2011年01月01日

新年おめでとうございます


新年おめでとうございます


今年もプログを書き続けますのでよろしくお願いします


新年やパソコンに変わるカレンダ-

世は変わるテレビを見ずに年明けぬ


新年や病のなきを願うかな


新年や相馬の栄願いたれ


年古るも未来の希望年明けぬ


元旦にインスタントのお汁粉


元旦に手頃なおせちス-パ-に


元旦に母は帰れず余命かな


元旦や病苦の人にしかられぬ


元旦や我が墓通り病院へ


元旦に家にも帰れず苦しめる人とともに年はじまりぬ

 

今日は母が外泊を許可されたが息が苦しくなり家に帰ることができなかった。一見直っているように見えるけど体が弱ったのである。前も息が苦しくなっていた。 もう年だから回復するということがむずかしい。ただ見た感じでは確かに良く見えるのである。自分としては病院にいてもらった方が楽である。残された仕事をするには介護していたらできないからだ。在宅になったらそうなる。プログに書く量がふえたのはかえって家で一人の方が書くことに集中できるからである。


ともかく元旦といっても自分には何か特別なことはない、ただ年が変わったのかくらいである。日本からハレの日が喪失した。昔はごちそうを食べられるから正月が待ち遠しかった。今はない、同じ病室で隣の人だけが大晦日から家に帰った。あとは重い症状の人ばかりで起きる人がいない、一人は特に苦しそうである。それでしゃべっていたらうるさいとしかられた。それだけ体苦しい、表情苦しいのである。変わったことといえばテレビを見ないことだった。インタ-ネットの方が面白いから読んでいる。今テレビでおもしろいは推理小説のドラマ化である。最近まで見ていなかったが自分自身の家が本当に推理小説の舞台になり自分がその主人公になったので他人の事件に興味をもつようになった。現代は明らかに推理小説に世相が反映しているのだ。推理小説をドラマ化したものは現代の事実を基にしているからリアルなのである。

いづれにしろ殺風景な元旦であり正月である。これは今までもそうだった。正月気分というのは日本からは喪失したのである。

今年の願いはただ一つ病気にならないことだけである。あとは自分の仕事がすすむことである。今までの経験を書けることである。作品化することである。これは在宅介護になると時間が奪われるのでできないから困る。そこが自分の今年の大きな問題である。


 

新春俳句-夏野十句(北海道)


新春俳句-夏野十句(北海道)



牛のいて鳥の鳴けるや夏野かな


北海道街まで遠し夏野かな


鳥の音の遠くにひびき夏野かな


北海道夏野の広く鳥翔けぬ


風そよぎ夏野に並ぶ樹々の列


自転車に走り去り広し夏野かな


青春を吸いこみたるや夏野かな


北海道夏野の花や遠き道


鳥と鳥天翔け去りぬ夏野かな


黄昏の夏野をなおも旅路行く


 

新年に若者への戒め-少年老いやすく学なりがたし


新年に若者への戒め



少年老い易く学成り難し

あなたはもっと勉強できた
あなたはもはや勉強できない
その残された時間が少ない
あなたは英語すら良く読めない
英語すらものにしていない
時間はたちまち過ぎ去った
あなたはいかに勉強していなかったか
それは老人になればわかる
基本的な教養の本すら読んでいない
あなたの思慮はいかに浅薄か
あなたは肝心の古典も読んでいなかった
あなたの読める本も一生でわずか
人はいかに時間を浪費するものか
それに気付いたときは遅い
青春は一時であり
あっというまに過ぎ去る
時間はたちまちに飛び去る
あなたはあっというまに老いてしまった
何かを成そうとしたがその時間がなくなった
もう死はまじかであり墓が身近になる
あなたはもっと勉強できた
しかし英語すら読めない
もう語学をものにすることはできない
あなたの読んだ本はわずか
読まなかった本が無数に積まれている
もはや読むこともできない
その時間がなくなった
人の一生は時間切れで終わる
ただ後悔だけが残るのが人生
勤め励む時間は限られている
その時間はたちまちすぎさる
だから心して若きうちに勤めよ
時間は限られた時間しか与えられていない
何でも勉強する時間は短い
時間は常に浪費されている
時間はいくらでもあると錯覚する
しかし時間は限られている
あなたは何も成せず時間切れで終わる
勉強したい努力したい勤めたい
そう嘆いても後悔してもできない
快楽の日は虚しく消えて
白髪の老人のみが悄然としてあるのみ



老人は人生の結果である。最終地点に老人は到達した。そこで過去をふりかえると必ず後悔する。それは老人にはもう何かをする時間がない、特に学問は手間がかかり実際は骨のおれるものでこつこつとした積み重ねが大事だったのである。学問は能力だけでない、なぜなら人間が知りうることは天才だってすべてに通じることは絶対にできない、みんな一部分しか詳しくなれないのである。だから誰しもある分野でこつこつ何かを極めていけばその分野では詳しくてなれるのである。自分はもともと才能がなかった。才能というより何か人格的に人間的しっかりしていないから学問もだめだった。そもそも学問する意欲が出てこなかったのである。受験勉強はしても学問そのものに興味をもったことがなかった。また自分の性格とか育ちが甘い環境にあったことも影響した。学校に適応できなかったしまた社会にも適応できない我が儘な性格だった。それで遂に30年間旅することになったのである。これは自分の家庭環境が偶然そういうことができる環境にあったからである。これは特殊なことであり今になるとそうした自由に生きられた代わりに苦しんでいることがわかった。


学問も何か興味をもたないとやる気がしない、旅行するようになって地名に興味をもつようになりそこから自分なりの学問がはじまった。地名などなんの意味があるのだ、学問になるのかともなるが、学問はまず何でもいいのだ。興味をもたないかぎりそもそもやる気がしないからである。ただ今になると語学なんか相当に集中的に勉強しないとものにできない、それだけ語学の修得は大変だから若いときものできなかったらもうできない、勉強する時間など若い内はいくらでもあると思うが実際に本当にない、時間はまたたくまに過ぎてしまうのである。光陰矢のごとしである。個々に与えられた時間は限られている。その中で人生は雑事に追われるから純粋に学問を追求することができなくなる。生活にも追われるから学者の地位でもなければ普通の人は学問は縁遠くなるのである。やはり学問の基礎はある程度の量の本を読んでいないとできないだろう。その読める本も実際はわずかなのである。百冊読んだらいい方だとなる。だからくだらない本を読んでいたらそれだけで時間を失ってしまう。根本的に教養の基礎となる本を読んでいないとしたら書くことも浅薄になる。もちろん人間は経験しない限り真実の理解力は生まれない、でも経験だけでもだめである。経験したものを表現する力か必要になる。それにはある程度知識が必要なのである。それが本の中にあるのだがその本も読めるのがわずかなのであり、そのわずかの貴重な本さえ人間は読まずに終わるのである。


「相馬郷土史研究」などもこれも学問の一部なのだけどやはりその基礎となる資料などかなり読んでいなと書けないだろう。これも積み重ねなのである。どんな分野でも積み重ねがないとそれなりものは書けない、相馬郷土史でも狭い範囲でもその中でもそれぞれに見出すもの、新発見がある。たいがい歴史は埋もれているからだ。でもそれを発掘するには根気よくつづけないとできないのである。つくづく人間は才能ではない、そもそも人間一人に与えられた時間が同じであり、ある一人の天才がいてもやはり時間が何倍も与えられているわけではない、その時間を効率的に利用して活かした人がそれぞれの分野で一級の人となっているだけなのである。俳句を今これだけ書いているがこれも若い内はほとんど小学生なみのものであり30才ころまでそうだった。短歌もそうであり才能はないがやはりこの年まで継続してやっていたらそれなりのものができるようになったのである。「継続は力なり」であることはまちがいない、プログもやはり継続しないとだめである。ただ書くことによって新しい発見があるからだ。書くことは創造につながっているからだ。だからプログでもいくら書いてもいいというのは書く方にとっては便利なのである。

そういうわけで今年も「今日の一句一首」も「相馬郷土史研究」も書き続けるのでよろしくお願いします

2011年01月02日

新年も病院に通う短歌

kozokareha1.jpg

新年も病院に通う短歌


去年(こぞ)散りし枯葉残りてあわれかな病院また我は通いぬ


この道に枯木の影や午後となる老人弱り病院に行く


ここにまた蝋梅咲きて墓所の道この道変わらず病院に行く


病院に通いて静か七八本枯木を見つつ時は過ぎにき


車椅子孫が押したりあわれかな新年にぎわう病院にあり


我が墓に姉は眠りぬ冬の日や今は騒がず我を見るらむ  

 
hospitallll111.jpg



市立病院には姉が半年も入院していたしそれから厚生病院に二カ月いて死んだ。次に自分が市立病院に一か月も入院するとは思わなかった。そして母がまた厚生病院に二か月もいる。息が苦しくなるからもうなかなか退院するのはむずかしい。病院にいた方が自分は楽である。
トイレまで手押し車で行けるにしても息が苦しくなるからやはり相当な病人なのである。それで家でめんどうみろと言われると苦しい。そういう人手もないからだ。病院の廊下をボケた老人が孫を押しているのをみてあわれでも幸せだとなとも思った。孫がいるということその孫がおじいちゃんの車椅子を押していることはいいなと思った。ぼけても家族が見守っているからだ。
新年でにぎわっていたのは病院だった。どういうわけか不景気でも今やにぎわっているのは病院なのだ。街の通りは閑散としているし人が出入りするのは病院なのである。もうこの五年の半分以上は病院通いであり病院暮らしだったのである。


病院の前の公園に七八本枯木がある。この枯木も何でもないものだが病院に通い見ていると何か意味を帯びてくるのだ。これがただ今までのように通りすぎていたらそうでもない、病院に通うということで意味を帯びてくるのだ。この枯木を長い間見ているとしみじみとみていると個々に深くこの樹が記録されてくる。つまり人間はこの樹を一時見ていても記録に残らない、一つの樹を見るには長い時間が必要なのである。だから旅をしているときは本当に一時だから何かを記録することがむずかしいのだ。最近思うことは人間も一時の関係では信頼関係など作れない、愛情なども長い時間のなかで育まれるのであり一時のものはすぐ消えてしまう。家族は長い時間で作られるのでありそれは死後もつづいている。だから60過ぎたらそうした信頼関係を愛情を作ることがむずかしいのだ。それが自分が失敗した原因だった。家の中で手伝ってもらうにも昔からいるような人だったらいいが最近のヘルパ-などは一時的アルバイトでありそういう人は家の中で働いてもらうのは危険である。信頼関係ができていないから危険なのである。


老後はこれまで経験したことを回想しているほかない、新しい関係を作ることはむずかしい、その時間がないのだ。この世には時間によってしか作られないものがある。意外とそれが盲点だった。愛情とか信頼とかは金では簡単に買いない、時間が金で買えないと同じように買えないものだった。確かにモノは金で買えてもこうしたものは買えない、金で人も雇えるじゃないかというが実際は違っている。人も金では買えない、信頼関係が簡単に作れないからである。この世には時間をかけないと作れないものがあるなとつくづく思った。60以降は家族など作れようがないのだ。それが誤算だったのである。今年も病院からはじまった。病院で新年おめでとうとはならない、でもやっぱり新年なことは新年である。

2011年01月03日

飯館村の大倉とか山には昔材木などでもうけた金持ちがいた


飯館村の大倉とか山には昔材木などでもうけた金持ちがいた

病院の隣にいる女性と話していたら飯館村の大倉にマルヤ(丸屋?)という材木屋があった。そこでは相当もうかったらしい。前に相馬女学校を出た女性と大倉で出会った。その人は鹿島区の親戚の家から昔の中村の相馬女学校に通った。相馬女学校に学ぶことができる人は極めて当時は少ない、金持ちの人しか入れない、だからその頃この辺では相馬女学校出たとなるとそれだけで他とは違うとなっていたのだ。姉は頭が良かったが相馬女学校に入りたくても入れなかった。母は尋常小学校出ただけでありそれが普通だった。ではなぜ大倉から相馬女学校出た人がいたかというと山を持っている人はその材木を国内で利用していたから山でも金持ちになった人がいたのである。自分の家を建てたのは1970年代であるが家の材料は大倉から切り出したものだった。同級生に大倉で働く人がいて材料を提供してもらった。この柱はいい木を使っているとか自慢していたのだ。つまり国内で木材を供給していたとき炭焼きもあり山はそれで豊になった人がいたのである。また山を持つことか資産家になることだった。


http://yfh731.exblog.jp/14018923/


ここに酒屋とか医者とかでもうけた人は山を買ったというから山を持つことはかなりの財産になったのである。

1970年ごろまでは、日本の長者番付には、多くの林業家が載っていました。山村の山持ちの多くは金持ちで、林業は「儲かる職業」だったのです。


その人もいろいろ話したが面白かったのは相馬女学校に通わせるために世話になる家に米三表をやっていたという。金ではなく米をやっていた。大正時代頃紡績工場で働いていた母も給料に米十表以上もらって喜ばれていたと言っていた。米というと江戸時代も貨幣が必ずしも通用したわけではない、米が貨幣の代わりにもなっていた。今のようにすべてが金だけが通用する社会ではなかった。労働を労働で返す結い(ゆい)というのもあった。村では金だけがすべてではない、それだけでは生きていられなかったことがあった。農家が多いから当然米が江戸時代と同じく貨幣の役割を果たしていたのである。


それからその当時は交通手段が馬車だった。その人は桃とかをスイカを栽培して相馬にもとの中村に売りに行ったというが馬車だった。自分も近くに馬車屋があり馬車のうしろに子供の頃のって遊んだのを覚えている。馬車は戦後数年で姿を消したのかもしれない、小学低学年の時であったようだからだ。ただ戦後一〇年くらいは炭が燃料だったから江戸時代の生活の継続があったのである。このように交通手段が馬車や歩きだった。だから当時の人は遠くまで歩いた。その人も上真野小学校に横手から通ったとすると遠い、おそらくそれ以上に遠くの学校に歩いて通うのが普通だったのである。そもそも車などないから歩く他ないからである。これも江戸時代の生活の延長であった。確かに汽車はあっても客として汽車にはあまり乗っていない、汽車賃が高いから普通は乗っていないのである。汽車は貨物輸送からはじまったことでわかる。乗客をのせることより石炭など運ぶものとしてはじまったから乗客の利用は少なかったのである。


昔の話を一人だけでなくいろんな人から聞くと何か昔の全体像が浮かんでくる。そういう点で老人の話を聞くことは郷土史研究の一つの手法である。生きた歴史を聞けるから興味を持つのである。その場として病院は向いているのだ。なぜならその人も言っていたが病院はつまらない、暇だ、何もすることがないとか言っていた。自分も一か月病院にいて病院は実際は恐ろしく暇なところなのだ。ベッドから出れないからそうなる。そのことは書いてきた。その人の話では昔は楽しかったといっていた。昔は苦労したことがあってもやはり思い出せば楽しくなるのか?人間はそういうものなのか、それより今の生活に何か適合できない違和感を感じたことを言っていた。今の社会はめまぐるしすぎるのだ。これは自分も常に感じていることであり自分も性格的に今の車社会とかめまぐるしい社会に適合できない、若いときから自分はそうなっていた。昔は不便でも貧乏でも人間的なところがあった。そういうことがなくなったことで昔が楽しかったと言っているのかもしれない、あの人はまだそんなにひどい状態ではない、あとは寝たきりであり話しができないから話し相手がないからつまらないとなるのだ。

2011年01月04日

新年の教訓-今の人と昔の人の名言

                                                    
新年の教訓-今の人と昔の人の名言

老成というものは多分、懸命に道を貫いてきた人にだけ現われる実りの季節の事なんだと思います
音楽家や芸事の人に限らず、一心にひたすら極めようとした人ならば
文筆家や研究者なんかも最晩年の著作がとても深くて味わい深いものになることが多いんじゃないでしょうか。
--- インタ-ネットの無名の人-
----


人間は誰でも年をとる。年をとることがただ馬齢を重ねることが偉いことにはならない、それは生理現象であり年をとったから年齢が上だから偉いとはならない、価値あるものとはならない、
人間は年取っても何かしら追求してきたものがありそうした一芸を極めるでもいい、そういうことのために年とることが意義あることでありただ年とるだけでは価値あるものとはならない、高齢化社会で老人が嫌われるのはただ年をとるだけでありただ長生きすることが目的化している人が多いのである。一日でも生を伸ばす執念のみがある。もちろん早く死にたいと会うたびに病院で寝たきりの人もいる。死にたくても死ねないのが現代である。人間が長生きするだけでは価値がでてこない、人間は何かを価値あるものを極めてゆくからこそ年取ることに意義がでてくる。老成とはただ年取ったから老成して大器晩成とかなるわけではないというのは確かである。前にも書いたけど大器晩成とは才能がなくても積み重ねて努力していけば遂に老人になればそれなりのものになっているということだった。ただ漠然と年取るだけでは大器晩成にはならないのである。



他の富めるをうらやまず、身の貧しきを嘆かず、ただ慎むは貧欲、恐るべきは奢り。
小林一茶


家は洩らぬほど、食事は飢えぬほどにて足ることなり。
(家は雨露をしのげる程度、食事は飢えない程度にあれば、十分である)
千利休


小林一茶の俳句は貧乏のどん底から生まれている。だから芭蕉とか蕪村のような高等なものがないからこれは俳句ではないという人もいる。でもこういう言葉を残していることはやはり小林一茶という人も偉かったなと思う。あんなに貧乏のどん底を生きてきた人がこんな言葉を残しているのは意外であった。なぜ感心したかというとこの正反対の人が今は多いからである。前にも書いてきたけど絶えず他者を羨む人ばかりなのが現代である。昔の人は今の人と比べたら今の人の貧乏人とは比べることもできないくらい貧乏である。食べれればいい腹一杯食べれればいいというだけである。今の人間の欲望は無限であり決して満足にはいたらない、どんなに貧乏でも江戸時代からしたら食べるものでも何でも豊なのである。人間とは今や貧乏というものを理解しない、自分も理解しない、そもそも貧乏はあってはならないものになっている。モノがあふれているからそのモノも買えないということはもはや耐えられないのだ。小林一茶は俳句などで富裕な町人と接していた。パトロンになった人もいた。でもたいがい富者の家に行けばその生活の相違に必ずうらやみ、身の貧しきを嘆く、そしてそれだけではない、そこから犯罪までになるのだ。それが一般的である。現代人は日本人はもっとみんなが貧しい時代より卑しくなっている。貧しく清く正しく生きるなどということはほとんどない、絶えずなぜあいつだけが金があるのだとかうらやむことしかない、民主主義によってさらに不満を言うことこそ抗議することかそ正しいということになり毎日自分より豊かな生活している人をうらやむのが正しいとなっているのだ。


例えば富者をうらやまずというとき富者がいくら貧乏な人にあわれみ恵んだりしても今の人は感謝などしない、なぜあそこの家では高いものばかり食べているのだ、なぜいい車とかもっているのだとかそういうことしかない、まず感謝する気持ちなど全くない、もらって当然でありむしろ奪うべきであり金持ちはあってはならないものだと思っている。それは不公正であり金持ちは貧乏人と同じく鳴くべきだと思っているのが普通なのである。金持ちは否定されるべきものでありもはやあってはならないものでありだから革命であれ殺してしまうべきとさえなったのが社会主義革命だったのである。金持ちがいて自分たちもいづれあういう金持ちになりたいから働くとかならない、それより金持ちから財産をとりあげるべきだとなったのが社会主義革命だったのである。だから小林一茶の言葉は本当に意外だったし本当に昔の人は貧乏でもこんなふうに考えるのは偉いと思った。今は貧乏そのものが否定されている。貧乏でも心ゆたかに生きるということがありえない時代である。みんなが貧乏な時代のとき人間の心は貧しくなっている。だから昔の人は貧しく生きていても心がねじまがらない、他の富者をうらやまないというのは本当に今から比べると高い境地であり聖人のようにさえ思えてくるから不思議である。小林一茶には今までそういうことを感じていなかった。ただ貧乏を嘆いて俳句を作っていた人だと思っていたのである。人間の価値は時代によって違う、今の時代からするとそんな貧乏でもこんなことを言っていたとあらためてその人間の偉さに気付く、そして今の人間はなんなのだ、こんなに心貧しい人間になってしまったのかと驚くのである。現代こそ貧しくても清く正しく生きることが一番むずかしいことになっているのだ。そういう人はもはや過去に探すほかない、今にはなくなっているからだ。戦前生まれでも七五才以上の人はまだ貧しくても清く正しく生きていた人が多かった。七〇以下はアメリカの物欲一辺倒の資本主義に毒されすぎてしまったのが日本人だったのである。そういう価値観が当たり前であり欲望でもはや昔の人の清貧とかの価値観を見出すことは至難な時代なのである。



現に偽っている快楽を偽りと感じ、まだ味わわない快楽の虚しさを知らないところから移り気がうまれる-パスカル


これもまさに前にも書いた餓鬼地獄になっている欲望の資本主義をいいあてている。これほど食料でもなんでも快楽が満ちている社会はない、でももっと快楽がある、欲望を充たすものがある、もっと欲しい欲しいと限りなくグロ-バルに欲望を充たそうとしているのが現代である。この菓子はうまい、しかしもっとうまい菓子はほかにある、我が市になくても大きな都会に行けばあるし世界ではもっとうまい菓子を食べている、ケ-キを食べている。まだ味わわない菓子はいくらでもある。毎日料理番組で放送している。だから今の菓子はうまいにしてももっとうまいものは味わわない菓子はいくらでもあると移り気になっているのが現代なのである。目覚めた時からもっと欲しいもっといいものがうまいものがあるはずだという心になってしまっているのだ。これで充分だなどという人はいない、あなたの欲望はまだ充たされていないと絶えず宣伝されて欲望が刺激されるのも現代である。こうして欲望の餓鬼地獄化しているのが現代である。その歯止めがないのである。だからどんな金持ちでも充たされないのである。


世界的グロ-バルに欲望を充たすことは不可能だからである。アメリカ流の欲望の餓鬼地獄化した資本主義には歯止めが必要である。人間のモラルは低下して犯罪してまで欲望を充たすことがいいのだとさえなっている。これほどまでに欲望が制限されないことは危険な状態になっている。江戸時代から戦前までは貧しいから結果として欲望が制限されていた。現代は欲望は制限されない、欲望はますます激しく刺激されるし消費しないことは悪いことだとなりモノ余り時代に欲望を制限することが悪だとまでなっている。そうなると金のない不況下でもモノ余りだから金のないものは犯罪してもモノを手に入れろとまでなる。万引きはとまらないし大きな盗難もふえてくる。欲望に歯止めがかからないから犯罪してまでも欲望を充たすことが肯定されるまでになっている恐ろしい時代になっているのだ。

今あるものに満足し感謝することからはじめる
(欲望の歯止めがなくなる社会の危険)
http://musubu.sblo.jp/article/42277249.html

2011年01月05日

冬の夜(社会的入院-お一人様を生きる恐怖)


新年に冬の陽没るや山の端に雲輝きてみちのくの空


見えずとも一本松の我は知るここにありしと冬の星見ゆ

病院から良くなったから外出して様子見てくれとケアマネジャ-から言われて元旦に試してみたが息が苦しくなって行けなくなった。今日もまた言われたので行こうとした息が苦しくなり行けなくなった。体弱ったから無理なんだけど一応トイレに行くし起きて食事しているから在宅でやっていけると思われる。それより今は病院には長くいられない、下の療養病棟にも入れない、在宅で介護をやらせるのが国の方針なのである。でも在宅では介護できる人手があり財力がありとか条件に恵まれた人は今はまれなのである。自分は一人だし家に帰ったら三食用意して体が弱っているから介護するのは大変なことになる。おそらくその介護に追われて他のことができなくなる。ここのところが今高齢化社会で一番問題になっているのだ。施設は満員で入れない、行く場所がないからなんとか病院においてくれとなり社会的入院がふえているがこれも限界になっている。


すると病院から追い出されて在宅になり介護をおしつけられて事件になる。
その負担を在宅で背負わされるからである。自分もそうされる。病院には長くいられない、そして在宅になったらその世話をかかりきりでさせられ、他のことができなくなるのだ。介護しているからとそれ自体で社会貢献にはならない、自分の場合でも郷土史研究でも創作でもそっちだったら社会的に有益なものとして評価されるだろう。でも介護をいくらやってもそれで社会的に評価されることはないのだ。もちろん自分だけではない他の人でもそうである。仕事をやめたりする人は悲劇になる。だから安くてもいいから施設にも病院にも入れない人たちの老人施設が必要なのである。重くなければ比較的介護は楽だからである。母は食事もトイレも手がかからないからだ。だから病院でなくてもいい、金のかかる老人ホ-ムでなくてもいい、ともかくもう在宅で介護することも限界になってくる。そういう人がふえてくるそうした需要がましてくるのだからもっと気軽に入れる施設を作る必要があるのだ。そうでなければ在宅で介護されることでその社会的損失はかえって大きなものになる。仕事をやめて介護する人もそうだし他に有益な仕事でもできなくなるのだ。そこが高齢化社会の一番の問題でありみんな困っていることなのである。


この頃夜に食事に隣の市にでかける。母がいるとできない、夜一人だと不安になるしまた留守もできない、半分痴呆状態だからである。介護はまず近くでもでかけることすらできなくなる。姉のときもそうだった。一種の介護は牢獄に入った同じような状態になるのだ。自由に生きて我が儘だからそのことが一番辛かった。ある意味で姉のときはいつまでつづくのか恐怖だった。つづいてまたその問題が起きてきた。ともかく老親のためにどれだけ苦労しているか、事件も起きたのも母が半場ぼけた結果、その弱みにつけいられたのである。この世には実際人の弱みにつけいる奴が結構いる、人をあわれみ助けるような心をもっている人はほとんどいない、相手が弱くなったらつけいってやろうとするから怖い、そうなるとこちらでもそう思ってしまうだろう。相手に復讐するためには相手の弱いときにやっつけてやるとなる。まさに戦国時代の弱肉強食が現代にもあった。


こんなことを考えたこともない平和が三十年つづいたが今になるとお一人様というのは女性はどうかわからないが男性は悲惨である。一人だから守るものもいない、頼るものもいない、そこで悪い奴の餌食になるし他でもあとは金だけ欲しい人しかいない、まるで金にたかるハエエナしかいない、そんなお一人様は荒野に放り出されるのだ。自分を守る術はそこにないのである。そういう恐怖を自ら経験したからこれからふえるお一人様は親が死んだり頼るものが死んだから悲惨であり悲劇も起きる、事件も続発することはまちがいない、今はまだ親を頼っているからいいのである。親が死んだりしたら介護状態になったりしたら自分のように悲惨な結果が待っているのだ。家族がないことがどいうことか自分のように思いしらされる。他人は金にむらがるハエエナであり病気になっても助けるものもいない、荒野に放り出され野垂れ死にでもしろとしかならないのである。そういう想像力が働かないのである。自分も実際にそうなってはじめてこれは悲惨だ悲劇だと事の重大さにきづかされた、思いしらされたのである。人間はやはり現実にそういうように厳しい現実に直面しない限り本気で考えないのである。だからお一人様増えて高齢化するとき事件が続発してくる。それぞれの事情が違うにしろいろいろ起きてくることはまちがいないのだ。


夜帰ってもいつもの道に一本の松があることはわかっている。こういう狭い場所に生活していれば夜になっても見えなくてもそこに何があるかわかる。盲目になっても家の中くらいならわかるから生活できるだろう。おそらく暗くてもそこに誰かいるかもわかるかもしれない、これが大都会だったらわからない、だからどうしても都会は犯罪をおかしやすい、でも田舎でも今や同じである。物騒であり殺伐としている。人は信用できない、油断できないものとなってしまった。田舎でも人のつながりが希薄になってしまったからである。


新年ももう終わりになった。今年はどういう年になるのか?結局今年もいいことはない、何か問題な人をかかえているといいことはないのだ。三〇年間は全くそういうことがなかったのは支えるものが元気だったからである。それが反転してこちらが支えねばならなくなったときその苦労は大変なものだった。だからいいことは今年もない、おそらくいいことは死ぬまでないかもしれない、それは支える人がいなくなったからである。いいことはむしろ死ぬことなのかもしれない、悪いことばかりつづくと死んだら楽だとなってしまうのである。その点先が長くないから気持ち的には楽である。若い者が早く自殺するのは老人と違いその先が長い、その負担を人一倍重く感じている人が自殺するのかもしれない、俺はだめだというとき先の長い人生を背負いきれない重圧を感じるからかもしれない、六〇以上になるとどうしても先は短いと感じるからどうせ死は自殺しなくても早めにやってくるだろと考えるから気楽なのである。一方で六〇以上の人の自殺もふえている。一番の原因は病気なのである。この年の問題は病気だからである。お一人様も病気になることが最悪てありそうなったら死にたいと思うの自然である。

2011年01月06日

冬深む(尽きない人間の業)


冬深む千歳向き合う石の面


冬深む今日も動かず一日暮る


冬深む争わざりき石二つ


誰を待つ主一人や冬の暮


病院に昔を語る冬の暮



病院の隣の人は退院した。元気だから話しができた。病院はつまらない、つまらない、ディサ-ビスがいいと言っていた。病院もある程度元気でないと話すこともできない、話しも聞くこともできない、寝ているだけでは話しにもならないとなる。病院は何か昔を語るのに向いていた。
高齢者が多いこともある。どうしてもそこでは昔の話になるからだ。でもそれにはやはり話ができるくらいでないとだめである。話すこともできない人が実際は多いからだ。

ここ半年くらい病気もあって本当に動いていない、近辺にしか行かない、これだけ動かない、移動しないのもめずらしい、自分の場合はずっと動きすぎたのだろう。一見落ち着いて見えるが自分はじっとしていられないタイプだった。だから勤めることに向いていなかった。たまたまそういうことが許されるから勤めることもなかった。しかし人間はやはりどこかに腰を落ち着けて仕事しないと実りもない。じっと動かないことによってわかることもあるしそうしないと信頼関係も人間関係も作れない。結局勤めていないことや絶えず移動していた、旅していたことで信頼関係ある人も作れなかった。信頼関係は仕事しているなかに時間の中で生じてくる、培われるのだ。現代は孤族とか孤独死とか無縁社会になるのは仕事を通じて協同意識が作れないのである。

不思議に思うのは戦国時代までは一族郎党で暮らしていた。江戸時代になると個別化して農業を営むようになった。だから飢饉の時協力できないで餓死したというのは本当なのだろうか?江戸時代の前に大規模な飢饉の記録はないのか?江戸時代だけが大飢饉の記録が歴史的に記されている。その前は一族郎党でありその人たちは生死をともにしたのだからその結びつきは強固である。実際に家族以上の結びつきがあった。ともかく主君のためであり戦場で戦い生死をともにする。そういう社会を今は想像することができない、そういう強固な共同体があったということを想像できない、それだけ人間の生活が細分化されてばらばらになってしまったのである。最後の共同体として家族は残ったが家族がないものは最後に頼るものもなく悲惨な結果になることを身をもって経験した。それは戦国時代から江戸時代になって飢饉になっても協力できずに死んだことに通じていないか?この辺は歴史の謎でありその見解の裏付けはとれない、今も金だけが万能になったような社会であるがこれも結局人間を細分化して個別化して孤族化、無縁化を促進した。金が万能になりすぎると人と人は協力できないということがあるのだ。金でなく昔の結い(ゆい)とかの労働のように労働を労働で支払うとなれば金が万能ではない、人間と人間の協力関係が生まれるからだ。

石と石は千年向き合っている。そういう長い時間の中で培われるものがある。それが現代で喪失した。めまぐるしく人間も変わり会う人も変わる・・・というより人と人はもはや本当に出会いのだろう。ただ通りすぎるだけなのだろう。一期一会というとき昔は本当に人と人が出会ったからこそこの言葉が生まれた。今は交通が発達していつでも会えるとなっても人と人は出会いないのである。深い意義ある出会いが喪失したのである。なぜなら交通が発達していないなら遠くの人と会う場合、本当に人生で一回しか合わないことが普通だったからである。いつでも会えるよとなっていれば会うことの価値が減退してしまったのである。


遂に死んでもはや家での争いは絶えた、石が二つそこにあるだけである。争った日がなつかしいともなるのか?遂に最後まで争って二人の女性は今や家にいない、女性の争いもこれも絶えることがない、一面女性の業も強く恐ろしい。人間は本当に業に生きる、その業は尽きることがない、それが人生であった。人間はその業の繰り返しである。なぜなら本質的に人間の業は消えることがない、延々とくりかえされるだけだからである。それで犯罪も消えることがない、人間が存在する限り業も消えないのだから犯罪もなくならない、その業が消えるときは人間が滅びる時しかないのである。社会変革を叫んでも人間の業そのものが変わらないからやっぱり人間は変わらないのである。

葛尾(かつろう)村など山村は昔は豊な地域であった


葛尾(かつろう)村など山村は昔は豊な地域であった

明治以前で郡山地方の人口が最大になるのは江戸時代の元禄期です。この時の人口は郡山西岸で約2.5万人です。


それは古代では人々は山間地か起伏のある丘陵地帯にしか住まなかったということです。理由は水の確保がむつかしいからです。したがって平地にはほとんど住みませんでした。このことは奈良を見ればわかります。古代の大和朝廷は奈良盆地の周辺の山間地に生まれ、ずっとこの山間地にいました。彼らは盆地中央の平地には決して降りてこようとはしませんでした。

江戸時代には、幕府や藩も山村からはほとんど年貢を取りませんでしたから、平地の零細農家よりはずっと恵まれていました。こういう山村では、次三男でも容易に独立して世帯を構えます。そのため人口減にはなりません。
http://blogs.yahoo.co.jp/asakayama1000/MYBLOG/yblog.html?m=lc&sv=%BF%B7%C5%C4&sk=1




郡山というと三春であり三春に近いのが葛尾(葛尾(かつろう)村である。そこの落合という辺りに元禄の碑があったことを写真でも紹介した。元禄の碑は普通相馬藩の平地でも見つかりにくいし現実に見ていない、元禄は実際相当東北では古い時代なのである。芭蕉が東北を旅したのは元禄時代である。その時江戸は栄えていた。だから郡山も元禄期に人口がふえた。
そして当時山村は住みにくいかというとそうでもなかった。年貢をとられなかったことも大きな理由だった。山村には炭焼きもあるし自給自足的にはいい環境だったのである。今のように過疎化するのではなく人口は減らなかったのである。奈良でもたいがい山沿いに村がありヤマトもそうであった。大きな古墳は山沿いにあり最も古い道として山辺(やまのべ)の道があることでもわかる。そして水の便のいいところに最初の国、県(あがた-上の田)が生まれた。昭和天皇はその県(あがた)の短歌を残している。平地が住みやすいように見えても平地は湿地帯であり住みにくかったのである。人間の生活は世界的に共通している面もある。


山村はその後も木材の供給源であり資源があるから昔は山村でも豊かな面があったのである。長者もいたのである。今になると葛尾村など辺鄙そのものであり限界集落に近くなるというが江戸時代まではそうではなかったのである。だから相馬藩の武家がかなりの数移住している。山が今のように暮らしにくかったらそうしていない、その後山中郷として相馬藩に組み入れられたのである。牧もあり馬も飼育して馬の供給地でもしった。葛尾(かつろう)大尽がいて鉄の粗製で栄えたということもあるが山村には昔長者がいたという伝説が各地にあるから今の感覚で昔を想像すると違っている。人間の生活は世界的に共通している面もある。水を制するもの治水が国を治める、四大文明を作ったように日本でも水の便が大事でありそこから国がはじまっていることは同じだったのである。


つまりあの元禄の碑は郡山が三春が人口がふえて葛尾村に波及したことも想像できる。葛尾村は三春に近いからである。郡山にも近くなる。ともかく元禄の碑はなかなか見れない東北でも古いものなのである。それが葛尾村にあったことが不思議であった。葛尾村には古いものが残っている。相馬藩と三春藩では境を接して家の構造が違っていたというのは江戸時代からでありその前にはそういうことはなかったろう。江戸時代に相馬藩と三春藩がそれぞれに別に支配されてそうなったのだろうか?葛尾大尽が三春の藩主を呼んで饗応したということがあったように三春藩はの関係も深い地域だった。小出谷から三春へのバスが通っていた。その時も三春の方が近いものとしてあった。浪江はそれ以上に遠く感じられていたかもしれない、阿武隈山地の領域も広いから山村は今は重要視されないが昔はそこで十分暮らしが成り立っていたし豊かな地域だったということを頭に置いておく必要がある。


郡山について書かれた引用したプログはかなり専門的だけど著作権フリ-になっている。誰でも引用はできる、全文も引用できるのだ。


 
 葛尾村(落合)の明暦と元禄と記された石碑の謎
http://musubu.sblo.jp/article/15958029.html

 六郎田とかあるのは葛尾(かつろう)村は山でも六郎まで六男まで棲むことができたことを示しているのか?地名にこだわりすぎても困るが山村がかえって人口をふやせたというのも意外な指摘でありそういうことがあったのかもしれない、もし六良田が六郎田ならその前に次郎、三郎もありえたからである。それだけの分家を成し得たのかもしれない、これは推測にすぎないけど山村が人口をふやせたというのは今では考えられないからそういうところに昔を想像する盲点がでてくるのだ。
posted by 老鶯 at 20:45| Comment(0) | TrackBack(0) | 歴史(相馬郷土史など)

2011年01月07日

遠い記憶の町(詩ー棚倉町)

tanakkra1212.jpg

遠い記憶の町



北風が唸り吹く

一人冬籠もる日々

我が旅して

訪れた街や村を想う

数えきれない街や村

しかし記憶から消えていた

一つの町を思い出した

山々に囲まれた町

そんな町があったのだろうか?

心の中で化石のようなってしまった町

そこも歴史がある古い町

でも奥の細道からもはずれた町

閑却されやすい場所の町

冬は深まり我が年も古りぬ

並べては遠い記憶となり

不夜城の大都会を離れ

化石のように眠るもよし

北風が家を揺すり吹く音

最後に思い出だけが宝となる