2011年04月02日

八沢浦が元の美しい入江に戻った!(南相馬市鹿島区の津波の被害写真)



八沢浦が元の美しい入江に戻った!
(南相馬市鹿島区の津波の被害写真)


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美しい八沢浦に戻った!
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ヤ沢浦干拓の記念碑が倒れる

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明治に干拓された八沢浦の記念碑が倒されていた

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高台の中間地点まで津波が来た



海老村は壊滅

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坂を下った六号線(小島田)に流れ着いたもの(烏崎からのもの)
港があった烏崎は壊滅した

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今回の大津波は八沢浦を元の風景に戻したし縄文海進の時代に逆戻りした。八沢浦は明治になってから干拓されたのであり江戸時代は浦だった。その浦に戻った不思議がある。一般的に津波の後は瓦礫の山になっているがここは家も少ないから潮水が大量に入りこみ美しい入江の風景に戻った。前から海が入り込んで湿地帯だったということを書いてきたし八沢浦は元の状態になったらどれだけ美しいかと書いてきたがそれが現実になった驚きがある。確かに人が多数死んだからそんなこと言っていられないということもあるがここは瓦礫の山ではない、美しい自然の風景を一時的でも現実になった驚きがある。思うに陸前高田市とか三陸沿岸の入江はみんな元は海が入り込んでいた。平地には海だった。その平地に街を作った。そこは津波になったら海になるところだった。そういうところに街を作ること自体、自然に逆らった街作りであり今回の大津波で全滅した。高台の家だけが残った。自然の地形に沿って自然に逆らわず生きていればこうはならなかった。


太平洋沿岸でも仙台平野でも福島県の浜通りでもそもそも海をだったところを埋め立て田を作ってきたところであり右田の松原も塩害を防ぐものとしてあった。もともとそこは何もなかった砂浜だった。松原は人間の手で作った人工の自然だった。それが根こそぎ喪失したのである。元の自然の状態に戻ったのである。津波は確かに悲惨だったがこんな風景を生きてみること自体ありえないことであり驚きだった。人生でこれほど驚いたことはない、信じられないことだった。

確かに街などが全滅して悲惨な光景となっているが八沢浦などは瓦礫の山はなく美しい元の自然の風景になっている。それを生きてる内にこの目で見ることができたということは信じられないとなる。八沢浦はもともと家が少ないから被害が少ない、海老村は壊滅した。烏崎村も壊滅した。沿岸はどこも壊滅状態である。津波の潮水は鹿島小学校の前まで来ている。海から約3キロも入っている。そこまでは昔は海だった。古代の真野の入江は塩崎(しおのさき)まで来ていたことを書いてきたが実際に船着という地名の残っているすぐ近くまで来ていたことに驚きである。船は烏崎から津波で流されて6号線まで来ていた驚きである。


今回は風景を変えてしまった。右田の松原は喪失して名残りの松が何本か残されただけである。陸前高田では一本だけ松が奇跡のように残った。いたるところで松も根こそぎ津波に倒され流された。しかし松も流されずに残ったものがかなりありそれが一つの伝説と名所になった不思議がある。いたるところに伝説を後世に残す物語を作り出したのである。写真はやはり部分的に見てもわからない、地図と照らし合わせて見る必要がある。これはやはりそこに住んだ人でないとわかりにくいのだ。

posted by 老鶯 at 22:02| Comment(6) | TrackBack(0) | 地震津波関係