2011年03月01日

春寒し図書館


図書館に初老の人や春寒し


図書館に久しぶりに行った。調べ物あったけどこの前もわからなかった。図書館で調べ物するとなると一日係になるのだろう。本は一冊一冊読むもんだけど何か調べ物するときは実際は何冊も関連するものをよまないといけない、だから郷土史関係などは調べるとなるとよほどの暇人でないとできない、前は暇人だったからできたのである。原町区の大原を知りたくても何も調べようがなかった。江戸時代からの村であることはわかってもそれ以上のことは何もわからない、
ただ一つ「大原山人」と号した人が隠居した場であったことは確かである。それ以外過去について何もわからない、萱浜開拓については原町史に詳しく出ていた。

図書館の効用は相当疑うべきものとなった。それは本の効用がインタ-ネットで変わった面がでてきたからである。昔だったら図書館は知的刺激のある魅力ある場所であり欠かせない場だった。それはとりもなおさず本がすべての知識を得るものだったからである。でもインタ-ネットの世界が生まれと知識はそもそも場所もモノとして本を配送する手間のいらないものとして伝達されるようになった。だから資料などは電子化すればいい、そうすれば確かに図書館という情報を資料などを納める倉庫としての図書館は必要なくなる。図書館も本も電子化の要求があり古い本の集積庫の機能もありそうした中途半端なものとなってしまった。だから効用姓は半分に落ちてしまったのである。全国レベルでみると郷土史は膨大なものになる。全国レベルで郷土史研究はインタ-ネットの方がすでに一図書館などをはるかに凌駕している。福島県関係の市町村の本があるがそうしたものもいざ調べるとなると手元にないとできない、いちいち図書館で調べているとめんどうになるからだ。要するに図書館はそれだけ暇人しか調べものもできない所なのである。福島市に巨大な図書館があっても役にたたない、そこまで行かなければ知識にアクセスできないからでてある。


図書館は本を読むというより駅がすぐ近くだから待合室とか集会所とかそっちのほうに効用があるのかもしれない、建物と場所にはそれなりに意味がでてくる。インタ-ネットではどうしたってある場所にいる感覚はでてこない、地図を見たってでてこない、空間感覚はその場所にいない限りでてこない、歴史も結局地理だ言うときその地理感覚は地図を見たって実際にその場に立たない限り得られれないものなのだ。だから郷土史はそれぞれの土地に根ざしたものだからその土地の人でないとわかりにくいとなる。

 

橲原村と大原村の地想学(トポス)


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橲原村と大原村の地想学(トポス)

隣り合う大原橲原冬の暮


最近原町区の大原に住んでいる人を知ったが大原は鹿島区の橲原村の隣だった。そこは地理的ににた場所にあった。原町のどんづまりendが大原であり橲原だった。でも隣り合うといっても山にさえぎられていたから隣合う村という感覚はなかったろう。最近一本の道路が二つの村を結び合うようにできたから隣の村だったのかという認識が生まれた。つまり道路で結ばれると違った認識が生まれてくる。地理的には空間的に共有する感覚が生まれる。橲原から小山田まで通じていた林道もそうだった。あれは秘密の道のようにも思えた。小山田に通じていると思わなかった。でも江戸時代なら隣の村も実際は遠い村なのである。この辺の伝説で麦搗きを手伝いに来た若者が実は大蛇だったというのはめったに他村と交流しない、人も交流しないからそういう伝説が生まれる。明治になって佐須村と大倉村が民情が違うから合併できなかったというのは今なら考えられないけど昔は大倉から佐須でも草野でも山に閉ざされて遠いからそうなった。今の感覚では近くても昔の感覚だと相当に遠い村になるのだ。人々は村で閉鎖されて暮らしていたのである。隣り合う村という感覚は最近道で結ばれてできたのである。自分の俳句もまさに今の感覚から生まれたものであり過去の感覚では隣り合うということはないのである。


郷土史では村の新旧を知ることが一番大事である。そしてやはり地図を見ることも大事である。グ-グルア-スだと立体的になるから地理から解明されることがある。確かに大原村と橲原村はにているのだ。そこからは阿武隈山脈になり山によってさえぎられる場所なのである。でも江戸時代から村はあった。木材を供給する炭など燃料を供給する場所として山の村は機能して大事だった。発展経路としては鹿島区では小池には寺内には前方後円墳があるから古代から人が住んでいた。古墳が円墳が小池の奥まであるからそれだけ古くから人が住んでいた。橲原村はその頃森林であり人は住んでいない、大原も森林地帯だった。鬱蒼とした森林地帯だった。昼なお暗い森林地帯だった。今でもそういう感覚は残っている。ただ大原は県道が通っているからそういう感覚にはともしい。橲原には残っている。大原村は前田という地名から開拓された順序を書いたけど田とつく地名がそれなりにある。それだけ広い田が開拓された。橲原村にはない、橲原村は森林地帯の山の村だった。米を作るようになったのもかなりあとのことだろう。そんなに広い平坦な土地はないからだ。住んだ戸数も少ないのである。
記録では寛永(1630)頃から住んでいた。記録文書として寛永からはじまっている。


寛永中 秣二五九石
明暦中 秣二二〇石
元禄中秣三三〇石
本田-四八石、新圃(新田)下田

元禄宝永中戸数33- 享保32-安永23-天明22-16-   


戸数としては最初が多くあとで減っている。飢饉の影響もあった。天明で一番減っているからだ。次に50年くらい経て弘化から文久には田も相当増えている。 山はもともと秣(馬草)の供給地としてもあった。田がなても秣の供給地としてあった。どこでも馬を飼っていたから秣は相当量必要だったのである。


発展経路としては金銅製双魚袋金具が発見された前方後円墳がある寺内とそこから波及して古墳がある小池へ村が拡大化してそこから田作りには便利な小山田へ移動した。小山田の奥のどんづまりに隠町とあるのは隠し田であり税金としてとられない田を隠し作っていた。地理的に見ればわかりやいのだ。小池は水に恵まれず稲作に向いていなかった。ただ高台であり湿地帯ではなかったのでここに人が早くから住んでいた。でも稲作が本格化すると向いていないので小山田に移動したのである。小山田村は湿地帯であり水に恵まれていたのだろう。いづれにしろ古墳があるころは古代から人が住み着いていた。その前に縄文時代がありその遺跡は高台に多いだろう。湿地帯だと住めないからだ。田中城は有名だが台田中とあり台になっているところが湿地帯でも住める所だったのである。

「小池村は地の高く水ともしきよ以て耕作甚タ少なし、為に小山田へ出作りする凡そ二十町歩なりとういう、寺内は三塘ありて然も 塘水貯え多し 」(大須賀巡村雑記)

寺内は早くから大きな溜池が作られて水が貯えられていた。そこに前方後円墳が作られたこともわかる。それだけ寺内には人は多く住んでいたことにもなる。
  

地想学(トポス)というのがある。その土地からイメ-ジされる霊感されるものがある。ギリシャでは一番そうした霊感される風光明媚な場所に神殿が建てられた。その場所で霊感を受けたからである。ではその場所になにか神秘的霊感を感じるにはどうするのか?それは機械にたよるとなかなかできない、橲原が森林だったというときある距離を通してそこがそういう霊的な場所だったことをしる。ある場所のもつ感覚は区切られた場所ではない、全体から生まれるから全体の中で地想しなければならない。鹿島の平地を歩み小池の高台を歩み橲原にきてそこが深い森だったことを地想するのである。橲原は鹿島区なら聖なる先祖が眠る場所にふさわしいのだ。人間は死んで葬られる場所はやはり山が向いているのだ。万葉集時代からそうだった。人は山に葬られ神となった、村を守る先祖となった。それは自然の感覚からまさに自然に生まれた感覚なのである。山への信仰は先祖が死んで葬られているということでも聖なるものとなったのである。誰も都会の団地のような小さな代用の墓に墓参りするのも何かしっくりこない、死ねば大きな自然に還る山に還るという方が精神的にも落ち着くのだ。そんなものはアニミズムだとか言うときいかに人間が自然から切り離された機械の部品のようになって死んでいるかの逆の証明でもある。

だから文明人には大いなる死が消失した。自然に回帰する死はない、ただ文明の中の一つの巨大な機械の部品としての死しかない、死も矮小化されてしまったのである。千の風になってとかがもてはやされたのはそうした自然への回帰現象が根強く人間の心の中にあるからだ。

自然から切り離された人間は異形化して異様化して人間ならざるものになってゆく。
そこからは奇怪なものが生まれてくる。アミニズムの世界に生きるのが非科学的となるが不思議なことはあまりにも科学的合理性を追求することも奇怪なものとなってゆく不思議があるのだ。
自然が森が喪失してゆくことは心の中の森も喪失してゆく、神秘的なものが喪失してゆく。そして現代の異常性はあらゆるものが商品化貨幣化される、でも森全体とか大地とか海全体とかのもっているものは神秘的なものであり商品化できない、商品化できるのは森だったら個々の木であり大地だったら一区画ではない、全体の土地であり海だったら売買される個々の魚ではない、海全体である。そうした全体は商品化できないし貨幣化できない、でも自然の価値はその全体から生まれてくるのでありそれなくして実りもない、商品化されるものも生まれないのである。そういう全体の自然への畏敬のようなものが喪失してしまったのが現代文明なのだ。あらゆるものが人間によって文明によってもたらされているという傲慢、錯覚に陥っているのである。常磐高速道も景観の破壊であった。山際を通っているので山の景観の破壊になっている。経済の効率性の追求だけだと景観には全体には価値を感じられないから簡単に破壊されるのである。

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2011年03月03日

南相馬市鹿島区横手古墳群の謎

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南相馬市鹿島区横手古墳群の謎

横手古墳群は道の側にあるから目立つ。目立つものはそれが重要でないものでも意識するのだ。誰でも横手古墳群は鉄道からも見えるし車で行っても見えるから意識するのだ。でもこの古墳群は寺内の金銅双魚袋が発見された前方後円墳がある場所より重要ではない、でも寺内の前方後円墳は形もはっきりせず通っても何かあるかわからないから意識しないのである。桜井古墳は大きく作ったから意識するのだ。人間はそれが過去にいかに重要なものでも今に目立つものにしないと意識しない、重要なものと思わないのである。今の時代から常に過去もあるのが歴史なのだ。今重要視しなければ過去にいかに重要な地点でも意識すらされないということである。

横手古墳群の謎は鹿島区全体の歴史と地理の中で解明される。歴史も一地点を解明するには全体を視野に入れなければ解明できない。あらゆるものは全体の一部であり体ってそうである。郷土史研究がまず村の土地の新旧を知ることが第一だというときそれも地理は一体となって知るべきなのである。鹿島区の発展経路としては


浮田国造→寺内の前方後円墳(大和系)→屋形(鎌倉時代-岩松氏)→江垂中館(南北朝)→田中城


浮田国造(くにのみやっこ)が最初にありこれは毛野氏系統の支配下にあった。ではその場所はどこかというと地図を見るとわかるがそこはやはり鹿島区の中心地にふさわしい場所だったのである。比較的高台であり平地になっている場所だった。この高低は平地でもあり地図を見ただけではわからない、この高低差は実際にその土地を踏んでもわかりにくい、ともかく浮田は鹿島区の中心地にふさわしい場所だった。そこに最初のクニが国造があったことは納得がいく。そこで横手古墳群の謎は寺内に金銅双魚袋が発見された前方後円墳があるからそこに古墳文化がもたらされた。そこから波及して小池にも二つの古墳群がある。原町区の桜井古墳の前と後ろにも古墳群があった。つまり大きな前方後円墳から小さな円墳の群が作られた。一つの村の祭祀から氏族が文化していった。本家と分家ににている。横手古墳群なぜあの地域にあるのか?寺内の前方後円墳がある場所から離れているからだ。その謎は浮田国造にあったのだ。


「よ」の単語家族
「よ」が「水平方面の中でも近い周辺」であるとすれば「他所(よそ)」は「周辺部の背(そ)」と解釈できる。「寄る」「呼ぶ」は周辺部からの移動
の意味を含んでいる。
http://www.eonet.ne.jp/~unolab/timei5/timei5.htm


ヨの不思議はヨン(四)であり蓬(よもぎ)四方(ヨモ)に広がるとかあり横浜とか横手とか横のつく地名は多い。ここの怪しい地名研究は面白い。統計的に研究しているからそれなりの信憑性がでてくる。ここまで研究しているとなる学術的にも価値あるものとなっている。


ヨコはよけるでもあり浮田国造の勢力からよけるために横手となった。桜平山の下に第六天の祠がありそこで大和軍と蝦夷が争った地域とありそこから進軍して鹿島神社を建てた。鹿島神社は大和軍の軍事の神である。その鹿島神社から横へ伸びた所が横手古墳群なのである。それは浮田国造の勢力をよける、さけるようにして作られた。ということは大和軍が毛野氏系統の浮田国造の土着民と戦かったからである。蝦夷とは実際は何者なのかわからない、ただ大和朝廷に逆らった人たちという意味でありそれ意外わからない、でも浮田国造があったのだから明かに大和軍と衝突したのである。横手に古墳を作った人たちは古墳文化をまねたのだから大和系統に支配に組み入れられた人たちだろう。それが地理的にも実にマッチしているのだ。地理的には今の鹿島町と横手地域から海に向かう方は湿地帯が広がっていた。それを証明するのが田中城の回りは湿地帯だったことである。だから岩松氏は屋形に館を構え、南北朝時代に霊山から落ち延びた桑折氏などが江垂中館に拠点を置いたのがわかる。田中城は一番あとに作られて最後の攻防の地点の城となった。その歴史的経路が地理と一致しているのだ。このよううに何度も言うけど地理がわかれば歴史もわかるのだ。そしてこの地理がわかりにくいから狭い地方史はわかりにくいのである。鹿島区と原町区だって地理が違っているから詳細にはわかりにくい、地理が長年住んでいないとわからないのだ。

posted by 老鶯 at 20:57| Comment(2) | TrackBack(0) | 歴史(相馬郷土史など)

春寒し(正直の頭に神宿る)

 


近く住む人情篤き女(ヒト)の死ぬ同じ墓所なり春寒しかも



正直の頭に神宿る
しょうじきの こうべに かみやどる。


意味
正直な人には、必ず神や天の、助けがあるという教え。


「Honesty is the best policy.」

世話になった老女が死んだ家にお悔やみに行った。その女性はなんのとりえもないけど学もないし何か馬鹿のようにも見られていた。だからその女性のことを注目する女はいない、しかし不思議なのは馬鹿正直であるから嘘が言えない女性だった。女性は口がうまい女性が多い。でもみんなが口がうまいとはならない、口がうまい女性はやはり正直でない女性が多い。一般的に女性は平気で嘘をつく、だから馬鹿正直で嘘をつかない女性はめずらしいともなる。
本当に「正直の頭に神宿る」とは昔の人はうまいことを言う。正直にしして死んだから神が宿る、一つの正直な星となって天に輝いている。人間が死んだら灰となり何にもなくなってしまうということはない、なぜならある人が死ぬとそのあとまで影響している。そういう正直な人が死んだあとは何か清々しいのだ。霊魂が清められて天に昇ったからかもしれない、そういう人がいたということは救われる。その反対に様々な悪徳のあとに死んだ人はそのあとも子孫に影響することはまちがいない、それは本人はたいしたことと思っていないが子や孫がいるとなるとその人たちにも確実に悪い影響を残す。偽ることはできない、善も悪も何事も一人だけ終わったり一代で終わったりしない、人間とは生き物はみんなそういうものである。どんな人でも必ず他者に影響及ぼす、全く孤立していてもその思想が影響するというのは本当だろう。一人でも憎しみに満ちていたらその憎しみは伝播して影響するから怖い。ともかく今やそういう義理人情に篤いとか正直に生きることなど推奨されていないしそういう人はいない、いかに他者をだしぬくかとか嘘ついてでももうけるとかさらにこつこつ働いても金にならないから盗んだ方が得だとかそういう人がほとんどである。借金は返さないのが当たり前だとなっている。その死んだ人は貧乏でも正直だったのである。10万くらいの借金を必ず返していた。それもそのことで恩義に思っていた。普通金を借りて恩義に思う人などいない、かえって返せといえば恨まれるのが普通である。何百万でもそうであり10万くらいの金にそんなに恩義を感じることなどありえないのだ。

でも正直でないいということは嘘をつくことはどこかで辻褄があわなくなる。それで悪いことした人は嘘をつくようになる。すでに悪いことをした人は嘘をついてごまかすほかないのである。

嘘をつかず生きることは本当に不可能になっているのがこの世である。政治家なんかも必ず嘘ついている。あらゆる職業で正直であることはむずかしい。しかし樹でも石でも自然はそうした正直さをもっていてまさに・・正直の頭に神宿る・・・というとき自然には明かに正直が素心が宿っているのだ。人間はそうした正直に生きろなどということは今や誰も実行して生きないし正直では金にならないというのも真実である。すべてが金にの時代になるとき正直では金にならないから正直なことは馬鹿げているとなる。だからこそ馬鹿正直として正直なことが馬鹿にされるのである。人間がこの世をわたるには正直でない方がうまくいく金にもなる。そういうことが普通にすすめられている。それでも「死後裁かれる」というとき嘘ついたら舌をぬかれるとかそういうことが宗教的にあるとして恐れないのも人間が傲慢になったせいだろう。死後のことなどどうでもいいとなり今が良ければ悪いことでもいいとなる。死後のことまで考えていられない・・・そうなるがしかし人間は死んですべてが終わるわけではない、もし死後に裁きがないとしたらこの世で悪いことでもやり放題やって死んだ方がいいとならないか?それは恐ろしいことになる。現実に証拠がないとか悪いことをしても裁かれない人はいくらでもいる。そういう人たちの罪も問われないとしたらどうなるのか?神も仏もあるものかとなってしまったらどうなるのか?死後に人は確実に裁かれるのだ。ただその裁きが人間がする裁きとは違っている。その罪の軽重も人間が裁くのとは違う。神が見て裁くのであり人間の裁きとは違う公平なものとなるのだ。


ともかく死んだ女性は自分の家と同じ墓所であり墓参りも簡単にできることがいい、墓所はこうしてもともとそこに暮らした人が共有する場所なのがふさわしいのだ。なんらかつながりある人たちが一つの墓所に眠るのがふさわしいのである。

2011年03月04日

正直者の頑固な石(詩)


正直者の頑固な石



正直者は頑固だ

世の中みんな嘘ついているよ

嘘なんかついたってどうってことないよ

そんなことはねえ

わしは嘘はつかねえ

だから馬鹿なんだよ

楽して生きろよ、得して生きろよ

今の世中は金だ

金をもうけなくてはなんにもならん

金のねえやつは相手にされない

こつこつ働いても金にならんよ

正直者は馬鹿を見る

盗んだって金があるやつは得する

でもそういう人は嘘つくようになる

どこかで辻褄があわなくなる

やっぱり真っ直ぐな樹のように

石のように正直で頑固なのが

一本筋が通っている

ヒュ-ヒュ-と風が唸り黙る

石は嘘はつかない

軽挙盲動はしない

正直の頭に神が宿る

そういう人は神様も見ている

死んだあとも清々しい

星のように天で輝いている

その回りにも清らかな星々が輝いている

輝く星の仲間となった

地上は汚れているけど

今はその魂は天に昇り

清らかに仲間ととにも輝いている

posted by 老鶯 at 00:37| Comment(3) | TrackBack(0) | 詩全般

春北風(はるきた)

 
春北風(はるきた)に風花舞うや浜通り


この道や雀の群れて春日かな


春北風やなじみの店に寄り帰る


咲きそめし梅によりにし雀かななお北風の唸り吹きしも

春北風(はるきた)というより北風ヒュ-ヒュ-だった。古本また買った。古本を買うのは安いからであり本は必ずしも全部を読むものではない、本すら実際は自分の文を作るために編集して読むといいのである。何か調べ物しているときはそうである。自分の書いたもの調べたものに引用したり付け加えたりして読むとき活きてくる。ただ読んだだけでは本は活きてこない、インタ-ネットも同じである。自分の書いたものの延長のようなものや深く考察したものなど本の中にはある。
それを編集するとまた別な創造的なものとなってゆく、だから編集は創造になっているのだ。
いろんなものをつなぎあわせると一つの創作になることは確かである。だから本というのは相当な量がないとだめなことがわかる。そして本は全部読むものと部分的に読むものとに分けるべきである。全部読んでいたらとても読みきれないからである。原町のブックオフは本の量が少ないけど結構買っている。本も半分くらい捨てたがまだ買っているのだ。


近くの梅が咲きそめたけど北風ヒュ-ヒュ-吹いた。雀が群れてとまっている。雀は貧しさの象徴なのかもしれない、でも雀も四季のなかに生きているから春になればやはり春の日ざしを梅の花の香りを感じるだろう。自然に生きるものは風流を生きることになる。人間も風流を生きないものは貧しいものとなる。貧しくても風流は感じるからそこに詩歌が生まれる。昔は本当に貧しかった。米の飯を食べられない、米を食べることが念願だったとか醤油は贅沢品で使っていなかったとか信じられない貧しさのなかで暮らしていたのだ。それもそんな遠い昔ではない、大正時代から戦後まもなくまで貧しい時代がつづいていたのである。こんなにモノが豊かな時代はかつて経験していなかったのである。豊さが当たり前になるとき貧しさに生きることに耐えられなくなる。昔は貧しさに耐えるほかなかった。今は耐えられないからかえって犯罪が増えてくるのだ。

田舎だって南相馬市で女子高校生が行方不明になったように悲惨な事件が起きている。田舎でも都会でも同じように事件は起きる。田舎がのんびりした所などでなくなった。犯罪は身近なのである。いわき市からも凶悪な65才の犯罪者が出たりと高齢者の犯罪も不況が長引き貧乏がふえてくる確実に増えてくる。田舎も昔の田舎とは全然違っている。金が第一であり生活に追われ汲々している。のんびりしているところなど今やないのだ。貧しいときはみんな貧しいから助け合うということがあった。今はあんた助けてもらいたかったら金を払いよとどこでもなる。金なしではもはや人はお茶一杯すら出してくれない、でも介護とか病気になったら金で何でもしてくれるわけではない、そのことを身に沁みて経験したから現代は無縁社会とかかえって殺伐とした社会となっているのだ。


福島県はハマ、ナカ、アイヅであり浜通りは雪はふらない、少しは降っても風花が舞うくらいである。今日も風花が舞っていた。ともかくここ二三日は本当に寒い。春北風とあるけど実際は北風そのものだった。

2011年03月05日

ケルンの塔(詩)


ケルンの塔
the highly twined towers in the heaven


ケルンの塔対なしいや高く天に聳ゆ

数々の歴史を秘めし古城にそい

悠々たるラインを船は下りぬ

はるか地平にオランダ近しも

船は静かに荷を運びゆくかな

秋風寥々とふきそよぎわたり

ここに祈りの鐘は鳴るかも

ゲルマンのゴシックの大聖堂は古りぬ

かつてのゲルマンの森の黒々とあれ

荘重なるドイツの栄えここにあれ

ベ-トベンのひびきは故国ドイツに永久なれ

その大地と共に調和し奏でられぬ

春北風(はるきた)(2)


春北風(はるきた)に松風鳴りて右田浜


春光に一艘白し船の行く

陸地には北風なおも吹きにつつ沖行く船の春日に白し

首吊りがもし右田浜の松林であったらまたは松川浦であったらいつも行っているところだから影響が大きい。外からくる人にしてもわからないからいいかもしれないが自然の美がそこなわれる。やはりそういうふうな場所には何か残る。死んだら何もなくなるというが何か残っている。そういうものを直観的に感じる。これは理屈の問題ではない、人間は絶対に無神論者にはなれないようにできている。死んだら何もなくなるということはありえない、現実にそんな悲惨な死に方をした場所には行きたくなる、縁起が悪いとかなるし自殺した場所にはまた自殺する人がやってくる。自殺者をひきつける場所となるというのもそのためである。現実にあそこの場所は地元の人でないとわからいだろう。人の入らない陰気な場所だった。首吊りするにはいい場所だったのかもしれない、ともかくこういうことはあとあとまで後味の悪いものとなる。つくづく本当に犯罪って身近なのである。次はあなたの番だということを自らも感じた。田舎でもこれから犯罪が次々に起こる。犯罪なんか他人事だと思っていたが被害者になること確率的に非常に高くなっている。だから次はあなたの番だと言っても過言ではない、それだけ犯罪が身近になったことを知るべきである。そもそも田舎でも人は信用できなくなっている。昔の田舎とは全然違うことを認識すべきである。田舎だから安心だなどということはない、人見たら泥棒か犯罪者だと疑った方がいい、残念なことだがそういう時代になったのである。もはや誰に対しても油断はできない、犯罪は本当に身近な問題であり次はあなたの番になる。


春北風(はるきた)というとき今日は春北風(はるきた)だったのだろう。昨日は北風でも寒かった。今日は昨日よりいいから春北風(はるきた)と言えるだろう。右田浜は松風がいつも鳴っている。
海にいたのは小さいから鵜ではなく鴨だったのだろう。でもなぜあんなに浪をかぶってまでいるのか河口の静かな場所にいればいいと思うがわからない、海を見ていると遠くに行きたくなるが今や行けない、旅することは贅沢だった。時間も金もかかるからだ。でも旅してもつくづく本当に見ていない、富士山なんか良くみていない、場所がいいところでないと富士山は良く見えないからだろう。富士山はもっと見てみたい、しかしまず介護になると近くに外出するだけで大変である。代わりがいないから苦しいのである。

2011年03月06日

醤油もまともに使いなかった昔の貧乏と今の貧乏の相違-島木健作-地方生活を読んで


醤油もまともに使いなかった昔の貧乏と今の貧乏の相違

島木健作-地方生活を読んで 


醤油を日常的に使うようになったのは大正後半期からである。そ[さまでは客が来ると瓶をもって買いに行くという風であった。

砂糖は正月、盆、祭り以外に食わなかった。


塩鮭は正月用、客用の食い物だった。


大正十二三年ころまではかて飯が普通であった。屑米に大根のかて飯が常食であった。


部落中の家々のことはかまどの灰の下までおたがいにわかっているとういうふうであった。


一軒ごとに風呂をたてるということはしない、二軒ないし四五軒で交替にたててもらい湯をする
ある部落では二三十軒で共同風呂をたててきるところもある。

地方生活(島木健作)



醤油すら買って使っていなかった、大正の始めころまでだったとすると明治時代は当然醤油を日常的に使っていない、醤油を使わない食生活があるのか?醤油は贅沢品だったのである。醤油はごはんにかけただけでもうまいとなる。もちろん砂糖は贅沢品だから使っていない、砂糖がない生活は今は考えられない、砂糖を極力ひかえようとしているのが現代である。砂糖のとりすぎは体に悪いとかなっているからだ。腎臓悪くしてから醤油には塩分が多いから自分はひかえている。味噌汁も塩分が多いから良くないと思って今は自分で作れないので作っていない、糖尿病でもそうだが今はいろいろな栄養分をひかえないと病気になる時代である。ところが明治から大正くらいまでは醤油すらいつも使っていない、醤油が贅沢品だったということが考えられないのだ。

大正生まれの人が長生きなのは粗食であり忍耐強い生活を送ってきたからかもしれない、団塊の世代になると贅沢を覚えたから栄養過多になっているから意外と長生きしないかもしれない、栄養過多から来る病気が思った以上多いのである。いろいろなジュ-ス類などより水のが方が体にはいい、腎臓には水を飲めと言われて病院では二リットルの水を飲まされた。ジュ-ス類でもコ-ヒでも酒でもビ-ルでもこうした飲み物は肝臓とか腎臓で濾過しなければならないからそうした臓器は長年の間に弱ってくるのだ。水だったらそういうことはない、61才の社長が一人自宅で死んでいたという、肝硬変だった。酒類を飲み続けると肝臓が弱ってくる。腎臓もそうである。水が体に一番いいのである。現代の病気は栄養過多になり体が吸収する以上の栄養をとりすぎて病気になりやすいのである。それだけ食べ物があふれているからどうしても栄養過多になっているのだ。パンなどもご飯よりかなり栄養価が高いのだ。パンにはすでにいろいろなものが入っていて栄養価が高いのである。


大正時代ころは白いご飯を普通に食べられない、大根まぜたかて飯だった。団塊の世代の子供時代は麦をまぜた飯でありまずかった。麦を入れるとご飯はまずくなるのだ。米を作っている農家の人ですら 白い飯を大正時代ころまで食っていない、屑米に大根飯である。それほど貧しい生活だった。子供の頃は良く塩鮭を食っていた。今は鮭は贅沢品ではない、今の食生活は本当に殿様並である。それは金がないという生活保護所帯でも食べるものはそんなに変わっていないのだ。その当時からする栄養過多で悩んでいる現代人を想像もできないだろう。過去には確かにすでにロ-マ帝国では美食になりそれが滅びる要因ともなっていった。ロ-マ人はみんな農民の出身であり質実素朴でありそれがロ-マ帝国の基はなっていた。それが富がロ-マに集まり美食となり堕落して滅んでいった。粗食であっても人間は質実で素朴なときは社会も健全だということがあった。80代以上の人は遊ぶことをしない、消費はしないが質実堅実な正直な律儀な人が多い。義理人情に篤い人のことを書いたが人間としてそういう日本人が多かった。明治大正から昭和前期の人にまだそうした人々が多かった。類型的に人間が違っていたのだ。それは江戸時代から明治と受け継がれた日本人的ないい面を受け継いだ世代だった。それが70前からになると団塊の世代でも贅沢を覚えたから全然違っている。日本人的伝統はこの世代で全く絶えた。ただ高度成長の金だけを追求する世代となったのである。だから金さえあればいいとなり助け合うなどということはない世代である。他者を蹴落としまでのしあがれ金をもうけろというモラルしかない世代である。


一軒ごとに風呂をたてるということはしない、二軒ないし四五軒で交替にたててもらい湯をする
ある部落では二三十軒で共同風呂をたててきるところもある。


人は貧乏だとかえって助け合う、これも節約するために助け合わざるをえなかったからこうなった。豊になれば一軒一軒風呂があるのだからこんなふうに助け合わない、そして金さえあれば何でもできるとなり互いに助け合うことはない、金で買いばいい、人の助けも金で買いばいいとなり人は助け合わなくなる。でも実際はすべて金で買えるわけではない、つくづく人間はお茶一杯出すのでも心がこもっているのといないとのでは雲泥の差がある。でもお茶一杯出すのには見た目は変わりないのである。しかしその差はものすごく大きい、金ももらってしぶしぶこの金もっている嫌な爺婆を世話しているんだよ、すべては金のためだそれ意外何もない、できたら爺婆が金たんまりもっているからごっそり貯金から盗ってやりたいんだよ・・・とか心で思っているのが普通だとすると現実にいつかそうなるから怖いのである。現代で人々が無縁社会とか助け合わないのは豊かだから助け合わないという皮肉があるのだ。


今の日本の貧困は中進国の貧困より実はたちが悪い。
一度贅沢な暮らしを経験してしまうと気持ちが抜けられないため、余計に惨めになっている。
周囲の目も違いすぎる。
中進国の貧困は地域や親戚などのコミュニティで物々交換で互いに守り合い、人々は明るい。
戦後の日本もそうだった。

今の日本の貧困はやや金があっても完全に孤独でむしろホームレスに転落しやすい。
福祉の力を借りない真面目でプライドだけ高い人も多い。
ひょんなことで限界に来る。


現代の貧乏は前にも書いたけど昔の貧乏とは大違いである。贅沢を覚えたために不足する貧乏なのである。そもそも貧乏というのは見えなくなっている。誰もボロボロの服など着ている人はいない、だから貧乏な人など見えないいないと思っているが現実はそうした普通の暮らしをするだけで給料が減ったりすると大変になっているのだ。だから借金している人が本当に多いのである。借金しないと普通の暮らしができなくなる。それも辛いことなのである。かえって現代の貧乏はみんなが貧乏な時代より辛いとなっているのだ。田舎なら車なくて生活できないとかなるが実際は街中に住んでいれば暮らせないことはない、でも街から離れると車なしでは生活できなくなる。田舎でも普通の暮らしをするとなるとコストがかかる時代なのである。


古本で買った「地方生活」は当時の暮らしがわかりやく書いてあったから面白かった。
たまたま古本市で買ったのである。

部落中の家々のことはかまどの灰の下までおたがいにわかっているとういうふうであった

プライバシ-はなかった。何を食べたかまでわかるから贅沢したらすぐわかる。今はみんな食べ物ではたいして変わらないからわからない、
でも車などいいのを持っていると相当に注目されうらやまれるだろう。これは豊かな時代でもつづくのである。人間の欲はきりがないから必ずもてるものもていなものがあり格差がうまれそういう気持ちがなくなることはないのだ。持ち物だけではない、一体女性なら美貌でありスタイルであれ男なら才能であれ必ずなるものとないものがあり妬みが起こる。そういうことはなくならないのだ。


他には川が汚水で汚れていてチフスや伝染病にかかる人が多かった。井戸水も汚れていて飲めないところがあったとか水に苦労していた。水は今簡単に水道で使えるが水がないということはやはり井戸水だけでは難儀していた。そうしたいろいろ難儀することは今と比べるとその相違がわかってくる。水道はありがたいものだとか思わないが水に苦労していればそうなる。
つまり人間はつくづく苦労しないと苦労して手にいれたものでないと金でも苦労して稼いでいないとそのありがたみがわからないのだ。遺産なんか苦労せずに天から降ってくるように入ってくるものだから問題が生じる。労せずして入るから問題になる。自分で苦労した金は違っているのだ。交通事故でも今度は自分が責任者となり交渉しているからそれで入った金は自分が稼いだような気分になる。明日は仙台の交通事故の調停センタ-に出かける。50万では安すぎる。百万以上にはなるといっていたが交渉したいになる。それなりに自分で苦労して得る金は違っているのだ。

2011年03月07日

春の雨(仙台へ)


春の雨老いの二人や仙台へ


仙台の欅並木や春の雨


情篤き女(ヒト)は死にしも春の星

仙台の交通事故調停センタ-に行った。看護が医者の命令がある書類を出してもらわないと認めてもらえない、だから百万出ればいい方だとなる。家事はしていたからそこは認められる。もっともらえると思ったから当てはずれだともなる。いろいろ書類として証拠を出さないと認めてもらえないのが司法の世界である。どんな犯罪でも証拠がないと受けつてさえもらえない、でも交通事故の被害などは賠償請求できるからいい、他の犯罪では賠償さえ請求できない、泣き寝入りが多いのである。犯罪被害者は泣き寝入りして犯罪犯した人は何ら罰せられず反省もしていない、社会的制裁を受けていない、そういう事件も多いのである。そういうことは理不尽だと思うけど現実はそうなっている。そういう犯罪を犯した人は良心に苦しんでいるというけど苦しんでいない人だって多い。そうなると被害者のみがただ苦しむだけなのでありそれで許されないとなり裁判にもちこみ罰せられるべきだとなるのはわかる。


何か理由もわかないいの殴られて身体障害者になった人もいた。その体は一生直らないとか犯罪被害者になったら悲惨である。そして犯罪被害者より犯罪を犯した人は罪は許されるべきだということが納得いかないのは当然である。犯罪被害者には償いも何もないとなったら自ら復讐したくなるのもわかる。犯罪被害者の気持ちもその人の身にならないかぎりわからない、宗教的には許せと言っても身内が殺されたような人は簡単に許すなどとはならない、延々と恨みつづけるようになる。多少でも反省したり良心に苦しんでいるならいいが全然そういう反省も何もない犯罪者も多いからだ。そうした理不尽はつくづく理解できない、交通事故なんかはとにかく慰謝料だけでももらえるし被害を訴えられるからまだいい、全然訴えることもできない犯罪が多いのである。そして犯罪の被害者を慰めてくれる人もいないのである。宗教的にはかえって犯罪者を許せとかばかりになっている。では犯罪被害者はどうして慰められるのだろうか?償いはどこにあるのか、こういうことはすべて当事者にならない限りわからない、当事者にならなければすべて他人事になってしまうからである。


今日は春の雨だったのだろう。近くの人はずいぶん年とった。歯がないのと頭が完全にはげているので年より10年くらいふけてみえる。あそこも子供の自殺とかいろいろあった。その人本人のせいでもあったがずいぶん老けてしまったなとつつづくみた。たまたま仙台へ行く電車にのりあわせたからめずらしく話したのである。親には世話になったから話ししたのである。目が見えず書類が書けないとか言っていた。交通事故になり後遺症で目の神経がやられた。それが20年後くらいにでてきたと言っていた。それで目が見えない、これもひどいなと思った。60代になるとなんらか病気が出てくるのだ。自分も明日はまた病院に行く。


仙台の欅並木が春の雨に濡れている。仙台はやはり東北では都会らしい都会である。そんな仙台に行く二人はすでに老いていたのである。団塊の世代も老いて日本が老人大国になるというのは本当である。家に帰ったら雨は降っていない、春の星がでていた。東京の方は寒く雪がふったらしい、明日はまた市立病院に行かねばならない、その人も眼科に行っているから60代になるとなんらか病気になっているのだ。