2011年04月14日

新地の津波の被害の跡

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曲がったレ-ル
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旅館だった

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自衛隊の駐屯地


新地の津波の被害の跡

新地は電車の車両がへしまげられた映像で有名になった。警察官が誘導して乗客を助けたのだがあの辺は平地しかない、歩いていたら助からなかった。車があって乗せることができたので助かった。津波は15分とか20分できているから逃げる時間がなくて津波にのまれた人が多い。一刻を争う時間なのである。でも話を聞くとそうした切迫感はない、着るものを家に取りに行ってそのまま津波にのまれたとか一旦家に戻って津波にのまれた。戻る時間などなかったのである。津波が早くくるという切迫感がまるでなかったのである。何かのんびりししていたのである。全く津波を警戒していな人も多かった。津波もたいしたことがないだろう、いつもの津波なら一メ-トルにもならない、それでも注意を喚起したりしていたがそれも慣れっこになっていた。津波注意報などしょっちゅうあるから慣れっこになっていた。大津波警報も津波注意報くらいに思ってしまったのである。人間の慣れは怖いことを今回は証明した。三陸などでは警戒しても宮城県から福島県の浜通りには大きな津波は来ないから油断していた。全く警戒していなかったのである。人間は常に危機感をもつことがむずかしい、平和な生活が常態でありその生活が長ければそんな大それたものが来るとは思いもよらなかったのである。


津波は二階建てで下の方が破壊された海から離れた所でも津波にのまれ死んでいる。新地でも駅から離れた下が破壊された海から結構離れた高台でも死んでいたのでる。そこに住んでいる人が説明していた。知っている人が死んでいるのだ。なんでも昔から大きな屋敷と土地をもっていた武家の出の人のも流された。あそこがそうだよと指さして教えてくれた。新地では有名な人の家だったのだろう。新地では伊達とのつながりが深い武家の人がいて相馬市と合併しなかったというのも意外だった。まだ相馬と伊達がこの境の地では争っているのかと思った。こういうことは地元の人に聞かないとわからない、なかなか本を読んだだけではわからない、郷土史は地元の人に何でもいいからささいなことでも聞くと実感として興味が湧くのである。新地城は境の城としてあった。

亘理郡長助役であった目黒重真が、明治の新しい時代を迎え「これからは教育が最も大事」という考えにたち、新地方部11カ村の村長や有志に学校設立を呼びかけ、宮城県に対して「宇多郡村学校設置願書」の設立して認められ、仙台藩校養賢堂の教授であった氏家晋(号 閑存)を招き、民家を利用して学校を設立した。


亘理とか仙台藩がかかわって観海堂も作られた。相馬藩ではなかったのである。それも全く津波にのまれ跡形もなく消失した。長い手を伸ばして貝を食べていたという手長明神跡はやはり海の近くにあった。場所的に今回の津波でどの辺が海になっていたかわかったからである。六号線まで海であり人は住んでいなかったのである。新地駅はもっとも海に近い場所にあった。

明日はへしまげられた車両はかたづけられる。でも常磐線が全線開通することがあるのか、なぜなら原発から20キロ圏内は立ち入り禁止であり入れないとするとそこはもう鉄道も通らなくなるからだ。亘理までは開通してもなかなか相馬の方まで開通することは先のことになる。
ここの海岸沿いの家は全滅である。帰りに廃校となった相馬女子高等学校の避難所に行ったら600人もまだいることに驚いた。原発関係で避難している人もいるのだろう。明日半分は飯坂温泉の旅館に移るという、それならここよりは楽になるし温泉にも入れるからいいとなる。それにしてもまだこれだけの避難している人がいることは今回の被害がいかに多いかわかる。他でも避難者が多いことが今度の災害の特徴なのである。仮設住宅はなかなか間に合わないからだ。福島市に移動したくない人はここに残るという。

posted by 老鶯 at 21:08| Comment(0) | TrackBack(0) | 地震津波関係