2010年09月01日

「政権交代」を目的にした民主党の崩壊


「政権交代」を目的にした民主党の崩壊

 
●操作される世論から判断する疑問
 
民主党は「政権交代」で一致協力できた。異なった相いれない思想の人でも「政権交代」のために一致協力できた。選挙に買ったのも「政権交代」が目的でありその後の政策は二の次だったのである。「政権交代」ができたときその目的は果たされたのだ。しかしそのあとは異なった考え方、政策の集団の集まりでありそれが今露骨な対立となり現れた。それは予測されていたことである。「政権交代」だけでは「政権交代」という目的が実現すれば今度は何を目的にしてわからない。今度は逆に党内の「政権交代」が目的となる。権力争い、主導権争いが目的となり管総理と小沢一派の争いとなる。これも「政権交代」が目的であり政策を実現させるためのものとは違う。政党とは政策を実現するための手段にすぎないというのと権力を得る「政権交代」を目的とすることがダブっている。この世の中自体、ジキルとハイドになっている。政策を実現する、国民の期待に答えるとかなると善人のように見える。管首相は国民に支持されているということで善人に見える。世論調査でも管首相は圧倒的に国民に支持されている。でもこの新聞の世論調査は信用できない、新聞社の意図で操作されているのだ。国民に支持されているというときその国民は何を根拠に支持するのかわかりにくい、マスコミの報道だったり検察は正しいという思い込みがあったりとそうした大きなメデアの権力の操作により国民は小沢を嫌っている。ダ-ティなイメ-ジが作られる。いつも悪役であり悪代官とされている。国民がどうして判断するのか?それは検察とかマスコミとかの判断であり国民自体の判断とは限らない、検察とマスコミの判断が国民支持に通じているのであり国民自体が自主的に判断できるわけがない、世論調査では国民の支持を受けているというのもだから信用できないのである。
 
●「政権交代」を目的にした小沢一派とは袂を分かつ運命に
 
「政権交代」という目的だけ一致協力してきた民主党はいづれ小沢一派と対立する宿命にあり党が割れる運命にあった。そのことは前々から言われてきたが「政権交代」が実現して現実化したのである。つまり「政権交代」だけを目的として政党はそれが実現してしまいばその目的が喪失してばらばらになる。次の目標がなくなる。そこで政党内での「政権交代」権力争いになった。多数派の小沢一派に役職がなく小沢さんはしばらくおとなしくしてくれ、何も言わないでくれとか言われたことに小沢氏だけではなく小沢一派の人々は腸煮えくりたっていた。全く「政権交代」しても政権の埒外に置かれてしまったからだ。数が多くても民主党内で存在意義する喪失しかねない、小沢氏はこうして小沢一派の下からの圧力、突き上げにあった。民主党で一番数が多い派閥なのに役職ももらえないのか?これは自民党時代の派閥的発想であったが人間は政治は特に権力闘争であり権力がなければ何もできない、そのことが自民党を見ればわかる。今まではなんのかんのと言われても政権党であることが最大の強みであり自民党内での政権交代劇が注目されていたのだ。今やその注目は民主党に移った。野党と化した自民党の影が薄い、もう自民党は政権をとれる党とはなりえない、民主党内で「政権交代」に移った。小沢氏が割れても第一民主党と第二民主党ととなり自民党はどちらかに吸収される運命にある。
 
●「政権交代」のあとの目的が民主党にはなかった
 
ともかく明治維新でも薩摩長州が連合できたのも「倒幕」で一致したからであり「政権交代」を目的として一致したからである。でもその後薩摩の西郷隆盛が功績があってもその後の政治の目的が武士階級をなくす四民平等の社会を作るという政策に変わったとき西南戦争になり明治の政権から離脱した。「政権交代」だけを政治の目的とすることはできない、薩摩と長州が「倒幕」で一致協力したように打倒自民党で小沢氏とりこんで民主党が「政権交代」を実現しても「政権交代」自体が政治の目標とはなりえなかったのだ。政策でも白と黒と違っているものが思想でも相いれないものか一致協力できない、それが民主党の争いで露になったのである。

やはり管総理一派と小沢一派は水と油のような面がありそれが自ずと乖離する運命にあったのである。最初から小沢氏が民主党に入ったときからそれは予測されていたのである。 つまり
「政権交代」を大義とすることはできない、いづれそれだけでは破綻する。とにかく小沢氏は政党は政策を自分たちのしたいことを実行する手段であると言うならそれを実行すべきときが来たのだろう。民主党でなくても自分のしたいこと政策を実行できるなら民主党にこだわることはない、でも政策を実現するには「政権交代」が必要である。権力闘争に勝たなければ選挙に勝たなければそれは実現できない、そこにジレンマがある。政治は権力をとることが目的となりやすい、この世の中、何でもその目的のために働くことがない、報道でも出版でも視聴率が第一とされ売れることが第一とされれば過剰な宣伝やらで国民の支持を獲得せねばならない、もはや中味の問題ではない、そういうふうに仕向けねばならない、本末転倒の世界になる。そういう矛盾はいたるところにある。崇高な目的をかがけでも実現できない、でも「政権交代」が目的になるはずがない、目的とすべきは別な所にあった。それが今民主党に問われているし現実化したのである。

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でんでん虫の平和(詩)

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でんでん虫の平和

口から出るものは、心から出て来ます。それは人を汚します。悪い考え、殺人、姦淫、不品行、盗み、偽証、ののしりは心から出て来るからです。これらは、人を汚すものです。
(新約聖書 マタイの福音書 15:10〜20)

平和とは何だろう

平和とは他者を傷つけないこと

なぜ人と人は傷つけあうのか

なぜ人の世界に戦争が絶えないのか

それほどまでに憎しみあうのか

殺し合わねばならないのか

自然界では妄りに命は殺めない

人間だけがなぜこんなに殺し合いまでするのか

平和と何だろう

平和とは他者を傷つけないこと

遠き最果ての地にでんでん虫三匹ほど眠っている

線路が伸びているがしんとして電車はなかなか来ない

でんでん虫は他のものを傷つけることはない

己の平和の中に安らかに眠っている

そこを乱すものは誰もいない

清らかな流れを鮎がさかのぼり

涼しい木陰の淵に身を隠す

湿地帯に菖蒲が咲いている

何ものも乱すものがない

この世は外から汚れるのではない

あなたの口から出るものにより汚される

あなたは口をつつしむことができない

何もしなくてもその口から出るものが汚す

でんでん虫のように安らかに眠ることはできない

善とは悪を成さないこと

積極的に善行することではない

でんでん虫のように人を傷つけない

そこに平和があった

そうした単純なものが平和だった

しんとして北の果てでんでん虫は安らかに眠り入りぬ


 
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海は秋になった


松影の道を走りて夏あざみ


ひまわりや海からの風そよぐかな

幼子にひまわり大きく野の広し

涼しさや浪荒くして飛沫かな

海よりや松に秋風波たちぬ


街の方は今日も暑い、32度くらいあったからむしむしする。でも海の方はかなり秋めいてきた。今日は多少波が荒れて飛沫がかかる。でも夏だからやはり涼しいとなる。でも海の方は風も秋風だった。ひまわりにば海からの風がそよいでいる。山が先に秋が来るということがあったが今年は山も相当暑かった。飯館でも35度を記録していた。ただ山だから夕方になると涼しくなったのだろう。海すら海水温度があがり暑かったのである。海は確かにもう秋である。なんとなくもの淋しいものとなっている。もともとここの海は遊泳禁止となったのだから淋しい海となっていたのである。松原はいいが砂浜はないから遊泳禁止になった。とにかく実際今の二階の室内温度が31度になっている。今年の暑さの特徴は夜も暑いことなのだ。夜になっても涼しくならないのである。まあ、東北は楽になった、でも福島市はやはり35度くらいになっている。海から秋がきて風が涼しくなったから浜通りは福島市よりは温度が下がったのである。

2010年09月02日

秋めく

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涼しさや眠りに入りぬ夜の風

見上げれば秋めく星の二三かな

マンデビラ日々明るし陽ざしかな

台風に季節を感ず余波の風
 
 
昨夜は暑かった。30度を下がらなかった。それで下の方で寝た。二階は暑くなっている。今年の暑さは夜も温度が下がらないことなのだ。これも苦しい。今日は昼までは暑かった。やはり32度とかなっていたからまた暑くなるのかと思ったら午後から台風の風が吹いてきて涼しくなった。台風が風だけでも感じることはやはり秋は近い、というより秋なのだが夏なのである。星をみるとやはり夏の方とは違う、きらめきが秋めいたさやかな星だった。やはり秋が来ているのだが暑さはつづいている。マンデビラは蔓性植物で一杯花をつければ見応えがある。インタ-ネットに写真が出ていた。この花は育てやすいと説明してあった。確かに花が咲きつづけた。これだけ長く咲いている花はなかなかない、花は自分の場合育て方が悪いのかみんな一回かぎりでだめにしているのだ。とにかくこれはアメリカ原産だから大陸的な明るい太陽の下で咲くにふさわしい花である。今年の暑さにはあっていた。
 
こう暑いと秋の花も映えない、ここは32度でも暑い、今年は胃腸の調子もずっと悪いしこの暑さがつづくかぎりすっきりしないだろう。体が弱ってしまった。西の方に住んでいなくてよかった。この体力ではもたないくらいだった。今年の寒さも厳しかった。これも苦しかった。ここはなんとか暑さ寒さは極端にならない、気候的には浜通りは住みやすい、今度の夏には特に感じた。 もし毎年今年のような暑さがつづいたら体の弱い人とか高齢者とかは気候のよいところに移住を考えるかもしれない、暑いさなかに北海道に一時、移住したいと思った。長期滞在できるホテルがインタ-ネットにでていたのである。しかし今やそうした贅沢はできない、自分はそんなこと簡単にできていたがやはり恵まれていたからできたのだとつくづく思った。今やは北海道でも思い出して旅することが旅のつづきになったのである。
 

2010年09月03日

遠い幸せの記憶の無人駅(詩)

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遠い幸せの記憶の無人駅
a happy memorial station in the distance


 

遠い北の果ての無人駅

気ままにぶらりとおりたその駅が

心の中に記憶されていた

線路を歩むもなかなか電車が来ない

でんでん虫が何匹か眠っている

清らかな流れを魚がさかのぼり

木陰の淵に隠れて涼しも

幸せとは何だろう

でんでん虫は互いに傷つけあうことはない

樹々も石もそうである

生き物はみだりに傷つけ合わない

人はなんでこんなに傷つけあうのだろう

殺し合うまで傷つけあうのだろう

北の果ての無人駅

でんでん虫が安らかに眠っている

誰も傷つけることもなく

じっと動かず眠っている


光はしんとして静寂に満ちている


そのでんでん虫と清らかな淵に眠る

魚を乱し驚かすなかれ

揚羽蝶はまた別な花に移り飛び

立葵は真昼間明るく咲いている

旅人はまたいづこかへ去る

そういう自由な日々がなつかしい

思い出は遠い北の果ての無人駅に帰ってゆく

そこにいたことが私の幸せの時と場

私はいつもそこを思い出し慰められる

人よ、そういう幸せの思い出を持つべし

そこを思い出すと幸せに満たされる

何でもないそんな所に幸せがあった

そこにいつも私の思い出は帰ってゆく

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posted by 老鶯 at 13:36| Comment(4) | TrackBack(0) | 詩全般

猛暑で稲の実り早まる

 
陽の落ちて秋の気配や実りかな
 
今日は福島市と同じ35度であり浪江は36度だった。浪江は結構海から離れているから暑いのか、同じ浜通りで磐城は涼しいのは不思議である。ともかく夜も30度とか温度が下がらない、今日一日ク-ラ-の部屋にいた。今日は無風状態であり暑いからいられない、本当に病気になってしまう。実際持病がこの暑さで悪化した。本当に死ぬほどの暑さなのである。ク-ラ-が体に悪いなどと言っていられないと思う。実際に命にかかわっているのだ。まあ、あと一週間くらんが山場だからもうそんなに長くつづかないと思うから多少は楽な気分にはなっている。
陽が落ちて確かに秋の気配を感じた。そして実りは早くなっていることは確かである。
 

猛暑で稲の実り早まる…「刈り遅れ」注意報
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20100903-00000367-yom-bus_all

 
こんなこともなかなか農家でも経験しないことだろう。ベトナム辺りでは稲刈りしている隣で田植えしていた。三毛作まであるから米も質はともかく南国なら三倍もとれることになる。米はやはり南国向きのものだったのだろう。いづれにしろ今年のような気候を経験したことがない。秋だと言っても秋にならない、台風でも高気圧が居すわっているから日本に上陸しない、風の余波だけが吹いてきたのである。百年ぶりの暑さだとなるからこれは異常である。来年もこうした天候がつづくとしたらやはり地球温暖化なのだろうか?人間の活動が文明化が地球温暖化をもたらしたのか?とすれば自業自得だとなる。でも氷河期もあり暑いときも百年とか千年単位ならあったというならまた違っている。人間は百年とか五百年とか千年単位になるとわかりにくくなる。人間がなんとか気候でも想像できるのは百年前くらいまでなのだろう。その前は想像しにくくなる。記録も残っていないからわからないのだ。
 
まあ、とにかく東北はあと何日かが山場ではないか?でも残暑はつづく、30度以上にはなるが今日のような35度とかにはならないだろう。雨がふらないのも不安である。今頃秋雨の季節だったよな、毎日からりと晴れ渡って猛暑なのは季節感覚がなくなってしまった。

2010年09月04日

人格形成と盛衰(経済的豊さ)は一致しない


人格形成と盛衰(経済的豊さ)は一致しない

●人格形成の失敗者の顔

管総理と小沢氏の討論はさておきテレビ時代は今までも良く言われたことだがイメ-ジが先行する。見た目で判断する人がふえる。顔が大写しになるからその人の言うことより政策より顔からの印象でその人となりを判断する。小沢氏はいかにも悪役なのである。どうみても女性からすると怖い顔つきになっている。悪いがヤクザの親分みたいに見えるのだ。女性から人気がないのがわかる。でもそれだけに何かをできるやれる豪腕だとか頼りになるとかみる。それはその人の言っている政策を実行するかどうかではない、まず顔つきからイメ-ジとして判断されるのである。女性の場合は特にイメ-ジから判断するから余計に損だとなる。顔は偽れないものをもっているからどうにもならない、親戚の女性で最初長い間あっていなかったから顔を見てもわからなかった。ところが何十年と合わない間に実際は人格が全く変貌していたのだ。でも外見からわからなかったが今になるとその顔が奇怪なものになっていることがわかった。夫婦の場合は夫婦で顔が作られることがあるようだ。夫婦とも奇怪な顔だったなとつくづく今になると思った。
顔にそれまでの人生が刻印されていた。でもその顔は何を意味しているのかなかなかわからないだろう。あまりにも極端な異常な行動に出たのでその顔も奇怪なものになっていることをまざまざと知ることになった。弱者を踏みつけて平気でいるような顔つきになってしまっていたのである。その夫婦は自分達の異様さを気づいていないだろう。子供も育てているし別に借金しているわけでもない経済的には豊なのだがその夫婦は顔が奇怪な異様な夫婦となっていたのである。

一方下積みで働きづめの60代の女性は中卒だし貧乏なのだがつくづくしっかりしているなと思った。離婚して一人で子供を二人育てたことも影響している。奇怪な顔になった女性はたいして経済的には苦労していない。だから金があるからといってそれがすべての幸不幸を左右するわけではない、あんな顔になったことはやはり金があっても不幸だろう。本人は気づいていないにしろ金があっても人格形成に失敗したとなるからだ。でも外見では金のない人は失敗者にみられてしまうのである。人格的におかしいなという人はいくらでもいる。世間で尊敬されている医者に多いということが問題になった。余りにも持ち上げられすぎてそうなってしまったのだ。どうしたって世間で神様のごとくもちあげれば俺は偉いんだという意識が働き、傲慢になってしまうだろう。するとそういうことは下積みで働いている人より人格形成的にはいい環境でもなかったとなるのだ。もちろんこれも外見上はお医者様は金もあるし世間からも特別尊敬されるしといいことづくめなのだが人格形成的にはいい環境とはいえない、もし人を人とも見ない傲慢な人格になっていたらやはり医者という職業の特殊性が原因しているとなる。あのように崇められる職業はないからだ。人格形成などどうでもいい、金さえあるものが勝ちなんだと世間ではなるにしてもあんな奇怪な顔になるのはやはり悲劇ではなかったか?本人は気づかないにしろなんだかダンテの地獄編の中に実在する人のように思えた。つまり地獄ではそうして人格が歪んだ人々が顔の人がいるのだ。そんなところに行くほかないとしたらやはり人格形成は軽くみることはできない、この世ではそういうことは意識されない逆の現象が起きていても来世では奇怪な人は奇怪な顔の人々が集まっているということになる。夫婦は一連託生だから夫がいい人で妻が悪いとか妻が良くて夫が悪いとかにはなりにくい、二人して人格形成される。その人格形成に失敗すれば二人して地獄に行くようになってしまう。確かに外見上は金持ちでありそうは見えないにしても人格形成は内面的なものとして作られるのであり外見とは一致しないからである。


●人間の盛衰(経済的成功不成功)と善や義や仏の道は違っている

盛衰を以って、人の善悪は沙汰されぬ事なり。盛衰は天然の事なり。善悪は人の道なり。教訓の為には盛衰を以って言ふなり。(山本常朝)
http://wedge.ismedia.jp/articles/-/744

盛衰をもって、人の善悪は判断できない。盛衰というものは時の運である。しかし、善悪は人の道である。あえて教訓のために、善人は栄え、悪人は滅ぶというのである。善人だから金持ちになるということはない、人格が形成されるわけではない、人格者がみな金持ちになるわけではない、これは別なものなのだ。たまたま一致することがあってもこれは別なことなのである。
貧乏でも善の道を実行することが人としての道である。それは金持ちになるかどうかとは別問題である。ただただ金持ちになることを願い金持ちになれば人として成功したのだなる。盛衰は別である。これは国にとってもそうである。盛衰と善を成すことは別のことである。善を成したからアメリカが栄え他の国が衰退するとかならない、盛衰は世界史的にも平等に起こっているからだ。アメリカは日本の戦争に勝ったのは日本に義がない善がないからだとはならない、それはあくまでも盛衰であり善とか義とは関係ない、そのことが今でも錯覚されている。日本は人倫的にまちがった戦争をしたから負けた、当然原爆を落とされてもしかたない国だったとアメリカが言うのは傲慢なことである。戦争の勝敗は時の運もあるし盛衰であり善とか義とは関係ないのである。勝ったから義があったとかなかったとかではない、その時の運もあり国際情勢もありさまざまな要因があり戦争に勝ったものが正しいとはならないのだ。原爆を落としても正しいというのはあまりにも傲慢だったのである。

アメリカにその時盛衰の中の盛がありもし国全体が衰に向かっていたらそうはならない、今アメリカは衰に入り中国が盛に入っているからアメリカの世界覇権がいつまでつづくかはわからない、そういう力関係は世界史的に常に変わっているのだ。奢れるもの久しからずはアメリカにも日本にも起こっているのだ。経済大国だなどと奢っていたが今度は中国人の金持ちの観光客を呼ぶのに必死になっている姿がそうである。これも盛衰であり逆転したのである。盛衰は常に起こっても義とか善から判断はできない、人の道を行うことと善を行うことは一致しないのである。カルト宗教団体などは肝心の仏の道を実行することではない、常に盛衰だけをみている。他人の盛衰だけをみている。あいつは俺たちを批判したから金持ちになれない、病気になったりろくなことはないのだと喜んでいる。でもその内部では同じことが起こっている。盛衰はどこにでもありまねがれない、それと義であり仏の道であり人の道を行うことは全く違ったものである。でも盛衰だけを見て判断する。ご利益だけを得ることを願っている。盛衰がすべてであり盛衰で経済的にご利益があったかどうかですべてが判断されるのだ。人でも国でも会社でも団体でも盛衰だけで語ると見誤る。盛衰と善や義は別物であり一致しないからである。たまたまそうなっていたとしても人倫の道、義や善と盛衰は違ったものなのである。

2010年09月05日

虫の声

 
西日さし電線工事やあざみかな

花のみに寄りて舞い去る夏の蝶

墓のみそ残りてあわれ虫の声

今年の陽差しは暑い、光線がいつもの夏とは違っていた。この光線をまともに受けると顔が痛くなっていた。光線もあんなに暑いと殺人光線にまでなる。こんなに光線の強さを感じた年はないだろう。光線もなんらか地上に達するまでに弱められなかったら危険になってしまうのだろう。薊の季語は春である。何故なら夏だと夏薊となるからだ。西日のさすなかで外で働く人は今年は大変だとつくづく思った。今年の夏だけは良く外で働けると思った。政治家でも良く街頭演説などできるなと感心した。政治家は体力がないとできない、自分は半分病気のようになってしまった。でも今日は31度くらいだから普通の夏だったのだろう。ただ陽差しはやはり強いから外に出ることはなかなかできなかった。
 
マンデビラの花に今日も揚羽がよって去って行った。蝶は花だけを見て去ってゆく、他は眼中にない、その家の人とは関係ないのだ。どこの家にしろ人間であるかぎり汚いものがある。でも蝶は花だけをみてより去ってゆくだけだからいいのである。原町の実家の墓は墓だけで実家はない、墓だけが家がなくなってもしばらく残るのだ。おそらく自分の場合も他でも家や家族がなくなっても墓だけは最後の記念のように残っているのである。墓の意味はそういうところにあったのかもしれない、墓とは家という建物や家族という人間関係が失われてもしばらくは残るものでありそれで昔を偲ぶということがある。ただそうなると無縁化する。でも墓は家ではないから簡単に壊すことができないから困るのである。とにかく人間死んでしまうと生きているときはあれだけなにやかにやとあったものでも虫の声のようにかすかに鳴いているだけになる。どんな人もそれだけはかないのである。どんなに権勢を誇った人でも死んで墓に入ればあとはかすかに虫の声が聞こえるだけになるのだ。

2010年09月06日

無縁社会になった原因(3)


無縁社会になった原因(3)

 
●無縁社会と有縁社会
 
NHKの高齢者の行方不明、無縁社会の続編を放送していた。高齢者の行方不明も家族のつながりうすれた結果として無縁化して行方不明になっても家族すら生きているのか死んでいるのかもわからないとか放置される。そして介護とかなると負担が大きいから小家族になっていると三人くらいの家族だと家族が崩壊してしまうのである。経済的にもその負担に耐えきれない、年金だけがたよりとなり親のめんどうをみていて親が死んだら収入がなくなって死んだの隠して年金をもらっていた。介護のために仕事をやめねばならないというのも悲劇なのだ。これが大家族だったら人手が多いから誰かがめんとをみるということがある。それで働くということが端(ハタ)を楽にするがハタラクだったということなのだ。それは身近で働く人を見ているからそうなった。人間は村とか狭い範囲で生きていたからそうなった。それ故に無縁社会などありえない、有縁社会の中で生きる他なかった。だから前にも書いたように商売するとき村の外部から来る人は特別に神社などで市場を開かせて無縁の場を作ったのである。そういう無縁の場所をつくらねばならない限りよそ者がはいりこめないということ自体いかに有縁の中でしか生きられないかを物語っていたのである。今でも田舎でも町に住むものと村(ざい)に住むものは違っている。村や部落では昔のような強固な連帯はないにしろやはり共同作業があったりして町に住むものとは違った共同がある。それがわずらしいものとなっているのが冠婚葬祭である。毎日新聞をみて死亡欄を見て悔やみに行かねばならないとなる。本当に一週間に一回くらい葬儀に出ているかもしれない、それほど田舎ではそうした冠婚葬祭費が馬鹿にならないのである。
 
●地縁、血縁から脱することは歴史の必然
 
神社などで無縁の場を作り商売させたように村社会では貨幣経済がすべてではない、労働の代価を労働で払うということもあったし共同作業は貨幣経済とは違う。しかし無縁社会になると貨幣経済がグロ-バルに地球の裏側まで広がってしまったから貨幣の力が大きくなり貨幣が神とまでなるような力をもつようになった。貨幣が万能の世界になってしまった。有縁社会でしか生きられない社会であったのが世界的な貨幣経済で物は流通しても人間はその貨幣の一単位のようになりマルクスの言う貨幣により疎外されるという現象がグロ-バル化したのである。そもそも減反政策でも何でもグロ-バル化経済の結果でありそれはとりもなおさず無縁化社会に通じていたのである。貨幣が万能化した世界であり人間も貨幣で売り買いできる労働も売り買いできるマルクスの言う人間疎外がおきた。ただその無縁化によって経済をグロ-バル化することによって今日の豊かさをがもたらされている。そうでなければこんなぜいたくはとてもできない、小さな村の単位の経済だったら豊になることはできなかったのである。狭い有縁社会から無縁社会になるのは必然的なものでもあった。人間の社会は地縁、血縁があるが経済の原理はそうしたものを破ることにより発展してきたからである。それを否定したらよそ者は入ってくるなとなり閉鎖的な鎖国状態であり発展はありえなかったのである。ただ経済というのは今やグロ-バル化に展開しているから制御できない怪物になってしまった。恐慌がまるで天災のように起こる、株価がどうなるのか誰もわからない、人間の手を離れて怪物化したから誰もわからない、天災のように経済もあるとき崩壊するという不安をもつようになった。働く-端を楽にするという範囲をはるかに越えて経済は動いている。経済は否応なく無縁の中で動いているのだ。根底にはそうした大きな歴史的流れがありそれを否定することはむずかしい。みんなが豊になるためにグロ-バル化したのだから否定しがたいわけである。
 
●過去は参考になっても戻ることはできない
 

日本でも江戸時代までは基本的には地縁、血縁社会だった。その基となる生産単位が家族経営とかであり家族が拡大化したようなものが経営体となっていたのである。そして養蚕でもその産業が土地に根ざしていたから土地と結びつき大家族的経営となっていた。それは賃金だけをもらう賃金労働者とも違った側面があった。墓をみると一つの墓の前にいくつも名前だけが書いて埋められている。それはこの家の家族だけではない使用人もかなりいた。使用人も家族の一員のようになり一緒に働いていたゆえに一つの家族のように埋められていたのである。そういう経営体では家族のようになり互いに協力するということがあった。だから働くが端を楽にするということになっていたのである。つまり現代は生活する範囲がグロ-バル化に拡大化しても
物と生活が分離している。そもそもバナナを収穫するにも大変な労働だったと報告している人がいたがバナナを食べている人はそれをみることはできないのである。金を出せば何でも魔法のように手に入るとなる。貨幣の力が神のようになってしまったのである。実際に最近毎日ではないにしろ一時間ばかりお手伝いさんに来て家のことを手伝ってもらったら便利だった。特に料理してもらった時は便利だった。昨日は近くでとれたとれたての野菜のテンプラを料理してもらった。テンプラは料理できないし他にも料理できないものがあり時々料理してもらったので助かった。つくづく労働も金で買える。金があれば逆に無縁化にはならない、なぜなら毎日一時間でも掃除料理をしてくれれば一応様子もみてくれるから孤立化しないのである。こういうことは認知症で家族の介護をしたとき親戚でもしてもらえなかったからこんなこともしてもらえるのかという発見があった。もっと裕福ならお手伝いさんを常時侍らせておくことができるのである。

 
今は近所でも親戚でもましてや遠い親戚など何の役にも立たない、自分の親戚でも東京に住んでいてこっちも介護とかで苦しんでいるのにただ金だけをいくらでも要求してくる。お前は金さえだしていればいんだという要求には誰も答えられない、そこには助け合うということがまるでないのだ。全く一方的に金だけを要求されるのである。そして東京でどんな暮らしをしているかもわからない、そんな人とは協力できない、介護とか福祉は相互的なものであり近くでないとできないということがあった。原町でも車で通いば手間なのでできないということがあったのだ。やはり近くでないと助け合うことが無理なことがあとつくづく思った。近くだということが困ったときは大きなメリットになっているのだ。ヘルパ-とかお手伝いさんなどが頼りにするときそのためには金を払わねばならない、かえって金が縁を結び孤立化を防ぐのである。それだけ貨幣経済社会になったとき昔のような有縁社会に戻ることには無理がある。実際は過去は常にノスタルジックに志向されやすいのである。大家族がいいとしても現実の社会でそれが再生できるかとなるとむずかしい。別な新しい共同性を構築するしかないのである。それがどういうものになるのかは日々の生活の中で模索するほかないのである。ヨ-ロッパでは家族に介護などさせるよりも税金で老人を世話するというとき日本のように地域とか家族がすでに介護とかの負担をする力をがなくなっている。だからこそ社会で負担するほかないから税金が高くなっている。日本では地域だとか家族がめんどうみるのが筋だとかいっても社会自体が変わったとき無理になっているのだ。そういうことは現実にそぐわなくなっているのだ。
 

  

無縁社会となった原因(2)
http://musubu.sblo.jp/article/35507267.html

フィリピンの大家族
http://watami2008.blogspot.com/2010/02/blog-post_03.html

無縁社会における自由・孤独”と“有縁
http://charm.at.webry.info/201002/article_5.html

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ダリヤと蝶

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生き生きと形を変える夏の雲


海風あおられとぶや夏の蝶

また出会う日々の明るさ夏の蝶


この道に行く人まれに松の影ダリヤの映えて揚羽移り飛ぶ


鮮やかにダリヤの花の色々に映えて美し日々の明るさ


 

右田浜は遊泳禁止だし閑散としている。それよりキャンプ場は荒れてしまって草ぼうぼうになってしまった。今日も暑いから昼間は涼しくなろうとして海の方に行ったが海の風も涼しくない、何か暑い、そのなかで右田浜は松影の道がありあそこだけが気持ちいいサイクリングの場の道となっている。今年は暑いから毎日どうしても海の方へ行ってしまう。海からの風が涼しいと思うからである。でも昼間は海の風も涼しくなかった。入道雲がでてきて陽がさえぎられたとき涼しくなった。今年は光線が強いから光がさえぎられないと涼しくなれないのだ。
 

松影の道にはダリヤが色鮮やかに咲いている、外から来る人もまれであり閑散としてしまったが自然はかえって人が行くことまれなところに美しく映える。今年は夏が長い、だから秋の蝶とはいつまでもならない、雲も夏だし蝶も夏だし花も夏なのである。日本では毎日これだけ明るく乾いて陽がさしている天候はなかった。大陸だとこういう明るい陽がつづく、空気もしめぽっく明るくならないのだ。実際に今頃はしとしとと秋雨の季節だったのである。だから写真が良くとれないのである。輪郭がクリア-にならないからだ。ダリヤとかでも南国の花は大陸系の花はこのように毎日からりと晴れるところに鮮やかに映える。季節的にはもう暑いのは嫌なのだが南国系統や大陸系統の花はより美しく透明感のます光の中でその色が映えていることに気づいた。
でも秋という感覚がないから季節感が変になってしまう。秋には秋に映える花があるだ。

 

2010年09月07日

死者への供養も愛がなければつづかない


死者への供養も愛がなければつづかない

 
●愛とは何なのか
 
愛とは何なのか、そもそもわかっている人は少ないと思う。キリストやお釈迦様が説いた愛は普通のものではない、非常に高度な愛であり慈悲であり凡夫には実行しがたいものとしてある。そして愛を愛をというとき愛にはいろいろあるのだ。まず恋愛は愛の内に全く入らない、それはエゴの愛であり宗教的にはどこでも否定されているのだ。肉欲も否定されている。愛とか慈悲はまた家族愛、親子の愛とかとも違う、万人を隣人を愛する愛である。だから宗教的愛は実行されているのを見ること自体知ること自体も世間の中ではありえないほどのものである。人を愛しなさいというとき愛にもいろいろあるから混同しているからである。恋人を愛す、親が子あ愛す親を愛す兄弟を愛すと恩になった人を愛す世話になった良くしてくれた人を愛すというのは普通にある。でも現実そのことすら世間では実行しがたいものとなっている。そしてそうした普通の人間的情を実践できない人は絶対にその上の宗教の説く愛とか慈悲など実践しようがないのだ。例えば誠実に生きろ嘘つくなとか教えられてもそれを実際の生活で実行することは本当にむずかしい。一見簡単なようなことでもモラルを実行をすることは世間を生きるなかではむずかしいのだ。そしてではカルト宗教団体などを見ればわかる、信仰しているのだからそこにいる人たちは愛や慈悲を実践する人たちなのかというと全くそうではない、そうした愛や慈悲を実践できる人は一人もいないのである。会員を増やすとか勢力を拡大化することには熱心でも愛とか慈悲などまるっきりないのである。
 
そもそも人間は普通の親子の愛とか兄弟愛とかそうした愛を実践することすらむずかしくなっている。昨今の高齢者の行方不明問題もそのことを物語っている。普通のモラルさえ実行できない、借金しては返さない人はやはり愛とか慈悲など実践できない、すでに正直でも誠実でもないからだ。「汝の敵を愛せよ」という時、口で言うのは簡単である。現実になると本当にむずかしい。実行不可能になってしまう。しかしそこに本当の愛があった。人間は良くしてもらった人にさえ恩になった人にさえ愛をもてないということがある。忘恩は世の常であるというのも真実である。ただ恩と義理など古いとなるがそれすら実行しないし実行することがむずかしいのだ。十万くらい貸していた人は本当に律儀な人だった。必ず感謝して返していたのである。金を借りて感謝して返している人はまれである。その人は姉が認知症になったときかわいそうだと話相手をしてくれたからやはりそういう恩と義理に厚い人はやはり情ある人だったし今ではまれなのだ。日本人自体すでにそうした恩と義理さえ感じない情のない人が多くなっている。日本人的良さが今やモラル的に喪失したのもそのためである。それを汝を苦しめた人を愛せというのはできないことなのである。愛を愛を気軽に言うことは簡単でも実際は家族や身近な世話になった人でも愛をもつことはむずかしいのだ。実行されていないのである。愛や慈悲を説いている人自体実行できないのが現実なのである。
 
●具体的な愛の例
 
複雑な事情ではあるが実家の祖母にあたる人はものすごく気の強い人でそれで母は実の母の代わりに育てられたのでひどいめにあった話を聞いた。弁当を作ってくれたのだがたまたま残して家にもってきたら「オレの作った弁当は食えないのか」と弁当をぶちまけられてこっぴどくしかられたという、相手はまだ子供なのにその話を聞いてひどいなと思った。母も実の母だったらあんなことしないのになとつくづく回想して言っていた。でもその継母となった女性にも功罪が有りすべてがひどい人ではなかった。それなりに尽くしたところもあった。それだけ気の強い人も晩年は養老院に入り死ぬ間際に目が悪くして盲目となった。そして気が弱くなってしまったのである。その時頼ったのが回りの人であり母しかいなかった。養老院でもそういう強い気性の人だからいじめていたりしていて嫌われていたのである。でも目も見えなくなり回りにも世話になるし最後はどうにもならなくなり母に頼った。母はそれでも進んではないにしろ行ってめんどうみた。そして最後は母にすまねえなと言って感謝して死んでいったのである。養老院で世話になったからと解剖に出すことになっていたので解剖されてのち私の家に骨はもたらされ実家の墓に納骨したのである。これもしかたなしにやったにしろ一つの愛だったのかもしれない、ひどい目にあったけれど最後は自分が弱くなったとき相手にはじめて感謝して死んでいった。強かったらこうはならなかった。
 
愛というのは強い人には通じないということがある。強い人には愛は必要ないし愛が何かもわからないのである。強い人にはもののあわれもわからないのである。俺は一回も病気したことがないような人は弱いということを経験しないから愛もわほからない、愛とは基本的には弱さへの愛だからである。強い人は元気なときは愛を必要としない、必要性も理解しない、でも遂に人生の中でその最後には年老いて誰でも弱さ自覚せざるを得ないのだ。そういうことをまざまざと見たから驚愕した。姉も強い人だったか認知症になり心も体もガタガタになってしまったからだ。最後はどんな強い人も弱さを露呈せざるをえないのである。人間は弱いものだということである。
 
●死者への供養も愛がなければつづかない
 
死者を愛すというとき生前でも愛がない人は死後も愛することはなかなかないだろう。生前と死後は継続してある。ただ生きているときと死んでしまったときの差は余りにも大きいのでとまどうのである。死んだ人を愛するというときもう形もない、返事もない、どこに愛する対象を求めていいかもわからない、墓だけが残っているから墓掃除したり墓参りすることが死者と通じることになるのか?それだけで死者を愛することになるのか?死者は何の返答もない、生きているときいろいろ利益を与えてくれたり具体的なものとしてあった。今や何もない、何の利益も与えてくれない、供養したからといって感謝しているのかどうかもわからない、だから虚しいともなる、でも介護しているときのように負担を与えないから気楽だともなる。死者は何の苦労も負担もかけないからだ。だからかえって死者を愛することは容易な感じもする。ただ手を合わせればいいからだ。でも死者を愛することはやはり愛が必要なのだろう。「汝の敵を愛せよ」というときこれは死者に対してもあてはまる。なかなか死者に対してもできないからである。例えば日本人の墓が戦争した場所にはない、骨はジャングルやアジアのそこかしこ放置さされているだけである。誰も敵であった日本人を弔う気持ちがないからである。むしろなんとか恨みをはらそうとする憎しみの念が延々と伝えられるだけだからである。
 
死んだんだから死んだ人はかわいそうだから弔うというのは日本的心性なのだろう。それは悪いことではない、それは汝の敵を愛せよということに通じているのかもしれない、現実に死者さえ憎んでいる人はいくらでもいる。親でも親族でも憎んでいる人はいる。それも実際に知っているからそれが悪いとも思えない、余りにもひどすぎた親というのがいる。親が仇のようになってしまっている不幸な親子関係もある。子供捨てるということも親にあるだ。自分もそういうことではないが迷惑かけられた兄弟がいてそのことで不満をもっていた。でも死んでしまったのだからそのことにこだわってもしょうがない、やはり死んだ人でも愛すべきだと供養している。死者でも愛せない人には供養もしないだろう。やはり死者にも愛がなければ供養はつづかない、返答は感謝もないにしろ供養も愛の行為だったのである。死者も暗黙の内にみているかもしれない、返事はないにしろいろいろ迷惑かけてすまなかったなとか思っているかもしれない、許してくれとか言っているかもしれない、そうなるとやはり供養せねばならないと思うのである。
 

死者とともに生きる
http://f59.aaa.livedoor.jp/~walkinon/mourning.html

 

死は、あるいは喪失は、終焉を意味しない。
死や喪失を機に、自分のなかに息づき始める物語がある

 
確かに死ですべてが終わったわけではない、人間の物語は延々とつづく、家族の物語もつづく、死んだことにより死んだ人を冷静に見直すということや死者についていろいろ回想して考えること自体、死者は自分の中で生前とは違う新たなものとして息づく、生き始めているということもあったのである。

2010年09月08日

石と菊(お手伝いさんのこと)


手伝いの女(ひと)の今日もまた家にきて庭の石にそい菊の咲くかな



 

我が庭の石によりそい菊の咲く

暑き日は去り秋の雨しとと心静まる

去るべき人は去りてゆくべし

月日はめぐり石と菊は離れず咲きぬ

手伝いの女はまた家に来たりてしばしの間

楚々として不満もなく仕えるは良きことなりしも

今日は24度くらいだから寒いくらいになった。雨もしとしとふった。これから台風の雨がくるのだろう。千葉県の方を通るとするとこの辺は福島県はそんなに影響がないのか?でも雨は局地的にふるらしい。今日は本当に秋が来た。庭の石と菊が映える。お手伝いさんというのは誰でもなれるものだろうか?仕事は家事だからスキルがいらないから誰でもできると思われる。しかしそうでもない、仕事はそうにしてもお手伝いさんの場合、その勤める家と深くかかわる。これが住み込みとなれば家族の一員と同じである。一時間でも家族の中に深く入るからだ。私の家では毎日ではないし本当のお手伝いさんではないがその人となりがかなり問われるのがお手伝いさんかもしれない、なぜならどうしても家族と深くかかわる仕事だからである。ス-パ-のレジのような仕事とは違うからである。家族でもこの女性の性格はとをだとかいろいろ見ているのだ。逆にお手伝いさん自体その家のことが家族のように知ってしまうから家族も見られているのだ。お手伝いさん(執事)テ-マにしたのが最初の小説だったというのわかる。家族と深くかかわるからそうなったのである。
 
例えば食事するにしてもどんなものを食べているかお手伝いさん自体が冷蔵庫を整理したりするからすべてわかってしまう。するとそこでここでは高いうまいものを食べているなとわかってしまい、自分は貧乏だからこんな高いうまいものは食べられないとか強く意識されるのである。そこにどうしても食べ物は日常的だから食い物の恨みは怖いというよう怨嗟の感情が蓄積されることがある。お手伝いさんに関しては主人にもてあそばれたとか若いならそういうことが実際に多かったのだろう。つまりそれほど親しくなりやすいのである。
 
お手伝いさんといってもその家に常時いるのと一時間くらい手伝ってもらうのとは相当違う。それでもやはりお手伝いさんという仕事に興味をもつことは確かである。住まいは相当に差がある。でも食べているものはほとんど同じである。相手もそれほど貧乏ではない、時々自分の家で食べているものをくれてやっている。だから食べているもので怨嗟の感情を生まれることはない、住んでいる所ではどうしても感じてしまうだろう。お手伝いさんでもそうしてあんまり暮らしに差があったら不満が蓄積して働く気力がなくなるだろう。ある会社では社長のみが高いうまいケ-キを食べて安いのは社員に食べさせたとある。これも社員がやる気をなくしてしまうだろう。公務員は、一番うまいものを食べるのが公務員だといつも公務員を批判している。公務員は本当に得にしていることは確かである。それで実際は嫌われているのが公務員なのである。
 
お手伝いさんというのはどういうことなのか自分でわからなっかた。そもそもそんな身分ではなかったからである。ただ一時間ばかり手伝ってもらってお手伝いさんは便利なものだと思いこんなこともできるのかと重宝に思った。お手伝いは若い女性と40代とか60代でもまた違ったものとなる。接し方が違ったものとなる。60代の女性だからあっていたのだろう。下積みの労働が長い女性だからお手伝いさんにあっていたのだろう。お手伝いさんでも誰でもなれるものではない、向き不向きがどんな職業でもある。お手伝いさんは何かできた人でないと人生経験豊かな人でないとできないかもしれない、謙虚に仕えるということはなかなかむずかしいからだ。
 
ともかく去るべき人は去った。信じられない異常な行動をした親戚の女性も公務員の妻だった。あまりにも社会を知らないで高慢になってしまったのだろうか?弱者をふみつけて得意になって反省も何もないということが考えられないのだ。社会的経験に欠けていたのだろう。お手伝いさんのように下積み働いてきたらそうはならないだろう。公務員のおくさんで苦労していなかったからなのだろうか?おうおうにしてそういう例があるからそうかもしれない、でもあそこまでなるのはそれだけではない、夫が妻のなすままであり妻が暴虐的になっていた。それが大きな原因でもあった。誰にもとがめられない、だからそのまま暴走したのかもしれない、でも社会生活していればあんなことをすればどこかでとがめられる。それもなかったのだろうか?ともかく何の苦労もせず金持ちのお嬢さんとかが妻になりその後も苦労もないとするとかえって人格形成には問題がでてくるだろう。一方は下積み生活で人格形成してきたが一方は経済的にも恵まれてしていない、そして夫がふがいないからあのような信じられない人格になったのかもしれない、ただ経済的には恵まれているから誰も失敗者とは外部から見えないのである。
 

「心に青雲」-生活過程について
http://blog.goo.ne.jp/hienkouhou/d/20100903

2010年09月09日

秋の蝉(ようやく秋が・・・)


夏菊やサイクリングに海近し


鶏頭の前畑に映え暮るるかな

部屋こもり秋蝉一つひびく朝

秋の蝉鳴きやむあわれ明日もまたここに鳴くらむ淋しき村かな
 
 
今年の暑さは尋常じゃなかった。体の弱いものや高齢者には死ぬほどの暑さだった。自分はそうとう答えた。大げさではなく持病が悪くなり寿命が縮まった。4月ころから体が悪くなっていた。5月ころから胃腸が悪くなりその後も暑さのためにさらに悪くなり直らなかった。体全体が不調になってしまった。日本の夏は暑くても短いからこれほど体に答えることがなかったのである。
 
今年は季節感まで変わった。あまりに暑かったので秋を感じなくなってしまった。秋は涼しさより別なことで秋を感じていた。今年はあまりに暑いから単に涼しくなったことが季節の変化になったのである。秋風というのを感じない、やっと猛暑が終わり涼しくなったなとつくづく感じるだけなのである。今までの秋風が吹いて秋になるという感じにならない、やっと涼しくなった、ほっとした、なんとか体調も元に戻ってほしいとかなる。今までの秋の感覚とはまるで違っていたのである。今年は外に出ることも陽差しが強くて少なかった。行っても海が涼しいと思い毎日行っていた。今でも夏菊が映えてここは海が近いから他より涼しい。でも海すら今年は暑かったのである。海水温が暑いから海からの風すら涼しくなかったのである。そのために浜通りでも暑かったのである。
 
まあ、昨日今日あたりが秋の気候であり温度である。鶏頭が農家の前畑に映えている。デジカメをもっていかなかったので写真はとれなかったが明日とってみよう。俳句も都会でなかなか上達しないだろう。なぜなら季語を覚えることが環境がないからである。俳句は季語が中心でありこれを覚えるだけで大変なのである。相当に季節に敏感にならないと実感として覚えられないからだ。季節の変化があまり感じられない都会ではだから上達しにくいとなるかもしれない、ともかく猛暑はもうごめんだ、この後遺症はかなりあとまでつづく、死んだ人もいるのだから体が不調になった人も相当いるのではないか?やっぱり還暦を過ぎたとき自分の場合はかなり老化してしまったのである。この年になると秋の蝉がふさわしい年になったのである。
 
朝日より夕日親しく秋の蝉   飯田蛇笏

朝でも一つひびく蝉の声はしんみりとして秋らしいが午後から夕方の方がよりしんみりとしてふさわしいとなる。秋の蝉と短歌の場合は季語を使わないのがいいようだった。秋の蝉が鳴きやがてその声も消えてゆく・・・・それは死を意味しているのだ。

やがて死ぬけしきは見えず蝉の声  芭蕉
 
やがて死ぬ・・・・そういうことがまじかにリアルに感じる。その先が短いように思える。でも芭蕉はなぜそんなに蝉の声にこだわったのだろうか?蛙とびこむ水の音・・・でもそうだが音にこだわった、音に耳をすました詩人だった。それが視覚的な蕪村との大きな相違だったのである。

2010年09月10日

秋の蝉(俳句と短歌の相違)


村淋し鳴きやみがちな秋の蝉


どこにでも空家の増える秋の蝉

秋の蝉鳴きやむあわれ明日もまたここに鳴くらむ淋しき村かな

街道の残れる松や相馬より帰る夕べやかすか虫鳴く


村淋し鳴きやみがちな秋の蝉

秋の蝉鳴きやむあわれ明日もまたここに鳴くらむ淋しき村かな


上は俳句的であり下は短歌的である。これを読むと限界集落とか淋しい村を想像してしまうだろう。別にこの辺の回りの部落であり限界集落のことではない、確かなことは日本全国で空家が増えている。街の回りでもそうだし街中にも空家があるシャッタ-通りは全国にありふれている。ともかく秋らしくなった。この歌もインタ-ネットのあるサイトの俳句がヒントになった。「秋の蝉」で検索するとそれと類似のものからインスピレ-ションを得ることがある。「鳴きやむ」ということがヒントになったのである。インタ-ネットではキ-ワ-ドで分類されるからそこからヒントになることがおうおうにしてある。ただインタ-ネットは何も目的がなく受動的に読んでいると役に立たないのである。
 

参考にしたサイト
http://ameblo.jp/tak418/entry-10042896373.html

 

夕空晴れて秋風吹き
月影落ちて鈴虫鳴く
思へば遠し故郷の空
ああ、我が父母いかにおはす(故郷の空)


夕べの空はまさしくこの歌だった。やっと空も秋らしくなったということである。カバンを相馬の道の駅に忘れてとりにいった。近くだとカバンを忘れてもなくなることはない、ス-パ-とかに何回も忘れたが必ずもどってくる。今回は道の駅だから人のよそからの出入りが激しいからなくなっていたと思ったがあったのである。カ-ドを調べてキクチス-パ-から電話がきたのである。カ-ドから住所や電話番号がわかるのである。相馬市の方に行くときは街道を意識するが原町へ行くときはあまり意識しない、五本松に残っている古い朽ちそうな松が一本あるがあれを見ると意識するくらいである。夕べも晴れたが今日は朝から晴れている。でも暑くない、やっと秋が来た。


 

2010年09月11日

秋風(相馬市の柳)

tamachiaki11.jpg
 
 
道の駅遠くより来て夏の蝶

夏菊や歩道の広し通りかな

蓮の花夕日のさして相馬かな

相馬なれ街道帰るや秋の蝉

秋風に柳そよぐや田町かな

街道の細道あわれ相馬に入りソバナの花のうなだれ咲きぬ

蝉の声街に聞こえず在の方裏山にひびく秋の夕暮
 

   
今日も昼間は暑かったから30度くらいあったから夏だった。だから今は夏菊があっている。だいだい色の夏菊があっている。相馬市の通りは歩道が広く作った。でも歩道を肝心の人があるいているのがまれなのだ。みんな車で素通りだから歩道を広く作っても歩く人は少ないのである。でも歩道を歩けば夕方の風が今なら涼しい、あの通りには蓮の花が咲いていたが散ってしまった。相馬には確かに蓮の花があっていた。城下町だから落ち着いているからだ。
 
今年はただ本当に暑すぎて近くすら行けなかった。原町や相馬でもくることができなかった。行けたのは直通の右田浜だけだった。その他は自転車だと舗装の照り返しやらで暑くて行けなかった。この頃ようやく近くに行けるようになった。今度の暑さでは本当に持病が悪くなり寿命が縮まった。高齢者で死んだ人が500人くらいいたし病気になった人も相当いた。本当に死ぬような暑さだった。秋になったから今度はどこでも遠出できる。
 
相馬市は城下町で柳があっている。イオンのある入り口と田町通りとかほかにも柳がありにあっている。今ようやく秋風に柳がそよいでいて風情がある。蝉の声は街には聞こえず在の方の裏山にひびいている。在とは今では郊外のことである。そこではまだ蝉が集まって鳴いている。町の方では蝉の声は聞こえなくなった。こういうところでも町(街)と在の違いがある。つまり秋の蝉の声を感じるのは在の方であり街(町)ではすでに秋の蝉の声は聞こえないのである。そこに季節の変化も失われるのだ。ましてや大都会では今季節を感じるのはむずかしい。だから俳句作るにしても季語を実感として覚えることがむずかしいから上達しにくいことは確かである。やはり自然にじかに触れないかぎりいいものはできないからだ。
 


 

2010年09月12日

晩夏(道の駅)

 
六地蔵相馬に入るや秋柳

外人と自転車旅行や晩夏かな
 
旧街道からイオンのス-ハ-の相馬市に入るところに柳が垂れてあそこに良く見ないとわからなくなった六地蔵がある。六地蔵は村とかの入り口、境界にあるとするとあそこはちょうど坂を越えたところだからふさわしいとなる。でもあそこに六地蔵があるということはよくよく見ないと気づかない。相馬市は柳がにあっている。原町とは雰囲気が実際はずいぶん違っている。他から来た人はその相違はわかりにくいだろう。
 

相馬の道の駅で荷物を一杯積んだ自転車旅行の若者がいた。一人は外人で二人で旅したらしい。何か晩夏らしい光景だった。相馬の道の駅と原町の道の駅もかなり雰囲気が違う、原町は街の中にあるからだ。相馬は田んぼの中に曲屋風の建物としてあるからそれも違っている。
道の駅は今はやはり欠かせない休息の場所としても欠かせないものとなっている。

 
やっぱり市町村名を合併で変えてしまったけど「原町市」と「相馬市」は違ったものだった。原町市が南相馬市となったとき相馬市に付属するものとして南相馬市になった。確かに他から来た人は相馬をどちらも意識するのだが原町を意識することはない、どちらも同じ相馬なのである。でも地元の人から見ると相馬市と原町市は雰囲気も違っているし成り立ちも違ったものなのである。こうした区別は外からはわかりにくい、そこに住んでみないとわかりにくいのだ。だから原町がひまわりがにあっていたり相馬市だと城跡があり木槿とか柳がにあっている。その雰囲気は相当違っているのだ。

2010年09月13日

秋雨(老いのあわれさ)

aksamehaha1.jpg 
 
我が悲し老いて弱りし母とのみ石にしとしと秋の雨ふる

我が母の記憶うすれる悲しかな虫の音かすか雨のふる音
 
 

昨日今日は本当に秋雨だった。気温23度くらいだと寒いくらいだ。これが秋だった。ただまだあの暑さは忘れることはできない、また30度くらいになるらしい。昨日近くの知人が死んだ。
なんか還暦過ぎると親の代や知人でも死ぬ人がふえてくる。それより自分自身の死も近くなってくる。母も92過ぎた辺りから弱った。ボケてはいないが記憶力や過去のことをわすれがちである。やはり惚け気味になるとまず記憶力がだめになる。まあ、いつ死んでも不思議ではない、あの年になると生きていること自体が楽ではない、老人にとって今年の夏は辛かったろう。老人を嫌う人がいるのは当然である。自分も一緒にいていやになるのだ。息が苦しいのでこっちまで苦しくなる。誰も老人を好きになれない、子供の方がいいにきまっている。でもそこで欠けているのが他人の老人ならいい、では現実に自分の母親や父親だったら老人は嫌だと簡単に言えないのである。老人が嫌だといっても自分の親にそういえるのか?その視点が欠けているのだ。いづれにしろ姉は死にそして母は弱り老い自分も体が悪いといいことがない。

 
ただ不思議なのはこの人間の弱さが俳句や短歌になる。強さはなりにくい、だから強い人は短歌とかは作れないというのも不思議である。あわれ・・・という感覚は日本独特のものだがこれは弱さへの同情なのだろう。訳しようがない日本的な言葉なのである。あわれという感覚が短歌を作らせたのである。人間はどんなに強い人でも最後はあわれなものだとつくづく思った。どんな人も最後は病気になり弱くなり死んでゆくからである。それがあわれなのである。別に弱さを推奨しているのではなく人間はあわれな存在なのである。弱いからいいというのではなくそうならざるをえないのが人間なのである。

2010年09月14日

菊(忠節の花)


石により忠節の菊や今日も見る

 
人間の心の象徴として自然もある。名前でも昔はキクとか節子が一般的にあった。今はほとんどないのもやはり名前を命名することも文化であった。そんなところにも日本の文化が失われてきたのである。名前も何の意味かわからないのが多い。キクならキクのようにありたいというのが普通にあった。キクは極めて日本的な花である。中国に由来しても日本的な花となった。天皇の紋章が菊であるのもそのためである。お菊神社とかは一つの忠節の物語を残した。主君に忠節に仕えるのが勤めとして模範となった。義理とか人情とか忠節などというとさらに古くもはや日本人からふえ古くさいとか言葉自体も死語になりつつある。その意味すらわからなくなっている。言葉も現実から離れれば実体がなくなりその言葉を理解することができなくなる。
 
でもどこの国でも古くから伝えられたモラル(道徳)はある。もしそれがなければ社会生活が成り立たないからだ。モラルが崩壊することは恐ろしいことである。それは別に義理とか人情とか村的小さな社会でのモラルでもそうである。その中で生きるシキタリが必ずある。そんなもの古いというがそういう最低のモラルさえ守られなければ社会は維持できないだろう。今でも夫婦なら夫に忠節に仕えるということになるがそんなもの古い、男女は平等だとかなるがそのためにアメリカで結婚した半数が離婚して日本でも三分の一は離婚している。ひどい夫がいればしかたないにしろ男女が平等だとかフェミニズム的な思想をかかげるとどうしても離婚がふえるのだ。そもそも古い道徳でもそこには深い意味があり継承されるべきものがある。
 
それがわかるのはそんなもの古いと言って新しいものをとり入れようとしたとき簡単には身につかないからだ。明治維新後や戦後がそうであった。今までの日本的なモラルを否定したときではそれに代わって新しいモラルが確立したかと言ったらただ荒廃だけがあった。子殺しや親殺しとかが増えてきた。もはや基本的な人間のモラルさえ維持できずに鬼畜化してゆく人間のおぞましさがあった。それはやはり伝統的なモラルを否定しても新しいモラルを身につけることがいかにむずかしいか物語っているのだ。モラルの無政府状態になってしまっているのが現代の状況なのだろう。共通の拠り所となるものがない、それで宗教でもカルト宗教団体など増えてそんなところしか居場所がない人も増えてくる。雨後の筍のようにそんないかがわしいものがふえたのも昔からのモラルが否定されてもでは新しモラルが作れないからカルト宗教団体にとりこまれるのである。
 
菊は暑い国の花ではない、ドイツに行ったとき、ドイツにも野菊が咲いていてドイツににあう花だと思った。ドイツは寒い地域だからである。菊は静粛であり忠節である。自然を単に美としてだけではなくモラル的なものとして見ることもできる。つまり自然も人間の心の象徴として見るからである。石は誠実で堅実だとか菊は忠節だとか花言葉にもいろいろある。でも石が誠実だとか菊が忠節だとかいうときその人自身がそういう人でなければそういうことを詩にはできない、自分自身にしてもそういう嘘をつかないとか誠実さを実行できないのが人間なのである。もしそうしたモラルを実行できないとしたらやはり石とか菊も心に映えないのである。人間は罪を犯す、それはしかたのないことである。でも悔い改めれば罪は清められるのだ。そうすればまた自然はあなたの心の中に映えてくる。より一層美しく映えてくることもありうる。心が清いものが神を見るだろうというとき心が清くなければ神の作りたもう自然の美は見えないのである。
 
人間はどうしても社会生活の中で自然の美が見えないのは才能より心が清くないからである。三種の神器の鏡は人の心を写すものでありそれ故に神宝となった。単なるものとしてではない、心を見るものとして鏡は畏れられたのである。秋はやはり秋澄むとか水澄むとか真澄の鏡とかがふさわしい季節である。ともかく今年の猛暑は体だけではない心まで甚大な影響を及ぼした。未だに体の調子が本調子ではないし体が弱っていたから余計に衰弱してしまったのだ。秋はやはり心が澄んでくる季節である。菊の花は一番秋にふさわしい花である。

2010年09月15日

小沢氏の敗因は何か (もっと待つべきだった)


小沢氏の敗因は何か  (もっと待つべきだった)


●小沢氏の影で操作する手法が嫌われた
 
今回の小沢氏の敗因は何だったのだろう。二つあったのではないか?一つは小沢氏自身のもっていた問題である。小沢氏は常に表には出ない、裏の実力者として君臨していた。それが今回表にはじめて出てきたことに違和感をもった人が多いだろう。なぜ真の実力者が表に出なかったのか?そして今なぜ表に出てきたのか?実力者であれば最初から先頭切って表に出るべきだ、裏で操るのは汚いとか、その政治的手法が嫌われていた。民主主義はやはり表に出て自らの主張をぶつけあうことにあった。今回は確かに真っ向から主張をぶつけあった。でもこれまでの小沢氏はそうでなかったから違和感があった。管総理の方がオ-プンにやってきたから民主主義を実行していたとなる。そして小沢氏の誤算は自らを過信したこととグル-プの突き上げにあい小沢氏が権力から除外されることの焦り、焦燥感だった。これは小沢氏のグル-プにも権力の中枢から除外される焦りがあり小沢氏を突き上げた。小沢氏もこれでは自分の存在価値も政治的生命もなくなるということであえて影の実力者から表に出たのである。でもそこに誤算があった。まず世論は首相がコロコロ変わるのは良くないということがあった。まだ3カ月でありまた首相が変わるのは良くないということがあった。それも大きな世論の判断となりサポ-タ-票に反映された。それも確かである。やたら政局を混乱するだけで今の時期にするべきではないという世論があったのである。
 
●人間は待つことが一番むずかしい
 
小沢氏はもっと待つべきだったのではないか?どうしても管総理ではゆきづまりあとは小沢氏しかやる人がいないとなったとき出ればこうはならなかった。それは今でも言われているから出番がなくなったわけではないが早すぎた戦いに出て失敗したのではないか?一番印象に残ったのは「最後のご奉公」という言葉であり政治生命を賭けるということであった。これは60代の人だと別に政治の世界だけではない、何かするにもみんな最後になってしまうのである。そこで焦りも当然出てくる。ここで出なければ勝たなければ政治生命も終わりだと焦る、グル-プのつきあげもある。それであと半年とかも待てなくなった。人間はともかく待つことがむずかしい、待つことは精神的に余裕がないとできないのだ。待たずに失敗することはいくらでもある。俳句とか短歌の創作でも60頃になればずっと作っていればどんな人でも上達する、でも20代くらいで一躍有名になりたいのである。何でも功をあせるのが人間なのだ。徳川家康は織田信長とか秀吉とかの天才とは違っていたがただ長生きしたことで権力を手中にできたのである。織田信長も秀吉も死んでただ最後に長生きして生き残ったことで権力を手中にできたのである。歴史で未解決なことむずかしい問題でも時間が解決することがある。その時いくらあせっても解決しないことはある。長い時間の中で解決してゆくものがあるからだ。特に歴史的問題などはなかなかすぐには解決しない、相当に長い時間が必要なのである。
 
●マスコミとか官僚の反発も原因
 
もう一つは世論がマスコミなどにより操作されたことである。これは鈴木宗男の逮捕とかスキャンダルとかまででてきた。なぜこの時期にかとなるとどうしても権力側によって操作された感をぬぐえない、アメリカは小沢氏を嫌っていたからだ。小沢氏のネガティブキャンペ-ンが功を奏した。これは前々からそうであり小沢氏はマスコミに嫌われように操作され続けてきたのである。世論調査がどの新聞でも一致して管総理が圧倒的に有利と伝えた。それでサポ-タ-票は世論はやはり小沢氏に反発しているとかと判断して管氏に入れた。つまりマスコミに操作されてサポ-タ-票は管氏に流れたのである。議員票は五分五分だったから議員は必ずしもマスコミに左右されたものとはなっていない、どうしても鈴木宗男氏逮捕などアメリカと検察は一体化しており官僚とも一体化して働く構造は変わっていないのだ。それはアメリカに日本に敗北したときからそうなっている、その構造を変えることはむずかしい、小沢氏だとそれを変えられるのでアメリカ-官僚-マスコミ-権力側は敵対してくる。管総理も前は政治主導を言っていたが官僚にとりこまれたとかアメリカ側につくようになった。やはり小沢氏が負けた原因は焦りと自らの過信とそしてマスコミや検察や官僚などの圧力だった。ただこれで政治生命が終わったかというとそうでもない、管政権も混乱するからまた最後の出番のチャンスがある。半分の議員票はそれだけの重みをもっている。
 
 
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南相馬市立病院で半年いた姉も死んで二年過ぎる(癒されぬ死別の悲しみ)

 
南相馬市立病院で半年いた姉も死んで二年過ぎる(癒されぬ死別の悲しみ)
 
 
病院に半年ありぬ我が姉を思いば悲し虫の鳴くかな

かたわらに姉の微笑む面影や今は悲しき秋となりにき

病院を我が後にして秋の蝉鳴きつつあわれ我が帰るかな

病院にまた別れあれ悲しきやしばらく行かじ虫の鳴くかな

くりかえす人との別れ秋となり定めなれども癒えぬ悲しみ

一本の松の変わらぬこの道に菊の咲きにつ夕暮れにけり

 
南相馬市立病院に姉は半年いた。21日が命日だからすでに死んでから二年になりつつある。あの病院にいた家に帰りたいと泣いていた。脳卒中で倒れてから病院に入りただ苦しみばかりだった。胃ろうとかなり呻くように泣いていたのであり悲惨だった。今になると毎日付き添ってやれば良かったとも思った。なぜなら死んで永遠に別れるとは思わなかったのである。認知症になったときから脳卒中で倒れて意外と早く死んだがそれまでは体が元気なので死ぬとは思わなかった。認知症になるとやはり脳だけではない体の病気でもあるから平均して四年くらいで死ぬらしい、つまり認知症になったら死が近いということを意識する必要があった。でも個人差があるから簡単に死なない人も多い、姉は思ったより早く死んだ。それで正直助かったという面はあった。介護する人が自分一人しかいなかったからだ。長くつづけられないと思ったからだ。


今になると買い物で六号線を自転車で行くと南相馬市立病院がありそこを見上げるとあそこに姉がいたなと思い悲しくなる。今は自宅で死ぬ人は少ない、病院が最後の場所になりやすいから病院が思い出の場所となりやすいのだ。だから今は病院が実際は相当な大事な場所でもタ-ミナルケアなどをする場とはなっていない、ただ死んだら死体をモノのように手際よく処理したりと死者を悼む場とはなっていない、自宅であれば別だが自宅では治療が大変だからできない人が多い、だから最後は八割以上は病院で死ぬのである。しかし病院は人間の最後の場所としては人間的な場所ではないのが問題なのである。体をみているが最後の死をみとる場所としては機能していない、でも病院で死ぬから遺族も病院が最後の場所として記憶に残ることになる。あそこの病院に半年いたな、もう姉は帰って来ないなとつくづく思う。人間は死別した人なかなか忘れられないのだ。病院は最後は地元に移って死んだのだが実際は半年も南相馬市立病院にいたのだからそこの方が思い出は深いものとして残された。

 
最近わかったことはなぜ施設に入った人が「家に帰りたい」というのか?それは実際に今ある家のことではない、かつて家族団欒した家のことであり今はなくなってしまったのである。つまり元気なときの家族も一緒だった昔にもどりたいということなのだ。例え死んでも死んだ人も一緒にいる家族の元に帰りたいということなのだ。しかし実際はそうした家族はもう死んだりしていないのである。人間はでもやはり愛し合った家族ならなかなか忘れることができない、特に自分は姉には特別に良くしてもらった。いつも自分のかたわらでにこにこ笑っていたのである。自分を見るまなざしは愛に満ちていたのである。複雑にしろそういう人ってなかなか忘れられないのだ。だから秋ともなり思い出して悲しくなった。人間は愛した人愛された人をなかなか忘れられないのだ。その面影が浮かび悲しくなってきた。命日は丁度彼岸であり二一日である。死んでから二年ではまだまだ忘れるには短いのだ。ありありと在りし日の面影が浮かんでくるとき悲しくなってくるのだ。ともかくようやく本格的に秋となりまた感傷的になってしまった。菊は菊畑のことである。
 
 

南相馬市原町の病院に泊まり短歌二十首
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