2011年02月02日

冬菜(写生俳句の追求-シンプルなものに真実がある)

fuyuend11122.jpg

この道や竹に冬菜に何もなし


手水鉢打ち凍りけりジョウビタキ庭に来たり去る朝の清しき

この句も写生そのものかもしれない、一見すればつまらない、要するにこの道を何度も通っている。余りにも見慣れた変化のない道である。それでも今日気付いたのである。農家の前に冬菜があり竹の茂る農家があると・・・それはあまりにも当たり前の光景だった。農家といっても六号線の近くだから今は農家らしい農家とは言えない、回りが田んぼであり畑になっていると農家と思ってしまうが今は農業だけをしている農家は少ない、昔ならみんな農家といえば農業だけが仕事だった。ともかく毎日見ている余りにもありふれた光景には飽きるからたいがい自分の住んでいるところは嫌になる。自分もだから旅ばかりしていたのである。つまり何にもない・・・それが田舎だとなる。でもその何にもないことこそが田舎のいいことなことに気付くのは老人になってからかもしれない、つまり東京をみたまい、そこはあまりにもありすぎて困るのである。家や都会がひしめき悲鳴をあげているようである。自分はもともと性格的に都会向きではなかった。だから学生時代に東京で暮らしたがあわないから田舎に帰ってきた。でも故郷には何もない、田舎には何もない、都会がいいと思っている人が多い、若者は今もそうである。ただ老人になると心境が変わる、どうしても田舎がいいとか故郷がいいとかなる。それは都会が好きでもそうなるのである。それが人間も生物だから自然の中に還りたいとなるからである。


俳句は写生だと書いてきた。冬菜と竹しかないその一画がかえって気持ちがいい、何もないことが気持ちいいのである。冬が爽快なのは何もないということにある。現代文明はいろいろなものがありすぎて困っているのだ。家事全般を掃除までやるようになってからゴミがこんなに出るのかと嫌になった。現代文明はゴミが出すぎるのだ。それも相当の無駄である。新聞もたまるから嫌になった。新聞は相当な紙の無駄だし文明は無駄が多すぎたのである。新聞がなくても今は暮らせる。新聞は紙の浪費になりつつあるのだ。人間はこれから無駄を省く生活を心がけねばならないだろう。今までの文明的消費的生活でいいのか問われている。それはまた都会的生活でもあった。都会がすべてが悪いとはならない、現実に今日も原町のカキフライのうまいレストランに行った。やはり原町くらいの方が住みやすいのだ。ただ原町とか5万くらいの都市と東京は比べ物にならない、仙台でもまだ田舎の都市なのである。現代文明を見直すというとき茶とか禅の精神とかが見直されるかもしれない、宗教はそもそもそうした簡素さのなかでの悟りとかを追求してきたからである。簡素さの中にこそ真実がある。それは明かに写生俳句に通じている。あまりにもありすぎる社会によって人間は疲れたのである。何もない世界がもともと自然である。あまりにもありすぎて複雑すぎるから苦しむのである。真っ直ぐな竹と冬菜だけの光景にシンプルな簡素な生がある。そういう世界ではありすぎる現代社会のように悩むことはない、鬱病になることはないのである。だから江戸時代が終わり明治に来た外国人が日本人はいい顔している、穏やかな顔しているとして驚いたというのはそのためである。貧乏であるにしろいろいろなものがありすぎて複雑で悩むことがなかったためなのである。文明はいろいろな過剰故に苦しんでいるからだ。


汽車過ぐるあとを根岸の夜ぞ長き-子規


上野ですらこんな状態だった。上野は淋しい場所だったのである。今からすると信じられないが実際にそうであり子規はそういう淋しい場所に住んでいたから風流もあったとなる。今は風流はない、汽車が真夜中まで行き来して今や車でも音が絶えることがない世界からすると考えられないのである。上野で汽車が過ぎ去っていってあとなかなか汽車が来ない・・・汽車もそんなに上野に来ないということが考えられないのである。


まあ、まだまだ冬は長い、それにどこにも出かけないとさらに時間が長くなり退屈になる。結局自分の状態は以前として変わっていない、介護になるとちょっとでも出かけられなくなるのだ。
病人は一人になると不安になるからだ。近くまでも出かけられなくなるなど考えもつかなかった。これが一番ショックだったのである。

初春-北から南へ城十句

springffffccc11.jpg


初春-北から南へ城十句

北の果雪に埋もるや弘前城


雪踏みて天守もなしや久保田城


盛岡の桜まだ見じ冬籠


春風やみちのく統べる青葉城


雪残る上山城電車過ぐ


白河城夕日のさして電車過ぐ


雪国の冬の長さや鶴が城


南へと春潮ひびく小田原城


大橋に吉田城かな春の暮


長篠を出でて豊橋春の風


春の川海にそそぐや吉田城


春の日や東海道の名古屋城


関が原こえて春野の近江かな


我も入る大阪城や花盛り


春の朝松山城の栄かな


海望み明石城や夕桜


春の夕船の往来明石城


車窓より春野のかなた姫路城


駅おりて福山城や花盛り



日本の特徴は北から南へと伸びて北国と熱帯まである変化に富んだ国なのである。桜にしても稚内では6月でも咲いていた。桜前線は稚内まである。その中でやはり日本では城も多い。
城を中心に見るようになるのも日本である。弘前城にも久保田城(秋田)にも行ったが久保田城には石垣がないとか天守がないとか古風な作りの城になっている。弘前となったら江戸時代にその遠さは本当に辺境の地である。赤穂浪士の討ち入りを伝える書状が残っている。そうした大事件でも伝達されるまで時間がかかるのが江戸時代である。それが新幹線の時代になるとあっというまについてしまう。みちのくの桜ではまだ盛岡と弘前の桜を見ていない、桜を見るには時期があるからなかなか見れないのだ。弘前の桜は新幹線が通じたから行きやすいことは確かだが介護になったら近くも行けないとしたらやはり行けないのである。これまで自由に行けたのだからその罰とし牢獄につながれたようになったのである。

みちのくの城は大きな城はない、電車から見える城として上山城と白河城(小峰城)があるが瀬戸内海の福山城は駅が城になっているのと同じであり天守が望める大きな城である。姫路城は車窓から遠くに見えたとき感動した。やはり大阪から南へと日本は栄えたから大きな城がある。大坂城の桜は実に見事であった。
歴史が地理だというとき飯山線で豊橋まででてくる行程はかなり長い、長篠がありここが武田と信長が戦った地点かと電車の駅名だけから想像する。確かにそこから豊橋は近く東海道に出る。東海道は江戸時代から日本の幹線であり今もそうである。山国から海にでてくる。吉田宿があったが感覚的に飯山線から山国から豊橋にでてくると感覚的には昔とはかなり違う。豊橋から名古屋は近いのだから武田と信長が衝突した地点が長篠だったということは地理的に納得がいく。新潟の小出から回ってきたが新潟はまだ雪であったが東海道に出たら春の盛りになっていた。こうして山から海へと変化があるのが日本なのである。


飯山線-飯田線の旅 
 http://www.musubu.jp/notetrip.htm

冬の暮(橲原と大原)

 
この道の冬灯を今日も見て帰る


飛び移る尾長美し冬の水


橲原と大原近し冬の暮


橲原に枯木二本や墓所暮れぬ


大原に古りにし家や冬籠もり


遠出して梅の蕾やふくらみぬ

橲原と大原は直通の道ができたから近くなった。あそこにそもそも道が必要かというとそうでもないだろう。今や道が必要だから道を作っているのではない、公共事業の一環としての道作りである。なぜ今は村に住むメリットがなくなったのか、昔は山の暮らしでも豊だったというとき燃料の材料となる木が薪があり炭焼きもしていた。薪や炭は街にも売っていた。他にも自給自足的経済で街に住むよりいい面があった。山には山の暮らしがあった。橲原だったら木材の供給源ともなっている。今は燃料は石油だ電気だとなり買物は車で街へ行くとか山村に村に住むメリットがなくなったのである。風流で暮らすわけにもいかないからである。ただ山村は暮らしにくいことだけが目立つようになってしまった。だから今では橲原と大原を結ぶ道路が必要なのかというと疑問である。橲原と大原を結んでも今は何か利益があるということはないだろう。


何度も行くたびにみている冬の灯・・・誰が住んでいるのだろう。冬の灯でも昔なら農業だけで暮らしていたのだから貧しい人が多い、そうすると一段と冬の灯は心にしみるものとなっていたのだ。子供の頃は裸電球であり電化製品はほとんどなかった。戦前になれば極力電気も使わない、電気にして今ありふれて過剰に使っているから過去のことが想像できなくなっているのだ。電気がない世界とか車のない世界が想像できなくなっているのだ。家で裸電球くらいしか使っていない時代が50年前くらいにあった。松下電器が電球から売り出したことでもわかる。戦後も葛尾(かつろう)村とかではなかなか電気さえ使用できないでいた。電気は山村になかなか普及しなかった。ともかく田舎は本来は冬の灯がにあう所であった。都会では冬の灯の感覚がでてこない、こうこうと不夜城のように冬という感じもなく照らしているからだ。モノがあふれている時代には質素な冬を思うべきである。むしろ過剰な消費の時代から昔の質素な生活をふりかえるときがきているのである。モノがあふれ豊になったが失ったものも多いのである。実際に村自体が消失するという危機にいたっている。これも深刻な問題である。上真野でも空家を活かすにはどうしたらいいとか都会でも空家がふえて困っている。土地や家には価値がなくなっている。ただでも住む人があれば住んでもらいたいとなっているのだ。


冬籠もりというときやはり薪を積んで囲炉裏であたたまる昔の農家なら本当に冬籠もりなのだろう。今は冬籠もりという生活自体がない、冬でも勤めに出ているのだから家に籠もっていることがないからだ。でも冬はやはりしんとして冬籠もりしているのがいい、自然のリズムに従い生きることが生物にとって人間にとってもいいのである。そういう自然のリズムから離れてしまった人口化した極度に工業化した世界ではとても精神の安定は計れない、鬱病になるのが当然なのである。不思議なのは石油に頼る文明は石油が使い尽くしたら滅びる。石油がなくなる、では次のエネルギ-は何なんだというときそれは実際は生み出されていない、石油に代わるような効率的な巨大なエネルギ-は生まれないのかもしれない、電気だって実際は火力が主であり石油がエネルギ-になっている。石油がなくなるととなると世界中で大騒ぎになる。エジプトで騒動になると石油の値段があがる。中東紛争が再燃するとか常に世界的政治問題になる。では不思議なのはエネルギ-を自国の薪や炭に頼っていた時代はそういう心配はなかったろう。

現実に石炭で走る自動車がかなりあった。これだけ石油や電気を使う時代はなかったのである。それだけ石油文明の時代は膨大なエネルギ-を消費している今までにない文明である。
だから石油がないと生きていけないとかなり石油の争奪戦になり戦争になるのは石油文明だからこそである。石油がなければ各国が薪や炭で暮らしていたら石油の争奪戦で戦争する愚行はありえないのである。そういう点からも文明は見直さねばならない、様々な弊害が人間の
モラルまで破壊する文明はいづれ滅びてしまう。限りない豊かさを求めた結果として人間の精神まで破壊されることはとめねばならない、資本主義も確かに恐慌があり破綻する運命にある。石油文明もまた同じなのである。


ともかく冬は質素、簡素の中に映える美が際立つ、今日は少しあたたくなったので橲原の方までやっと行くことができた。今年は寒いから自転車では行きにくかった。実際に今日はどこかの家の梅の蕾がふくらみ咲こうとしていたからこれだけ寒かったがやはり春は来ていたのである。

 
 
 
 

2011年02月03日

2011年 年賀状二枚目

2011-new.jpg

2011年 年賀状二枚目

2011年はどうなるのだろう、世界的にはエジプトのデモのように不穏なものからはじまっている。世界的には何か大きな異変が生じてくるのか?2012年が人類の総決算が起きるというが人間は人生の総決算とか起きる、自分の家の総決算が起きた。今もそれはつづいている。人類の総決算がいつか起きてくるのかもしれない、人生の総決算は必ず個々人で起きてくる。
日本だっていつまでも膨大な借金を背負っていることはできない、これもいつか総決算が起きてくる。


人類の罪の総決算も起きてくる。それが最後の審判である。実際にその日が近いのかもしれない、文明は飽和点に達している。それはあらゆる点でそうでありバベルの塔のような崩壊がはじまるのかもしれない、要するにこの世にある限りそうした危険から逃れることができない、つくづくこの世は危険に満ちていることを自らも犯罪の被害者になったりして実感した。人間は他の人の災難なら面白く見ているだけなのである。自分に被害が及ばない限り面白いとなる。

エジプトの争乱でも日本に関係しないなら面白いとなるがこれが北朝鮮や中国になるとそうはいかない、尖閣諸島問題のとき戦争になるのかとさえ戦々恐々となっていたからだ。

2011から2012は人類史の最大の危機がくるのか?自分は去年は人生最悪の年だった。その最悪はすぎたのか?まだ災難は終わっていない、なんとか体が普通に動けるから助かった。

兎年といってもぴょんぴょん動けないことは確かである。蛇年のようにどぐろを巻いて動けない年になる。兎年にはならない、ただ去年のような最悪の年にはならないだろう。それを願うほかない。


 

posted by 老鶯 at 00:46| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記

2011年02月04日

春の鴨(松川浦十句)

kamomomo11.jpg

春の鴨(松川浦十句)


東風(こち)吹きて海に向かいて走るかな


広々と松川浦や春の鴨


船溜松川浦や春の鴨


海猫の春光あびて船溜


春潮や灯台に松の緑かな


春の日や大橋わたり沖に船


松川浦春光まぶし船帰る


春の日や大船泊まる港かな


原釜の春やここより塩の道

matufune1111.jpg




昨日は海の方から東風が吹いた。福島県の浜通りは海から春がくる。京都辺りの山から吹く東風はわかりにくい,東風吹かば思い起こせよ梅の花・・・この東風は京都なら山から吹いてくる。東山の方から吹いてくるのだろう。盆地だから海は意識されない、でもこの辺では丸森だと山を越えれば海が見えるし海を意識する。丸森ならそうである。丸森で感じた東風はそうだった。山から吹いても海を意識するのだ。

松川浦の船溜(ふなたまり)は地名でもあり実際に船溜まりであり。そこに鴨が悠々と泳いでいた。鴨も広いから気持ちいいだろう。松川浦の青海苔が不作だというとき水温と関係していた。微妙に水温に影響されていた。今年は寒かったせいでそうなった。松川浦は特別風光明媚とはならないがこうした浦は太平洋岸にはまれだから貴重だとなる。大きな貨物船だが泊まっている。客船だったらいいが火力発電所があり石炭を積んだ船は外国からも来るのだろう。船の旅もずいぶんした。船には旅情がある。寝ころんだりしてゆったりできるのがいいのだ。東京から沖縄まで一週間かけて船旅したこともあった。貨物船みたいな船でありそんな船が通っていたときがあったのである。そういう時間をかけた旅が旅なのである。今は余りにも早すぎる旅で思い出に残らないのである。船旅ならやはり最後は世界一周の豪華客船の旅をしたい。三百万くらいだったらできないこともないだろう。この船旅は老人でも病人ですらできるだろう。船旅は楽だからいいのだ。この世の見納めにこの旅はいいかもしれない、ただ相当に暇だろうなと想像する。見るのは海ばかりだからである。ともかく旅は時間をかければかけるほど旅になる。その時間が勤めている人にはないから本当の旅ができないのである。旅は今や時間と金をかけて演出して作り出さないとできないのである。江戸時代あたりなら歩くことだからすでに遠くに行くことは時間をかけた旅になっていたのである。
松川浦から原釜からは塩を飯館や二本松まで塩を運んだ塩の道の出発点である。かならず飯館に行くまで一泊しなければならない、そこで助け小屋があった。その距離感覚が今の時代では感覚的に持てないのである。これも遠くへ旅に出るような感覚になっていたのである。行って帰るにしても日にちがかかるからである。

立春の連句 (日本人は大和言葉を根幹として成り立つ)


立春の連句
(日本人は大和言葉を根幹として成り立つ)

天地(あめつち)に四肢を伸ばしぬ春の風


天地の広きを望み春来る


春来る天地に湧きぬ力かな


春来る天地にひびく命かな


鳴動し日本列島年明けぬ


日本国装い新た春来る


みちのくの眠りを覚ます東風の吹く


火を噴きぬ九州の山や年明けぬ

 


推古天皇一五年春に詔(みことのり)を布告され・・


朕は聞く、むかし、我が皇祖(みおや)の天皇等(たち)の世を帝(おさ)めたまへる、天にせせくまり地にぬきあしして、あつく神祇を礼い、周(あまね)く山川を祠(まつ)りて、幽(はる)かに乾坤(あめつち)に通わす。是れを以て、陰陽開け和らぎて、造化(つくること)共に調(ととの)ふ。今、
朕が世に当たりて、神祇を祭祀ふこと、豈に怠りあらむや、故に群臣ともに為に心をつくして宜しく神祇を身拝(みやまいま)つるべし


日本人の日本人たる所以は何なのか?その根本に大和言葉があることはまちがいない、日本語はどこからきたのか不明である。韓国語と似ていると言ってもほんのわずかであり発音もほとんど違っている。日本語はそもそもいくら解明しようとしてもどこから来たのが謎でありそれが日本の起源を考える一番の不思議なのである。日本語は中国から漢字が入ってきたとき二つの言葉が融合した。その起源はすでに遠いから二つの言葉は本来相当に別々のものでありその観念も違っていた。そうした苦労と混乱がこうした文章に残されているのである。万葉集も漢字で記したときそうなった。今では意識せず使っている大和言葉と中国の言葉は実際は全く別々なものだった。だから漢字に大和言葉のふりがなをふっている。天地はアメツチであり乾坤もアメツチである。天地(テンチ)と乾坤(ケンコン)は中国語の発音である。アメツチが大和言葉の発音である。本居宣長が大和言葉の起源をたずね大和心と唐心を区別したことでもわかるように日本人を知るためには日本語の再吟味が必要なのである。

命(いのち)を生命と漢語で言うのとは相当違ったものでありそれをもう一度再考すると日本人の心が漢語が入る前の大和言葉にあることがわかるのだ。命はミコトともあてている。詔(みことのり)は今のような政治的政策ではない、天地からたまわる命に直結していたのである。ともかく日頃何気なく意識して使っている大和言葉は日本人を日本人たらしめているものなのだ。

春は張るであり天地に張るである。実際に体の血流が盛んになり張るとなり体自体変わってくるとも思える。体も自然のリズムに則って活動しているのだ。冬(ふゆ)がふゆるであるというのは冬の間は冬眠して英気を安なう季節、春へのふやす季節の準備だからである。これも漢語にすると春がシュンと発音するときそれは漢語であり日本語ではない外国語を使っているのである。漢語にしたとき大和言葉本来相当違った言葉でありそれを一致させようとしたとき大混乱があった。それを実際は今でも引きづっているのである。安らかが安心となるときかなり違った感覚になる。和らぐ(やわらぐ)とあるが平和だとするとまた違ったものになる。だから日本人が心が安らかになるといえばしっくりするが心が平和だとか言うとしっくりこない、安心というのも日本語とは違った感覚の漢語なのである。新年はあらたまであり魂が改(あらた)まるから来ている。魂にしても霊魂とタマシイというのは相当違った感覚になる。つまり漢語と日本語は本来英語と同じ様に別々の言葉だったのである。言葉が違うことはその言い表す観念もそもそも違っていたのである。だから大和言葉に大和心があり大和の精神があるということになる。平和というときかえって英語のpeaceがふさわしく感じられたり英語と漢語がしっくりいくものがある。ただ平和が漢語ではない、明治以降日本人が作った漢字も相当あるからまた混乱してくるのである。


俳句にしてもこれは日本人のみが本当に理解できるものであり外国人には理解しにくい、これを中国語でも英語でも翻訳すると実につまらないしこれがどうして文学になるのかと外国人は不思議に思うだろう。それは季語一つ一つに日本の風土、季節を凝縮したものがあり日本独特のものだから理解しにくいのである。これは外国でもヨ-ロッパの文化はその地を踏まないと理解しにくいのと同じである。前にもヨ-ロッパの都市を歩くだけで都市が建築そのものでありシステム的にできているということを理屈なしに実感する。日本では理解しがたいものが大陸的に養われた歴史と文化がある。そういうものは風土と歴史が一体となり時間の中で育まれ作られてきたものだからその地を踏むと理屈なしで実感するのである。だから日本の文化も季語をしるためには一年間くらい住んでみなければ理解できないのである。


御民吾(われ)生ける験(しるし)り天地(あめつち)の栄ゆる時にあへらく(巻6-996)


宇宙、天地、自然の律動とともに律動している存在であるという自覚こそが「生ける験(しるし)」である。
今や人間はどこでも文明化して機械化した人間になっている。天地のリズムから離れて生活しているロボット人間と化している。天地を感じることがないということは人間は異様となっている。自然の奇形児化してしまったのが文明人なのである。機械化して文明化が極端化した結果、二千年前の老子がすでに警告したように文明化は人間を人間ならざるものにしたのである。

天地のリズムの中に生きることこそ本当に生きることなのである。だから都会的生活は生きることにはならない、一見そこに栄があるようでない、天地から離れた栄は本当の栄ではない、日本の自然と一体となった栄こそ本当の栄である。天皇は権力者の帝王ではなかった。日本の自然の祭祀者であり日本の自然を言祝ぐものだった。詩人もまた日本の自然を言祝ぐものなのである。詩人はもともと祭祀者だったのである。ただ今やそうした詩人はいない、結局現代文明から離れないと今や真実は見えなくなっている。アウトサイダ-となり文明を見ないと今の文明が何なのか見えないのである。それは自然から離れた奇形だということである。当然人間も奇形化してしまったのである。


まあ、なんとか病気になったけど普通に動ける、健康でいられる。やはり人間は健康でないと健やかでないと詩も病的になる。そして病的なものが文明では普通のものとしてもてはやされる。そういう不健康な老人ばかりと接していたし今も寝たきりになっている人をかかえているから同じなのだが自分が病気になっても普通に動けたということそしてやはり春になって動いたら力が湧いてきたことはうれしいことである。ただ今年も本当に早めに暗くなる前に帰らねばならないとなると外出することが近くでもできない、そういうことは考えられないことだったし実際にそういうことが五年間つづいているのだ。それが今年も自分の最大の問題なのである。

2011年02月05日

松川浦の暮らし


松川浦の暮らし

船迎え松川浦に妻たちの神社に祈る冬のくれかな


NHKテレビで松川浦のことを女性中心にして昨日放送していた。地元のことでも農家のことを街の人は知らない、漁師のことも知らない、庭作りして直接仕事してもらい話を聞いてわかったことがあった。やはり仕事としてかかわったからこそわかったのである。テレビを見ただけでもわからない、情報はすべて一部なのである。松川浦を語るとしたら実際はそこは現代の文明を反映した複雑な地域となっているのだ。地元の人ですらそこを全部知り得ようがない、今回のテレビでもほんの一部の情報にすぎないのである。ただもともと漁師と農民の相違は大きかった。仕事の性質が根本的に違っていた。でも日本は古来から海彦山彦の国である。海の幸と山の幸の国なのである。平地の幸は外国から米作りが導入されたできたものである。


貝を好むこの神は、その長い手を伸ばし、太平洋の貝を採って食べていたそうです。その手長明神が食べた貝が「新地貝塚」になったという言い伝えも残されています。 .


すでに縄文時代から貝を常食として生きていた。貝なら外海に出なくてもとれるからそうなった。縄文時代は入江とか湾が多かったし河口も広いからそこが生活の根拠になったことは今でも察しがつく。そこは外洋のように危険な地帯ではないからである。丸木船くらいでなんとか生活できる世界である。外洋に出るとなる大きな船が必要になるからだ。


漁師の生活は言葉にも残っている。シケているとはシケは海が嵐とかのことであり漁に出れない、それでシケているとは陸に出れば不況のことになる。それは漁師の言葉が陸地の言葉になった。漁師は天候に左右されることが多い、また遭難も定期的に起きている。海は昔から怖い場所である。不安定な場所である。だから今でも神社に妻が無事を祈っている。でも今はGPSとか携帯とか様々な機械が頼りになるのはどこも同じである。妻たちの仕事でもこの辺では普通の職より金になっている。魚はとれれば今は高いし売れるから金になる。それで多くとれたときはポ-ナスまで配給される。漁獲高によって収入が極端化することがある。大漁になれば普通の何倍もの収入になる、だから漁師の気質は農民は相当違って気が大きいとか性格が荒っぽいとかなる。松川浦でもどこでも神社があるときそれが生きているとしたらやはり妻たちが無事に帰ることを祈っているということで神社が生きていることになる。それは何に祈るにしろそういう海の暮らしは漁師の暮らしは変わらないためである。

 


何度も頭から波をかぶりながらの帰港
途中さらに大きい波くらって
樽が横倒し・・

台風で上げ網をしてから
そのあとは低気圧通過と
もう5日も水揚げをしていない
http://osakana83.no-blog.jp/nori/2010/11/index.html


相馬の水源地でもある宇多川の上流域に
産業廃棄物埋立処分場の建設計画があり
その阻止のためとか・・
-
それが建設されてしまったら・・

宇多川が流れ着くのは「松川浦」
海苔やアサリなど豊かな漁業資源
http://osakana83.no-blog.jp/nori/2010/03/index.html


ここのプログは本当に松川浦の漁師が書いているから実感がある。これを読んだだけでいかにこの松川浦だけでも理解するのに複雑なものとなっているかわかる。宇多川の上流が汚染されれば松川浦にその汚染された水が流れ込むから養殖の海苔の生産に影響する。橲原に産業廃棄物を埋め立て地を作ったから明かにあそこはきれいな場所でも下流に何か汚染されたものがしみだしてくるから汚染されているのだ。松川浦の場合はそこで漁業やノリの養殖をしているから余計に深刻になる。それから火力発電所から排水問題もあり調査している。それが漁業に影響しているかもしれない、また松川浦は干潟だからそこから栄養源が海に流れて魚が寄ってきたりと干潟はやはり人間にとって昔から生活しやすい場所だったのである。縄文時代はこの干潟や入江が多かったからこそ手長明神のような伝説が全国に残っているのだ。

松川浦というとあのテレビだけを見た人は鄙びたみちのくの漁港のように勘違いするだろう。実際は火力発電所があり工場地帯にもなっている。テレビで東京の工場の人が来て地元の青年に特別の技術を伝播しようとすることが放送されていた。これは相当な高度な熟練した技術である。それを東京から来た年配の技術者が地元の青年に伝えようとしている。それも漁師の生活とはまるで違う現代的な生活なのである。それから相馬港には「飛鳥」が寄港したこともあった。中国人が日本海の港に着くつもりが相馬港に流れ着いて「東京はどこだ」とか食堂の人に聞いてつかまったとかの話しがある。それから面白いのは


ランチョウ(変な魚)
http://osakana83.no-blog.jp/nori/2009/02/index.html


人間が流れ着くだけではない、変な見たことのない魚も流れ着く・・・

変な熱帯魚のような魚?
漁師も知らない魚
どっから魚はやってくるのか
魚の種類は多い
なお海は底知れない神秘
海は広いから得たいの知れないものが
流れてきても不思議じゃない
そんなものが漁師の網にかかる
鯨だって流れ着く
海はでかく計りしれない
太古の海にはフタバススギリュウが
波をきって大海を自在に泳いでいた
海は今も計りしれなく広いから
得たいの知れないものも流れ着くんだ

 


熱帯魚は現実に波立海岸に小さいのが流れ着く、親潮と黒潮の境目が松川浦にもあり魚資源が豊富である。でも今は松川浦の魚を食べている人は地元でも少ないだろう。相当に高いからである。行商の人も最近ずっと来ていないのはなぜか、また病気なのか、行商の人は生きのいい魚をもってくるからうまい、ス-パ-のは古くなっているからまずい、魚は新鮮なのが一番うまいけれども高いから買わない、でも魚は稀少になっているからいくらでも売れる、高く売れる、通信販売でも売れるし産地直送でも東京に運べば高く売れる、ただ今は魚がとれないから高いし魚離れになった。ともかく太平洋沿岸は浦とか湾になっているところがまれでるるから松川浦は小さいにしても貴重なものとなっている。浜通りには海の暮らしと山の暮らしがあるのが違っている。山の暮らしとして原町区の大原のことを聞いてそこの人が戦後の食糧不足の時、猿まで食べたというのは山だからこそだったのである。海だったら魚が食べられたからそこまですることはなかった。
posted by 老鶯 at 23:52| Comment(0) | TrackBack(0) | 歴史(相馬郷土史など)

2011年02月07日

原町へ用事の一日


原町へ用事の一日

今日は原町まで風が強くて大変だった。電動自転車はバイクとにているから風にも強い。ヤマハのパスブレイスはとにかく坂に強い。相当急な坂でも上るようにできている。急勾配でも上るようにできているのだ。別にまだ自転車にはのれる。でも松川浦まで行ったあとに筋肉痛で苦しかった。やはり時間的に長い運動すると筋肉が弱っていから筋肉痛になった。それでも運動はできるからいい、腎臓透析している人でも普通に運動もしているから不思議である。病気にもいろいろありかえって適度な運動をした方がいい病気もある。糖尿病とかそうである。腎臓や前立腺は適度な運動は影響しない、管を入れてもそんなに困ったということはないから助かった。
今日はまず私立病院で管交換してそれから高見ホテルのレストランでカキフライ定食を食べ次に3Dを見れるメガネを買った。最近ソニ-の新しい3D対応のテレビを買ったからだ。でも3D対応している番組やCDはまだ売っていない、ギャオというところでブレ-レイを借りた。ブレ-レイもまだ対応しているのが少ない、3Dもブル-レイもこれからのものなのだろう。立体になるとき地図が立体になるといい。地図は平面的ではものたりない、立体になるとわかりやすいからである。ただまだ開発途上のものである。人間の欲望は限りがない、こういう欲望は悪いものではないからいい。それからキクチス-パ-でパンを買った。パンが原町や相馬市意外ではいいのを売っていないので困る。今はパン食が多くなっている。朝はどうしても簡単だからパンにしてしまう。それよりもう自分の家ではご飯自体二分間でレンジでできるインスタントの米である。ほとんど寝たきりだからその介護になると簡単にすましたいのである。自分も今日は介護用品店で小便用の袋を買った。それから向かいのココスでコ-ヒ-を飲み休んだ。ここの石窯パンというのはうまい。これは焼きたてだからうまい。飯館のアグリでもこれと同じパンを出していた。そしてソフトバンクの携帯の解約を一つした。最後によったのがサイヤでおかず類を買った。あそこはいろいろあり食事の用意には便利である。ライスカレ-の弁当を買って家で食べた。


買物だけでもこれだけあった。まさにこれは現代の生活だった。今は一人暮らしでも困らないようにできている。ただ五、六万の市でないと現代の生活の標準的なものにならない、小高とか鹿島では相当にたりないものがある。郡山で駅前に病院とか図書館とかス-パ-が一緒になるビルを作ったとかあるが病院は今や一番街でにぎわう場所なのである。人の出入りが一番多い場所である。小高でも鹿島でも村でも病院は高齢化社会だから一番人の出入りが多くなるのだ。だから駅前にそういう施設をもってくれば人が集る。イオンの問題は六号線から離れているから問題である。車だったいいのだが自転車だと今日のような風になると行けなかった。自転車はここから5キロ先に温泉があるとわかってもその5キロが遠くなるのである。往復10キロになったりするからである。自転車は風雨にはやはり弱い。今日は風で大変だった。でも普通にまだ動けるからなんとか家で介護して自分のこともできている。それが救いだった。

 


今日の仕事


市立病院→高見ホテルレストラン(カキフライ)→電器店(3Dテレビメガネ)→ブル-レイレンタル(ギャオ)→キクチス-パ-(パン)→ソフトバンク(携帯解約)→介護用品店(小便袋)→ココス(石窯パン)

posted by 老鶯 at 21:31| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記

2011年02月08日

春の日(栃窪村の石)

stonesssssss1111.jpg

蔵古りて春の夕日や山の家

動かざる春の日ここに重き石


栃窪に重なる石や春浅し


川上に冬越したる親子石


栃窪の冠嶺(さかみね)神社の古りにけり重なる石に春となるかな


その土地に根を張るごとき組み合いぬ春の日さして山の村暮る


栃窪を通りてかなた飯館へ塩の道かな春の日暮れぬ




冠嶺(さかみね)神社は日本武尊(ヤマトタケル)の奥州蝦夷征服の伝説に由来するから古い、神社でも年代的に特定する必要がある。古代からの神社も多いが江戸時代からの神社も多い。御山神社は葉山信仰であり江戸時代だから比較的新しいとなる。冠嶺(さかみね)神社は古代だから古いからその村も古いとなる。村の古さは神社でわかる場合がある。でも外から来た人はなかなかわからない場合がある。上萱などは戦後開拓した村である。それも消失した。そういう村もある。やはり古いものには価値がある。村も古い由来があれば価値がある。八沢村なども明治以降干拓されてできたのだから新しいのである。郷土史は何でもまず新旧を知ることである。 栃窪村のあの石は石根(いわね)というのにふさわしい石だった。あれを見たのは今日がはじめてだった。故郷でも見逃していることがまだあるのだ。人間は灯台下暗しというとき本当にそうである。最も身近なことが知らず遠い地域のことに詳しい人がいる。現代のようなグロ-バル化しこ社会だと余計にそうなのである。自分の住んでいる場所について知っている人が意外と少ないのである。石にはそれぞれ表情がある。一つ一つの石にはやはり個性があり石がいくつか集まってまた個性を作る。だから庭はみんな違った石で構成されるから個性がある。家にはあまり個性が感じられなくても庭は狭い庭であれ個性的なものとして作れる。石の配置だけで個性が作れるからである。
底津石根。宮柱布刀斯理・・・・・・・石根-いわねである。あそこはそういう地名になってもふさわしい場所だった。ただそのことに気付くのが遅かった。藪があってわかりにくかったのである。故郷でも狭い地域でも発見されないことはあり自然でも人でも知らないことがあるのだ。
親子石は確かに真野川の上流にある、隠された大きな石のとなりに小さな石があった。これも見つけにくい、親と子のようにあった。小さいから孫のようでもあった。こういう命名の仕方は一般的である。兄弟石とかもある。アイヌ語では川まで親川があり子川があるのとにている。


 

2011年02月09日

蝋梅と雪

rou9999999.jpg


蝋梅に朝静かにも雪のふり95才の母なお生きるかも


長寿社会もいい面と悪い面がある。まず誰もこんなに長生きすることを予想していなかった。社会全体でもそうだし個々人でもそうである。つまりこの高齢化社会は人類が初めて直面したことでありその解決方法も見出していないのである。経済的には負担ばかり増えて支えきれないというのも問題だし様々な問題が生じている。そもそも90以上も生きることを想定できないことから起きてきたのである。体が相当弱っているから余命幾ばくかにしても人間はこんなに長生きできるものかということをつくづくみんな実際に見ている時代はなかったのである。


人間は完全な人間はいない、どこか必ず欠けている。でもそれぞれにその人がどういう一生を生きてきたか魂に記されているのかもしれない、母の場合「忍耐」の徳が刻まれている。もう一人知っている人は「正直」の徳が刻まれている。その他欠けていることが多いがそれは90年生きて体得している徳だから見習うべきこととなる。戒名に記されるとしたら忍の字が入りもう一人は正直の字が入る。戒名に意味あるとしたらその人がどういう人か戒名からわかる場合だろう。その人にふさわしいものであればその戒名からどういう人だったかわかる。でもそういう戒名をつけられている人は少ないだろう。高い金を払って位の高い戒名をつけるのはふさわしくない、戒名商売など仏教にはそもそもなかった。僧侶につけるのが戒名であり一般の人はつけられないかったからである。


こうした完全ではないにしろ学もなにもない庶民でも徳を体現して死んだ人がいる一方悪徳をカインのように犯罪者の刻印を押されて死んでいる人もいる。死んですべてが終わるのではなくその最後に魂に記されものがあるのだろう。それをあの世にもってゆく、犯罪を犯して悔いることもなくそのまま死ぬことは怖いことかもしれない、なぜなら魂にまぎれもなく悪徳が記されているからだ。それは生きているときやこの世では見分けがつかなくても死んでからはあの世では偽れないものとなっているからだ。罪を犯している人はそういう自覚もない、でも罪を担っているのでありそれが死後に明るみに出されることは怖いことである。裁かれることは怖いことである。でもそういう自覚があれば罪など犯さない、犯罪者にはならないのだ。そういう自覚がないからこそ犯罪はこの世から絶えないのである。


この辺では浜通りでは2月になると必ず雪がふる、一月にはあまり降らない、二月なると雪が降る、東京で雪がふるときここもふるのである。蝋梅はやはり長寿にふさわしい花である。