2010年08月01日

夏の蝶


朝の海波のしぶきて夏燕


サ-ファ-の朝の波にのる夏の蝶

海にまでなお行きにけり鬼百合の咲きて荒波の朝ひびくかな
 
 
鹿島区の右田浜のキャンプ場は廃れた。草茫々で使えない、去年あたりはキャンプする人いたけど今年はいない、でもあの河口に朝に波が打ち寄せて白波がたったときは涼しさを感じた。キャンプ場は火力発電所のある原町区の金沢に移動したのだろう。あそこはきれいにしてあるしキャンプの設備が整っているからである。眺めとしては右田浜もいいのだが設備がないので移ってしまった。サ-ファ-は右田浜でも波乗りしている。今年は朝の内に海の方に行っている。ただこの暑さと胃腸の病気でわかったことはある場所まで自転車で行くことは相当な運動でありそれが体を酷使していたのである。健康なときであれば問題がなかったが今年は春先から運動したあとが体調をくずしていた。暑いからまともに光線をあびると辛い、それと病気が重なって今年の夏は辛い、文字通り酷暑である。ここにきてぐったりと疲れるだけである。
 
やはりこうなると車がいい、遠い所に行くのに暑い陽差しをあびなくても行ける、涼しい場所にも行ける、自転車では電動自転車でも遠い所に行くまでが疲れるのである。ある地点まで行くのに体力の消耗が激しいのである。体力がある内は良かったが病気になったりしたらとても無理になる。そうなると車の方が楽だとなる。車が意外と老人にとっては便利なものになる。体力がなくても好きなところに行けることが便利なのである。ともかく海まで行ける体力があるのはまだいい、遂に近くまでも行けなくなる日が来る、高齢化するということは行動範囲が狭くなってしまうのである。とにかく今年の夏の暑さにはまいった、うんざりした。ク-ラ-あってもこれも何か体に悪い、だから頭を氷で冷やしてじっとしていたり寝ているほかないのである。

2010年08月03日

夏の蝶(原町区へ)

 
夏の蝶隣の庭の広きかな

日陰そう道や黒揚羽舞い飛びぬ

原町の郊外広し夏の雲

ひまわりの咲く家々や原町区

ふうわりと芙蓉の花びら風にゆる


隣の庭は緑の木立が茂り庭が広い、そこに夏の蝶が飛んでくる。庭だけは隣でも木立が茂り広いと隣も気持ちがいいのである。今日は午前中から原町に行った。やはり陽差しがそれなりに強かった。この陽差しを受けると体にこたえる。でもかなりひさしぶりで自転車で走った。この暑さの中自転車で走るのは体力的に限界に来ている。胃腸が悪くなってから余計にそうである。

自転車は老人になると向かなくなる。体にこたえてくる。原町の郊外は広い、原町と相馬市は相当に違った印象を与える。ひまわりが咲いている家が多いのも何か原町的である。それだけ家が多いし街の中の家にもひまわりが咲いているからだろう。今日くらいの暑さはまだいい方のなのだろう。また34度くらいになったらぐったりとして家にじっとしているほかないからだ。
こういう暑さでも前は結構自転車で走っていたけど冷たい水も飲んだりアイスも食べたり普通にしていた。去年までは確かにそうだった。それが今年は全く違っている。病人の生活になってしまったのである。

 

2010年08月04日

ひまわり(上萱から橲原へ)

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涼しさや大木に一日そよぐ風

ひまわりと鬼百合我に向きつ咲く

ひまわりの千輪一斉に我を見る

ひまわりの千輪に目あり我を見る

額紫陽花夕べ青しも山清水

峰々を夕べ仰ぎて時鳥

合歓の花深山に知れず月を見る

ひぐらしや山の高みにひびきあう

御堂一つソバナの花や夕暮れぬ

大男眠るや夏の陽燃えて没る

上萱をおりきてあわれ影深く流る清水の今も清しも

上萱に人の住まずも清水のみ流れて清し我が冷しけり

橲原に夕べ流れのひびきつつ合歓の花咲き山の湯屋あり

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今日は栃窪から塩の道をたどり助の観音を上って上萱から下りてきて帰ってきた。庭の工事などや胃腸の病気などで山の方には三カ月くらい行ってなかったから気持ちよかった。午後から日がかげったのでそのまま電動自転車で山の方に向かった。山の方では合歓の花が盛りだった。途中上真野で小さなひまわりが一杯咲いていた。そのひまわりが何か生き生きしている。目がついて自分をみんなして見ているようだった。

助の観音の手前の清水では顔と頭を冷やした。これは最高に気持ちが良かった。あそこの清水は流れの水より冷たい。そこに額紫陽花が咲いていたのもあっていた。その上萱から橲原渓谷の方におりてきた。滝があり御堂が一つありソバナの花が咲いていた。それから橲原渓谷を下ると流れがひびき夕べ湯屋のあるところで合歓の花が満開に咲いていた。平地では合歓の花は散っているが山の方では満開である。今回は本当にひさしぶりで山の方に行けた。やはり人間健康が第一である。健康がなくなると幸福の基は崩れる。肝心の食事だってまともにできない、夏だったらやはりある程度は冷たいものを飲み夏らしさを味わいたいがそれもできない、胃腸が悪くなったら冷たいものを一気に飲むのは良くない、それは気をつけないと必ず胃腸を悪くすることがわかった。一病息災とかあるから一回病気になると体のことを気をつけるようになる。これも悪いことではないかもしれない、でも神経質になりすぎるのも困るのだ。
ともかく今日は生き返ったような気分だった。

今年は雲が夕方毎日のように変化している。毎日写真をとれば良かったがうまくとれなかった。今日は帰りにとれた。大男が寝ているような雲である。なぜこんなに雲が変化するのか、変容するのか?これは明らかに熱帯地方化した暑さのせいなのだ。暑いから雲がいろいろな形を作っているのだ。熱帯化すると雲でも空でも自然が変化するのだ。
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2010年08月05日

人間の最後から人生を考える


間違いのみ生きにし我や最後には正しきことを語り死ぬべし

人間は間違いが多いし罪を生きるのが人間である。でも人間がどんなつまらない人でも最後は死ぬときは正しきこと、嘘のないこと、真実を語り死ねばその人の生きる価値はあったとなる。
だからどんな人でも最後は大事なのである。でも実際に最後に正しいことを語ろうとしても最後まで語れずに死んでゆく人も多いのだろう。ともかくカルト宗教団体に入っているような人は嘘でぬりかためられている。そこに真実は全くない、組織人間は概してそうである。真実は個々にあるがその個々が抹殺されるから個々の声はないから真実もない、ただ一様な画一的なシュプレヒコ-ルになっているのだ。組織集団化すると人間そのものが非人間化する。このことは上野霄里氏が何度も言っていた。そういう集団に属した人から最後の死ぬときも真実の声は聞くことはできないだろう。そういう人は嘘偽りの中で死ぬのである。何一つ真実はない、自分の言葉がそこから生まれないのだ。人間の最後くらい自分の言葉を語り死んでゆきたいが組織集団に属していればありきたりの決まり文句を言うことしかなく死んでしまのうだろう。ロボットのように死んでゆくのだろう。そこに生きがいがあるのか?生きた価値があるのか?一つの組織の機械としてロボットとして死んでゆく生に意味があったのか?

ともかく人間の最後はその人の一生の何かを語る、間違いのみ罪のみの人生でも最後に真実を語り死ねば大きな意味をもってくるかもしれない、何故なら死をかけて語る言葉は誰であれ重いものである。こういうことはその人が特別優れているとか才能あるとか関係ない、その人がただ自分に正直であるということだけでありそれができないのが人間社会の現実なのである。でも人間は最後そんな嘘偽りのなかで生きて安らかに死ねるものだろうか?やはり最後に真実を語ることによって心も救われる。その時その顔もまともであり正気でありその顔でもって天に上ってゆく、人間は常にその最後を考えることが必要なのである。若いときは人生の最後は先の先で関係ないと思っているがすぐに最後が身近となり最後を生きることになる。そして若いときのことがただ大きな後悔として残ることになる。人間は言われてきたように死という時点から生を考えて生が充実した緊張したものとなる。人間は死ぬからこそ真実を充実した悔いのない生を送りたいと思うのである。

2010年08月06日

失われた郷土の文化(郷土料理-木曽町)


失われた郷土の文化(郷土料理)

一般に漬け物と言いますと塩が付き物なんですが、塩を全く使用しないで作る物もあります。
長野県の木曾地方、王滝、開田、三岳村等で漬けられている「すんき」がそれに該当するそうで、新潟にも「ゆでこみ菜」という似たものがあるそうです。

京都に「すぐき」という漬け物がありますが、すんきの名前はこれから来ているのだろうとのことです
http://ao_zatsu2.at.infoseek.co.jp/write/tuke_26.htm

木曾町に我が一夜泊まりあわれかな塩を使わぬ漬け物ありと

テレビで木曾町の町おこしのことをやっていた。町長は企業誘致より地元の資産を活かして町おこしをするべきだと地元の資産起こしをしていた。その中でスンキという塩を使わない漬け物があることを発見した。これは江戸時代からある古いものである。ここで塩を使わないのは塩が貴重であり塩を使えないからそうした漬け物が生活の知恵で生まれた。必要は発明の母ということになる。企業誘致というと外からくるものでり企業に利がないと他所に移る。永続性がないから地元の資産を活かす町起こしを目指した。地元にしかない変わった祭りを売り物にしているのもそのためである。その土地にはその土地にしかないものが必ずある。でも今はそれを見出すことがむずかしい。地元のことをかえってわからなくなっているからその資産探しをしてるのである。人間はなければないなりに何かを生み出してゆく、旅をしたとき今は地元のことがなかなかわかりにくい、特に大きなホテルなどに泊まったら地元のことなどわかりにくい、観光化しているからまた余計にわかりにくい、つまり江戸時代より今は旅をしても地元のことがわかりにくいのだ。生活も全国共通化しているからどこにいっても同じだとなる。食べ物にしてもそうである。山形には味噌にクルミをまぜた味噌がある。バンケ味噌とかもインタ-ネットにでていた。これは大工さんの親戚が山形であり弁当にもってきて教えてくれた。つまりこういう郷土料理は江戸時代辺りは普通にあったから旅をすれば旅籠でも出されたろう。それが今はない、郷土料理みたいなものは嫁にきた人が土地の郷土料理をもたらしてくることがある。嫁が文化の伝播者になる。ただ江戸時代などだとあまり遠い所の人と結婚しないから同じ様な生活様式になる。現代は普通に遠いところの人と結婚するのが普通となったのである。


郷土料理にしてもそれが失われるのはやはり郷土料理は土地の人が生み出すものだが今はス-パ-で買うことなのである。自分も毎日買い物に行っている。この買い物が今や大変な仕事になっていることがわかった。そして毎日ス-パ-で買うものを探しているのだ。そして買い物の量が多いのである。なぜこんなに買い物があるのかとなる。その中でいいものを探しているのであり自ら作り出すということがないのだ。こういうことからも地元の文化が喪失したといえる。買うということだけでは文化は生まれない、自らないはないなりに知恵をしぼって作り出すのが文化なのである。それが外からス-パ-に行けばなんでもあるとなるとただ消費する文化になる。消費する文化は文化にならない、最近異常に暑いからインドや熱帯地方化したのかと思う。こう暑いといかに涼しくなるとか食欲もないから暑さに適した食事が必要となる。それは沖縄の料理やインドの料理になる。カレ-が発達したのも暑い国だからである。それも環境に適応してそうなったのだ。文化とはみんなそういうものである。日本ではこんな暑い国ではない、東北などでは食事も塩分の濃いものになったのは寒い国だったからである。文化はそうした様々な悪条件のなかで知恵をしぼり作られたものでありそこに意味があったのだ。なんでもありすぎる容易に手に入る時代には文化が育たないというのも皮肉である。


長野県の塩の道は遠大であり日本海から遠い、その塩の道も延々と長いのである。この辺の松川浦から飯館村までの距離とは違う、その中で木曾町とかなると海からの距離が長いから塩もなかなか手に入りにくいから塩の使わない漬け物が生まれた。でもこの漬け物の由来がスンキが実は京都由来だったということ-スグキからきていたということは京都も山国だから塩を使わない漬け物を作った元祖だった。でも京都と長野県が離れているのだからなぜ同じ名前になったのか?京都には塩を使わない漬け物があると誰かが教えたのだろうか?やはり遠くても文化の伝播はあった。文化というとき京都から伝播したのが実に多いのである。だから京都はやはり地本の文化の元祖になっているのだ。

いづれにしろ旅をしても何かその土地のことを知ることがないとその意義がない、今あらゆるものが画一化して土地の特徴がない、その土地のことがわからない、ただ地形だけは変わっていないから地形は特徴あるものとして感じるがその地理や地形がわかることはなかなかむずかしい。地図をみてもわからない、栃には高低があるだ。栃窪から上萱(うえがや)へは相当な高低差がある、その高低差がわかりにくいから一回でもこの高低差を感じればええこんなに高い所だったのか感じれば自分の書いたものでも納得するのだ。他の書いたものでもなかなかその土地の地形はわかりにくい、写真でもほとんどわからないからなかなか理解しにくいのである。
一夜泊まった木曾町の宿は古い宿だった。ホテルではない、今ではあういう古い宿には泊まらないだろう。でもそこでは泊まっただけであり別に泊まっても何かその土地のことを知ることはむびかしい時代である。出される食事も土地のものが出されることはほとんどないからだ。だから旅からその土地のことを知ることは今はむずかしいのである。だから江戸時代の時旅したときは今の人が旅したより多くの体験をしたのである。その土地にしかないものを多くあったのである。今のようにこんなに物流が盛んでないからだ。その土地でしか食べられないものが常にあったのである。

posted by 老鶯 at 07:47| Comment(1) | TrackBack(0) | 時事問題の深層

雲の峰


大木に風のそよぎて雲の峰


雲の峰さらに一段と高くなる

雷鳴りぬ雲の白さや真昼かな

グラジオラス真昼の明るさ色映えぬ

墓所の側今日も一枚病葉散る

夏の蝶町中に出会い真昼かな

打ち水や狭き庭持つ我が仕事
 
 
毎日雲の峰を見ている。もくもく白い雲がわき上がる。今日も暑いから余計に雲が躍動的になっている。熱帯化しているから生物や自然が躍動感にあふれということがある。でも今日は一度くらい昨日より温度が低いからク-ラ-を使わなかった。それでも一日保冷剤で頭を冷やしていたりしているほかない。日中の陽差しを受けると短い距離でも体がばてる。なんとかあと数日でこの猛暑も一段落らしい、それまでのがまんだ。ともかくこれだけ暑いと南国になってる。光が明るい、一段と明るいのだ。乾燥していることもある。光に透明感がある。そこに夏の蝶が飛んでくる。今年は何でも夏らしくなる。南国化しているのだ。今日も33度はあったが昨日は34度から35度はあった。こうなると耐えられなくなる。33度までが限度のように思える。でも37度くらいまでになっているところはもう耐えられない状態である。熱中症になり死人が出てくる。


ただこれだけ暑いと夜と早朝が涼しく天国のように思えるのも不思議だ。地獄の熱から解放されて天国のように思えた。その時なんとか掃除とか書き物とかをした。真昼は何もできない、ただひたすら保冷剤などで冷やしているだけである。どうしたら涼しく過ごせるのか?これだけ暑いとそういう知恵もでてくるしそういう関連のものは売れる。保冷剤はもっと工夫してもいいと思う。小さいし何かもっといいものがあってもいいはずである。これだけ暑さがつづくとそうした関連の品物が開発されるのだろう。でも期間が短いかし予測がつかなかったろう。これからも夏がこんなに暑かったら事前に涼しくなる方法を案出するようになる。やはり体自体を冷やすものが一番いいみたいだ。

 
墓所の側の公園に毎日行っているがあそこが風通しが良く神社には欅の大木がありいつも葉が風にそよいでいる。そして毎日病葉が一枚は散る。何か墓所にあっいる。こう暑いとなかなか遠くには行けない、陽差しが一番の問題である。陽差しをまともに受けると体力を相当消耗するからだ。でもなんとか上萱まで行けたので良かった。あの清水のあるところでもう一度頭から顔から手まで冷-たい水に浸ってみたい、これもやはり熱い中を上ってきたから余計にそう思うのだ。涼しい場所はある。今年は滝なんかに打たれみたくもなる。暑さを吹き飛ばす滝に打たれてみたい、それほど暑いから涼しさを求めるのだ。ただその場で行くのは車がないので行けないのが残念である。
 


 

2010年08月07日

躍動する夏の雲

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若竹に朝風そよぎ夏の雲

若竹に朝風そよぎ夏の蝶

若竹の緑鮮やか夏の空

夏菊や雲わきあがる朝の陽に

夏の雲今日も形を変えるかな

はるかなる海を望みて雲の峰

太平洋のひびきし波や雲の峰

一番星夏の夕空に映えにけり

夏の夜やス-パ-ヒタチ上野へと

空高く蜻蛉(あきつ)一匹飛び来る我が見つけて七日盆かな

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鳥がとまっているように見える
今日も暑かった。ただ3時ころから雲が出てきて太陽が隠れ涼しくなった。今年の暑さは強い陽差しのためなのである。こんなに強い陽差しは今まであまり経験していない、日本は湿気が多いからこんなにからっと晴れない、それが大陸の空のように乾燥している。だから雲が躍動的だし光が一際明るいから写真をとるときれいにとれる。写真をとるにはいい天気なのである。日本ではどうしてもぼやけた写真になりやすいがこんなにからっと晴れて乾燥しているからクリア-に写るのだ。そして毎日雲が変化している。雲が躍動的なのである。竹の写真でもやはり光の関係でくっきりととれている。今年はどこでもいい写真がとれていることはまちがいない、輪郭がはっきりとした写真がとれるのだ。夕方からも今日は昨日より涼しい、涼しいということが普通の夏より一段と気持ちいいのだ。涼しいことが天国のように思えてくる。灼熱地獄から解放された涼しさである。

七日盆だとお手伝いさんに言われて供え物を霊前に備えた。七日盆ということは自分にはわからなかった。一応一周忌はやったから次は余り考えなかった。七日盆は立秋となると空を一人夕方近く見上げていたら蜻蛉(アキツ)が一匹空高く飛んできたのをみた。やはり秋はすでに来ているのだ。後何日かでこの暑さもおさまるのだろう。 明日は朝六時に墓掃除である。暑いから早くなるのもしかたがない、今や家のことをやるのは自分しかない、一部お手伝いさんに手伝ってもらうがほとんど自分でやらねばならない、母はこの暑さで病気のようになり一日寝ているのが多い、他の高齢者もこの暑さにはまいっている。この暑さで死期を早めた人もいたろう。ク-ラ-とかでなんとか暑さをしのいだがク-ラ-はあまり体に良くないから使わない、ともかくあと何日かのしんぼうでありこの暑さも苦しかったがいい体験だった。こんな暑い夏をなかなか体験できないからだ。インドに行ったと同じである。この暑さで自然が一段と躍動したことを感じた。
いいことと悪いことは一緒にくる、いいことばかりはこない、これだけ暑いからこそ躍動した雲の姿を見ることができたのである。

2010年08月08日

躍動する夏の雲(詩)


 

  躍動する夏の雲

躍動する自由奔放なる夏の雲よ

今日も空前面にわきあがる

神のキャンバスは空全体だ

無限大の空がキャンバスだ

夏の雲は思い切りその空に

思いのままの形を作る

地上では向日葵に鬼百合にグラジオウラス

今は盛りと競い咲き真昼の陽ざしが明るい

雲の峰はぐんぐんと高くなり雷が鳴る

神の声のごとくに雷が轟きわたる

かなたには大洋が広がり波がひびく

高く飛翔する鳥よ、太陽が眩い

大空に大洋に轟く雷よ

新たなる力を放て放電せよ

神は力に満ちて衰えを知らじも

灼熱の太陽は神の巨大なエネルギ-なり

そのエネルギ-の尽きることのなし

太陽は燃え盛り雲は躍動し樹林に風はそよぐ

壮大なる大空のキャンバスよ

今日も思いのままに躍動する雲の姿

力に満ちて自由奔放なる夏の雲よ

神の声のごとくに雷が轟きわたる

小さき殻を破れ、大いなるものに触れよ

汲々として世を脱しえざるものよ

大空に轟きわたる神の声を聞け

そは何故に地上に綿々と呻吟したる

人は地上に蟻のごとく生きる

大いなるものの声を聞け

停滞と頽廃を打ち破る雷の轟き聞け

躍動する地球の鼓動を聞け

見よ、あんぐりと口を空けて神は空に眠る

そこから大きな笑いが木霊する

自由奔放なる夏の雲よ

自然のエネルギ-は尽きることがない

神のエネルギ-は尽きることがない

神の声は大空と大洋にひびきわたる

神のエネルギ-に満ちた世界に生きよ

そのエネルギ-は無限大にして尽きることがない

常に新たなる力がそこからわきあがる





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2010年08月10日

夕蝉(お盆のことなど)


夕蝉や興亡ありし田中城跡


七日盆我も年ふる墓掃除

空高く勢い良くも飛び来るあきつ(蜻蛉)一匹秋を告げるも


鹿島駅の近くにある田中城跡はそれなりの興亡があった。意外と駅から近い場所でありそこが湿地帯であり湿地帯が堀のようになり城があったのである。あの辺が湿地帯だったということは鉄道の線路から海に向かった地点は広範囲に湿地帯だったのである。一般的に常磐線でも海に向かっている地帯は湿地帯だったのである。
 
今年はともかく暑すぎる。今日も33度以上あった。結局家に一日中いるほかなかった。陽ざしが強いから出れないのだ。夕方になりかなり涼しくなった。それで田中城跡辺りで夕蝉の鳴く声を聞いたのである。七日盆のことは知らなかったがお盆の飾りつけをする時だという。丁度お盆を前にして墓掃除する時なのである。墓掃除は七日盆にするのが一番いいのである。お盆に掃除するのでは遅いのである。お盆にはみんなきれいになった墓参りをする時である。実家の墓と自分の家の墓の掃除を自分がした。墓掃除も一つの供養なのである。ただ墓掃除は身近に住んでいる人でないとできない、東京とか離れてしまうと掃除もできないから業者に頼むようになったりする。墓はやはり時々見て回り掃除する必要があるのだ。
 
お盆は何なのか?とかテレビで説明していたが仏教に由来していることはわかるが日本では日本的に風習化したのであり必ずしも仏教に由来しても仏教の行事とはいえなくなっている。要するにお盆は死者を年に一回手厚く供養して死者をみんなで偲ぶことなのである。だから悪い風習ではない、だから司会者が言っていたが土地土地によって違った風習があり親戚が墓の前に集まりどんな人がこの墓に埋まっているのか、その死者の履歴を語るという風習があるという。これはいい風習だなと思った。どういう人が埋まっているのかわからないから説明するのはいいことである。

実家の墓については何度も聞いていることがあるが不幸なのは実家の墓は前にも書いたが親戚もみんなばらばらになりもう互いに顔を会わすことがない、一人は確実にそうである。ただ墓参りはする。でも一緒に墓参りすることはないから墓に埋まっている人も悲しんでいるだろう。
先祖のたたりなどない、関係ないなどと言うがあの人は例外だと思った。どんなことしたって先祖の恨みを受けないことはありえないと思った。それほど非道な人だった。そんな人が身近にいたことのショックだった。

 
死者を愛せというがまず生者を愛さない人は死者も愛さない、生前に愛さない人は死んでもやはり愛さないのである。家族でもそうである。親でも生前に放置されているような人は死後も放置されて供養も手厚くはされないのである。それは親子のどっちが原因なのかわからない、でも生者を愛さないものが死者をあいすことはありえない?なぜなら死者を愛すといっても死者はどこにいるかもわからない、余計に愛すということが不確かな存在になっているからだ。死者を愛しても実際は一文の得にもならないからだ。だから死者を愛すことはなかなかむずかしいことである。
 
でも死者は全く何もないものかというとそうでもない、もしそうなら墓参りとか供養してもむなしいとなるだろう。やはり人間は生前でも死後でも誠実に対処することが大事なのである。死者に対しも誠実でありつづける。もちろん生前も誠実でない人は死後はその人が消えてしまうから余計に誠実であり得ることはむずかしくなるのだ。死者はいくら何もないと言っても死者を畏れることはやはり何か死んでもありつづけるものを意識するからそうなるのだ。祟りだと死者から恩恵を受けるとかいうのもそのためである。全く何もなくなってしまったらそんなことがありえないからだ。それは理屈を越えたものとしてあるからお盆の風習はつづいているのである。
 
ともかく早く涼しい秋が来てほしい、もう暑さにはうんざりだ。赤蜻蛉が一匹勢い良く飛んできたのは秋を告げるためだった。でもまだまだ暑さはつづくらしい、今度の暑さだけはまいった、これほどの暑さを経験したことはないだろう。秋が待ち遠しい、頭もぼ-とすると何かを書けなくなる。この夏はそうなっている人が多いだろう。熱中症でこれほど死者が出たと言うの前代未聞だったことでもいかに酷暑だったかわかる。

2010年08月11日

鬼百合(海の方へ)

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夏の蝶二羽舞い入りぬ朝の庭


一直線夏ロ-ドに走る朝燕

朝走る松影涼しロ-ドかな

朝の蝉ひびきて走るロ-ドかな

鬼百合に朝日のさして砂焼ける

鬼百合や若き女の肌を焼く

朝からに海風涼し蜆とり

百輪の鬼百合咲きし散り残るなお多しも燃えて咲くかな
 
 
庭に朝に二羽舞いいる。海の方に行ったが今日も日ざしが強く暑い、平らなところはロ-ドが軽快に風を受けて走るのでいい、右田浜は砂浜が変化して遊泳禁止になっていた。それでキャンプ場も荒れてしまった。あそこは前から石ころだらけになっていた。サ-ファ-だけが10人くらい波乗りしていた。やはり四倉のように砂浜が広くないと海で泳げないと観光客は来ない、右田浜は松原の影が涼しいのと河口があり船の出入りがありそれなりにいい面はあった。


朝涼し白波たちぬ河口かな」あの河口に一瞬波が寄せてきて白波がたったときは涼しさを感じた。今日はしじみとりの人がいて海からの風を受けている。蜆も一般の人はとれなくなった。
漁業権が必要になったからだ。ともかく今日も暑い、明日は台風で一雨欲しい、雨が降っていないから野菜にも影響するからだ。

 
 

2010年08月12日

集団化、組織化、序列化、・・・は人間の業(戦争の原因も)


集団化、組織化、序列化、・・・は人間の業(戦争の原因も)
http://www.musubu.jp/jijimondai40.html#mass(時事問題の深層40へ)

 

「だが、あなたがたは、それではいけません。あなたがたの間で一番偉い人は一番年の若い者のようになりなさい。また、治める人は仕える人のようでありなさい。
食卓に着く人と給仕する者と、どちらが偉いでしょう。むろん、食卓に着く人でしょう。しかしわたしは、あなたがたのうちにあって給仕する者のようにしています。」
<イエス・キリスト 新約聖書 ルカの福音書 22章26節〜27節

 

人間の一番大きな業は人間が集団化、組織化、序列化のなかでしのぎを削ってきたことである。オウム真理教でサリンをまいて一番過激な行動をした人の理由が自分には学歴もないから目立つ行動するために上の人に認めてもらいたいから幹部になりたいからあえて過激な行動した。あんな小さな集団でもいかに上に立ちたいという欲望が強いかわかる。これが異常かと言えばみんな人間社会は上に立つため仕えるのではなく人に仕えさせるために給仕するものではなく給仕させるために一心になり努力を惜しまない、この逆が人間の歴史だったのである。集団化組織化することは宿命的に序列化してヒエラルキ-化することである。このヒエラルキ-という言葉がカトリックの集団から起きてきたことは意味深である。集団化組織化するところでは人間社会はみなそうなる。特に宗教団体とかイデオロギ-化した共産主義団体、国家では粛清は激しくなる。内部での権力闘争、上に立つために内部で殺し合いが平気で行われる。
それはソビエト連邦や毛沢東の文化革命とかで証明されている。何千万粛清されたとまさに内部での戦争があったのである。カンボジアでも悲惨な殺戮が行われ今では骸骨が積み上げられて歴史の証として残されている。

 
その悲惨な人間殺戮の原因が集団化、組織化、序列化によるもので内部にも起因していた。ナチスが起こったのもそうし集団化組織か序列化が原因でありそうした集団では極めて排他的になり他国にその刃を向けてゆく非情な集団と化す。オウム真理教の過激な行動をした人のようにろでに内部で集団化、組織化、序列化するときそうなる宿命にあったのである。その業は余りに深いものであり凄惨な殺戮があった。人間の最大の残酷さはカトリックの宗教裁判にあったように組織化、序列化、ヒエラルキ-化するとき人間は他の集団に非情になれる。その内部に起因して他国への戦争へともなる。上野霄里氏がこの集団化組織化序列化を徹底して批判したことはそこに人間の最も非人間化、非情化して大量殺戮を生んだ原因を読み取ったからである。この集団化組織化序列化から逃れないかぎり真の人間として生きることは不可能だということを自ら実践したのである。そうなるときその人はすでに社会から除外されて存在さえさせられないことなにる。でも集団組織から除外された人にこそ人間の真実があり集団組織化序列化された世界は非人間的なものであり虐殺を生んだことを人間は歴史として認識せねばならない、集団化組織化序列化は人間の業として変わらないから結局また悲惨な歴史の繰り返しになるのだろう。根本的に集団化組織化序列化はこの社会からなくならない、そもそも社会はそういうものである。特にカルト宗教団体はその最たるものでありそこには宗教的なものは全くない、オウム真理教のように組織の上に立つためには殺すこともする。その内部にそうした危険を内在していているから戦争もなくならない、国自体が組織化、序列化の仕組みとして構成されているし社会そのものが集団化組織化序列化ヒエラルキ-化から逃れられない、そこから逃れるようとしたら狂気の人間とされる。ところが狂気だったのはこの集団組織化序列化した方だったのである。狂気的殺戮粛清が歴史的に証明しているからだ。
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2010年08月13日

秋涼(相馬市へ)


秋涼や浜街道の松並木


蓮の花朝開かむ蕾かな

一〇輪ほど風にゆるるや花芙蓉

亡き人の思い出語りお盆には墓所もにぎわい死者も歓ぶ

 
今日は二八度くらいだったから急に涼しくなった。このくらいだと体が楽だ。食欲もわいた。本当に胃腸を悪くしてからまともに腹へることもなかった。今日は腹へってご飯を食べた。今年は胃腸の悪さが長引いた。暑さのためでもあった。相馬市の方へ電動自転車で行っても疲れない、強い陽差しはなく寒いくらいだった。こうだと本当に自転車も気持ちいい、運動するにはこのくらいの温度が一番いいのだ。やはり人間は腹へってご飯がうまいとならないと本当の調子ではない、それが今年は四カ月くらいつづいた。でもまた暑くなってくるのか、暑くなると喉が渇くから水分をとりすぎることもよくない、でもどうしてもそうなる。人間はやはり健康が一番だ。健康であれば悪いことがあってもなっとか乗り切れるということがある。健康でなければ困難はさらに何倍も重くのしかかるのだ。
 
相馬市の堀には蓮が開いていた。かなりの蓮が街中に開くのはいい、睡蓮ではない、蓮だから大きい花である。この蓮も実際はインドがあっていて暑いところに明るい今までのような強い陽差しを受けて咲くにふさわしい花なのである。エジプトでもロ-タスとしてオベリスクに彫刻されている神聖な花である。暑いところの花なのである。だから暑いとき日陰に休み見ているのにふさわしい花なのである。今日のような涼しい秋には逆にあっていない、でも今までのような暑さでは自転車では来ると疲れて大変だったし来れなかった。
 
お盆は日本の季節とマッチして風習化した。七日盆のとき秋を告げるように一匹空高くアキツが飛んできたのもそのためである。゛暑さ寒さも彼岸までというのも確かにお盆になりこれだけ涼しくなったのだから秋が来たのかと思う。ただ今年はこれからも残暑が厳しくなるかもしれない、日本の文化は俳句のように季節と一体化してはぐくまれた。お盆もそうした日本の季節と一体化して風習化したのである。墓地が一年に一度これだけにぎわうのは気分がいい、墓地はいつもなんとなく淋しすぎるからだ。これだけ大勢の人が孫から曾孫から家族一同が墓地にお参りすることはいいことである。母も暑さで一日寝ていたが今日はなんとか墓まで行くことができた。これだけ涼しいとやはり活動しやすくなるのだ。
 

2010年08月16日

涼しさ(飯館へ)

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庭広く前畑つづき芙蓉かな

飯館に夕風涼し石眠る

橲原(じさばら)や木の間に明るし夏の月

森深く夕べ夏の山迫る

飯館に栃の木古りぬ森深く常陰(とこかげ)なして黒揚羽舞ふ

夕風の森にそよぎて涼しかな鳥鳴き眠る山の村かも

 
飯館に午後から行った。午後6時過ぎて27度と道路に表示されていた。ところが南相馬市に帰ったら温度計は32度であり夜まで暑い、昨日も今度は夜が暑くなっている。何しろ今年は相馬の辺も暑い、福島市は盆地で暑いがなぜ海に近い相馬がこんなに暑いのか?磐城の方は2度くらい低くなっているのも不思議である。飯館村は相当に標高が高いから涼しかったのだろう。昼間はやはり暑いのか、夕方になり27度というのは涼しい、今年の暑さは異常である。暑さにはうんざりした。夏ばてでぐったりしてしまう。夏に疲れてしまった。
 
農家の庭は広い、前畑がありそこにゆったりと芙蓉が咲いている。大倉から飯館行く坂道にある栃の木はいかにも古い感じだ。飯館には湧き水とかないし川もないからものたりない、前は大倉から峠を越えたところに細い隠された川があったがこれも道路ができて川が分断されて死んでしまった。ただ飯館は森におおわれて家が隠されているから気持ちいいのである。今年は秋の月にはならない、木の間から見た月は明るい夏の月である。ともかく涼しくならないことには何か書くということもすすまない、暑さの疲れで毎日ぐったりしてしまっている。特に夏が長引けば余計にそうなる。夜まで32度というのは異常な暑さである。今年はどこかに避暑したいとつくづく思ったがそれもできない、本当に自分は自由がなくなった。30年間自由があって今や自由はない、拘束されているだけである。
posted by 老鶯 at 20:34| Comment(1) | TrackBack(1) | 飯館村

2010年08月18日

秋の蝉(やっと涼しくなる)

 
お盆すぎ墓所の淋しく秋の蝉

蔵のある農家やどっしりとカボチャかな

我が庭の石のかたえに菊の咲きようやく秋の来たりけるかな

 
昨夜も暑かった。夜でも30度だった。今年は相馬でも異常に暑かった。海の方でも暑かったというから異常である。海の方は浜風で涼しいからだ。今年は海自体が暑いのかもしれない、浪江で35度であり相馬は33から34はあった。夜まで暑いのが苦しかった。この温度だと何もする気がなくなる。今日はようやく朝から曇り涼しい、30度くらいである。猛暑はこの辺では終わりだろう。お盆は七日盆があり二十盆は先祖を送る日である。この間に一年に一度死者を迎え送る、死者を偲ぶ期間なのである。
 
お盆には都会に出た人が田舎に墓参りにきてにぎわう。でもその後はまた墓所は淋しい場所となる。墓を守るのは地元に生活する人であり遠くにいる人ではない、墓は時々掃除をしたり見ていないといけない、墓はやはり理想的には近くにあり近くで供養するのがふさわしい。先祖と共に生活しているというのが自然なのである。街に住んでいても買い物とか自分も自分の墓の前を毎日通っている。その時手を合わすことが多い、やはり墓も身近にあると自然にそうなるのだ。『生きかわり、死にかわりして、打つ田かな』(村上鬼城)、こうして生活が継続している。先祖の墓もそこにある。そういうのが自然なのである。
 
農家の庭は広くその庭つづきに前畑があり前田があり実りがある。蔵がありなにか落ち着いている。カボチャが道端にごろりとなり芙蓉が風にゆれている。そこに人間的な生活がある。そうした当たり前の風景がやはり人間的であり自然な生活であった。現代はそうした前畑、前田を重んじる生活から遠田へと生活の根拠が変わってくる。遠田でもその村内にあればいいのだがそれが外国まで地球の裏側まで伸びているから違和感が生じる。そうなると感覚的にはもはやとらえられない、食料でもモノだけは運ばれてくる。贅沢できとはいえどうしてもそこには不自然なものを感じてしまうのである。田舎に地元に住むものにとってはお盆は七日盆から掃除からはじまりそのあとの二十日盆まである。しかし都会から墓参りにくる人は二三日で終わるのである。しんみりとした秋の蝉の声を聞くことはない、感じることはないのだ。そこが田舎に地元に住むものとの違いなのだ。
 
ともかくここはようやく涼しくなり秋が来た。関西方面はまだ35度となると最近は熱帯化している。季節感すらなくなっている。地中海産のオレンジがとれるようになったりバナナがなったとか熱帯化してとれるものも変わってくる。植生まで変わってくる。ここもこんてに暑い夏は経験していない、でもやはり東北だからこれからは涼しくなるから助かったのである。

2010年08月19日

秋の蝉(2)


夕蝉や買い物忙し原町に

知られざる墓地また一つ秋の蝉

誰を待つ朝静粛に石と菊

 
夕蝉というときまだ夏である。でも急速に秋の感じになってきた。今日は27度だから快適である。福島市も35度から同じくらいの温度になっていた。ここは福島市と同じではないが福島市のように暑い時があった。福島市が暑くなればここも暑くなったのか?普通は海から風が吹いてくるからそうはなっていない、今日は会津の方が32度とか暑くなっている。前は会津の方は30度くらいだった。福島県でも温度差がある。ともかく浜通りで相馬でこれだけ暑くなるのは経験したことがなかった。
 

前は郷土史研究で墓地を調べていた。また知られない墓地があった。墓地は相馬地域内でも全部調べることはできないだろう。それだけ多いのである。今年は近くでも自転車で行くことがなかった。海の方に行ったが近くすら暑くて行けなかった。それだけ暑かった。自転車はこれだけ暑いと買い物に行くのにも大変だった。ともかく異常な暑さはここでは終わりだろう。
庭の石と菊が似合う、ぴったりと寄り添っている。そこには無駄なものがない、やはり秋は菊がふさわしいのだろう。

 

2010年08月20日

秋の蝉(3)

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盆すぎて我が墓あわれ秋の蝉


秋の蝉余韻の深く年古りぬ

椋鳥の群れに驚く燕かな
 
秋の蝉と墓はあっているのか?毎日自分の墓の前を通っている。墓は日常的に接するものでありお盆にだけ墓参りするだけではない、それで自分の家の近くに墓をうつして60代の人が一週間に一回とか墓参りするようになったとテレビで写していた。それはマンション型の墓であった。都会では家の近くに墓を作るのがむずかしいからだ。盆すぎても地元の人にとって墓はありつづけるのだ。一時的なものとして墓はあるのではない、日常的に生活と一体化して墓もあれば先祖と共に生きることになる。そういうのが理想だが今はなかなかそれができない、秋の蝉というとき今年は秋が来るのかと思った。
 
秋は確かに七日盆に赤蜻蛉が一匹でも飛んできたから動物は秋を知らせた。椋鳥が電線にびっしりとまっているのも秋を告げるのか?燕もあれを見て驚いたろう。今日も28度くらいだから涼しい。夜は布団をかけないと寒いくらいだった。それでもあまりに暑かったから涼しくなっても何かまた暑くなるのではとか暑さを以前として感じてしまうほど今年は暑かった。ここも何度か35度になっていたから暑い、飯館でも35度になっていたし海まで暑くなっていたのだ。極端に暑い所と寒いところには住みたくない、自分は特にからだが弱いからそうである。暑さにも寒さにも弱い、今年はずっと胃腸を悪くしたから余計にそう思うようになった。浜通りは暑くも寒くもない気候的にいい場所だった。こんな暑さを経験したことがない、リタイアした人が住む時考慮すべきは第一に気候なのである。気候的には浜通りは恵まれている。こんな暑さが今後またあるとなると別だがすでに涼しくなったことでも暑さ寒さはほどほとであり住みやすい場所なのである。
 

2010年08月21日

水澄む(急速に秋になる)

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若竹に夏の陽ざしやそよぐ風

手水鉢水の波紋や菊の花

手水鉢客を待ちにつ水澄みぬ
 
急速に秋が来た、今日の沈んでゆく太陽の日ざしは弱い、残暑の陽ざしとも違う。灼熱地獄の夏から急速に早い秋が来た。春と秋が短くなり急速に寒い冬に向かうというのは本当なのかもしれない、こんなに急速に秋になるのもあの暑さを考えると変である。気候が変動しているから今までにないことが起こっているのだろう。水澄みぬ・・・という季語は秋でも秋が深まった時の季語だろう。今の時期の季語ではない、でも何か急速に秋が来てしまっているのだ。この手水鉢は暑いさなかは氷を入れて冷たくして客を迎えたら一興だったと思った。ところが今この手水鉢に手を入れたら水が冷たく感じた。急速に涼しい秋になっている。徐々に秋になるのではない、一転して灼熱の太陽が照りつける夏から秋に一転して変わってしまったのだ。
 
昼間は確かに30度くらいあり夏の陽ざしだった。でも午後からは夕方になると太陽はさらに弱々しい光を放って沈んでいった。西日になっていない、明らかに秋の陽ざしになっている。この変わり方も早いからやはり気候が変わってしまったのだろう。今年のような暑い夏を経験したことがないしこんなに急速に秋が来るのものなのか、何か残暑とは違う、明らかに秋になっているのだ。でも暑いより涼しいのは天国だとあの暑さを経験してからはつくづく思った。これからはもうそんなに暑くはならない、急速に秋に変わり寒い冬が来る?山の気候はそうである。秋が来るのが早い、それと今回はにている。急速に秋が来てしまったのである。
 

2010年08月22日

金持ちと貧乏人


金持ちと貧乏人

 
●金持ちは運命的なのか?(財産はFORTUNE)
 

お手伝いさんというと昔は女中であり家事が機械化されていないから掃除、洗濯、料理とかそれ自体が大きな仕事ととなっていた。ヨ-ロッパでも「洗濯女」という商売が成り立っていたから洗濯は一仕事であり洗濯専用の仕事があったのである。洗濯は主に川でしていた。だからセ-ヌ川で大勢の女性が選択している絵が残っている。もともと人間の歴史が始まって以来、召使とか手伝いする人は存在した。人間の歴史をマルクスが階級制から解きあかしたのもそれだけ人間の歴史はすでに上にたつものと下で働くものに別れていたのである。その階級制の起源はやはり財も持つものと持たざるものに必ず別れることなのだ。なぜ財を持つものと持たざるものに別れるのかそこにはいろいろな要因がある。技術的な要因もある。一早く先進の技術をとり入れた国は豊になる。そういう大きな側面からの考察ではなく個々の家でも豊かな家、財を築く家と築けない家がある。そもそもなぜこの世には貧乏な家と金持ちの家があるのだろうか?
その疑問も実際は解けていない、金持ちの家の人はなぜ自分は金持ちなのだろうかなどと考えない、貧乏な人はなぜ自分は貧乏なのかと絶えず考えている。そもそもなぜその家が財を築き豊になっているのか?それにはそれなりの理由があるだろう。ただ幸運だけでそうなったのか?やはりその家の積み重ねられた努力もあった。

 
ただ昔から財はfortune(運命)だから運が作用しているというのも確かである。いくら真面目に努力しても財を築けない人はいくらでもいる。努力しなくても運で財がある時入ってくることがある。道路工事や公共事業の住宅工事でこの辺では家など建てる金がなかった人が土地も与えられ家が建てられた。何千万という金が市からもらえたからである。これは運というほかない、他でも火力発電所ができたとき漁業権で億の金をもらったとかで近くの呉服屋が高価な着物を売れたとかある。大きな金は必ずしも努力しても入ってこない、親が死んで財産相続で大金が入ったりと運が良く大金が入るのが多い。その人の努力とは関係ないのである。なぜ金持ちと貧乏人がいるのか?その疑問は解けていないからインドではまさに運命だとなり前世の宿縁だとなりカ-スト制が生まれたのである。つまり洗濯する職業の家は代々洗濯を仕事として他に仕事を持てないとまでなっている。それは運命だから受け入れざるをえないとなる。そういう人たちは金持階級の暮らしを羨む時、前世の宿縁であり運命だからあきらめるほかないと納得する。もしそれに納得しないなら中国やロシアやその他の共産主義国家のように革命を金持ち階級、資本家を倒して財を奪いとなる。
 
●成功しなかったマルクスの階級制の否定
 
なぜこのこの世に金持ちと貧乏人がいるのか?その疑問は解けていない、それを運命論的なものとして受け入れのを拒否して階級制を打破して金持ちも貧乏人もない理想国家を作ろうとしたのがソビエト連邦であり中国であった。しかしその試みは失敗した。カンボジアなどでもかえって何百万人もが粛清されたことでもその試みは失敗したのである。中国では経済発展が著しく豊になったが貧富の差は日本では考えられないものになっている。その差があまりにも大きすぎるのである。平等を目指した共産革命がこれだけの貧富の差を生み出したことが皮肉である。共産党幹部は大金持ちになりまだまだ膨大な貧民が中国にいる。共産革命がこれだけの貧富の差を作り出していることでもわかるようにいかに貧富の差を解消することがむずかしいかわかる。だから中国では金持ちになるものは先に金持ちになりあとにその金持ちにつづけとなった。その思想は的を得ているのだ。誰もが一気に金持ちに離れない、一部のものが金持ちになりつづいてみんなが金持ちになって行く。その方法が正しい方法であり金持ちを倒してその財を奪うというやり方はまちがっていたのである。
 
相馬地方でも飢饉で人口が3分の一になったとき越中などから移民を募集した。その移民は最初は草分けというその土地の旧家の下で働いた。最初は悪条件の下で働かされたが徐々にその努力が実り豊になって土地に根を下ろすようになった。こういうやりかたが豊になる方法であり最初から貧富の差があるからと言って財産あるものを否定して奪って豊になれというのはまちがっている。財産は資産はその家の代々の努力によって築かれた場合であるのが普通である。幸運だけでは財産は築けないのだ。一代で財産を築くのは無理だろう。何代も家が続けばどんな貧しい家でも家を買ったりと財産をもてるのである。
 
●不遇な人、貧乏人は不満を言っても解決にならない
 
この世には不遇な人や貧乏な人はいくらでもいるし人間の歴史が始まって以来そういう問題は生じていた。それでマルクスの階級制の否定の歴史理論が生まれた。でもそれは実際に社会に適応したとき失敗した理由はそれが実際の社会を生きるものにとって不具合であり適さないからそうなったのである。豊になるにはまず相馬に移民した人のように草分けの旧家の下で地道に働く他なかった。それはヨ-ロッパでも同じである。パリの革命のように一気に貴族階級を倒してしまい、貴族を抹殺してしまいとなった結果、悲惨な殺戮の世界になってしまった。それでみんなが金持ちになれるわけではなかった。そういう革命は無理があり社会的に大混乱をもたらす、一部に今でも官僚の天下りとか批判すべきものがある。それは王政社会にもあった。
 
ただでは貴族を金持ち階級を否定して抹殺してみんな金持ちになれるかとなるとそうはならなかったのである。個々の問題としても不遇な人がいる。なぜそんなに不遇の星の下に生まれたのかと思う人もいる。ではその不遇な人が恵まれた人を羨みその不遇が解決するのかとなるとしない、むしろその不遇を運命的なものとしてとらえ金持ちの人、恵まれた人を羨むだけではなく地道に努力していればその人もやがて財を築くのである。不遇な人は貧乏な人は他者を羨みその不遇をいくら嘆いても解決しないのである。かえって悪い方向に向かってしまうのだ。不遇でありさらに不遇にしてしまうのである。そういう人はその原因をその運命に社会の不平等とか外部に求めていることが多いのである。確かにそういう側面はあったとしてもやはり自分自身にも不遇を産む原因を作っていることが見逃されているのだ。個々によって事情が違うにしろ文句ばかり不満ばかり他者に社会にぶつけても解決にならないのだ。お前は恵まれたからそんな呑気なことを言っていられるのだというのも一理ある。それは否定しない、でも不遇だった人がどうしてさらに不運を招いたのかは不遇の星の下に生まれたからではない、その人がさらに不運を招きよせたのである。
 
●お手伝いさん召使の仕事
 
台所に菊の香満ちる手伝う女(ひと)
 
そもそも金持ちでないからお手伝いさんとか召使がどういう仕事なのか庶民では知る人は少ない、たまたまお手伝いさんというのを家でわずかの時間でも働いてもらってこういう仕事もあるのかと思った。なかなか仕事に対して理解をすることをむずかしい。仕事の苦労はわかりにくいのだ。よそからみていれば重労働でもそれを見ている人は感じないのである。そこに人間の弱点がある。他人が苦しんでいてもその苦しみはわかりにくいのだ。だから傍観的になってしまうのだ。でも一度介護とか認知症の介護とかしてみれば大変だなと身をもって経験するから同情できるようになる。それまでは人の仕事の苦労はわからないのである。ただ昔なら働くが(端を楽にする)からきていたように身近で働く姿を見ていたから理解した。今は身近で子供でも働く姿を見ていないから余計にわかりにくいのだ。お手伝いさん、召使はその家と深くかかわる。その家の一員のようにまでなってしまう。住み込みになればそうである。仏壇に菊の花を捧げる時、その菊の花が台所に満ちてくる。そのことはその家の先祖とも深くかかわっていることなのだ。
ともかく人類の仕事で昔からお手伝いさん召使の仕事はあったし家事が機械化されないとき女性の仕事としても男性でもそうなっていた。それだけ働く場としてあったのである。武士の家でも相当数の家来をかかえておりその中には女中や召使も多かった。それだけ家事が大きな仕事だったのである。戦前までも女中の仕事の需要があった。母が東京に出て女中になった。女中が嫌だったかというと嫌とは言っていない、住み込みで食事も出されるし何より給料もらえるから良かったと言っている。女中は結構当時ではいい仕事だったし需要があった。だから女中とかお手伝いさんは卑しい仕事とはならない、その家と深くかかわる工場とか会社とかで働くのとはまた違ったものなのである。
ただ今のお手伝いさんはまた役割的には昔と違っている。介護関係でヘルパ-などが家に入ってくるとき庶民でも家の中で他人に働いてもらうことがどういうことなのかみんな考えるようになるのである。このお手伝いさんにしても女中にしてもその家で仕事するとき身の不遇や不満ばかり言っていたら勤まらないだろう。むしろその家に忠実に仕えて富を分けてもらうとか富にあづかるとかしようとするなら勤まる。不遇、不満ばかり言っていたらどんな仕事も勤まらない、そして地道に努力していれば報いられる時がくるだろう。
そこにfortune(運、財産)も味方するだろう。それを金持ちを否定してその財を奪って豊になるのが豊になる道だというのは無理があり失敗する。財産はfortuneだとしても運だけでは財産は得られない、確かに生まれつき努力しなくても大金持ちの家に生まれる人はいる。それこそ運なのだけどその財を他者のために運用しないものはその財も消失しやすい、運命的なものが財でもその運用は勝手にしていいものではない、そもそも財そのものが共有的なものであり個人のものではないからである。財はとても一個人の努力ではできない、みんなの協力がなければできない、大金持ちがいたとしてもそれはみんな努力してくれた結果なのである。一個人でお金持ちになることはありえないのである。自分のことを言えば自分は別に金持ちでもないしお手伝いさん雇えるような金もない、ただちょっとだけお手伝いさんに家で仕事してもらったのでその感じたことを書いたのである。現実今や介護などで自分自身がここ5年くらいは今や家のお手伝いさんであり給仕である。だから金持ちの家とは全く違うのであることを考慮してください。
posted by 老鶯 at 12:20| Comment(1) | TrackBack(0) | 経済社会労働問題

残暑(炎天下を歩む山頭火の記憶)

 
若竹に残暑の太陽眩しかな

ピアノの音日陰にもれて街の中

海の方へ烏帰るや夏の月
 

昨日は涼しいから早い秋が来たのかと書いた。今日は残暑が厳しい、今も30度くらいある。福島市が暑いときはここも暑い、福島市が盆地で35度になっていたからここも32度から33度になっていた。こうなるとク-ラ-なしではいられない、やはり今年は暑さがまだつづくのか、それとも昨日のように急速に秋が来るのか、天気予報ではまだまだ残暑がつづくとあったから昨日のような涼しさはないのだろう。夜まで暑いから月も夏の月である。なぜ烏が海の方へ群れをなして帰っていった。普通は山の方に帰るのだが暑いから海の方へ向かったのか?海の方は風が涼しいからだ。そこまで動物も感じて行動しているのかわからない、若竹は清々しい、若竹というとやはり高校野球を連想した。高校生の若々しさが若竹にふさわしい。あの暑さであれだけの運動をできるのも高校生だからである。人間の体力のピ-クは高校生から大学生から25才くらいまでだろう。その頃から老化がはじまり30才になると人間の体力は下降線をたどるだけなのである。自分の場合は老成していたから30才で老人に見えていた。今老人になったが今の姿とたいして変わらない、それからこの年まで生きたのはやはりその後は楽に生きたからである。
この体力ではとても過酷な環境では生きられなかったことはまちがいない。山頭火もあれだけ過酷な旅をして60才で死んでいる。もっと楽をしていればあれだけの旅する体力があったのだからもっと生きていたことはまちがいない、ただその頃は一般的に寿命が短いから短命だったとはいえいない。


炎天下山頭火歩む大地かな
 

旅人というときその俳句の善し悪しは別として山頭火で旅人は消えた。江戸時代までは歩いていたのだから旅人となりやすい、山頭火の時代も汽車があっても歩くということが主流だった。
山頭火の凄いのは俳句を作ったというよりあれだけ歩いて旅したということが驚異的なのである。歩く旅人の最後の人である。今ではあのように歩く旅はできない、していたとしても一部分でありどうしても車が多いから歩くことが様にならない、絵にならないのだ。それだけ歩くということが日常から消えてしまった異様さを人々は気づいていないのである。

 
炎天下山頭火歩むひたすらにその影濃くも大地に刻まる

炎天下山頭火歩む草鞋はき踏みしむ大地忘れざるかな

 
人間は歩いてこそその大地をしることができる。歩くからこそその大地にその記憶も残される。山頭火の魅力はまさに歩いて旅したことにあったのだ。彼が歩いているということをイメ-ジするだけで何か人間としての力強さを感じてしまうのだ。その旅はあまりにも過酷だった。水を求めて炎天下を彷徨っていたのである。今なら自動販売機でどこでもジュ-スを飲んでいる。彼はただ水を求めていたのである。水を得るだけでも大変だったということである。ただ今年のような炎天下だったら歩けない、死んでしまうだろう。ちょっと自転車で出かけただけでぐったり疲れた。ともかく山頭火の体力には感嘆する。今になって彼の歩く姿が鮮明にイメ-ジされる。イメ-ジのなかで山頭火とともに歩く旅をするのもいい、その俳句よりそうして延々と旅し続けたことに今になると魅力を感じるのである。そうして今の時代を考えるとき電車は車は便利でも記憶に大地に記憶されることも少ない、車はやはり大地から離脱する乗り物であり人間的なものを喪失してしまうのである。文明が発達して便利になればなるほど体験も浅薄なものとなってしまうのは皮肉である。やはり人間は大地を踏みしめ歩くとき感じるものと車で通りすぎるのでは余りにも違いすぎるのだ。車から山頭火のような大地に刻まれた記憶は残らない、一歩一歩大地を踏みしめ歩いたからこそ今になり人々の忘れられない心象として刻まれるようになったのである。
一歩一歩歩む記憶や炎天下
 

2010年08月23日

ひまわり(原ノ町機関区)

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ひまわりや電車のひびき原ノ町


大館に我が泊まりけり目覚むれば汽笛のひびく冬の朝かな

非電化時代の平−仙台間の機関車基地は、平機関区と仙台機関区だったけど(旅客列車)、 両機関区とも17線を有する大扇形庫をもっていたのに対し、
区間の中間に位置する原ノ町機関区は、3線の矩形庫だったんだよね。
貨物の中継機関区としてD51が12両配置されていた中規模機関区だったから、平は仙台より
だいぶ見劣りするけど、それでも大館や新庄の矩形庫とほぼ同規模だったんだよね。

平駅は大きかった。大館も花輪線などが交わり鉄路が多く交わっている。何本の鉄路がある。それと比べると原ノ町駅は小さいが機関区でありにぎわっていた。相馬市は古い城下町としてあったが明治維新後いち早く近代化したのが原町でありその象徴が東洋一の巨大な無線塔だった。今でも相馬市と原町は度々書いてきたように雰囲気が違う。商店街はさびれても原町は広い原があり郊外に街が広がっている。相馬市はやはり城下町でありもの寂びた感じになる。街には狭い地域でもそれぞれ特徴がある。歴史があるからだ。ただ外から見たらそういう違いはわかりにくい、原町が機関区だったということは鉄道マニアだったら知っているからそこは見ている。ひまわりがにあうのが原町だというときやはりそうした一早く近代化した歴史が反映しているためだろう。そのひまわりは実際に駅から少し離れた踏み切り近くに咲いている。そのひまわりも実に見上げるほど大きいのである。原町にはひまわりがにあっているのだ。相馬市は城下町であり近くに農家があり木槿が咲いたりしているからまたにあう花は違ってくる。こういう街の個性はわかりにくい、大館は大きな駅だからわかりやすい、でも原町はそれほどでもないから普通は見過ごしてしまうだろう。あの無線塔でもあれば注目するがそうしたものもないからよそからの人は何もない街だとして通りすぎて行く。

60過ぎたら何であれ旅であれ仕事であれただ回想することが仕事になる。でも人間の記憶はあいまいなのだ。記憶をたどる旅をしてきたが人間は忘れやすいから思い出せなくなるのだ。
人間の記憶は30くらいまでは良く覚えているがそのあとはうろ覚えとなり何か印象が薄くなる。
人生で記憶されるのは30代まででありあとは明確に記憶されない、30代までにいい記憶を思い出を残した人はあとで回想して幸福感にひたれる。自分の場合は自分のふがいなさでいいことがなかった。あとの30年は旅に費やされたがその記憶をたどろうとしているが忘れてしまっていることが多いのだ。電車とか車とか利用した旅はやはり記憶に残りにくい、山頭火のように歩いた旅なら一つ一つが記憶され鮮明に蘇るかもしれない、その旅の記憶を今の人が読んでその過酷なある旅をたどることができるのだ。車だったらただ騒音の中にかき消されて記憶されない、大地に記憶されない、ただ消えてしまうだけである。だから文明として車社会の恩恵も大きかったが何か記憶に残すという点では車社会は残さない、ただ膨大な車が走り去って何も残さなかったとなる。