2010年06月01日

死を否定して生を失う時代(出征兵士-英霊の歌から)

 
死を否定して生を失う時代(出征兵士-英霊の歌から)
 

『和歌に遺す』
       海軍大尉 石川延雄命
       昭和20年5月14日
       滋賀県上空にて戦死
       岡山県勝田郡国村出身 23歳

 
身にあびる 歓呼の声の中に 母一人

             旗を振らずに 涙ぬぐひ居り
 
人前に わが見せざりし 涙なれば
    夜は思ふまま 泣きて明かしぬ


http://blog.goo.ne.jp/hienkouhou/d/20100528


「心に青雲」で他にもこの人の歌を紹介している。23才でこれだけの歌を作れることに感心する。戦争の是非はともかくこの若さで非常に大人びている。23才なら自分は大学出たばかりでありこんな歌を作れない、今の若者も全く違っている。俳句とか短歌も人格から生まれてくる。20代では人格など作られていないから天才をのぞいてはいいものはできない。人間は戦争の是非はぬきにして死に直面すると違ってくるのだ。それは明治維新を成し遂げた志士にもいえる。みんな20代、30代であり死んでいった。ともかく命懸けであったということが根本的に違っていた。石川啄木でも最後に結核で死ぬというときいい短歌を残した。正岡子規もあの若さであれだけのことができたのは常に死に直面していたからである。毎日いつ死ぬからわからない状態であり苦悶していた。だからあの若さであれだけの業績をのこしえたのである。人間はやはり死ぬとなると違ってくる。特にこんなに若かったからどうしても死に対して割り切れない、いくら悟りきろうとしてもできない、啄木を見ればわかる、生の執着を連綿として書いている。それが人間として普通である。潔く戦地に赴き死んで悔いないとなるだろうか?
 
なぜこの歌をとりあげたかというと姉はシンガポ-ルに4年間従軍看護婦していたのでそのことを意識不明になる死ぬ間際まで語っていた。姉はこの歌のように母と別れたのだが帰ってきたときは母は死んでいたのである。日本に帰り母と会えると思ったが会えなかった。それで墓に埋められていたが母の顔を見たいと墓をのぞいたら母の顔は生前のようだったというのも不思議であった。死んでまだ日にちが立っていなかったからなのか、墓の中で母と再会したことになる。これは姉が特別経験したことかと思っていたがそうでもない、戦争は永遠の別れが無数に作ったのである。出征して死ねば永遠に会えない人となっていたからである。戦争から帰ってきて肉親が死んでいたというのはあまりないにしろ永遠に肉親が別れることが無数にあったのであり岸壁の母とか帰らぬ子供を永遠に待つというのもそのためだった。いづれにしろ姉は死に母と同じ墓に埋まって帰らぬ人となった。戦争の悲劇はだんだん忘れられつある。でも祖父母やら親から戦争の話を直接聞いている人はまだ戦争を身近なものとして考える。
 
この歌の解釈はみんなが歓呼して送り出すが母にすればその歓呼の声に同調できないともとれるのだ。他人だったら国の名誉だとなり送り出せばいいが母であればそうはならない、死ぬかもしれないからだ。永遠の別れとなるかもしれないからだ。その可能性は大きく現実にそうなった。その時が最後の別れだったのだ。全体にしてみれば戦争への奨励が普通だが母にしてみればその時旗をふれなかった。ここに深い意味があったのである。23才で簡単に死を割り切れるだろうか?そこが疑問なのである。妻もあり妻も愛しいし国のためなら死んでもかまわないと犠牲になってもかまわないと割り切れるだろうか?そこが全面的に肯定できないのである。「人前に わが見せざりし 涙なれば    夜は思ふまま 泣きて明かしぬ」人前ではみんなが戦争肯定でありそれに応じねばならないから戦争に行って死にたくない、母きも別れたくない妻とも別れたくないというのが本音でありこの歌は本音を示しているからいい歌なのである。単に天皇の命のままに死地に赴くというのではないそこに人間の本音が出ているからいい歌なのである。だから解釈が違っているように思える。別な面から見ればこの歌は女々しいともなるからだ。


ただ人間は死に直面したとき、この若さでもこれだけの歌を残せるということである。20代でいい歌を残したのはやはり死に直面したからである。芸術でも末期の眼で見るとき同じ風景でも別なものとなってくる。正岡子規はいつも末期の眼で見ていたからあれだけの業績を残すことができた。現代はどうか死に直面することがないからだらだら緩慢な無惨な死となっている。長寿はいい面と悪い面がある。延命治療でさらに人間は死と直面するというより死を否定してただ肉体だけを長らえさせる。そこではすでに死はない、死を否定しているのだ。戦争のときは死を否定できない、死を肯定するほかない、死を覚悟して出征する。その違いが若くてもいい歌を残したのである。結果的に高齢化社会は最後は認知症になったり延命治療でただ肉体だけを延命させるだらだらと緩慢な死になる。そして社会自体緩慢な死になっているようにさえ見えるのだ。死を否定するからそうなる。戦国時代や明治維新や戦争中は常に社会が死と直面していたから違っていた。そこに逆に優れた人が生まれたという皮肉があるのだ。緩慢な死は人間を堕落させたともなる。
 
それから人間は死ぬときは大事だとふりかえってわかった。親の最後を看取ることは大事なことである。だから介護も緩慢な死であっても簡単にないがしろにできない面がある。人が死ぬということ永遠に会えなくなることなのだ。最後姉は病院で自分の名を呼んでいたという、でもそんなに病院に行かなかったのが失敗だった。でも地元の病院に移ってからは近いから毎日行っていた。そして意識不明になったときも二カ月間姉の手を握りつづけていた。それが今思い出となっている。意識はなくても最後の二カ月間手をにぎりつづけただけでも生きて通じているということを感じた。死んだらもう手を握ることもできない、全く消えてしまったからである。だから最期の時は永遠に会えなくなるから一刻一刻が大事だともなる。ただこれもあまりに長引くとそうはならないが人間が死に向かうということはそれだけ厳粛なのことなのである。現代の問題は延命治療などで高齢化で緩慢な死が多くなった。死を否定しすぎるからかえって生がなくなったという皮肉がある。認知症などがふえるのも緩慢な死が増えてきたからである。23才で死ぬのと90才で死ぬのはあまりにも違いすぎるからだ。23才でも死を覚悟したらやはり人間というのは違っている。現代は死を否定する余り生そのものを失っている面が多すぎるからかえって人間が死に直面したときのことを時代的に省みる必要が出てきているのだ。
 



 

心に青雲」というプログは武道家であり俳句とか短歌を時々例に出している。武道家でそういう人は今あまりいない、でも昔の武士は短歌を作っていたからそういう人が武士だった。
今の時代に一本筋が通っている古武士みたいな人がいることが不思議だった。あれだけのものを書けることに感心する。日本はアメリカの従属国であり独立国でなくなった。だからアメリカにいいようにされる。官僚もアメリカに操られるとかそういうことなのだろう。民主党とか鳩山が多少アメリカに逆らったからそのことが大問題となったというのもそうなのだろう。日本はアメリカに敗北してからアメリカの軛から逃れられない、でもアメリカから離れたら今度は中国が大国化して中国の軛から逃れられなくなる運命にあるのだ。その大国の狭間で自主独立路線をとることは至難になる。でも国の独立がなければ精神の独立もない、日本は国の独立がなくアメリカの従属国になったから日本の精神の独立もなくなったのである。

posted by 老鶯 at 10:58| Comment(2) | TrackBack(0) | 時事問題の深層

鳩山首相の人間的資質を批判することの疑問


鳩山首相の人間的資質を批判することの疑問
http://musubu.jp/jijimondai40.html#hato(時事問題の深層40へ)

 
 
今は戦国時代ではない、鳩山首相は資質的にだめだというなら独裁者の時代、信長のような人が出ることが渇望されるだろう。でも民主主義にはそういうことはできない、選ぶのは国民であり実際に国民はタレントを以前として選ぶとしたら選挙に勝たない限り権力を持ち得ないのだから自民も民主もタレントを選んだのである。民主主義では指導者が責任があるのではない、指導者を選ぶ方が責任があるのだ。ただ日本は戦後アメリカの従属国として出発したからアメリカの意向に逆らうことができない、肝心なところでいくら国民が民主党に政権をとらせてもアメリカの圧力は強大であり官僚もGHQに統治されたときからアメリカと一体化していたのである。言論統制も取次ぎが検閲を行ったり法律もアメリカによって作られたのであり日本の自主的憲法ではない、それがすべて悪いものではないにしろアメリカ支配の元に作られたし権力も操作された。だから検察はアメリカと一体だったというのが今になってわかった。
 

ロッキ-ド事件もアメリカの圧力の元でしかけられた。田中首相が中国と国交をむすんだからである。その時論陣を張ったのがいかにも正義を追求していたようにみえたが立花氏などはアメリカの走狗だったのかとなる。これはマスコミも一体化して追求していたから同じだった。ある時過去の歴史が明確に見えてくることがある。人間も死んだあとにその人のことが良くわかることがある。なかなかその時代の中にある人は今何が起きているか理解できないのである。だからまず歴史的にふりかえりあの事件は何だったのか判明することがある。今起きていることはアメリカ従属一辺倒からアメリカの軛から脱しようとして脱せられないということであり鳩山首相の資質はそれほど問題ではないのだ。鳩山首相一人でどうにもならない問題だからである。そんな権力を鳩山首相はもっていない、そうしようとしても官僚やらマスコミやらアメリカの圧力でできなかったということだった。だから麻生首相などと同じで資質だけをまた批判してこきおろすのは疑問なのである。
誰か信長のような人が出てなんとかしろといっても全権が首相にあるわけでないとしたらできないからである。また解散してやり直すことはできる、それくらいしかできないのである。

posted by 老鶯 at 21:45| Comment(0) | TrackBack(0) | 時事問題の深層

2010年06月03日

涼しさ(南相馬市国見山に登る)

kunihoto111.jpg 

夏雲雀燕飛び交い朝走る

時鳥夫婦で上る国見山

風涼し南相馬市国見山

夏鶯飯館広しなお暮れじ

飯館の大石涼し日の翳る

清らかな流れの奥や一軒の家のありしや木陰深しも

朝風に藤の花ゆれ清らかな流れのひびき山奥に入る

山の道行く人もなく長々と木陰のつづき風のすぎゆく

長々と山の藤垂れ風にゆれ飯館村のなお日の暮れじ

広々と畑広がり飯館の道の木陰に我が休むかな

 
新田川の支流をさかのぼり高倉ダムの方に行くと一軒の家があった。いかにも涼しそうな木陰にある家だった。国見山は林道を上ってゆくと登り口がある。国見山は上る場所がいくつもある。頂上近くにもあり車だと簡単に上れてしまう。山で出会うの中高年である。夫婦で上っている人がいた。高い山だと夫婦で上っている人は少ないが低い山だから上っている。
 
国見山は本当に国見山だった。それも頂上からはちょうど南相馬市が見えるのだ。鹿島区、真ん中に原町区、小高区と見える。相馬市の方までは見えないのである。まさに南相馬市の国見山だった。電動自転車だから高い所から上ったから楽だった。次に10年ぶりくらいで高倉ダムから飯館村の方へ行った。ここを下ったことはあったが上ったことはなかった。かなりの距離があった。舗装されていないの道も長い、これは10年前と変わっていない、車が日に何台しか通らない道である。でもそんな道でも舗装されているがここは舗装されていない、電動自転車はマウテンバイクにもなっているから比較的楽に行けた。ただ電池が予備のも切れてしまうから坂がきついと困る。いづれにしろ飯館村に原町であれ鹿島であれ入るのは相当な距離があるのだ。坂もきついのである。それだけ標高差があるからだ。
 
今日も晴れわたり本当に夏だった。山は車で近くまで上らないと上れない、自転車では登山口まで行くだけで疲れる。だからずっと山には上っていなかった。山に登るのは低い山でも疲れる。自転車はそんなに疲れない、電動自転車だと疲れない、ただ暑いとかなり消耗する、異常に小便が出るのは病気である。まあ、なんとか山にも上ったので気持ちいい日だった。
 
 
 
 


 

2010年06月04日

黒揚羽(国見山から飯館へ-2)

takitubooo11.jpg
 
 
何やらの草の実あまし夏の朝

滝壺に黒揚羽舞いひそむ魚

木漏れ日やトオスミかすか飛びにけり

飯館の広々として新緑に風の涼しくわたりそよぎぬ

飯館に日のなお暮れじ明るさや遠くに望む夏の峰かな

山藤のふさに垂れにき風そよぎ飯館の道長くつづけり


六号線のところに赤い実がなっていた。それがグミではない、グミは酸っぱいがあれは小さく甘い、それが何とも甘美だった。つまり無料で食べた味がなんともいえぬのだ。それも自然から得られたものだから格別だった。人の手からわたるものはうまくてもそこには常に代価が必要とされる。苦労して作ったものだからということでただで食べるわけにはいかない、そうだったとしてもなんか悪いなとか遊んで暮らすものは他人の労働から無料で食べるわけにはいかないとかなる。ところが自然の中にもしなっていた実だとしたら誰もとがめるものはいない、純粋な神からの賜物(たももの)となるから格別に甘美なものとなるのだ。エデンの園ではそうして純粋に神からの賜物として食料を得ていたのだろう。自然に生きるものの幸福は神からの賜物だげで暮らしているからである。一番甘美な食料はマナだったのである。人間が労働して栽培したものではない、神から純粋の賜物として与えられたものである。

 
高倉ダムから流れをさかのぼった所にある滝はたいしたものではない、あそこには魚もいないかもしれない、でもあそこは車が日に何台かしか通らない、涼しく風がそよいですぎてゆくだけである。そこにじっとしているだけで気持ちいい、そこには社会の喧噪は及ばない世界である。ただあそこまで行くのは結構大変だった。運動すると体に異常が出るようになった。登山して電動自転車でも乗れば体に答えた。でも自転車だと涼しい風とか感じるが車だと感じない、それでも暑い光をさえぎるから楽である。車を運転できる女性と結婚すればいいというのは確かにそうである。そうすれば遠くにも行けることになる。車はそれだけ便利なものなのである。でもどこの家でも車の事故にあっているからいやである。自分の場合は車の運転には向いていない、常によそ見しているし考えことしたりしているから事故にあいやすいから乗らないのだ。
 
飯館村が気持ちいいのは広々とした地域に家が隠れるように点在しているからである。道にしても車が通るのが少ないからいたるところ涼しい木陰をなしている。飯館村は静寂の度合いが違ってくる。原町より小高や鹿島が静寂があるがさらに町より飯館村は静寂の度合いが深まるのだ。飯館村に住んだらいろいろ不便でもその静寂の中で別な神秘的体験をするのではないだろうか?暮らしのことは別として深い自然の癒しがあそこにはある。ただきれいな水の流れがないことが残念である。前は一カ所山陰にあったが道になりなくなった。流れは寸断されてしまったから自然な流れではない、夏になるとやはりきれいな流れがあると癒されるのだ。会津の方にきれいな流れが多い、あれだけ高い山があるのだから当然だなる。ただ会津は地理的にわかりにくい地域なのだ。
 
やはり夏は涼しさを求める、本当の涼しさは自然にあり自然を離れたら本当の涼しさはなくなる、ク-ラ-も不自然なものであり飯館のような高原に棲めば全体が自然のク-ラ-になっているのだ。
 
 

2010年06月05日

芍薬(死者がなお生きている家)

photo-ane3.jpg 
 


死者がなお生きている家

 
 
霊前に芍薬献ぐ満面の笑みをたたえし姉を想うも

芍薬のあふれんばかりに咲きにけり死者に献げて喜ばむかな

我が庭の芍薬あまたその一つ与えて幸を分かちけるかな
 
 
家や家族は外から見てもわからない、そこには確かに先祖から伝えられる何かがある。だから結婚するときでも単に美人だからとか若いときは選ぶ基準がそういうものになるが昔は家と家の結婚だった。家と家の結婚というとき家が深くかかわっていたのである。家にはいろいろな家があり外から見てはわかりにくい、いろいろな因縁が家にはまつわりついているし悪い因縁もまつわりついている。だから家を選んで結婚することは古くさいとはならなかった。実際になぜこんなに離婚がふえたかというと個人と個人の結婚だから離婚になりやすい、どっちかが嫌いだとか不満があるとそれですぐに離婚になってしまうからだ。家と家の結婚だったら家同士の問題だからすぐに個人的理由で離婚にならなかったかもしれない、家という重しもなくなり何でも自由だというとき結果として離婚がふえ不幸もふえたことになるから自由がすべていいとはならないのだ。女性は自由を男女平等を求めてきても今や専業主婦がいいとかになったり社会で女性が男性と伍して働くことは大変なことが今になって気づいたのである。
 

お手伝いさんとかヘルパ-とかでも家の中に入る仕事はちょとでも何か違っている。その家の影響を受ける、いいにしろ悪いにしろ受ける。会社で働くならそんなことはない、家の中に入る場合が知らずとその家の影響を受けているかもしれない、家には死んだ人も住んでいるというのも変だが実際に遺影が飾ってあって死者を供養しているからいないとはいえない、そういう死んだ人の影響も受けるかもしれないのだ。そういうことが家の中で働くのと普通の会社で働くことの違いである。一応その家の死者にも敬意を払わねばならないのだ。その家を作ったのは今いる人だけではない、先祖も作っているからだ。ただ死んでしまいば何の恩恵も金でも物質的な面でも受けられないからと離れてしまう。特別に何か思いがある人でないとそうなるのかもしれない、ただ死者は何も生きている人に与えないのだろうか?何か与えつづけるものがあるのではないか?死んですべてが終わりとはならない、やはり庭の花を手入れしていた姉がいて
芍薬が満開になりその花を霊前に挿したら生前の笑顔がほころぶように思えた。陽気な外向的な性格だったから特にそう思った。お手伝いさんも芍薬を捧げた、あとは一本は自分の家に持ち帰った。こうして死者ともかかわっているのだ。その死者と今までなんら関係ない人でも家に入ればかかわるという不思議があるのだ。

 
そのかかわり方が悪い方にかかわる場合も確かにあるのだ。その家が金持ちでも良からぬことで金儲けしたりいろいろ家にはある。お手伝いさんみたくして入ってきた女性が保険金かけられて殺害されたことまである。その家は借金で苦しんでいたのである。借金で苦しんでいる家にかかわるとやはり他人でも借金の重荷が知らずかかってきたりするかもしれない、その家のもっている何かが不幸でもふりかかってくるかもしれないのだ。 あそこの家は金持ちだからと不用意にかかわるとかえって不幸になるということもある。家のもっている何かが人に影響するからだ。死者も何にもその家と関係なくなったのではない、何かしら影響を与え続けているのかもしれない、だから死んだから何にも与えられることもないから関係なくなったりするのが普通だが

やはり以前として死者を大事にするものはその死者の影響や恩恵も受けるかもしれないのだ。
死者への畏れがあるからこそそうしている。何もなくなってしまうならそうはしない、死んでも何かがありつづけると思うから花を捧げ祈るのが人間なのである。現実に死者が祟るということもありうる。それは死後二三年後くらいはまだ生々しく霊は死なず辺りに存在しているからそうなる。特に恨み死んだ人はそうである。その災難が自分にふりかかったからわかった。自分は関係ないといってもどうにもならない、因縁故に災難が自分にふりかかったのである。今はその呪詛するような霊は去った。絶縁して関係しなくなったからほっとしている。でも別な方にその霊は祟るということもある。つまりその霊は成仏していないから他者に祟るということがでてくる。死んでも花を捧げたりその家で畏敬されない死者もいる、ただ死者自体にもそうされない理由があるからいちがいに今生きている人を責めることはできない、でも死んだからすべて生者とは何の関係もないとはならないのが人間なのである。

 
 

2010年06月06日

涼しさ(老子の言葉)


小窓より涼しき風や隠居かな


近くなる木陰や流れ清しかな

飯館の道を行く人まれにして広々として木陰なすかな

常陰(とこかげ)の苔むす岩のもの言わず涼しかりけり誰か知るらむ
 

戸を出でずして天下を知り、窓を窺わずして天道を見る (不出戸知天下 不窺窓見天道)」
(第47章)
 <戸口から出ることなく天下のことを知り、窓からのぞかなくても天の道を見ることができる>
 これは明らかにインターネット時代を予見した句といえよう。

 
外に出なくて世界のことがわかる・・・・・これもどういうことなのか、実地に体験しないとわからないことがこの世にはたくさんある。その頃世界は中国だけだとしても中国自体世界のように広い。やはり若い内は世界を実地に見聞しないかぎり世界のことは特に現代ではわからない、ただそのあとに戸を出ずして世界を知るということがありうる。小さな窓から見る世界となると隠居にふさわしい。その小窓から涼しい風がそよぎ入る。つくづく最近特に体が弱ったので自転車で今日のような紫外線をまともに受ける時は体に答える。もともと体が弱ったけどさらに弱くなったからこんな紫外線をまともに受けるときは外に出れない、近くならいいが遠出はできなくなった。するとこの老子のような言葉が実際の生活になるのだ。外に出たくても出れないというのが実情になる。それでも世界がわかるということになる。今まで経験したことで世界を知る他ないとなる。
 
そうなると近くにきれいな水が流れていたり近くに自然があることがいい、でもこれは小さな町内でもそれだけの自然はない、「窓を窺わずして天道を見る」というとき心の中で見えることを言ったのだろう。心の中に深い森を瞑想の森を持つことができる。とはいえやはり現実にそういう森がないと心にイメ-ジしにくい、東京のような大都会では森をイメ-ジすることは不可能である。飯館のような森があれば常にイメ-ジできるがやはり何度もその雰囲気にじかにふれているのがいいのだ。何回行ってもあれ飯館は何か違うなと感じるからだ。それは平地では作り出せない何かなのである。森や空気から出てくる精気なのだ。不思議に一つ山越えた川俣町からは全く感じない、飯館は何もないのだけど森の精気が出て空気が違っているのだ。現実に森にはそうした二酸化炭素を減らし酸素を放出しているからこそ本当に体にもいいとなっている。
単に詩人のイメ-ジ的なものではない、科学的根拠あるものとして心も体も癒されるのである。
ギリシャでも深い森におおわれていたしレバノン杉のある中東すら森におおわれていた。それが失われ砂漠化した。日本はまだ森が残っているから世界でも珍しい地域となっている。羊や牛の放牧など牧畜業が発達しなかったためもでもある。だから植生が維持されたのである。

日影に眠る森のニンフ(詩)


日影に眠る森のニンフ

 
 

森のニンフが深い木陰に

心地よく休み寝入っている

そを目覚めさすなかれ

夢の中で蝶々が舞っている

清らかな水の音が聞こえる

かすかにトウスミトンボが飛ぶ

深い森の常陰に眠っている

そよそよと涼しい風に寝入っている

千歳の苔むす岩を枕にして

冷たい滝壺には岩魚が隠れ

黒揚羽が一羽ダンスをしている

その山の道を通る人はまれ

ただ涼しい風が通りすぎるだけ

鳥は甘い木の実を食べて

葉陰に一時休んでいる

そのさえづりは森の奥深くひびきあい

静謐の森に甘美な歌は高鳴る

何か不足があるのか

誰も不足は言わない

心地よき眠りがそこにある


 

posted by 老鶯 at 13:33| Comment(0) | TrackBack(0) | 詩全般

京都の紋様(抽象画)

kyotomonyo33.jpg
 
kyotomonyo2.jpg

 
kyotomonyo3344.jpg
 


 
kyotomonyo1.jpg
 
 

 金閣と銀閣の詩
http://musubu.sblo.jp/article/27303454.html

 

このパソコンの紋様は無限に作れるのだろう。無限の化学反応と同じなのである。
前に金閣と銀閣の詩で作ったからまた何かできるのかと試していたらできたのである。
これも芸術になっているのだろう。紋様の芸術は新しいパソコンの芸術である。
これを手書きでやろうとしたらできない、パソコンだから機械的にやっているからできるのだ。

 

2010年06月07日

相馬藩の地理的一体感

somaoneee12345.jpg
 


相馬藩の魅力はやはり地理からはじまっている。この地理をわかるのはそこに長年住んでいる人でないとわからないだろう。福島県になると大きすぎてもはや地理的一体感がもてない、会津は全く別の一国であり地理的一体感がもてない、相馬藩の地理的一体感は狭い地域だから持ちやすい、丸森が伊達藩だったけど一時は金山城が相馬藩に属していたから相馬藩だった。ではなぜ丸森町が伊達藩になったかというと角田から平地がつづき丸森まで伸びていたからである。一方相馬藩は山にさえぎられたから丸森を支配できなかったのである。これも地理がわかれば納得する。飯館は一見標高が高く相馬藩に地理的になりにくい面もあったがそれなりに地理的に一体感も持ちうるものでもありえた。塩の道などを通じて経済的一体感も持ち得た。飯館や葛尾村には森林資源があったから相馬藩ではその資源を必要としていたから相身互いだったのである。
相馬藩内はそれなりに地理も複雑である。阿武隈高原を擁して平地が海沿いに広がる。海と山との国となる。国見山から一望できたのは合併した南相馬市(小高、原町、鹿島)だった。まさに国見山でありこの三つの市町村は地理的に合併するにふさわしかったのである。飯館村は合併しなかったがもともと相馬藩内であり山中郷として野馬追いにもでていたから連続したものとしてあったのだ。
相馬藩が外から研究されるとき国替えがなく代々相馬藩は相馬氏に受け継がれてきたことである。だから資料としても研究されやすいことがある。相馬藩政期なども膨大な資料として残されているからである。相馬藩内でもいろいろ俳句短歌で紹介してきたが地理が複雑だし魅力的なことを再認識した。山あり川あり海ありだとなる。ただ海は磯がないから魅力がないことはいえる。久之浜の方にいかないと磯がないから磯遊びなどあそこしかできないのがつまらないとなる。ただこの相馬藩内でも地理的にも歴史的にもそれぞれ色合いが違うのである。特にいち早く近代化したもとの原町市は相馬地方の中心地帯となった。相馬市は城跡のあるところだったが原町市の方が近代化して発展したのである。それが南相馬市となったときわかりにくい、相馬市の南か、相馬市が中心で南相馬市は付属しているのかくらいにしか思われなくなった。他の人は地理も歴史もわからないから名前だけから判断する他ないからだ。どこの地域でも相馬藩のような地理があり歴史がある。それは外から一回くらい行ってもわかりにくいのである。

ただインタ-ネットなどで紹介すればその狭い地域でもいろいろあるんだなと知ることになる。
インタ-ネットの強みは全国の人が見ていることなのだ。日本全国に放送することはやはり今までありえないことであり絶えず地方から情報が発信されるようになったのである。いろいろ相馬郷土史研究でも書いてきたがもっとそれぞれの立場で書く人はいるだろう。書くべきものもあるだろう。こうした狭い範囲でもやはり郷土史の研究はとても一人でできるものではない、様々な角度から探求する必要があるのだ。そのためにはまず地理を知ることなのである。相馬藩を一つの宇宙として一体感を高めるのである。相馬藩そういう点で野馬追いとかあるから一体を持ちやすい面はあるのだ。つまり一つの世界としてちょうど一日の範囲で行けるような地理感覚なのである。会津とか伊達藩になると大きすぎるのだ。とても地理的感覚で一体感を持ち得ない世界である。狭い地域だからこそ自己同一性-アイデインティティが持ちやすいということがある。アイデインティティも新しく再構成する必要があるのだ。常に時代は変化しているし何がアイデインティティなのかも変わってきているのである。現代はグロ-バル化したからこのアイデインティティをどこに見出していいかわからない、経済規模が世界大に拡大してもではアイデインティティはやはりその土地に根ざしてculture(文化)が形成されてきたのである。相馬藩はほとんど隈なく歩いているから自分の中で地理的一体感をもてる。相馬藩内は一つの世界としてアイデインティティを持つのには適当な規模なのである。日本だって実際は広すぎるからだ。

中国とかアメリカなどはどうして一体感をもつのか?余りにも広すぎて茫然としてしまう広大さであり地理的に一体感などもちえない世界だった。どこまでも平地が地平線まで広がっている感覚は日本にはないからだ。そういう世界に住んでいる人たちと日本の地理的感覚は相当違っているし思想的にも異質になるのはさけられない、日本は盆地が多くそこが一つの世界、宇宙となってしまう地理的環境にあったのとは大違いだからである。
posted by 老鶯 at 00:12| Comment(0) | TrackBack(0) | 歴史(相馬郷土史など)

庭の手入れ(忘れな草)

wasurekusaaa2222.jpg
 


庭手入れ手にまじかに忘れな草

 
老後の趣味は人によって違うけど自然に親しむとなると庭作りである。暑いとき自転車で行くと紫外線はあびるし体の調子はおかしいとか出歩けなくなった。直射日光を直接あびることは相当に体に答える。そうなると自然に親しむのは近くであり庭作りがいいとなる。狭いから庭作りとまではいかない、でも庭を手入れしたことはあまりなかった。アブラムシがびっしりついて駆除せねばならなかった。これは増えてくるからどうにもならないとか天敵のテントウムシをとって庭に大量に放てといっても簡単にはできない、テントウムシがこのアブラムシを食べていたのかと今になってわかった。こういうことが実際に自然を知ることなのである。都会から田舎に来て農業をはじめた人はそうした驚きの連続だった。自然は実際に自分で手を入れないとわからない面が多いのだ。田舎に住んでも鑑賞ばかりしていればやはり自然を具体的に知ることはできない、田舎に住んでも確かに自然を鑑賞しても体でじかに知ることがないと自然はみじかにはならないのだ。
 
アブラムシをとり土に手を入れたりしたら忘れな草が手の側に星のように浮きでて咲いていた。それで忘れな草が具体的に手にふれるように美しく見えた。それはちょうど結婚指輪とかリングの花のようだった。「ワスレナイデネ、ワスレナイデネ・・・」なんかそんなふうにささやくようだった。そう感じたのも直接じかに自分の手を庭に入れたからである。庭も広い庭だったら手入れが大変になる。この庭は狭いからなんとか一人でも手入れできるだろう。でもやはり花を植えても咲かない、咲いてもすぐ枯れてゆくのが多い、もともと地味が良くないからだろう。花を咲かすことは結構めんどうなのである。水をためる石の器に今年はアメンボウは飛んでこない、どこから飛んできたのだろうと前は驚いた。こんなところまで飛んでくるのかと驚いた。やはり自然は常に驚きでありわからないことが多いのである。今日も外は晴れて陽差しは強い、4時頃から活動した方がいいというがそうなるだろう。