2011年01月01日

新年おめでとうございます


新年おめでとうございます


今年もプログを書き続けますのでよろしくお願いします


新年やパソコンに変わるカレンダ-

世は変わるテレビを見ずに年明けぬ


新年や病のなきを願うかな


新年や相馬の栄願いたれ


年古るも未来の希望年明けぬ


元旦にインスタントのお汁粉


元旦に手頃なおせちス-パ-に


元旦に母は帰れず余命かな


元旦や病苦の人にしかられぬ


元旦や我が墓通り病院へ


元旦に家にも帰れず苦しめる人とともに年はじまりぬ

 

今日は母が外泊を許可されたが息が苦しくなり家に帰ることができなかった。一見直っているように見えるけど体が弱ったのである。前も息が苦しくなっていた。 もう年だから回復するということがむずかしい。ただ見た感じでは確かに良く見えるのである。自分としては病院にいてもらった方が楽である。残された仕事をするには介護していたらできないからだ。在宅になったらそうなる。プログに書く量がふえたのはかえって家で一人の方が書くことに集中できるからである。


ともかく元旦といっても自分には何か特別なことはない、ただ年が変わったのかくらいである。日本からハレの日が喪失した。昔はごちそうを食べられるから正月が待ち遠しかった。今はない、同じ病室で隣の人だけが大晦日から家に帰った。あとは重い症状の人ばかりで起きる人がいない、一人は特に苦しそうである。それでしゃべっていたらうるさいとしかられた。それだけ体苦しい、表情苦しいのである。変わったことといえばテレビを見ないことだった。インタ-ネットの方が面白いから読んでいる。今テレビでおもしろいは推理小説のドラマ化である。最近まで見ていなかったが自分自身の家が本当に推理小説の舞台になり自分がその主人公になったので他人の事件に興味をもつようになった。現代は明らかに推理小説に世相が反映しているのだ。推理小説をドラマ化したものは現代の事実を基にしているからリアルなのである。

いづれにしろ殺風景な元旦であり正月である。これは今までもそうだった。正月気分というのは日本からは喪失したのである。

今年の願いはただ一つ病気にならないことだけである。あとは自分の仕事がすすむことである。今までの経験を書けることである。作品化することである。これは在宅介護になると時間が奪われるのでできないから困る。そこが自分の今年の大きな問題である。


 

新春俳句-夏野十句(北海道)


新春俳句-夏野十句(北海道)



牛のいて鳥の鳴けるや夏野かな


北海道街まで遠し夏野かな


鳥の音の遠くにひびき夏野かな


北海道夏野の広く鳥翔けぬ


風そよぎ夏野に並ぶ樹々の列


自転車に走り去り広し夏野かな


青春を吸いこみたるや夏野かな


北海道夏野の花や遠き道


鳥と鳥天翔け去りぬ夏野かな


黄昏の夏野をなおも旅路行く


 

新年に若者への戒め-少年老いやすく学なりがたし


新年に若者への戒め



少年老い易く学成り難し

あなたはもっと勉強できた
あなたはもはや勉強できない
その残された時間が少ない
あなたは英語すら良く読めない
英語すらものにしていない
時間はたちまち過ぎ去った
あなたはいかに勉強していなかったか
それは老人になればわかる
基本的な教養の本すら読んでいない
あなたの思慮はいかに浅薄か
あなたは肝心の古典も読んでいなかった
あなたの読める本も一生でわずか
人はいかに時間を浪費するものか
それに気付いたときは遅い
青春は一時であり
あっというまに過ぎ去る
時間はたちまちに飛び去る
あなたはあっというまに老いてしまった
何かを成そうとしたがその時間がなくなった
もう死はまじかであり墓が身近になる
あなたはもっと勉強できた
しかし英語すら読めない
もう語学をものにすることはできない
あなたの読んだ本はわずか
読まなかった本が無数に積まれている
もはや読むこともできない
その時間がなくなった
人の一生は時間切れで終わる
ただ後悔だけが残るのが人生
勤め励む時間は限られている
その時間はたちまちすぎさる
だから心して若きうちに勤めよ
時間は限られた時間しか与えられていない
何でも勉強する時間は短い
時間は常に浪費されている
時間はいくらでもあると錯覚する
しかし時間は限られている
あなたは何も成せず時間切れで終わる
勉強したい努力したい勤めたい
そう嘆いても後悔してもできない
快楽の日は虚しく消えて
白髪の老人のみが悄然としてあるのみ



老人は人生の結果である。最終地点に老人は到達した。そこで過去をふりかえると必ず後悔する。それは老人にはもう何かをする時間がない、特に学問は手間がかかり実際は骨のおれるものでこつこつとした積み重ねが大事だったのである。学問は能力だけでない、なぜなら人間が知りうることは天才だってすべてに通じることは絶対にできない、みんな一部分しか詳しくなれないのである。だから誰しもある分野でこつこつ何かを極めていけばその分野では詳しくてなれるのである。自分はもともと才能がなかった。才能というより何か人格的に人間的しっかりしていないから学問もだめだった。そもそも学問する意欲が出てこなかったのである。受験勉強はしても学問そのものに興味をもったことがなかった。また自分の性格とか育ちが甘い環境にあったことも影響した。学校に適応できなかったしまた社会にも適応できない我が儘な性格だった。それで遂に30年間旅することになったのである。これは自分の家庭環境が偶然そういうことができる環境にあったからである。これは特殊なことであり今になるとそうした自由に生きられた代わりに苦しんでいることがわかった。


学問も何か興味をもたないとやる気がしない、旅行するようになって地名に興味をもつようになりそこから自分なりの学問がはじまった。地名などなんの意味があるのだ、学問になるのかともなるが、学問はまず何でもいいのだ。興味をもたないかぎりそもそもやる気がしないからである。ただ今になると語学なんか相当に集中的に勉強しないとものにできない、それだけ語学の修得は大変だから若いときものできなかったらもうできない、勉強する時間など若い内はいくらでもあると思うが実際に本当にない、時間はまたたくまに過ぎてしまうのである。光陰矢のごとしである。個々に与えられた時間は限られている。その中で人生は雑事に追われるから純粋に学問を追求することができなくなる。生活にも追われるから学者の地位でもなければ普通の人は学問は縁遠くなるのである。やはり学問の基礎はある程度の量の本を読んでいないとできないだろう。その読める本も実際はわずかなのである。百冊読んだらいい方だとなる。だからくだらない本を読んでいたらそれだけで時間を失ってしまう。根本的に教養の基礎となる本を読んでいないとしたら書くことも浅薄になる。もちろん人間は経験しない限り真実の理解力は生まれない、でも経験だけでもだめである。経験したものを表現する力か必要になる。それにはある程度知識が必要なのである。それが本の中にあるのだがその本も読めるのがわずかなのであり、そのわずかの貴重な本さえ人間は読まずに終わるのである。


「相馬郷土史研究」などもこれも学問の一部なのだけどやはりその基礎となる資料などかなり読んでいなと書けないだろう。これも積み重ねなのである。どんな分野でも積み重ねがないとそれなりものは書けない、相馬郷土史でも狭い範囲でもその中でもそれぞれに見出すもの、新発見がある。たいがい歴史は埋もれているからだ。でもそれを発掘するには根気よくつづけないとできないのである。つくづく人間は才能ではない、そもそも人間一人に与えられた時間が同じであり、ある一人の天才がいてもやはり時間が何倍も与えられているわけではない、その時間を効率的に利用して活かした人がそれぞれの分野で一級の人となっているだけなのである。俳句を今これだけ書いているがこれも若い内はほとんど小学生なみのものであり30才ころまでそうだった。短歌もそうであり才能はないがやはりこの年まで継続してやっていたらそれなりのものができるようになったのである。「継続は力なり」であることはまちがいない、プログもやはり継続しないとだめである。ただ書くことによって新しい発見があるからだ。書くことは創造につながっているからだ。だからプログでもいくら書いてもいいというのは書く方にとっては便利なのである。

そういうわけで今年も「今日の一句一首」も「相馬郷土史研究」も書き続けるのでよろしくお願いします

2011年01月02日

新年も病院に通う短歌

kozokareha1.jpg

新年も病院に通う短歌


去年(こぞ)散りし枯葉残りてあわれかな病院また我は通いぬ


この道に枯木の影や午後となる老人弱り病院に行く


ここにまた蝋梅咲きて墓所の道この道変わらず病院に行く


病院に通いて静か七八本枯木を見つつ時は過ぎにき


車椅子孫が押したりあわれかな新年にぎわう病院にあり


我が墓に姉は眠りぬ冬の日や今は騒がず我を見るらむ  

 
hospitallll111.jpg



市立病院には姉が半年も入院していたしそれから厚生病院に二カ月いて死んだ。次に自分が市立病院に一か月も入院するとは思わなかった。そして母がまた厚生病院に二か月もいる。息が苦しくなるからもうなかなか退院するのはむずかしい。病院にいた方が自分は楽である。
トイレまで手押し車で行けるにしても息が苦しくなるからやはり相当な病人なのである。それで家でめんどうみろと言われると苦しい。そういう人手もないからだ。病院の廊下をボケた老人が孫を押しているのをみてあわれでも幸せだとなとも思った。孫がいるということその孫がおじいちゃんの車椅子を押していることはいいなと思った。ぼけても家族が見守っているからだ。
新年でにぎわっていたのは病院だった。どういうわけか不景気でも今やにぎわっているのは病院なのだ。街の通りは閑散としているし人が出入りするのは病院なのである。もうこの五年の半分以上は病院通いであり病院暮らしだったのである。


病院の前の公園に七八本枯木がある。この枯木も何でもないものだが病院に通い見ていると何か意味を帯びてくるのだ。これがただ今までのように通りすぎていたらそうでもない、病院に通うということで意味を帯びてくるのだ。この枯木を長い間見ているとしみじみとみていると個々に深くこの樹が記録されてくる。つまり人間はこの樹を一時見ていても記録に残らない、一つの樹を見るには長い時間が必要なのである。だから旅をしているときは本当に一時だから何かを記録することがむずかしいのだ。最近思うことは人間も一時の関係では信頼関係など作れない、愛情なども長い時間のなかで育まれるのであり一時のものはすぐ消えてしまう。家族は長い時間で作られるのでありそれは死後もつづいている。だから60過ぎたらそうした信頼関係を愛情を作ることがむずかしいのだ。それが自分が失敗した原因だった。家の中で手伝ってもらうにも昔からいるような人だったらいいが最近のヘルパ-などは一時的アルバイトでありそういう人は家の中で働いてもらうのは危険である。信頼関係ができていないから危険なのである。


老後はこれまで経験したことを回想しているほかない、新しい関係を作ることはむずかしい、その時間がないのだ。この世には時間によってしか作られないものがある。意外とそれが盲点だった。愛情とか信頼とかは金では簡単に買いない、時間が金で買えないと同じように買えないものだった。確かにモノは金で買えてもこうしたものは買えない、金で人も雇えるじゃないかというが実際は違っている。人も金では買えない、信頼関係が簡単に作れないからである。この世には時間をかけないと作れないものがあるなとつくづく思った。60以降は家族など作れようがないのだ。それが誤算だったのである。今年も病院からはじまった。病院で新年おめでとうとはならない、でもやっぱり新年なことは新年である。

2011年01月03日

飯館村の大倉とか山には昔材木などでもうけた金持ちがいた


飯館村の大倉とか山には昔材木などでもうけた金持ちがいた

病院の隣にいる女性と話していたら飯館村の大倉にマルヤ(丸屋?)という材木屋があった。そこでは相当もうかったらしい。前に相馬女学校を出た女性と大倉で出会った。その人は鹿島区の親戚の家から昔の中村の相馬女学校に通った。相馬女学校に学ぶことができる人は極めて当時は少ない、金持ちの人しか入れない、だからその頃この辺では相馬女学校出たとなるとそれだけで他とは違うとなっていたのだ。姉は頭が良かったが相馬女学校に入りたくても入れなかった。母は尋常小学校出ただけでありそれが普通だった。ではなぜ大倉から相馬女学校出た人がいたかというと山を持っている人はその材木を国内で利用していたから山でも金持ちになった人がいたのである。自分の家を建てたのは1970年代であるが家の材料は大倉から切り出したものだった。同級生に大倉で働く人がいて材料を提供してもらった。この柱はいい木を使っているとか自慢していたのだ。つまり国内で木材を供給していたとき炭焼きもあり山はそれで豊になった人がいたのである。また山を持つことか資産家になることだった。


http://yfh731.exblog.jp/14018923/


ここに酒屋とか医者とかでもうけた人は山を買ったというから山を持つことはかなりの財産になったのである。

1970年ごろまでは、日本の長者番付には、多くの林業家が載っていました。山村の山持ちの多くは金持ちで、林業は「儲かる職業」だったのです。


その人もいろいろ話したが面白かったのは相馬女学校に通わせるために世話になる家に米三表をやっていたという。金ではなく米をやっていた。大正時代頃紡績工場で働いていた母も給料に米十表以上もらって喜ばれていたと言っていた。米というと江戸時代も貨幣が必ずしも通用したわけではない、米が貨幣の代わりにもなっていた。今のようにすべてが金だけが通用する社会ではなかった。労働を労働で返す結い(ゆい)というのもあった。村では金だけがすべてではない、それだけでは生きていられなかったことがあった。農家が多いから当然米が江戸時代と同じく貨幣の役割を果たしていたのである。


それからその当時は交通手段が馬車だった。その人は桃とかをスイカを栽培して相馬にもとの中村に売りに行ったというが馬車だった。自分も近くに馬車屋があり馬車のうしろに子供の頃のって遊んだのを覚えている。馬車は戦後数年で姿を消したのかもしれない、小学低学年の時であったようだからだ。ただ戦後一〇年くらいは炭が燃料だったから江戸時代の生活の継続があったのである。このように交通手段が馬車や歩きだった。だから当時の人は遠くまで歩いた。その人も上真野小学校に横手から通ったとすると遠い、おそらくそれ以上に遠くの学校に歩いて通うのが普通だったのである。そもそも車などないから歩く他ないからである。これも江戸時代の生活の延長であった。確かに汽車はあっても客として汽車にはあまり乗っていない、汽車賃が高いから普通は乗っていないのである。汽車は貨物輸送からはじまったことでわかる。乗客をのせることより石炭など運ぶものとしてはじまったから乗客の利用は少なかったのである。


昔の話を一人だけでなくいろんな人から聞くと何か昔の全体像が浮かんでくる。そういう点で老人の話を聞くことは郷土史研究の一つの手法である。生きた歴史を聞けるから興味を持つのである。その場として病院は向いているのだ。なぜならその人も言っていたが病院はつまらない、暇だ、何もすることがないとか言っていた。自分も一か月病院にいて病院は実際は恐ろしく暇なところなのだ。ベッドから出れないからそうなる。そのことは書いてきた。その人の話では昔は楽しかったといっていた。昔は苦労したことがあってもやはり思い出せば楽しくなるのか?人間はそういうものなのか、それより今の生活に何か適合できない違和感を感じたことを言っていた。今の社会はめまぐるしすぎるのだ。これは自分も常に感じていることであり自分も性格的に今の車社会とかめまぐるしい社会に適合できない、若いときから自分はそうなっていた。昔は不便でも貧乏でも人間的なところがあった。そういうことがなくなったことで昔が楽しかったと言っているのかもしれない、あの人はまだそんなにひどい状態ではない、あとは寝たきりであり話しができないから話し相手がないからつまらないとなるのだ。

2011年01月04日

新年の教訓-今の人と昔の人の名言

                                                    
新年の教訓-今の人と昔の人の名言

老成というものは多分、懸命に道を貫いてきた人にだけ現われる実りの季節の事なんだと思います
音楽家や芸事の人に限らず、一心にひたすら極めようとした人ならば
文筆家や研究者なんかも最晩年の著作がとても深くて味わい深いものになることが多いんじゃないでしょうか。
--- インタ-ネットの無名の人-
----


人間は誰でも年をとる。年をとることがただ馬齢を重ねることが偉いことにはならない、それは生理現象であり年をとったから年齢が上だから偉いとはならない、価値あるものとはならない、
人間は年取っても何かしら追求してきたものがありそうした一芸を極めるでもいい、そういうことのために年とることが意義あることでありただ年とるだけでは価値あるものとはならない、高齢化社会で老人が嫌われるのはただ年をとるだけでありただ長生きすることが目的化している人が多いのである。一日でも生を伸ばす執念のみがある。もちろん早く死にたいと会うたびに病院で寝たきりの人もいる。死にたくても死ねないのが現代である。人間が長生きするだけでは価値がでてこない、人間は何かを価値あるものを極めてゆくからこそ年取ることに意義がでてくる。老成とはただ年取ったから老成して大器晩成とかなるわけではないというのは確かである。前にも書いたけど大器晩成とは才能がなくても積み重ねて努力していけば遂に老人になればそれなりのものになっているということだった。ただ漠然と年取るだけでは大器晩成にはならないのである。



他の富めるをうらやまず、身の貧しきを嘆かず、ただ慎むは貧欲、恐るべきは奢り。
小林一茶


家は洩らぬほど、食事は飢えぬほどにて足ることなり。
(家は雨露をしのげる程度、食事は飢えない程度にあれば、十分である)
千利休


小林一茶の俳句は貧乏のどん底から生まれている。だから芭蕉とか蕪村のような高等なものがないからこれは俳句ではないという人もいる。でもこういう言葉を残していることはやはり小林一茶という人も偉かったなと思う。あんなに貧乏のどん底を生きてきた人がこんな言葉を残しているのは意外であった。なぜ感心したかというとこの正反対の人が今は多いからである。前にも書いてきたけど絶えず他者を羨む人ばかりなのが現代である。昔の人は今の人と比べたら今の人の貧乏人とは比べることもできないくらい貧乏である。食べれればいい腹一杯食べれればいいというだけである。今の人間の欲望は無限であり決して満足にはいたらない、どんなに貧乏でも江戸時代からしたら食べるものでも何でも豊なのである。人間とは今や貧乏というものを理解しない、自分も理解しない、そもそも貧乏はあってはならないものになっている。モノがあふれているからそのモノも買えないということはもはや耐えられないのだ。小林一茶は俳句などで富裕な町人と接していた。パトロンになった人もいた。でもたいがい富者の家に行けばその生活の相違に必ずうらやみ、身の貧しきを嘆く、そしてそれだけではない、そこから犯罪までになるのだ。それが一般的である。現代人は日本人はもっとみんなが貧しい時代より卑しくなっている。貧しく清く正しく生きるなどということはほとんどない、絶えずなぜあいつだけが金があるのだとかうらやむことしかない、民主主義によってさらに不満を言うことこそ抗議することかそ正しいということになり毎日自分より豊かな生活している人をうらやむのが正しいとなっているのだ。


例えば富者をうらやまずというとき富者がいくら貧乏な人にあわれみ恵んだりしても今の人は感謝などしない、なぜあそこの家では高いものばかり食べているのだ、なぜいい車とかもっているのだとかそういうことしかない、まず感謝する気持ちなど全くない、もらって当然でありむしろ奪うべきであり金持ちはあってはならないものだと思っている。それは不公正であり金持ちは貧乏人と同じく鳴くべきだと思っているのが普通なのである。金持ちは否定されるべきものでありもはやあってはならないものでありだから革命であれ殺してしまうべきとさえなったのが社会主義革命だったのである。金持ちがいて自分たちもいづれあういう金持ちになりたいから働くとかならない、それより金持ちから財産をとりあげるべきだとなったのが社会主義革命だったのである。だから小林一茶の言葉は本当に意外だったし本当に昔の人は貧乏でもこんなふうに考えるのは偉いと思った。今は貧乏そのものが否定されている。貧乏でも心ゆたかに生きるということがありえない時代である。みんなが貧乏な時代のとき人間の心は貧しくなっている。だから昔の人は貧しく生きていても心がねじまがらない、他の富者をうらやまないというのは本当に今から比べると高い境地であり聖人のようにさえ思えてくるから不思議である。小林一茶には今までそういうことを感じていなかった。ただ貧乏を嘆いて俳句を作っていた人だと思っていたのである。人間の価値は時代によって違う、今の時代からするとそんな貧乏でもこんなことを言っていたとあらためてその人間の偉さに気付く、そして今の人間はなんなのだ、こんなに心貧しい人間になってしまったのかと驚くのである。現代こそ貧しくても清く正しく生きることが一番むずかしいことになっているのだ。そういう人はもはや過去に探すほかない、今にはなくなっているからだ。戦前生まれでも七五才以上の人はまだ貧しくても清く正しく生きていた人が多かった。七〇以下はアメリカの物欲一辺倒の資本主義に毒されすぎてしまったのが日本人だったのである。そういう価値観が当たり前であり欲望でもはや昔の人の清貧とかの価値観を見出すことは至難な時代なのである。



現に偽っている快楽を偽りと感じ、まだ味わわない快楽の虚しさを知らないところから移り気がうまれる-パスカル


これもまさに前にも書いた餓鬼地獄になっている欲望の資本主義をいいあてている。これほど食料でもなんでも快楽が満ちている社会はない、でももっと快楽がある、欲望を充たすものがある、もっと欲しい欲しいと限りなくグロ-バルに欲望を充たそうとしているのが現代である。この菓子はうまい、しかしもっとうまい菓子はほかにある、我が市になくても大きな都会に行けばあるし世界ではもっとうまい菓子を食べている、ケ-キを食べている。まだ味わわない菓子はいくらでもある。毎日料理番組で放送している。だから今の菓子はうまいにしてももっとうまいものは味わわない菓子はいくらでもあると移り気になっているのが現代なのである。目覚めた時からもっと欲しいもっといいものがうまいものがあるはずだという心になってしまっているのだ。これで充分だなどという人はいない、あなたの欲望はまだ充たされていないと絶えず宣伝されて欲望が刺激されるのも現代である。こうして欲望の餓鬼地獄化しているのが現代である。その歯止めがないのである。だからどんな金持ちでも充たされないのである。


世界的グロ-バルに欲望を充たすことは不可能だからである。アメリカ流の欲望の餓鬼地獄化した資本主義には歯止めが必要である。人間のモラルは低下して犯罪してまで欲望を充たすことがいいのだとさえなっている。これほどまでに欲望が制限されないことは危険な状態になっている。江戸時代から戦前までは貧しいから結果として欲望が制限されていた。現代は欲望は制限されない、欲望はますます激しく刺激されるし消費しないことは悪いことだとなりモノ余り時代に欲望を制限することが悪だとまでなっている。そうなると金のない不況下でもモノ余りだから金のないものは犯罪してもモノを手に入れろとまでなる。万引きはとまらないし大きな盗難もふえてくる。欲望に歯止めがかからないから犯罪してまでも欲望を充たすことが肯定されるまでになっている恐ろしい時代になっているのだ。

今あるものに満足し感謝することからはじめる
(欲望の歯止めがなくなる社会の危険)
http://musubu.sblo.jp/article/42277249.html

2011年01月05日

冬の夜(社会的入院-お一人様を生きる恐怖)


新年に冬の陽没るや山の端に雲輝きてみちのくの空


見えずとも一本松の我は知るここにありしと冬の星見ゆ

病院から良くなったから外出して様子見てくれとケアマネジャ-から言われて元旦に試してみたが息が苦しくなって行けなくなった。今日もまた言われたので行こうとした息が苦しくなり行けなくなった。体弱ったから無理なんだけど一応トイレに行くし起きて食事しているから在宅でやっていけると思われる。それより今は病院には長くいられない、下の療養病棟にも入れない、在宅で介護をやらせるのが国の方針なのである。でも在宅では介護できる人手があり財力がありとか条件に恵まれた人は今はまれなのである。自分は一人だし家に帰ったら三食用意して体が弱っているから介護するのは大変なことになる。おそらくその介護に追われて他のことができなくなる。ここのところが今高齢化社会で一番問題になっているのだ。施設は満員で入れない、行く場所がないからなんとか病院においてくれとなり社会的入院がふえているがこれも限界になっている。


すると病院から追い出されて在宅になり介護をおしつけられて事件になる。
その負担を在宅で背負わされるからである。自分もそうされる。病院には長くいられない、そして在宅になったらその世話をかかりきりでさせられ、他のことができなくなるのだ。介護しているからとそれ自体で社会貢献にはならない、自分の場合でも郷土史研究でも創作でもそっちだったら社会的に有益なものとして評価されるだろう。でも介護をいくらやってもそれで社会的に評価されることはないのだ。もちろん自分だけではない他の人でもそうである。仕事をやめたりする人は悲劇になる。だから安くてもいいから施設にも病院にも入れない人たちの老人施設が必要なのである。重くなければ比較的介護は楽だからである。母は食事もトイレも手がかからないからだ。だから病院でなくてもいい、金のかかる老人ホ-ムでなくてもいい、ともかくもう在宅で介護することも限界になってくる。そういう人がふえてくるそうした需要がましてくるのだからもっと気軽に入れる施設を作る必要があるのだ。そうでなければ在宅で介護されることでその社会的損失はかえって大きなものになる。仕事をやめて介護する人もそうだし他に有益な仕事でもできなくなるのだ。そこが高齢化社会の一番の問題でありみんな困っていることなのである。


この頃夜に食事に隣の市にでかける。母がいるとできない、夜一人だと不安になるしまた留守もできない、半分痴呆状態だからである。介護はまず近くでもでかけることすらできなくなる。姉のときもそうだった。一種の介護は牢獄に入った同じような状態になるのだ。自由に生きて我が儘だからそのことが一番辛かった。ある意味で姉のときはいつまでつづくのか恐怖だった。つづいてまたその問題が起きてきた。ともかく老親のためにどれだけ苦労しているか、事件も起きたのも母が半場ぼけた結果、その弱みにつけいられたのである。この世には実際人の弱みにつけいる奴が結構いる、人をあわれみ助けるような心をもっている人はほとんどいない、相手が弱くなったらつけいってやろうとするから怖い、そうなるとこちらでもそう思ってしまうだろう。相手に復讐するためには相手の弱いときにやっつけてやるとなる。まさに戦国時代の弱肉強食が現代にもあった。


こんなことを考えたこともない平和が三十年つづいたが今になるとお一人様というのは女性はどうかわからないが男性は悲惨である。一人だから守るものもいない、頼るものもいない、そこで悪い奴の餌食になるし他でもあとは金だけ欲しい人しかいない、まるで金にたかるハエエナしかいない、そんなお一人様は荒野に放り出されるのだ。自分を守る術はそこにないのである。そういう恐怖を自ら経験したからこれからふえるお一人様は親が死んだり頼るものが死んだから悲惨であり悲劇も起きる、事件も続発することはまちがいない、今はまだ親を頼っているからいいのである。親が死んだりしたら介護状態になったりしたら自分のように悲惨な結果が待っているのだ。家族がないことがどいうことか自分のように思いしらされる。他人は金にむらがるハエエナであり病気になっても助けるものもいない、荒野に放り出され野垂れ死にでもしろとしかならないのである。そういう想像力が働かないのである。自分も実際にそうなってはじめてこれは悲惨だ悲劇だと事の重大さにきづかされた、思いしらされたのである。人間はやはり現実にそういうように厳しい現実に直面しない限り本気で考えないのである。だからお一人様増えて高齢化するとき事件が続発してくる。それぞれの事情が違うにしろいろいろ起きてくることはまちがいないのだ。


夜帰ってもいつもの道に一本の松があることはわかっている。こういう狭い場所に生活していれば夜になっても見えなくてもそこに何があるかわかる。盲目になっても家の中くらいならわかるから生活できるだろう。おそらく暗くてもそこに誰かいるかもわかるかもしれない、これが大都会だったらわからない、だからどうしても都会は犯罪をおかしやすい、でも田舎でも今や同じである。物騒であり殺伐としている。人は信用できない、油断できないものとなってしまった。田舎でも人のつながりが希薄になってしまったからである。


新年ももう終わりになった。今年はどういう年になるのか?結局今年もいいことはない、何か問題な人をかかえているといいことはないのだ。三〇年間は全くそういうことがなかったのは支えるものが元気だったからである。それが反転してこちらが支えねばならなくなったときその苦労は大変なものだった。だからいいことは今年もない、おそらくいいことは死ぬまでないかもしれない、それは支える人がいなくなったからである。いいことはむしろ死ぬことなのかもしれない、悪いことばかりつづくと死んだら楽だとなってしまうのである。その点先が長くないから気持ち的には楽である。若い者が早く自殺するのは老人と違いその先が長い、その負担を人一倍重く感じている人が自殺するのかもしれない、俺はだめだというとき先の長い人生を背負いきれない重圧を感じるからかもしれない、六〇以上になるとどうしても先は短いと感じるからどうせ死は自殺しなくても早めにやってくるだろと考えるから気楽なのである。一方で六〇以上の人の自殺もふえている。一番の原因は病気なのである。この年の問題は病気だからである。お一人様も病気になることが最悪てありそうなったら死にたいと思うの自然である。

2011年01月06日

冬深む(尽きない人間の業)


冬深む千歳向き合う石の面


冬深む今日も動かず一日暮る


冬深む争わざりき石二つ


誰を待つ主一人や冬の暮


病院に昔を語る冬の暮



病院の隣の人は退院した。元気だから話しができた。病院はつまらない、つまらない、ディサ-ビスがいいと言っていた。病院もある程度元気でないと話すこともできない、話しも聞くこともできない、寝ているだけでは話しにもならないとなる。病院は何か昔を語るのに向いていた。
高齢者が多いこともある。どうしてもそこでは昔の話になるからだ。でもそれにはやはり話ができるくらいでないとだめである。話すこともできない人が実際は多いからだ。

ここ半年くらい病気もあって本当に動いていない、近辺にしか行かない、これだけ動かない、移動しないのもめずらしい、自分の場合はずっと動きすぎたのだろう。一見落ち着いて見えるが自分はじっとしていられないタイプだった。だから勤めることに向いていなかった。たまたまそういうことが許されるから勤めることもなかった。しかし人間はやはりどこかに腰を落ち着けて仕事しないと実りもない。じっと動かないことによってわかることもあるしそうしないと信頼関係も人間関係も作れない。結局勤めていないことや絶えず移動していた、旅していたことで信頼関係ある人も作れなかった。信頼関係は仕事しているなかに時間の中で生じてくる、培われるのだ。現代は孤族とか孤独死とか無縁社会になるのは仕事を通じて協同意識が作れないのである。

不思議に思うのは戦国時代までは一族郎党で暮らしていた。江戸時代になると個別化して農業を営むようになった。だから飢饉の時協力できないで餓死したというのは本当なのだろうか?江戸時代の前に大規模な飢饉の記録はないのか?江戸時代だけが大飢饉の記録が歴史的に記されている。その前は一族郎党でありその人たちは生死をともにしたのだからその結びつきは強固である。実際に家族以上の結びつきがあった。ともかく主君のためであり戦場で戦い生死をともにする。そういう社会を今は想像することができない、そういう強固な共同体があったということを想像できない、それだけ人間の生活が細分化されてばらばらになってしまったのである。最後の共同体として家族は残ったが家族がないものは最後に頼るものもなく悲惨な結果になることを身をもって経験した。それは戦国時代から江戸時代になって飢饉になっても協力できずに死んだことに通じていないか?この辺は歴史の謎でありその見解の裏付けはとれない、今も金だけが万能になったような社会であるがこれも結局人間を細分化して個別化して孤族化、無縁化を促進した。金が万能になりすぎると人と人は協力できないということがあるのだ。金でなく昔の結い(ゆい)とかの労働のように労働を労働で支払うとなれば金が万能ではない、人間と人間の協力関係が生まれるからだ。

石と石は千年向き合っている。そういう長い時間の中で培われるものがある。それが現代で喪失した。めまぐるしく人間も変わり会う人も変わる・・・というより人と人はもはや本当に出会いのだろう。ただ通りすぎるだけなのだろう。一期一会というとき昔は本当に人と人が出会ったからこそこの言葉が生まれた。今は交通が発達していつでも会えるとなっても人と人は出会いないのである。深い意義ある出会いが喪失したのである。なぜなら交通が発達していないなら遠くの人と会う場合、本当に人生で一回しか合わないことが普通だったからである。いつでも会えるよとなっていれば会うことの価値が減退してしまったのである。


遂に死んでもはや家での争いは絶えた、石が二つそこにあるだけである。争った日がなつかしいともなるのか?遂に最後まで争って二人の女性は今や家にいない、女性の争いもこれも絶えることがない、一面女性の業も強く恐ろしい。人間は本当に業に生きる、その業は尽きることがない、それが人生であった。人間はその業の繰り返しである。なぜなら本質的に人間の業は消えることがない、延々とくりかえされるだけだからである。それで犯罪も消えることがない、人間が存在する限り業も消えないのだから犯罪もなくならない、その業が消えるときは人間が滅びる時しかないのである。社会変革を叫んでも人間の業そのものが変わらないからやっぱり人間は変わらないのである。

葛尾(かつろう)村など山村は昔は豊な地域であった


葛尾(かつろう)村など山村は昔は豊な地域であった

明治以前で郡山地方の人口が最大になるのは江戸時代の元禄期です。この時の人口は郡山西岸で約2.5万人です。


それは古代では人々は山間地か起伏のある丘陵地帯にしか住まなかったということです。理由は水の確保がむつかしいからです。したがって平地にはほとんど住みませんでした。このことは奈良を見ればわかります。古代の大和朝廷は奈良盆地の周辺の山間地に生まれ、ずっとこの山間地にいました。彼らは盆地中央の平地には決して降りてこようとはしませんでした。

江戸時代には、幕府や藩も山村からはほとんど年貢を取りませんでしたから、平地の零細農家よりはずっと恵まれていました。こういう山村では、次三男でも容易に独立して世帯を構えます。そのため人口減にはなりません。
http://blogs.yahoo.co.jp/asakayama1000/MYBLOG/yblog.html?m=lc&sv=%BF%B7%C5%C4&sk=1




郡山というと三春であり三春に近いのが葛尾(葛尾(かつろう)村である。そこの落合という辺りに元禄の碑があったことを写真でも紹介した。元禄の碑は普通相馬藩の平地でも見つかりにくいし現実に見ていない、元禄は実際相当東北では古い時代なのである。芭蕉が東北を旅したのは元禄時代である。その時江戸は栄えていた。だから郡山も元禄期に人口がふえた。
そして当時山村は住みにくいかというとそうでもなかった。年貢をとられなかったことも大きな理由だった。山村には炭焼きもあるし自給自足的にはいい環境だったのである。今のように過疎化するのではなく人口は減らなかったのである。奈良でもたいがい山沿いに村がありヤマトもそうであった。大きな古墳は山沿いにあり最も古い道として山辺(やまのべ)の道があることでもわかる。そして水の便のいいところに最初の国、県(あがた-上の田)が生まれた。昭和天皇はその県(あがた)の短歌を残している。平地が住みやすいように見えても平地は湿地帯であり住みにくかったのである。人間の生活は世界的に共通している面もある。


山村はその後も木材の供給源であり資源があるから昔は山村でも豊かな面があったのである。長者もいたのである。今になると葛尾村など辺鄙そのものであり限界集落に近くなるというが江戸時代まではそうではなかったのである。だから相馬藩の武家がかなりの数移住している。山が今のように暮らしにくかったらそうしていない、その後山中郷として相馬藩に組み入れられたのである。牧もあり馬も飼育して馬の供給地でもしった。葛尾(かつろう)大尽がいて鉄の粗製で栄えたということもあるが山村には昔長者がいたという伝説が各地にあるから今の感覚で昔を想像すると違っている。人間の生活は世界的に共通している面もある。水を制するもの治水が国を治める、四大文明を作ったように日本でも水の便が大事でありそこから国がはじまっていることは同じだったのである。


つまりあの元禄の碑は郡山が三春が人口がふえて葛尾村に波及したことも想像できる。葛尾村は三春に近いからである。郡山にも近くなる。ともかく元禄の碑はなかなか見れない東北でも古いものなのである。それが葛尾村にあったことが不思議であった。葛尾村には古いものが残っている。相馬藩と三春藩では境を接して家の構造が違っていたというのは江戸時代からでありその前にはそういうことはなかったろう。江戸時代に相馬藩と三春藩がそれぞれに別に支配されてそうなったのだろうか?葛尾大尽が三春の藩主を呼んで饗応したということがあったように三春藩はの関係も深い地域だった。小出谷から三春へのバスが通っていた。その時も三春の方が近いものとしてあった。浪江はそれ以上に遠く感じられていたかもしれない、阿武隈山地の領域も広いから山村は今は重要視されないが昔はそこで十分暮らしが成り立っていたし豊かな地域だったということを頭に置いておく必要がある。


郡山について書かれた引用したプログはかなり専門的だけど著作権フリ-になっている。誰でも引用はできる、全文も引用できるのだ。


 
 葛尾村(落合)の明暦と元禄と記された石碑の謎
http://musubu.sblo.jp/article/15958029.html

 六郎田とかあるのは葛尾(かつろう)村は山でも六郎まで六男まで棲むことができたことを示しているのか?地名にこだわりすぎても困るが山村がかえって人口をふやせたというのも意外な指摘でありそういうことがあったのかもしれない、もし六良田が六郎田ならその前に次郎、三郎もありえたからである。それだけの分家を成し得たのかもしれない、これは推測にすぎないけど山村が人口をふやせたというのは今では考えられないからそういうところに昔を想像する盲点がでてくるのだ。
posted by 老鶯 at 20:45| Comment(0) | TrackBack(0) | 歴史(相馬郷土史など)

2011年01月07日

遠い記憶の町(詩ー棚倉町)

tanakkra1212.jpg

遠い記憶の町



北風が唸り吹く

一人冬籠もる日々

我が旅して

訪れた街や村を想う

数えきれない街や村

しかし記憶から消えていた

一つの町を思い出した

山々に囲まれた町

そんな町があったのだろうか?

心の中で化石のようなってしまった町

そこも歴史がある古い町

でも奥の細道からもはずれた町

閑却されやすい場所の町

冬は深まり我が年も古りぬ

並べては遠い記憶となり

不夜城の大都会を離れ

化石のように眠るもよし

北風が家を揺すり吹く音

最後に思い出だけが宝となる

棚倉町を冬に思う


tana44444.jpg

棚倉町を冬に思う

 


棚倉のともしびあわれ秋の夜や会津より来て我は泊まりぬ


都々古別神社の古りぬ水戸へ行く街道見つつ秋の夕暮


郡山は繁華なれども棚倉は目立たざるかな秋の夕暮


都々古別神社の杉の古りにしや何を見ゆべき秋の夕暮


棚倉に城跡ありて一国や何を語らむ秋の夕暮


棚倉に旅路によりし一日かなその日も遠く冬にし思ふ


冬籠もりふりかえるかな我が旅路棚倉によるは遠き日となる


一度のみ水郡線我が乗るやその日も遠く冬深まりぬ

 

tanakuramapkuji12.jpg

棚倉町は古代から道が通っていた。だからこそ古い都々古別神社(つつこわけ)神社がある。 久慈川をさかのぼってくると山々の狭間になり棚倉の地域で広い平野にぬける。ここを突破すれば広い中通りの平野に出ていけるのだ。そこでここに蝦夷の一群が集結した。


棚倉に残る伝説のこの地に8人の土蜘蛛がいた。黒鷲、神衣媛、草野灰(かやのはい)、保々吉灰 阿邪爾媛、梯猪、神石萱(かみいしかや)、狭礒名と具体的に述べている。ところが征伐に来た磐城の国造が敗れたので天皇は日本武尊を使わした。8人の土蜘蛛は津軽の蝦夷に援軍を依頼 徹底抗戦した。そこで彼は槻弓 槻矢で8本の矢を放ちたちどころに射殺した。そして土に刺さった其の矢はたちまちに芽吹いて槻木となった。そこでこの地を八槻の郷という



でも棚倉町は福島県でもなじみがない、それはなぜなのか?白河はみちのくの入り口として記憶される。その東北の街道にそって芭蕉の奥の細道で須賀川や二本松や福島市とかは記憶されやすい、新幹線になると本当に大きな市にしかとまらないから途中は記憶されなくなる。
ただ水沢江刺.沢駅が記録されたのは新幹線が停まる駅というだけだった。それまで水沢のことは記憶しにくい、人間は明治以降は道にそって街道にそって村や町を記憶するのではない、鉄道に沿って記憶するようになった。だから鉄道が通らない停まらない町は閑却されやすいのだ。
郡山は古代から道の要所だった。それで『安積山 影さへ見ゆる 山の井の 浅き心を わが思はなくに』という国司を饗応する采女の歌が残った。この采女は饗応することに慣れた女性でありだからこの歌は特別なものではなく采女などがみんな知っていたものであり特定の人が作ったものではなかった。安積山も郡山にある安積山とは限らない、紫香楽宮からこの歌の木簡が発見されたことでもわかったようにみんな手習いとして暗唱されていたものであった。郡山宿は江戸時代でも飯盛女がいて繁華な町であり古代からのそうした延長上にあった。そういう地理にあり今もあるのだ。


古代の道は川でもあったから久慈川にそって溯り棚倉に出たということが地理的にわかる。でも現代になるとそうした川とかの自然地形ではない、人工的な鉄道が道となるから棚倉はその道からはずれてしまったから閑却される町となったのだ。そもそも福島県は北海道-岩手県-福島県であり広大な領域であり知らない市町村があって不思議でもない、全部回ることはできない、ここは自転車で会津から来てテントで一夜泊まったことがありその記憶が蘇り今書いている。人間はつくづく歴史が地理だというとき地理がもっとも理解しにくい、日本の地形は山が多くて理解しにくい、だから近くでも一山越えれば隠里のようになってしまう。棚倉は確かにそういう地域だった。


猪苗代湖でも鉄道の通るところは意識されやすいが昔の白河街道は忘れられている。そこに福良宿(湖南町)があり昔の面影が残る。地理は実際に近くでもわかりにくい、日本では山が多いからそこに例え実際に足を運んでも時間がたつとそんなところどこにあったのかとなる。それはまさに隠里を訪れたと同じである。夢のように記憶から消え去るのだ。ただ東北の幹線道路であり新幹線が通るところは日常の道となっているからその沿線は記憶されやすいがそこから一旦はずれると記憶しにくくなる。棚倉もたまたま自転車で行ったことがあるからこそ思い出すことができたのである。でも不思議なのは確かに会津から来たがそこからどの方向へ行ったか良く記憶していない、人間はともかく忘れやすいのである。ただ都々古別神社に立ちそこから水戸への街道が通じていたのでここからは水戸が常陸が近いと実感したのである。


水郡線も一度だけのって水戸まで行ったがこれもほとんど記憶していない、駅名も記憶していない、鉄道も一回くらい乗ったのでは記憶しにくいのだ。現代は便利だから意外と記憶する旅ができない、通りすぎる旅になってしまうのである。旅をふりかえると本当にそんな街を自分が通ったのかどうかも定かでなくなる。人間の記憶はいかにあいまいになり忘れややすいか、でも今や旅ができず思い出す旅を回想の旅をしている。すると思い出せないとてるともうそこは本当にそんな街があったのか村があったのかとなってしまうのだ。人間は余りにも便利になり心に残る記憶に残る旅ができない、浅薄な旅しかできない、それであとで思い出すことができない、旅は事前に計画して実行してそのあとでふりかえることで旅が完成するのだ。そのふりかえるとき記憶されない旅だと思い出せないからそこに行ったかどうかもわからなくなるのである。それが現代の旅の一番大きな問題だった。



遠い記憶の町
http://musubu.sblo.jp/article/42432023.html

2011年01月08日

冬の暮(老人の生活感覚)


仙台に行かず久しき冬の暮遠くなりにき年は変われど


故郷に母なお生きて病院に今日も通いつ冬のくれかな


本一冊残す厚さや農民の苦労を語る冬に我が読む

仙台に去年は四五回くらいしか行ってないだろう。こんなに行かないのはめずらしかった。今年も行こうとしているがなかなか行けない、そうなると仙台もずいぶん遠くなってしまったなと思う。そもそも現代の精神的感覚はいつも「なにかがたりない、もっと何かがあるはずだ、新しいものがあるはずだ・・・」という欲望の飢餓地獄の資本主義の中に生きている。決して満足できない、充たされない欲望に生きている。だから誰も何かに感謝したりしない、どんなに親切にしてもモノを与えても感謝はしない、モノがあふれているのだからモノをくれても感謝をしない、生活保護者なども実際は他人の税金で暮らしているのだから感謝してもいいはずだが不満だらけでありもっとなぜもらえないのかと国に抗議だけをする。現代はこれだけ豊でも誰も感謝している人はいない、あらゆるところで不満だけがあるのだ。例えば貧しい時代だったらその日暮らしであり米びつに米もないからと隣から借りたりしていたらその隣に感謝しているかもしれない、そういう助け合うことが日常的にあったかもしれない、それが現代ではない、貧乏だとかえって助け合うことがあるかもしれない、豊だと人間はかえって助け合わない、生活保護をもらっている人は誰一人感謝している人はいない、当然の権利でありもらい少ないと思っているだけである。こういうところからも今豊になっても人間の心は貧しく殺伐としているのだ。 貧乏だから道徳、モラルが低下していたとはならない、かえって豊になってモラルが低下しているのだ。


人間は今のことばかりに集中するが常に過去から今を語らないと人間の真実は見えてこない、それで一冊の分厚い農民の残した日記を読んでいる。これを理解すること自体容易ではない、その時の農民は小作農が不満でも他に仕事がないから困窮した。今なら他に仕事があればそんな小作農などしていないのである。今からふりかえると農民の問題は農業だけの問題だけで解決しなかった。戦後の高度成長や工業化やグロ-バル化でいろいろ仕事がふえて解決したのだ。そこが見落としやすいのである。農家は一年の内七日間しか働かないというとき他に仕事を持つようになったからそうなった。専業農家は働いても他の兼業農家は働いていない、そういう人は農民とも言えない、農業にもそういう矛盾があった。病院であった農民は専業農家だった。五町と十五町を耕作していたからである。そういう農家と他の兼業農家は区別すべきなのだろう。ただそういうことが前面にでてこないのは票田としてあるからだというのは本当なのだろう。もう一つは土地を手放さないのはやはり土地は財産であり他人を請け負わせてわずかの田でも米を作らせたりしていればなにかのときに役に立つとか食料危機が来たりしたら助かるとかで安全弁として手放さないということもある。それで農業が集約化できないのだろう。
ともかく田舎の仕事は土木建築関係者と農民がほとんどである。他の職種が少ないのである。だからどうしても農業の関心が高くなるのである。


実際に病院に行くと農民が実に多いことでもわかる。今日も隣の人が入れ代わり若い人が見舞いに来ていたが一〇人くらいきていた。分家の誰だとかなんとか来ていた。自分の家は二人だけだからうらやましいと思った。農家ではまだ分家などが生きていて協力したりしている。これは大家族制の名残なのだろう。つくづく田舎では農家意外の仕事についている人は本当に少ないしそうした話を直接聞くことができない、都会だったらほとんど農家の話しは聞かない、そうなると田舎では職業の選択が限られてくる。まず親がほとんど農家だったら他の職種の話を聞かないからである。都会は逆に多様な職種の人が住んでいるから違ってい。ここに都会と田舎の大きな差があるのだ。

今の時代の感覚としてもう一つは「どこでも近い、世界でもどこでも行ける」という感覚である。

常に遠くでも近いし遠くへ遠くへ志向する。仙台でも相馬から通勤している人がいるから近い感覚になる。新幹線とか通っているところは東京も近い感覚になる。車社会になりさらに遠いという感覚がなくなった。交通の便が悪い時代はどこでも遠いという感覚であった。最近は旅にも行けず仙台に行かないとなると仙台でも遠くなるのだなと思った。ただ人間は老人になるとみんな遠い感覚になってしまう。時間的にもすでに生きてきた過去は遠い日でありさらに遠くに行くことも病気などでなくなると仙台でも遠いとかすべて遠くなってしまうのである。老人になるとやはり定着でありある地域からあまり動かない生活になるのが普通である。すると近くが大事になる。遠くへ遠くへという生活感覚からこれも違ったものになるからとまどうのである。
老人の生活感覚と若者の生活感覚は違っているが時代的に逆に老人の生活感覚が現代の生活感覚になる傾向もある。モノも買わない、海外旅行もしないとか・・・・これもまだ時代の変化なのかもしれない、高齢者の生活感覚が全体の生活に影響しているのである。


 

新春俳句東海道十句


springggghaikuuu111.jpg


新春俳句東海道十句

春潮の高鳴りひびく小田原城


小田原城帆影の見るや春の海


東海道春光まぶし望む海


東海道商家の多し燕来る


東海道道まっすぐに燕来る


紅梅や東海道に望む海


伊吹山関が原にそ残る雪


関が原越えて近江や春の山


車窓より蓮華の畑近江富士


京近し瀬田の唐橋春の暮

pic03a.jpg



東海道というと今は旅してもわかりにくい、新幹線は通りすぎるだけであり普通列車でも家ばかりが密集しているのが印象になる。昔の東海道の面影はあるところにある。そこは旧道で細い道になってまっすぐな道がつづいていた。あれだけまっすぐな道が街中を通っているのはやはり東海道である。必ず日本だと道は曲がるからである。東海道の面影が残っていて印象に残ったのは小田原である。城の桜が見事でありそこから海が見えたことである。箱根の山と海が見えるから展望がいいから気持ちいいのだ。その海から品川の方に行く船が帆の船が見えたかもしれない、品川は近いからである。品川には船の出入りが多く浮世絵にも出ている。


東海道は海がまじかなのである。大阪と東京を結ぶ海があった。その海は頻繁に船が行き来する海でもあった。そこが東北の海とは違っていた。でも東海道は海にそってあったとしても今は電車で行っても海はそんなに見えないからわからないのである。結局断片的記憶しかここも残らなかった。その記憶をつなぎあわせてまた俳句の連作十句を作った。俳句でも短歌でも一つだけではものたりない、連作になると活きてくる。俳句は連句とかで成ったものであり一句では俳句にならなかった。芭蕉の句も紀行文であり連句として読むべきであり一句一句では深い鑑賞はできない、連続したものとして価値があるのだ。そもそも地理をみるときある一地点だけを見たってわからない、棚倉の詩を出したがあれも福島県の全体の地理がわからないと鑑賞できない、そのポイントは奥の細道から東北の幹線道路からはずれた所に意味があった。水郡線というのも不便なロ-カル線でありかえって旅情がでてくる。芭蕉の通った道は今や東北では繁華なところでありとても奥の細道からほど遠くなってしまったからだ。


東海道は車が多いから当時をイメ-ジできない、でも春になると北より南の方に向かいたくなる。春はやはり南から来るのだし南にひきよせられるしそこには日本の歴史の栄があった所でもある。地理的に関が原は春でもまだ寒いから雪が残っている。そこに伊吹山がありヤマトタケルがそこで死んだの象徴的である。日本の国を二つに分ける所で死んだからである。蝦夷征服の英雄が東北の蝦夷の地から帰還して伊吹山で死んだのである。そこから開けた西国が近江-京都-奈良が望める地域だったのである。地理が歴史を作っていたのである。新春の俳句として前に作ったものもあったが出してみた。



春爛漫小田原城
http://musubu.sblo.jp/category/759559-1.html


 

2011年01月10日

氷張る

iceleaffff11.jpg

iceface111.jpg


氷張る手水鉢の中枯葉見ゆ


氷張る手水鉢の中二枚ほど枯葉閉ざされ日も暮れむとす


90過ぎなお生きるかも氷張る手水鉢に枯葉二枚や日も暮れんとす


争わぬ寂けさここに静まりぬ石の黙してしんしんと冷ゆ



今年は寒い、だからなかなか外に出れない、病気ももっているから余計にそうなった。俳句とか短歌はやはり基本は写生である。手水鉢の中に枯葉が二枚ほど見えた。氷に閉ざされていた。それをそのまま写生するのが俳句であり短歌なのである。ここにいろいろ理屈を入れると短いからものの本質を現すことができないのである。その閉ざされた中にある枯葉はまさに90過ぎてもなお生きる母とか他の老人をイメ-ジするのもいい、それにぴったりかもしれない、病院にいるのはまさにこの氷に閉ざされた枯葉に見えた。瀕死の人もいる。療養病棟に二年間も近くの人が二人もいる。なかなか死なないのが現代の老人であり病院にいたら手当てするから死なないのである。ただ病院はつぎつぎと新しい病人が入ってくるしやがて入院すらできなくなるかもしれない、そういう恐怖がせまっているのかもしれない、次々に運ばれてくる老人の病人を見ているとそう思う。近くだからいいがこれが遠くになったら通いない、在宅になったらまた大変である。今は一人の方がのびのびして楽だなとつくづく思う。自分はいろいろあって老親の介護には疲れた。いなくなったらせいせいしたということもある、正直に言えばそうなる。人間はやはり病気の人であれ老人であれやっかいなめんどうみなければならない人が家にいることは大変なことである。一人の方がせいせいしていいとなる。そしていろいろあったからこの冬は石のように黙して休みたいということだある。冬は冬籠もりであり冬眠がいい、じっ-としているのが気持ちいいのだ。

ともかくまた病院に行く・・・・・

寒夕焼

kikuuuu221.jpg

kannnnn1111.jpg

風鳴りて百輪真っ赤寒椿


道の駅寒夕焼や相馬かな


尊徳の教えを伝ゆ寒夕焼


極月や病院を出る死人かな


二本の樹の間に立ちて冬の月


南天に菊三輪の静粛に病院に来て新年迎ゆ

iceface111.jpg

今年は寒い、相馬市の道の駅まで行った。あそこは田んぼのなかにあるから自然が反映する。南相馬市は街中にあるから雰囲気が全然違うのである。どうしても街を意識する。今日は寒いから冬夕焼より寒夕焼となる。二宮尊徳は相馬では有名である。何かというとでてくる。寒夕焼がふさわしいと思った。それから病院に来たら死人が一人運び出されるところだった。病院では死人をみかけるのは不思議ではない、日常的なことである。死人というと霊柩車を見ても死人を想像しない、毎日新聞の死亡欄を見ていても死人を想像しにくい、でも必ず五〇代六〇代で一割は死んでいるからこんなに死ぬものかなと恐怖になる。特に病気になってから自分も凄く死を意識するようになった。でも死人をみたわげではないからこれもリアルに感じない、病院で死人が運ばれたときやはリアルに死を感じた。人間はそんなに人間の死にたちあわない、いくら毎日死んでいる人がいても実感がないのだ。看護師とか医者は死者にたちあうのが多いから人間なんか簡単に死ぬんだと実感しているしなれているからまた一人死んだなとくらいしか思わないだろう。


母はまだ死にそうにない、写真をとったらでもなんだか不気味な顔だった。これは実物とはかなり違っている。まだ実物は余裕あるのだ。でも手水鉢の氷の中に亡霊のように閉ざされているこれがぴったりだった。人間は今は亡霊のようになっても死なないからだ。その氷の中に枯葉が閉ざされている。まさにふさわしい合成写真になっているのだ。
病院が近いから一日に二回行ったりもできる。近いと家の延長のようになるからいい、施設でも開放的なら毎日行けるし簡単な手伝いもできる、高齢化社会ではそうした施設がもっと必要になっているのだ。特養などは入れないとなるとそういう簡単に安く入れる施設が緊急に必要なのである。これが在宅になったらとてもできない、人手がないからだ。それでも財政難のため在宅で介護をやらせられる。そこが大きな問題なのである。


 

2011年01月11日

資産家の餓死死亡の姉妹、生前に窮状訴え「どうしたらよいか…」 大阪・豊中


資産家の餓死死亡の姉妹、生前に窮状訴え「どうしたらよいか…」 大阪・豊中


大阪・豊中市のマンションで8日、元資産家姉妹の奥田紀代美さん(63)と久美子さん(61)が遺体で見つかった。発見当時、2人はともに体重が30キロ台で、栄養失調と心筋梗塞で死亡した疑いが強まっている
http://sankei.jp.msn.com/affairs/crime/110109/crm1101092122016-n1.htm

姉妹はまだ61-63才だった。結婚していないことが変わっていた。お嬢さんの姉妹だった。土地とか財産あったのだけどそれを有効に利用できずかえってその財産があだになり餓死するまでになった。財産家でも餓死することがあるのか?税金が高く資産のマンションの管理もうまくいかず負債になったのか?ともかくこんなことになったのは一重にこの姉妹がお嬢さんだったのだろう。社会のことがまるでわからない、だから資産目当てに寄ってきた人にいいようにされたのだろう。それしか考えられないのだ。こうした財産家のことを理解することはむずかしい。ただ資産家であり社会で働いた経験がないということは確かなのだろう。二人して結婚もせずそうなった。一人が勤めていればこうはならなかった。資産は回りの人に食い物にされたのかもしれない、そして何より誰か親身になって相談する身寄りなり友達なりがいなかったのことが最大の悲劇につながったのである。変な話だけどこの人はマンションをもっていたりしたら管理するから昔だったら大家になる。相談するより相談される方だったのである。


昔は江戸時代から大家は親も同然とういうときいろいろな相談にのっていたのである。長屋だったら餓死する前に米くらい隣に借りに行っていたろう。大家が餓死して死んだというのもどういうことなのか?こういうことこれも現代を象徴しているのだろう。何が一番の問題なのか?つまり親身になって昔の大家のように相談する人が身近にいないということなのだ。たしかに現代は福祉関係で役所とか機関はあるが意外といざそれらを利用するとなると即座にはその仕組みもわからないし利用しにくいのである。かえって大家であれ庄屋であれ何かそうした人間的な場所で身近に相談する人がいないというのがこういう悲劇を生むのである。いろいろな機関はあるのだがそういう機関にはなかなか気軽に相談にいけないし弁護士を頼んだりするとまたこれもめんどうである。村であれ都市の長屋であれ昔だったら相談にのる人がいて納めていた。それが現代にはなくなった。

埼玉の児童虐待で離婚した子供が死んだのもそうだった。離婚してインタ-ネットで知り合ったよく知らない人にベビ-シッタ-を頼んだ結果、虐待になり死にいたらしめた。これも児童相談所とかあるがこういう場所はなかなか相談しにくいところがある。現代は田舎でも身近に親身になって相談する人がいなくなった。他人には極力めんどうだからかかわらないということもある。
無縁化社会、孤独死とかそういう人間と人間がじかに昔のようにかかわらない時代になった。

ところがこれが大家族だったり家族が最低限いる人はいいのだ。この姉妹も残された家族は社会経験もない二人だけになり取り残されてしまったのである。財産の管理もできない人たちだった。そこをつけいられたのである。貧乏人でも生活保護受けられなくて餓死したとかあったが資産家でも餓死するなんてありうるのだと驚いた。その原因は身近に気軽に親身になって相談する人がいなくなっていることなのだ。機関があっても肝心の人間がいないのである。

そうなると江戸時代の大家のようなものがかえって頼りになるし人間的に問題を解決してくれるからいいとなる。現代ではそういう仲介してくれる共同体の要になるような人がいないのである。もちろんいすいろ役所や機関はあってもそれと人間そのものに相談するのとは違ってくる。そういう相談する人がいなくなったというよりは社会そのものがそうした身近に相談する人を排斥している、必要ないものとしている社会になった。無縁化社会にしてしまったのである。無縁化社会は極端に金だけを最重視する社会である。金あればなんでも手に入るじゃないかという社会である。でもこの資産家には金は財産はあってもどうにもならずかえってその財産で身をつぶした、ギャンブルとかに使った訳でもない、自分も経験したがこういうことはこれから形を変えていろいろ起きてくる。貨幣が万能と思っているが実際は貨幣で何でも買うことはできない、特に人は買うことはできない、信頼する、親身になって相談にのってくれる人を金で頼むというわけにはいかないのである。


だから現代では金があっても身近に相談する人や頼る人がいない、家族がいない人は悲惨なことになる。悲劇が待っている。お一人様とか独身とか単身者がふえる社会は本当に実際は荒野に放り出される、「俺たちが必要なのは金なんだよ、お前は金さえだせばいい、あとは餓死するなりなんなり俺たちの知ったことじゃない・・・」とにかく介護であれ福祉関係で人を頼むことは実際に金で買うことはできないものだった。そういう人はなんらその家や人に対して助ける動機がない、ただ金だけだからへたすると財産全部もっていかれる。この姉妹も社会経験がないお一人様でないにしろ二人とも同じようなお嬢さんだからそうなった。金が万能社会はかえって非情残酷な社会になっているのだ。人は人に対して金を求めてもあわれんだりは決してしない、これだけは胆に命じておくべきである。親切にしてもそれは上辺だけであり求めるものは金だけになっている社会なのである。金だけが万能になる社会は無縁化社会であり非情無情が残酷に貫かれる社会である。今の日本人は昔の日本人とはまるで違う。金が極端に万能の社会に育っているからだ。でも金が万能と思っていた社会でも実際は金ですべては買えない、特に人は買えないのである。信用などは即席には買えない、だから家の中で働かすことは簡単にはいくら金を払ってもできない、信用を作るのには時間がかかるからだ。お一人様とか単身者がふえる社会はこのような悲劇が続々起こるのかもしれない、自分もその一人だったから痛感して行く末が恐怖になった。


亨保の飢饉では、道路上に行き倒れて死んだ者が数多くいたが、その中に、立派な身なりのまま餓死していた男がいた。男の首には100両もの大金が入った袋が懸けられていたという。つまり、この男は、大金を持っていながら、一粒の米さえ買うことが出来ずに餓死に及んだのである。


金は万能ではない、この時もはやいくら金があっても金は通用しない、金が通用しなくなる時が危機の時にくる。普通の時でもやはり身近に信頼する人がいなかったらこういうことか起きる。
この資産家の姉妹には金があっても親身になって相談する信頼する人がいなかったのである。そしてこの人だけではない、家族がいないとそうなりやすいのである。家族は最後に頼りになるべきものだからである。特に無縁化社会では他人は金だけを求めてくる。すべてが金の亡者である。金の計算しかしていない、それ以上の付き合いはしにくい、だから最後病気になったりしたら家族がないということは本当に悲惨であり悲劇になる。だから結婚しないと家族はいらないというのは最後にどれだけ悲惨になるか現実として身近に感じないからである。自分もこれまではそうだった。だから今になると本当に家族がいないことは悲劇であり恐怖なのである。
つまり金をもっていても餓死する。誰も助けてくれないということで現代でも共通していたのである。現代は食料はありあまっていても無縁化社会だかこそ互助社会ではない、身近に頼る人がいない、信頼する人がいないからこうなるのである。

posted by 老鶯 at 00:25| Comment(0) | TrackBack(0) | 時事問題の深層

凍る池

 
濁りなく月を写して凍る池


凍る池月影さして鴨もなし一本松のここにあるかも

今日は自分が市立病院に行った。自分まで病院通いになった。でもそれほど病状は悪くないのかな?普通に自転車に乗って運動できる。内臓が悪かったら運動すらできないだろう。その辺がどうもわからない、人間の体の不思議は機械として現代は半分は見ているし機械的に処理できる。だから人工心臓とかまであるのだろう。血管でも管でも人口のものがとりつけられる。こういうことは人間の体は機械的に見ているからである。でも実際は人間の体は医者でもわかっていない、それほど人間の体は複雑すぎるのだろう。癌などこれだけ研究しているのだから直っていいと思うが未だに解明されていないことでもわかる。もう人工細胞とか老化しないとか死なないとかまで科学に幻想を抱いている時代である。人間は死ななくなる技術を持つような幻想を抱く、だから医者に要求することが多くなる。何で直してくれないのだと要求がエスカレ-トしているのである。癌がこれだけ研究しても直せないことはやはり科学の限界なのだろうか?
五〇、六〇代で死ぬ人で一番多いのは癌である。それ意外ではなかなか死なないだろう。
自分も癌ではないからまだ死ぬのには早いのかもしれない、ただ自分の病状がどうなっているのかわからない。普通に生活できるから不便はさほど感じない、ただ登山とか激しい運動は無理である。でも旅行などは乗り物を利用すればできるのだろう。自転車での旅行は無理である。だからそれほどショックは今のところは受けてはいないのだ。


今年はとにかく寒い、溜池が凍りついていた。そこに月が光っている。かえって清々しい、溜池は濁っているからだ。凍ったことにより濁りが消える、その凍った池に昼間は数羽白鳥がいた。
冬の美は寒いとき映えるのだ。ただこの辺は雪も降らないしそれほど寒い地域ではない、冬の美があるのはやはりもっと寒い地域である。福島県でも会津には冬の美がある。一番冬の美ががあるのはやはり北海道であり、一回だけ冬に北海道に行ったことがある。これは貴重な経験だった。その時温暖であり比較的楽だった。でも今年のように寒くなると厳しい。今になると厳しい旅ができなくなった。でも旅したところを思い出す、日本は北から南と地球を縮小化したような世界がある。そこがやはり日本の魅力なのである。日本を知るだけで相当な時間がかかる。
地理をわかるのはこれは実地に旅しなければわからない、それも一回くらいではわからない、地理がわかるのはそれだけ大変な労力が必要なのである。

 
鴨も全部池が凍ったらいられないからどこかに移動した。

2011年01月12日

山眠る(高齢化社会の克服は人類共通の課題)

新年ややはり日本は地震かな


空曇りはや陽の没るや山眠る


七八本寒木しんと今日も見る

昨日夜に地震があった。今年はどういう年になるのか?去年は人生最大の災難の年だった。すでに五年くらい災難がつづいている。病人であれ老人であれ世話する人をかかえることはすでに災いなのである。こうして自分も病人であるけど病人とか老化により脳の病気とかこうした人とばかり接していたら人間的に健康な人でもおかしくなる。病気が普通の常態になり健康であることは普通でなくなる。こういうことで特別健康であったニ-チェとか上野霄里氏はその健康さから文明を批判したこともわかる。弱者をいたわることは必要でもあまりにも病人ばかりに接していると病人であることが人間として普通なのだとさえなってしまう。文明人はみんな病気だというときそういうことになる。健康なことを否定されてしまう。だから今年自分が求めるのは健やかさである。それを切に求める。自然は不健康ではない、健やかそのものである。病気は一時的な異常であり健やかさに生きるのが人間であり生きるものすべてがそうあるべきである。病人とか認知症とか不健康な人が増えることは社会的に普通の社会ではなくなっている。でも高齢化社会は否定することはできない、すべてが悪いものではない、というより人類に新しく課せられた問題である。つまりこれから高齢化社会に世界中がなるのでありそれをどう生きるのかがこれからの人類のテ-マになっているのだ。


だからただ老人は税金の無駄使いだとか早く死ねというだけでは解決しない、長生きはすべて悪いことではない、それより現代は長生きしないと仕事ができない、なぜなら仕事の範囲はグロ-バル化しているからだ。グロ-バル化することは世界のことを理解せねばならない、すると知識でも世界的な知識が必要になる。しかし今までのように人生が短いなら世界も理解できない、そもそも日本の国土を理解するだけでも時間が足りない、だから現代ではそれなりの視野をもつためには長生きする必要がある。自分も海外旅行したのは五〇才からだとするとすでに海外を知ることは遅すぎたのである。それが書くものにも反映している。日本は全国隈なく回った、それでも日本を理解するだけでも時間と労力が必要であり人生は短いから知らない地域はいくらでも残るのだ。三〇年間旅してもわずかのことしか知り得ないし世界になると余計に理解しにくいのである。でも長生きすればそれだけ時間をかけることで理解が深まるのである。昔なら生きている範囲は本当に狭い、交通手段がないだから日常的に暮らす範囲は村であり限られた地域で自給自足的に生きる他ない、相馬なら相馬藩くらいの範囲で生きて人生が終わるから短くても良かった。相馬藩内を理解すればいいからである。それがグロ-バル化したらどこかの地球の裏側のことまで理解せねばならなくなる。そうなると生きる空間が広がったからそれに比例して時間も長く生きられないと仕事もできなくなっているのだ。交通の手段が発達してもグロ-バル化すればいくら時間があってもたりないとなるのだ。だから高齢化社会は必然でありこれをただ無駄だから老人は死んでしまいというのは暴論であり議論も成り立たないのである。高齢化社会をどう克服するかがやはり未来に向かって課せられ人類の課題なのである。

高齢化社会の負の面も大きいしそれだけがとりざたされるがやはりいい面もある。老人が生きるのに適した社会は若い世代にも住みやすいのである。大都会のようにあまりにもごちゃごちゃしたところは住みにくい、自然が適度にあり病院も適度にあり交通の便もそれなりにいい気候もいいとか老人に住みやすい場所は世代に限らず住みやすい場所だとなる。


相馬市と原町区を行き来しているが相馬市には六号線沿いに喫茶店が二三あるが原町区にはない、そこで休む所にこまる。フランチャイズのレストランでコ-ヒ-だけを飲むというわけにもいかない、そもそも喫茶店だけではやっていけないので激減した。仙台辺りだとコ-ヒ-だけ飲めて休める所があるが田舎だと喫茶店は四〇〇円以上になるから高い。でも自分は喫茶店は好きだった。本読んだりいろいろ考えごとすることで必要だった。でも四〇〇円以上となると高いからなかなか入らなくなった。ちょっと休むには高い、でも喫茶店だけではやっていけないからそうなった。都会はやはり同じような店では繁盛しない、競争が激しいから他の店と違う特徴を出さないと繁盛しない、小さな町だったら万屋とかになっていたが今はそれはス-パ-になった。都会ではやはりそこにしかない何か特徴を出さないと繁盛しない、原町区のコスモの隣にバンバガ-の店が新しくできた。コスモは内装を変えた。喫茶店としても利用できる。でも昼間に行ったら食事などする人でこんでうるさかったから喫茶店とはまた違う。のんびり考えごとするところとも違う。でも今はやはりレストランと喫茶店が一緒にならない限りやっていけいけない。大都会ならそういう特色を出すことで生き残れるが田舎ではそうならない、田舎ではそういう点で競争意識が低いから新しいものがでてこない、新しいものはフランチャイズの店であり昔の商店街の店とは違うのである。そういうところで雇われているのは時間給の人であり収入も低いのである。ただ高齢化社会になると近くが生活圏になるから高齢化に向いた街作りをすれば成り立つということがあるかもしれない、特に田舎では高齢者が半分とかになってしまう時代だからそうならざるをえない、老人の望むものが売れる、ただ今過渡期だからそれが何なのかわからないのである。今までのように必ずしも便利なモノではない、老人が求めるものはまた違ったものになるからだ。安すらぎを与える場所が求められているのだ。


my reserved seat

my relaxed seat

my favorite seat


こういう場所があればいい、そのためにはやはりあまりに移動が激しいとそういう場所を確保できない、江戸時代の不思議は長屋でもドラマを見ると見も知らぬ浪人がどこからかやってきて住んでどこかに去るような人に見えるが実際は長屋でも移動する人は少ない、今ならアパ-トなど移り住むからなじみにはなれない、老人には移動することが向いていない、好みの場所に落ち着きたいとなる。それがまだまだ用意されていないのだ。でも高齢化社会はさけられない、人類が克服すべき課題でありこれをただ否定しても未来は開けないのである。

ともかく地震があるのも日本であり今年はどうなるのか?なんとか災難がない年になってほしい、でもまだ一人災いの人をかかえているからそうもいかない、健康な人と同居していれば災いは生まれない、必ず病人であれ高齢者であれ世話する人をかかえると災いが起きてくるのだ。
弱者になると災いをもたらすのである。家族が心身ともに健康なときは三〇年間災いは起こらなかったからである。今年は寝正月になった。寒いから炬燵に入っているとうとうとして寝てしまうのである。でも一人だと片づけたり洗いものしたり結構仕事がある。食事を用意してかたずけるだけで結構時間くうものだと思った。枯木からさらに寒木となってきて今年は本当に寒い。

寒木(俳句は写生の追求)

7777trees.jpg
shaseiiironnn123.jpg


七八本寒木しんと今日も見る


七八本樹に凍み入る寒さかな


寒木の寥々として暮る七八本


病院に通いて静か七八本枯木を見つつ時は過ぎにき

 



俳句は何度も言ってきたけど写生が基本なのだ。「鶏頭の一四五本のありぬべし-子規」ここの一四五本にこだわったのが写生俳句だった。なぜなら三四本とさらに五六本と二十本とかで感じ変わってくるからだ。この樹でも三四本と七八本では違っている。これは別に作っていないから写生の俳句である。本当に七八本の寒木なのである。最初は枯木であり次に寒木となった。寒木はカンキではなくカンボクだろう。俳句は技巧をこらすより写生に徹すればうまくなるのだ。形容詞などはあまり使わない方がいいのである。短いからどうしてもものそのもので事物そのもので自然を現すのがいいのだ。説明すれば詩になり散文になってしまう。ただ写生でもその対象によりその人なり感情移入はある。それはやはり人が介在して自然もあるからである。
寒木はまた人間の姿でもある。人間が反映して自然も生きてくるのである。自然はやはり何回も見ているうちに心に定着する。この七八の枯木が特にそうだった。回りにそうした風景が必ずある。それを写生すれば俳句になっているのだ。


そして風流は寒きものなりというとき現代のようにエアコンだとかいろいろ機械を使っていると風流は感じない、風が車だと遮断されているからだ。自転車だと寒いから風流はあるがあまり寒くなると外に出たくなくなる。機械に頼ると風流は消えてゆく、都会では風流はなくなる。自然のなかで自給自足するような生活だったら薪を割り炉端で冬越す、冬籠もりするというときこうした寒木も凍み入るように心に映える、風景が映えてくることになる。つまり貧しさの中で七八本の寒木はまさに人間そのものなのである。人間がそこに寒々として立っているのだ。文明生活であまりに恵まれるとこうした貧しさはにあわなくなる。最近何度も欲望の餓鬼地獄の資本主義のことを言ってきたがやはりこの寒木のように今や欲望をおさえることが不可欠になっている。人間は欲望を異常に拡大化してしまったのである。だから今やこの寒木のようにシンプルな贅肉をそぎ落としたような姿にひかれる。だぶだふの贅肉をつけた文明人は欲望でふくれあがった文明にはもはや美はない、それを野放しにすれば地球環境の破壊やら地球自体の危機になっている。欲望の過度の拡大増大は抑えることは急務である。

2011年01月13日

冬深む(松島俳句十句)

redbbbb1111.jpg
kannnmatu.jpg 


冬深む(松島俳句十句)

赤き橋渡りて島や松に雪

波のよせ松風鳴りて寒椿


曲松に風の鳴りつつ冬深む


曲松に午後の冬日や牡蠣を食う


島二つ対なし静か冬深む


瑞巌寺洞に仏や冬の苔


瑞巌寺禅寺の門や冬の暮


観欄亭古木の影や冬深む


誰かおる奥松島や冬の暮


蕪村の句何を語るや冬深む

kannrannn11111.jpg
kannnrannnn2221.jpg


magemmm1111.jpg
magematuuu123.jpg
zuigannn2222.jpg




松島で古人となる歟(か)年の暮

松島で死ぬ人もあり冬籠(ふゆごもり) 蕪村

http://yahantei.blogspot.com/2006/06/blog-post_28.html


この句は謎めいた句である。「世人が俗塵の中で悪戦苦闘する年の暮れに、風流のメッカ松島で故人となるのは、何ともうらやましい」というのが一般的解説である。こう思うのは江戸時代は松島なら遠いからなかなかたずねることができないから憧れの地で死にたいとなる。今のように新幹線で二時間とかなるとそうはならないのである。松島などいつでも行けるじゃないかとなるからだ。これはどこでもそうであるが人間はしかし遂にいくら交通が発達しても旅もできなくなるときがくる。病気になったりして老いると遂にある場所は今ならすぐ手の届くような所にあり行けるのだが行けなくなるということがある。自分も最近病気になったり介護でもう旅もできない、すると最後に死ぬ前に見ておきたいものは何かとなるのだ。やはり富士山などはもう一度日本人なら見て死にたいとかなる。現実に癌になっても富士登山とした人がいた。最後の見納めとして富士山に登山したのである。ここでなぜ松島がそれほどいい場所として憧れたのか、何度も行けない景勝の地だったからである。今なら別に松島で死ぬからとうらやましいがる人はいない、松島が特別な場所ではない、見慣れてしまいばとこでもそうなるのだ。


冬の松島もなかなかいい、あの曲がった松は下から支えて辛うじてもっている。あそこでは何度か食事した。あの松がなんとも風情がある。曲松という地名は各地にある。曲松はやはり目立つから目印になりやすいのだ。


曲松(まげまつ)の地名
http://magarimatu.web.fc2.com/about.html


福島県福島市泉曲松という所には一度寄っている。


瑞巌寺は禅宗の寺だから宮城県には禅宗の寺が多いし墓も多い。○が墓に刻まれているからわかりやすい、相馬藩とかでは禅宗系は少ないように思う。○の墓はあまり見かけないからだ。やはり東北では伊達政宗は唯一の英傑だからその影響が大きいのである。


みちのくに英傑生まる青葉城石垣そりて朔風唸る

ennhaka1111.jpg