2010年12月01日

南相馬市立病院の同室の隣の人-「濁沼」の姓の謎


南相馬市立病院の同室の隣の人-「濁沼」の姓の謎

同室の変な姓や秋深し


南相馬市立病院で一か月入院していた同室で隣の人が「濁沼」という姓だった。その人は隣の福寿園に入っている人であり94才であった。自分の母と同じだから94才である。その人も死ぬに死ねない悲惨な状態にあった。痰がつまりそれで苦しんでいた。痰とるとき苦しむのである。うめきわめきあとは寝ているだけの人である。隣だからうるさくて眠れない時があった。でも隣にいたということはやはり縁があってこそなのだろう。その人は身寄りはない、誰も家族が声かけるものがない、そしてうめきわめき苦しんでいるだけである。これも楽じゃないなとつくづく思った。自分も家族は一人しかなくその家族も入院している間一回も連絡さえできなかった。
耳が聞こえず多少ボケているから話すらできない、その時家族がいない身寄りがないことがいかに悲惨なことか痛感したのである。この人も確かに体は活かされているが精神的には死んでいるのではないか?看護師さんも「濁沼さん、濁沼さん」と言って介護しているのはしているがただ肉体の延命を図っているのでありその人とはなんら話ができない、だから看護師に馬鹿にされて軽く扱われているということもあった。要するにその人の経歴は全く不明である。その人がいかなる人であるか全くわからないのだ。ただ濁沼という姓のみがわかりその姓が変わっているなと心に残ったのである。


同室の大原の人は雲雀が原に開拓に入った人ではないかと言っていた。そこで変わった名前の人が多いという。雲雀が原は相馬藩の広大な放牧地であり野馬追いの行われる場所だった。明治になり広い原野に開拓に入った人々がいた。石神村から入ったことは知られている。94歳は母と同じ年齢でありではいつその人が開拓に入ったのか戦後に満州引揚者が開拓に入った人が全国に多かった。鹿島区の小池村に入った人と懇意にしていたので知っている。94-60となると34歳の頃だからちょうど戦争が終わったころに入植した人なのだろうか?濁沼(にごりぬま)という姓自体変わっている。どこが発祥地なのか?濁沼とか濁川とかの全国にある。でも濁沼村となると岩手県東磐井郡濁沼村 しかないようである。インタ-ネットで調べる限りだが確かにないのだろう。でも姓として千葉氏→濁沼淡路守胤村の娘 とかあり濁沼の姓の人が移住して濁沼の地名が生まれることもある。この辺が姓とち地名が混同しやすいからわかりにくくなるのだ。濁沼という姓は宮城県に特に栗駒に多く、名家にもなっている。北海道(30) 宮城(30) 茨城とあり宮城県と岩手県に多いからその辺から開拓で雲雀が原に入植したのだろうか?北海道に多いというのはこれも開拓で移住したからである。


岩手県東磐井郡濁沼村
一関市千厩町濁沼

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貫門御免は二軒であった(栗駒の話)

村で門構のある家は内の目の佐竹、堰の上の菅原隆一、貴船の雄吾、洞場の濁沼竜吉、万代の清水、釘の子の炭屋、木鉢の千葉等であり、いずれも貫門(サの字形の建柱)である。
http://www.st.rim.or.jp/~success/tiba_5.html

ただ不思議なのは


信秀の八男・師親はのちに師持(下総)と改名。濁沼亀ヶ館十万五千苅を領していたが、その後の動向は不明。

 幕末の相馬中村藩の客僧として知られる慈隆大僧都は、亀卦川氏の出身である
http://members.jcom.home.ne.jp/bamen1/oshu3.htm




濁沼亀ヶ館とかありここから有名な僧が相馬藩に来た。その時濁沼の姓がもたらされたのだろうか?僧だけがきたのだからその線が薄いとなるだろう、やはり明治以降雲雀が原に入植した人であり年齢から察すれば戦後入植した、それは宮城県か岩手県だとなるのだろうか?
いづれにしろ姓だけでもその人の歴史をたどることができる。清信という人も千葉氏系統であり古いことがわかる。姓から探る歴史がある。ただかなりややこしくなり嫌になるのである。でも同じ病室の人で身寄りもない人にも生きた歴史がありそれが知れれば郷土史の一こまになる。郷土史は郷土に生きた一人一人が対象になるからだ。 その人については姓しかわからないにししてもそうである。その人も死んでしまうからあとは何もわからなくなるのだ。


飛行場跡のプログ(ここに雲雀が原のことが詳しい)
http://1901rjtt-to-roah.blog.so-net.ne.jp/archive/c2851-1

タグ:濁沼
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冬菜

 
病院へ冬菜に光介護かな



病院で定期的にやることがある。たいしたことではないがそれでも介護なのだろう。これが在宅になったらひどいことになるかもしれない、一日一回通って水を変えたりするちらいならいい、大正生まれとか戦前の生まれの貧しい時代は「もったいない」世代であり贅沢を言わない、忍耐強いの特徴である。団塊の世代が介護になったら贅沢を経験しているからめんどうになるかもしれない、町中に畑があり冬菜がある。冬菜というと貧しさの象徴のようになるが現代では清貧というのはいかにむずかしいか体験してわかった。現代ほどかえって貧しいことが耐えられない時代はないのだ。貧しい時代も耐えられないということがあるがそれは現代の貧しさとはまた違っている。みんな貧しいのだから他をうらやむとか第一モノがないのだから金があっても買いようがないということがある。今はモノがあふれているし金があれいろいろな贅沢ができる。

その豊かななかで人間は貧しく窮乏感がましているのだ。貧しさにみんな耐えていたのが昔だが今は貧しさに耐えられない時代なのである。だから格差があり貧乏な人で清貧に生きる人など皆無に近いだろう。その人たちはみんな大きな不満をかかえているのだ。冬菜が貧しさの象徴なときに冬菜でも冬の光がさしている。そうして清貧に生きる人がいたならと思うが実際は今はいない、そういう貧しさに耐える感覚は今やないのである。だから今の時代本当に貧しい人が例えば「貧しさや冬菜に光耐えるかな」などと俳句にすることはない、これはかえって貧乏でない人が想像で作る句になる。現実に貧乏に生きる人はこういう心境になる人はいないのである。


ともかく家事一切をやらるとなるとこれも疲れる。洗濯機が壊れたみたいだ。こうしたものは日頃使っていないとその使いにくい、だからコインの自動洗濯機でした方が便利なことがわかった。一時六万もして乾燥機買ったがこれは不必要になっていたのである。その時コイン式の自動洗濯機があっても町にも一カ所あったが利用していないので気づかなかったのである。近くでも自分がやらないと利用しないのである。それで損したのである。今では一人暮らしでも便利にできているから家事でもうまくやれば楽になっている。昔は掃除、洗濯、料理でも一仕事だったから女中とかを使わずに大きな家ではやっていけなかった。今は女中がやることを機械が代わってやるから楽なのである。だから女中とか手伝いさんの需要は極めて少なくなった。そして前から金持ちでお手伝いさんなどを雇っている雇いなれている家はいいが最近になり一時間とか家事手伝いなど頼むべきではない、家の中に入ってくる人はよほど信用ある人でないと大変なことになる。


こういうことはやはり昔から雇っている金持ちの家でないとうまくいかないものだったのである。そういうところでは長く働いているから安心できる人がいる。そういう人は即製には作ることはできない、それが失敗の元だった。信用を得るには長い時間がかかる。例えば単に買物するにしても十年間くらいコンビニにでも通いそこに同じ店員がいたらあの人は万引きするような人ではないと一応はなる。その長い時間に信用が生じるのが普通である。でも今はコンビニでもどこでもよそ者が相手となると信用が生まれないのだ。家の中に入れる人はよほど信用ないと危険極まりがないのである。アメリカでは金持ちの手伝いさんを裸にしてなら雇うというのもわかった。それくらいしないと金持ちの家は危険である。アメリカの金持ちは桁外れであり手伝いさんとなると移民が多くそういう人は全く信用できないのである。ただ長くなれば信用は生まれてくるのが人間なのである。

タグ:冬菜

南相馬市立病院の同室の浪江町の富永氏の由来は?


南相馬市立病院の同室の浪江町の富永氏の由来は?

病院で同室だった富永氏は浪江の請戸の出身であった。そこで15町分の田畑をもっていた。中国の研修生を雇い三回も中国に行ったという、他に地元の人を指導する立場にありその土地では優秀な農家であった。娘四人がいて大学まで全部出して一人は30代で死んだ。そのことを妻はしきりに言っていた。それで介護度5なのに早く家に連れて帰りたいと言っていた。介護度5で在宅介護をできる人はまれである。それほど夫のことを思っているので珍しいと大原の人と語り合った。大原の人は息子娘が近くにいるのに大病したあとも一緒に住まない、大きな家で一人猫とまた暮らすことになる。そしてその家は空家になってしまう可能性が高い。農家でもそういう家が多いのが現状だからそんなに夫のことを思い介護するのはうらやましいとなるがその姿はあまりにも痛々しいものだった。


ともかく平の方に野菜などを売っていた。浪江となると磐城との関係があった。その頃市場が磐城にあった。その頃小さな範囲ではない、大きな市場が平市に磐城地方に生まれたので大量生産するようになった。市場はだんだん拡大化して今やグロ-バル市場となったのである。近くに市場が形成されなければ農家も農産物を大量に売れないから豊になれないのである。それはどこでも同じである。中国でも都市近辺の農家は商品として大きな市場に農産物を大量に売るとき豊になったのである。大きな消費地がないと豊になれないのである。こうして市場に売れたからこそ娘四人も大学に出すことができたのである。そもそも浪江はもともとは古代に標葉郷であり標葉一族が勢力をもった地域であり。隣に楢葉があり標葉があり双葉郡は二つの葉からとってそうなった。

そこはあとで相馬氏と岩城氏との境界争いの場ともなった。相馬氏が勢力を伸ばして岩城氏は後退した。その中で標葉氏は相馬氏に組み入れられた。標葉氏は葛尾(かつろう)村の境界の津島までその領地であった。津島は今でも浪江町の行政下にあるのはそのためである。そこは三春藩と境を接する所でもあった。

その中で富永氏というのはやはり由緒ある姓なのだろうか?
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富永雅楽助(刑部)


実名勝安。山城守政辰の二男。富永氏は代々北条氏に仕え、曾祖父山城守政直が北条早雲・氏綱・氏康に仕え江戸城を守った。祖父神四郎直勝は江戸城に加え、葛西城将となるも、永禄七年鴻台で討死した。父政辰は北条氏政の一字を賜っている。政辰の嫡男(勝安の兄)は直則で幕府旗本となった。(「諸士」)

http://www.page.sannet.ne.jp/kuranosuke/echizen-kasin.html


富永という姓はそれなりに由緒あるもので鎌倉時代の北条氏系統につながる。千葉氏とは縁がそれほどなくてどういう経路で浪江の請戸に来たのか不明である。相馬藩ではそれほど有力な一族ではない、浪江からも野馬追いに出る家がある。浪江の標葉氏は相馬藩に組み入れられて野馬追いに出る。浪江から南になると相馬藩に組み入れられるのはのちのことで野馬追いに出る家がない、浪江となるとやはり磐城との関係が深くなる。距離的に地政学的にそうなってくる。


権現堂城は標葉(しねは)氏の居城であった。標葉氏は代々、太平洋に近い平野部の請戸館を居館としていたが、防御力の不備から、本城館を築いて移ったという。室町時代中期の嘉吉年間頃(1441〜44)のことであるといい、時の城主は標葉清隆であった。
http://homepage3.nifty.com/otakeya/hukusima/namiemati.htm



請戸は古い地域である。だから中世から標葉氏が根拠とする城がありあとで権現堂の地域に移り相馬氏の支配下に入った。富永氏も鎌倉時代に請戸に入ってきたのか、請戸港も古く
岩手県の宮古から鉄になる素材を葛尾(かつろう)村に運び葛尾(かつろう)大尽が製鉄して三春藩などに売っていた。三春藩は近いから第一のお得意先になっていた。それで葛尾大尽の屋敷に呼ばれて歓待されたのである。その屋敷跡が葛尾村に残っているのは知られている。
津島を通って塩の道もあり塩も浪江から運ばれていた。棚塩とある地名は塩がとれた地域である。請戸港まで行くと相当に広い田が広がっているから、15町分という広さをもてる地域であった。浪江駅から山は近いが海の方に平野が広がっている。海の方に向かって広がった地域である。請戸地域に平坦地が多いのだから請戸に標葉氏の根拠地があったことがうなづける。江戸時代でも塩がとれる、塩を売る、鉄の素材を運ぶ、魚もとれるとかそれなりに豊かな地域だったともなる。富永も富が永くつづくという縁起のいい姓であり今の静岡県を三河を中心にして全国に富永の姓は広がっている。

タグ:富永
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2010年12月02日

南相馬市立病院を基点に海と大原の短歌十首

南相馬市立病院を基点に海と大原の短歌十首


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病院の窓辺に鳩の二羽並び秋の朝日のさして来るかも


我が病癒えにけるかも海よりそ昇りくる秋の朝日仰ぎぬ


退院の日の近きかな海よりそ昇る秋の陽輝かしかも


原町や大原の方に緑濃く秋の朝の日さして明けゆく


海近く桜井古墳主は誰病院に思ふ秋深まりぬ


原町の街をながめつ大原の人とすごして秋の夕暮


海近き桜井古墳遠きかな大原に思ふ秋の夕暮


大原に海は遠しもイノシシと猿になじみて秋深まりぬ


大原にさらに奥なり遠田かな前田の人や秋深まりぬ


大原に冬の陽没りぬあわれかな街は遠しも昔の暮らし

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これは連作としての短歌である。南相馬市立病院に一か月いて毎日ながめていたのが太平洋と原町の街とかなた大原の方だった。同室に大原の人がいてその人だけと話しができた。そして原町の地理的距離感覚がついた。市立病院は高いから立体的に地理を把握できたのだ。本当にあの高さから海から朝日が昇るのは荘厳だった。下から見ているのとは全然違った朝日だった。そしてその海近く新田川沿いに桜井古墳がある。つまり市立病院の辺りはすでに古代から人々が住んでいた原町区の中心地域だった。大きな古墳があるところは住み安い場所である。たいがい海近くにある。仙台の遠見塚古墳とか名取の雷神山古墳も海が近いところにあった。そういうところは海を生活の根拠として人々が住みはじめた。海といっても外海には出れないとしても内海化している入江や湾や河口で生活していたのだろう。古代でもどこでも浦が深く入りこんでいたからである。泉官衙跡に行くのに運河あったというのも交通としても利用していた。古代奈良辺りでも川は交通路だった。桜井古墳の主は誰なのか?すでに東海地方系の陶器が出ていることは東海地方の人が移動してきたと推察できる。「みちのくの真野の草原遠けど面影にして見ゆというものを」笠女郎の万葉集の歌の草原は実は地名だったと考察したように海の近くの古墳は何らか港のような役割も果たしていたのかもしれない、その当時太平洋を船で来ることはないとあるが浦とか河口が広く陸地に広がっていたからそこは波も穏やかであり船の出入りが可能だった。そういう近距離の船の応用はあっても不思議ではない、泉官衙跡の新田川の運河も一部を近距離の交通として利用されていたのである。

いづれにしろ歴史は地理だというときいかにそこに長く住んでいても地理がわからないのだ。桜井古墳から大原は相当遠いのである。その遠さの感覚が現代では車の利用で欠落してくるのだ。浜通りは山といっても高い山はなくてものたりないが海と山の暮らしがあるので恵まれている。中通りや会津は山の暮らしはあっても海は見えないからである。だから太平洋から昇る秋の朝日は金色に輝き荘厳だった。これも高いところから見たからそうなったのである。
大原からはさらに遠田という字地名があり奥に入って田がある。海から山の奥まで立体的にその生活の跡をたどると見えてくるものがある。自然的にも荘厳さにふれることができる。

タグ:海の短歌

2010年12月03日

<埼玉女児暴行死>亡きがらに虐待の跡(人間は窮迫するとき危険な状態に・・・)


<埼玉女児暴行死>亡きがらに虐待の跡


毎日新聞 12月3日(金)2時35分配信
 埼玉県東松山市で宮沢愛(まな)ちゃん(5)が同居のベビーシッター、柳瀬純子容疑者(34)=傷害致死容疑で逮捕=に虐待され死亡したとされる事件で、愛ちゃんの亡きがらが2日、ひつぎに納められた。ほおにもおでこにも、虐待を受けた跡とみられる痛々しいあざが残っていた。



この事件に興味もったのは自分の家と共通していたところがあったからである。一見にていないようでもにていたのである。この子供の両親は離婚して男親がひきとった。ところが男親は仕事で忙しくて子供をみていられない、それでインタ-ネットの出会い系サイトで出会った女性と知り合いベビ-シッタ-を月10万で頼んだ。この人は遠くとも言えない20キロ離れて住んでいた人である。ここで問題になったことはなにか?まず出会い系サイトで知り合ったということは相手の素性とかがわからないことである。どういう人なのかわからない、これが家で働いてもらうときは一番大事なことだった。その女性は相当に問題ある人であった。普通の人ではなかったのである。でも夫は男親になった人は仕事は忙しい、子供のめんどうみるのは大変だとなり簡単に出会い系サイトで出会った人に頼ってしまった。その男親はせっぱつまっていたのである。

そういうときは相手のことをあまり考えずに頼ってしまうのである。これはいいやと簡単に家のことを子供のことをまかせてしまったのである。家の中に他人をひきいれまかすことは非常に危険なことである。この場合は子供の命をなくしたから経済的損失とも違う、もう命をなくしたらその命は帰ってこないから経済的損失より大損失だったとなる。この男親は前いたところでは子煩悩と回りの人が言っていたから男親が虐待するような人ではなかった。一時児童相談所にあづけようとしたというのもわかる。でもそういう公共施設もなかなか入るのにめんどうなとこ5ろがあるから手っとり早く頼める人に頼んだ。前いたところでは近所の目配りがあったが最近引っ越したところではなかった。それで猫でもギャ-と言ったとき死んだのかと回りの人が言っていたし子供がいたのかどうかもわからなかったというのも事件が起きた一因になっていた。近所の助けが目配りが全然なかったのである。


このことは自分の家と実ににていた、子供ではないが老人のめんどうも子供とにている。特に多少認知症気味になるとあかんぼうと同じになるのだ。だからたやすくだまされる金の管理やらいろいろ家のことすら管理できくなるのだ。そういうとき安易に外からきた知らない人に頼る、これは渡りに船だとなる、その人がどういう人かよりどうしても自分が困っている、その窮迫していることでついつい相手のことをかまわず頼ってしまうのである。そういう家が空白になる、隙ができるとき悪い人でも簡単にいい人と思い引き入れてしまうのである。それは今や素性が知れない都会だげの問題ではない、田舎でも同じである。田舎も隣近所のつながりが希薄になっている。その人は20キロ離れたところに住んでいたというが一キロもはなれていないところでも問題が起きた。世の中にはいろいろ問題な人がいる。悪い人もいる、この女性はそもそも相当問題な女性だったのである。出会い系サイトで知り合った、即製で知り合ったくらいではその人のことはわからない、でも男親は困って窮迫していたからその人のことをいろいろ考えるよりとにかく子供のめんどうをみてもらえばいいと思った。自分も老親のめんどうをみてくれればいいと思ったのとは同じだった。つまりそういう窮迫したとき相手がいい人悪い人など考えないのである。悪い人でもいい人に見えてしまうのである。


でも実際に相談する人もいないしそうなりやすいのである。男親は仕事で家に帰ることもできず全部その出会い系サイトで知り合った人にまかせてしまったのである。これも自分も同じだった。全く家のことをまかすことはよほど信用がない人でないと危険である。ここでは子供のことだったが命までなくした。親戚とか隣近所とか頼ることができずにそうなった。自分もそうだった。離婚して妻がいなくなる、男親だけでみようとしても仕事が忙しい・・そうして家がせっぱつまってくるとき危険が待っている。いつの世の中も戦国時代である。戦国時代は相手の敵の弱点につけいり攻めて敵をほろぼしてゆく、内輪もめを起こして家を混乱させて責めてくるとか相手の弱点、弱みにつけいるのが戦国時代だが今も変わりがない、油断も隙もないのが人間社会なのである。計画的に敵を倒そうとする、そこで陰謀も当然ある。そういうことが実際個々の家でもありうるから人間は怖いとつくづく思った。相手が弱いとき一番の狙い目なのである。もし復讐するなら相手が弱くなったときである。病気とかなにか困窮するときねらうのである。こうなると人間も悪魔的になる。まさに弱肉強食の世界である。戦国時代はまさにそうだったのである。


家の中で働いてもらうにはなにか特別な金だけではない動機が必要である。そして何かしらその家に対して敬意とかもっていないとできないのではないか?掃除するだけでも何らかその家に深いかかわりがないと敬意のようなものがないとできない、単に掃除しているだけではないからだ。その家に仕えその家を思う心がなければ掃除すらできない、でも外から家に入る人はそういう気持ちがほとんどない人である。金をもらいばいい、それだけで仕事している。でもそれだけで仕事できるのかとなるとその動機が問題になる。人間は「神が心をみている」というふうに心を一番大事にしたように動機が一番大事なのである。ドラマの話だがその人は旧家に仕える人だった。金庫番までさせられていたのは信用があったからである。その人はすでに子供のときからその家にいたのである。母親と一緒に働いていて母親が死んだあともその家の子供のように育てられた。それで恩義に思い仕えていた。そういう深いつながりが子供のときからできていたから信用されていた。家族の一員と同じになっていたのである。つまり信用は短い時間ではできない、長い時間がかかる。コンビニでも十年間通いその時一回も不審がないなら一回だけうっかりミスで支払いを忘れてもあれおかしいな今回はどうしたのだろうと疑問になる。実際に支払いを忘れることも人間はあるのだ。ともかく十年間は信用の時間だったのである。そこに十年くらいいた店員もいたからである。信用は短い時間ではできない、出会い系サイトで知り合ってすぐに信用関係はできないのである。

タグ:児童虐待
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冬の雷(災難つづきの年)


冬の蝶追わんとすれば消えにけり


雷鳴りて濡れて追わるや年の暮


静寂の茶室に波乱冬の雷

一生のうちで今年ほど波乱の年、災難の年はなかった。いやすでに姉が認知症になってから家はがたがたになり災難つづきなのである。今日も町に一つあるコインランドリ-で二回たまった洗濯物を洗いに自転車で行った。そしたら帰りに突然雷が鳴って雨がふぬれてしまった。
コインランドリ-の利用はこれからふえてくる、町に一つではたりないみたいだ。これも時代の要請だからビジネスチャンスがあるかもしれない、家で洗濯している時代ではないのかもしれない、家事もすでに料理も買って食べているのが多いように共稼ぎとかなると家事に労力を費やす時間がなくなるのだ。とにかく子育て介護とかなると本当に忙しくなる。毎日病院に通うだけで手間なことがわかった。近いのだから楽なように見えて一日一回通うのに結構な手間なのである。それで市立病院に浪江から通っていた人は車で40分かかると言っていたから大変なことだと自分で通ってみてわかった。そして娘も協力してくれるのだがまだ幼い子供が二人もいるのだから子育てから介護から仕事ももっているから大変なことになる。介護が加わると労力も倍必要になってくるのだ。介護は子育て以上に労力がかかるのである。介護度5だったら特にそうである。その家でも娘がいても妻がいても労力が足りなくなっているのだ。


買物だけでも結構な手間なのである。だから家族が少人数な時代に在宅介護をできる人は少ないのである。それなのに政府では金がかかるから在宅介護にしようとしているのは時代に逆行しているのだ。どこの家も人手があまっているところは少ないのである。高齢化社会で暇な人もふえているのは確かである。それらの人がうまく利用できないのは家族の中で働かせることがいろいろむずかしいからである。自分でもそのことを経験したからわかる。就職先がない働く場所がないというのではない、若者はえりごのみするから働かないというのも本当である。中小企業とか介護関係とか人手がたりないところはいくらでもあるからだ。ただ働きたくなくても親の収入でやっていけるとかそういう時代の中で就職難とか人手不足か起きているのだ。


いづれにしろ想像の茶室とはいえ人間界に波乱は常にある。人生は波乱の連続だったという人もいるだろう。ここ30年は波乱はなかった。茶室にしても武将が集う場だから千利休のようなまだ戦乱の時代だったら生くさい場所であり命のやりとりもある場所だった。そもそも千利休が秀吉に切腹を命じられたことでもそのことがわかる。茶は単なる風流人が営む暇人が営むものではなかった。政治の場でもあったから危険もそこにあったのである。要するにこの世に危険でない場所などどこにもなかった。家族のなかに危険な人は入ってくる。家が安全かと思いば地震や災害で家にいても死ぬのである。家が一番危険なことだってあるのだ。女三界(さんがい)に家なし ・・・三界の火宅とかこの世に平安の場所などどこにもない、キリストも枕するところなしと言って十字架についた。この世に安住の場所などないのだ。一見安住の場所と思っていたところが一変して地獄にも変化する。それがこの世であり死ぬまで安住はない、無常がこの世の定めなのである。家が安全だ、頼りだ、家族がいて安心だとかなるがその家族さえ消失してゆく。この世に安住の地はない、来世にしか安住の地は望めない、そういう覚悟をしておくべきである。

 
 
タグ:冬の雷

2010年12月04日

冬籠もり(秋山紀行を読む)

 
玄関に冬紅葉散りうなる風


病院に母なお生きぬ冬の菊


我が読みぬ秋山紀行や冬籠もる

今日は風が強く福島県の一部で新幹線に影響した。青森まで開通したが新幹線の旅はそれほと面白くない、ビジネスにはいいにしても旅というのが現代では喪失した。江戸時代なら歩いて行くのだから旅があった。旅は別に遠くに行くから旅ではない、江戸時代のように歩いて村々を町を行くから旅なのである。新幹線のように早いと旅は喪失する。旅するには結構暇や金が必要なめんどうなものなのである。旅には時間が何より必要なのである。だから退職した人が鹿児島から青森まで歩いて行った気持ちがわかる。勤めていると時間がないから旅にならないのである。保養とかになっても旅をすることはできない、旅は実際は現代では相当逆に手間暇かけないとできない、本当の旅は今や相当な贅沢になった皮肉があるのだ。いづれにしろ自分はなかなか旅はできないだろう。体もそうなったしそういう暇がなくなった。30年間旅していたのだから文句は言えない、高齢者は金がもっていても消費する時間がないというのは本当である。金があっても消費するには時間がかかるのである。その時間がなくなっているのである。

確かに金は無限に与えられている金持ちがいる。でも消費する時間はみんな同じなのである。時間はみんな平等である。金で時間を買うことはできない、高齢化すれば還暦からさらに20年を生きる価値は大きい。もちろん健康であることが第一条件である。高齢化社会は社会全体にとってはいいものではない、負担が増加するだけだとなるがなにかを成し遂げるには時間が必要である。時間がそれだけ伸びたということは一番贅沢なことにもなる。あと20年も生きたら相当な仕事ができるからだ。人生で一番貴重なものが時間でありその時間が一番浪費されるのである。


「10月からハルマでは栃を食い、年中のこととしては粟、稗を良く食べますがそれに小豆を少しまぜると味が良くなります、毎日朝は稗焼餅(稗のだんご)でおかずとして近年ぜいたくになり飴などをいれます。ここより上の村の上の原は、和山などは年中栃や楢の実を食べ、夏秋のころ雑煮に蕪の根も葉も刻んで入れ粟を少しふりまぜます」秋山紀行-鈴木牧之


山の暮らしもわかりにくい、会津の方に行くと栃餅を食べることができる。栃餅は作るのがあく抜きとか結構めんどうなものである。でもこぱを読むと栃の実や楢の実が欠かせない食料源になっている。粟とか稗が常食であり米はそうなっていない、米は贅沢なのである。檜枝岐(ひのえまた)辺りだと蕎麦が常食になる。あそこは会津の奥だから昔だったらまさにこういう状態だったろう。サンショウウオなどを焼いて食料にもしていたし今でもしている。獣の肉も食べているし山では昔から米意外のものを食べて暮らしていたのである。ただ天明の飢饉で山奥でも食料が枯渇して死んで家がかなり減っていた。相馬と丸森の境にある天明山は飢饉と関係してその名がついたのだろう。平地では米がとれくて飢饉になったと思うが山だとかえって山には栃の実などの食料があったのだから生き残ったのかともとも思ったが同じだった。
気候の変動があり山にも実がならなかったのかもしれない、なかなか今になると昔の暮らしはわかりにくい、でも冬籠もりにはふさわしい場所だとなる。冬籠もりの季節はやはり昔を思い出したり読書したりするのが向いている。読書も何回も読むとまた違ったものとしてよみがえる。人間は読書にしても本当に忘れやすいのである。人間は本当に忘れやすいから遂に認知症になりみんな忘れてしまうのである。忘れやすいというとき自分は相当の量をインタ-ネットで書いてきたがその書いたことも忘れている、ええ、こんなこと書いていたのかと改めて自分の書いたものを読んで思い出しているのである。人間は忘れやすい、あらゆることを忘れてしまうのである。

 

地名から南相馬市原町区の大原村をみる


名から南相馬市原町区の大原村をみる

国魂太郎゛岩城氏の一族であり好嶋庄内の村々の地頭と同じ程度の名田を所有していた。
手作りとは名主の直営地のことで、佃(つくだ)、門田(かどた)、前田、内田などともいわれ、居館の近辺にあった。地頭、名主たちは土塁、堀をめぐらしてた居館に住んでいた。
堀の内、内城、御城、殿の前、竹の内、腰巻などの中世の名残と思われる地名がある。
(新しいイワキの歴史)

地名から歴史を探る場合、時代区分を明確にする必要がある。中世と江戸時代とかを区別する必要がある。中世の地名が多いからここは中世から人が住んでいて地名化したということを認識する。館とつくのはたいがい中世でありそこが生活の中心となった場所である。今の感覚だと生活の中心は鉄道の駅があるところとかさらに車社会になり道の駅が中心になったり常に中心は変動している。中世は館とか堀の内、内城、御城、殿の前、竹の内・・とかが中心地になっていた。その典型的な例が南相馬市の鹿島区の駅に近い「田中城」であった。城といっても江戸時代のような城ではない、堀をめぐらしたものであり田中城はそもそも回りが湿地帯であり橋が多く天然の要塞になっていた。あと館とつのには江垂の中館とか小高い山を根城としたところが多い。これも敵を防ぐ天然の要害だからそこを中心として生活があった。
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インタ-ネットで読んで面白かったのは中世には飢饉が少なかった。庄園とか館とか中世の城内に住んでいた人は個々の家族に分離したものではない、その内では生活は分離していないで一体化していた。一つの大家族だから飢饉がきても食料をみんなで分け合うから江戸時代のような広範囲な飢饉はなかったというのも不思議である。江戸時代になると個々に別れた農家がふえたからだという。中世の生活がどうだったのかこれもわかりにくい、生活が個々に別れたというとき現代は核家族してさらに細分化しているから社会全体では協力しないから助け合うことがないからいろいろ困るのとにている。地名は生活を共同した証でもありただ中世の地名は多いことは確かである。必ず館という地名がありそれがあればその土地の中心地がそこにあったことなのである。相馬藩内でも堀の内とか内城とか殿とか竹の内とつく地名は多い。竹の内は全国的に多い。そういう地名があればそこは中世から人がすみ中心地がそこにあったということである。屋敷というつく地名もその屋敷を中心に暮らしがあった。明治時代から中心地の変動が激しくなり工業化して郷土の生活も個々に細分化されつながりが失われた。

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大原の前田という所には病院で知り合った人が一人で住んでいる農家がある。古い家だと言っていたが確かに前田となっているとそうなのだろう。つまり家の前の田がまずその地域の中心地となり草分けとなった。そこから開墾されて田が拡大化していった。下田とあるのは下田が先にあったのではなく前田が先に人が住んで下田が開墾されたのだろう。そしてさらに上の方に坂を上ると遠田という字地名があり現実に隠れるように田が確かに坂をかなり上った所にあるのを知っている。それからさらに急な坂を上ると六地蔵が隠れるようにしてあった。これは今は誰も気づかない、堀がありコンクリ-トの壁を上った上にあったからだ。あそこを見る人はいない、あの六地蔵は江戸時代からあったものだろう。あそこが昔の道だったのだろう?橲原村と大原村の境界だったのだろう。江戸時代は村が行政の単位だから村の結束力が強いから境界は強く意識された。その境界に六地蔵が置かれた。ともかく米を作るためにあのような高い不便な所まで田を作ったのが日本だった。ネパ-ルでもあんな高い所高い所へと人が住んでいることに驚く、高ければ高いほどすみにくい、すみにくい所に土地を求めて移住する。遂には冗談ではなく天に到り天に土地を求めて耕すほかなくなっているのだ。でも2000メ-トルくらいまでが限度だろう。さらに上ると万年雪が残ってしまう領域になる。

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上萱もネパ-ルと同じ事情であんな不便な高いところに住むようになった。養蚕とかが盛んな時代であり桑畑を作ったりしていた。炭焼きもしていた。でも戦後のことでありあそこに人が入ったのは新しいのである。大原に学校がありあそこから歩いてきて遅刻してしかられたというが上萱から大原まで歩いたら大変な距離である。坂道でもあるから歩いたら大変な労力である。でもそういう時代もあった。それから遂に土地を求めても土地がなくなり戦後は北朝鮮でもブラジルでも移民を募り外国に出て行った。そういう人は結構多い、アメリカで消息不明になった人が親戚にいた。実際は成功した人は少なく失敗して悲惨な生活に陥った人も多かったのである。
上萱(うえがや)は鹿島区の栃窪村に属していたが橲原村とかも近いから関係した。でも学校は大原とかなり大原の人があそこに入ったようでもある。山田という姓の家が二軒くらいあった。



その人は原町区に移り土を盛った粗末な墓があったがその墓も移動した。墓は人とともに移動する。でも土を盛った土饅頭の墓があったということはあそこで暮らしあそこで死んだ人がいたのだろうか。大倉の奥の二軒の一軒もなくなり墓も一つなくなっていたから墓も人が住まなくなれば移動するのである。大原村に前田とありさらに山田と地名がある。山田とはそこに住んでいた人かもしれない、小山田という姓があり小山田という地名もあるからだ。ともかく日本ではある程度地名からその土地の歴史がわかるのである。

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大原に冬の陽没りぬあわれかな街は遠しも昔の暮らし

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2010年12月06日

鴨 (分裂が激しさを増す社会)

 

晩年や相見知りたる鴨群れぬ

なごみつつ今日も暮れにき鴨の群れ


荒々しい資本主義の時代は地域社会の調和や他人をかえりみる余裕を失った生き残りをかけた競争の時代といえる。ひとりひとりの立場の違いによって深刻な対立か生まれやがて「日本の分裂[がはじまることをおそれなければならない。 「不安社会を生きる」内橋克人


この本をブックオフで買った。そしてこの文が注意をひいた。このあとにグロ-バル市場化による社会の分裂を指摘している。海外に出る会社と残る会社とでは価値観が変わり分裂がはじまる。すでに海外進出組と国内居残り組では価値観が違ってくる。これだけではない、今や社会はいたるところで深刻な分裂状態なのである。若者と老人は不倶戴天の敵のようになっている。
老人に敬意をもつ若者などいない、格差社会となりその格差でも人間は分裂してくる。分裂というとき男と女も和していかない、離婚がふえてくる。家族も和合しない、老人と子供は分裂して金だけを子供は求めてゆく、自分自身もそういう深刻な分裂を経験したからショックだった。



いつの時代のこと言ってるんだよ?
地方がどんだけ殺伐としてるか知らないんだよ。
都会は冷たくて田舎の人間関係は人情に溢れてるとか全くの嘘だから。


テレビでそう煽ってるからな
で、人情を求めて都会から田舎に移住してショックを受けると
田舎が閉鎖的というわけじゃなく、都会と変わらんわな
今時の日本はどこでもいっしょ



田舎でも人情などなくなっている。田舎になにか過去の牧歌的なものを求めるのは無理である。田舎も現代社会のなかに生きているのであり中国の少数民族にでも行かない限りもはや昔の田舎はないのだ。荒々しい資本主義というとき誰も金だけが頼りの社会に変質したのである。その結果として無縁社会にもなる。無縁社会とは人と人とのつながりが消失してゆく社会である。それはとりもなおさずいたるところで分裂してしゆく社会なのである。人間と人間はもはや信頼はなくなり人間は人間にとって狼となる。金が万能となり金のためなら人は狼になる。人を人とも思わない、金のためには人など殺害しても平気だとなる。資本主義と無限に人間の欲望を刺激する社会である。その欲望は限りない、だからラオスとかの遅れた国でもテレビが入るとそのテレビが欲しくていたけない少女を街に出して売春させている親がいる。まさにここでも親と子は分裂してゆくのである。

鴨は冬の季語である。晩年は顔見知りの人とのんびり暮らしたいとなるが今や会社中心の社会であれば会社をやめたらまた分裂して知る人もなくなる。地域のつながりはそもそもない人が多い。これ農家の一部をのぞいて田舎でもそうなっているのだ。

2010年12月07日

「労働が美徳」から「消費が美徳」へ極端化すると社会は崩壊する


「労働が美徳」から「消費が美徳」へ極端化すると社会は崩壊する


生産力がその需要に対して小さい社会では節約が美徳であり、生産力の方が大きい社会では消費こそ美徳になるというのが答えだ。
http://aircheck.blog68.fc2.com/blog-entry-88.html


●労働が美徳、倹約、節約がモラルの世代の人


現代の特徴はモノ余りでありモノが売れない、デフレの時代である。米が余る、電気製品も過剰生産しても売れない、車もみんなにゆきわたり売れない、たいがいモノをもつようになったから売れないのである。モノがない時代、高度成長期はモノがないから何でも飛ぶように売れたのである。モノが一応ゆきわたれば電気製品も車もゆきわたればモノは売れなくなるのは当然である。モノ余りの時代だからこそ「消費が美徳」となってきた。戦前から戦後の一〇年くらいまではそもそも消費するモノがないから「消費が美徳」とはならないのだ。高度成長時代は生産と消費は一体化して回転していた。大量に生産すれば大量に消費されて売れたのである。でも今になると大量に生産しても売れないのである。「消費が美徳」として会社でももっとモノを買ってくれといっても生産しても売れないのである。それでモノの値段は安くなりいくら生産して売ろうとしても売れないからデフレになる。老人は金をもっていても使わない、金があってもどう使っていいかわからない、ただ病気や介護にそなえて金をもっている、だから豪華な介護施設をどんどん使って老人に金を使わせろというのも一理ある。老人は金をもっていてもそうした施設に入るためにかなりの一時金をとられる詐欺にもあうのが現代である。老人の望むものがそこにあるから詐欺にかかりやすいのである。それは家の中に入ってくるヘルパ-による詐欺で金をとられる老人が多いことでもわかる。老人はなにかに消費する力がない、消費するのにも時間がかかるのだ。旅のことを何度も言ったが本当の旅をするのには今やかえってその労力は大変なものになる。かえって歩く旅とか自転車の旅が本当の旅を経験するのだがその労力は体力や時間がかかるのだ。旅などど無駄となるがでも本当の旅を体験しようとしたらその労力は実際は大変な労働にもなるのだ。単なる消費ではない消費も労働になっている場合があるのだ。パソコンと高度な知的道具だからパソコンを買う人は単に無駄に消費しているのではない、すでにパソコンを消費する人は使う人は必ず知的生産に寄与しているのだ。パソコンを使いこなすには相当な時間と労力が必要だからそうなっている。消費と浪費はまちがいられやすいが
消費も生産につながっていることがある。老人は消費できないというとき反面は生産できないということにも通じているのだ。パソコンをやるにしても時間と労力が大変だから買わないという人も多いからである。


●消費が美徳の世代の人の価値観


人類史のなかで「消費が美徳」とかモノ余りを経験した時代はない、モノ不足が常態である。
米が余って捨てるほかないなどという時代を経験していないのである。米をもっと食べてくれとか言っている時代は戦前までないのだ。米は常にたりないのが普通であり米の生産をふやすことが第一であった。米があまり減反政策をするようになるなどありえないことだったのである。
消費ではなく生産に重点が置かれる時代は働くことが大きな価値観になる。働かざるもの食うべからずになる。団塊の世代の親の世代、今の八〇代はそういう世代であり「もったない」の世代であり米粒一つもむだにしない、必ずあまったものを残らず食べている世代である。その人たちは働く一方で消費しない、働くこと自体が生きがいであり消費は生きがいにならない、だから働いても極力消費しない、金は使わずためる一方である。今になり何に金を使うかとなると病気のためとか介護のために金を使う、そこでだまされる老人が多いのである。消費しないのは消費することに価値を認めないからである。それが例え例えば庭作りでもそれが無駄だとなれば絶対に認めないし使わないのである。モノ不足の時代に生まれたから生産が美徳であり貯蓄が美徳の時代なのである。金をいに有効に使うかを知らない世代である。これも人間としては相当にアンバランスであった。

現代はこの八〇才以上の世代の価値観-モノ不足時代の価値観-労働が生産が美徳という価値観が逆転して消費が美徳の時代になったことのギャップが大きくなってしまった。そこから生じた問題はいろいろある。マクロ的にはそもそも地球の資源は限られているのだから消費は美徳として無駄に消費していたら地球の自然は森でも何でも破壊されてしまうということがあり節約、倹約が美徳だとなる。モラルとしても正しいとなる。労働が美徳であり節約、倹約が美徳でありモラルの時代が江戸時代から戦後まもなくまでつづいていた。これは世界的にもそうだろう。モノ不足が常態である。では「消費が美徳」の時代になれば勤労すること生産することは美徳になる、モラルとなる傾向が減少する。つまり働かなくてもこれだけモノがあふれているのだから働かなくてもモノが手に入る、手に入れるべきだとなり若者でも働こうとしない人々がでてきた。それがニ-トとかフリ-タ-とかであった。それが実際は不景気となり正社員としてまともに働けない人たちとなっていたのである。ニ-トとかフリ-タ-とか派遣が働く人にふえたのは最初は消費が美徳の時代に生まれたのだからそうなりやすいのである。働かなくても消費した方がいい、労働は辛いからそんな労働をやめて消費する側に回った方がいいとなる。
アメリカが消費が美徳として極端化したとき、金もない人までカ-ドで消費される、消費が美徳が拡大化して極端化したとき世界的不景気の引き金となった。つまり消費するのにも金が必要である。では金は労働なしで生み出せるのか?ドル紙幣をすればいいじゃないかとなるがそこから富は生まれない、借金からは富は生まれない、富は労働なくして生まれないものである。アメリカがまさに消費が美徳で拡大化して極端化したとき世界的不況となり世界に混乱をもたらしたのである。だからアメリカの罪は大きい、その根底に消費が美徳が拡大化して極端化すると社会のモラルは崩壊して社会そのものが崩壊するのである。だからすべてをアメリカに習ってはいけなかったのである。


●「消費が美徳」から「労働が美徳」へ逆戻りの矛盾


一方で消費するには金が必要である。ところが金は働かない限り入ってこない、つまりいくら消費しようとしても働かない人には金は入ってこない、入ってこないだけではない、社会から社会の敵として脱落者の烙印をおされる。無職は社会の最大の敵として排除され攻撃されているのは豊かな時代でも同じである。不景気の時代になると余計に働かない者は責められる、景気のいいときはかえって少数だったら働かない人がいても世の中そういう変わった人もいるとかで見逃される。社会自体に影響ないからである。でも相当数の人が特に働ける若者が働かないのけしからんとなり責められる、働かない若者は日本にいる資格がない、海外から働く人を入れるべきであり働かない若者は外国に追放すべきだとまでなる。「労働が美徳」の時代がモノ余り「消費が美徳」の時代にに起きている矛盾があるのだ。そして不景気で新しい貧乏の時代になり働いてもたいして金は入ってこないからますます消費が美徳とされても消費できない人々がふえてきたのである。

すでに消費が美徳とされてきた時代も30年-40年と長いのである。でもその間でも労働が美徳、節約、倹約がモラルとしてありつづけていた。だんだん薄れるにしてもありつづけた。それでも消費が美徳ということが圧倒してくる。モノ余りの時代が加速してくるからそうなる。労働という難儀なことより一気に金が入り消費する方が美徳だともなる。そういう風潮が広まり大勢となっているのが現代である。それが極端化してゆくと働くより盗んで消費した方がいいとなる。実際自分でも働くことを否定してきて生きてきた。そもそもの出発点が悪かったのである。最初に労働が底辺労働であり大学卒業して流れ作業ばかりやらされたことが原因だった。それ以来労働することを極度に嫌悪するようになった。流れ作業に労働の歓びを感じることはない、労働で歓びを感じた経験もないのである。それ以来労働しなかった。偶然にそういう環境にあったためでもあり普通はそうならない、労働は嫌でも強制されるのが普通である。


●根本的には労働がすべての価値を作る


根本的には人生は労働なくして存在しえない、労働がすべての価値を作りだしてゆくのであり労働しない人生とか社会などありえないし成り立たないのである。農民が労働しなかったら食料がなくなり飢饉になってしまうだろうし大工が働かなくなったら家にも住めなくなる。労働なくして社会は存在しえない、労働が価値としてすすめられない時代はなかった。それは宗教的でさえもあった。人間社会の根底に労働は常にすすめられてきたのである。労働によってすべての価値は作り出される。労働なくしていかなる価値も作り出せない、土地があっても土地は何も生み出せない、自然に生み出されることはない、そこに人間の労働が加わって価値あるものが生まれる、食料は生産されるのである。だから土地だけもっていて豊になる地主は一時戦前では敵とされた。不公平だとされて農地改革が行われたのである。労働することが権利を獲得することであった。労働しなければいかなる権利も生まれない、得ることもできない、介護でも親族でなくても介護という労働をしてくれた人には権利が生まれる、その人に財産も分与されるのは当然だとなる。いかに親族でも何もしないなら労働しないなら正当な権利は生まれてこないのである。


●「消費が美徳」が拡大化すると道徳は破壊される社会も崩壊する


そもそも労働なくして富が得る方法は泥棒しかない、他者のもの盗む、富者のものを盗む、それは消費が美徳であれば正当化されるのだ。難儀な労働より一気に金が入るのに一番手っとり早いのは相手の富を盗むことなのである。それが犯罪にしても消費が美徳の時代になるとそうなりやすいから万引きとかがふえてくる。モノが余っている、あふれている、でも労働してモノを買うことがめんどうになりこつこつ働いて金にならない不景気の時代は余計にそうなのである。こつこつ時間をかけて働くことが馬鹿らしくなるのだ。80代の人の価値観は消費が美徳の世代になると通用しなくなるのだ。「欲しがりません勝つまでは」とか忍耐するということもない、とにかく今あるものを手っとり早く消費したい、消費したい、欲しい、欲しいとなれば盗むのが一番手っとり早いのである。労働は難儀なものであり否定されるのである。借金して無理やり消費するのも消費が美徳ということが拡大化して極端化すればそうなる。金がなくても稼がなくても借金すればいい、でもその借金は返さねばならないものとなりさらに負担になるのだ。でも安易に借金をするのは消費が美徳ということが社会的に拡大化して極端化するとそうなるのだ。

 

 
急いで得た富は減る、少しづつたくわえる者はそれを増すことができる


はじめに急いで得た資産はその終わりが幸いではない-箴言-20-21


欲の深い人は急いで富を得ようとする、かえって欠乏が自分のところに来ることをしらない
箴言-28-22

急いで富を得ることはできない
http://musubu.sblo.jp/article/41830381.html

 


でも富はそんな簡単に手に入るものでもない、確かに親の遺産とか別な事情で大きな金が入ることはある。それもまた先祖の恩恵でありその人はそれだけの恩恵に欲したのだから責任もあるとなる。無駄に浪費できないものとなる。でも本質的に人間は労働がなければいかなる正当な権利も得られない、あの人は富んでいからといってその富を盗むことは犯罪になる。でも富者の下で働いて財をふやすのは正当でありやがて富者になる権利を労働によって作っているのである。でも一気に富者になりたいとなれば盗むほかないのである。それはいくら貧乏でも犯罪になる。現代はまさに富者になるためには富者の富を一気に奪った方がいい、富者の元で地道に働くなど馬鹿げているという風潮が増大しているのだ。今すぐ金をくれ金をくればかりでありあわてる乞食はもらいが少ないというのが実感である。もっと欲を少なくして少しづつもらうようにしていれば付き合いもつづいたが今お前のもっている金をよこせよこせと性急に要求されて付き合いも絶えてしまった。このことは富者とは別に個人ではなく社会がモノ余りの富者になっているのにいくら働いてもこつこつ働いてもたいしてし金にならないとなればモノを盗む奪った方がいいとなってしまう。それはいくら不公平でも犯罪であり社会のモラルはなくなりただ対立だけの分裂社会になってゆく、労働というとき何かしらそこには金だけではない価値を生み出すのが労働である。人間はいくら働かなくてもいい社会になっても労働がなくなることはない、労働は生きがいであり農民は種をまき手入れして収穫の季節を迎えてその収穫物を自ら食すとき働いたことを無駄だとは思わない、充実感に充たされるのである。いづれにしろ今は「消費が美徳」-「労働が美徳」の矛盾が増大して性急に富を得ようとして根気よく働いて権利を得る、価値を作り出すということができなくなっている。労働が美徳という価値観が減退して消費が美徳ということが常態になり拡大化してゆくときそこにモラルの崩壊から社会の崩壊に向かうことになる。人間の社会がモラル、道徳が基礎にありそのモラルが破壊されることは社会そのものが崩壊することになる。現実の社会は今やそういう非常に危険な水域に入っている。


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この図のように消費が美徳となり拡大化して極端化すると長い時間の労働より短絡的に富を得ようとする。石の上に三年すら耐えることはできない、さらに極端化すると盗むのが一番手っとり早いとなるのだ。

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2010年12月08日

働く動機が金だけになっている危険


働く動機が金だけになっている危険

人の為に働かされる 労働はみな、他人の為の行為です。自発的にはやらない行為です。自分の労働力と時間を、他者に利用されているのです。労働者も売春婦も、実は同じなんです。

奴隷との違い
 奴隷が合法であった時代には、奴隷は売買対象になりました。また購入後も食や居住といった維持費がかかりました。それを上回るメリットがあったから奴隷は成立 したのです。
現代は月給と退職金です。経済的な仕組みは今も昔も同じです。
働けど働けど我が暮らし楽にならず
 
奴隷と同じく、その立場ははっきりしているはずです。つまり従う事を前提にしているのです。その根拠はお金が無い事に起因します。
もっとはっきり言えば、不労収得が成立する社会の仕組み上、必ず額に汗して割に合わない就労を強いられる人が出てくるという訳です。
http://psychology.berible.com/machinery/blueworker.html

こういうふうに思っている人は本来働かせるべきではない、ヘルパ-であれ介護の仕事であれ、手伝いという仕事であれ何であれ俺は他人に使われているにすぎない、それも金がないためである。もともと働きたくない、なぜ金持ちの家で働かねばならないのか?金がないからだ。
馬鹿げている。そもそも働く気がない、働いてもつまらない、あの家になぜ自分が働かねばならないのか?金がないためであり働く理由はそれしかない、あんな婆に尽くして何になるのか?ただ金がもらいるからである。それ意外なんの働く理由もないのだ。だからあの婆は金をためこんでいるからうまくだまして金をせしめればいいともなってゆく。働く動機が俺は働かせられている、奴隷にすぎないとなれば当然そうなってゆくのである。働く尽くす相手が金があるなら一気に奪った方が効率的だとなる。その家について何ら働く理由がないのである。金をもらうことしか働く理由がないからである。


一方で逆の考え方も成り立つ、あの家は富んでいる、自分は貧乏だがあの家に勤めていれば福を分けてもらえるだろう。あの家が富んでいることはそれなりの理由があるのだろう。その福と富に自分もあづかろう、あの家に勤めていて嫌だということはない、家の人は親切にしてくれるしいろいろモノもくれるしいい人たちである。仕事も広い庭を掃除したりしてもきれいな花が見られるとかいろいろためになることがある。別にそんなに働くことが嫌ではない、働いていてそれなりに楽しいこともある。富んでいるあの家に尽くしていれば必ずいいことがある。福と富を分けてもらえる、だから気長に勤めていよう。・・・・・というふうな考え方で勤める人もまれにはいるだろう。一般的には前者の方が圧倒的に多い、金持ちの家に来たら自分との生活の差が大きすぎたら特にそうなる。とてもこういうふうには思わないのである。いづれにしろ家はみんな成り立ちも違っていて金持ちでもみんながいい家とは限らない、その家のことはなかなか外からくるものにはわからないしだから嫌でも金のためにはしかたないと働く人が多いのである。


人間はそもそも仕えるものと仕えさせるものに別れる。キリストがまず仕えなさいと弟子の足まで洗った。でも人間はいつまでも仕えるものと仕えさせるものが同じではない、必ず逆転してゆく、仕えたものはやがて仕えさせるものともなる。最初はなんらか仕えねばならない、そのあとに仕えさせるものとなる。人間の立場は一定していない、常に変わるのである。良く仕えて勤めないものはやはり仕えさせるものとはならない、働くことは自分には金がないからであり人のために奴隷になることなのだとして働いているとしたらその人にいかなる労働の歓びも生まれない、ただ労働は苦痛でしかない、金がないから働くのだとしたら働く目的は金だけになってしまう。
働かないことさえ理想だとなる。つまりそういう気持ちで働く人は本当に危険である。それは盗んだ方がいいとかに極自然になってゆく。簡単にそういう方向に向かってゆく、心がそうなっているからだ。


働くというとき家事労働は子供のためとか夫のためとか愛する家族のための無償の労働だった。そこには金だけではない動機がある。しかし外に家事労働を頼むときそうした無償の愛は喪失する、ただ金のために働かせられている奴隷になっている。そういう気持ちで家の中で働くときどうなるのか?ここの家で働かせられのは自分に金がないからだ。この家には金がある。その金のために自分は働かせられている。金さえあればこの家で働く必要などないのだ。この家とはなんの関係もない、金がもらいるから働いているだけである。それ意外の理由は何もない、金の奴隷になっているのが自分なのである。だから金さえあればここの家でも働く必要などないのだ。ただ金だけが目的なのだから遂には金を盗んでもいいとさえなってゆく気持ちになってゆくのである。働く動機が金しかないならそうなって当然なのである。つまりそういう人を家で雇うということがいかに危険なことか雇う方でも自覚していないのだ。雇う方でもそんなことみんな当たり前じゃないかとなるからお手伝いさんなどは信用できないからアメリカでは裸で働かせるとか極端なことになっているがこれも笑えないのである。そんなところで働く方も働きたくないとなるが働く方にも問題があるからしかたないとなるのだ。


人間はいかに動機が大事かわかる。心が大事かわかる。その行為ではない、心から発して行為がある。そういう心で働く人はすでに犯罪にさえ向かっているから危険なのである。犯罪でも動機を重んじる。無銭飲食でも最初から無銭飲食しようと心で思ってやるものとあとから心変わりして無銭飲食になったものではその罪の重さがまるで違う、計画的ではなくあとから食い逃げしたものは罪にもならないのである。食い逃げする動機が入った時点ではなかったからである。故意なのか、故意でないのかで罪の重さは別れる。故意でなければ過失なら罪にならないのである。心で意図ししてやっていないからだ。心で意図してやっていればその罪は大きいのである。「神が心を見ている」というとき心の意図するところを見ているのである。だからそもそも働く意図が悪ければただ金のためだけの奴隷にされているんだということが働く意図としたらその人を本来は働かせるべきではない、でも現実はほとんどそういう人が多いのが現代である。

働くことが美徳ではなく、消費が美徳であるときそうなる。消費するために働くことになる。遊ぶために働くのであり働くこと自体に意義を見出す人は少なくなる。そういう傾向が増大したとき誰も働くことは奴隷になることであり働くことは馬鹿らしいとなり働くなくなってくる。そして手っとり早く消費するには金を手にいれることだとなり盗むことや借金になりただ消費することが目的化するのである。それがアメリカの消費社会であり日本もそれにならい借金してまで消費を推進させたのである。借金しても消費することがいいのであり借金は払う必要がないとかなる。
国では莫大な借金があるが日本銀行で紙幣をすればその借金は返せるとかまでなる。借金を奨励してまで消費させることが推進させられるのである。その結果としてアメリカから起きた世界的不景気になっているのだ。

posted by 老鶯 at 14:49| Comment(0) | TrackBack(0) | 経済社会労働問題

寒さ

 
故郷の刈田やリハビリ介護かな


死亡欄今日も見にけり冬紅葉


(一つ家に耐える貧しさ寒さかな)


母はリハビリで歩く練習していた。あれだけ歩けるから寝たきりにはならないのか?でも今年一年もたないという人もいる。元気なように見えても突然死ぬのが高齢者であり90才越えるとあっというまに死ぬ場合があるというのも本当だろう。家にいても息が苦しくなっていたから突然そうなるかもしれない、でもすぐに死ぬようには見えないのだ。

田舎では死亡欄を毎日見ている人が多い。最近自分も死亡欄を見ている。別に自分の場合はお悔やみには行かない、沖縄では死亡欄が新聞の大きな収入源であり記事になっている。
死亡欄は大きく扱われている。人間が死ぬことはやはり大きな関心になる。そして沖縄のようなところではまだ親密な関係が多いからそうなる。自分の場合は死亡欄で一番気にかかるのが年齢なのだ。この人は何才で死んだのか気にかかる。毎日見ていると結構60代でも死んでいる人が必ずいる。だから60代で死んでも特別なものではない、それだけ死がまじかな世代でもある。あなたも腎臓など悪くなったから臓器が悪くなると死期が近いとか言われたから死ぬかもしれないと本当に思った。死んでも格段珍しいことではない、現実に毎日60代死ぬ人が必ずいるからだ。還暦過ぎると死がかなり身近なものになるのだ。自分も今や障害者になってしまった。だから一体自分もいつまで生きるのだろうという不安がのしかかってくる。それでいろいろあとのことなど心配してしまうのである。

今日は寒かった。寒いというとき昔ならみんな貧しいから貧しさを共有していたし貧しさの中で助け合うということもあった。金持ちは極少数でありそれは例外的な存在であり一般の人とは関係がうすかった。みんな同じように貧しいと相手をうらやましがったりしない、でも豊になるともし隣がエアコンがあり自分にはないとか格差がでてくると人間は助け合わなくなる。豊かな人を絶えずうらやましがるようになる。だから精神的に穏やかなものとはならない、現代に助け合いがなくなったのは金の力が大きくなり金で手に入るものが拡大化したからである。金が入ればたすけてもらう必要がないとなり金がすべてとなっているからだ。それは田舎でも同じなのである。田舎も昔の田舎とは違う、生活そのものは都会とさほど変わらないし食べるものも変わっていない、みんな贅沢になっているのだ。貧しい時代には想像になるけど貧しさの良さがあったのかもしれない、それはただ貧しさを経験していないからそう思うだけで現実はもっと厳しいものだった。ただ人は豊になったときかえって協力しないとか薄情になるとかはありえる。金さえあれば何でも買えるとか人間さえも買えるとか傲慢になってしまうからである。そもそも人間を買うことはできない、奴隷制があったがアメリカでも黒人を奴隷として買ったが結局人間を奴隷にすることは長続きしない、人間は家畜ではないからだ。


ともかく今年は大変な年だった。年の暮だけど疲れた。こんなにいろいろなことが起きると疲れてしまう。ただ休みたいとなってしまう。いろいろ事件が重なるともうどう処理していいかわからなくなるのだ。事件にふりまわされるだけになってしまう。そういう事件に前にかかわったから今でもそのことが嫌な思い出として残ってしまった。そのことも金の問題から生じたのであり今回も同じだった。金はいろいろな問題をうむ。田舎では例え金があっても極力ないようにした方がいい、その金がたいしたものではないにしろ田舎では目立つことが良くない、車でもあまりにもいい車をもっていると金があるとみられていろいろうるさいことにもなる。別に田舎ではみんな車をもっているのだからかまわないけど特別に金あるような使い方をしては目立つから危険である。田舎ではなにかと目立つとうるさいのである。今や小額の遺産でも親戚で争っているとか新しい貧乏の時代になった。田舎ではさらにその傾向が強くなってくる。今までの豊かなレベルの生活を都会でも田舎でもできなくなる。中産階級が没落していくのだ。現実にそういうふうに今までの豊かな生活を維持できなくなってくる。だからモノが売れないもっと買いとか消費しろという時代ではない、そんな余裕がない、時代が変わってしまったのである。

2010年12月09日

冬の夕暮(風流心がない人の貧しさ)

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枯芒貨物列車の行きにけり


長々と貨物列車の行きにけり病院に見ゆ冬のくれかな


紅の山茶花庭の奥に咲き朝の茶室に雨しととふる


淋しさや誰と語らむあわれかな語る人なし冬の夕暮

 



子供のとき長々と貨物列車のゆくのを見ていた。あの頃国鉄の輸送は汽車だった。だから何度も貨物列車が通ったのだ。今は一日一回くらいしか通らない、それを今病院から見るとき子供の頃見た貨物列車とは違う。病院ではリハビリの老人がいてなんともあわれである。子供の頃、汽車が来ても貨物列車きても心が高鳴った。今はあまりそういうことはないが電車は好きである。よろよろやっと歩いている老人をみると貨物列車がにあっている。重い荷物を連結して貨物列車がゆく、それが病院の老人にふさわしいのである。いつまでも重い荷物を負っているなかなか死ねない老人にもだぶってくるのだ。その貨物列車が毎日通る、それは刈田の風景や枯芒とにあっているのである。


寂しさに堪へたる人のまたもあれな庵ならべむ冬の山里   西行


故郷に老いてともにし過ごす人誰なるべしや秋深まりぬ


「庵ならべむ冬の山里」とあるがまさに老いて冬の季節にそういう人がいたらなとつくづく思った。男女でも実は一人で住んでいる人はゆかしいとなるが一人で住んでゆかしいとなる人はまれである。たとえ貧しい家でもその人はゆかしいとなるが実際はそうならない、今の時代、そんな風流な人などいない、特に貧乏な人になるとそこにあるのは不満しかないのである。自分は普通の暮らしをしているのにすぎない、車ももっていない、それでも今でもそれ以上に貧乏な人がいる。最下層の人がいる。そういう人と今は交わるのは危険だった。昔だったら「一つ家に貧しさに耐ゆ寒さかな」とかなる。一つ屋というとき江戸時代だったら長屋だったし明治になっても長屋のうような所に住んでいた人が多いだろう。そこでみんな貧乏でともに寒さに耐える、そこにすでになにか共感するものが自然とできていたのである。

西行のように風流を解せる人は本当にまれである。そういう風流はこの世の俗的なものから離れる人でないとありえない、別に金持ちでなくても貧しくても風流は常にある。あばら家に住んでこそ風流もありえる。しかし卑しい貧乏の人はただそれを他者と比べて貧乏だと思うだけで不満ばかりになる。風流というとなんだか浮世離れした世界でありそんなことでこの世をわたっていけるのか、そんなことで生きていけるのかとなる。現実世界の厳しさを知らないものがそんなことを世間離れしたことを言っているのだ。しかし人間は貧しい家でも豊かな家でも実際は月は見ることができるし自然の美は同じように鑑賞できるのだ。野に出れば花も咲いていてその美は無料で鑑賞できる。つまり風流の心がない人はただ自分の境遇の不満ばかり言っている。それが高じると危険なものになってゆく、お前は貧乏の辛さを知らないからそういえるのだというのも本当である。でも風流の心、自然を感じるのは金がなくても貧乏でもできるはずなのである。それは平等なのである。

いづれにしろ「寂しさに堪へたる人のまたもあれな庵ならべむ
そういう人はほとんどいない、淋しさが貧しさでも昔はあった。今は豊かな時代だけどみんな不満が多すぎはしないか?金がたりないたりないとそれしかない、あばら家にもいい月が出たなとか満足している人は一人いないのである。

茶室というとき別に金かけて作るのが茶室ではない、あばら家が茶室だった。自分が茶室というとき茶室を言っているのではない、風流の棲家を茶室としているだけである。確かに簡単な茶室めいたものを作ったとしてもそういうものがなくても茶室はありえる。あばら家が茶室でありえる。しかしそこに住む人は風流を解せないだけである。風流などどうでもいい、金が欲しいとなるが風流を解せない人はやはりなにか欠けている。人間としてなにか欠けている。

人間は金がないだけがみじめなのではない、人間としてそうした風流心もないことがわびしいとなる。一般的に貧乏な人はほとんど心が卑しい、つまり様々な欲望が充たされない不満だけがあるのだ。そういう人はカルト宗教団体とか左系統の団体に必ず入ってゆく。名古屋辺りの住宅地を通ったらそこは共産党と創価の宣伝ビラは張ってあり必ずその住宅地ではどっちかに所属している。共産党も創価もそうした最下層民の不満を吸収して勢力を拡大化しているからである。そういう団体ではただただ不満と愚痴しかないのである。充たされない欲望を宗教にぶつけ仲間にぶつけ社会に抗議するだけである。もちろんそういうところ風流心などありえない、ただただ不満だけ充満して社会に抗議するだけになる。不満の捌け口として宗教があり団体があるのである。

2010年12月10日

モラルなき団塊の世代以降は弱肉強食の価値観しかない


モラルなき団塊の世代以降は弱肉強食の価値観しかない 
                                                 
●戦中から戦前はまだ日本的道徳があった                                    


団塊の世代は若い世代からいつも責められていて評判が良くない、人間の社会は世代的に一つの塊として特徴がある。明治の世代は人間として気骨があったとか義理人情に厚いとか評価が高い。大正から昭和の戦前もそれなりの日本人的モラルをもっていた世代である。その人たちは80以上になっている、団塊の世代の親である。共通しているのは「もったいない」という言葉に象徴される、モノ不足、貧乏の時代に生まれた価値観を共有している。必ずご飯粒一つぶまで残さないで食べる。働くこと自体に価値があり金はためる一方であり消費に価値を見出さない世代である。これもアンバランスな一方的な価値観であるがモノを無駄にしないということでは評価できる。80代以上の人はまだ日本人がもっていたモラルを有していた人が多い。
モラルというときむずかしいことではなく宗教的高いモラルではなくその国はその国の道徳なくしして国は成り立たないのである。義理とか恩とか人情に厚いとかも明らかにモラルとして通用するものである。現実にそういうモラルがなくなったとき人間社会がいかに荒廃してゆくのか現在の状態を見ればわかる。


80代以上の人だと日本人らしい日本人がいる。その人は学はないけどとにかく馬鹿正直で情に厚いのである。借金してもそれも一〇万くらいしても正直に必ず返す、そして恩になったと忘れないのである。それで私の家族の一人が認知症になったときその人だけはかわいそうにと相手してくれたのである。他は誰も相手しなくなったのにその人だけは相手してくれたのである。義理と人情と恩を感じる人である。学もない庶民にすぎないけどそれが今になるとそういう人はめずらしいとなるのだ。なぜなら団塊の世代から以降の人にはそういう人はいなくなったからである。戦前世代にはまだ義理と人情に厚い人はいたし教育でも国としてのモラルを教えていた。教育勅語であっても戦争故にすべて否定されたが戦前の世代は明らかに日本的道徳を教えられていたのである。だからみんな貧乏だったけど盗むなとか悪いことはするなとか最低限のモラルは有していた、守っていた。その中にいつの時代でも犯罪を犯す人はいる。でも全体的に見たとき明らかにその国の道徳を守る人が多数だった。だから八〇代以上の老人はまだ好感をもてる世代として扱われている。


●日本人の道徳はアメリカに戦争で負けて根こそぎ失われた


しかし団塊の世代になるとモラルなき道徳なき世代となった。日本がアメリカに敗戦した結果として日本的伝統的良きものを戦争のためにすべて否定してしまったことにあった。その中にいいものもあったのである。それがすべてアメリカに戦争で負けた結果悪いものとされてしまったのである。だから知らず知らずの間に日本人はアメリカ人化されていたのである。そのことを団塊の世代以降の人自体気付いていない、なぜならでは日本人の道徳とは何なのか知らない世代だからである。団塊の世代は戦争に負けてアメリカ的な価値観一辺倒にされたから日本的古来かある価値観を知らないのである。では新しく入った価値観としての民主主義もこれも自らの中で歴史の中で培われたものではなく突然アメリカから押しつけられたものなのである。そして民主主義とかも実際は何なのか理解してしていなかった。ただ自我の自由な欲望の拡大化であった。抑制のない自我の自由な欲望の追求だった。「自由だ、自由だ」というとき何でも自由だというとき悪いものまで自由だとなってしまう。自由をとり違いてしまっているのだ。そこに混乱が生まれてしまった。宗教の自由がカルト宗教団体を跋扈させてオウム事件を生んだり

政治と一体化した創価を生んだりした。それも本来の宗教ではないにしろ何でも自由だからこそ生まれたのである。

団塊の世代が批判されるけどそもそもの原因は日本がアメリカに負けた結果としてアメリカ化されたことが最大の要因だったのである。アメリカの価値観をすべて受け入れた結果としてアメリカ化された日本になったのである。戦前までは日本的モラル道徳価値観が確かにあった。でも団塊の世代以降は知らないのである。自分を滅して国のために尽くすとか滅私奉公とかがあった。そういう価値観は全く否定されるようになった。それより個人が大事であり個々の自由が大事だとなった。でもその価値観もとり違い個々の制限なき自由な欲望の追求となったのである。現代とは明らかに欲望を抑制するモラルがない、モラルとは人間の歴史がはじまって以来何かしら欲望でも抑制することからはじまった。そうでないと共同体も維持できない、滅私奉公というときやはりそこには自我の欲望を無限に拡大するのとは違う、抑制するものを価値観として推奨した。個々の欲望の自由な拡大化をすべて容認することは非常に危険なことである。江戸時代でも分を守れと言っていたのはそのためである。侍でもそれぞれの身分がありその身分を守らないと社会の秩序が維持できないのである。そもそもそうしなければ御家大事にして仕える人などいなくななっていただろう。誰も犠牲になるのは嫌だとなるからだ。


●団塊の世代以降は弱肉強食、欲望の無限の拡大、達成しかない


現代のモラルなき団塊の世代以降の人々はまず自分の経験でも受験戦争からはじまった。数が多いから他者を蹴落としてもいいからいい暮らしをしたい、得をする職業につきたい、利だけを優先された教育になった。戦前は大学はエリ-ト中のエリ-トが行くところだから庶民とは関係ない、エリ-トとして養成されたし誰も行けるものではなかったのである。だから社会全体で受験競争など起こらなかったのである。団塊の世代は数が多いから教室にも入りきれないとか競争が熾烈であり他者を蹴落とすこと競争に勝つことが第一とされたのである。そこからモラルなき世代が形成されてきたのである。国のために尽くす、滅私奉公など古くさい馬鹿げているとなるのがこの世代以降の特徴である。戦争に敗れた結果そうした価値観が全く否定されてしまったのである。そういうモラルを否定したとき民主主義はただ個々人の無限の自由な欲望の追求になったのである。モラルが何らかの抑制であるときそれがなくなった。そうなると価値観として金が唯一の価値観となる。すべての欲望を充たす象徴として金があるからだ。そしてグロ-バル市場化したとき金の価値はますます強大になってきた。欲望も世界に広がり無限化して抑制ないものとなる。


本当に戦前の世代にはまだ日本人としての素朴な正直な義理人情に厚い人がまだいた。欲望を抑制する人がいた。しかし団塊の世代以降はそうした欲望を抑えることは教えられていない、ただ自我の欲望の自由な拡大が奨励された。消費が奨励された。だから団塊の世代以降はモラルがないから一般的に信用できない、人間として信用できないのである。自分も団塊の世代だからこういうのも矛盾しているけど全般的にはそうなっている。もちろんモラルというとき全体的になくてもモラルを有する人はいる、でもそれは個々でモラルをもっているのであり社会全体として戦前のようにはないから人間は信用できない、危険な人が多いとなってしまったのである。団塊の世代が今老人化してゆく、高齢化してゆくけど八〇代以上の老人とはかなり違っている。「もったない」の世代とは明らかに違う、欲望の制限のない世代であり暴走老人が話題になったように非常に危険な人たちになってゆく。贅沢も覚えたし様々な欲望を追求してきたから待遇でも悪ければ不満が大きくなるだろう。まだ分をわきまえるとかはない、だからヘルパ-とかお手伝いとか介護関係などには一番向いていない人たちなのである。そういう福祉的な仕事は犠牲が要求されるときそれに耐えられないのだ。威張って仕えさせる方にはなるが自己犠牲的に仕える人にはなりえないのだ。滅私奉公という価値観もない、自らの欲望をひたすらに自由に追求して充たすことが価値観になっていたからである。 弱肉強食の世界では弱者となる老人は誰も敬意などもたない、若者は老人に敵対化して弱者は無益なものは死んだ方がいいとか安楽死させろとかナチス的にさえなるだろう。そうした心情は抑えようがないからやがて爆発して現実のものになるのである。大勢の人たちが持っている念は怖い、その念が個々人でも犯罪になり全体の社会でも戦争とかへ導くのである。


●モラルなき社会は崩壊


小額の借金でも恩を感じて返していた正直な義理堅い人のことを最初に述べたが今はこの逆なのである。借金など返す必要がない、かえって貸す方が悪いのだとかなっている。そもそも消費が美徳となったときアメリカのように借金でカ-ドで金がなくても消費してそれが引き金となり世界的大不況になったように借金は国レベルで奨励された。国でも借金は紙幣を増刷してちゃらにすればいいと言っているのだから個々の借金もちゃらにすればいいとなる。つまり借金   は返す必要はない、貸した方が悪いのだとなる。小額の借金でも恩を感じて返していた義理堅い日本人とはあまりにも違った人たちが団塊の世代以降の人たちである。団塊の世代以降の人たちはまずなにか恩義をあってもそれを恩などと感じない、だから義理も感じない、モラル的に一般的にそうなっているのだ。ただ得すればいい、遂に金がなければ金があるところから借金して返さなくてもいい盗めばいいというまでになる。そういう恐ろしい時代である。もちろん戦前でもすべていいとはいえないがそれなりに日本人のモラルがあった。

今はまるでない、個々にはあるにしてもそれは全体としてのモラルではない、だから社会全般として互いに信用できない社会となってしまったのである。その根本的な原因はアメリカの価値観が戦争に負けた結果として社会を支配してしまったためである。アメリカの価値観がすべて悪いものではないにしろそのいい点、キリスト教などのモラルをとり入れていないことも致命的だった。モラルは欲望の抑制だというとき仏教でもキリスト教でもイスラム教でもそうである。中国にもモラルはあり論語でもそうである。そうしたものがないとき民主主義は資本主義は欲望の制限のなき拡大化になる。現実に団塊の世代以降はそうなっているのだ。いづれにしろモラルなき社会は野獣化する弱肉強食の世界であり社会は崩壊してしまうだろう。日本人にはまだ犯罪が少ないとかだからいい社会だとか言っているが現実の荒廃はかなり進んでいる。田舎でもそれは同じである。団塊の世代以降はもう昔からの価値観をもった日本人はいない、みんなアメリカ人になっているのだ。もちろん個々人にはモラルを維持して優れた人はいるが庶民レベルでのモラルは消失しているから社会全体の荒廃はすすむのである。特に欲望が充たされていた高度成長が終わり不況が常態化して贅沢ができない、今までのように欲望か充たされないとなるとさらに不満が増大化して社会に犯罪がふえる。田舎でも小さな盗難やら犯罪がふえる。人は信用できない、団塊の世代が言うのも変だが同世代は協力できない、信用できない、殺伐とした時代となっているのだ。

冬夕焼け(相馬市の道の駅)


七八本粛条と枯木病院へ


相馬にて冬夕焼けや道の駅


相馬市に冬夕焼けや六万石

江戸時代庶民の墓や冬夕焼


病院の外に枯木が七八本立っている。病室の一方は枯木が見えて陽もさししてくるからいい、でも反対側は景色がまるで見えないから嫌である。七八本というときこれも写生である。二三本と七八本ではやはり違う。確かにまちがいなく七八本てっている。今度写真をとってくればわかる。写生だから数にこだわる。鶏頭の一四五本のありぬべし-子規が写生として問題を提起しつづけているのもそのためである。


相馬というと明らかに外の人は混同している。相馬市はもともとあった。南相馬は合併して最近生まれたのでありどちらも相馬だと思っている。もちろん相馬藩としての一体感がありそれはそれで良かったのだが混同しやすいのである。相馬藩は長くつづいたし野馬追いがあるから一体感があった。相馬藩は小さいから一体感をもつにはいい、南相馬市の原町区の道の駅と相馬市は感じが相当違っている。相馬市は回りが田んぼであり曲がり屋風の道の駅であるから冬夕焼けという光景がにあっているのだ。南相馬市の原町区の道の駅は街中にあるから感覚的に相当違っている。今日は相馬の道の駅で食事して帰ってきた。自転車でも近い、坂は電動自転車だと上りやすい、病気にはなったがなんとか自転車にのれたので助かった。そうでないと買物すらできない状態になった。


冬はやはり貧しさがにあうのだろうか、冬夕焼け六万石というときなにか貧しさを感じてしまうだろう。伊達政宗の仙台の青葉城はそれなりに豪華な豪勢なものを感じるが相馬六万石となるとやはり貧しさを感じてしまうし現実にそうだった。貧しさを共有する世界であった。江戸時代は全般的にそうである。でもしんみりとしていいという面もある。しみじみと自然のなかにひたるのにはいいとなる。


 

2010年12月11日

鴨(傷つけあわない自然)

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庭石の大きくそそり冬椿


松静か寄り合い害なし鴨群れぬ


松と松冬日に静か社かな

この庭石は大きい、大きく見えたのは高いところにすえられていたから見上げるようになった。
この家の屋根が緑だとは気付かなかった。狭い所だとこの家はどこの家かわかってしまうだろ。前にそういう指摘がコメントにあった。だいたい隈なく狭い地域だと見ているからだ。肉眼で見たのはまず大きな石だなと見上げていたら椿が一輪ほど咲いていた。冬だから冬椿になる。
寒椿というと寒中に特に寒いときに咲く椿だろう。今日はあたたかいから冬椿となるのか季語の応用もなかなかむずかしい。写真の椿は合成写真である。

自然は食いつ食われつの世界でもそれ意外は特に害を成すことはない、人間は心許して寄り合うこともできない、相手が何を考えているかわらない、その心の中はわからない、動物は自然のものは互いに邪心はないから寄り合っている。人間はたとえ寄り合っていても相手の心が見えないから安心できないのである。信頼できないのである。自然界は動物は人間のようにいろいろと欲は深くない、今日一日の腹を充たすものがあれば満足している。人間の欲望はかぎりないから動物のようにはいかない、人間は常に利を求めているから油断できない、鴨が寄り合うのはあたりまえで平和がそこにあるが人間は鴨のように他者を害せず寄り合うことができない、そこに人間の不幸があった。人間がいかに他者を害すものか、一回やはり他者からひどいめにあうと人間を警戒するようになる。他者に害を受けたものは他者を憎み恨み殺人までなる。

それもまたとめられない、相手があまりにひどすぎるからだ。その恨みを果たしたいというのがつくづくわかった。人を害して平気な人がいるからだ。そういう人に報復したいというのが当然に起こる。現代は人間の関係も殺伐としたものとなっている。いづれにしろ一回他者にひどいめにあった人は他者を警戒するようになる。人が信じられなくなるのだ。


それにしても自然には平和を感じる。前も詩に書いたけど樹と樹は傷つけないとか書いたけど自然の特徴はみだりに他者を害さない傷つけないということにあった。人間はやたら訳わからずに他者を傷つける。その最たるものが戦争だった。他者を傷つける最大のものが殺人になる。その殺人も毎日起こっている。人間ほど互いに無闇に欲望でいろいろなことで傷つけあう存在はない、自然が平和だというとき互いにみだりに傷つけあわないからである。


 

2010年12月12日

岡和田氏の謎


岡和田氏の謎

相馬一族。相馬胤村(孫五郎)の二男・相馬胤顕(五郎)が胤村の遺領分配によって陸奥国行方郡岡田村(福島県南相馬市小高区岡田)を与えられ、室町時代後期に「相馬」を改めて岡田を名乗った
http://members.jcom.home.ne.jp/bamen/ichizoku32.htm


岡田重胤 (1608-1650)
 中村藩御一家。相馬岡田家十三代当主。
http://members.jcom.home.ne.jp/bamen1/okada3.htm


弟は木幡勘解由長清の遺跡を継いで木幡加左衛門貞清を名乗り・・・


古館跡 久保畑にあり、古昔岡和田氏世々居る。今土垣なく悉く圃となる。応仁の乱の頃岡和田下総当邑(むら)を食(は)み其の子勘解由の子、遠江虎其の子安房宗北郷の兵士50余人の長として武功あり。(鹿島町誌)


●制野下総 (?〜1615年)

 元和元年、片倉重綱に殉死した。
 
●片倉家臣団-岡和田太郎左衛門 (?〜1615年)
 元和元年、片倉重綱に殉死した。


そもそも相馬氏系統に岡田氏も岡和田氏もいない、岡田氏となのったのは小高に岡田という地名があり岡田所領したから岡田氏をなのった。では岡和田氏は何なのか?応仁の乱の頃岡和田下総当邑(むら)を食(は)み・・と鹿島町誌に出ている。この意味がわかりにくいのだ。下総に岡和田村という所があったのか?それが不明である。和田村があっても岡和田村はないのだ。
岡和田氏は伊達氏の片倉家の一人にも仕えている。そして原町区に片倉村があるのはどういうことなのか?岡田重胤 (1608-1650)の弟が木幡勘解由長清であり重という名が受け継がれているから岡田氏と関係深いことは確かである。岡田→岡和田氏と分かれたからそうなったのか?岡田氏の系譜の中に岡和田氏があった-鹿島区の古館跡には岡田氏から分かれた岡和田氏が住んでそこが岡和田という地名化したとなる。他は地形を基にした地名が多いし姓を地名とすることはないがここだけは例外だったのだろうか?岡田氏の系譜に岡和田氏も入っているから有力である。ただもし姓が地名化するとしたらここに岡和田氏がいても不思議ではないがいない、中村城に出た岡和田氏がいて他にも分家した岡和田氏が上高平にいた。こういうことは栃窪氏とか小山田氏とかいる。その土地の村の名を他の土地で姓としている。そもそも岡和田の謎は岡和田下総当邑(むら)を食(は)み・・・というところにある。下総に岡和田村がありその村の名がここに移動してきたのかということである。確かなことは岡田氏の系統の中に岡和田村氏があったことは言える。


北海道に移住した岡和田村氏からのコメントがあったので調べてみたが明確なところは不明である。

南相馬市原町区上高平の五輪塔のある墓地の謎
http://musubu.sblo.jp/article/36245436.html

冬の灯

 
町中の畑に月や冬の暮


冬の灯や男一人の厨(くりや)かな


紅の山茶花ひそか庭の奥隠れ咲きつつ今日も暮れにき

自分一人で家事を全部やっていたら大変である。食器を洗うだけでも手間がかかる。それでもやはり家事でも家のことでも自分で全部やってみると家を自分が管理するようになる、家のことが自分用に使いやすくなるからいい、いづれにしろ自分の家の問題は世代交代がなかったことから起きた。みんなすでに世代交代して若い人がきりもりしている。それが自分の家になかったことが悲劇を生んだ。自分の家は特殊にしても遺産でも相続するのがおそすぎる。60代とかではおそすぎたのである。財産の整理もなかなか大変でありわからないことがある。それで失敗した。家のことを財産から掃除、洗濯から食事からその他全部一人でやっていたら大変である。でも半分ボケたような高齢者は家のことすら管理できていない、洗濯などすでにコインランドリ-でする時代になっていたりいろいろ時代が変わりそれに適合などできない、でも90すぎても一家の主婦でとりしきっていたがそんなに世代交代がないからこそ家自体を管理できないし問題が起きたのである。
財産の相続でもそうだが社会でも世代交代がないと会社などでもどこでもやはり若い人が活躍できないことがある。そもそもあらゆる場所で責任をもたされてやらせてみないと仕事は理解できないのだ。昔なら60代でたいがい死んでいるから当然、40代くらいの子供の世代がとりしきることになった。財産もすべてまかされた。それが今は60代後半でも親が生きている、その親が金をもっているが手放さないのである。自分の家でも二年前までは絶対に手放さない、ただやっと自分がボケてきたのか金のことがわからなくなったからまかせるとなったのである。結局おそすぎたから今頃になりいろいろ家のことを知るのが大変になったのである。そしたら自分も病気になるとか60代になると介護する方から介護される方にもなってゆくのだ。現実今日も新聞の死亡欄を見たら必ず60代で死ぬ人がいる、ええ、こんなに60代とかで若く死ぬのかと不思議に思う。60代で結構死んでいる。毎日一割は60代で死んでいる。


高齢化社会でも60代で結構死ぬんだなと思い怖くなる。だから今世代交代することはおそすぎたのである。会社の社長でも高齢者がいつまでも権力をもっていると若い人は育たないのである。どんな職業だって経験をつまないかぎり家のことすらわからないのである。自分で庭作りやリホ-ムをしてみて家のことがわかる。財産を自分でもって管理してみて財産の運用を真剣に考える。そうでなければ具体的に家のことすらわからないのである。高齢化社会のいい面もあるのだが弊害も多い、自分も早い時期に世代交代していればこうはならなかったのである。街中に畑があればほっとする、そこに月がでる。全部家ばかりの都会には息抜きすることができないのである。ともかく年の暮だが問題をかかえているから困った。


冬の灯や男一人の厨(くりや)かな-朝顔に我は飯食う男かな 芭蕉


これと類似俳句なのかな、にている感じはする。芭蕉も一人で飯を食っていたのである。

2010年12月13日

冬の雨-短歌十首(家族なき人が感じる世間の非情)

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冬の雨-短歌十首(家族なき人が感じる世間の非情)



冬の雨ぬれて淋しき一人かな


我を待つ人もなしかな冬の雨


冬の雨石を濡らすや一人かな


墓の側残りし菊に冬の雨


残菊の冷たき雨にぬるるかな




我が庭の枯葉を一人庭に見ゆ冷たき雨にぬれにけるかな


人の世の無情をせつに我が知りぬ残りし菊の雨にぬるるも


人の世の冷たさ知りぬそれもまた生きることなれ冬の雨ふる


人と人この世に出会うは何のため死すれば二度とあわざりしものを


人の世の悲しきものかな利のみにて出会い分かるは冬の雨ふる


縁あれば愛し憎しむこの世かな死すれば永久に会わざりしものを


悲しさや貧するゆえにその人の心歪みて罪を犯すは


貧なれば心さもしくあさましくなりはてにしは悲しかりけり


人はみないづれは墓におさまりぬ争いしことも昔とならむ


家族なき人こそ悲し晩年や石に冷たく冬の雨ふる


我が一人家にしありて冬の雨ふる音聞きぬ淋しかりけり


我が姉は墓に眠りぬ今はしも何も語らず冬の雨ふる

 


世の無常、無情、非情を感じたのは姉が認知症になってからここ五年間だった。そもそも認知症自体が最も人間の無常を示すものだった。そこから無常、無情、非情・・を強いられた。
その後も災難であり今年は最大の災難の年だった。これまた無情、非情の連続だった。
結局これまで自分は恵まれすぎていたこともあった。貧乏がどうのこうのというまえに貧乏を経験していない、放浪していたときそういうことはあったが身に沁みて貧乏を経験していない、人間は歴史をふりかえれば貧乏との戦いであり貧乏が多数であった。結局戦前は義理人情に厚い人がいたとか書いたがやはり金だ金だと小作農民は叫びつつ死んだから今と同じ面はあったのだ。明治以降、やはりこの世は金だ金だとなる傾向が強くなった。今は豊になってもやはり金の力がさらに増大した。何しろ人間の欲望はかぎりないからだ。かえってモノが豊かな現代ほど貧乏に耐えられない、貧乏が身にしみるともなる。みんな借金してまで豊かさを享受しようとしている。特にこんな不景気になると余計に金がないということがひびくようになる。富者が没落して貧乏になったり下層階級におちこむことこそ最大に辛いことなのだ。そういうことが長引く不景気というか時代の変化で今起きている。もう一時的な不景気ではないのだ。もう景気は良くなったりはしないのだ。日本の繁栄の日は終わったのだろう。そういう時代の変化の中で様々な問題が起きてくる。モノがあふれる豊かな時代の新しい貧乏の時代が来ているのだ。


でも人間の真実は根本的には今も昔も変わらないだろう、必ずいづれは死ぬこといづれはこの世であってもみんな分かれて永遠に会わなくなることは決まっている。この世で会うことなどあまりにも当たり前だと思っているけど実際に人間は会わなくなることこそ常なのである。この世で会うこと自体実に不思議なことであり貴重なことなのである。なぜなら老人になってくると死んで分かれることが当たり前になる。人間は永遠に会わなくなることこそ常でありこの世で会うことこそ奇だとなる。なぜあなたと私はこうしてあっているのだろう?まもなく二度と会わなくなるということを想像してみると実に不思議である。もちろん会うと言ってもコンビニでモノを買ったりいろいろ事務的なことなど頻繁にあってもその出会いは機械的なものである。でも人間が会うというときそうでなくても利でもって会うことがつくづく多すぎる。人間の離散集合は利に尽きる。利があればあい結ぶ、利がなくば別れる、実際はそれ意外会うメリットもなにもないとなる。親戚関係だろうがカルト宗教団体も利で集るから巨大化しているのだ。利の仲間であり愛の仲間ではない、愛だというときそれは家族くらいに限られている。


家族意外はほとんど利であり利なしで会うことはない、つくづく家族がなくなって一人になったとき本当に痛切にそのことを感じた。すべて利のためによってくるのでありそれ意外なにもない、それがこの世であった。この世の活動がすべて利のためだと言えばそうである。誰も愛のために活動している人などいないとなる。
そういうことを痛切に思い知らされたから人の世は悲しいとなった。家族がないということは愛で結ばれるものがない世の中の非情に放り出されることだった。このことをつくづく五年間のなかで思い知らされたのである。自分は世間の冷たい風にさらされずに幸運に過ごしていた時期が長すぎたからそうなのであり他の人はその冷たい風にさらされ貧に苦しみついには犯罪に走ったり本当にそういう人は心が歪みさもしくあさましくなってしまったことが悲しいのである。おそらく自分自身は気付いていないだろう。人間は自分の本当の姿を見ない、きづかない人が多いからだ。自分の本当の姿に気付いたならそうはならなかったろう。


ともかくは今日は病院に行き冷たい雨にぬれまた家に一人である。一人ということはやはり自然を感じるにはいいのだろう。風流にはいいとなる。一人は自然を深く感じる、二人になるとすでに心が散るから感じ方も粗雑になるのだ。一人だと冬の雨の音も余計にしんみりとひびくのである。ここで家族がいてテレビの音などするとそうした音がかき消されるのだ。人間はいつも一緒にいると思いはうすれる。ところが離れると不思議にその人への思いが深まる。一緒にいればそんなことをあまり考えない、一端離れたり別れたり死んだりするとその人への思いはつのり深まる。それは憎む人でも同じなのである。喧嘩ばかりしていても離れてみると別れると不思議にかえってなつかしくなったりまた会いたくなったりするのは不思議である。だから人間は離れ別れることも必要なのである。

「今日の一句一首」と「相馬郷土史研究」のプログの混同に注意


「今日の一句一首」と「相馬郷土史研究」のプログの混同に注意

「今日の一句一首」に「相馬郷土史研究」と同じものを出していますが本来は別々のものです
一時「相馬郷土史研究」に書いた一部が記録(ログ)から消えたのでこちらにも記録のために出しています。

相馬郷土史研究関連のコメントは「今日の一句一首」ではなく「相馬郷土史研究」のプログにしてください、二つが混同することがありますのでお願いします

「今日の一句一首」は広範囲に様々なことを追求しして書いていますが
「相馬郷土史研究」は本来は地方史の研究でありこことは別ですのでよろしく