2010年12月01日

南相馬市立病院の同室の隣の人-「濁沼」の姓の謎


南相馬市立病院の同室の隣の人-「濁沼」の姓の謎

同室の変な姓や秋深し


南相馬市立病院で一か月入院していた同室で隣の人が「濁沼」という姓だった。その人は隣の福寿園に入っている人であり94才であった。自分の母と同じだから94才である。その人も死ぬに死ねない悲惨な状態にあった。痰がつまりそれで苦しんでいた。痰とるとき苦しむのである。うめきわめきあとは寝ているだけの人である。隣だからうるさくて眠れない時があった。でも隣にいたということはやはり縁があってこそなのだろう。その人は身寄りはない、誰も家族が声かけるものがない、そしてうめきわめき苦しんでいるだけである。これも楽じゃないなとつくづく思った。自分も家族は一人しかなくその家族も入院している間一回も連絡さえできなかった。
耳が聞こえず多少ボケているから話すらできない、その時家族がいない身寄りがないことがいかに悲惨なことか痛感したのである。この人も確かに体は活かされているが精神的には死んでいるのではないか?看護師さんも「濁沼さん、濁沼さん」と言って介護しているのはしているがただ肉体の延命を図っているのでありその人とはなんら話ができない、だから看護師に馬鹿にされて軽く扱われているということもあった。要するにその人の経歴は全く不明である。その人がいかなる人であるか全くわからないのだ。ただ濁沼という姓のみがわかりその姓が変わっているなと心に残ったのである。


同室の大原の人は雲雀が原に開拓に入った人ではないかと言っていた。そこで変わった名前の人が多いという。雲雀が原は相馬藩の広大な放牧地であり野馬追いの行われる場所だった。明治になり広い原野に開拓に入った人々がいた。石神村から入ったことは知られている。94歳は母と同じ年齢でありではいつその人が開拓に入ったのか戦後に満州引揚者が開拓に入った人が全国に多かった。鹿島区の小池村に入った人と懇意にしていたので知っている。94-60となると34歳の頃だからちょうど戦争が終わったころに入植した人なのだろうか?濁沼(にごりぬま)という姓自体変わっている。どこが発祥地なのか?濁沼とか濁川とかの全国にある。でも濁沼村となると岩手県東磐井郡濁沼村 しかないようである。インタ-ネットで調べる限りだが確かにないのだろう。でも姓として千葉氏→濁沼淡路守胤村の娘 とかあり濁沼の姓の人が移住して濁沼の地名が生まれることもある。この辺が姓とち地名が混同しやすいからわかりにくくなるのだ。濁沼という姓は宮城県に特に栗駒に多く、名家にもなっている。北海道(30) 宮城(30) 茨城とあり宮城県と岩手県に多いからその辺から開拓で雲雀が原に入植したのだろうか?北海道に多いというのはこれも開拓で移住したからである。


岩手県東磐井郡濁沼村
一関市千厩町濁沼

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貫門御免は二軒であった(栗駒の話)

村で門構のある家は内の目の佐竹、堰の上の菅原隆一、貴船の雄吾、洞場の濁沼竜吉、万代の清水、釘の子の炭屋、木鉢の千葉等であり、いずれも貫門(サの字形の建柱)である。
http://www.st.rim.or.jp/~success/tiba_5.html

ただ不思議なのは


信秀の八男・師親はのちに師持(下総)と改名。濁沼亀ヶ館十万五千苅を領していたが、その後の動向は不明。

 幕末の相馬中村藩の客僧として知られる慈隆大僧都は、亀卦川氏の出身である
http://members.jcom.home.ne.jp/bamen1/oshu3.htm




濁沼亀ヶ館とかありここから有名な僧が相馬藩に来た。その時濁沼の姓がもたらされたのだろうか?僧だけがきたのだからその線が薄いとなるだろう、やはり明治以降雲雀が原に入植した人であり年齢から察すれば戦後入植した、それは宮城県か岩手県だとなるのだろうか?
いづれにしろ姓だけでもその人の歴史をたどることができる。清信という人も千葉氏系統であり古いことがわかる。姓から探る歴史がある。ただかなりややこしくなり嫌になるのである。でも同じ病室の人で身寄りもない人にも生きた歴史がありそれが知れれば郷土史の一こまになる。郷土史は郷土に生きた一人一人が対象になるからだ。 その人については姓しかわからないにししてもそうである。その人も死んでしまうからあとは何もわからなくなるのだ。


飛行場跡のプログ(ここに雲雀が原のことが詳しい)
http://1901rjtt-to-roah.blog.so-net.ne.jp/archive/c2851-1

タグ:濁沼
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冬菜

 
病院へ冬菜に光介護かな



病院で定期的にやることがある。たいしたことではないがそれでも介護なのだろう。これが在宅になったらひどいことになるかもしれない、一日一回通って水を変えたりするちらいならいい、大正生まれとか戦前の生まれの貧しい時代は「もったいない」世代であり贅沢を言わない、忍耐強いの特徴である。団塊の世代が介護になったら贅沢を経験しているからめんどうになるかもしれない、町中に畑があり冬菜がある。冬菜というと貧しさの象徴のようになるが現代では清貧というのはいかにむずかしいか体験してわかった。現代ほどかえって貧しいことが耐えられない時代はないのだ。貧しい時代も耐えられないということがあるがそれは現代の貧しさとはまた違っている。みんな貧しいのだから他をうらやむとか第一モノがないのだから金があっても買いようがないということがある。今はモノがあふれているし金があれいろいろな贅沢ができる。

その豊かななかで人間は貧しく窮乏感がましているのだ。貧しさにみんな耐えていたのが昔だが今は貧しさに耐えられない時代なのである。だから格差があり貧乏な人で清貧に生きる人など皆無に近いだろう。その人たちはみんな大きな不満をかかえているのだ。冬菜が貧しさの象徴なときに冬菜でも冬の光がさしている。そうして清貧に生きる人がいたならと思うが実際は今はいない、そういう貧しさに耐える感覚は今やないのである。だから今の時代本当に貧しい人が例えば「貧しさや冬菜に光耐えるかな」などと俳句にすることはない、これはかえって貧乏でない人が想像で作る句になる。現実に貧乏に生きる人はこういう心境になる人はいないのである。


ともかく家事一切をやらるとなるとこれも疲れる。洗濯機が壊れたみたいだ。こうしたものは日頃使っていないとその使いにくい、だからコインの自動洗濯機でした方が便利なことがわかった。一時六万もして乾燥機買ったがこれは不必要になっていたのである。その時コイン式の自動洗濯機があっても町にも一カ所あったが利用していないので気づかなかったのである。近くでも自分がやらないと利用しないのである。それで損したのである。今では一人暮らしでも便利にできているから家事でもうまくやれば楽になっている。昔は掃除、洗濯、料理でも一仕事だったから女中とかを使わずに大きな家ではやっていけなかった。今は女中がやることを機械が代わってやるから楽なのである。だから女中とか手伝いさんの需要は極めて少なくなった。そして前から金持ちでお手伝いさんなどを雇っている雇いなれている家はいいが最近になり一時間とか家事手伝いなど頼むべきではない、家の中に入ってくる人はよほど信用ある人でないと大変なことになる。


こういうことはやはり昔から雇っている金持ちの家でないとうまくいかないものだったのである。そういうところでは長く働いているから安心できる人がいる。そういう人は即製には作ることはできない、それが失敗の元だった。信用を得るには長い時間がかかる。例えば単に買物するにしても十年間くらいコンビニにでも通いそこに同じ店員がいたらあの人は万引きするような人ではないと一応はなる。その長い時間に信用が生じるのが普通である。でも今はコンビニでもどこでもよそ者が相手となると信用が生まれないのだ。家の中に入れる人はよほど信用ないと危険極まりがないのである。アメリカでは金持ちの手伝いさんを裸にしてなら雇うというのもわかった。それくらいしないと金持ちの家は危険である。アメリカの金持ちは桁外れであり手伝いさんとなると移民が多くそういう人は全く信用できないのである。ただ長くなれば信用は生まれてくるのが人間なのである。

タグ:冬菜

南相馬市立病院の同室の浪江町の富永氏の由来は?


南相馬市立病院の同室の浪江町の富永氏の由来は?

病院で同室だった富永氏は浪江の請戸の出身であった。そこで15町分の田畑をもっていた。中国の研修生を雇い三回も中国に行ったという、他に地元の人を指導する立場にありその土地では優秀な農家であった。娘四人がいて大学まで全部出して一人は30代で死んだ。そのことを妻はしきりに言っていた。それで介護度5なのに早く家に連れて帰りたいと言っていた。介護度5で在宅介護をできる人はまれである。それほど夫のことを思っているので珍しいと大原の人と語り合った。大原の人は息子娘が近くにいるのに大病したあとも一緒に住まない、大きな家で一人猫とまた暮らすことになる。そしてその家は空家になってしまう可能性が高い。農家でもそういう家が多いのが現状だからそんなに夫のことを思い介護するのはうらやましいとなるがその姿はあまりにも痛々しいものだった。


ともかく平の方に野菜などを売っていた。浪江となると磐城との関係があった。その頃市場が磐城にあった。その頃小さな範囲ではない、大きな市場が平市に磐城地方に生まれたので大量生産するようになった。市場はだんだん拡大化して今やグロ-バル市場となったのである。近くに市場が形成されなければ農家も農産物を大量に売れないから豊になれないのである。それはどこでも同じである。中国でも都市近辺の農家は商品として大きな市場に農産物を大量に売るとき豊になったのである。大きな消費地がないと豊になれないのである。こうして市場に売れたからこそ娘四人も大学に出すことができたのである。そもそも浪江はもともとは古代に標葉郷であり標葉一族が勢力をもった地域であり。隣に楢葉があり標葉があり双葉郡は二つの葉からとってそうなった。

そこはあとで相馬氏と岩城氏との境界争いの場ともなった。相馬氏が勢力を伸ばして岩城氏は後退した。その中で標葉氏は相馬氏に組み入れられた。標葉氏は葛尾(かつろう)村の境界の津島までその領地であった。津島は今でも浪江町の行政下にあるのはそのためである。そこは三春藩と境を接する所でもあった。

その中で富永氏というのはやはり由緒ある姓なのだろうか?
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富永雅楽助(刑部)


実名勝安。山城守政辰の二男。富永氏は代々北条氏に仕え、曾祖父山城守政直が北条早雲・氏綱・氏康に仕え江戸城を守った。祖父神四郎直勝は江戸城に加え、葛西城将となるも、永禄七年鴻台で討死した。父政辰は北条氏政の一字を賜っている。政辰の嫡男(勝安の兄)は直則で幕府旗本となった。(「諸士」)

http://www.page.sannet.ne.jp/kuranosuke/echizen-kasin.html


富永という姓はそれなりに由緒あるもので鎌倉時代の北条氏系統につながる。千葉氏とは縁がそれほどなくてどういう経路で浪江の請戸に来たのか不明である。相馬藩ではそれほど有力な一族ではない、浪江からも野馬追いに出る家がある。浪江の標葉氏は相馬藩に組み入れられて野馬追いに出る。浪江から南になると相馬藩に組み入れられるのはのちのことで野馬追いに出る家がない、浪江となるとやはり磐城との関係が深くなる。距離的に地政学的にそうなってくる。


権現堂城は標葉(しねは)氏の居城であった。標葉氏は代々、太平洋に近い平野部の請戸館を居館としていたが、防御力の不備から、本城館を築いて移ったという。室町時代中期の嘉吉年間頃(1441〜44)のことであるといい、時の城主は標葉清隆であった。
http://homepage3.nifty.com/otakeya/hukusima/namiemati.htm



請戸は古い地域である。だから中世から標葉氏が根拠とする城がありあとで権現堂の地域に移り相馬氏の支配下に入った。富永氏も鎌倉時代に請戸に入ってきたのか、請戸港も古く
岩手県の宮古から鉄になる素材を葛尾(かつろう)村に運び葛尾(かつろう)大尽が製鉄して三春藩などに売っていた。三春藩は近いから第一のお得意先になっていた。それで葛尾大尽の屋敷に呼ばれて歓待されたのである。その屋敷跡が葛尾村に残っているのは知られている。
津島を通って塩の道もあり塩も浪江から運ばれていた。棚塩とある地名は塩がとれた地域である。請戸港まで行くと相当に広い田が広がっているから、15町分という広さをもてる地域であった。浪江駅から山は近いが海の方に平野が広がっている。海の方に向かって広がった地域である。請戸地域に平坦地が多いのだから請戸に標葉氏の根拠地があったことがうなづける。江戸時代でも塩がとれる、塩を売る、鉄の素材を運ぶ、魚もとれるとかそれなりに豊かな地域だったともなる。富永も富が永くつづくという縁起のいい姓であり今の静岡県を三河を中心にして全国に富永の姓は広がっている。

タグ:富永
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2010年12月02日

南相馬市立病院を基点に海と大原の短歌十首

南相馬市立病院を基点に海と大原の短歌十首


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病院の窓辺に鳩の二羽並び秋の朝日のさして来るかも


我が病癒えにけるかも海よりそ昇りくる秋の朝日仰ぎぬ


退院の日の近きかな海よりそ昇る秋の陽輝かしかも


原町や大原の方に緑濃く秋の朝の日さして明けゆく


海近く桜井古墳主は誰病院に思ふ秋深まりぬ


原町の街をながめつ大原の人とすごして秋の夕暮


海近き桜井古墳遠きかな大原に思ふ秋の夕暮


大原に海は遠しもイノシシと猿になじみて秋深まりぬ


大原にさらに奥なり遠田かな前田の人や秋深まりぬ


大原に冬の陽没りぬあわれかな街は遠しも昔の暮らし

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これは連作としての短歌である。南相馬市立病院に一か月いて毎日ながめていたのが太平洋と原町の街とかなた大原の方だった。同室に大原の人がいてその人だけと話しができた。そして原町の地理的距離感覚がついた。市立病院は高いから立体的に地理を把握できたのだ。本当にあの高さから海から朝日が昇るのは荘厳だった。下から見ているのとは全然違った朝日だった。そしてその海近く新田川沿いに桜井古墳がある。つまり市立病院の辺りはすでに古代から人々が住んでいた原町区の中心地域だった。大きな古墳があるところは住み安い場所である。たいがい海近くにある。仙台の遠見塚古墳とか名取の雷神山古墳も海が近いところにあった。そういうところは海を生活の根拠として人々が住みはじめた。海といっても外海には出れないとしても内海化している入江や湾や河口で生活していたのだろう。古代でもどこでも浦が深く入りこんでいたからである。泉官衙跡に行くのに運河あったというのも交通としても利用していた。古代奈良辺りでも川は交通路だった。桜井古墳の主は誰なのか?すでに東海地方系の陶器が出ていることは東海地方の人が移動してきたと推察できる。「みちのくの真野の草原遠けど面影にして見ゆというものを」笠女郎の万葉集の歌の草原は実は地名だったと考察したように海の近くの古墳は何らか港のような役割も果たしていたのかもしれない、その当時太平洋を船で来ることはないとあるが浦とか河口が広く陸地に広がっていたからそこは波も穏やかであり船の出入りが可能だった。そういう近距離の船の応用はあっても不思議ではない、泉官衙跡の新田川の運河も一部を近距離の交通として利用されていたのである。

いづれにしろ歴史は地理だというときいかにそこに長く住んでいても地理がわからないのだ。桜井古墳から大原は相当遠いのである。その遠さの感覚が現代では車の利用で欠落してくるのだ。浜通りは山といっても高い山はなくてものたりないが海と山の暮らしがあるので恵まれている。中通りや会津は山の暮らしはあっても海は見えないからである。だから太平洋から昇る秋の朝日は金色に輝き荘厳だった。これも高いところから見たからそうなったのである。
大原からはさらに遠田という字地名があり奥に入って田がある。海から山の奥まで立体的にその生活の跡をたどると見えてくるものがある。自然的にも荘厳さにふれることができる。

タグ:海の短歌

2010年12月03日

<埼玉女児暴行死>亡きがらに虐待の跡(人間は窮迫するとき危険な状態に・・・)


<埼玉女児暴行死>亡きがらに虐待の跡


毎日新聞 12月3日(金)2時35分配信
 埼玉県東松山市で宮沢愛(まな)ちゃん(5)が同居のベビーシッター、柳瀬純子容疑者(34)=傷害致死容疑で逮捕=に虐待され死亡したとされる事件で、愛ちゃんの亡きがらが2日、ひつぎに納められた。ほおにもおでこにも、虐待を受けた跡とみられる痛々しいあざが残っていた。



この事件に興味もったのは自分の家と共通していたところがあったからである。一見にていないようでもにていたのである。この子供の両親は離婚して男親がひきとった。ところが男親は仕事で忙しくて子供をみていられない、それでインタ-ネットの出会い系サイトで出会った女性と知り合いベビ-シッタ-を月10万で頼んだ。この人は遠くとも言えない20キロ離れて住んでいた人である。ここで問題になったことはなにか?まず出会い系サイトで知り合ったということは相手の素性とかがわからないことである。どういう人なのかわからない、これが家で働いてもらうときは一番大事なことだった。その女性は相当に問題ある人であった。普通の人ではなかったのである。でも夫は男親になった人は仕事は忙しい、子供のめんどうみるのは大変だとなり簡単に出会い系サイトで出会った人に頼ってしまった。その男親はせっぱつまっていたのである。

そういうときは相手のことをあまり考えずに頼ってしまうのである。これはいいやと簡単に家のことを子供のことをまかせてしまったのである。家の中に他人をひきいれまかすことは非常に危険なことである。この場合は子供の命をなくしたから経済的損失とも違う、もう命をなくしたらその命は帰ってこないから経済的損失より大損失だったとなる。この男親は前いたところでは子煩悩と回りの人が言っていたから男親が虐待するような人ではなかった。一時児童相談所にあづけようとしたというのもわかる。でもそういう公共施設もなかなか入るのにめんどうなとこ5ろがあるから手っとり早く頼める人に頼んだ。前いたところでは近所の目配りがあったが最近引っ越したところではなかった。それで猫でもギャ-と言ったとき死んだのかと回りの人が言っていたし子供がいたのかどうかもわからなかったというのも事件が起きた一因になっていた。近所の助けが目配りが全然なかったのである。


このことは自分の家と実ににていた、子供ではないが老人のめんどうも子供とにている。特に多少認知症気味になるとあかんぼうと同じになるのだ。だからたやすくだまされる金の管理やらいろいろ家のことすら管理できくなるのだ。そういうとき安易に外からきた知らない人に頼る、これは渡りに船だとなる、その人がどういう人かよりどうしても自分が困っている、その窮迫していることでついつい相手のことをかまわず頼ってしまうのである。そういう家が空白になる、隙ができるとき悪い人でも簡単にいい人と思い引き入れてしまうのである。それは今や素性が知れない都会だげの問題ではない、田舎でも同じである。田舎も隣近所のつながりが希薄になっている。その人は20キロ離れたところに住んでいたというが一キロもはなれていないところでも問題が起きた。世の中にはいろいろ問題な人がいる。悪い人もいる、この女性はそもそも相当問題な女性だったのである。出会い系サイトで知り合った、即製で知り合ったくらいではその人のことはわからない、でも男親は困って窮迫していたからその人のことをいろいろ考えるよりとにかく子供のめんどうをみてもらえばいいと思った。自分も老親のめんどうをみてくれればいいと思ったのとは同じだった。つまりそういう窮迫したとき相手がいい人悪い人など考えないのである。悪い人でもいい人に見えてしまうのである。


でも実際に相談する人もいないしそうなりやすいのである。男親は仕事で家に帰ることもできず全部その出会い系サイトで知り合った人にまかせてしまったのである。これも自分も同じだった。全く家のことをまかすことはよほど信用がない人でないと危険である。ここでは子供のことだったが命までなくした。親戚とか隣近所とか頼ることができずにそうなった。自分もそうだった。離婚して妻がいなくなる、男親だけでみようとしても仕事が忙しい・・そうして家がせっぱつまってくるとき危険が待っている。いつの世の中も戦国時代である。戦国時代は相手の敵の弱点につけいり攻めて敵をほろぼしてゆく、内輪もめを起こして家を混乱させて責めてくるとか相手の弱点、弱みにつけいるのが戦国時代だが今も変わりがない、油断も隙もないのが人間社会なのである。計画的に敵を倒そうとする、そこで陰謀も当然ある。そういうことが実際個々の家でもありうるから人間は怖いとつくづく思った。相手が弱いとき一番の狙い目なのである。もし復讐するなら相手が弱くなったときである。病気とかなにか困窮するときねらうのである。こうなると人間も悪魔的になる。まさに弱肉強食の世界である。戦国時代はまさにそうだったのである。


家の中で働いてもらうにはなにか特別な金だけではない動機が必要である。そして何かしらその家に対して敬意とかもっていないとできないのではないか?掃除するだけでも何らかその家に深いかかわりがないと敬意のようなものがないとできない、単に掃除しているだけではないからだ。その家に仕えその家を思う心がなければ掃除すらできない、でも外から家に入る人はそういう気持ちがほとんどない人である。金をもらいばいい、それだけで仕事している。でもそれだけで仕事できるのかとなるとその動機が問題になる。人間は「神が心をみている」というふうに心を一番大事にしたように動機が一番大事なのである。ドラマの話だがその人は旧家に仕える人だった。金庫番までさせられていたのは信用があったからである。その人はすでに子供のときからその家にいたのである。母親と一緒に働いていて母親が死んだあともその家の子供のように育てられた。それで恩義に思い仕えていた。そういう深いつながりが子供のときからできていたから信用されていた。家族の一員と同じになっていたのである。つまり信用は短い時間ではできない、長い時間がかかる。コンビニでも十年間通いその時一回も不審がないなら一回だけうっかりミスで支払いを忘れてもあれおかしいな今回はどうしたのだろうと疑問になる。実際に支払いを忘れることも人間はあるのだ。ともかく十年間は信用の時間だったのである。そこに十年くらいいた店員もいたからである。信用は短い時間ではできない、出会い系サイトで知り合ってすぐに信用関係はできないのである。

タグ:児童虐待
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冬の雷(災難つづきの年)


冬の蝶追わんとすれば消えにけり


雷鳴りて濡れて追わるや年の暮


静寂の茶室に波乱冬の雷

一生のうちで今年ほど波乱の年、災難の年はなかった。いやすでに姉が認知症になってから家はがたがたになり災難つづきなのである。今日も町に一つあるコインランドリ-で二回たまった洗濯物を洗いに自転車で行った。そしたら帰りに突然雷が鳴って雨がふぬれてしまった。
コインランドリ-の利用はこれからふえてくる、町に一つではたりないみたいだ。これも時代の要請だからビジネスチャンスがあるかもしれない、家で洗濯している時代ではないのかもしれない、家事もすでに料理も買って食べているのが多いように共稼ぎとかなると家事に労力を費やす時間がなくなるのだ。とにかく子育て介護とかなると本当に忙しくなる。毎日病院に通うだけで手間なことがわかった。近いのだから楽なように見えて一日一回通うのに結構な手間なのである。それで市立病院に浪江から通っていた人は車で40分かかると言っていたから大変なことだと自分で通ってみてわかった。そして娘も協力してくれるのだがまだ幼い子供が二人もいるのだから子育てから介護から仕事ももっているから大変なことになる。介護が加わると労力も倍必要になってくるのだ。介護は子育て以上に労力がかかるのである。介護度5だったら特にそうである。その家でも娘がいても妻がいても労力が足りなくなっているのだ。


買物だけでも結構な手間なのである。だから家族が少人数な時代に在宅介護をできる人は少ないのである。それなのに政府では金がかかるから在宅介護にしようとしているのは時代に逆行しているのだ。どこの家も人手があまっているところは少ないのである。高齢化社会で暇な人もふえているのは確かである。それらの人がうまく利用できないのは家族の中で働かせることがいろいろむずかしいからである。自分でもそのことを経験したからわかる。就職先がない働く場所がないというのではない、若者はえりごのみするから働かないというのも本当である。中小企業とか介護関係とか人手がたりないところはいくらでもあるからだ。ただ働きたくなくても親の収入でやっていけるとかそういう時代の中で就職難とか人手不足か起きているのだ。


いづれにしろ想像の茶室とはいえ人間界に波乱は常にある。人生は波乱の連続だったという人もいるだろう。ここ30年は波乱はなかった。茶室にしても武将が集う場だから千利休のようなまだ戦乱の時代だったら生くさい場所であり命のやりとりもある場所だった。そもそも千利休が秀吉に切腹を命じられたことでもそのことがわかる。茶は単なる風流人が営む暇人が営むものではなかった。政治の場でもあったから危険もそこにあったのである。要するにこの世に危険でない場所などどこにもなかった。家族のなかに危険な人は入ってくる。家が安全かと思いば地震や災害で家にいても死ぬのである。家が一番危険なことだってあるのだ。女三界(さんがい)に家なし ・・・三界の火宅とかこの世に平安の場所などどこにもない、キリストも枕するところなしと言って十字架についた。この世に安住の場所などないのだ。一見安住の場所と思っていたところが一変して地獄にも変化する。それがこの世であり死ぬまで安住はない、無常がこの世の定めなのである。家が安全だ、頼りだ、家族がいて安心だとかなるがその家族さえ消失してゆく。この世に安住の地はない、来世にしか安住の地は望めない、そういう覚悟をしておくべきである。

 
 
タグ:冬の雷

2010年12月04日

冬籠もり(秋山紀行を読む)

 
玄関に冬紅葉散りうなる風


病院に母なお生きぬ冬の菊


我が読みぬ秋山紀行や冬籠もる

今日は風が強く福島県の一部で新幹線に影響した。青森まで開通したが新幹線の旅はそれほと面白くない、ビジネスにはいいにしても旅というのが現代では喪失した。江戸時代なら歩いて行くのだから旅があった。旅は別に遠くに行くから旅ではない、江戸時代のように歩いて村々を町を行くから旅なのである。新幹線のように早いと旅は喪失する。旅するには結構暇や金が必要なめんどうなものなのである。旅には時間が何より必要なのである。だから退職した人が鹿児島から青森まで歩いて行った気持ちがわかる。勤めていると時間がないから旅にならないのである。保養とかになっても旅をすることはできない、旅は実際は現代では相当逆に手間暇かけないとできない、本当の旅は今や相当な贅沢になった皮肉があるのだ。いづれにしろ自分はなかなか旅はできないだろう。体もそうなったしそういう暇がなくなった。30年間旅していたのだから文句は言えない、高齢者は金がもっていても消費する時間がないというのは本当である。金があっても消費するには時間がかかるのである。その時間がなくなっているのである。

確かに金は無限に与えられている金持ちがいる。でも消費する時間はみんな同じなのである。時間はみんな平等である。金で時間を買うことはできない、高齢化すれば還暦からさらに20年を生きる価値は大きい。もちろん健康であることが第一条件である。高齢化社会は社会全体にとってはいいものではない、負担が増加するだけだとなるがなにかを成し遂げるには時間が必要である。時間がそれだけ伸びたということは一番贅沢なことにもなる。あと20年も生きたら相当な仕事ができるからだ。人生で一番貴重なものが時間でありその時間が一番浪費されるのである。


「10月からハルマでは栃を食い、年中のこととしては粟、稗を良く食べますがそれに小豆を少しまぜると味が良くなります、毎日朝は稗焼餅(稗のだんご)でおかずとして近年ぜいたくになり飴などをいれます。ここより上の村の上の原は、和山などは年中栃や楢の実を食べ、夏秋のころ雑煮に蕪の根も葉も刻んで入れ粟を少しふりまぜます」秋山紀行-鈴木牧之


山の暮らしもわかりにくい、会津の方に行くと栃餅を食べることができる。栃餅は作るのがあく抜きとか結構めんどうなものである。でもこぱを読むと栃の実や楢の実が欠かせない食料源になっている。粟とか稗が常食であり米はそうなっていない、米は贅沢なのである。檜枝岐(ひのえまた)辺りだと蕎麦が常食になる。あそこは会津の奥だから昔だったらまさにこういう状態だったろう。サンショウウオなどを焼いて食料にもしていたし今でもしている。獣の肉も食べているし山では昔から米意外のものを食べて暮らしていたのである。ただ天明の飢饉で山奥でも食料が枯渇して死んで家がかなり減っていた。相馬と丸森の境にある天明山は飢饉と関係してその名がついたのだろう。平地では米がとれくて飢饉になったと思うが山だとかえって山には栃の実などの食料があったのだから生き残ったのかともとも思ったが同じだった。
気候の変動があり山にも実がならなかったのかもしれない、なかなか今になると昔の暮らしはわかりにくい、でも冬籠もりにはふさわしい場所だとなる。冬籠もりの季節はやはり昔を思い出したり読書したりするのが向いている。読書も何回も読むとまた違ったものとしてよみがえる。人間は読書にしても本当に忘れやすいのである。人間は本当に忘れやすいから遂に認知症になりみんな忘れてしまうのである。忘れやすいというとき自分は相当の量をインタ-ネットで書いてきたがその書いたことも忘れている、ええ、こんなこと書いていたのかと改めて自分の書いたものを読んで思い出しているのである。人間は忘れやすい、あらゆることを忘れてしまうのである。

 

地名から南相馬市原町区の大原村をみる


名から南相馬市原町区の大原村をみる

国魂太郎゛岩城氏の一族であり好嶋庄内の村々の地頭と同じ程度の名田を所有していた。
手作りとは名主の直営地のことで、佃(つくだ)、門田(かどた)、前田、内田などともいわれ、居館の近辺にあった。地頭、名主たちは土塁、堀をめぐらしてた居館に住んでいた。
堀の内、内城、御城、殿の前、竹の内、腰巻などの中世の名残と思われる地名がある。
(新しいイワキの歴史)

地名から歴史を探る場合、時代区分を明確にする必要がある。中世と江戸時代とかを区別する必要がある。中世の地名が多いからここは中世から人が住んでいて地名化したということを認識する。館とつくのはたいがい中世でありそこが生活の中心となった場所である。今の感覚だと生活の中心は鉄道の駅があるところとかさらに車社会になり道の駅が中心になったり常に中心は変動している。中世は館とか堀の内、内城、御城、殿の前、竹の内・・とかが中心地になっていた。その典型的な例が南相馬市の鹿島区の駅に近い「田中城」であった。城といっても江戸時代のような城ではない、堀をめぐらしたものであり田中城はそもそも回りが湿地帯であり橋が多く天然の要塞になっていた。あと館とつのには江垂の中館とか小高い山を根城としたところが多い。これも敵を防ぐ天然の要害だからそこを中心として生活があった。
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インタ-ネットで読んで面白かったのは中世には飢饉が少なかった。庄園とか館とか中世の城内に住んでいた人は個々の家族に分離したものではない、その内では生活は分離していないで一体化していた。一つの大家族だから飢饉がきても食料をみんなで分け合うから江戸時代のような広範囲な飢饉はなかったというのも不思議である。江戸時代になると個々に別れた農家がふえたからだという。中世の生活がどうだったのかこれもわかりにくい、生活が個々に別れたというとき現代は核家族してさらに細分化しているから社会全体では協力しないから助け合うことがないからいろいろ困るのとにている。地名は生活を共同した証でもありただ中世の地名は多いことは確かである。必ず館という地名がありそれがあればその土地の中心地がそこにあったことなのである。相馬藩内でも堀の内とか内城とか殿とか竹の内とつく地名は多い。竹の内は全国的に多い。そういう地名があればそこは中世から人がすみ中心地がそこにあったということである。屋敷というつく地名もその屋敷を中心に暮らしがあった。明治時代から中心地の変動が激しくなり工業化して郷土の生活も個々に細分化されつながりが失われた。

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大原の前田という所には病院で知り合った人が一人で住んでいる農家がある。古い家だと言っていたが確かに前田となっているとそうなのだろう。つまり家の前の田がまずその地域の中心地となり草分けとなった。そこから開墾されて田が拡大化していった。下田とあるのは下田が先にあったのではなく前田が先に人が住んで下田が開墾されたのだろう。そしてさらに上の方に坂を上ると遠田という字地名があり現実に隠れるように田が確かに坂をかなり上った所にあるのを知っている。それからさらに急な坂を上ると六地蔵が隠れるようにしてあった。これは今は誰も気づかない、堀がありコンクリ-トの壁を上った上にあったからだ。あそこを見る人はいない、あの六地蔵は江戸時代からあったものだろう。あそこが昔の道だったのだろう?橲原村と大原村の境界だったのだろう。江戸時代は村が行政の単位だから村の結束力が強いから境界は強く意識された。その境界に六地蔵が置かれた。ともかく米を作るためにあのような高い不便な所まで田を作ったのが日本だった。ネパ-ルでもあんな高い所高い所へと人が住んでいることに驚く、高ければ高いほどすみにくい、すみにくい所に土地を求めて移住する。遂には冗談ではなく天に到り天に土地を求めて耕すほかなくなっているのだ。でも2000メ-トルくらいまでが限度だろう。さらに上ると万年雪が残ってしまう領域になる。

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上萱もネパ-ルと同じ事情であんな不便な高いところに住むようになった。養蚕とかが盛んな時代であり桑畑を作ったりしていた。炭焼きもしていた。でも戦後のことでありあそこに人が入ったのは新しいのである。大原に学校がありあそこから歩いてきて遅刻してしかられたというが上萱から大原まで歩いたら大変な距離である。坂道でもあるから歩いたら大変な労力である。でもそういう時代もあった。それから遂に土地を求めても土地がなくなり戦後は北朝鮮でもブラジルでも移民を募り外国に出て行った。そういう人は結構多い、アメリカで消息不明になった人が親戚にいた。実際は成功した人は少なく失敗して悲惨な生活に陥った人も多かったのである。
上萱(うえがや)は鹿島区の栃窪村に属していたが橲原村とかも近いから関係した。でも学校は大原とかなり大原の人があそこに入ったようでもある。山田という姓の家が二軒くらいあった。



その人は原町区に移り土を盛った粗末な墓があったがその墓も移動した。墓は人とともに移動する。でも土を盛った土饅頭の墓があったということはあそこで暮らしあそこで死んだ人がいたのだろうか。大倉の奥の二軒の一軒もなくなり墓も一つなくなっていたから墓も人が住まなくなれば移動するのである。大原村に前田とありさらに山田と地名がある。山田とはそこに住んでいた人かもしれない、小山田という姓があり小山田という地名もあるからだ。ともかく日本ではある程度地名からその土地の歴史がわかるのである。

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大原に冬の陽没りぬあわれかな街は遠しも昔の暮らし

posted by 老鶯 at 22:42| Comment(0) | TrackBack(0) | 歴史(相馬郷土史など)

2010年12月06日

鴨 (分裂が激しさを増す社会)

 

晩年や相見知りたる鴨群れぬ

なごみつつ今日も暮れにき鴨の群れ


荒々しい資本主義の時代は地域社会の調和や他人をかえりみる余裕を失った生き残りをかけた競争の時代といえる。ひとりひとりの立場の違いによって深刻な対立か生まれやがて「日本の分裂[がはじまることをおそれなければならない。 「不安社会を生きる」内橋克人


この本をブックオフで買った。そしてこの文が注意をひいた。このあとにグロ-バル市場化による社会の分裂を指摘している。海外に出る会社と残る会社とでは価値観が変わり分裂がはじまる。すでに海外進出組と国内居残り組では価値観が違ってくる。これだけではない、今や社会はいたるところで深刻な分裂状態なのである。若者と老人は不倶戴天の敵のようになっている。
老人に敬意をもつ若者などいない、格差社会となりその格差でも人間は分裂してくる。分裂というとき男と女も和していかない、離婚がふえてくる。家族も和合しない、老人と子供は分裂して金だけを子供は求めてゆく、自分自身もそういう深刻な分裂を経験したからショックだった。



いつの時代のこと言ってるんだよ?
地方がどんだけ殺伐としてるか知らないんだよ。
都会は冷たくて田舎の人間関係は人情に溢れてるとか全くの嘘だから。


テレビでそう煽ってるからな
で、人情を求めて都会から田舎に移住してショックを受けると
田舎が閉鎖的というわけじゃなく、都会と変わらんわな
今時の日本はどこでもいっしょ



田舎でも人情などなくなっている。田舎になにか過去の牧歌的なものを求めるのは無理である。田舎も現代社会のなかに生きているのであり中国の少数民族にでも行かない限りもはや昔の田舎はないのだ。荒々しい資本主義というとき誰も金だけが頼りの社会に変質したのである。その結果として無縁社会にもなる。無縁社会とは人と人とのつながりが消失してゆく社会である。それはとりもなおさずいたるところで分裂してしゆく社会なのである。人間と人間はもはや信頼はなくなり人間は人間にとって狼となる。金が万能となり金のためなら人は狼になる。人を人とも思わない、金のためには人など殺害しても平気だとなる。資本主義と無限に人間の欲望を刺激する社会である。その欲望は限りない、だからラオスとかの遅れた国でもテレビが入るとそのテレビが欲しくていたけない少女を街に出して売春させている親がいる。まさにここでも親と子は分裂してゆくのである。

鴨は冬の季語である。晩年は顔見知りの人とのんびり暮らしたいとなるが今や会社中心の社会であれば会社をやめたらまた分裂して知る人もなくなる。地域のつながりはそもそもない人が多い。これ農家の一部をのぞいて田舎でもそうなっているのだ。

2010年12月07日

「労働が美徳」から「消費が美徳」へ極端化すると社会は崩壊する


「労働が美徳」から「消費が美徳」へ極端化すると社会は崩壊する


生産力がその需要に対して小さい社会では節約が美徳であり、生産力の方が大きい社会では消費こそ美徳になるというのが答えだ。
http://aircheck.blog68.fc2.com/blog-entry-88.html


●労働が美徳、倹約、節約がモラルの世代の人


現代の特徴はモノ余りでありモノが売れない、デフレの時代である。米が余る、電気製品も過剰生産しても売れない、車もみんなにゆきわたり売れない、たいがいモノをもつようになったから売れないのである。モノがない時代、高度成長期はモノがないから何でも飛ぶように売れたのである。モノが一応ゆきわたれば電気製品も車もゆきわたればモノは売れなくなるのは当然である。モノ余りの時代だからこそ「消費が美徳」となってきた。戦前から戦後の一〇年くらいまではそもそも消費するモノがないから「消費が美徳」とはならないのだ。高度成長時代は生産と消費は一体化して回転していた。大量に生産すれば大量に消費されて売れたのである。でも今になると大量に生産しても売れないのである。「消費が美徳」として会社でももっとモノを買ってくれといっても生産しても売れないのである。それでモノの値段は安くなりいくら生産して売ろうとしても売れないからデフレになる。老人は金をもっていても使わない、金があってもどう使っていいかわからない、ただ病気や介護にそなえて金をもっている、だから豪華な介護施設をどんどん使って老人に金を使わせろというのも一理ある。老人は金をもっていてもそうした施設に入るためにかなりの一時金をとられる詐欺にもあうのが現代である。老人の望むものがそこにあるから詐欺にかかりやすいのである。それは家の中に入ってくるヘルパ-による詐欺で金をとられる老人が多いことでもわかる。老人はなにかに消費する力がない、消費するのにも時間がかかるのだ。旅のことを何度も言ったが本当の旅をするのには今やかえってその労力は大変なものになる。かえって歩く旅とか自転車の旅が本当の旅を経験するのだがその労力は体力や時間がかかるのだ。旅などど無駄となるがでも本当の旅を体験しようとしたらその労力は実際は大変な労働にもなるのだ。単なる消費ではない消費も労働になっている場合があるのだ。パソコンと高度な知的道具だからパソコンを買う人は単に無駄に消費しているのではない、すでにパソコンを消費する人は使う人は必ず知的生産に寄与しているのだ。パソコンを使いこなすには相当な時間と労力が必要だからそうなっている。消費と浪費はまちがいられやすいが
消費も生産につながっていることがある。老人は消費できないというとき反面は生産できないということにも通じているのだ。パソコンをやるにしても時間と労力が大変だから買わないという人も多いからである。


●消費が美徳の世代の人の価値観


人類史のなかで「消費が美徳」とかモノ余りを経験した時代はない、モノ不足が常態である。
米が余って捨てるほかないなどという時代を経験していないのである。米をもっと食べてくれとか言っている時代は戦前までないのだ。米は常にたりないのが普通であり米の生産をふやすことが第一であった。米があまり減反政策をするようになるなどありえないことだったのである。
消費ではなく生産に重点が置かれる時代は働くことが大きな価値観になる。働かざるもの食うべからずになる。団塊の世代の親の世代、今の八〇代はそういう世代であり「もったない」の世代であり米粒一つもむだにしない、必ずあまったものを残らず食べている世代である。その人たちは働く一方で消費しない、働くこと自体が生きがいであり消費は生きがいにならない、だから働いても極力消費しない、金は使わずためる一方である。今になり何に金を使うかとなると病気のためとか介護のために金を使う、そこでだまされる老人が多いのである。消費しないのは消費することに価値を認めないからである。それが例え例えば庭作りでもそれが無駄だとなれば絶対に認めないし使わないのである。モノ不足の時代に生まれたから生産が美徳であり貯蓄が美徳の時代なのである。金をいに有効に使うかを知らない世代である。これも人間としては相当にアンバランスであった。

現代はこの八〇才以上の世代の価値観-モノ不足時代の価値観-労働が生産が美徳という価値観が逆転して消費が美徳の時代になったことのギャップが大きくなってしまった。そこから生じた問題はいろいろある。マクロ的にはそもそも地球の資源は限られているのだから消費は美徳として無駄に消費していたら地球の自然は森でも何でも破壊されてしまうということがあり節約、倹約が美徳だとなる。モラルとしても正しいとなる。労働が美徳であり節約、倹約が美徳でありモラルの時代が江戸時代から戦後まもなくまでつづいていた。これは世界的にもそうだろう。モノ不足が常態である。では「消費が美徳」の時代になれば勤労すること生産することは美徳になる、モラルとなる傾向が減少する。つまり働かなくてもこれだけモノがあふれているのだから働かなくてもモノが手に入る、手に入れるべきだとなり若者でも働こうとしない人々がでてきた。それがニ-トとかフリ-タ-とかであった。それが実際は不景気となり正社員としてまともに働けない人たちとなっていたのである。ニ-トとかフリ-タ-とか派遣が働く人にふえたのは最初は消費が美徳の時代に生まれたのだからそうなりやすいのである。働かなくても消費した方がいい、労働は辛いからそんな労働をやめて消費する側に回った方がいいとなる。
アメリカが消費が美徳として極端化したとき、金もない人までカ-ドで消費される、消費が美徳が拡大化して極端化したとき世界的不景気の引き金となった。つまり消費するのにも金が必要である。では金は労働なしで生み出せるのか?ドル紙幣をすればいいじゃないかとなるがそこから富は生まれない、借金からは富は生まれない、富は労働なくして生まれないものである。アメリカがまさに消費が美徳で拡大化して極端化したとき世界的不況となり世界に混乱をもたらしたのである。だからアメリカの罪は大きい、その根底に消費が美徳が拡大化して極端化すると社会のモラルは崩壊して社会そのものが崩壊するのである。だからすべてをアメリカに習ってはいけなかったのである。


●「消費が美徳」から「労働が美徳」へ逆戻りの矛盾


一方で消費するには金が必要である。ところが金は働かない限り入ってこない、つまりいくら消費しようとしても働かない人には金は入ってこない、入ってこないだけではない、社会から社会の敵として脱落者の烙印をおされる。無職は社会の最大の敵として排除され攻撃されているのは豊かな時代でも同じである。不景気の時代になると余計に働かない者は責められる、景気のいいときはかえって少数だったら働かない人がいても世の中そういう変わった人もいるとかで見逃される。社会自体に影響ないからである。でも相当数の人が特に働ける若者が働かないのけしからんとなり責められる、働かない若者は日本にいる資格がない、海外から働く人を入れるべきであり働かない若者は外国に追放すべきだとまでなる。「労働が美徳」の時代がモノ余り「消費が美徳」の時代にに起きている矛盾があるのだ。そして不景気で新しい貧乏の時代になり働いてもたいして金は入ってこないからますます消費が美徳とされても消費できない人々がふえてきたのである。

すでに消費が美徳とされてきた時代も30年-40年と長いのである。でもその間でも労働が美徳、節約、倹約がモラルとしてありつづけていた。だんだん薄れるにしてもありつづけた。それでも消費が美徳ということが圧倒してくる。モノ余りの時代が加速してくるからそうなる。労働という難儀なことより一気に金が入り消費する方が美徳だともなる。そういう風潮が広まり大勢となっているのが現代である。それが極端化してゆくと働くより盗んで消費した方がいいとなる。実際自分でも働くことを否定してきて生きてきた。そもそもの出発点が悪かったのである。最初に労働が底辺労働であり大学卒業して流れ作業ばかりやらされたことが原因だった。それ以来労働することを極度に嫌悪するようになった。流れ作業に労働の歓びを感じることはない、労働で歓びを感じた経験もないのである。それ以来労働しなかった。偶然にそういう環境にあったためでもあり普通はそうならない、労働は嫌でも強制されるのが普通である。


●根本的には労働がすべての価値を作る


根本的には人生は労働なくして存在しえない、労働がすべての価値を作りだしてゆくのであり労働しない人生とか社会などありえないし成り立たないのである。農民が労働しなかったら食料がなくなり飢饉になってしまうだろうし大工が働かなくなったら家にも住めなくなる。労働なくして社会は存在しえない、労働が価値としてすすめられない時代はなかった。それは宗教的でさえもあった。人間社会の根底に労働は常にすすめられてきたのである。労働によってすべての価値は作り出される。労働なくしていかなる価値も作り出せない、土地があっても土地は何も生み出せない、自然に生み出されることはない、そこに人間の労働が加わって価値あるものが生まれる、食料は生産されるのである。だから土地だけもっていて豊になる地主は一時戦前では敵とされた。不公平だとされて農地改革が行われたのである。労働することが権利を獲得することであった。労働しなければいかなる権利も生まれない、得ることもできない、介護でも親族でなくても介護という労働をしてくれた人には権利が生まれる、その人に財産も分与されるのは当然だとなる。いかに親族でも何もしないなら労働しないなら正当な権利は生まれてこないのである。


●「消費が美徳」が拡大化すると道徳は破壊される社会も崩壊する


そもそも労働なくして富が得る方法は泥棒しかない、他者のもの盗む、富者のものを盗む、それは消費が美徳であれば正当化されるのだ。難儀な労働より一気に金が入るのに一番手っとり早いのは相手の富を盗むことなのである。それが犯罪にしても消費が美徳の時代になるとそうなりやすいから万引きとかがふえてくる。モノが余っている、あふれている、でも労働してモノを買うことがめんどうになりこつこつ働いて金にならない不景気の時代は余計にそうなのである。こつこつ時間をかけて働くことが馬鹿らしくなるのだ。80代の人の価値観は消費が美徳の世代になると通用しなくなるのだ。「欲しがりません勝つまでは」とか忍耐するということもない、とにかく今あるものを手っとり早く消費したい、消費したい、欲しい、欲しいとなれば盗むのが一番手っとり早いのである。労働は難儀なものであり否定されるのである。借金して無理やり消費するのも消費が美徳ということが拡大化して極端化すればそうなる。金がなくても稼がなくても借金すればいい、でもその借金は返さねばならないものとなりさらに負担になるのだ。でも安易に借金をするのは消費が美徳ということが社会的に拡大化して極端化するとそうなるのだ。

 

 
急いで得た富は減る、少しづつたくわえる者はそれを増すことができる


はじめに急いで得た資産はその終わりが幸いではない-箴言-20-21


欲の深い人は急いで富を得ようとする、かえって欠乏が自分のところに来ることをしらない
箴言-28-22

急いで富を得ることはできない
http://musubu.sblo.jp/article/41830381.html

 


でも富はそんな簡単に手に入るものでもない、確かに親の遺産とか別な事情で大きな金が入ることはある。それもまた先祖の恩恵でありその人はそれだけの恩恵に欲したのだから責任もあるとなる。無駄に浪費できないものとなる。でも本質的に人間は労働がなければいかなる正当な権利も得られない、あの人は富んでいからといってその富を盗むことは犯罪になる。でも富者の下で働いて財をふやすのは正当でありやがて富者になる権利を労働によって作っているのである。でも一気に富者になりたいとなれば盗むほかないのである。それはいくら貧乏でも犯罪になる。現代はまさに富者になるためには富者の富を一気に奪った方がいい、富者の元で地道に働くなど馬鹿げているという風潮が増大しているのだ。今すぐ金をくれ金をくればかりでありあわてる乞食はもらいが少ないというのが実感である。もっと欲を少なくして少しづつもらうようにしていれば付き合いもつづいたが今お前のもっている金をよこせよこせと性急に要求されて付き合いも絶えてしまった。このことは富者とは別に個人ではなく社会がモノ余りの富者になっているのにいくら働いてもこつこつ働いてもたいしてし金にならないとなればモノを盗む奪った方がいいとなってしまう。それはいくら不公平でも犯罪であり社会のモラルはなくなりただ対立だけの分裂社会になってゆく、労働というとき何かしらそこには金だけではない価値を生み出すのが労働である。人間はいくら働かなくてもいい社会になっても労働がなくなることはない、労働は生きがいであり農民は種をまき手入れして収穫の季節を迎えてその収穫物を自ら食すとき働いたことを無駄だとは思わない、充実感に充たされるのである。いづれにしろ今は「消費が美徳」-「労働が美徳」の矛盾が増大して性急に富を得ようとして根気よく働いて権利を得る、価値を作り出すということができなくなっている。労働が美徳という価値観が減退して消費が美徳ということが常態になり拡大化してゆくときそこにモラルの崩壊から社会の崩壊に向かうことになる。人間の社会がモラル、道徳が基礎にありそのモラルが破壊されることは社会そのものが崩壊することになる。現実の社会は今やそういう非常に危険な水域に入っている。


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この図のように消費が美徳となり拡大化して極端化すると長い時間の労働より短絡的に富を得ようとする。石の上に三年すら耐えることはできない、さらに極端化すると盗むのが一番手っとり早いとなるのだ。

posted by 老鶯 at 23:17| Comment(0) | TrackBack(0) | 経済社会労働問題