2010年07月01日

車輪梅

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この写真はぼやけて失敗した。


老鶯にかぼちゃの花や朝の畑


車輪梅ハマヒルガオのともに咲き朝の海面の光り眩しき

夏の朝光まぶしき一艘の漁船行くかな鳥さえづりぬ

車輪梅は南相馬市の鹿島区が南限の地になっている。今日は朝晴れて一面に咲いていた。
でも写真撮影には失敗した。漁船が一艘まじかに見えた。門の工事を軽くできると思ったら工事は簡単にできない、実際に施工して現場で作業をはじめるのと頭で思い描くのは必ず違ってくる。技術的にできないとかいろいろ制約があったりしてむずかしいのだ。普通なら無難に今まで作ってきた門の形式にすれば良かったが変わった門になたので余計そうだった。大工さんはこの辺ではめずらしく創造を好む人であり何か自分のアイデアで庭でも作りたい、やはり庭師には特にその思いが強い。庭師が芸術家だから自分の芸術作品として庭を造りたいのである。もちろん客の好みにあわせて作ることが第一だが客も良く工事のことについてわからないから庭師の設計することや支持に従うことも多くなるのが庭や家作りでもある。庭師とか職人でも昔は金持ちで長い時間かけて自由に作らせたから腕を磨けたというのは本当だろう。

芸術には芸術家だけではやれないところがある。誰かが職人でも芸術家の才能を活かしてくれなければ新しい作品は生まれないのである。地方ではこった庭作りをする人はあまりない、だから芸術的センスを職人技を磨く機会もなく才能が埋もれるということがある。そもそも人間の才能は多様であり実際はそんな才能を引き出してくれる人は少ない、それで才能は埋もれて花開かず終わったのが多いのである。自分もやっとインタ-ネットで表現できたがインタ-ネットがなかったら埋もれて終わったのである。芸術にはそういうことが非常に多いのである。
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これは一つの鉢に二色の百合の花が咲いた。最初は赤だった。次に黄色だった。
二色が咲いたから得だったとなる


 

2010年07月02日

エデンの園の木の実


エデンの園の木の実

 
 

のろのろ道をよぎるのはでんでん虫

大きな桑の木陰に休む

そしてほうばる桑の実は美味

それはマナでありエデンの園 の食料

風は涼しくそよぎ平和な日々

なお知られざる庭園の小道の花を愛でる

美しい尾長が飛んで来る

禍と労苦の日々はそこにない

罪はまだそこに生まれていない

揚羽蝶が空高く舞い上がり

その美しい紋を披露する

立葵が陽ざしを一杯に受けて咲き

蜂を蜜を探して盛んに羽をうならせる

夏の日に様々な命がよみがえる

私の仕事はただ木陰に休むこと

エデンの園に甘美な実は豊富である

尽きることなく労苦なく与えられる

うっとりと大きな花は憂いなく咲いている

労働はすべて良きにあらじ

働くものをして働かせしめよ

無闇な労働はエデンの園の静寂を乱す

石の沈黙を学び神に従順に仕える

その幸いの日は長くつづくだろう

神の知恵は深く人は及びつかない

ただ神の用意された道を行く




 

posted by 老鶯 at 18:58| Comment(1) | TrackBack(0) | 詩全般

桑の木陰にて(ベ-シックインカムの思想の検討)


桑の木陰にて(ベ-シックインカムの思想の検討)


甘美かな桑の木陰に実を食す

 
いつも休んでいた近くの木陰は桑の木だった。桑の実がなっていたからだ。桑の木はこんなに大きいのかと思った。実際に桑の木は大きくなる。大木にもなる。
 

高さ五丈の、盛り上がったその頂は、あたかも天子の乗る馬車の天蓋のように立派だ。
樹齢は、もうどのくらいになるのだろうか、どれだけ多くの人々の暮らしを見てきたのだろう。この巨木は、平凡な人々が住む平凡なこの村の、ただ一つの名物だった。旅人たちに木陰を与え、子供たちには良い遊び場となってくれる憩いの場だった。
http://www.t3.rim.or.jp/~miukun/san1.htm

 
桑の葉は蚕をしていた時代は裏の畑は桑の葉でおおわれていた。どこでも桑の葉だらけだった。その実を食べていた。でもこのような大きな木の桑の木があると思わなかった。これだけの木だと相当な実がなる。ただ黒ずんでいた、でもうまかった。こうして無料で食べられる自然の木の実の味はなんともいえない、それも木陰で食べているとエデンの園にいる感覚になる。労せずして木陰に休み甘い木の実を食べる、それは人の手から渡されたものではない、自然から神からじかにあたえられたものだから甘美なのだ。そうじゃないか、この世にいろいろなうまいものがあるけどかならずこれを作るのにどれほど苦労したか、手をかけたか、この食べ物にはそうした苦労の賜物だとして渡される、だからそれ相応の金は払ってもらおうとかありがたくいただけとかなっている。お前みたない遊んでいるような怠け者は食べる資格なんかないんだよとか食料は額に汗して得るものであり遊んでいる怠け者には与えられないとなる。今ではさらに遠い外国からも運ばれるからさらにどれだけ苦労して運ばれてきたかを知れとか無償でえられるものではない、確かにそうした労働の恩恵で得られたからこそその対価が要求されているのである。
 
でもエデンの園では食料は労せずして無償で得られていた。労働は呪いとして人間に与えられた。罪の結果として与えられた。動物は鳥でも労せずして得ている。もちろん餌を毎日とるのも命懸けだとか大変だとかあるが人の労働によって与えられるものではない、自然から神からじかに与えられるのである。そこが根本的に人間社会と違っているのだ。人間は本当にこんなに労働が必要なのだろうか?何を言っているんだ、毎日働かずして食べていけるのか?そんな天国がどこにあるというのだ。例えばベ-シックインカムなどを民主党などが検討するというのもやはり豊になればそういうものも是認されてくる。そんなことしたら誰も働かなくなる、嫌な仕事をする人もいなくなる・・・・・とか夢物語として見なされるのも確かである。人間そんな甘いものじゃないとかなる。働かざる食うべからずでもある。でも労働の理想は自主的に働きたいものが働くことなのである。現実そういう人はいる。大工とか庭作りとか技術者は自分の腕を磨き働きたい、仕事をしたいし、自分が仕事をしていること自体楽しそうにしている。確かに苦しい面はあるがやはり何かを作り上げることに喜びを見出しているのだ。
 

こういうことは人間にはある、だからworkは作品となっているのだ。職人でも単に賃労働ではない、職人になると自分なりの作品を仕上げたいということがあるのだ。ベ-シックインカムになっても誰も働かないとはならないのだ。自分も何の収入もなくてもいろいろ書いてきたのはwork-作品を仕上げることに生きがいを持つからである。人間は誰しも生きがいが必要である。だから働く人がいなくなるということはない、ただ無駄な仕事はしなくなることはありえる、働いて人がいやいや働いていたら現代のように鬱病の時代になっている。好きで生きがいで働いていればそうならないのだ。現実に人間は働かないと退屈で体をもてあます人もいる。つくづくあれだけ頑丈な体をもっていて何もしないとなるとその体も活かされないからかえってそれなりの肉体労働も必要なのだと思う。そういう体力をもっている人はそういう仕事が必要なのである。変な話だけど体力のあるひとがいてその肉体をもてあましているような人もいる。そういう人にはそれなりの仕事を与える必要がある。
人間は働かなくてもいいから毎日なまけて何もしないでいられるか?実際は働かずにいられないのが人間なのである。

 
そんなもの夢物語だ、この不景気の時勢に馬鹿げたことをと言うのもわかる。でも理想的にはそうだし現実的にそういうことがあてはまっている人もいる。力仕事もしたいという人もいる。力ある人は力を出したいということがあるのだ。なぜならその時俺は力あるんだと自分を誇ることもできるからだ。何かしら自分ができるんだということを示したい人はいくらでもいる。だからベ-シックインカムでも誰も働かなくなるということはないのだ。それだけは一面確かなのである。
お手伝いさんとか職場でも確かに金のために働いているのは確かである。でもあの家で働くのは楽しいとか職場でみんなで働くのは楽しい生きがいだという人も普通にいる。家でぶらぶらして食べることができても楽しくないということもある。自分の家の状態は今は別にお手伝いさんはなくてもすむ。簡単な掃除と家事だから自分でも今はできるのだ。そうでないときは介護のときはあった。でもそういうときは援助はほとんどなかった。今は別にお手伝いさんとかヘルパ-とかなくても自分でそれなりにやっていける、つまり働いてもらう方にしてもそれほどその労働は必要とは今はなっていない、とすると私はあなたのために働いて尽くしている、だからそれ相応の対価を収入を与える必要があるとはならない。でも相手はそう思わない、金がない場合は余計にそうである。ベ-シックインカムになればあそこの家では職場では働きたくないから働かないということが多くなる。そうすると働かせる方でかえって働く場所の魅力を作らねばならなくなる。これは今までの労働観とは相当違ったものとなるのだ。いやいやながら働かされているのが現状であり今度は逆に職場に魅力がないなら人が来ないとなる。そういうことがベ-シックインカムで起こってくるかもしれない、ただこれは本当に未知であり夢物語にもなるからどういう社会になるか検討つかないのである。
何故なら労働は労苦として人間に与えられたものとしてこれまで継続された固定観念があるからだ。その労働観を根本的に変えること自体がむずかしいのである。ベ-シックインカムという思想自体なじみのないものだから夢物語とされるのである。思想として深く検討されていないのだ。ベ-シックインカムの思想の由来は聖書のエデンの園からはじまっていたのである。エデンの園では食料は無料で得られていたからである。
 

エデンの園の木の実((詩)
http://musubu.sblo.jp/article/39405512.html

posted by 老鶯 at 19:06| Comment(1) | TrackBack(0) | 経済社会労働問題

2010年07月04日

昼顔(庭作りとリホ-ム)

 
この道の木陰の長く草深く昼顔の咲き人一人行く

この道の木陰の長く森深く鳥の音ひびき夕暮れにけり
 
 

昨日はイギリスのチェルシ-フラワ-ショ-での庭作りコンテストをNHKハイビジョンで見た。また門作りとか庭をリホ-ムしている。庭作りになぜこれほどひかれるのか?庭作りは自然を活かすことなのだ。水を風を花を狭い空間で活かすことなのである。結果的に複雑なものよりシンプルな設計を基にしたものがゴ-ルドになった。それは幾何学的に極めてシンプルなのである。
やはりヨ-ロ-バ人にはそうしたシンプルなものが受けた。こんなにシンプルなものがゴ-ルドなのかと思ったがやはりシンプル故にかえって癒しがあった。日本の庭も苔の庭も良かったのだがかえって複雑になっていたから理解されなかったのかもしれない、そもそも茶室はシンプルなものでありそれがかえってヨ-ロ-バ人の作った庭がそのシンプルさを具現化していた。ただ風の通り道のようなものを作るだけで他に何も作らない、それこそ自然にマッチすることだったのである。余計なものを作りすぎてもかえって自然にそぐわなくなるのだ。これはNHKハイビジョンを再放送かでみるほかない、

 

次のテレビ番組は介護のためにリホ-ムした家だった。都会だとあんな狭い路地の奥に住んで介護を受けねばならない、なんとも窮屈である。それでもあの90才のおばあちゃんはめぐまれていた。二人も娘に住み込みで介護されているからである。回りを見回しても介護している人はあんなにめぐまれていない、自分にしても他の人にしてもそうである。ギリギリの人もいる。
介護は本当に差がでてくる。でもリホ-ムに一千万以上かかるのは辛い、それだけしてまた二人も娘が蚕してくれるのだからこれほどめぐまれたことはない、あれをみてうらやましいかぎりだった。介護はつくづく家族でもむずかしいしましてや他人ではいくら金をもらうからといってできないものなのだ。

川子の高台の道はいつ通っても気持ちいい、長い木陰の道がつづき草むら深く昼顔が咲き
森にはいつも鳥の声がひびいている。あそこもただ本当の森ではない、大きな廃棄場ができたためできた道である。だから大きな機械の音がするから自然の森ではなくなっている。今日もあそこの道を通っても車もほとんど通らないということがいいのである。

2010年07月05日

金持ちには金持ちの役割があった


金持ちには金持ちの役割があった


 なぜか知りませんが、日本の国では資産家(お金持ち)を妬んだり、そねみの感情を持ったりさせるように仕向けられています。その理由は、財務省・国税庁が、お金持ちや経営者たちからお金を税金の形で奪い取ろうとしているからです。だから、金持ちたちのほうがすっかりおびえてしまって、派手な暮らしをしたり立派な家屋敷を造ったり、文化や芸術にお金をかけるということをしなくなりました。
 そうなると、世の中の雰囲気がますます沈滞して、みんながまとめて平等に貧乏な国になってしまいました。

「心に青雲」で宗教非課税を撤廃せよ(上)の中で副島隆彦氏の文を引用している。この引用している文に共鳴した。
「金持ちたちのほうがすっかりおびえてしまって、派手な暮らしをしたり立派な家屋敷を造ったり、文化や芸術にお金をかけるということをしなくなりました。」
 
 

職人でも昔は金持ちがいて仕事をゆっくりさせて腕を磨かせてくれた。戦前の地主とか金持ちがいてそこでは大工や庭師を雇っていたのである。茅葺きのと大きな家や庭を管理するのは常時それだけ管理する人が必要だったのである。そこで職人の腕は磨かれたのである。
自分も狭い庭作りをしてつくづく感じた。庭作りは確かに金持ちでないとできないところがある。大きな庭はそうである。だから家には金をかけても今は庭に金をかける人は少ない、ところが金があっても庭作りに精出す人がいるとは限らない、庭作りに興味を見出す人でないといい庭は作れない、職人だけでは作れない、作ってもらう人が庭作りに興味がありガ-デニングに花に興味ある人でないと本当の庭作りはできない、そういう人はまた自然に通じている人でないとできない、家作りは別にして庭作り、ガ-デニングは自然に通じている人でないとできないのだ。


金持ちにはいろいろ成り金の人が嫌われるのはつまらないものに金を費やしてしまうからだろう。金持ちになることは実際そういう人が多いことも事実である。遊廓で蕩尽するような人もいた。でも一面金持ちになった商家ではなんらか文化に貢献した。京都や大阪をみればわかる。豪商がいて茶の湯をはじめいろいろ日本の文化の基となるものを作ってきたのである。イタリアのフィレンツでルネサンスが起こったのもメデジ家が薬でもうけたのを芸術に費やした結果だし大原美術館も大原家がもうけた財産で作られた。これはあくまでも個人や家がパトロンとなったのであり公共的なものではない、公共的なものとなると民主主義になるとどうしても平等を追求するからみんなが不景気で困っているとき芸術なんかに金を使うなとなってしまうからである。
しかし今より信じられない飢餓者を出しているときにあの金閣寺が作られたことも矛盾しているし批判もされるのは当然だった。でも金閣寺は今に残っている。金閣寺が全く貴族の蕩尽だったとはいえないのである。

 
現代は個人に一家が金持ちになることははなくなっている。組織、集団にしか大金は入ってこない、大企業であり宗教団体であれそういうところには莫大な金が入るから税金をとれというのもわかる。税金も実際は何か文化とかには費やされない、官僚組織で無駄に使われる。文化を創造するものとして使われない、なぜなのか?文化とはフィレンツのルネサンスのようにパトロンが芸術に理解あるところで起こる。今はそういう人はいない、というより公共的なものは平等の原理で支配されているから最大公約数的なものを作っても個性あるものは作りにくいのである。確かに人間は平等を追求せねばならないこともあるが平等だけを追求していたらつまらない共産主義社会になってしまう。その共産主義社会、中国で一番格差が激しいというのも皮肉である。人間はそもそも平等でないし平等に作られていない、今日良きものが残っているのは結局貴族が残したものであり貧乏人が残したものではないことでもわかる。貧乏人だけだったら文化は作られなかったのである。
 
そして苦労した人、貧乏人がすべて人格者とか教養ある人となっているかというとそうはなっていない、働きづめの一生で花にも興味がない庭には野菜など豆を植えておくだけである。働くことだけ金になることだけがこの世で価値あるものとしてみている。もちろん文学など何の価値も認めていないのだ。そういう人は結構いるのだ。金持ちも成り金だとかいろいろあり教養ある人とはならない、貧乏人でも教養ある人はいるがやはり何か教養となるものが欠けているのだ。やはりそうしたものは一般的には金持ちの余裕のある所でないと伸ばせないところがあるのだ。だから庶民の趣味は価値は高等なものとはならない、どうしても卑賤なものになりやすい、娯楽はテレビであり何か高等なものにはならない、それが現代の大衆娯楽の文化となり今まで金持ちがになったものとは違ったものとなってしまったのである。自分が茶室みたいなものを狭い庭でまねごととして作ってみても全く価値を認めない、また価値がわからないのだ。すべてではないにしろ無駄とされてしまう。それは文化全般についていえる。大衆は真の芸術を理解しない、絵画にしても理解しない、自分も絵画について全部は理解できないように芸術の理解はむずかしいからだ。俳句にしても簡単だから誰でも作れるから理解しているようで深いものとなると理解できない、芭蕉の俳句を簡単には理解できないのである。高等なものであればあるほど理解できないのだ。
 

江戸時代は階級社会であり分をわきまえろというのがモラルとなった。これも当然だったとつくづく思う。江戸時代は武士は別に極端な金持ちではない、全体が貧乏だから金持ちではない、武士の家計簿などが研究されたけどやっとやりくりしていたのである。分をわきまえろというとき武士には武士の勤めがあり庶民は庶民の勤めがある。そこをわきまえないと社会の秩序が保たれないからそうなったのである。実際現代の社会は分をわきまえる人はいない、どんな人でもすでに誰でも首相にでもなれる、何でもなれる、ただ金がなかったからだとかになっている。
だから常に上に立つ人は庶民に罵倒されそれが楽しみとなる社会である。江戸時代のように自分の分をわきまえる人などいないのだ。強制的にそうされていたこともあるがやはり庶民はすでにみんな同じだとということで分をわきまえないし露骨にその卑俗性を主張してはばからない時代なのである。庶民は権力には従うが何か価値あることを見る眼がないしその価値あるものを認めないのだから庶民からは歌謡曲なようなものは価値として認められても真の芸術は認められないのである。


結局、理想的なことは教養ある人、価値を知っているものが金を持ち、文化を創造することなのだ。それが現代では大衆化してカルトとか集団組織にしか金は入らない、そんなところでは文化の創造は絶対に起こらない、マスゲ-ムくらいで終わりなのである。そもそも教養ある人がどういう人なのか見極めることもその価値も認めることもできないのが庶民なのである。


そうなると、世の中の雰囲気がますます沈滞して、みんながまとめて平等に貧乏な国になってしまいました

実際に民主主義とかすべてにおいて平等を追求するとこうなってしまうのである。単に経済的に貧乏になるだけではない、精神的にも貧しくなってくる。本当に教養ある人が上に立ち指導していればこうはならないのだ。卑俗なものに従う大衆が指導権を握ったとき現代の大衆時代の文化不毛の時代となったのである。
 

宗教非課税を撤廃せよ(上)
http://blog.goo.ne.jp/hienkouhou/d/20100705

 
posted by 老鶯 at 09:16| Comment(2) | TrackBack(0) | 時事問題の深層

2010年07月07日

夏雲雀


開け放つ朝の窓より夏雲雀


庭中に煉瓦の道や夏の蝶

カボチャの花昼顔の花調和せり

紫陽花にシャボン玉飛んでくる
 
 
門作りと庭の道作りはまだつづいている。カボチャの花はカボチャの花であり昼顔の花は昼顔の花である。花にはそれぞれの個性があり調和している。人間だけが調和していないのだ。

2010年07月08日

暑さ


大きな葉わずかにゆれて暑さかな

 

緑は隣の庭でも木があれば気持ちがいい、今日は朝から晴れて結構暑くなるみたいだ。
わずかに風はある。そこでじっと家の中にいるとわずかに風が入ってくる。朝の内はまだなんとか涼しい、今年はなんだか暑い、今年は病気の年だった。未だに胃腸が直らないことはなんらかの病気なのだろう。だから余計にじっとしているほかない、暑さの中で運動できなくなった。

庭のリホ-ムはまだつづいている。これも疲れの原因だった。胃腸は暑さには良くない、去年までこうではなかった。人間はあるとき体がだめなくなっていく、それにしても人間の体力の差には今更ながら驚く、庭師兼大工さんをみていると腕は太いし体の作りが頑丈である。だから暑さのなかでの重労働でもやっていける。ただ50過ぎているしあれだけの労働はいづれできなくなることが問題なのだ。誰かに若い人に肉体的重労働はしてもらい監督とかデザインを担当すれば仕事はつづけられるが全部自分ではいづれできなくなる。
あと二三日で庭のリホ-ムも終わるだろう。そしたら楽になる。つくづく身内であれ他人であれここ五年間は病気のことに追われ今度は自分の病気になった。支える人がいないから辛い。

そして「冬薔薇二輪の雨にぬれにけり」をしみじみと感じた。何かしらないがここ五年間は自分は責められつづけた。世間の冷たい風をまともに受けた。今もそうである。でもふりかえると30年間は世間の冷たい風を受けなかったのだから世間と没交渉であったこと自体余りにも恵まれていたとなるしこういうことは他の人はないだろう。世間の冷たい風、荒波にもまれているのが一般的なのだ。今になると苦しいことばかりが起こってくるのだ。それは今も変わらなかったのである。だからただ人生は苦だとなる、最後はそうなりやすい、それで冬薔薇の句が一段と身にしむものとなる。その時はただ写生として作ったが今の自分の状況からこの句を読むとまた違ったものとしてよむ。俳句とか短歌とか文学はその人の心境によって違って読むようになる。
病気になると同じものでも違ったものに見える。ましてやもうあと一年で数カ月死ぬとなるとなおさらそうである。冬薔薇にただ冷たい雨がふる。世間は無情であり人間も無常であった。ただ冷たい雨がふるのみだったのである。やはり写生で作っていればあとでその句をもう一度読み直すと深い解釈ができるようになる。だから俳句は写生なのである。

 

冬薔薇
http://musubu.sblo.jp/article/34230428.html


 

泰山木(気はやさしくて力持ち)


虻唸り泰山木や昼間かな

雷鳴りて大石動かす庭師かな

しなりつつ若竹伸びる風涼し

涼しさや釣り人隠る一人かな
 
 
気はやさし力持ち・・・・とかあるけど人間にはあらゆるものが備わっている人はいない、筋肉隆々として疲れを知らぬ体力をもっている。百キロ以上の庭の大石を動かしたときは驚いた。庭師は力持ちだけではできない、デザイン力が必要であり芸術のセンスが必要である。それも備わっている。口八丁手八丁でありいろいろなことができる。自分はこの点全く体力がないからうらやましくなる。体力の差が大きすぎるのだ。あのくらいの体力があったら別に職人でなくても激しいことができる。ではその人が何でも備わっているかと言ったら備わっていない、奇妙だが病気になったり弱さを感じたことがないのではないか?自分の無能力を感じたことがないのではないか?でも若いときはそれほど仕事ができていなかったらしい。体が丈夫な人は弱い人間のことを知らない、理解できないのかもしれない、だから強い人間は弱い人間のことを知らないから弱いものに対してやさしさが欠けるようになる。そんな甘いことでこの世を渡っていけるかと常に強いことを要求しそれができないものは弱者だとして見下すことにもなる。
 
でも人間は気はやさし力持ちというのが理想である。昔の人もそう考えていたからこうした諺が残った。強い人は優しさをもつことがむずかしいのだ。例えば病気をしたことがないような人は病気がどういうことかわからない、だからそもそも病気の人に同情するようなことはしにくい、また弱い人についての理解が欠けることになる。そういう人が建築とかの仕事、例えば施設を作り庭を作る仕事には向いている。でもそれが介護施設を運営するとなるとむずかしいように思う。そもそも弱者たる老人のことなど理解していない、ただ金儲けだけを考えて施設を作ってもうまくいかないように思う。つまり人間にはあらゆるものが備わっている人はいないのだ。弱者でも優しさがあってもそれは何もできないということもある。これも自分のように困ったものとなる。弱者でいいということはない、やはり何かできる人がいいのである。だから「気はやさしくて力持ち」が理想の人間像なのだがそういう人は本当にまれなのだ。必ず何かが欠けている。一見申し分ない人間に見えても逆にその強さが弱さへの理解を欠くということになったりするから人間は不思議である。強いということはこの世の中を弱肉強食の中で生きるには必要なことである。


しかしその強さを貫ける人はいない、姉もそういう人だった。認知症になっても最後まで「俺は優秀だった」と言って死んだことが今でも信じられない、頭も体もガタガタになって無惨に死んだのである。人間は最後までそうした強さを維持できないのである。弱いことを奨励はできない、でも強さには限界があるということを知らねばならない、でも強い人は病気にもならない、弱さを知らないとしたら知り得ようがないのだ。すると弱いものに同情することなどできない、何かしらで弱いことを経験すれば人間は弱いものだとしるがそれがなければ知り得ようがない、ただ体力に恵まれている人はいるものである。戦国時代でもあういう人は侍になり成功するのだろう。なぜなら一面残虐性をもっている。他者をおしのけても他者を殺しても平気でのしあがるような強さをもっているからだ。ともかく気はやさしくて力持ち・・・という人はまれである。

2010年07月10日

夏日没る(ク-ラ-を使うことが労働量を増やしている)

 


働きて頼りになる人夏の星


一仕事終えてようやくる夏日没る

涼しさや水の音聞きつ蝶眠る

紋白蝶蜆蝶舞う木陰かな


飯館の日陰に休む石一つ

選挙戦早くも終わる夏日没る
 


今日の仕事は暑いから大変だった。何もしなくても暑い、その暑い陽ざしをまともに受けるから相当に体力が消耗する。でもこの暑さに耐える体力があるからつづけられる。だから外で働く人は熱中症になっている。そうした労働の割りには金にならないというのもわかる。体力がいくらあっても今日は相当答えたらしい。こんな夏だったら休みたいといっていたからだ。暑い国ではヨ-ロ-パでも地中海沿岸ではシスタで昼間三時間以上店を閉じて休んでいる。他も暑い国では夕方からやっと仕事するとか仕事がル-ズになる。仕事はしにくいのだ。だからハンモックに揺られて休んでいる他ない、それも省エネなのかもしれない、ク-ラ-使っていればそれだけ確実にエネルギ-を消耗する。というより実際はそれだけ誰かが労働にかりたてられている。自然の木陰で涼しい風に吹かれていて休んでいれば誰かがその代わりに働く必要はない。


ク-ラ-を使うということは一見人力を使っていないようで使っているのだ。だから文明が発達しても労働が楽にならないし休むことができない、ますます過重な労働を課せられるようになったのだ。都会であれ今やク-ラ-をどこでも使うということは膨大なエネルギ-を消耗しているのだ
そのエネルギ-源は主に今も石油である。石油で電気を作り出している。その石油もただではない、石油を得るためには車でもなんでも日本製品を売らねばならない、そのエネルギ-が膨大なのである。ク-ラ-が便利であり文明の故の恩恵であってもその恩恵のためには膨大なのエネルギ-を費やす労働力が必要になっているのだ。文明はこれだけ発達しても人間を楽にしてくれなかったのである。ますます過重な労働を強いられることになったのだ。

 

ク-ラ-がすべて悪いとはいえないがそのエネルギ消費が大きすぎることが問題なのである。
便利なればなるほど労働が増え労働は過重になってくる。それは結局、木陰でハンモックにでもゆらて休まないからである。ク-ラ-を使いば確実に労働は増えているのだ。一見それは人間ではない、機械がしているように見えても実際は石油でありその石油を得るためには車でも何でも日本製品を売らねばならないのだから労働は増えても減ることはないのだ。結局休まないことが人間を働かせることになっているという皮肉があるのだ。「オエマはなぜ働かず休んでいるのだ」と詰問されて休むことができない、でもそのことが実は過重労働を作り出しているのである。田舎で自然にのっとて生活していればなんとかこんな暑さでも昼間は休みしのげるかもしれない、しかし都会では膨大な電気を使うからそうはならない、つまり都会では省エネにはどんなことをしてもならないのだ。膨大な電気エネルギ-を消費しないで生活できないからである。そのために膨大な労働がさらに課せられているのだ。

 

別に働くことをすべて否定しているわけではない、働くことには価値があるのは当然である。その人は特別に職人として有能だから今は型枠もうまくやれる人がいないとか頼まれる。この暑いさなかに一仕事やり終える爽快感はある。大きな夏の星が一つきらめいている。あの星はそのたくましい職人の星だった。この暑さの中でも働けるといううらやましさがある。それで収入が少ないというのがわかる。事務所でク-ラ-の中では働くのとは違うからだ。労働の不公平がここにもあるのだ。ともかくあと一日くらいで庭の再リホ-ムは終わる。この暑さで悪くなった胃腸の調子をくずした。今年はこんなに暑いのか、相当これだと体力が消耗するだろう。すでに7キロくらいやせた。食べれないから太れないのである。暑いときでも去年までは結構運動していたのである。今年はそれができないショックだった。明日の選挙はどこに入れていいかわからない、検討する時間もなかった。自民党だけには入れたくない、また同じ繰り返しになるからだ。
ともかくこの暑さの中の選挙はどうなるのか、天候も相当選挙に影響する。


 

山の村の石一つ(詩)


山の村の石一つ

 
 

山の村の道の日陰に休む

そこに石一つがある

誰も責める者はいない

そこを通る人はまれである

お客人ここにゆっくりお休みください

何も売りつけもしないし

客人をせかしたりはしない

あなたはそこにお休みください

誰もあなたをとがめたりしません

森に鳥のさえづりがひびく

悠長な時の流れにまかす

山の村に長い日影がのびる

木の影は日時計のように移る

時計の時間にせかされることはない

あなたはこの村になんのために来たのですか

ただ休むために来たのです

日陰に石一つ安らいでいる

それが平和な村なのである

posted by 老鶯 at 21:12| Comment(2) | TrackBack(0) | 詩全般