中で火にやけた骨を手にしていたときは驚いた。これも異様なことがであり普通にはありえないことだった。その骨は熱かったのである。人間にはそんな異常なことが起こりうる。地獄になることがありうるのだとつくづく思った。人間は60年生きていれば必ずそうした個々人的にも災難に出会い大災害にも遭遇する。それが人生というものなのだろう。戦後の焼け野原から60年の平和がつづき平和は満喫されたのだ。それがまた戦後の焼け野原のような光景が東北に再現されたのである。

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2011年05月20日

初夏十首-藤の花南相馬市(原町区へ行く)

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夏菊やなお原町に我は来ぬ



あめんぼう池に泳ぎて波紋たち鯉のはねにき夏は来たりぬ


ノウサギのはねてよぎりぬ夏の日やこの辺り隠る森のありしも


一本の松の静かに藤の花ここにそよゆれ行く人もなし


藤の花日陰にそよゆれ静かなり慣れにし道を我が行きにけり


藤の花散りて静けき公園に我は休みて菖蒲も咲きぬ


静かなる心にあれや藤の花風にそよゆれ垂れにけるかな


海よりの風の涼しき初夏や津波の被害ここにあれども


苧環のひそか咲きしを我が庭に見守りあれば今日散りにけるかな


黄金色海老根蘭咲き牡丹に映えまた芍薬に映えにけるかな


心地よく我が目に写る忘れな草朝の静かに我が庭にあり

原町の高見食堂の牡蠣フライ定食はうまいから食べに行った。途中の池に鯉が泳ぎはねあめんぼうが泳ぎ波紋をたてる。やはり夏が来ている。原町でもチェ-ン店のレストランがはじまったから正常化しているけどやはり完全には正常化していない、でも車の行き来は激しい、明かに災害関係の車が多いからだ。小高から立入禁止区域になっているからそんなに車が多くなることはない。原町でも高見町にある小学校に避難生活している人がまだいた。そこには洗濯物が干してあり笑い声が聞こえた。数は少ないが原町にもまだ避難生活している人がいる。その人たちも鹿島の仮設住宅に移るのだろう。原町では学校に通いないから鹿島区の学校に来ている。不自由な状態がつづいている。相馬市では市長が南相馬市の生徒を入れることを断った。それはなぜなのか?同じ相馬でも助け合わないということなのか?普通の生活なら村とか町とか市とか意識しない、でもこんなふうに災害になるとどこの市町村に所属するかが大問題になる。市町村ごとに待遇が違ってくるからだ。双葉町はいち早く逃げてそのあとも東電から保証があるからいいとかうらやましがられている。浪江町は損したのか、町長が鬱になったというのもわかる。こうなると市町村の公務員も楽じゃないなと思った。ともかく自分の所属している市町村で明暗を分けた。相馬市と南相馬市では相当に差ができたのである。
ともかく夏になったことは確かである。ただ季節すら変わってしまった。この辺は田植えがない、その変化は大きい。まだ津波の後は全部かたづいていない、船もかたづいていない、そもそも港が破壊されたところではもう船は使えないだろう。烏崎や新地などはもう漁業はできないだろう。壊滅してしまったからである。松川浦はなんとか再開するだろう。他の漁業は三割の人が廃業するというのもわかる。今回の原発と津波では今まで経営が苦しい所はやめたしまうし跡継ぎがない漁業とか農業もやめる人が多いだろう。大原の農家の人のことを書いたがあそこも放射能で汚染されたから跡継ぎもないからもう年で農業もできないから東電に保証してもらった方がいいとなる。そういう所は結構ある。ただどこまで保証されるのかわからないが30キロ圏内は保証される。

六号線の池のあるところにノウサギが跳ねて隠れ消えた。あんなところにもノウサギがでてくる。確かに背後には埋め立て地があるが森があるからだろう。前も町近くの田んぼにでてきたので驚いた。兎追いしかの山・・・という風景はあったのだ。そういう故郷があることは心なごむ。
飯館村なんかそういういい所だった。それが人がいなくなってしまうのか?その後一体どうなってしまうのだろうか?イノシシとかノウサギの楽園になってしまうのか?現実にチェルノブリは狼が住む原野に帰ったらしい。放射能に汚染されても別に草木か枯れて花が咲かなくなったりしないのである。わずかに茎の長いタンポポが咲いていたとか確認されている。これも奇形とは言えない、放射能はどういうふうに影響するのかはっきりしないのである。人間にしてもガンになる人が増えるといってもその因果関係も証明されていないのだ。子供に影響あることはわかっていてもその他わかっていない、人がいなくなり自然に戻れば飯館でも原初の森におおわれてしまったらそれなりにそこは憩いの場になるかもしれない、ただ放射能はなかなか消えない、30年後辺りにもし人が住めないで原初の森に戻ってしまうのか、それとも菜の花や向日葵などが除染のために植えられ繁茂するようになるのか?その後一体どうなってしまうのか?放射能汚染の問題ははじめての経験だから結局学者もわからないのである。10年後ガンになるといっても別に60以上の人ならガンになる確率は高くなっているのだから放射能が原因だとはならないからだ。

今日は初夏らしい、暑かった。浜通りは海から風が吹いてくるから涼しい。福島市とか中通りとか会津とか盆地だと暑いから嫌なのだ。この気候というのも影響が大きい。浜通りに住んだ人は山国には住みにくくなるかもしれない、海側に住んだ人はやはり海側がいいとなる。山国になると山に閉じ込められたよう気分になるからだ。もちろん山には山の良さがある。ただ海側に住んだ人はやはり海側がいいようになる。津波さえなければ山の方に移った人は早く海の見える所に帰りたいとなる、これはやはり習慣化する、気候の相違もなかなか移りにくい条件になる。どうししても北海道とか東北でも寒い地域には移りたくないとなる。仙台辺りならたいして気候も変わりないからいいとなる。ただ飯館村のような所に住んだ人は都会は嫌だとなるしなじめないとなるだろう。習慣の力は大きい、だから60以上になると新しい場所に移ることがむずかしくなる。現実放射能汚染で死んだ人より慣れないところに移住して死んだ人の方がチェルノブリでは多かったのである。60以上になると慣れ親しんだところが落ち着くようになる。一次産業に従事する人はそうなりやすいのだ。藤の花が垂れ咲くように何か静かな正常化した世界が戻りつつはある。でも以前として混乱はつづいているのだ。
 
 

2011年05月21日

津波で明らかになった南相馬市鹿島区の土地の高低


津波で明らかになった南相馬市鹿島区の土地の高低

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東日本大震災で津波被害を受けた宮城県から福島県にかけての太平洋岸では、「貞観地震」(869年)を挟み、約450〜800年間隔で大津波が起きていたとみられることが18日までに、産業技術総合研究所の分析で分かった。
http://www.47news.jp/CN/201105/CN2011051801000727.html

人間がどのようにその土地で暮らすようになったか?それは自然の条件の制約の上に暮らすようになった。南相馬市の鹿島区を例にとれば最初に浮田国造(うきたくにのみやっこ)と文献にあり最初の国がこの地域にあった。その土地を見れば一目瞭然である。この辺では一番住みやすい所にあった。平地であり高い所だった。土地の高低はわかりにくいが鹿島の歴史をたどると自然条件に基づいて発展したことがわかる。浮田国造のある平地の高いところが最初に人が住み次に山際の高い所でありそして浮田の前の横手古墳群のある所から田中城のあった台田中が中心地になった。今回の津波でなぜ田中城があそこにあったかわかった。津波はすぐ近くまできたが田中城の回りまでは来ていなかった。田中城の回りは湿地帯だった。その前も湿地帯であり海が迫っていたのである。そして津波により土地の高低が浮き彫りにされた。真野川に沿った地点は両側は土地が低くあとから開墾された場所であった。だから小島田でも津波が六号線近くまで押し寄せたことに驚いた。島田とあるごとく湿地帯に島になっているような地形だったのだ。


それから右田ももちろんあとから開拓された場所であり大内村の前の田もそうだった。そして常磐線の鉄道の橋の下をくぐりぬけて塩崎(シオノサキ)まで津波が押し寄せていたことには驚いた。そこには船着という平安時代のものらしい地名も残っている。本当に船が来ていたからその名がついた。化石のような地名だった。そもそも塩崎というのもそこが海を前にしていたからその地名がついた。地名はそれだけ古いということである。その辺は低い土地だったのである。この土地の高低は歩いても見ていてもわからない、津波によってわかったのである。低い場所にはより深く津波がおしよせた。もともと塩崎は真野の入江とされてをり遠浅の海だった。みちのくの真野の萱原遠けれど面影にして見ゆというものを(笠女郎)・・・この有名な万葉の歌の草原は地名だったと自分が書いたがまさに草原は真野の入江の港だったのかもしれない、でも笠女郎はここには来ていないのだからここを面影にまで見るということがありうるのかということで疑問に思って書いたのである。結局以前として謎なのである。ただそこが深い入江であり船着という地名や市庭があった。品物を取引する場所があったとするとなんらか港の役割を果たしていたとなる。今回の津波で一番驚いたのは八沢浦が前の入江に戻ったことだった。満々と水をたたえる入江に戻ったこと奇跡のようだった。明治時代に開拓された場所だったから大昔のことではない、それにしても夢見ているようだった。磯部も全滅したらそこはもともとは砂州である地形がはっきりした。ちょうど北海道のような荒寥とした風景になったことに驚いた。北海道はまだまだそうした原初の地形のままに残っている所が多いからである。広大な砂浜が残っているからである。


右田の松原は江戸時代からの開拓で作られた。そこはもともと海だったのである。日本人は江戸時代に海の方へ開拓をすすめた。青松白砂の風景は人工の美として人間が作ったものである。そういう場所が各地にあることはそれだけ人間が開拓した場所が多かったということである。それが根こそぎ今回の津波で破壊された。この開拓も自然条件に逆らうものだったことは確かである。なぜそういう無理な開拓がつづいたかというと日本の土地は狭く人口を増やすのに限界に達していたのである。だから幕末辺りでは江戸時代ではすでに人口を増やすことができずグラフは横ばいになっていた。つまり江戸時代は開拓で田を作り人口を増やしたのである。それが海側への埋め立てや開拓でありそれが自然条件を無視したものでありやむをえなかった。それが今回の津波でもとの原初状態に戻ったのである。そして青松白砂の無数の松がなぎ倒され流された。それは信じられない風景だった。津波の猛威をまざまざと松に残したのである。でも500年周期くらいで大津波が来ているとしたら海側に開拓が進んだ江戸時代は仙台平野や福島県の浜通りでもそうした大きな津波はなかった。三陸にはあってもここにはなかったのである。それも500年単位になるととても人間の歴史の単位も越える。だから江戸時代から五百年はそんなことは考慮しないのである。平和のうちに危険だった場所の開拓はすすめられ人口は増えたのである。


今回の津波が明かにしたのは何なのか?それは五〇〇年が過ぎて大きい津波が来たことも忘却されていた。三陸は違っていたが仙台平野から福島県の浜通りについてはそうである。人間の記憶は五〇〇年もすると失われ忘れられる。人間は忘れやすいのである。忘れたころに災害がやってくるというのはそのためである。五〇〇年も何もなかったら全く忘れてしまう。三陸とここは違っていた。でも海は怖い、だから海側に住んでいる人は浪が海が押し寄せてくる夢を見る。小学校の前辺りまで浪がおしよせてくる夢を見ていたが現実になった。夢はどんなものでも現実化するのかもしれない、誰も隕石が落ちてくるような夢は見ない、それはほとんどありえないことだからだ。海は違っている。毎日接しているから恐怖の夢を見るのである。それが現実になったのである。人間は危険を察知すま能力か弱くなっているのかもしれない、あまりの文明化で機械化で人間の五感も直感も衰退した。これだけ情報化文明化しても人間は危険を察知する能力が衰退した。震度9の地震はスマトラでも起こっているし他でも起こっているからそこに注意していれば日本でも起こるのではないかと危険を感じることができたが不思議にスマトラのことは他人事であり警報装置がなかったから津波のことを知らないから被害が大きくなったと言っていた。日本人はこれだけ地震があるのに警戒していなかったことも不思議である。

人間は今やどこでも自然条件を無視して生活範囲を拡大化している。だから災害の被害は信じられないほど巨大化する。自然に制約されていればこういうことはない、海側にはそもそも人は住めなかったからである。三陸ももともと八沢浦のような入江でありもともと平地には人は住んでいなかったのである。でも平地が便利だから住むようになった。その平地を田にしたことも確かである。田にして米を作りすることが日本人の文明でもあったからだ。田を作るにしてもやはり文明というのは自然に逆らうことになるのだ。そしていかに文明が今や自然に逆らったものとなっているか?その一つが原子力事故でもあった。これも実際は自然に逆らうものであった。何故ならどうしてもとも自然にない物質、放射性物質を作り出すようなもの毒を作り出すようなものを作ること自体が自然に逆らうものだったからである。文明はそういうことで常に自然に神に呪われている側面があった。それが津波でまざまざと見たから驚いたのである。

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posted by 老鶯 at 23:42| Comment(0) | TrackBack(0) | 地震津波関係

2011年05月24日

新緑(南相馬市原町区も正常化してはいるが・・・)

 
新緑の風にそよぎて原町に人も戻りて店も開きぬ


高台に菖蒲の咲きて行く人もまれにし静か事もなきかも


紫の菖蒲の色濃く静まりぬ藤の花垂れ夕べとなりぬ

イオンとかツタヤも開いていた。原町も正常化している。ただ原町はまだ公共的ななところ、学校や病院などが正常化していない、生徒は鹿島区に通い市立病院は応急措置しかしていない、治療はできない、それから耕すなというとき田畑が使用できないことは農家でも困る。
これはしかたないのだろう、なぜなら飯館が放射線量が一番高い、そして放射性物質は土とか葉とか木にたまりやすいとあった。土にたまったセシウムなどは木を通じてまた土にもどり循環するというやっかいなものだった。これから梅雨で雨がふると最初を気をつけろとあった。空中にたまったセシウムなどが雨と共にふってくる。そしてその放射性物質、セシウムなどが山から流れてくる。飯館からなら南相馬の原町区でも鹿島区でも相馬市でも流れてくる。なぜ赤字木(あこうぎ)地帯があれほど今でも20マイクロシ−ベル近くになっているのか、やはり地形的要因として谷間であり森でもあったからだ。森がセシウムなどを吸収したために一段と放射線量が高くなっていた。その森や山の土から放射性物質が川などに流れてくる。それでヤマメなどからも基準値を越えた放射性物質が発見された。その川の水がダムに流れ田んぼに流れて来るとしたら危険になる。


ただ水はどうなっているのか、水道の水はダムなどから取水している。それがどうなるのか、その辺は調べているのだろうか不安になる。山側は放射線量が平均して高い、丸森も高いのである。だから相馬市では田植えしているが山側からの水が田んぼに流れ込んでいることは確かなのである。そうなると相馬市でとれた米が果たして基準値内に放射性物質がベクレルでおさまるのか疑問になる。南相馬市と相馬市でそれほど放射線量が変わると思えないのに相馬市では田植えが許可されている。福島市だって南相馬市より放射線量が高い、政府では放射線管理区域にもしていない、だから自主的に子供の親は校庭の土を除去するなど放射線量を減らす作業をした。政府は国民の命を守ってくれない、福島市とか郡山市とかは人口が多いから避難地域には指定しない、保証しきれないからだ。そしたら市町村で独自に命を守るほかない。政府と地方自治の対立がでてくる。そもそも地方自治体で原発を拒否できた。でも一旦許可したら県でも市町村でも政府指導になり原子力村には逆らえなくなっていた。国策だから地方の権限は喪失していた。原発の事故ではいかに地方自治がしっかりしていないと命の保証すらされないことがわかった。国にまかししていたらただ犠牲にされる。放射能のいい実験材料にもされる。これからは地方でも積極的に政治に参加しないと命の安全も図れないことがわかった。福島県は原発事故の犠牲になったのである。


鹿島区の川子の高台から海をみると実はその足下まで海だった。津波でそれがわかったのである。川子の高台の家の下まで津波がおしよせていた。あの辺は低い土地でありあの高台の下は全部が海だったのである。みちのくの真野の草原遠けれど面影にして見ゆというものを(笠女郎)の万葉集の歌のように草原は港でありあの辺は一面海だった。だから八沢浦が海になったように美しかった。そして海だったのだから津波が来たような所には人は住んでいない、それで磯部でもそうだがあそこは海に接して砂州だった所である。そういう所に人が密集して住むようになったか、烏崎でもそうであり松川浦でもそうである。津波が来るなど全く想定していない、
でも海側に住んでいる人は必ず海にのまれる夢をみる、それが生々しい夢であり恐れを常に抱いている。自分もちょうど小学校の前辺りに浪がおしよせてくる夢を見る。その前に家がないから直接海に通じている感じになっていた。それが実際に現実になったことに驚くのだ。まちがいなく海は怖いものだったのである。いつかそういう時が来るのではないかと夢に見ていた。

津波のことをもっと警戒しても良かった。それが全然警戒していない、今度小学校でも津波の避難訓練したというが今までそんなことを全くしていなかった。いづれにしろ海に近い平地がいかに危険だったか、大内村でも烏崎村でも高台に家があれば被害はなかった。でも高台になると不便であり多くの家は建てられない、それで平地に家が密集するようになった。これは三陸でも同じである。高台の土地は少ないし平地が便利だから平地に家が密集したのである。でも三陸だったら何度も津波に襲われているから危険をもっと危険を感じるべきだったろう。

原町でも人がいなくなれば自然すら映えない、街は死んで自然も死んでしまう。人工的なものと自然の両方がマッチして活きたものとなる。でも植田がないということは自然が失われた。

鷺をみかけない、鷺が消えたのである。ということは夏の風物であり季語が喪失したことになる。帰るも田んぼに鳴いているのが自然であるがそれも消えた。こんなことを田を米を作りはじめてから経験しないだろう。だから回りは索漠としている。でもなんとか人が戻ったから正常化している。