2011年04月01日

梅の香(放射能の風の影響)

苦しさに梅の香りはありにけり


幸いや動かずにすみ庭の石


蝋梅や動かずにすみ庭の石

こんなとき俳句とか短歌とか詩を作るのもなんだけどその変動はあまりに大きいから自然も変わったしまうほどの変化だからこういうときは誰も何かを書きたくなるだろう。それぞれに二万人以上死んだら物語が生まれてしまったのである。それはとても今や語り尽くせないのである。テレビで報道しているのもその一部の物語である。戦争状態のようになってしまったのである。
俳句にしても一茶の俳句のようになる。苦難のなかで作る俳句である。


●放射能で移動せずにすんで助かった


ここは32キロ地点であり移動せずにすんだ。もう母は動けない、ボケていて何が起きたのかも理解できない、寝ているだけでありその介護やらで大変だった。誰にも相談したり協力してもらえる人もいない、全部一人だけでやるほかない、原子力事故が起きてすぐに逃げた人が回りで多い。原子力事故は起きた時、すぐに逃げるのはやむをえない、放射能が水素爆発したにしても拡散する、だから早く逃げる必要があったができなかった。「安全だ、安全だ」と政府や学者が言うのは信じられない、原子力は安全だ、安全だと呪文のように言いつづけて地元でもそうであり誰も逆らうことはできなかった。そして誤算だったのは意外とここが近かったことである。かろうじて30キロ圏外だったので移動せずにすんだ。とるものもとりあえず移動させられ人は苦しかった。20キロ圏内は立入禁止になり家に荷物もとりにいけなくなる。それで避難所で酒飲んで車取りに戻りたいと言って包丁ふりまわして暴れた浪江の人が逮捕された。自分も緊急入院の時どうしても家に荷物をとりになど大事なものがあったので戻りたかったが死ぬと言われできなかった。そして家では大変なことが起こった。今20キロ圏内はゴ-ストタウンになり飼い犬が野犬化して徘徊しているから信じられない映画のようなことが現実となっているから信じられない。野犬が放置された死体を漁っているとかなど聞けばまさに突然に天国が地獄と化したのである。突然放置された家には泥棒も入る。治安は悪くなる。地獄をまざまざと見ていることが信じられないのだ。まあ、ともかく動かずに移動しなくてすんだから助かった。移動していたら母は疲労で死んでいた。神戸の大地震でも地震の後に疲労などで病気で900人くらい死んだというのもわかる。それにしてもあんなに人が移動するというのも信じられないことである。そしていつ帰れるかわからないというのも悲惨である。その怒りは頂点に達している。でも地元にも責任があるからがまんしているのだろう。


●放射能の風の影響


今回は放射能が30キロ圏外でも飯館村や福島市で南相馬市より高いシ-ベルトを示していることの原因である。天栄村でも牛肉から基準値より高い放射能が計測されたことに驚いた。郡山市でも南相馬市より数値が高い。これは風のせいだったのである。


東風(こち)ふかばにほひをこせよ梅の花 あるじなしとて春なわすれそ 菅原道真


今の時期はこの東風が浜通りでは海の方から吹いてくる。それと同時に春北風(はるきた)というのも吹いてくる。これが交互に吹いてくるのだ。丸森とか山を越えたところでも東風(こち)が吹いてくる。丸森だと山から吹いてくるのだが実際は海が近いから海から吹いてくるのだ。飯館村も標高が高い所にあり東風が吹いてくる。東南の風でもある。一方北風は北西の風は山から吹いてきて海に吹くから放射能は東南の風の影響を受けて飯館村や福島市に風で運ばれたのだ。南相馬市は北風が吹いて放射能は海に放散されたから低いレベルになった。今回は放射能は海の方へ流されたから陸地では少なかった。天栄村まで流されたとすると風の影響が大きいことがわかる。放射能は目に見えないから怖がらない人は全く怖がらないだろう。それで自分も怖がらないで外を自転車で出歩いていた。他の人は家にひきこもっていた。やはり事故当初は放射能が多く拡散されるから引きこもっていた方が良かった。30キロ圏外ということで安心していた。放射能については素人はわからないし学者でも御用学者が安全だ、安全だと言っても信用はできない、微量でも影響があるという学者もいる。原子力は安全だ、安全だとどれだけ言われてきたか、その安全神話が崩壊したからである。パニックになるから安全だ安全だといい、避難指示地域を広げないのは保証のコストがかかりすぎるからだというのがわかる。ともかく今回は福島県は特に浜通りから中通りは即命にかかわるから真剣になる。放射能の恐ろしさは人が住めなくなることである。すでに30キロ圏内の土地を国で買い取り特区にしてしまうとか遂に故郷に帰れない多数の難民が生まれてしまう悲劇である。
今や神話の村とかで飯館村を詩にしたりしたがそれが放射能汚染村になったことが信じられない、白が一転して真っ黒になってしまった。だから空気までも汚した原子力の恨みは大きい。
飯館村まで影響すると思った人はいないだろう。放射能は広範囲に影響するものだということを知るべきであった。

東風ふかば思いおこせよ放射能飯館村の恨み深しも


こんなふうな歴史を記すことになったことが信じられない、水も空気も特別きれいな所だとして行っていたからである。



牛乳から極めて微量の放射性物質 米カリフォルニア州

太平洋越えて風が運んだのか?放射能は遠くまで飛ぶんだよ、とんでもない遠くまで飛ぶ
天栄村の放射能測定は間違っていないのだろう

原発の被害を直接受けるのは責任をとらされるのは地元住民


原発の被害を直接受けるのは責任をとらされるのは地元住民

原発の下請け会社で働いていた人が浪江にいた。その人は原発は安全だ安全だと何度も言っていたし常に呪文のように東京電力でも安全だ安全だと言っていたし原発を推進してきたのは地元選出の国会議員だった。民主党が中心でもあった。共産党だけは批判していてその危険性を指摘していて文書も残されている。地震学者も貞観津波の例をひき何度も警告していたが東電はきかなかった。対称的に女川原発は津波を考慮して被害が大きかった女川でも地震と津波の影響はなかったし住民が避難所としても利用した。この相違は余りにも大きいのだ。地元でも確かに原発を推進する人が多かった。でもその責任は今や双葉町のように否応なくとらされている。浪江でも10キロ圏内であり利益を得た人も責任をとらされている。原子力はそこに住む住民が否応なく重い責任をとらされる。所払いとかの刑罰を受ける。長年親しんだ故郷に住めなくなるのだ。これほどの刑罰はない、重い責任はない、だから責任者は東電でも関係した人でも利権を得た人でも切腹でもしろとなる。そのくらいの覚悟をもってやるべきだったのが原発だったのである。住民は確かに原発を推進してもその責任を今回のように否応なくとらされるのだ。安全だ安全だと呪文のように説きふせられて軽く考え容認してもその重い責任を住民はとらされる。浪江の人はやはり住めなくなる責任をとらされる結果になった。そして自分のしたことを反省しているし住民も原発の恐ろしさを知り反省している。でも原発は今反省しても時すでに遅しなのである。もうその土地には何十年と住めなくなる。立入禁止区域として国が管理することになる恐ろしい刑罰を受けるのだ。簡単に帰れるということは甘いのだろう。放射能は簡単に消えないものだからである。


水循環→蒸気→圧力上昇→圧力を逃がす→放射能を閉じ込める箱の限界→放射能流出→でも温度は下がらないと悪夢のラビリンスが良く理解出来ます
(東京に原発を-広瀬隆)


すでに事故は専門家により指摘されていた。ありえない予言ではない、科学的根拠にもとづくものであり予想されたものであった。それをしなかったのだから東電の責任は重いのである。
もちろん推進してきた議員やら利権にかかわった人や地元の人にも責任はある。でも地元の人は今回のように重い責任を否応なくとらされるのだ。東電の指導者はそういうことがない、だから切腹ものだとなる。危険な現場で上層部が率先して指導して放射能を浴びろとなる。それが責任を果たすことである。それほどに原発は放射能は危険なものだった。その危険な認識が住民には欠落していた。むずかしいものだから安全だ安全だと専門家に何度も言われマスコミにも広告費を払うから事故後も安全だ安全だ、放射能は害がないと御用学者に言わせるのだ。実際は東電はずさんな会社であり一番危険な放射能を扱う会社とは思えないずさんさがあった。事故が起こった場合住民をどうするのですか?と質問すらできなかった。住民のことなど考えていなかった。住民もまた原発は金になるものとして歓迎していた。でも地元の住民はその重い責任を今とらされていることが違っている。要するに今や原発のために受難の民となっている感じなのだ。地元に帰れず他国で生活をせざるをえなくなった故郷喪失者の大群となってしまった。これも津波被害と同じように信じられないことだった。流浪の民となってしまうかもしれない、そうした不安で一杯にしてしまった恐ろしさである。


そして原発の事故の影響は30キロ圏内に留まらないこともわかった。外国までも影響するのが原発事故である。放射能は世界中に拡散される。そんな危険なものを扱うのには東電はずさんすぎたのである。リスクマネジメントに欠けていた。その弱点を明確に指摘されていたのに実行しなかった。そして大事故になった。その事故は取り返しのつかないものだった。それは天災ではなく人災だった。今回の大津波も天災だったが人災の面もあった。貞観津波があり千年に一度起こる自然の大きな時間のスケ-ルで起きたものでありそのスケ-ルの大きさに対処できなかった。相馬でも貞観津波の時今の海岸から奥深くまで津波がきていた、その証拠も見つかっていた。千年に一度とかなると誰ももはや危険を感じなくなる。だからこの辺で津波について語られることもなかった。三陸では被害があったから語られたが仙台から名取、相馬では語られていない、でも千年に一度でも起きたら悲惨だし災害は起きるということである。青松白砂という景色は人間が作った人工景観の美である。つまり海であったところを干拓してできた田の塩害などを防ぐために松原は作られた。その人工的に作られた田や海岸の村落が根こそぎ津波で破滅させられて元の自然の海に一時期戻ってしまった驚きがある。人間は自然に逆らい無理して住む場所を拡大化してきた。それが自然によって復讐されたから人災だったとなる。

本来海沿いから離れて住み高台に住んでいた。それが田を作ることで無理をしたのである。田を作ることも自然破壊でありそれが津波により元の自然状態に戻されてしまった。こう考えると神戸大地震のよう都市はいかに危険な場所かわかる。全く自然に逆らい作った人工都市が東京のような大都会だから一旦このような大地震や津波が来たら一溜まりもない、破滅の断末魔が待っている。なぜそんな危険な所に住んでいたのかと信じられない被害の後に語られることは指摘されることは確かである。東京でも未曾有の災害が待っているということである。

災害は明かに未然に防げるものであり人災の面も大きいのである。千年に一度でも起こることは起こるから警戒しなければならなかった。それをしなかったのだから人災だった。それは自然の調和を乱した人間の自然の復讐であり警告でもあった。それに従わずに地震や津波を甘くみた東電の罪はあまりにおおきすぎるので切腹ものなのである。塗炭の苦しみを住民が背負わざるをえなくなったからである。まさしく突然受難の民になってしまったのである。


陸奥の古代にも巨大津波の記録
http://www.musubu.jp/jijimondai25.htm#suma

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2011年04月02日

八沢浦が元の美しい入江に戻った!(南相馬市鹿島区の津波の被害写真)



八沢浦が元の美しい入江に戻った!
(南相馬市鹿島区の津波の被害写真)


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美しい八沢浦に戻った!
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ヤ沢浦干拓の記念碑が倒れる

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明治に干拓された八沢浦の記念碑が倒されていた

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高台の中間地点まで津波が来た



海老村は壊滅

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坂を下った六号線(小島田)に流れ着いたもの(烏崎からのもの)
港があった烏崎は壊滅した

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今回の大津波は八沢浦を元の風景に戻したし縄文海進の時代に逆戻りした。八沢浦は明治になってから干拓されたのであり江戸時代は浦だった。その浦に戻った不思議がある。一般的に津波の後は瓦礫の山になっているがここは家も少ないから潮水が大量に入りこみ美しい入江の風景に戻った。前から海が入り込んで湿地帯だったということを書いてきたし八沢浦は元の状態になったらどれだけ美しいかと書いてきたがそれが現実になった驚きがある。確かに人が多数死んだからそんなこと言っていられないということもあるがここは瓦礫の山ではない、美しい自然の風景を一時的でも現実になった驚きがある。思うに陸前高田市とか三陸沿岸の入江はみんな元は海が入り込んでいた。平地には海だった。その平地に街を作った。そこは津波になったら海になるところだった。そういうところに街を作ること自体、自然に逆らった街作りであり今回の大津波で全滅した。高台の家だけが残った。自然の地形に沿って自然に逆らわず生きていればこうはならなかった。


太平洋沿岸でも仙台平野でも福島県の浜通りでもそもそも海をだったところを埋め立て田を作ってきたところであり右田の松原も塩害を防ぐものとしてあった。もともとそこは何もなかった砂浜だった。松原は人間の手で作った人工の自然だった。それが根こそぎ喪失したのである。元の自然の状態に戻ったのである。津波は確かに悲惨だったがこんな風景を生きてみること自体ありえないことであり驚きだった。人生でこれほど驚いたことはない、信じられないことだった。

確かに街などが全滅して悲惨な光景となっているが八沢浦などは瓦礫の山はなく美しい元の自然の風景になっている。それを生きてる内にこの目で見ることができたということは信じられないとなる。八沢浦はもともと家が少ないから被害が少ない、海老村は壊滅した。烏崎村も壊滅した。沿岸はどこも壊滅状態である。津波の潮水は鹿島小学校の前まで来ている。海から約3キロも入っている。そこまでは昔は海だった。古代の真野の入江は塩崎(しおのさき)まで来ていたことを書いてきたが実際に船着という地名の残っているすぐ近くまで来ていたことに驚きである。船は烏崎から津波で流されて6号線まで来ていた驚きである。


今回は風景を変えてしまった。右田の松原は喪失して名残りの松が何本か残されただけである。陸前高田では一本だけ松が奇跡のように残った。いたるところで松も根こそぎ津波に倒され流された。しかし松も流されずに残ったものがかなりありそれが一つの伝説と名所になった不思議がある。いたるところに伝説を後世に残す物語を作り出したのである。写真はやはり部分的に見てもわからない、地図と照らし合わせて見る必要がある。これはやはりそこに住んだ人でないとわかりにくいのだ。

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2011年04月03日

地形により津波の大きさは違っていた(相馬市の磯部村の全滅の原因)


地形により津波の大きさは違っていた(相馬市の磯部村の全滅の原因)

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磯部村

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打ち上げられた蛸



松川浦

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今回の大津波はこの辺では経験したことがない、三陸では38メ-トルまで津波が上がってきた。狭い山の狭間を津波が上った。津波は地形によって変化する。松島は1、5メ-トルしかなかった。島が防波堤の役目をした。だから田老のような10メ-トルの防波堤が無駄だったとはいえない、衝撃をやわらげた。津波の衝撃はすさまじいからだ。この辺でも海老村の坂を上り八沢浦にでるところの崖を津波がぶつかりその上の家を押し流した。津波は最初にぶつかるとこす海岸に一番近いところが衝撃が強い海老村は右田村より高いのに壊滅した。あの高さでも海に面したところでは相当高くなっていたのだ。だから磯部村のような海岸に接していて何も前に障害物なかったところはひとたまりもない、全滅した。磯部村は150所帯くらいあったが全滅した。空から見るとそこはもともと砂州だったことがわかった。原始の地形は砂州でありそこに部落を作ったのだ。今回の津波で原始の地形がリアルに再現された。松川浦は相当に広い浦だった。

松川浦の浦に面している旅館街は家はまだ残っていた。山の裏側の海水浴場の原釜はまともに津波を受けて全壊の家が集中した。さらに水がたまっているところも家がのきなみ津波で全壊した。津波は場所によって被害が違ってくる。それは地形によっていたのだ。

いづれにしろ今回の津波で人命を多数失ったが原始の自然状態が再現されたことは驚きだった。奇跡的だった。地形からしたら砂州のような所に大きな村を作るべきではなかった。でも干拓して田を作っているうち原始の状態は失われた。そしてその危険性に気づかなかったのである。磯部村は北海道のような砂に埋もれた海岸になった驚きである。そこに名残りの松が一本残っていた。よく津波に耐えたものである。本当に不思議な光景でありこんなことがありうるのかとただただ驚きだったのが今回の津波だった。


空中動画
http://tohoku-help-info.seesaa.net/category/9887840-1.html

ここで映像を分析した

posted by 老鶯 at 23:31| Comment(0) | TrackBack(0) | 時事問題の深層

2011年04月04日

芽吹き(人間は住んでいる土地を簡単に離れられない-原子力事故の恐怖)


芽吹き(人間は住んでいる土地を簡単に離れられない)

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ふるさとや地割れに根を張り芽吹きかな


水仙の石に向きつつ今日も咲く


水仙や余震静まれ石に向く

今起きていることこれは異常である。あまりの激動でありどう対処していいかもわからない、地震でいたるところ地割れして津波の被害は甚大でありそれに加えて放射能である。これをもうどう理解していいかわからない、退避しろと言われても病人とか介護している人とか簡単に退避できない、それで20キロから30キロの屋内退避の人も帰ってきている。一か月とかそんなに長くいられるところはない、他の地域でもそんなに長く世話することは重荷になる。20キロ以内は立ち入り禁止だからしょうがない、牛と馬が道を歩いていた。人影はなくゴ-ストタウンになっている。突然こんな急激な変化を受け入れられない、津波にしてもあまりに急激なことで逃げられず死んだ人が多数いた。放射能ではすぐに死ぬことはないし怖がらない人は怖がらない、怖がる人は無闇に怖がる。もうどうなってしまったのかわからない、放射能はいくら説明されてもわかりにくい、ガンになるのも5年10年後ではぴんとこない、今日は余震は収まってきているみたいだ。ず-と大地はゆれていた。


ここ五年間で経験したことはあまりの激動だった。認知症から自分の病気から犯罪の被害から人への裏切り不信がつのり今度は最悪の状態になったから信じられない、世の終わりだとも真剣に思ったしそういうことをリアルに感じた。地割れはまさに人と人とが信じ合いなくなることである。自然もまた酷かった。これは天罰だとか神の最後の審判とか現実的に思った。一挙に何万人も死ぬ世界が現実に身近にありえた。そして終末的なのは原子力事故であり放射能でありそれが身近に起こった。自分もその犠牲になるという恐怖である。すべて悪夢でありそれがふるさとに起こったことが信じられない、もはや故郷に住んでいられない、農業や漁業は放射能の影響もあり壊滅的である。市役所から土を耕さないようにしてくださいとか言われるのも信じられない、今や空気や水や土が汚されそれを取り戻すことが生きることにもなる。故郷がそんな世界になること自体、終末的黙示録的である。世の終わりが本当に来る・・・そういうことがリアルに感じたのだ。


いづれにしろ未だ生活は異常である。でも20キロから30キロの屋内退避でも人が戻ってきている。ガソリンはゆきわたるようになっている。車も増えた、店も開く所が多くなった。ただ20キロ圏内はゴ-ストタウンである。簡単に人は移動できない、一か月も簡単に退避できない、世話するところでもそうである。だから帰る人が増えた。遊牧民のように簡単に移れない、農業が基盤の社会であり大地に根づくように暮らしていた人々が簡単に移住はできない、高齢者が多いから特にそうなる。高齢者はもう動けないのだ。60才以上でもそうである。移住することはむずかしい。いかに原子力事故が故郷やその土地の人にとって危険なものであり甚大な被害を与えるか真剣に考えなかった。金になるとしか考えなかった罰が与えられている。今度のことはこれまでかかえたことが集約的に現実化したものだった。現代がかかえる問題、文明の限界が天からの警告を受けたということも確かである。文明の崩壊を現実として示されたの。ガソリンがない車が使えない、電気がない、電気がないから原子力だというがそれが危険極まりないものを作り出したのだ。文明的便利な生活への警告だった。自然は天は神は警告を与えたのだ。そんな人間の生活を許さない、文明は自然を汚すものでありそれが罰せられたのかもしれない、今度は大都会に未曾有の災害が襲う、それはまさに世の終わりになるような災害である。それはもう明確に見えたのが今度の大災害である、天災であり原子力の人災であった。


こんなとき作る俳句や短歌も異常である。でも今回の津波や原子力事故でいたるところに物語が生まれてしまった。文学的なテ-マがそこにいくらでも生まれた。こういう激動を経験するとは思わなかった。千年に一度起こる大地震と津波を経験したのだ。団塊の世代は経済の繁栄を経験しても戦争とかも経験していないし恵まれていた。しかし今や国難というようにこれからは本当に生きること自体が苦しい時代である。でもそれは新し未来がこの激動から見えてくる、起きてくるということにもなる。

2011年04月07日

八沢浦は八つの浦のことだった!(津波で元の海にかえった) 八沢浦は八つの浦のことだった!(津波で元の海にかえった)


 

八沢浦は八つの浦のことだった!(津波で元の海にかえった)


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八沢浦の一つ(八つの浦の一つ)


●もともと海であり湿地帯の田は津波で海にかえった

八沢浦の名前は八つの浦があったからであった。回りに浦が入りこんんでいた丁度八つが浦になっていた。そこも田になったがその浦まで今回の津波で海水が入り込んだ。ええ、こんな奥まで海になっていたことに驚いた。日本海にある深い入江になっていた。前にもそのことを予想したことを図解したがその通りになった。八沢浦は思った以上一杯の海水にひたされた。奥の方まで相当奥まで海水が入り込んでいた。だからそきままだったら本当に美しい日本海のような入江になっていた。そして今まで注目していなかったが八沢浦は実は浦が回りに入り込んで八つの浦があった。その浦も海水が入り込んだ。その浦は奥になると高くなっているからその高いところは早くから田になっていたのかもしれない、つまり八つの浦の方に明治に干拓される前に人が住んでいた。それで八沢浦という地名は江戸時代からあった。地名にはその土地に根ざした古い根拠がある。そして今度津波や地震の被害が大きかったのは江戸時代であれ海岸の干拓されたような土地に集中している。千葉県の浦安の液状化した地域ももともと干拓された海岸の砂地であり沼地だったからである。日本はそもそも国土が狭いからもともと自然的条件の悪い所に田を作り住居を拡大化した。つまり自然条件に逆らい無理な開拓をしてきたのだ。それが今回の津波で大被害になった。

行方郡金沢村も古は大沼あり元禄15年に干拓して田地とした。
宇多郡程田村に山田の堤ができたがこれは大恚v芳が農民の用水に苦しむのを見て山田に土手を築き程田、神田、柏崎の三村を灌漑したものである。


こういう海側へ干拓したところは今回の津波で海に還ったのである。

●千年に一回来る津波に対処できなかった浜通り


八沢浦は海岸に接して三軒くらいしか家がないから被害が少なかった。もともと海だった所にも一軒くらいしか家がなかった。浸水しても家そのものは破壊されなかった。でも海老村とか烏崎村は海岸に接して集落化していたから壊滅した。不思議なのはなぜ日本人は海岸にじかに接して住んで津波の危険を考慮しなかったのか?三陸では津波があったが福島県浜通りとか宮城県から名取から相馬までの海岸線では大きな津波は起きていなかった。貞観津波は千年前の話だから実感がない、津波は来ないものと安心していたのである。相馬でも今回の津波は同じように相当奥まで津波は来ていたし今回の津波で実証された。千年に一回来るような地震とか津波は想定外になり油断になり今回の悲劇となった。自然のスケ-ルはそれだけ大きく人間の時間のスケ-ルと違っていた。人間の時間のスケ-ルは小さすぎるのだ。一年刻みであり百年後まで考える人もいない、それが悲劇を生んだのである。青松白砂の風景は人工的なものでありそれが日本の美となっていた。そこは開拓して塩害を防ぐために作られた危険な場所だったという認識をもつものはいない、それが今回の津波で一挙に破壊され原始状態に戻った驚きがあった。海側への開拓は危険なものだった。人間は縄文時代でも危険な場所には住まない、高台に住んでいた。ところが田を作るようになってからもともと海だったところまで住むようになったのである。八沢浦はあそこが元の入江に戻ったらどれだけ美しいとか書いてきたが今は水が引いてしまってない、写真をとったときええ、海水に満たされていたことに驚いた。
そして水が引いたあとに行ってみたら残雪の蔵王が眩しく光り見えた。それはやはり八沢浦八景の歌はここの実景を元に作られたと思った。


●八沢八景の歌はぴったりの歌だった


遠山の暮雪 高瀬さす八沢が浦の夕波に色を乱せる雪の遠山

雪の遠山とは蔵王しかない、八沢浦から蔵王がはっきりと見えるからだ。夕波というのもぴったりなのである。

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八沢浦の夜雨    磯桜八沢が浦の夜の雨に浪のうきねを明かしかねつつ


長岩の晴嵐     雲晴れて入日移らふ長岩の松にしぐれを誘ふ浦風

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これが長岩か


わざわざ磯桜として浪のうきねというのも浦にふさわしい。旅してきたとき何か心も落ち着かなく浪がゆれた感じになっていることを経験している。この歌はかなりいい歌だったこともわかった。旅しているとなかなか眠れないことがあるからだ。これは明かに旅人の歌なのである。
京都から旅してきたとすれば旅人だからこういう感じはわかる。長岩というのは今も海だったころ露出した岩かもしれない、いづれにしろ信憑がある歌だったとなる。

(八沢浦が元の美しい入江に戻った!)-写真
http://musubu.sblo.jp/article/44114737.html

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南相馬市原町区の北原や小浜の被害写真(20キロ内の立ち入り禁止地域へ)


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兵庫からのボランティア

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一番高い所にも津波が

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坂を上りきって下る所-右側が小浜の部落


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磐城大田の海を望む

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江戸時代の古い碑があった(この下は小浜部落)

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南相馬市原町区の北原や小浜の被害写真(20キロ内の立ち入り禁止地域へ)

今日は南相馬市の北原地区を回り海沿いを太田川が海にそそぐ小浜という村を回って20キロ の禁止区域の所まで行ってきた。ここはまだ原町区内であり小高区ではなかった。磐城太田駅がある地域だった。太田神社のある所であり太田川が海に注ぐ地域だった。北原で兵庫県から来たというボランティアの人が一人で泥を掘り返していた。はなまるホ-ムとあるから福祉関係の仕事の人なのだろう。ホ-ムペ-ジに兵庫県とでていたからそこのホ-ムの人なのか?
兵庫県というと神戸があるから震災の被害には同情するのである。ともかく全国から支援の人が入ってきている。

かなりの坂を上ってゆくがその坂の頂上まで津波が来たことに驚く。テレビで見ただけではこの高さがわかりにくいのだ。その高さにびっくりするだろう。こんなに高い所まで来たのかと信じられないのである。高台には松が残っていた。高台だからこそ残ったのである。その坂を越えて下ると磐城太田地域であり防波堤は崩れ海が入りこんでいた。津波が越えた崖の下は「小浜」という村だった。江戸時代の碑があったから古い部落である。ここで土地の人がいて聞いたら6人死んだという、死体を探している小沢地域では多く死んだらしい。小浜地区は直接海に面していないから被害が少ないと思ったが6人死んだ。やはり高く津波が来たので被害があった。


今日NHKで写していた白い防護服の人がこの地域で小沢地域で死体探しをするのを放送していた。小浜地域は坂を下りたところでありその向こうが小沢地域だった。そこは確かに20キロ圏内であり立ち入り禁止地域になっている。なぜそこでも白い防護服を着ているのか、そんなに放射能が危険なのか?あれを見たらいかにも放射能が強く危険だということを示している。でも車で来た人もいる、土浦の人とボランティアの兵庫の人は阿武隈高原の方を遠回りして来た。その人たちはマスクもしていない、仙台から来た人もマスクをしていない、放射能は別に恐れなければ恐れることはない、原子力発電所内で作業するのとは違っている。なのになぜあんなに白い防護服を着て死体探しをしているのおそらくそういう決まりだからそうしているだけなのだろう。そんなに危険だとは思えないのだ。

南相馬市の原町区は自主避難地域であるからややこしい。一度避難した人も長く避難所にいられないので帰ってきている。知人の夫婦は帰っていくが孫は学校に行けないということで避難している親戚の家からその土地の学校に通うそうである。だから両親は残っている。孫の夫婦はのこらざるをえない、でもその妻の夫は原子力発電所のある大熊のス-パ-で働いていたのである。その職も失った。今原町区で問題のはこうして職を失った人が多いことである。これは他の津波被害にあったところでも同じである。特に放射能の被害にあった地域はさらにひどいことになっているのだ。仕事がなければ住めなくなるのだ。そして小高区は立ち入り禁止であり小高区から原町区に避難して来た人がある。ホテルをもっていたので原町区に移った。でもそこも30キロ圏内であり30キロ圏内は避難指示にするという方針だと政府で言っている。とするとそこにも住めなくなるかもしれない、自分の住んでいるところは30キロから2キロ離れているにすぎない、避難地域を50キロまで延長するとも言っていたからそうなると本当に困る。人間長く住んでいたところに住めなくなるほど苦しいことはない、そんなことがありうるのかと今度の原子力事故でつくづく思った。チェルノブエリでは確かに30キロ圏内は立ち入り禁止となった。ここもそうなってしまうのではないかと浪江の人がテレビで言っていた。これは本当に深刻な問題である。
人間そんな簡単に今まで長く住んでいたところから移り住めないからだ。茨城県に移った人は住宅を与えられて中国人がいなくなった農家で農作業をして金を稼いでいる。中国人までいなくなるのか?中国人も放射能を恐れるのか、中国ではもっとひどい汚染がある地域がある。その中国人まで逃げているということがわからない、風評被害としか思えないのだ。

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2011年04月09日

椿(南相馬市原町区小浜村を津波のあとに訪ねて)


南相馬市原町区小浜村を津波のあとに訪ねて

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白木蓮蕾ふくらむ太平洋


海よりそ椿百輪そよぐ風


海岸の高きに松は七八本残り鶯なきそめにけり


近く住み小浜は知らじ古き碑のここにもありて津波にのまれぬ


古き碑や津波の後に残る松小浜村のここにありしも


南相馬市小浜村は江戸時代からあったことが碑を見てわかった。寛永 (1624-1644) とあったからかなり古い村だったことがわかる。あそこにはずっと行っていなかった。普通の生活が全く失われた。今までの日常生活が断たれることにとまどう。津波がなければ原子力の事故がなければ平和な村としてあった。そこに平和な詩が生まれた。そのギャップが大きいのでこうして今までのように書けないのである。津波がきてここにあった三本の松が必死に大地にしがみついて根を張り残った姿がまさに如実に示している。津波の猛威がどれほどのものだったか、ただ無傷で残った松もあった。高台の松は比較的残っていた。陸前高田で一本だけ松が残った、奇跡のように残ったと報道されたが今回の津波で様々な松の物語が生まれたのである。海岸の高台では松が残り鶯が鳴いていた。小浜村は山陰に隠れるようにあり隠れ里のような所だった。近くでも知らない村がある。それにしても向かいの小沢地域を白い防護服の警察官が死体を探しているのは異様である。ここは丁度20キロ内で立入禁止になっている。

どうしても平和なときと一転しして変わってしまった平和な時とのギャップが大きすぎてとまどう。普通に田畑を耕して農作業をして漁港があり漁をしていたことがあるとき消失することが信じられないのである。働く場を失うこと自体深刻なことはない、農民や漁民が一体どこに移動して仕事するのだろうとなる。ただ今回のことはいろいろな前からあった問題点を浮き彫りにした。

死んだ人は78割は高齢者だった。60才以上がいかに多いか、これも現代の縮図だった。農家でも60才以上の人がになっている。だからその打撃も多いしもうやっていられないという人もででくる。農業や漁業の後継者がいないということもあった。この辺でも原子力関係で働く人は少なくとも火力発電所に津波で千人取り残されていると聞いて驚いた。そんなに人がいたのかとそれだけの人の雇用がある。農業の比重は収入でも相対的に低くなっている。漁業関連の団体の人が漁業を馬鹿にするなよと東電の会長に言ったときそのことを象徴している。東電のような電力事業の方が雇用でも社会で果たす役割もずっと大きくなっているからこそそうなる。


津軽方面では深浦の椿崎、小湊の椿山などがめずらしいものに伝えられる。後者は近年の保存方法によりて天然記念物として指定されたがこれらが天ねであるかどうかはすでに解決した問題ではない・・・・・南人が北の国に入って来るのに、その習俗、信仰とともにかつて崇敬する植物の種をたずさえ適地を求めてこれを養育したことは決して五穀実用のものとは限らなかった。椿もまた特別の樹木の一つとして社に植え家に移し園芸の先駆を成したように、若狭の八百比丘尼のごときの伝道者が手にもつ花の枝も椿であった。(柳田国男全集二巻)


南相馬市鹿島区の南限の地としてマルハシャリンバイがあるがこれは自生したものだが椿の場合は違っていた。人が移住してもたらされたものである。人が移住してもたらされたものが園芸種で膨大になったのと同じである。青森というと相当に寒い地域でありそこに自生するということは無理だったことは容易に想像できるからだ。椿は南国産でありもともと海沿いに咲くのに向いていたのだ。潮風、海の風が吹いている海に向いて咲く花にふさわしいかった。


いづれにしろ今回のような大津波やら原子力事故やらとなると平和時の営みができなくなる。普通に行われていた農作業すらできていないと同じように学問とか芸術とかそうしたことをつづけることも影響が大きいのだ。そもそも人がすめなくなったら郷土史も喪失する。そこでの歴史が断たれることになる。だからこそ原子力事故の放射能問題は余りにも深刻だった。故郷に住めなくなる。そして移住した人たちがどうなるのか?ちりぢりばらばらになり相馬の歴史も失われる。まるで世界を彷徨うユダヤ人みたくなってしまうのだろうか?そうした信じられない動乱のなかにありこういうところでは落ち着いて学問とか芸術とかの探求はしにくい、そんなことやっていられるのか、体育館で避難生活している人のことを考えてみろとか津波の被害にあった人のことをどう思っているんだとかなる。これは東北以外でも自粛となっているからにたところがある。

違うのは被害を受けている当事者というのは他者から見て面白がることなどできない、放射能問題にしても自分が住んでいる大地が汚され空気が汚され水が飲めなくなくなるということは日々の生活ができなくなる。当たり前の生活ができなくなった衝撃は大きすぎるのだ。その現実が重すぎるのである。毎日自分の体に針が刺されるようにじかに痛みを感じるから苦しいとなるのだ。だからこうなると空気も水も汚されているようなところには住みたくないとなる。実際にこれほど深刻なことはなかった。空気が汚されているまともに空気も吸いなくなると思いもよらなかった。そんなことがあるのか?実際にあった。それが信じられないのである。


元のきれいな空気を返せ
水をかえせ
土を返せ
・・・・・・


こんなふうに叫ばねばならなくなるとは思いもよらなかったのでありこれ以上深刻な問題はないのである。まともに呼吸できないほど苦しいことはないのである。そうはいっても放射能は目に見えないから風景は元のきれいなままなのである。だから放射能を気にしなければ風も空気も汚れたものと感じないのである。煙も出ないし何か汚れを直接感じないからである。だから海に映える椿も美しさは変わっていない、でも津波の被害の跡を見れば地獄になっているのだ。


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これは松の樹だったのだろう。津波に耐えて必死に大地に根を張り残っている。いかに津波が激しいものだったか
如実に物語っている。こうしてなんとか耐えた姿は痛々しい、ここにまた人は放射能でも住んでいけるのだろうか?
簡単に長く住んだ土地を離れることはむずかしい。先祖代々いた土地を離れたくないというのが農家の人がみんな言っていたことがわかる。
この松の樹のようにしがみついて根を張り離れられないのだ。


 

2011年04月10日

大津波の後(無情の短歌)


大津波の後(無情の短歌)

大津波妻の命を奪いしもなお住みつづけむ故郷なれば


大津波無情に奪いし命かもあまたの霊の海に浮かびぬ


妻と子と親を奪いし大津波その慟哭のやまざりしかも


今日もまた津波のあとの荒寥と死体を探す消防隊員


累々と屍のごとく家々の残骸無惨大津波のあと


津波来て生死を別つその話語られあまた忘れざるかも


身一つにからがら逃げてその話大津波の恐怖消えじも


大津波の無念無数に生き残る人の話の語り尽きじも


大津波のみこむ命数知れじ千年後まで叫びつづけむ


人作る防潮堤の今にしておもちゃのごとし津波の驚異


一瞬に家も家族も失えるこの世に生きるは悪夢なりしも


千年前大津波ありと語りたる学者の言うは誠なりしも


想定をはるかに越えて大津波人のおごりを打ち砕くかも


無惨なり瓦礫の山より思い出の品を探すやあわれなるかも


行方不明なお三〇人と軽く言うかく人命も軽きものかな


今日もまた瓦礫の山の道を行く津波の爪痕心に刻みぬ


凄まじき津波の跡の延々と東北沿岸無情極まる



今回の津波は実際にその被害の場に立ってみると実感する。一番驚くのはこんなに高く津波が来たのかということである。その高さの感覚はテレビで見てもわからない、実際に見ないとその場に立たないとわからないことがある。こんなにひどいものかというのはやはりその場に立たないとわからない、こんなことになるとは思いもよらなかった。戦争と同じだった。これほどの人間が一瞬に津波にのまれて死ぬということが信じられない、人の命も戦争のとき短歌にした人がいたがこれほど軽いものかとなる。延々と90過ぎても介護されて大事にされている時代である。そういう時代に一瞬にして人の命を無情に無数に死にいたらしめた。これほど人間は簡単に大量に死ぬものかと思う、石油がなくて焼くこともできず土葬にして埋める。その光景は戦争で死んでゆく人と同じである。これは千年に一回のできごとでも子々孫々に語られつづける。
その話も無数にあり語り尽くせない、その涙も尽きることがない、こんなことが実際にあるということ、原発事故とともに今起きていることが何なのか今理解することはむずかしい。人類の滅亡なのか、その場に立ちあっいるのかとも思う。自然の力は人間の想定をはるかに越えている。
人間の奢りは打ち砕かれた。原発も人間の奢りの結果でありそれも打ち砕かれた。この惨禍は人類の滅亡の前兆なのかもしれない、それほどに地獄絵図だったのである。

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2011年04月12日

放射線の一番高い場所

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放射線の一番高い場所

安全委によると、現時点の線量が続くと仮定した場合、椚平では東日本大震災発生から1年が経過する来年3月11日には313.9ミリシーベルトに達すると推計。健康に影響を与える可能性が高まるとされる100ミリシーベルトを上回る。


放射線は地域によって差がある。計画的避難地域に指定されたのが飯館村全村と川俣村の一部と南相馬市の一部である。これをどう計算したのか?一番放射線が強いのは赤字木(あこうぎ)椚平(くぬぎだいら)だった。ここに近い領域は計画的避難地域に指定された。飯館村の長泥も高いから最初から放射能が高い地域として注目されていた。でも放射線は一様に高いとは限らない、まだらに分布している。風の関係でこんなところに放射能が集中した。飯館村の長泥(ながとろ)はここから近いから高かった。しかし飯館村にしても相当に広い領域だからすべてが放射能が高いとは限らない、風の関係で飯館村の一部が高いことは確かである。それにしてもこんな山奥が放射能騒ぎで住めなくなるということが信じられない、桃源郷だなどと詩にしていた地域である。桃源郷に忘れられたような山奥に放射能をあびる。


これであまりにもイメ-ジが破壊されたから信じられないのだ。放射能の不思議はそれによってすぐに草が枯れたり木が枯れたり花が咲かなくなったり実がならなくなったりしないのである。もし草木も放射能をあびて枯れて荒野のようになるなら放射能の怖さは一目瞭然である。でも放射能をあびたからとすぐに植物が成長しなくなったり奇形になったり枯れたりはしない、だから放射能を危険と感じないしそこに暮らしていても別に今は何も感じないでいられる、おそらく普通に暮らしていてもわからないから病気になったり奇形の子供が生まれたり何かそうした症状が現れない限り放射能のことはわからないのだ。いくら危険だといってもわからない人にはわからないし自分の長年慣れ親しんで住んだ場所を離れたくないという人はでてくる。実害をすぐに感じないからである。五年後10年後癌になるよと言っても危険を感じない人は感じない、むしろ長年住んだ場所を離れることの方が苦痛の人が多い。村を離れたら村は終わりだと嘆いていた人がいるけど本当である。

村が街が消滅することが信じられないのだ。津波でも街は壊滅した。これも信じられないことだった。放射能のために街がゴ-ストタウンになることも信じられないことだった。あの辺は自転車で行ったことがある。その道の塩浸(しおびで)は塩を運んでいた川に塩を落とした場所というから塩の道だった。津島も三春に近い奥深い場所である。
そんな場所が放射能が一番高い所として避難せねばならないというのが信じられない、何故なら浪江の街に住んでいる人は最初津島の方に移動した。距離的換算して原発から離れたところがいいと思ったからである。でも実際は一番放射能が高いところに逃げてしまったのである。その後また相馬市の方に移った。


ともかく放射能騒ぎにはうんざりした。地震も余震も毎日起きていて落ち着かない、こんなことではまともな生活はできない、落ち着かないのだ。本当に原発をねらって地震兵器で攻撃しているのかとさえ思う。今度の地震の狙いは福島の原発だったともなる。イワキで強い余震が起きているのはそのためなのかとさえ思ってしまう。つまり原発を攻撃すればこれだけ恐るべきことになることが証明された。原発をもっていること自体危険極まりないことなのだ。ここがねらわれたら人類滅亡にもなる。その核燃料は広島の千倍以上だとかこれが放射線をばらまいたら世界の終わりだとかなる。それほど原子力は恐ろしいものだった。余りにも原子力に無知だったのである。放射能は海も空気も水も土も草木も全部汚染するから怖いのである。そして人が住めなくなるということこそ大きな被害はないのだ。でも目に見えないからその怖さを認識できないのである。それでチェルノブエリでも近くで農民が野菜を作り食べて今も生活している。それはそこを離れることができないからである。そしてその被害の結果が出るのは随分先だから怖さを知らずに当分は生きられるのだから逃げねばならないという強い意識は生まれない。
それがまた放射能の怖さだとなる。ともかく毎日地震だ、放射能だ、避難地域がどうだとか落ち着かない、それでここに住んでいること自体嫌になってしまうのである。こんなことがつづいていたら心身が疲れてしまう。特に放射能だけはどうにもならない、どうしていいかわからないからだ。

 


 

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