2011年04月01日

梅の香(放射能の風の影響)

苦しさに梅の香りはありにけり


幸いや動かずにすみ庭の石


蝋梅や動かずにすみ庭の石

こんなとき俳句とか短歌とか詩を作るのもなんだけどその変動はあまりに大きいから自然も変わったしまうほどの変化だからこういうときは誰も何かを書きたくなるだろう。それぞれに二万人以上死んだら物語が生まれてしまったのである。それはとても今や語り尽くせないのである。テレビで報道しているのもその一部の物語である。戦争状態のようになってしまったのである。
俳句にしても一茶の俳句のようになる。苦難のなかで作る俳句である。


●放射能で移動せずにすんで助かった


ここは32キロ地点であり移動せずにすんだ。もう母は動けない、ボケていて何が起きたのかも理解できない、寝ているだけでありその介護やらで大変だった。誰にも相談したり協力してもらえる人もいない、全部一人だけでやるほかない、原子力事故が起きてすぐに逃げた人が回りで多い。原子力事故は起きた時、すぐに逃げるのはやむをえない、放射能が水素爆発したにしても拡散する、だから早く逃げる必要があったができなかった。「安全だ、安全だ」と政府や学者が言うのは信じられない、原子力は安全だ、安全だと呪文のように言いつづけて地元でもそうであり誰も逆らうことはできなかった。そして誤算だったのは意外とここが近かったことである。かろうじて30キロ圏外だったので移動せずにすんだ。とるものもとりあえず移動させられ人は苦しかった。20キロ圏内は立入禁止になり家に荷物もとりにいけなくなる。それで避難所で酒飲んで車取りに戻りたいと言って包丁ふりまわして暴れた浪江の人が逮捕された。自分も緊急入院の時どうしても家に荷物をとりになど大事なものがあったので戻りたかったが死ぬと言われできなかった。そして家では大変なことが起こった。今20キロ圏内はゴ-ストタウンになり飼い犬が野犬化して徘徊しているから信じられない映画のようなことが現実となっているから信じられない。野犬が放置された死体を漁っているとかなど聞けばまさに突然に天国が地獄と化したのである。突然放置された家には泥棒も入る。治安は悪くなる。地獄をまざまざと見ていることが信じられないのだ。まあ、ともかく動かずに移動しなくてすんだから助かった。移動していたら母は疲労で死んでいた。神戸の大地震でも地震の後に疲労などで病気で900人くらい死んだというのもわかる。それにしてもあんなに人が移動するというのも信じられないことである。そしていつ帰れるかわからないというのも悲惨である。その怒りは頂点に達している。でも地元にも責任があるからがまんしているのだろう。


●放射能の風の影響


今回は放射能が30キロ圏外でも飯館村や福島市で南相馬市より高いシ-ベルトを示していることの原因である。天栄村でも牛肉から基準値より高い放射能が計測されたことに驚いた。郡山市でも南相馬市より数値が高い。これは風のせいだったのである。


東風(こち)ふかばにほひをこせよ梅の花 あるじなしとて春なわすれそ 菅原道真


今の時期はこの東風が浜通りでは海の方から吹いてくる。それと同時に春北風(はるきた)というのも吹いてくる。これが交互に吹いてくるのだ。丸森とか山を越えたところでも東風(こち)が吹いてくる。丸森だと山から吹いてくるのだが実際は海が近いから海から吹いてくるのだ。飯館村も標高が高い所にあり東風が吹いてくる。東南の風でもある。一方北風は北西の風は山から吹いてきて海に吹くから放射能は東南の風の影響を受けて飯館村や福島市に風で運ばれたのだ。南相馬市は北風が吹いて放射能は海に放散されたから低いレベルになった。今回は放射能は海の方へ流されたから陸地では少なかった。天栄村まで流されたとすると風の影響が大きいことがわかる。放射能は目に見えないから怖がらない人は全く怖がらないだろう。それで自分も怖がらないで外を自転車で出歩いていた。他の人は家にひきこもっていた。やはり事故当初は放射能が多く拡散されるから引きこもっていた方が良かった。30キロ圏外ということで安心していた。放射能については素人はわからないし学者でも御用学者が安全だ、安全だと言っても信用はできない、微量でも影響があるという学者もいる。原子力は安全だ、安全だとどれだけ言われてきたか、その安全神話が崩壊したからである。パニックになるから安全だ安全だといい、避難指示地域を広げないのは保証のコストがかかりすぎるからだというのがわかる。ともかく今回は福島県は特に浜通りから中通りは即命にかかわるから真剣になる。放射能の恐ろしさは人が住めなくなることである。すでに30キロ圏内の土地を国で買い取り特区にしてしまうとか遂に故郷に帰れない多数の難民が生まれてしまう悲劇である。
今や神話の村とかで飯館村を詩にしたりしたがそれが放射能汚染村になったことが信じられない、白が一転して真っ黒になってしまった。だから空気までも汚した原子力の恨みは大きい。
飯館村まで影響すると思った人はいないだろう。放射能は広範囲に影響するものだということを知るべきであった。

東風ふかば思いおこせよ放射能飯館村の恨み深しも


こんなふうな歴史を記すことになったことが信じられない、水も空気も特別きれいな所だとして行っていたからである。



牛乳から極めて微量の放射性物質 米カリフォルニア州

太平洋越えて風が運んだのか?放射能は遠くまで飛ぶんだよ、とんでもない遠くまで飛ぶ
天栄村の放射能測定は間違っていないのだろう

原発の被害を直接受けるのは責任をとらされるのは地元住民


原発の被害を直接受けるのは責任をとらされるのは地元住民

原発の下請け会社で働いていた人が浪江にいた。その人は原発は安全だ安全だと何度も言っていたし常に呪文のように東京電力でも安全だ安全だと言っていたし原発を推進してきたのは地元選出の国会議員だった。民主党が中心でもあった。共産党だけは批判していてその危険性を指摘していて文書も残されている。地震学者も貞観津波の例をひき何度も警告していたが東電はきかなかった。対称的に女川原発は津波を考慮して被害が大きかった女川でも地震と津波の影響はなかったし住民が避難所としても利用した。この相違は余りにも大きいのだ。地元でも確かに原発を推進する人が多かった。でもその責任は今や双葉町のように否応なくとらされている。浪江でも10キロ圏内であり利益を得た人も責任をとらされている。原子力はそこに住む住民が否応なく重い責任をとらされる。所払いとかの刑罰を受ける。長年親しんだ故郷に住めなくなるのだ。これほどの刑罰はない、重い責任はない、だから責任者は東電でも関係した人でも利権を得た人でも切腹でもしろとなる。そのくらいの覚悟をもってやるべきだったのが原発だったのである。住民は確かに原発を推進してもその責任を今回のように否応なくとらされるのだ。安全だ安全だと呪文のように説きふせられて軽く考え容認してもその重い責任を住民はとらされる。浪江の人はやはり住めなくなる責任をとらされる結果になった。そして自分のしたことを反省しているし住民も原発の恐ろしさを知り反省している。でも原発は今反省しても時すでに遅しなのである。もうその土地には何十年と住めなくなる。立入禁止区域として国が管理することになる恐ろしい刑罰を受けるのだ。簡単に帰れるということは甘いのだろう。放射能は簡単に消えないものだからである。


水循環→蒸気→圧力上昇→圧力を逃がす→放射能を閉じ込める箱の限界→放射能流出→でも温度は下がらないと悪夢のラビリンスが良く理解出来ます
(東京に原発を-広瀬隆)


すでに事故は専門家により指摘されていた。ありえない予言ではない、科学的根拠にもとづくものであり予想されたものであった。それをしなかったのだから東電の責任は重いのである。
もちろん推進してきた議員やら利権にかかわった人や地元の人にも責任はある。でも地元の人は今回のように重い責任を否応なくとらされるのだ。東電の指導者はそういうことがない、だから切腹ものだとなる。危険な現場で上層部が率先して指導して放射能を浴びろとなる。それが責任を果たすことである。それほどに原発は放射能は危険なものだった。その危険な認識が住民には欠落していた。むずかしいものだから安全だ安全だと専門家に何度も言われマスコミにも広告費を払うから事故後も安全だ安全だ、放射能は害がないと御用学者に言わせるのだ。実際は東電はずさんな会社であり一番危険な放射能を扱う会社とは思えないずさんさがあった。事故が起こった場合住民をどうするのですか?と質問すらできなかった。住民のことなど考えていなかった。住民もまた原発は金になるものとして歓迎していた。でも地元の住民はその重い責任を今とらされていることが違っている。要するに今や原発のために受難の民となっている感じなのだ。地元に帰れず他国で生活をせざるをえなくなった故郷喪失者の大群となってしまった。これも津波被害と同じように信じられないことだった。流浪の民となってしまうかもしれない、そうした不安で一杯にしてしまった恐ろしさである。


そして原発の事故の影響は30キロ圏内に留まらないこともわかった。外国までも影響するのが原発事故である。放射能は世界中に拡散される。そんな危険なものを扱うのには東電はずさんすぎたのである。リスクマネジメントに欠けていた。その弱点を明確に指摘されていたのに実行しなかった。そして大事故になった。その事故は取り返しのつかないものだった。それは天災ではなく人災だった。今回の大津波も天災だったが人災の面もあった。貞観津波があり千年に一度起こる自然の大きな時間のスケ-ルで起きたものでありそのスケ-ルの大きさに対処できなかった。相馬でも貞観津波の時今の海岸から奥深くまで津波がきていた、その証拠も見つかっていた。千年に一度とかなると誰ももはや危険を感じなくなる。だからこの辺で津波について語られることもなかった。三陸では被害があったから語られたが仙台から名取、相馬では語られていない、でも千年に一度でも起きたら悲惨だし災害は起きるということである。青松白砂という景色は人間が作った人工景観の美である。つまり海であったところを干拓してできた田の塩害などを防ぐために松原は作られた。その人工的に作られた田や海岸の村落が根こそぎ津波で破滅させられて元の自然の海に一時期戻ってしまった驚きがある。人間は自然に逆らい無理して住む場所を拡大化してきた。それが自然によって復讐されたから人災だったとなる。

本来海沿いから離れて住み高台に住んでいた。それが田を作ることで無理をしたのである。田を作ることも自然破壊でありそれが津波により元の自然状態に戻されてしまった。こう考えると神戸大地震のよう都市はいかに危険な場所かわかる。全く自然に逆らい作った人工都市が東京のような大都会だから一旦このような大地震や津波が来たら一溜まりもない、破滅の断末魔が待っている。なぜそんな危険な所に住んでいたのかと信じられない被害の後に語られることは指摘されることは確かである。東京でも未曾有の災害が待っているということである。

災害は明かに未然に防げるものであり人災の面も大きいのである。千年に一度でも起こることは起こるから警戒しなければならなかった。それをしなかったのだから人災だった。それは自然の調和を乱した人間の自然の復讐であり警告でもあった。それに従わずに地震や津波を甘くみた東電の罪はあまりにおおきすぎるので切腹ものなのである。塗炭の苦しみを住民が背負わざるをえなくなったからである。まさしく突然受難の民になってしまったのである。


陸奥の古代にも巨大津波の記録
http://www.musubu.jp/jijimondai25.htm#suma

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2011年04月02日

八沢浦が元の美しい入江に戻った!(南相馬市鹿島区の津波の被害写真)



八沢浦が元の美しい入江に戻った!
(南相馬市鹿島区の津波の被害写真)


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美しい八沢浦に戻った!
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ヤ沢浦干拓の記念碑が倒れる

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明治に干拓された八沢浦の記念碑が倒されていた

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高台の中間地点まで津波が来た



海老村は壊滅

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坂を下った六号線(小島田)に流れ着いたもの(烏崎からのもの)
港があった烏崎は壊滅した

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今回の大津波は八沢浦を元の風景に戻したし縄文海進の時代に逆戻りした。八沢浦は明治になってから干拓されたのであり江戸時代は浦だった。その浦に戻った不思議がある。一般的に津波の後は瓦礫の山になっているがここは家も少ないから潮水が大量に入りこみ美しい入江の風景に戻った。前から海が入り込んで湿地帯だったということを書いてきたし八沢浦は元の状態になったらどれだけ美しいかと書いてきたがそれが現実になった驚きがある。確かに人が多数死んだからそんなこと言っていられないということもあるがここは瓦礫の山ではない、美しい自然の風景を一時的でも現実になった驚きがある。思うに陸前高田市とか三陸沿岸の入江はみんな元は海が入り込んでいた。平地には海だった。その平地に街を作った。そこは津波になったら海になるところだった。そういうところに街を作ること自体、自然に逆らった街作りであり今回の大津波で全滅した。高台の家だけが残った。自然の地形に沿って自然に逆らわず生きていればこうはならなかった。


太平洋沿岸でも仙台平野でも福島県の浜通りでもそもそも海をだったところを埋め立て田を作ってきたところであり右田の松原も塩害を防ぐものとしてあった。もともとそこは何もなかった砂浜だった。松原は人間の手で作った人工の自然だった。それが根こそぎ喪失したのである。元の自然の状態に戻ったのである。津波は確かに悲惨だったがこんな風景を生きてみること自体ありえないことであり驚きだった。人生でこれほど驚いたことはない、信じられないことだった。

確かに街などが全滅して悲惨な光景となっているが八沢浦などは瓦礫の山はなく美しい元の自然の風景になっている。それを生きてる内にこの目で見ることができたということは信じられないとなる。八沢浦はもともと家が少ないから被害が少ない、海老村は壊滅した。烏崎村も壊滅した。沿岸はどこも壊滅状態である。津波の潮水は鹿島小学校の前まで来ている。海から約3キロも入っている。そこまでは昔は海だった。古代の真野の入江は塩崎(しおのさき)まで来ていたことを書いてきたが実際に船着という地名の残っているすぐ近くまで来ていたことに驚きである。船は烏崎から津波で流されて6号線まで来ていた驚きである。


今回は風景を変えてしまった。右田の松原は喪失して名残りの松が何本か残されただけである。陸前高田では一本だけ松が奇跡のように残った。いたるところで松も根こそぎ津波に倒され流された。しかし松も流されずに残ったものがかなりありそれが一つの伝説と名所になった不思議がある。いたるところに伝説を後世に残す物語を作り出したのである。写真はやはり部分的に見てもわからない、地図と照らし合わせて見る必要がある。これはやはりそこに住んだ人でないとわかりにくいのだ。

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2011年04月03日

地形により津波の大きさは違っていた(相馬市の磯部村の全滅の原因)


地形により津波の大きさは違っていた(相馬市の磯部村の全滅の原因)

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磯部村

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打ち上げられた蛸



松川浦

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今回の大津波はこの辺では経験したことがない、三陸では38メ-トルまで津波が上がってきた。狭い山の狭間を津波が上った。津波は地形によって変化する。松島は1、5メ-トルしかなかった。島が防波堤の役目をした。だから田老のような10メ-トルの防波堤が無駄だったとはいえない、衝撃をやわらげた。津波の衝撃はすさまじいからだ。この辺でも海老村の坂を上り八沢浦にでるところの崖を津波がぶつかりその上の家を押し流した。津波は最初にぶつかるとこす海岸に一番近いところが衝撃が強い海老村は右田村より高いのに壊滅した。あの高さでも海に面したところでは相当高くなっていたのだ。だから磯部村のような海岸に接していて何も前に障害物なかったところはひとたまりもない、全滅した。磯部村は150所帯くらいあったが全滅した。空から見るとそこはもともと砂州だったことがわかった。原始の地形は砂州でありそこに部落を作ったのだ。今回の津波で原始の地形がリアルに再現された。松川浦は相当に広い浦だった。

松川浦の浦に面している旅館街は家はまだ残っていた。山の裏側の海水浴場の原釜はまともに津波を受けて全壊の家が集中した。さらに水がたまっているところも家がのきなみ津波で全壊した。津波は場所によって被害が違ってくる。それは地形によっていたのだ。

いづれにしろ今回の津波で人命を多数失ったが原始の自然状態が再現されたことは驚きだった。奇跡的だった。地形からしたら砂州のような所に大きな村を作るべきではなかった。でも干拓して田を作っているうち原始の状態は失われた。そしてその危険性に気づかなかったのである。磯部村は北海道のような砂に埋もれた海岸になった驚きである。そこに名残りの松が一本残っていた。よく津波に耐えたものである。本当に不思議な光景でありこんなことがありうるのかとただただ驚きだったのが今回の津波だった。


空中動画
http://tohoku-help-info.seesaa.net/category/9887840-1.html

ここで映像を分析した

posted by 老鶯 at 23:31| Comment(0) | TrackBack(0) | 時事問題の深層

2011年04月04日

芽吹き(人間は住んでいる土地を簡単に離れられない-原子力事故の恐怖)


芽吹き(人間は住んでいる土地を簡単に離れられない)

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ふるさとや地割れに根を張り芽吹きかな


水仙の石に向きつつ今日も咲く


水仙や余震静まれ石に向く

今起きていることこれは異常である。あまりの激動でありどう対処していいかもわからない、地震でいたるところ地割れして津波の被害は甚大でありそれに加えて放射能である。これをもうどう理解していいかわからない、退避しろと言われても病人とか介護している人とか簡単に退避できない、それで20キロから30キロの屋内退避の人も帰ってきている。一か月とかそんなに長くいられるところはない、他の地域でもそんなに長く世話することは重荷になる。20キロ以内は立ち入り禁止だからしょうがない、牛と馬が道を歩いていた。人影はなくゴ-ストタウンになっている。突然こんな急激な変化を受け入れられない、津波にしてもあまりに急激なことで逃げられず死んだ人が多数いた。放射能ではすぐに死ぬことはないし怖がらない人は怖がらない、怖がる人は無闇に怖がる。もうどうなってしまったのかわからない、放射能はいくら説明されてもわかりにくい、ガンになるのも5年10年後ではぴんとこない、今日は余震は収まってきているみたいだ。ず-と大地はゆれていた。


ここ五年間で経験したことはあまりの激動だった。認知症から自分の病気から犯罪の被害から人への裏切り不信がつのり今度は最悪の状態になったから信じられない、世の終わりだとも真剣に思ったしそういうことをリアルに感じた。地割れはまさに人と人とが信じ合いなくなることである。自然もまた酷かった。これは天罰だとか神の最後の審判とか現実的に思った。一挙に何万人も死ぬ世界が現実に身近にありえた。そして終末的なのは原子力事故であり放射能でありそれが身近に起こった。自分もその犠牲になるという恐怖である。すべて悪夢でありそれがふるさとに起こったことが信じられない、もはや故郷に住んでいられない、農業や漁業は放射能の影響もあり壊滅的である。市役所から土を耕さないようにしてくださいとか言われるのも信じられない、今や空気や水や土が汚されそれを取り戻すことが生きることにもなる。故郷がそんな世界になること自体、終末的黙示録的である。世の終わりが本当に来る・・・そういうことがリアルに感じたのだ。


いづれにしろ未だ生活は異常である。でも20キロから30キロの屋内退避でも人が戻ってきている。ガソリンはゆきわたるようになっている。車も増えた、店も開く所が多くなった。ただ20キロ圏内はゴ-ストタウンである。簡単に人は移動できない、一か月も簡単に退避できない、世話するところでもそうである。だから帰る人が増えた。遊牧民のように簡単に移れない、農業が基盤の社会であり大地に根づくように暮らしていた人々が簡単に移住はできない、高齢者が多いから特にそうなる。高齢者はもう動けないのだ。60才以上でもそうである。移住することはむずかしい。いかに原子力事故が故郷やその土地の人にとって危険なものであり甚大な被害を与えるか真剣に考えなかった。金になるとしか考えなかった罰が与えられている。今度のことはこれまでかかえたことが集約的に現実化したものだった。現代がかかえる問題、文明の限界が天からの警告を受けたということも確かである。文明の崩壊を現実として示されたの。ガソリンがない車が使えない、電気がない、電気がないから原子力だというがそれが危険極まりないものを作り出したのだ。文明的便利な生活への警告だった。自然は天は神は警告を与えたのだ。そんな人間の生活を許さない、文明は自然を汚すものでありそれが罰せられたのかもしれない、今度は大都会に未曾有の災害が襲う、それはまさに世の終わりになるような災害である。それはもう明確に見えたのが今度の大災害である、天災であり原子力の人災であった。


こんなとき作る俳句や短歌も異常である。でも今回の津波や原子力事故でいたるところに物語が生まれてしまった。文学的なテ-マがそこにいくらでも生まれた。こういう激動を経験するとは思わなかった。千年に一度起こる大地震と津波を経験したのだ。団塊の世代は経済の繁栄を経験しても戦争とかも経験していないし恵まれていた。しかし今や国難というようにこれからは本当に生きること自体が苦しい時代である。でもそれは新し未来がこの激動から見えてくる、起きてくるということにもなる。

2011年04月07日

八沢浦は八つの浦のことだった!(津波で元の海にかえった) 八沢浦は八つの浦のことだった!(津波で元の海にかえった)


 

八沢浦は八つの浦のことだった!(津波で元の海にかえった)


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八沢浦の一つ(八つの浦の一つ)


●もともと海であり湿地帯の田は津波で海にかえった

八沢浦の名前は八つの浦があったからであった。回りに浦が入りこんんでいた丁度八つが浦になっていた。そこも田になったがその浦まで今回の津波で海水が入り込んだ。ええ、こんな奥まで海になっていたことに驚いた。日本海にある深い入江になっていた。前にもそのことを予想したことを図解したがその通りになった。八沢浦は思った以上一杯の海水にひたされた。奥の方まで相当奥まで海水が入り込んでいた。だからそきままだったら本当に美しい日本海のような入江になっていた。そして今まで注目していなかったが八沢浦は実は浦が回りに入り込んで八つの浦があった。その浦も海水が入り込んだ。その浦は奥になると高くなっているからその高いところは早くから田になっていたのかもしれない、つまり八つの浦の方に明治に干拓される前に人が住んでいた。それで八沢浦という地名は江戸時代からあった。地名にはその土地に根ざした古い根拠がある。そして今度津波や地震の被害が大きかったのは江戸時代であれ海岸の干拓されたような土地に集中している。千葉県の浦安の液状化した地域ももともと干拓された海岸の砂地であり沼地だったからである。日本はそもそも国土が狭いからもともと自然的条件の悪い所に田を作り住居を拡大化した。つまり自然条件に逆らい無理な開拓をしてきたのだ。それが今回の津波で大被害になった。

行方郡金沢村も古は大沼あり元禄15年に干拓して田地とした。
宇多郡程田村に山田の堤ができたがこれは大恚v芳が農民の用水に苦しむのを見て山田に土手を築き程田、神田、柏崎の三村を灌漑したものである。


こういう海側へ干拓したところは今回の津波で海に還ったのである。

●千年に一回来る津波に対処できなかった浜通り


八沢浦は海岸に接して三軒くらいしか家がないから被害が少なかった。もともと海だった所にも一軒くらいしか家がなかった。浸水しても家そのものは破壊されなかった。でも海老村とか烏崎村は海岸に接して集落化していたから壊滅した。不思議なのはなぜ日本人は海岸にじかに接して住んで津波の危険を考慮しなかったのか?三陸では津波があったが福島県浜通りとか宮城県から名取から相馬までの海岸線では大きな津波は起きていなかった。貞観津波は千年前の話だから実感がない、津波は来ないものと安心していたのである。相馬でも今回の津波は同じように相当奥まで津波は来ていたし今回の津波で実証された。千年に一回来るような地震とか津波は想定外になり油断になり今回の悲劇となった。自然のスケ-ルはそれだけ大きく人間の時間のスケ-ルと違っていた。人間の時間のスケ-ルは小さすぎるのだ。一年刻みであり百年後まで考える人もいない、それが悲劇を生んだのである。青松白砂の風景は人工的なものでありそれが日本の美となっていた。そこは開拓して塩害を防ぐために作られた危険な場所だったという認識をもつものはいない、それが今回の津波で一挙に破壊され原始状態に戻った驚きがあった。海側への開拓は危険なものだった。人間は縄文時代でも危険な場所には住まない、高台に住んでいた。ところが田を作るようになってからもともと海だったところまで住むようになったのである。八沢浦はあそこが元の入江に戻ったらどれだけ美しいとか書いてきたが今は水が引いてしまってない、写真をとったときええ、海水に満たされていたことに驚いた。
そして水が引いたあとに行ってみたら残雪の蔵王が眩しく光り見えた。それはやはり八沢浦八景の歌はここの実景を元に作られたと思った。


●八沢八景の歌はぴったりの歌だった


遠山の暮雪 高瀬さす八沢が浦の夕波に色を乱せる雪の遠山

雪の遠山とは蔵王しかない、八沢浦から蔵王がはっきりと見えるからだ。夕波というのもぴったりなのである。

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八沢浦の夜雨    磯桜八沢が浦の夜の雨に浪のうきねを明かしかねつつ


長岩の晴嵐     雲晴れて入日移らふ長岩の松にしぐれを誘ふ浦風

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これが長岩か


わざわざ磯桜として浪のうきねというのも浦にふさわしい。旅してきたとき何か心も落ち着かなく浪がゆれた感じになっていることを経験している。この歌はかなりいい歌だったこともわかった。旅しているとなかなか眠れないことがあるからだ。これは明かに旅人の歌なのである。
京都から旅してきたとすれば旅人だからこういう感じはわかる。長岩というのは今も海だったころ露出した岩かもしれない、いづれにしろ信憑がある歌だったとなる。

(八沢浦が元の美しい入江に戻った!)-写真
http://musubu.sblo.jp/article/44114737.html

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南相馬市原町区の北原や小浜の被害写真(20キロ内の立ち入り禁止地域へ)


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兵庫からのボランティア

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一番高い所にも津波が

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坂を上りきって下る所-右側が小浜の部落


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磐城大田の海を望む

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江戸時代の古い碑があった(この下は小浜部落)

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南相馬市原町区の北原や小浜の被害写真(20キロ内の立ち入り禁止地域へ)

今日は南相馬市の北原地区を回り海沿いを太田川が海にそそぐ小浜という村を回って20キロ の禁止区域の所まで行ってきた。ここはまだ原町区内であり小高区ではなかった。磐城太田駅がある地域だった。太田神社のある所であり太田川が海に注ぐ地域だった。北原で兵庫県から来たというボランティアの人が一人で泥を掘り返していた。はなまるホ-ムとあるから福祉関係の仕事の人なのだろう。ホ-ムペ-ジに兵庫県とでていたからそこのホ-ムの人なのか?
兵庫県というと神戸があるから震災の被害には同情するのである。ともかく全国から支援の人が入ってきている。

かなりの坂を上ってゆくがその坂の頂上まで津波が来たことに驚く。テレビで見ただけではこの高さがわかりにくいのだ。その高さにびっくりするだろう。こんなに高い所まで来たのかと信じられないのである。高台には松が残っていた。高台だからこそ残ったのである。その坂を越えて下ると磐城太田地域であり防波堤は崩れ海が入りこんでいた。津波が越えた崖の下は「小浜」という村だった。江戸時代の碑があったから古い部落である。ここで土地の人がいて聞いたら6人死んだという、死体を探している小沢地域では多く死んだらしい。小浜地区は直接海に面していないから被害が少ないと思ったが6人死んだ。やはり高く津波が来たので被害があった。


今日NHKで写していた白い防護服の人がこの地域で小沢地域で死体探しをするのを放送していた。小浜地域は坂を下りたところでありその向こうが小沢地域だった。そこは確かに20キロ圏内であり立ち入り禁止地域になっている。なぜそこでも白い防護服を着ているのか、そんなに放射能が危険なのか?あれを見たらいかにも放射能が強く危険だということを示している。でも車で来た人もいる、土浦の人とボランティアの兵庫の人は阿武隈高原の方を遠回りして来た。その人たちはマスクもしていない、仙台から来た人もマスクをしていない、放射能は別に恐れなければ恐れることはない、原子力発電所内で作業するのとは違っている。なのになぜあんなに白い防護服を着て死体探しをしているのおそらくそういう決まりだからそうしているだけなのだろう。そんなに危険だとは思えないのだ。

南相馬市の原町区は自主避難地域であるからややこしい。一度避難した人も長く避難所にいられないので帰ってきている。知人の夫婦は帰っていくが孫は学校に行けないということで避難している親戚の家からその土地の学校に通うそうである。だから両親は残っている。孫の夫婦はのこらざるをえない、でもその妻の夫は原子力発電所のある大熊のス-パ-で働いていたのである。その職も失った。今原町区で問題のはこうして職を失った人が多いことである。これは他の津波被害にあったところでも同じである。特に放射能の被害にあった地域はさらにひどいことになっているのだ。仕事がなければ住めなくなるのだ。そして小高区は立ち入り禁止であり小高区から原町区に避難して来た人がある。ホテルをもっていたので原町区に移った。でもそこも30キロ圏内であり30キロ圏内は避難指示にするという方針だと政府で言っている。とするとそこにも住めなくなるかもしれない、自分の住んでいるところは30キロから2キロ離れているにすぎない、避難地域を50キロまで延長するとも言っていたからそうなると本当に困る。人間長く住んでいたところに住めなくなるほど苦しいことはない、そんなことがありうるのかと今度の原子力事故でつくづく思った。チェルノブエリでは確かに30キロ圏内は立ち入り禁止となった。ここもそうなってしまうのではないかと浪江の人がテレビで言っていた。これは本当に深刻な問題である。
人間そんな簡単に今まで長く住んでいたところから移り住めないからだ。茨城県に移った人は住宅を与えられて中国人がいなくなった農家で農作業をして金を稼いでいる。中国人までいなくなるのか?中国人も放射能を恐れるのか、中国ではもっとひどい汚染がある地域がある。その中国人まで逃げているということがわからない、風評被害としか思えないのだ。

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2011年04月09日

椿(南相馬市原町区小浜村を津波のあとに訪ねて)


南相馬市原町区小浜村を津波のあとに訪ねて

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白木蓮蕾ふくらむ太平洋


海よりそ椿百輪そよぐ風


海岸の高きに松は七八本残り鶯なきそめにけり


近く住み小浜は知らじ古き碑のここにもありて津波にのまれぬ


古き碑や津波の後に残る松小浜村のここにありしも


南相馬市小浜村は江戸時代からあったことが碑を見てわかった。寛永 (1624-1644) とあったからかなり古い村だったことがわかる。あそこにはずっと行っていなかった。普通の生活が全く失われた。今までの日常生活が断たれることにとまどう。津波がなければ原子力の事故がなければ平和な村としてあった。そこに平和な詩が生まれた。そのギャップが大きいのでこうして今までのように書けないのである。津波がきてここにあった三本の松が必死に大地にしがみついて根を張り残った姿がまさに如実に示している。津波の猛威がどれほどのものだったか、ただ無傷で残った松もあった。高台の松は比較的残っていた。陸前高田で一本だけ松が残った、奇跡のように残ったと報道されたが今回の津波で様々な松の物語が生まれたのである。海岸の高台では松が残り鶯が鳴いていた。小浜村は山陰に隠れるようにあり隠れ里のような所だった。近くでも知らない村がある。それにしても向かいの小沢地域を白い防護服の警察官が死体を探しているのは異様である。ここは丁度20キロ内で立入禁止になっている。

どうしても平和なときと一転しして変わってしまった平和な時とのギャップが大きすぎてとまどう。普通に田畑を耕して農作業をして漁港があり漁をしていたことがあるとき消失することが信じられないのである。働く場を失うこと自体深刻なことはない、農民や漁民が一体どこに移動して仕事するのだろうとなる。ただ今回のことはいろいろな前からあった問題点を浮き彫りにした。

死んだ人は78割は高齢者だった。60才以上がいかに多いか、これも現代の縮図だった。農家でも60才以上の人がになっている。だからその打撃も多いしもうやっていられないという人もででくる。農業や漁業の後継者がいないということもあった。この辺でも原子力関係で働く人は少なくとも火力発電所に津波で千人取り残されていると聞いて驚いた。そんなに人がいたのかとそれだけの人の雇用がある。農業の比重は収入でも相対的に低くなっている。漁業関連の団体の人が漁業を馬鹿にするなよと東電の会長に言ったときそのことを象徴している。東電のような電力事業の方が雇用でも社会で果たす役割もずっと大きくなっているからこそそうなる。


津軽方面では深浦の椿崎、小湊の椿山などがめずらしいものに伝えられる。後者は近年の保存方法によりて天然記念物として指定されたがこれらが天ねであるかどうかはすでに解決した問題ではない・・・・・南人が北の国に入って来るのに、その習俗、信仰とともにかつて崇敬する植物の種をたずさえ適地を求めてこれを養育したことは決して五穀実用のものとは限らなかった。椿もまた特別の樹木の一つとして社に植え家に移し園芸の先駆を成したように、若狭の八百比丘尼のごときの伝道者が手にもつ花の枝も椿であった。(柳田国男全集二巻)


南相馬市鹿島区の南限の地としてマルハシャリンバイがあるがこれは自生したものだが椿の場合は違っていた。人が移住してもたらされたものである。人が移住してもたらされたものが園芸種で膨大になったのと同じである。青森というと相当に寒い地域でありそこに自生するということは無理だったことは容易に想像できるからだ。椿は南国産でありもともと海沿いに咲くのに向いていたのだ。潮風、海の風が吹いている海に向いて咲く花にふさわしいかった。


いづれにしろ今回のような大津波やら原子力事故やらとなると平和時の営みができなくなる。普通に行われていた農作業すらできていないと同じように学問とか芸術とかそうしたことをつづけることも影響が大きいのだ。そもそも人がすめなくなったら郷土史も喪失する。そこでの歴史が断たれることになる。だからこそ原子力事故の放射能問題は余りにも深刻だった。故郷に住めなくなる。そして移住した人たちがどうなるのか?ちりぢりばらばらになり相馬の歴史も失われる。まるで世界を彷徨うユダヤ人みたくなってしまうのだろうか?そうした信じられない動乱のなかにありこういうところでは落ち着いて学問とか芸術とかの探求はしにくい、そんなことやっていられるのか、体育館で避難生活している人のことを考えてみろとか津波の被害にあった人のことをどう思っているんだとかなる。これは東北以外でも自粛となっているからにたところがある。

違うのは被害を受けている当事者というのは他者から見て面白がることなどできない、放射能問題にしても自分が住んでいる大地が汚され空気が汚され水が飲めなくなくなるということは日々の生活ができなくなる。当たり前の生活ができなくなった衝撃は大きすぎるのだ。その現実が重すぎるのである。毎日自分の体に針が刺されるようにじかに痛みを感じるから苦しいとなるのだ。だからこうなると空気も水も汚されているようなところには住みたくないとなる。実際にこれほど深刻なことはなかった。空気が汚されているまともに空気も吸いなくなると思いもよらなかった。そんなことがあるのか?実際にあった。それが信じられないのである。


元のきれいな空気を返せ
水をかえせ
土を返せ
・・・・・・


こんなふうに叫ばねばならなくなるとは思いもよらなかったのでありこれ以上深刻な問題はないのである。まともに呼吸できないほど苦しいことはないのである。そうはいっても放射能は目に見えないから風景は元のきれいなままなのである。だから放射能を気にしなければ風も空気も汚れたものと感じないのである。煙も出ないし何か汚れを直接感じないからである。だから海に映える椿も美しさは変わっていない、でも津波の被害の跡を見れば地獄になっているのだ。


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これは松の樹だったのだろう。津波に耐えて必死に大地に根を張り残っている。いかに津波が激しいものだったか
如実に物語っている。こうしてなんとか耐えた姿は痛々しい、ここにまた人は放射能でも住んでいけるのだろうか?
簡単に長く住んだ土地を離れることはむずかしい。先祖代々いた土地を離れたくないというのが農家の人がみんな言っていたことがわかる。
この松の樹のようにしがみついて根を張り離れられないのだ。


 

2011年04月10日

大津波の後(無情の短歌)


大津波の後(無情の短歌)

大津波妻の命を奪いしもなお住みつづけむ故郷なれば


大津波無情に奪いし命かもあまたの霊の海に浮かびぬ


妻と子と親を奪いし大津波その慟哭のやまざりしかも


今日もまた津波のあとの荒寥と死体を探す消防隊員


累々と屍のごとく家々の残骸無惨大津波のあと


津波来て生死を別つその話語られあまた忘れざるかも


身一つにからがら逃げてその話大津波の恐怖消えじも


大津波の無念無数に生き残る人の話の語り尽きじも


大津波のみこむ命数知れじ千年後まで叫びつづけむ


人作る防潮堤の今にしておもちゃのごとし津波の驚異


一瞬に家も家族も失えるこの世に生きるは悪夢なりしも


千年前大津波ありと語りたる学者の言うは誠なりしも


想定をはるかに越えて大津波人のおごりを打ち砕くかも


無惨なり瓦礫の山より思い出の品を探すやあわれなるかも


行方不明なお三〇人と軽く言うかく人命も軽きものかな


今日もまた瓦礫の山の道を行く津波の爪痕心に刻みぬ


凄まじき津波の跡の延々と東北沿岸無情極まる



今回の津波は実際にその被害の場に立ってみると実感する。一番驚くのはこんなに高く津波が来たのかということである。その高さの感覚はテレビで見てもわからない、実際に見ないとその場に立たないとわからないことがある。こんなにひどいものかというのはやはりその場に立たないとわからない、こんなことになるとは思いもよらなかった。戦争と同じだった。これほどの人間が一瞬に津波にのまれて死ぬということが信じられない、人の命も戦争のとき短歌にした人がいたがこれほど軽いものかとなる。延々と90過ぎても介護されて大事にされている時代である。そういう時代に一瞬にして人の命を無情に無数に死にいたらしめた。これほど人間は簡単に大量に死ぬものかと思う、石油がなくて焼くこともできず土葬にして埋める。その光景は戦争で死んでゆく人と同じである。これは千年に一回のできごとでも子々孫々に語られつづける。
その話も無数にあり語り尽くせない、その涙も尽きることがない、こんなことが実際にあるということ、原発事故とともに今起きていることが何なのか今理解することはむずかしい。人類の滅亡なのか、その場に立ちあっいるのかとも思う。自然の力は人間の想定をはるかに越えている。
人間の奢りは打ち砕かれた。原発も人間の奢りの結果でありそれも打ち砕かれた。この惨禍は人類の滅亡の前兆なのかもしれない、それほどに地獄絵図だったのである。

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2011年04月12日

放射線の一番高い場所

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放射線の一番高い場所

安全委によると、現時点の線量が続くと仮定した場合、椚平では東日本大震災発生から1年が経過する来年3月11日には313.9ミリシーベルトに達すると推計。健康に影響を与える可能性が高まるとされる100ミリシーベルトを上回る。


放射線は地域によって差がある。計画的避難地域に指定されたのが飯館村全村と川俣村の一部と南相馬市の一部である。これをどう計算したのか?一番放射線が強いのは赤字木(あこうぎ)椚平(くぬぎだいら)だった。ここに近い領域は計画的避難地域に指定された。飯館村の長泥も高いから最初から放射能が高い地域として注目されていた。でも放射線は一様に高いとは限らない、まだらに分布している。風の関係でこんなところに放射能が集中した。飯館村の長泥(ながとろ)はここから近いから高かった。しかし飯館村にしても相当に広い領域だからすべてが放射能が高いとは限らない、風の関係で飯館村の一部が高いことは確かである。それにしてもこんな山奥が放射能騒ぎで住めなくなるということが信じられない、桃源郷だなどと詩にしていた地域である。桃源郷に忘れられたような山奥に放射能をあびる。


これであまりにもイメ-ジが破壊されたから信じられないのだ。放射能の不思議はそれによってすぐに草が枯れたり木が枯れたり花が咲かなくなったり実がならなくなったりしないのである。もし草木も放射能をあびて枯れて荒野のようになるなら放射能の怖さは一目瞭然である。でも放射能をあびたからとすぐに植物が成長しなくなったり奇形になったり枯れたりはしない、だから放射能を危険と感じないしそこに暮らしていても別に今は何も感じないでいられる、おそらく普通に暮らしていてもわからないから病気になったり奇形の子供が生まれたり何かそうした症状が現れない限り放射能のことはわからないのだ。いくら危険だといってもわからない人にはわからないし自分の長年慣れ親しんで住んだ場所を離れたくないという人はでてくる。実害をすぐに感じないからである。五年後10年後癌になるよと言っても危険を感じない人は感じない、むしろ長年住んだ場所を離れることの方が苦痛の人が多い。村を離れたら村は終わりだと嘆いていた人がいるけど本当である。

村が街が消滅することが信じられないのだ。津波でも街は壊滅した。これも信じられないことだった。放射能のために街がゴ-ストタウンになることも信じられないことだった。あの辺は自転車で行ったことがある。その道の塩浸(しおびで)は塩を運んでいた川に塩を落とした場所というから塩の道だった。津島も三春に近い奥深い場所である。
そんな場所が放射能が一番高い所として避難せねばならないというのが信じられない、何故なら浪江の街に住んでいる人は最初津島の方に移動した。距離的換算して原発から離れたところがいいと思ったからである。でも実際は一番放射能が高いところに逃げてしまったのである。その後また相馬市の方に移った。


ともかく放射能騒ぎにはうんざりした。地震も余震も毎日起きていて落ち着かない、こんなことではまともな生活はできない、落ち着かないのだ。本当に原発をねらって地震兵器で攻撃しているのかとさえ思う。今度の地震の狙いは福島の原発だったともなる。イワキで強い余震が起きているのはそのためなのかとさえ思ってしまう。つまり原発を攻撃すればこれだけ恐るべきことになることが証明された。原発をもっていること自体危険極まりないことなのだ。ここがねらわれたら人類滅亡にもなる。その核燃料は広島の千倍以上だとかこれが放射線をばらまいたら世界の終わりだとかなる。それほど原子力は恐ろしいものだった。余りにも原子力に無知だったのである。放射能は海も空気も水も土も草木も全部汚染するから怖いのである。そして人が住めなくなるということこそ大きな被害はないのだ。でも目に見えないからその怖さを認識できないのである。それでチェルノブエリでも近くで農民が野菜を作り食べて今も生活している。それはそこを離れることができないからである。そしてその被害の結果が出るのは随分先だから怖さを知らずに当分は生きられるのだから逃げねばならないという強い意識は生まれない。
それがまた放射能の怖さだとなる。ともかく毎日地震だ、放射能だ、避難地域がどうだとか落ち着かない、それでここに住んでいること自体嫌になってしまうのである。こんなことがつづいていたら心身が疲れてしまう。特に放射能だけはどうにもならない、どうしていいかわからないからだ。

 


 

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2011年04月13日

春の月(原子力事故で避難した人が帰ってきている)

 

避難して帰れる人や春の月

避難せずに我が家すみぬ春の月


ようやくに開きし店や春の月


南相馬市の原町区でも相当避難所から帰っている。全国に避難したことには驚いた。広島まで避難して生活保護申請しているとかの人もいる。広島は原爆の被害者だから同情する。娘とか息子を頼り各地に避難した人も多い。でも一か月ともなると疲れるから帰ってきている人が多くなった。原町区がある程度正常化すると南相馬市で暮らすのは楽になる。原町区が今までのように避難して人がいなくなれば南相馬市はもはや市として機能しなくなる。小高区は立ち入り禁止地域となり市自体が小さくなったからだ。今度は計画的避難地域が設定された。それは赤字木(あこうぎ)椚平(くぬぎだいら)が一番放射線が多いからそこから南相馬市の山の方が計画的避難地域に入る。そこは人が住んでいるのがまれだからほとんど影響しないだろう。
でもあそこにも人は住んでいる、飯館村では全村が計画的避難地域に指定されたから一か月以内に避難しなければならない、これも不運だったというか辛いことである。山木屋も川俣だが避難地域になった。あんなところが放射能のために移住せねばならないとは思いもよらなかっただろう。


やはり店が開きはじめると元にもどってきたようになる。六号線のホテルのメヒコでは350円のポ-クカレ-を災害のために出している。高見のビジネスホテル内のレストランでも開いていた。道の駅はまだ開いていない、チェ-ン店は大きな所は開いていない、鹿島区から大木戸の方にでていたバスは鹿島から買物に行くのではなく原町から鹿島のス-パ-キクチに買物に来るバスだった。いつも混んでいるから原町から買物に来ていたのである。原町は人口が多いのだか当然混むようになる。ともかく避難して帰って来た人が多い、その人たちはほっとしているだろう。それで今日は春の月が出ていた。20キロ圏内はもう帰れないとなると悲惨である。60才以上とかなるとなかなか他に移り住むことがむずかしいだろう。農業だって60才以上だとあきらめる人もでてくる。


南相馬両市の一部地域、いわき市については全体について、避難準備区域の指定から外れ、屋内退避指示も解除される見通しだ。

「緊急時避難準備区域」とされた地域と南相馬市でも一部それも解除される地域がでてきた。南相馬市長は前よりは楽になったと言っていた。元の生活に戻しやすいということは確かである。でも全部元のままに復旧することはできない、それでも原町区でもなんとか生活ができると思う人は増えてくる。人間は生活の拠点を簡単には移せないのだ。このまま自宅退避地域に指定されていたら南相馬市は消滅して相馬市に合併されていたろう。すると鹿島区などは不便になる。でもすべてが解決したわけではない、不安定な状態はつづくし何か不便になった。

常磐線は亘理から仙台までは通じたがここは損害が大きいからなかなか通じない、相馬市からバスで行くのも不便である。交通的には孤立化している。通信販売もこの辺は正常化ししていない、六号線がイワキまで来ても原発で寸断されてしまったから不便なのである。

ともかく帰ってきてほっとした人が多い、でも帰らない人もでてくる。仕事を失った人がいる。近くの人は松川浦で魚関係の仕事をしていた。未だに帰っていない、仕事がなくなると困る人がいるからそういう人は移住してしまうかもしれない、松川浦が復興するのは放射能問題もあって大変である。これからどうなるのか、自分もどうなるのか、どうしたらいいのか、不安定な状態はつづく。
 

2011年04月14日

新地の津波の被害の跡

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曲がったレ-ル
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旅館だった

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自衛隊の駐屯地


新地の津波の被害の跡

新地は電車の車両がへしまげられた映像で有名になった。警察官が誘導して乗客を助けたのだがあの辺は平地しかない、歩いていたら助からなかった。車があって乗せることができたので助かった。津波は15分とか20分できているから逃げる時間がなくて津波にのまれた人が多い。一刻を争う時間なのである。でも話を聞くとそうした切迫感はない、着るものを家に取りに行ってそのまま津波にのまれたとか一旦家に戻って津波にのまれた。戻る時間などなかったのである。津波が早くくるという切迫感がまるでなかったのである。何かのんびりししていたのである。全く津波を警戒していな人も多かった。津波もたいしたことがないだろう、いつもの津波なら一メ-トルにもならない、それでも注意を喚起したりしていたがそれも慣れっこになっていた。津波注意報などしょっちゅうあるから慣れっこになっていた。大津波警報も津波注意報くらいに思ってしまったのである。人間の慣れは怖いことを今回は証明した。三陸などでは警戒しても宮城県から福島県の浜通りには大きな津波は来ないから油断していた。全く警戒していなかったのである。人間は常に危機感をもつことがむずかしい、平和な生活が常態でありその生活が長ければそんな大それたものが来るとは思いもよらなかったのである。


津波は二階建てで下の方が破壊された海から離れた所でも津波にのまれ死んでいる。新地でも駅から離れた下が破壊された海から結構離れた高台でも死んでいたのでる。そこに住んでいる人が説明していた。知っている人が死んでいるのだ。なんでも昔から大きな屋敷と土地をもっていた武家の出の人のも流された。あそこがそうだよと指さして教えてくれた。新地では有名な人の家だったのだろう。新地では伊達とのつながりが深い武家の人がいて相馬市と合併しなかったというのも意外だった。まだ相馬と伊達がこの境の地では争っているのかと思った。こういうことは地元の人に聞かないとわからない、なかなか本を読んだだけではわからない、郷土史は地元の人に何でもいいからささいなことでも聞くと実感として興味が湧くのである。新地城は境の城としてあった。

亘理郡長助役であった目黒重真が、明治の新しい時代を迎え「これからは教育が最も大事」という考えにたち、新地方部11カ村の村長や有志に学校設立を呼びかけ、宮城県に対して「宇多郡村学校設置願書」の設立して認められ、仙台藩校養賢堂の教授であった氏家晋(号 閑存)を招き、民家を利用して学校を設立した。


亘理とか仙台藩がかかわって観海堂も作られた。相馬藩ではなかったのである。それも全く津波にのまれ跡形もなく消失した。長い手を伸ばして貝を食べていたという手長明神跡はやはり海の近くにあった。場所的に今回の津波でどの辺が海になっていたかわかったからである。六号線まで海であり人は住んでいなかったのである。新地駅はもっとも海に近い場所にあった。

明日はへしまげられた車両はかたづけられる。でも常磐線が全線開通することがあるのか、なぜなら原発から20キロ圏内は立ち入り禁止であり入れないとするとそこはもう鉄道も通らなくなるからだ。亘理までは開通してもなかなか相馬の方まで開通することは先のことになる。
ここの海岸沿いの家は全滅である。帰りに廃校となった相馬女子高等学校の避難所に行ったら600人もまだいることに驚いた。原発関係で避難している人もいるのだろう。明日半分は飯坂温泉の旅館に移るという、それならここよりは楽になるし温泉にも入れるからいいとなる。それにしてもまだこれだけの避難している人がいることは今回の被害がいかに多いかわかる。他でも避難者が多いことが今度の災害の特徴なのである。仮設住宅はなかなか間に合わないからだ。福島市に移動したくない人はここに残るという。

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2011年04月15日

放射線は風と地形に影響された(30キロ圏内同心円で被害を決めるのは納得できない)

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地形と風の流れに放射線は影響した

放射線は風と地形に影響された
(30キロ圏内同心円で被害を決めるのは納得できない)

●30キロ圏内の同心円で保証などを決める疑問


福島第1原発事故による放射能汚染を独自に調査した京大原子炉実験所の
今中哲二助教らによる報告会が13日、国会内で開かれた。今中氏は、
同原発から北西に25〜45キロに位置する飯館村の一部について
「人が住むのに適したレベルではない」と指摘、汚染の深刻な状況を訴えた。

今中氏は、3月28、29の両日、飯館村の130地点で空気中や土壌で
放射線量を測定。原発から遠い同村北部の空気中の放射線量は1時間当たり
3〜4マイクロシーベルトだったのに対し、原発に近い南部に行くと
20マイクロシーベルト程度に上がったことを説明した。

同村曲田地区の土壌からはセシウム137を1平方メートル当たり2200キロベクレル検出し、
旧ソ連のチェルノブイリ原発事故による強制移住基準1480キロベクレルを超えた。


放射線についていろいなことが言われるのでなかなか理解できない、そうはいっても放射能問題はじかに自分が住んでいる場所だから命にかかわるから今になってみんな真剣に考えるようになった。自分が探求してきたのは地形とか地理とかに全国を旅したことなどで興味をもった。そのことを郷土史でも書いてきた。津波も地形によって作用されることも書いてきた。一律に津波の被害にあったわけではない、地形が原因で被害が少なくてすんだところもある。松島は島が防波堤の役割をにない被害が少なかった。それから風土的に日本人は海産物をワカメやノリを多く食べるからヨウソの影響が大陸のロシア人のように影響が少ない、甲状腺ガンになりにくい、ヨウソが十分にとっているから付着しにくいということも科学には無知でもそういう地形とか風土的差が人間生活あり世界を数学のように一様にみることはできない、それがまた国々の文化の基となっているのだ。欧米人とアジア人その中の日本人は体そのものが違っているのだ。だからロシアのチェルノブエリの事故で甲状腺ガンが多発したというときあてはまらないかもしれない、その結果は実際はまだ不明である。

なぜ今回風のことにこだわったかというと意外と放射線が飯館村とか福島市とか郡山で高かったことであり自分の住んでいる南相馬市は高くないのである。30キロ内でも高くないのである。

それでどうして保証問題でも30キロ圏内は東電で保証するとか言うのか納得がいかない、放射能の被害は飯館村とか福島市の方に高く出るはずだからである。30キロ内の南相馬市より福島市や郡山の方が保証する範囲になる。それができないのはそこは人口が多いから30キロ圏内で区切りあとは保証しないとしたとしか思えないのだ。放射能の被害状況とは違う、同心円で放射能の被害が決められるわけではないからだ。飯館村は計画的避難地域に入ったから保証されることはわかる。でも保証問題になると福島市とか郡山市も入るのだ。


●阿武隈山脈の地形と風の関係



●田村市の放射線量が比較的少ないのは、この山の壁に放射性物質の多くが跳ね返されるからでしょうか。


●放射性物質は、険しい山を越えるほど上空まで飛ぶものは一部で、多くは地上からそれほど離れていない高さを移動するのでは。


●東(太平洋の方向)と南北(平地の方向)に向かった放射性物質は、遮るものが少ないため拡散し、ある程度薄まるようだ。


http://d.hatena.ne.jp/kmbk12/20110329/1301399928


地形が放射線の拡散に影響しているのか?一様に分布しない、阿武隈山脈がありそれが放射線の流れに複雑な影響をした。放射線ではなく放射性物質の流れである。それは赤字木(あこうぎ)椚平とか今回の曲田でも長泥でも非常に高い数値なのである。土壌にも放射性物質が基準値を軽くこえて堆積された。放射性物質は半減期が30年だとかセシウムの場合など減らないとすると放射線を出しつづけるから危険極まりないものだった。土が一旦汚染されたらそこに人も住めなくなるしもちろん農業などできなくなることがわかった。その土地のものも食べることができなくなる。自分が今回興味を持ったのはこのように放射性物質の拡散に風が影響していることと地形が影響していることだった。では地形というときただ平坦な地域ならわかりやすい、浜通りの鉄道が通っている地帯は平坦であり放射能は広く拡散されて薄められた?風の影響もあったが放射性物質は少なくてすんだ。でも放射性物質の通り道となった浪江から阿武隈山脈を通るところは本当に危険なレベルで高かったのである。赤字木(あこうぎ)椚平(くぬぎたいら)から曲田から長泥(ながとろ)の線は危険地帯になった。この線は川俣の一部を通り福島市まで通じていた。そして福島市で放射線が高かったのは吾妻山などの阿武隈山脈よりさらに一段と高い壁にはばまれ放射性物質が盆地の福島市に滞留したからだという分析をしている。


私はこの道を自転車で何度も行っている。なぜ田村市が前の三春が放射線が低かったのか、それは高瀬川を上ってゆくと傾斜が高い、そこは風の流れを阻む山となっていたから田村市には放射性物質は流れにくくなっていた。一方浪江から塩浸(しおびで)赤字木(あこうぎ)椚平や飯館村の曲田から長泥に出る線は危険なほど放射線の量が高くなっていた。それは川俣から福島市へと線となり通じていたのである。その辺に風の通り道があり放射性物質もその線にそって流れたというのも理論的に一つの説になる。科学的にもそうした放射線が計測されているのだからあながち素人の説とも言えないだろ。いづれにしろ田村市には放射線が低いという理由はわかりにくいだろう。山が壁となり風が通っていかなかった。確かに高瀬川を上る葛尾(かつろう)に出る道は急峻なことを地元の人は知っているだろう。田村市が低く郡山市が高いのは田村市は山の壁にさえぎられたがそれを飛び越えた郡山市は放射線が高くなった。一方浪江から赤字木(あこうぎ)椚平方面に行く道には人家もあり比較的ゆるかな坂であり谷間のようになっていて広い。そこにはだから田んぼや畑も作られている。その辺は実地に行ってみないとわかりにくい、これは自転車で苦労して行った道だから実感として書いているのである。


ともかく放射線についてなどいくら説明されてもわかりにくい、どれだけ影響するのかもわからない、ただ現実に同心円の30キロ内や外だけで放射線の影響は決められない、でもなぜその同心円にこだわるのか?保証もそうである。飯館村はあまりに放射線が高いから計画的避難地域となり保証することになったことでもわかる。放射線の量で計るのがその対処方法なことはまちがいない、しかし同心円にこだわってそれを中心に決める理由が納得いかないのである。



福島市の地形
http://doctor-asari.at.webry.info/201103/article_13.html

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2011年04月16日

春雷(南相馬市原町区の桜見る)

 
原町に人の戻りて桜見る


朝桜枝をゆらして鳥移る


春雷に追われ帰るや原町を


コンビニの一部開きて燕来る

今日は六号線から火力発電所のあるキャンプ場になっている所に行ってきた。あの辺に家があったが津波で破壊された。ただ家はそんなに多い所ではなかった。火力発電所には津波で千人が取り残された。千人もいたのかと驚くが警備員とかして働いている人が多い、新地であった人も退職したあとに火力で働いていた。火力発電所が南相馬市にも相馬市にもある。
双葉などでも原発で働いていた人が多い、原発の町となっていた。それが今回の事故で原発でゴ-ストタウンになった町として歴史に残すとは思いもよらなかったろう。火力も原発もこの辺では大きな雇用の場なのである。あそこにも一本の松が残っていた。写真はデジカメの電池が切れてとれなかった。どういうわけか必ず松は全部津波にもっていかれたわけではなく一本くらいは残っている。陸前高田でも奇跡の松として一本残った。陸前高田は特別風光明媚な所だった。大きな広い湾がありその前に松原があり静かであり落ち着いた所だった。そこには火力発電所とかもちろん原発のような危険なものもない、鄙びた感じのいいところだった。三陸でも津波がないなら風景としていい所だった。陸前高田には湾の方を回ったが街の方には行っていなかった。そこに街があったということを覚えていなかった。だからあんなに街が破壊されたことに驚いた。美しい穏やかな湾だけが記憶に残っていたのである。


原町は桜井古墳の所まで津波がきていた。あの辺まで大昔は海だった。縄文人なら危険な所には住まない、というよりは住めなかった。白砂青松の景観は人間が作ったものである。田を海岸の湿地帯に作り塩害を防ぐために防潮林としても松原を作った。その松原が今度の津波で壊滅した。白砂の景色がなくなったというけどそれは人間が海だったところを埋め立てて田にしたりしたからであり今津波になったところを見れば別にそこを田にしないで人も住まなければ砂浜は残っていた。防潮堤は松原は人間の作ったものであり自然のままにしていれば浸食されても砂浜は残っていたのではないか?防潮堤も作る必要もなかった。現実に今回の津波で海岸沿いの集落が砂に埋もれてしまって元の原始の状態に帰ってしまったことに驚いた。そして松だけが一本くらい残っているのである。


ともかく津波ほど恐ろしいものはなかった。この世には病気でも恐ろしい、認知症なんかも実際に接してみれば恐ろしい病気である。単なる年をとって馬鹿になったというだけではない、精神の病でもありそういうのは身近に接していて怖いことなのである。なんか知らないけどここ五年間くらいは家族が認知症になってからその介護やら何やら追われるようになった。その時から平和に暮らしていた歯車が全く狂った。自らの病気から入院してその入院している間に犯罪にあうとか信じられないことが次々に起こった。退院したら家族が交通事故になったとか災難がつづくだけだった。つくづく人間も恐ろしい、人間は結局先が読めない、何になるかわからない、今回の津波の災厄は信じられないことであり生死を分けた話も信じられない、一瞬にしてすべてを失うことが信じられない、ある人は入れ歯まで津波に流されて避難所で難儀していた。

あまにりも極端だからそれが悪夢であり現実だと未だに思えない人もいる、被害がなくても被害にあった光景が現実に未だに思えない、被害にあった人の話を聞いてもそれが現実なんだということがまだしっくりこないのである。要するに今までの現実とのギャップが大きすぎるからそうなっているのだ。認知症の姉を介護したときも書いてきたがそうだった。頭のいい特別しっかりした人が馬鹿になるということが信じられなかった。それも現実とのギャップが大きすぎたからそうなっていたのである。突然そうなってしまうから余計に信じられない、現実として受け入れられないとなるのだ。これからも津波のことは延々と語られつづける。これだけのことを経験したのだからとても誰も忘れることはできない、やはり神戸の地震を経験した人もそうだったことがわかる。こういうことは身近に経験しないと実感としてわからないのである。神戸の地震も実際にテレビで見たが恐ろしいものだった。そういう恐ろしいことは経験した人しかわからない、広島、長崎の原爆もそうだし神戸の地震もそうだった。今になるとそうした災難のことが身近になってしまったのである。広島の原爆でもまさか30キロ離れても放射能に脅えて避難騒ぎになると思えなかった。そういうことが経験すると身近になってしまったのである。


今日は春の雷が鳴った。桜は満開だった。最初は雹だった。それから雨になったが稲光が走り途中雨宿りした。そこがトタン屋根の倉庫でもの凄い雨音がした。自転車で雷に追われ懸命に走った。まさに未だに何かに追われている自分の姿がある。悪鬼にでもつかれたのか?絶えず追われる生活はつづいているのである。認知症の介護で苦しみ狂気の人間に苦しめられ自らの病気に苦しみ犯罪者に苦しめられ今度は放射能に苦しめられ避難準備地域とか指定されまた親の介護に追われてとか・・・・・一体なぜこんなにことになったのか?これはもはや自分のことだけではない、自分の住んでいる回りが全部そうであり立ち入り禁止区域となりゴ-ストタウンになるなど考えられなかった。立入禁止区域で野犬にかまれて治療したとか、この世も末だと思ってしまう。実際に原子力の事故は簡単におさまらない、最悪の自体さえ予想されるのだ。ここ5年間平和の日は全く去ってしまったのである。でも原町に人は戻り店も開き桜が咲いた。それでも小高区は立入禁止であり20キロ圏内はゴ-ストタウン化しているのだ。原町は今度は避難準備地域だから前よりはましだとなっている。それでなんとか桜を見て帰ってきたのである。

2011年04月17日

放射線の危険性は土から計るのが一番の目安になるのか? (30キロ圏内の同心円では決められない)


放射線の危険性は土から計るのが一番の目安になるのか?
(30キロ圏内の同心円では決められない)

江町と飯舘村。地面から高さ1メートルの地点では、浪江町で毎時23・0マイクロ・シーベルト、飯舘村で同14・0マイクロ・シーベルトが最高値だった


浪江町というと津島とか三春の方に伸びている。海の方には津波の被害が大きかった請戸がある。浪江町でも放射線の量は違っている。浪江町で放射線が高いというとき浪江の津島近くで高いというとわかりやすい、浪江町でもすべての地点でモニタリングされていない、ともかく放射線で注意せねばならないのは放射線の量が一様ではないということである。それが素人にわかりにくい、未だに30キロ圏内は危険地帯と政府から指定されるから30キロ圏内が全部危険というイメ-ジになってしまう。自分が住んでいるところは30キロから数キロしか離れていない、奇妙なことに30キロ圏内は危険だ、危険だ、避難だ、避難だ、というとき30キロで区切って危険なのかと思い込まされるのである。実際は30キロも40キロも放射線量は変わらないかもしれないのだ。だからどうしても30キロ圏内の同心円で危険を決めるのは納得がいかない、放射線のことはわからないにしても一番高い地点が前に指摘したように浪江の山中にありそこを中心にして放射線は飯館の方に高くなったのである。原子力の建屋が爆発したとき放射能のかたまりが北西方向に風にのり放散された。そしてその時丁度雨が降ったため地中に堆積された。それで地上からの放射線が以前として高く危険だとなっている。地面から高さ1メートルの地点ということがそれを示している。小学校なども子供が校庭で遊ばないようにしているのはやはり地中から地面から放射能が出るからそういっている。地中に堆積しやすいのが放射性物質でありセシウムは半減期が30年だから放出する量が減らないから困るのである。多少減っても以前として放射線の量が減らないのは原子力発電所から放出されてくる放射能物質ではない、地中に堆積された放射性物質(セシウム)のようなものによって放射線の量が以前として減らないのである。


放射能のことはいくら説明されても素人にはわからない、専門家でもわからないそうである。放射線が放射性物質がその量によって人体にどれだけ影響するのか正確には誰もわからない、未知の世界であるという、それも原子力発電所で作業しているような大量の被爆した人には確実にすでに症状が現れるが徐々に一年の積算で放射能をあびる人はどうなるのかわかりにくい、微量の放射能をあびても一日で細胞は元に回復するという、微量な場合はだから心配ないという学者もいる。つまり放射能はデ-タ-をとるだけでむずかしいものであり正確なことがわからないのである。チェルノブエリと今回の福島の原発の放出した放射性物質の量は10倍以上違っているからそれも全部参考にならないのだ。放射能についての風評被害が広がるのはそもそも学者でも両論がありわからないものを素人が判断しろというのも酷である。何を信用して判断していいかもわからない。ともかく同心円の30キロ内が危険に避難指示に指定されるとき逆に30キロから数キロ離れていたから安全だったとはいえない、でも不思議なのは人間の心理なのだろうか?自分などは数キロ離れて助かったとか思うし相馬市などはさらに安全だとすぐに平常の世界に戻ったのである。距離から計算すればそうなるが放射線は距離だけですべてが安全だとは言えない、現実に福島市でも郡山市の方が30キロ内の南相馬市より放射線の量が高いのに危険性を指摘しないのもわからないのだ。


チェルノブエリは妊婦や子供には被害が明確に出たから子供は要注意だとなる。それは過去のデ-タ-から言っているから信頼できる。でもまたその放射線の量によるし日本人はヨウ素を海藻類から十分にとっているから甲状腺ガンにはならないという説明もそうかなと思う。要するに放射線については各自その危険性を勝手に判断しろとなる。だから60以上過ぎた人は10年後とかにガンになるとか言われても長年住んでいたところには住み続けたいとなるからそれはしかたないと許してもいいとなる。でも60才以上の老人だけで生活がなりたつのかとなるとこれもむずかしい。子供とその親がいなくなり老人だけが残された村や町や市は生活していけなくなる。放射線の問題は単に同心円でその危険性が確定されるわけでもないし年齢によってもその感じ方は大きく違っているのである。ともかく放射能の拡散は風によっても地形によっても影響されるから30キロ圏外でも危険であり同心円では特定できない、影響されやすいにしても平坦な地なら東京や仙台にも風向きで飛んでゆく、さえぎる山がないから飛んでゆく、チェルノブエリでも遠くに放射線が高く検出された地域があった。風向きや地形や気候条件で変わってくる。途中さえぎる山がないと高濃度の放射性物質が飛んできたら遠くに高い放射線が計測される。


30キロ圏内は保証がありそれから数キロはずれたら保証はない、これも差別化であり金銭の保証のために30キロ圏内以上は政府では保証しないとするための同心円の設定だともなる。放射線はやはり地面にふったものが堆積されることが一番の目安になるのだろうか?
原発自体からは放射性物質の放散をおさえられば空中からは飛んでこないし空中は拡散するから滞留しない、堆積しないから一旦原発自体から放射性物質がもれなければ安全になる。
でも土に堆積された放射性物質はセシウムだったら30年とか消えないで放射線を出し続ける。するとその土の中の放射性物質を除染しないかぎりそこには住めないとなる。放射線を抑えることができないからである。土からの計測では南相馬市でも相馬市でも同じくらい放射性物質が出ている。つまり10キロくらいではたいして変わらないということになる。放射能は本当にこのようにやっかいなものでありいくら学者が説明してもその学者でも見解が分かれるし素人はなおさら判断できない、それでも30キロ圏内とか圏外でも何とかそれなりに知ろうとして努力するほかない。みんな命にかかわっているから知らないではすまされない、そんなやっかいなものにかかわらせたこと自体大罪だったのである。

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2011年04月18日

南相馬市原町区金沢地区や北泉地区の津波の被害

 

南相馬市原町区金沢地区や北泉地区の津波の被害

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土手の手前は損傷が激しい

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土手の向こう側の家は無傷だった

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泉の方面へ

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この坂の上のコンビニまで津波が来た
この坂を上れば助かった

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一葉松まで津波が来た

津波の被害の大きかったのはこの辺では磯部とか海老とか烏崎とかであった。他でも名取とか仙台でも海岸に接して平坦な所は壊滅した。松島などは島が防波堤になって1.5メ-トルしかならなかった。この南相馬市の原町区の金沢を見るともともと浦であり江戸時代に干拓したところである。青松白砂の風景は江戸時代の干拓して新田を作った人工的美であった。名取辺りでも広範囲に津波で冠水した所はもともと海だったのである。その海であったところが今回の津波で被害を受けた。金沢地区では海から近いところでも写真で見ればわかるがちょっと高い所の家は無傷のまま残っている。庭には津波が来たが家そのものは損傷していない、相当に津波は高く来たのだからあの辺もかなり損傷してもいいはずだがそうなっていない、良く見ると家の脇に土を高く厚く盛って壁となっていてそれが津波をさえぎったのかもしれない、なぜならその土手の前は損傷が激しく土手の向こう側の家はほとんど無傷だった。津波はみんな一様に被害を受けたわけではない、地形の影響もあった。堤防もここは低いが壊れていないから津波の衝撃をやわらげたかもしれない、津波はまともに当たるところだったらその衝撃は凄まじいからひとたまりもない、ちょっと高くて土手があっただけでも津波の被害をまねがれた所があった。

鹿島区の海老村は高い所にあったが海からさえぎるものがないから壊滅した。ちょっと高いと思っても被害が大きかった所もある。なぜなら今回の津波は本当に想定以上に高いものだった。
北泉の方の家々は壊滅した。坂のコンビニがあるところまで水はきた。でもその坂があってそこを逃げれば助かった。そこは歩いても行ける所だから津波警報が出たらすぐに逃げれば助かった。烏崎でも近くに山がありすぐに逃げれば助かった。でもこの辺では津波には警戒していないから逃げないで逃げ遅れて死んだ人が多いだろう。ここは明かに逃げる場所がすぐ近くにあった。歩いても走ってもすぐに安全な場所に逃げられた。でも早く逃げなかったら安全な場所が近くても死んだのである。子供のおもちゃがあったが今回の津波で死んだ人は老人は七八割くらいいたろう。高齢化社会であり特に高齢者が多い場所だったのである。それでも子供も死んでいるからこうしたおもちゃも残っていたのである。親を亡くした子供もいたから悲惨だった。


確かに今回の津波がおしよせた所は昔は海だった。桜井古墳や新地の手長明神が祭られている所はすぐ海になっていたことがわかった。つまり広い入江がありそういうところでは貝などが大量にとれて食料になっていたのである。外海に出なくても貝などはとれたから住むことができたのである。そして景観的にも入江は美しいものだった。それは八沢浦があれだけ一時期海となったことに驚いた。水の量があんなに多くなる入江になるとは思わなかった。これは想像してもなかなかわかりにくい、本当に海になったのを見たから驚いた。今でも津波にあったところから海の方を見ると一軒の家も見えない、ただ残った松が何本か海岸に見えるだけである。あとはまだ瓦礫が散乱しているだけである。いづれにしろ昔は家も何もない広々とした入江であり海だったのである。日本には実に浦が多く入江が多い、そこが縄文時代から貝などをとる生活の場となっていた。


今でも三陸でもどこでも浦では牡蠣の養殖などしているから養殖にしても浦は生活の場として変わらないのである。ただ江戸時代に浦は埋め立てられて田になったのである。日本は土地が狭いからやむをえないことだった。人口を増やすにはそうするしかなかった。でももともと海だったところや沼だったと所を埋め立てて家を建てるべきではなかった。地震で液状化で苦しんでいるのもそのためである。青松白砂の風景は一見美しいものだったがそれは実は自然を破壊したということでもあった。人間はすでに田を作るにしろ焼き畑にしろ自然を破壊しないと生きていけない、そういう業をもっていた。その業が遂に原子力発電になったのである。職業とは人間の業であり必ずいい面だけではなく自然を破壊することに通じていた。
明かにこれから未曾有の災害が大都会を襲う、それは自然に反して作っているからその被害も大きくなる。巨大なビルが倒れてくることを想像しただけでどれだけ恐ろしいことかわかる。
現実神戸の地震では起こった。結局何が被害をもたらすかわからない、意外なものが被害をもたらす、今回の津波も誰も予想もしないものだった。

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これは民間の仮設住宅か?一人用であり最近建った、外からくる人や
家をなくした人などふえたから需要が増えた。
アパ-トを借りる人も増えた。2,500円だからホテルより長期滞在用である。
場所は鹿島から原町へ六号線の坂を上りきった十字路から海の方に入る場所にあった

posted by 老鶯 at 17:19| Comment(0) | TrackBack(0) | 地震津波関係

2011年04月19日

福島第一原子力発電所の事故の原因の深層 (イリイチの「専門家時代の幻想を読んで)


福島第一原子力発電所の事故の原因の深層
(イリイチの「専門家時代の幻想を読んで)


●専門家集団に牛耳られたことが事故の最大の原因

 


この専門家の時代は政治家が衰え教授らの導きのもとに有権者たちが必要を規定する力を技術官僚に委ね、誰が何を必要としているかを決める権威を放棄してしまい、そしてこれらの必要を満たす方法も、独占的寡占体制に決めさせてじっと辛抱していた時代であったと後世の人たちに記憶されるだろう。(専門家時代の幻想-イバン、イリイチ)


あなたが何を必要か断定し、処方を書く力を自分たちはもっているのだと主張する


専門家は顧客にとって最高の利益-国家理由をも上回ることがある。


専門家は現在認められている銘柄の科学的正統性を教える点で僧侶の役割を演ずる。
国の後ろ楯をもった聖職者の方にはるかに近い。


それぞれの専門職はまるで編成された教団のような観を呈するのである。


彼らの役割は傍観者、証人のそれに限定される。まるで法的プロセスとは何か大がかりな、きしみ音をたてる機械のようなもので、一旦動き出したらその仕組みに精通したものしか近づいても操作してもいけないというかのようである



今回の福島第一原子力発電所の事故の原因は何であったのか?また責任は誰だったのかとかいろいろその真相が明かにされつつある。それは明かに現代文明がもたらしたものであり文明そのものにあったのだ。文明についての批判はこれまでも時事問題の深層などで書いてきた。今回の原子力発電所の事故はまさに文明崩壊を象徴的に示した事故だった。この原因を深く究明すればそうなる。イリイチの言うことがいかにあてはまっていたか納得した。今や人間は専門家集団によって無力化されている。医療でも教育でも法律でも科学でも専門家集団によって牛耳られていてその専門家集団に抗することは誰もできない、いわば昔の聖職者が専門家だからである。法律にしても素人にわかるものではない、「お前は何もわからないのだ、何も言う権利もない、法律家に従いばいいのだ」となる。そして交通事故などでも結局専門家集団の弁護士などは保険会社側に有利になり保険金は少なく見積もられる仕組みになっている。保険会社と弁護士は結びついているし大きな会社が常に有利になるようにできているのだ。医療にしても専門家集団がいて医療ミスをしてもその集団でもみ消すことが簡単にできる。そういう仕組みが文明の中に作られていて無力化されている。要するにはお前のような素人は何もわからない、専門家の命令にしたがっていればいいのだということになる。それが今度の原発の事故のことでも同じだった。本当にその構造があまりにも明確に現れたのでかえってその秘密が白日の元に見ることができた。


この専門家の時代は政治家が衰え教授らの導きのもとに有権者たちが必要を規定する力を技術官僚に委ね、誰が何を必要としているかを決める権威を放棄してしまい、そしてこれらの必要を満たす方法も、独占的寡占体制に決めさせてじっと辛抱していた時代であったと後世の人たちに記憶されるだろう


政治家はほとんど科学に無知であり指導権は専門家教授達が原子力発電を推進した。政治家は利権が目的であり危険でもそれを良しとした。それは自民党時代にその基礎が確立され民主党が引き継いだのである。政治家で原子力発電に反対する人はいなかった。共産党は反対ではない、安全を確立して進めるということだった。政治家が原発の核となる推進者ではなかった。でもその利権と利益の享受者であり名だたる国会議員が大臣経験者でも東電と縁戚関係にあったり密接にその利権と結びついていたのである。それは中曽根首相からはじまり原発の推進者であった。歴代の首相で原発に反対する人などいなかった。


●福島第一原発に反対した佐藤栄佐久は検察により失脚させられた!


佐藤栄佐久は福島県知事時代、原発の安全性について問題提起したが収賄事件をでっちあげられて失脚した。そして事故が昨日おきた。
佐藤栄佐久前知事失脚の後に福島県知事に当選したのは渡部恒三の甥っ子で恒三の秘書だった佐藤雄平だ。そして福島のプルサーマル原発は佐藤雄平知事の下で先日稼働を始めた。


これはネットで盛んに言われているが重大な責任があった。原発に反対した知事が陥れられたのである。渡部恒三だけではない、地元の議員はほとんど原発推進者であった。議員が力あると思っているが現代で力あるのは専門家集団である。政治家はただ利権にのっかるだけである。


この専門家の時代は政治家が衰え教授らの導きのもとに有権者たちが必要を規定する力を技術官僚に委ね、誰が何を必要としているかを決める権威を放棄してしまい、そしてこれらの必要を満たす方法も、独占的寡占体制に決めさせてじっと辛抱していた時代であったと後世の人たちに記憶されるだろう。

教授のもとにとは名だたる原子力にかかわる学者である。それは主に東大と東工大でありここにも研究費が東電から流れている。技術官僚とは官僚の天下り先が原子力関係でいろいろな名のもとに作られていた。そして何より教育関係でも文部科学省でも原子力は安全だということを教科書に書かせて危険だということを書かせなかったのである。


●文明を維持するために原子力は必要だ


専門家は顧客にとって最高の利益-国家理由をも上回ることがある。


原子力を推進することその理由は国家理由を上回っていたのである。それは文明を維持するために車が無くすことができないように原子力も絶対に必要なものだということになるからだ。
原子力なくして今の電力は維持できないとか脅迫もされる。これは日本だけではない、文明に原子力が絶対に必要だとなっているからである。東電は国の後ろ楯をもっていたから安全でなくても東電の社長がコストカッタ-として出世できたのである。安全神話は文明を支配する専門家集団がトップとなり政治家から技術官僚から教育官僚から暴力団まで動員されていた。誰も安全ではない、危険だと言わせない体制が作られていた。要するに原子力に関しては民は盲目にされていたのである。これだけ危険なものだから安全に必死に気を配っていればそれだけ努力していたからと同情することもある。想定外の津波だったというが実際は津波の準備がないとか電源が危ないとか何度も指摘されても安全には金を使わなかった。金を使ったのは政治家や官僚やマスコミにその豊富な資金を運用したのである。それを後押ししたのが、そしてこれらの必要を満たす方法も、独占的寡占体制・・・独占的寡占体制が作り上げられていてこれには誰も批判することができない、安全神話は完全に作られていた。


そもそもアメリカの古いタイプのGE社の原子炉で作られたのでありこのGE社の批判はどこでもしない、マスコミもしない、最も恐るべきは検察は原子力の推進者でありこれに反対するものをとりしまる戦前の特高の役割を果たしていたのである。検察は必ずアメリカの意向にそうように行動する。検察にも正義などない、佐藤栄佐久は原子力に疑問をもち反対したから検察にぬれぎぬを着せられて逮捕され失脚させられたのである。これまで安全神話を形成する権力機構が作りあげられていればこれに抗することは至難になる。わずかに原子力の危険を言う学者がいたか隅の方に追いやられていた。その声は大きな声とはならなかった。ただ聞こえるのは「安全、安全」しかなかった。


まるで法的プロセスとは何か大がかりな、きしみ音をたてる機械のようなもので、一旦動き出したらその仕組みに精通したものしか近づいても操作してもいけないというかのようである


法律もそのむずかしさは素人には近づけないものにしている。そして今福島第一原発で起きていることはこのことである。もはやその専門家すら精通したものすらこの事故を収めることができない、それは人類滅亡まで通じているような危険なものだった。専門家集団もお手上げの恐ろしい結果につながるものだった。実際は原子力に精通したものはいない、本当に今や原発の全容を知り得るものはない、それは全能の神しかいないだろう。配管無数にはりめぐらせて迷路のようになっている。この配管も防水はしていなから停電になり使えなくなった。原子力は安全、安全という割りには実際は相当に脆弱なものであった。実験段階のものでもあった。だから制御できなくなる危険性は指摘されていたが独占的寡占体制ができあがっていたからできなかったのである。津波という想定外のことではない、そもそも津波にも最低限すら備えていなかった。安全に金をかけずに安全神話を作るために政治家や官僚やマスコミに金を使っていたのである。官僚というとき検察も官僚の一部であり原子力に反対するものには公的権力で刑罰を与えることができるのだからこれに逆らうことはもはやできないということになっていたのだ。

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2011年04月20日

大津波、原子力事故の恐怖は何を語るのか?(時事問題の深層41へ)


大津波、原子力事故の恐怖は何を語るのか?(時事問題の深層41へ)

http://musubu.jp/jijimondai-41#tunami
今回起きたことは何だったのか?千年に一度の大津波といえ原子力事故といいそれは黙示録的様相を呈していた。今風に言えばSF映画を本当に見ているようだった。こんなことがありうるのか?これが現実なのか?それが未だに現実とは思えないほど平和な普通の生活から一転して地獄へと転落した恐怖であった。津波で被害にあった人も家族失い家も失い街すら喪失したということが現実とは思えない、茫然として立ち尽くすほかない、その悲劇は無数にあり今や語り尽くせない、本当に焼け野原になった戦後の日本と同じだった。戦後も何もないところから出発したからである。


その恐怖は本当に人類が滅亡してゆくのかとさえ思った。そういう危機は原子力事故で今もつづいている。人が故郷に住めなくなる、原発難民になるとは思いもよらなかった。戦争では難民が生まれたから福島県浜通りにも難民が生まれた。もう故郷には帰れないかもしれない悲劇の難民になるとは思いもよらなかった。飯館村が一番被害が大きくそんな桃源郷のようだったところが一転して住めなくなるほど放射能に汚染された。悲劇の村となってしまったのだ。
そうしてそこには起きていることは毎日ドラマでありそれも自分とも密接にかかわる現実のドラマだった。自分も放射能の被害者だった。こんなことを経験するとは夢にも思わなかった。まるで悪夢を見ているようだというのは本当である。避難所暮らしを今もしている人が多数いるから現実の苦難はさらにつづくし原子力事故の恐怖は簡単には解決しない延々とつづく問題になっている。


今回はプログではなくまたホ-ムペ-ジの時事問題の深層に書いた。長文になるとここがいいがアクセス状態などわかりにくい、時事問題の深層は十年間くらい書いてきたから自分のデ-タベ-スとしても利用できる。そのつづきとして今回はホ-ムペ-ジに書いた。ここは連作でもあったからである。

posted by 老鶯 at 23:45| Comment(0) | TrackBack(0) | 時事問題の深層

2011年04月24日

花の影(避難所にも春が・・・?)

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今日一日行く人なしや花の影

朝静か奥の一軒花の影


被災者にわずかの春の見えにけり


路地裏に紫木蓮や染屋かな


八沢浦松二本の残りけり離れずここに残りけるかな


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八沢浦に松が二本残っていた。陸前高田では約7万本の松林のうち1本だけは津波の猛威を耐え、瓦礫の中で空に向かって立っている。この辺では松は何本かは残っている。磯部には一本しか残らなかったみたいだ。津波の激しいところはやはり松すら残らない、7万本の内一本しか残らないということでもわかる。陸前高田街自体が消滅したから悲惨だった。この辺も被害は大きいのだけど街全部がやられたわけではない、それで今日中村一小の避難所に行ってみた。相馬女学校の方はみんな移動した。そこは南相馬市の人たちがいた。ここには松川浦、原釜の人達が収容されていた。話した人は漁師でありまた漁をはじめると言っていた。放射能なんか気にしないで魚を買う人は買うというのは本当だろう。放射能は気にする人は気にする、子供に影響あることは確かだから子供をもっている人は敏感になる。でも話しして笑っていたということは多少余裕が出てきたせいなのだろうか?漁をはじめる算段がついたせいなのだろうか?人間あまりに極端なことを経験すると笑うほかないのだろうか?それなりに次の生活の準備をしているみたいだ。


あるところで避難所で毎日泣いている女性を写していた。今回の津波と原発事故はそれぞれに負う重荷が違っている。10キロ圏内だったらもう20年は帰れないとかいうのも本気で考えねばならない、立入禁止になった20キロ圏内も同じように住めなくなるのか?20キロから30キロ圏内は住めるのだがいつ避難命令でるかわからない、それで街は正常化していない、南相馬市の原町区は医療が崩壊している。簡単なことはやれても前のように手厚い治療とか検査もできない、それで相馬市の方に移る人もでてきた。原町区では入院治療ができない、それで自分も困っている。子供は原町区では通わすことができないから鹿島区や相馬市に移り通わせる。原発事故では相馬市はそれほど影響されていないのだ。だから今日はチェ-ン店のレストランで食事した。原町区ではチェ-ン店のレストランはどこもやっていない、緊急避難準備地域だといつ避難させられるかわからないとなると店も開けないのだろう。今回の原発事故で悲惨なのはやはり自分の家をもっていても住めなくなった人だろう。だから飯館村は40キロの外なのに悲劇のむらとなってしまった。飯館村も確かに津波で家もなくして死んだ人と比べると死んだ人も家をなくした人もいないが住めなくなるというのは悲惨である。このように今回の津波と原発事故はみんな背負う重荷の度合いが違っている。自分は30キロ圏内から2,3キロしか離れていない゛これによって何か助かったなと思った。でも30キロ圏内だと保証はあるが2,3キロ離れたら保証はない、義援金5万もらったけどそのくらいで終わりになる。


南相馬市でも立入禁止区域の小高区があり緊急非難準備地域があり30キロ圏外もある。でも明かに原発事故が悪化すれば30キロ圏外も避難せねばならないことは確かである。ともかく原発事故でもその被害状況は様々なのである。ただ30キロ圏内で枠を決めたのはそれ以上は保証できないということがあるだろう。ただ30キロ圏外は安全だという感覚にはなるが実際は放射能の分布はまばらなのである。松川浦で魚とって放射能の魚を食べる人がいるのかと思うが漁師も言っていたが買う人は買う、放射能を気にする人は気にするけど気にしない人は気にしない、50才以上になると気にしない人が多いのだ。あと十年後二〇年後では本当にガンになるのかということも定かではないからだ。はっきりいって日本全国で放射能の野菜であれ米であれ魚であれ食べるべきなのである。なぜ福島県だけが放射能で苦しめられるのか?全国が放射能で苦しめばいいのだ。だから放射能入りの食べ物を全国で食べるべきなのである。それが原発をもつ国の責任なのでありそうでなければ原発をやめるべきである。

そもそも原発を作った日立とか東芝の技術者がなぜこの国難の時に原発の事故現場にかけつけないのか?結局放射能が怖くてかかわらない、下請けの作業員にやらせるが高度な技術的なことは作った人しかわからない、それが放射能が怖くて近づかなくなる。安全だと言っていたなら最後に残った五〇人のように命かけてやれ、責任をもてとなる。そうできないなら原発はやめるべきである。原発をもつことは実際は相当な覚悟が必要だった。命懸けになることなのだ。その被害も甚大であり保証しきれないものとなる。そしたら安全のために命懸けでやる必要が出てくる。そうした覚悟もなくただ安全だ安全だと専門家やらマスコミや政府の主導で口封じしてきた。ある人が完全に安全なものはないとっただけでテレビの討論会にも呼ばれなくなった。誰も安全でないとさえ言わせなかった。


一か月半から過ぎて多少落ち着いて来たのだろう。津波や原発事故やら考えるだけで疲れた。普通の平和な生活が失われた。でも春が来ていることは確かである。花も盛りである。それで被災者もわずかの春を見つけつつあることを避難所で知って明るい気持ちになった。避難所でもみんな泣いている人ばかりではない、それなりに希望を見出す人もでてきている。 今回の津波と原発事故は一年くらいたたないと落ち着かない、原発事故はまだ先が見えない、ほとんど手つかずの状態なのである。そしたらどんなことしたって軽く一年は帰れないしそのあともどうなるかわからない、つくづく広島とか長崎の原爆被害者に共感するようになった。10万人とか死んでいるからその悲惨さは今回の事故よりもひどかったが遠いから関心もあまりなかった。人間一旦自分のことになると自分が犠牲者になるとその関心度が全然違ってくる。同じ被害者だという犠牲者にされたという強い意識を持つようになるのだ。

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奄美大島から来ていた
九州からも結構来ている
避難所であったのは福岡からの医療チ-ムだった
奄美大島となると相当遠いから車で大変である。


 

2011年04月25日

津波、原発事故の原因は何であったのか?(日本人のモラルの崩壊だった)


津波、原発事故の原因は何であったのか?
(日本人のモラルの崩壊だった)

●民主主義がなかった福島県民


まともな民主主義国じゃあ、もう当分は原発新設は無理だろう。
ドイツやアメリカは地方分権だから、地元が反対したらできない。
フランスだって、中央集権+官僚国家で国策で進めてきたが、
もう新規立地は難しくなって、海底原発とか開発してる。
今原発を熱心に買おうとしてるのは、独裁国とか途上国。


デモクラシ-のデモスは民衆とかの意味もあるけど地方という意味もあるようだ。ポリスといっても都市は各地にあり自治をしていたのだからポリス間ではその利害関係が問題になる。つまり地方の主張が反映されるのが民主主義でもあった。交通も発達しない時代は地方のもっている力は大きい。クニというとき「あなたのクニはどこですか」というときはその出身地であり狭い範囲が国なのである。その国が拡大したときもやはり地方のもっているクニ意識は残った。


福島県民は権勢について無関心である。知事の選挙などいつも投票率が低い、誰がやっても同じだとかなる。その無関心さが今回の事故の犠牲者になった。もちろん無関心にされたということもある。地元でも安全、安全しか言うことができない、それは利益優先になるからだ。すべての人が利益優先でありそれを否定することはできない、金が入れば原発もいいじゃないか、事故なんか起きないよ、安全だとあれほど言っているのだからと言った軽い気持ちだったのであり福島県民とか地元の双葉町は特にそのことで今責められている。東電から莫大な金もらっているではないかとか原発を町のシンボルにしたことが責められている。福島県民も責められているのだ。なぜなら双葉町内に原発を作るなら双葉町の許可と福島県の許可を得れば原発は作られるからだ。それで損したのはその回りの浪江町と南相馬市とか近隣の市長村だったとなる。そこに金は落ちていないのである。ましてや飯館村など全然関係ないと思っていたしなぜこんなに苦しめられるのかとなる。だから双葉町とか一つの町とか村で決められないのが原発だった。でも普通の庶民はその土地に生きているものはやはり経済優先であり利益優先である。不景気になってから小高に住む人が原発できればまた景気良くなるよとか言っていた。その人が小高にいられなくなった。原発に関しては一般庶民はそんな知識しかない、誰も原発の恐ろしさを教える人もいないからだ。そして現実に小高に原発を作る予定だった。それは南相馬市で推進していた。すると自分の住んでいるところも今度は20キロ圏内とかなり住めなくなるのだ。原子力発電の事故が起きればその周辺の被害は甚大であり住めなくなる。これほどの被害はない、もしそういうことを教えられていれば誰も原発を容認することはない、ただ聞こえてくるのは原発は安全だ安全だしかないから今回のような悲劇になった。


●メデアにより操作された安全神話


今回の原発事故でいろいろなことが明かにされた。情報がメデアによって操作されていた。福島県民も完全に操作されていた。なぜ佐藤栄佐久が急に検察に目をつけられ逮捕されたのか、その裏は複雑でも明かに検察がアメリカの意向を受けて原発推進なのである。日本ではアメリカの悪は追求されないようになっている。検察はアメリカが戦争で日本に勝利したときアメリカの意向に従うようにされた。だから必ずアメリカ側につくのだ。アメリカに反抗して中国側についたりすると犯罪の濡れ衣を着せられ逮捕される。小沢氏などもそうなのだろう。ただ佐藤栄佐久も原発反対ではなく安全に原発を管理しろということであった。これは共産党も同じである。原発そのものに反対する政党も政治家もいなかった。でも安全には極力注意しろということでそのことを再三言ったが通じなかった。安全でないということすら口にできない体制ができあがっていたのである。だから何度も佐藤栄佐久は福島の第一原発は危険だから対策しろと言っていた。でもそれは通じなかった。安全だという包囲網がありその中にマスコミもあった。そもそもマスコミとか地方の雑誌にでも東電の宣伝はのせられるしそこが大きな収入源となる。地方で雑誌など出してもそれだけで運営できるように思えないからだ。必ず企業とかから宣伝費とかの名目で金が入ってくる。これは新聞でもテレビでも同じである。


東電から出る金は桁外れだった。だから政治家から官僚からマスコミから学者から様々な人々がたかる構造ができあがっていたのだ。文部科学省で教科書に原発は安全でないということも書かされなかった。検閲を受けていたのである。誰でも金をもらえばいいとなることをなかなか否定できない、ただ言論に関して金をもらうと歪められるから致命的となる。雑誌とか出すにしても本を出しても利益にならないのだ。ただ毎日のように青汁が健康にいいよと芸能人などが宣伝するとき疑う、金をもらっているのだからいいというに決まっている。そういう人たちただ金さえもらえればいい、自分のことしか考えていない、みんな自分が金になればいいあとは知らなとなっている。ともかく会社であれどこであれ金をもらうとき中立性はなくなる。その点インタ-ネットは金がかからないメデアだから真実が報道されることがある。でもテレビとかのように大衆を洗脳する力はない、原発が安全だ安全だという声に抗することはできなかった。原発は余計にむずかしいから専門家の独断上になる。すると素人は質問すらできなくなる。そんな馬鹿な質問なんかするな、素人は口出すなとなる。そして結局専門家集団のいいなりになり今度の悲惨な結果となったのである。自分も原発のことなどわからない、でも金をもらうことには普通うしろめたいもの感じるのが普通である。金をもらえるから企業の言いなりになることはさけられないのだ。余りにもすべてが金、金、金になっていることが原発事故にも関係していたことは確かである。金さえもらえればいい、そこに節操がなくなっていた。すべてが金で動いているからそうなる。そういう点で人災であり日本人のモラルの崩壊が引き起こした事故だったとも言える。


●モラルの崩壊が津波の原因でもあった


そもそも自然災害はただ単に自然的に人間の社会とは関係なしに起こるものなのだろうか?普通は自然災害は不可抗力であり人間の社会がどんなものであれ関係ないとなるのか?大洪水が起きてノアの方舟は作られたのは悪に満ちていたから大洪水が起きたと聖書にある。モラルと関係して大災害が起きた。普通はそんなことはないと思うかもしれないがモラルが崩壊することで神の怒りをかった。そして大洪水が起きた。今日本の社会はまさにモラルが崩壊している。モラルというとき宗教的なものだけではなく日本人の伝統的なモラルが崩壊しているのだ。結局人間関係も家族関係も金が第一だとなる。金をもっていなければ親すら大事にされない、姑とか嫁の関係も変わっている。姑は家族から追い出されるようなことが起きている。嫁の力が大きくなっているからだ。これもともかくそんなもの古いのだというのがわかるにしても秩序が破壊されることはまちがいない、親や目上のものが金がなければ大事にされないとなれば金さえもっていればとなってしまう。家族関係の中にも金が大きな力をもつようになってしまった。「武士は食わねど高楊枝」とかは武士というものは食えなくても誇示するものがある、尊敬されるものがあるからそう言えたのだろう。


今の時代は金がなければ何の力もない、誰も相手にもしない、金意外に尊敬するものもないのだ。金中心の資本主義も限度にきている。そうしたモラルの崩壊が神の怒りをかったかもしれない、もちろん千年に一回の津波だからそんなことは自然法則によるものでありモラルとは関係ないともいえる。でも神からの自然からの警告だったかもしれない、もっとみんな協力して生活しろよとかの警告だったかもしれない、日本人が今一丸となって被災者のために働いていることは悪いことではない、この大災害は社会にも大変革を要求しているのだ。エネルギ-に関してもそうである。そんなに電気を湯水のように使うことがどうなるのか、結果的に原子力という一番危険なものに手を出すようになったではないか、そして罪もない飯館村のような山の奥の村が一番被害を受けた。何で自分たちだけがこんな被害を受けねばならないのか、それはまさに現代文明の犠牲者になったのである。20キロ圏内の牛などが無惨に放置されて死んでいるように何の罪もないものが死ぬと同じである。原子力でも文明でもみんないいものだと思っていたけど文明は恐ろしいものを秘めていた。それが今回の原発事故で明かにされたのである。資本主義も崩壊して別なものを要求されている。つまりこの津波や原子力事故の災害は新たなものを作れという神からの命令だったかもしれない、そのために多くの犠牲者が生まれた。死んでしまった人も多数だが20キロ圏内や飯館村のように十字架を背負って生きつづけねばならない人たちもいる。それは長崎と広島と同じ運命になったのである。

posted by 老鶯 at 00:43| Comment(0) | TrackBack(0) | 福島原発事故関連