2010年04月02日

花の記憶(詩)


 花の記憶


花に記憶されたものは

明るい一杯の春の光

美しい蝶がとまり

聞こえての小鳥のさえずり

花に記憶されたものは

明るい一杯の春の光

花はまたその光の中に

心地よく咲くことを願う

そこは天国かもしれぬ

この世あったのは罪の記録

延々とくりかえされる罪悪の記録

この罪悪にいつ終止符が打たれるのか?

カインの末裔は消えることはないのか

花に記憶されたものは

冷たい雨もあったが

明るい一杯の春の光

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2010年04月03日

善を成すことではない悪を成さないことが善


善を成すことではない悪を成さないことが善

 
口から出て行くものは、心の中から出てくるのであって、それが人を汚すのである。というのは悪い思い、殺人、姦淫、不品行、盗み、偽証、ののしりは心から出て来るからです(マタイー15−18)
 
人間の善行は何か寄付したり具体的に他者を援助したりすることだと思っている。何かを善を行動することだと思っている。善なすというより悪を成さないことの方が最高にむずかしいのだ。若いときに善を成すことはほとんど不可能である。何故なら必ず悪を成すように人間はできているからだ。若いときの性的な放埒とかそれもやはり罪だとすると人間は罪を犯さずにはいられない、罪を犯さない、悪を犯さないとしたらその人は奇跡的な人だとなる。子供の内は悪は罪はあったとししても無垢であるからないに等しい,しかし中学生、高校生となるとすでに悪を罪を犯すものになっている。精神的にも悪を犯さないということが至難なのだ。
 
口から出て行くものは、心の中から出てくるのであって、それが人を汚すのである。というのは悪い思い、殺人、姦淫、不品行、盗み、偽証、ののしりは心から出て来るからです(マタイー15−18)
 
人間は悪い思いが先にあり良い思いをもつこと自体至難なのである。ではどうしてそういう人が善行ができるのか?ボランティアとか善行がただ人に良く見られたいとかほめられたいとか別な動機がありその心の中はわからない、だから神は行動より心を見ている。行動よりもその動機がどうなっているのかを見ている。心を見ているとしたら心を良くする必要がある。ではどうしたら心を良くできるのか、それはこの世の中で善行することではない、まず心が悪に染まらないようにすることなのだ。それは自らの内からも悪は生まれてくる、悪が生じないように訓練することでもある。現実社会なの中ではどうしても相手を蹴落としてでも勝つとか様々な競争を強いられるしそこで悪も強いられる。それに抵抗すると職を失ったりする。社会生活の中ですでに悪を成さないこと自体至難になっているのだ。
 
善は積極的に何かを成そうとする意識が強すぎるのだ。これは欧米流のキリスト教に多い。何が何でも善を成すのだというのが欧米のキリスト教である。一方精神的修養に重きを置くのが東洋なのである。宗教はむしろ東洋の方が深いのである。今のカルト宗教団体は欧米流であり政治そのものとなっているものもある。心の問題などは関係ない、社会的に利権や利益を得ればいいとなればそこにもはや宗教心信仰心の一かけらもないのだ。むしろ心を無視してこの世の利益を権力を得ることこそ信仰だとなっている。心などはどうでもいいこの世の実権、利得を得ることが先になる。宗教は仏教だって心の修養としてはじまったのである。それでなければ洞窟に樹の下に悟りを開くために何年も黙して座っている必要がないからだ。心の修養を第一としたからそうしたのである。沈黙することはやはり口から悪い言葉をはかないことであり修養だったのである。
それでつくづく掲示板でも書いたが人間はどんな人でも他者を傷つける、傷つけない人はいない、男女間でもそうであり親子間でもそうである。実際に調和しているのはまれなのだ。離婚がこれほどあることでもわかる。男女の間でも調和するのがむずかしいのだからましてやその他でも調和することは至難だとなる。
 
だから大きくは戦争はなくならないというのもそのためである。人を傷つけないのは樹や石くらいなのだ。だから樹や石は詩にも書いたが奇跡的なのである。樹は枝を交わして隣の樹を傷つけることはない、ののしったりすることは全くない、石も誰かにののしりの言葉を吐いたりしない、そんなこと当たり前じゃないかとなるがでも人間社会からするとそのこと自体奇跡的だしもし誰も傷つけることがないような悪を成さないような人がいたら奇跡的でありそんな人はこの世にいないとなるのだ。すでに悪を罪を犯すことが宿命づけられているのが人間だからである。罪なき人?それは誰なのか?主イエス・キリストしかいなかった、それはまさに奇跡だったとなる。その他は全部罪人だったとなるからだ。その罪犯さないということは何か特別な善行をすることではない、悪を成さないということでありそれは行動的にも精神面でもそうである。心の中で憎しみが一杯になって恨みをもつとしたらやはり罪になるとしたらいかに心でも罪を犯さないことが至難かわかるのだ。エデンの園には罪がない世界であった。罪が入ってきたとき人間はエデンの園から追われた。でもエデンの園は神が造った自然だから今もあるからエデンの園はイメ-ジできるのだ。ただ人間は余りにも悪にそまり罪だから見えなくなってしまっているのだ。
 
青春時代は何か善行を行うことではない、むしろ善行はできない、いかに悪に染まらないか、悪を成さないかの方が大事であり守るべきものか知っておくべきなのである。どんな人だって結婚すれば妻を傷つける、結婚はだから罪を重くするともいえる。悪に染まりやすくなるともいえる。でも結婚は悪いとはいえない、むしろ独身というのも罪であり全部いいとは言えないのである。これも人間としては変形したものとなるから全部がいいとは経験からは言えないのである。ただ僧侶など社会に深入りしなかったのはやはり世の毒に汚されないためにそうしたのである。でもこれが全部いいとは言えない、でも社会の中で悪に染まらないことがいかにむずかしいかを知っていたからそうしたのである。社会の中ではおべんちゃらとかごますりとかいろいろ口でも言いたくないことも言う、そういうことが普通でありさけられないのが社会である。とするとそういう社会から身をひいて心が悪に染まらないような場に身を置くことも必要なのである。
とにかく善を成すことではない、悪を成さないようにすることこそ心がけべきなのである。でも実際はそういうことをあまり心がけない、しゃにむに行動に突っ走るのが青春である。あとで悪を成さないことこそが善でありそれが石や樹を見ればわかるように奇跡的なことだったことがわかる。そんなことが善だったのかという意外なことに気づくがもはや時遅しとなっているのが普通なのである。
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松川浦から新地の鹿狼山を回る(春の短歌十首)


松川浦から新地の鹿狼山を回る(春の短歌十首)

 
道の駅誰と会わむや春の雲

木蓮の芽吹かむとす広々と海の開けし春の朝かな

春の朝海を望みて一部落蒲庭(カバニワ)なれや宇多郷の村

松川浦春の潮の流れ入り朝風清し大橋わたる

春の風そよぎ新地や相馬藩境を越えて伊達領に入る

新地にそ海より春の風そよぐ鳥の海へとつづくなれこそ

船見えず暗み暮れにき北の海岡に春風そよぎ吹けども

春の日に金華山も見ゆるなれ鹿狼山より眺めわたせば

杉の目に生まれし女のあわれかな我が家に働き春になるかも

薪を積み牛も重いと泣きにしと鹿狼山(かろう)の麓の村かな

相馬藩伊達の境に黒木かな苦しみし日や耕す人かな

春の日に峠を越せば丸森や金山城をまた訪ぬべし

街道を旅行く人あれ春の日や一本松によりて去るべし

春の風梢をゆらしわたるかな旅人はるか去りにけるかも

今日の天候は天気予報通りだった。午後に一時曇ったがそのあと晴れた。鹿狼山の方からは海が曇って見えなかった。ここは海が広々と見えるビュ-ポイントなのだ。ビュ-ポイントはあるけど地元の人しかわからないことがある。富士山もビュ-ポイントがありそこに写真をとるために半年も車で寝泊まりしているとテレビで写していた。そういう景色の見晴らしのいい場所が必ずあるのだ。今日は蒲庭から松川浦から新地の海へそして鹿狼山の麓を電動自転車で走った。結構坂がある道だったが電動自転車なのでスイスイ上れた。どういうわけか筋肉痛で苦しんだが疲れをとりまた走った。電動自転車だとそんなに疲れるはずがないのだ。
新地は伊達藩の境であり丸森もそうである。だから金山城は一時伊達藩と相馬藩が入れ代わり城主となっていた。そして黒木は黒木氏がいて鹿島区の田中城をめぐり攻防があった。黒木氏は伊達側につき相馬氏と戦ったのである。黒木は位置的に丸森に近く伊達にとりこまれる地理にあったのだ。こういうことは戦国時代であれ大国にの狭間で苦しむ土地の領主がいた。こういうところでも歴史を知っていると知らないでは感じ方が違ってくる。金山城は石垣が残っていて興味深い、小さな城にしてもあのように石垣が整然として残っていれば昔を偲べるのだ。


小説家だったら金山城を舞台にして短編を書けるだろう。一時相馬藩が支配したことでも興味深いのである。いづれにしろこうした小さい城とか郷土史を知ると知らないでは感じ方が違ってくるのだ。歴史はいくらでもその人が掘り起こすことで生きてくるのである。信長だ秀吉だと大きな歴史ばかり全国版で注目するが歴史はそういうものだけではない、そもそもそれぞれの家の歴史もやはり歴史であるとしたら無数に語られるべき歴史はあるのだ。杉の目の女性と関係したことも歴史となる。歴史は常に新しく作られてゆくから過去だけではない、膨大なものとなってゆくのだ。古いものだけが歴史では日々新しく歴史は作られている。団塊の世代もすでに古くなり歴史となりさらにまた新しい歴史が作られる。


歴史はまた地理であるから地理を知らないと歴史は具体的に実感しえないのだ。新地から伊達領に入ることを今は関所もないのだから誰も意識しない、お江戸日本橋から来た旅人も関所がないのだから意識しない、事前に知識を仕入れてもなかなか実感しにくいのである。江戸時代の旅は関所を通るたびに別な国に入る意識をもったから今とは相当違っている。今は便利すぎて旅もなくなった。鉄道で旅していれば海も見えないからどこを通っているのかもわからないし峠などもトンネルをくぐるのだから意識しない、鉄道の旅では省かれるものが多いのである。狭い範囲を巡ることはそれだけ土地に通じているから想像力が働くことが遠くに行くのとは違っている。遠くでは小さな館跡とか城が何を意味しているのかわかりにくいのだ。ともかく地理の連続性、大地の連続性、海の連続性として感じないと旅にはならない、新地から亘理の鳥の海に通じているとか連続して感じる必要があるのだ。鳥ノ海には行っていないがここからは亘理に通じて鹿狼山の峠越えれば丸森の金山城になりさらに梁川城に通じているとか地理から全体を把握してゆくのである。
 
今日はともかく太平洋を望んでも曇っていて暗く船も見えなかった鹿狼山から牡鹿半島や金華山も望遠鏡があったら見えるだろう。金華山の碑も相馬藩内に多い。伊達領の神社の碑が相馬藩内には多いのだ。それだけ地理的には仙台の方に今でもそうだが江戸時代もそうだったのである。次は丸森から梁川の城跡を回るとここは米沢藩とか会津藩とかもかかわっていたし玉野の境争いで有名である。だからこれを回って歩くとこれも歴史探訪になる。自転車だと距離感もわかる。電動自転車だと坂を上れるから行けないところにも行けるようになった。相馬藩内なら一日の範囲内であり相馬藩を出ても一日で帰って来られるからいい、梅雨になる前に回っておく、四月五月は一番いい季節だからだ。
 


鹿狼山の昔 


 鹿狼山-父の共有林
http://www15.plala.or.jp/adumatakayama/topic/topic61/topic61.htm

 

ここに鹿狼山のことが書いてあった。牛が泣いたというのは実感なのか?韓国映画の牛の鈴音が話題になっている。郷愁のようにそうした牛とともに生きた時代がなつかしむようになっている。こうした話は実際は大きな歴史ではないから無数にある。それもまた郷土史なのである。
こうした話は誰かが掘り起こすと活きてくるのだ。


 

2010年04月04日

京都の桜は満開(みちのくより偲ぶ桜の短歌)

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京都の桜は満開(みちのくより偲ぶ桜の短歌)

行き交いぬ京都の道々花の影

橋いくつ花に暮れるや京都かな

燕来る橋のいくつや京都かな

築地塀枝垂桜の花の影京都の女や歩み行くかな

詩仙堂その真昼間に赤々と散れる椿に花そ散るかも

清水の坂上り下りや夕暮れに鐘の鳴るかな春深まりぬ

枝垂桜その色濃くも交じりつつ御池に写し御所の暮れにき

平安京古の跡埋もれしや京都の街歩む春かな

平安京その日はいかに錦なす交わる人や春の夢かな

天皇の代を重ねし京都かな春爛漫の栄還らむ

天皇の参詣したる御寺かな菊の御紋に春の雨ふる


春の日に京都をそぞろ我が歩み昔の人と逢うも良しかな

八坂なる枝垂桜のその色の夕べに深め夜も人よる

京都より大津をめぐり浪の音聞きつ春の夕暮迫る

京都なれ春の日影の移ろいて塔の影さし日がな歩みぬ

生きてまた訪ぬることあれみちのくに京都は遠し花は咲くとも

春の日に京都を巡るいつしかに時は過ぎにき年も古りにき

いつしかに京都は遠しみちのくに花咲くを待つ年も古りにき

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春となれば必ず旅に出ていた。東から西、西から東と旅していた。遂に稚内でも六月に桜を見た。それだげ桜前線は時間的にも長いのが日本なのである。京都の桜は今が満開である。それをサイトで見た、やはり京都の桜は見事である。でもその日が遠くなり記憶も遠くなる。でも確かに京都を気のむくままにゆっくりと歩いていた。そういう日があったこと自体恵まれていた。人間の時間は実際は限られていたのだ。その中で奴隷のごとく働くことに追われているのが普通である。それが全くそういうことがなく旅の中にありつづけたことであった。今ふりかえるとその時間は貴重だった。今また旅するということがかなりむずかしくなっているからだ。旅というのは時間が制限されるとだめである。旅というのは道が二つに別れていたらどっちに行こうかと立ち止まり気の向くままに旅することなのだ。あらかじめ決められた軌道の中を行くのが旅ではなかった。でもそれだけの旅を今やできない、みんな決められた道、軌道の中を決められた計画された通りに行っているだけなのである。そんな気ままな旅をししていたらまずまともな職にもつけなくなる。今の時代そんな人がフリ-タ-やら何やら増えてきたのが不思議である。人間の生きる時間は限られている、すると労働の奴隷として生きたとはいえ、それが人生なのだ。終わってみればそれがどうのこうのといってもそれが人生だったとなる。もう戻ることはできない、もっと自由に生きていれば良かったとかもっと旅していれば良かったとかいっても時間がなくなっていたのだ。もちろん退職して必死に旅する人もいるから終わったわけではない、現実退職して世界を放浪している人もいるが結構辛いことになる。

ともかく今京都は桜が満開である。これをインタ-ネットで見るのも今の時代である。ここは一分咲きにもなっていないから相当差がある。そこがやはり日本の季節感なのである。みちのくは遅いしまたみちのくのなかでも岩手とか青森はもっと遅い、この時間差が桜前線が極めて日本的季節を感じる。京都は新幹線ですぐじゃないかという時代でもやはり今となると遠いことがわかった。どうしてもゆっくり見るとしたら一週間とかかるのだ。その時間をとることがむずかしいのである。もちろん金もかかる。今ふりかえると旅は金もかかるし結構手間がかかるものなのだ。それで若者はめんどうだと金もかかると旅すらしないなまけものになってしまった。それもあとで後悔するようになる。何の思い出も残らなかったとかなり老後は索漠としたものとなる。

人間の一生は限られているから何しても限られている。その間に記憶したものが何なのか老人になりわかる。記憶はみんな消えるわけではない、やはり貯えられていたのだ。金も貯えられたが、金で思い出は貯えられない、一億残っていても貯えていても金自体にはこれまで生きてきた記憶は貯えられていない、それは脳の中に貯えられているのだ。金は確かに大きな力をもっている。老人でも金だけが頼りだというのもわかる。でも過去の過ぎ去った時間を金でとりもどすことができない、もちろん必死で退職後旅する人はいる、でも結構大変な労苦になる。旅することは結構な労働でもあったのだ。青春時代だったら金というのはもっと大きな力であり有効なものである。例え無駄なようでも留学したり何か金があれば有意義なことができる。老人はなかなかもう金を活かすことがむずかしくなる。健康のために病気のために介護のために金を使うだけとかなる。一億円貯えればそれだけの価値を残したかというとそうではない、青春も時間も過ぎ去り何を生きたのかが問われる。何が記憶されたか問われるのだ。プラスであれマイナスであれ必ず何かが記憶されているのが人生なのだ。その記録されたものが人生だったとなるのだ。いくら金があっても過去の記憶を買えない、過ぎ去ってしまっているからだ。江戸時代に戻れないと同じなのである。

春はすでに六十回以上経験していてもやはり違っている。同じ春はないのである。春はやはり未来に向かっている。春は何であれ前進の季節なのである。春はやはり一番気持ちいい季節なのである。そして遂に何度の春を経験して春も終わりかとなる。もはや春を味わえない、そうなる日も近いのである。人間の与えられた時間は限られているからそうなるのだ。西行のように春に死ぬことはやはり人生を全うしたからだろう。冬に死ぬのは何か寒々しい最期なのである。春に死ぬのはやはり気持ちよく死ぬということである。春の盛りにこの世をお別れすることは幸せだったとなる。人間の死を見たら無惨な死が多すぎるからそのように死ぬ人は本当にまれだろう。最期の死だけはどんな地位ある人も金ある人も無惨なのである。誰も最期気持ちよく死ねないものかとつくづく思っている。しかしそう死ねる人はほとんどいない、みんなのたうちまわり死んでゆく・・・それは生を全うしていない、事故であれ病気であれ自殺であれみんな悲惨そのものである。生が全うされる人はまれなのだ。 だからこそ西行の春死なむが人間の理想となっているのだ。


2010年04月05日

新地の地勢は日本の典型(鹿狼山の伝説など)

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新地の地勢は日本の典型(鹿狼山の伝説など)

 
手長明神は年を経た鹿を愛し、白狼を馴らして連れ歩いた。山頂から長い手で海から貝を取って食べ、その貝殻を捨てた所を貝塚屋敷という。相馬郡の方のふもと新地の小川部落にあった。

浜から離れた場所で貝殻が発見されるため、手長明神が長い手で海から貝をつかんで食事した場所だったという伝承が残っており、その社の跡も残っています。
http://www.mahoron.fks.ed.jp/bunkazai/264.htm


歴史が地理だと書く度に指摘しているけど、それが一番身近な住んでいるところでも地理がわからないのだ。そこに長年住んでいても地理の感覚は身につかない、新地などすぐ近くだからわかりきったところじゃないかとなるそうでもない、新地の地理的特徴は同じ浜通りでも特殊なのである。山と海が近接している、海までの距離が一番近いのである。新地駅からのみ太平洋が見えることでもわかる、ここが海なのか、歩いて行けるなという距離なのである。鹿狼山も浜通りでは最も海に近い高い山だから手長明神の伝説が生まれるにふさわしかった。伝説であれ何の根拠もなく生まれない、ここでは明らかに地理が歴史を説明している。手長明神のある所、手の長い神が貝をとって食べて捨てたという貝塚との距離感が現実的なのである。縄文時代は海が奥に入っていたからさらに距離的に貝をとるにはいい場所だった。その頃沖まで行って魚をとるという技術はもっていないから貝中心の食生活になったのだ。鹿狼は当て字でありガロウという音に漢字をあてたのだから鹿狼と漢字でなってるからそのあとにこんな伝説を作った。地名伝説にはそういうのが多い、鹿と狼は関係ないのである。ごろごろした山とかの意味である。
 
鹿狼山の麓あたりは海から一段と高いところになっていて住みやすい所だった。海と山が近接しているから海の幸、山の幸に恵まれていることになる。また縄文時代は湿地帯が多いから人は高台に住んでいた。すると新地には海のすぐ後ろが高台になっている。間に平地があっても距離が短いのである。最初は平地は住みにくい湿地帯であり人は住めなかった。高台が住むに適していた。だから新地は最初に人が住みやすい場所であり手長明神の伝説が生まれたのも今でも地理がわかれば納得するのだ。松川浦とか真野川とか他は山はずっと背後になっているからだ。その分湿地帯が広範囲にありどうしても松川浦もその湿地帯の中にあったから万葉集の歌(松がうらにさわゑうら立ちまひとごと思ほすなもろ我がもほのすも)・・・はありえないと考証したのである。これも地理がわかればそうなるのだ。


鹿狼山の麓の杉の目に生まれ育った人の農家は水に恵まれていた。山の清水を家にとりこんでいた。三段の水槽にその水を流し入れて鯉を飼っていた。そこで子供のとき泳いでいたし風呂の水もその清水を利用していたから水で苦労したことがないという、これも鹿狼山が海に近くても山が近接しているからそうなったのだ。他では相馬市でも南相馬市でも山は相当背後にあり清水は出ない、鹿狼山のような大きな山が迫っているから清水がでてくる。他にも新地には清水で有名な場所が二カ所ほどありその清水をとりにゆく人がある。それはやはり山が近くに迫っているためである。町では前にも書いたようにもらい水である。水道がないときは自分の家では風呂の水は近くの江戸からバケツで運んでいた。子供のときそのバケツで水を運ぶことが家族総出で大変だったので文集にそのことを書いたのである。水をもらうことはまた井戸がない家にとっては苦労となる。「水をください」と頼まねばならないからである。新地では水に恵まれていたことは山と海が近接していたから山の幸と海の幸に恵まれていたことになる。平地の幸、米作りは後から湿地帯を苦労して人力で作り出したものである。縄文時代は海彦山彦の時代であり海の幸、山の幸の時代である。その典型的な地形が新地にあったのである。
 
ともかく日本では水だけには恵まれている。海から山へと行けばそこには豊富な水が流れている、その水もきれいであり飲めるから外国ではこんなに水に恵まれているのに驚くだろう。外国では川でも泥川が多いのである。水が飲めるような川などみかけないのだ。ともかく水道がない時代は水に苦労しない山の人は恵まれていた。山がすべて今のように悪いイメ-ジとはならない、木材が使用されていたときはそれで大儲けした人もいるからだ。新地でも「父の共有林」という話がインタ-ネットに出ていたが杉の目の人は知らない、その時すでに牛は使っていない、その前の代になっていたからだろう。人間は近くでも経験していることがかなり違っているのだ。そもそも海の幸と山の幸の国だとすると海の幸で生きる人と山の幸で生きる人はかなり違っているから海彦山彦の物語が生まれたのである。
 

(郷土史研究(水の問題)
http://musubu.sblo.jp/article/17441829.html

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2010年04月07日

白木蓮


六号線セブンエレブン初燕


白木蓮のふくらむ蕾に雀かな

白木蓮ふくらむ蕾太平洋望みて映えぬ朝の風吹く

百輪の白木蓮のふくらみし蕾に朝の風のそよげり

新しき塀に映えつつ白椿咲きしひそけく夕暮れにけり
 
三日前ほど燕がセブンエレブンに一羽来ていた。その燕はここにとどまることはない、また遠くへ飛んでゆく、燕も来たし今日あたり桜も咲いたようだ。でも今の季節は白木蓮の蕾がふくらむから白木蓮の季節になりつつある。この花は大きいから見栄えがする。背景が大きな海などにあっている。そして朝の風が吹くときこの花が大きな純白の花を咲かせるとき気持ちがいい。
 
電動自転車も一日乗ると筋肉痛になることにまいった。体が縛られるようになる。それで薬を買ってきた。やはり60過ぎる体がどこかしら弱ってくる、そしてその体が弱った部分は老化だから直らないのだ。電動自転車でもやはり坂を楽に上るにしてもそれなりに力が入るから体に負担がかかるのだ。ただ自転車だからやはり自分の力と自然の力で走っているという感じになるからバイクとかとは違う。でもこれだけ体が疲れるとだんだん電動自転車でも遠くに行くことが辛くなる。ともかく風を切って走るとき走ること自体が自転車は気持ちいいのだ。自転車はやはり自然と一体化する乗り物なのである。
 
木蓮ではインタ-ネットにいい写真がある。インタ-ネットは写真の宝庫である。だからたいした写真でないものを出しても見られないだろう。プロ級の写真がいくらでもあるからだ。あんなふうにどうしてとれのかと思う、やはり写真も芸術なのである。ただ技術に習熟しているからあのようないい写真をとれるのだろう。
 
 

九州から大阪城へ(春の短歌十首)

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九州-四国-瀬戸内海
 


九州から大阪城へ(春の短歌十首)
春の風吹きそよぐかな峠越えまたはるかにも旅に行きなむ

その時千里の道を旅をして南の海ゆ春の風吹く

伊万里焼き異国へ渡りその港春の風吹き夕暮れにけり

燃ゆるごと春の夕陽に映えにつつ開門岳を船に離りぬ

春の陽を朝に仰ぎ船は入る難波の港や栄し国かな

淡路にも城はありにき小さきや波よせひびき春の日没りぬ

大阪城海に通じて春の日や外国の人を謁見するかな

大坂城夕陽に映えつなお花散りやまじ人も絶えじも

大坂城大いなる石運びくる春の日さしてここに残りぬ

大坂城その城内に一品の茶器を手にとり春の日暮れぬ

大阪城その内広し春陽さし奥へと巡り花の散るかな

城の中花の影日がな奥座敷姫華やかに物語かな

鹿児島から船で薩摩を去った。開聞岳が船から見えた。船の上で春の陽が上り難波の港へ入り大坂城へ行く・・・九州の海は東北の太平洋とは違っている。具体的に外国と結びついている海だった。伊万里焼ももともと有田焼きが伊万里から輸出していたからである。タイとかベトナムに埋もれていた伊万里焼が発見されたりオランダなどヨ-ロッパにも輸出された。瀬戸内海から九州の海は長崎でも福岡でも確実に外国と結びついてる海なのである。
大坂城はやはり一大歴史絵巻を成した秀吉の城でありこういう豪壮な城とか歴史は東北にはない、春の夕陽が映えて桜が絶え間なく散っていた情景は今でも忘れられない、 大坂城は大阪湾に通じていて船が出入りしていた。ただ今になると都会の城はビルの谷間に埋もれているから当時の情景と余りに違っているからどうしも想像力で当時の世界の中に入る必要があるのだ。城が今だとビルと比べると余りにも模型のように小さく見えてしまうのである。城を見る当時の感覚は全く違っていた。なぜなら二階建ての家もまともにない平屋だけの市街に高く聳えているのが城だったからであり天守閣も街を一望できるものでありそこから眺めることはその土地を支配することだった。

秀吉の時代は安土桃山文化が華開いた時期でありその余波が伊達政宗を通じてみちのく仙台にもたらされた。瑞巌寺の金碧障壁画もその一端としてあった。その規模は余りに小さかった。秀吉の安土桃山文化は黄金の茶室のように豪壮そのものだった。醍醐寺の茶会とかも豪壮絢爛たるものでありそれで侘、寂を主張した利休と衝突したのである。それは余りにも異なる価値観から必然的にそうなった。東北こそ侘、寂にふさわしい地でありそれで芭蕉の奥の細道が生まれたのである。黄金に価値を置くのは外国でもスペインとかインカ征服で黄金文化が華開いたことは共通しているが侘、寂の世界は日本独特のものである。いづれにしろ大坂城の桜は忘れがたいものとなっているのだ。歴史でもその中に生きていた人は常にその城の美を見ていたとは限らない、権力の象徴だからかなり圧迫されたものとして見ていた。歴史はその中に生きている人にとっては常にいいものと限らない、要するにこうして回想するときは歴史も
ただ美として鑑賞できるのだ。その時代にその中で生きている人にはそうした余裕はない、死に物狂いで生きているのは今も同じなのである。

大坂城の桜については前も書いたけど短歌でも俳句でも連作として活きるものがある。十首を一つのものとして創作している。前にも作ったものがあるけど十首が一つだからそこで一首を別々にするより活きたものとなる。一つ一つをばらばらに別々に読まない、十首を一つの作品として読むのが連作なのである。短歌ではそういう連作を発表しつづけてきた。俳句はなかなかそうはできない、短歌はやはり長いから表現の幅が広がっているのだ。何か自分の石を伝えようとすることができる。俳句は写生とかで表現の幅が現代では短すぎるものとなってしまった。かといって詩になると冗長になるのが日本の詩であり短歌も短いが十首並べるとそれなり長い連作として提示できるのだ。

何故カルト宗教団体の被害者になる人が増えたのか?


 何故カルト宗教団体の被害者になる人が増えたのか?

 
●何故戦後カルト宗教団体が増えたのか?
 
カルト宗教団体がなぜこれほど戦後増えてきたのか、それは大東亜戦争の時、天皇崇拝の言論弾圧など信教の自由がない反動として雨後の竹の子のように宗教団体が増加したのだ。その最たるものが創価だった。その時人々は戦争に負けて茫然自失して何に頼っていいかわからなくなっていた。今まで頼っていた天皇も人間宣言で憑き物が落ちたように転落した。アメリカから民主主義が入ってきたがこれもまた何なのかただ名前だけであった。民主主義とは何かもわからない、今まで批判していて英語すら敵国の言葉だからとか否定していたのがアメリカ一辺倒になったことが戦前と戦後の二つの世代を生きた人はどうなってしまったのか全く拠り所を失ってしまったのである。そのあとに民主主義は結局何でも自由だということであらゆるものが自由になった。信教の自由がありその宗教は何でもいい、何を信じてもいい、どのように解釈してもいい、どんな宗教団体でもいい、その中味はどうでもいい、信教は自由だ、自由を否定するものは許せないとなり宗教も規制されることはない、悪質な宗教とは言えないものも堂々と勢力を伸ばす結果になった。何か批判すれば信教の自由を規制するのか、民主主義に反するとなる。それが創価のように政治と全く一体化すればますます宗教を利用した政治活動でも政教一致でも批判できない、戦争の時の天皇教も政教一致だったからその批判をしているのも不思議である。左翼系は国旗さえ無視している。それほど極端になっているのに全く政教一致の創価などは批判されない、真光なども相当に政治色が強い団体なのかもしれない、政治に相当影響しているから政治家でもマスコミでも批判しない、そもそも聖教新聞を新聞社で刷っているところがかなりありそれが収入源だから批判したりしない、会員から巻き上げた金はそうしたマスコミ対策として湯水のように使われるのだ。これも実際何でも自由だと民主主義の落とし子でありその極端なものがオウムだったのである。あそこまで極端化することの恐怖である。規制がない自由というものも実際は相当怖いものなのである。ナチスが民主主義が生まれたことでもわかる。ナチスすら自由だから規制できないのである。
 
●自由は大衆にとっては重荷だった
 

何でも自由だというとき本当にこれは個々人にとってもその自由を使いこなすことは簡単なものではない、例えば職業にしても何でもなりたいものになれるのが現代、職業選択は自由だ。あなたは何にでもなれるんだよと言われてもでは一体自分は何になっていいのか、何を目指すべきなのかわからない、人間はそもそも若いとき自分が何に向いているかなどわかりにくいのだ。個性を尊重しろ、自由だと言ってもその自由を使いこなすことは至難なのである。だから江戸時代の方が精神的に安定していた。武士は生まれたときから武士になることが定められてた。教育も家庭でも藩でも武士としていかにあるべきかを文武両道で習った。もう目標が決まっているのだからその目標に向かって行けばいいし回りもそうだし何を見本にするかも決まっているから厳しい修行があっても精神的には安定していたのである。そこには自由は確かにない、武士になる意外の道はないが道は定められているからそこにはそれなりの人物が作られてゆく、
それで明治維新のときそうした武士がやはり主導したからこそできた。江戸時代と明治を生きた人間は二つの世界を知っているから偉大だった。明治以降日本人は武士の精神は受け継がれずそれたものとなり人物もなくただ学業の秀才だけが支配して日本を誤った方向に導いたのである。

 
個々人でもお前は何にでもなれるとなるとつかみどころのない混沌たる世界にほうりこまれることになる。自由というのは相当重荷になるのだ。あなたはこれをやれとかあなたはこの道を究めろとか一定の指導があった方が安定しやすい、何でもやれるというのは何もやれなくなると同じなのである。ニ-トとかフリ-タ-とか増えたのは個性尊重であり自由尊重から親が寛容であったからそういう自由に生きようとする人が増えた。その親とは団塊の世代だった。団塊の世代は企業戦士であり企業に会社に全く服従した人たちでありその反面自由がなかった、犠牲になったという感覚をもっている。だから子供にはもっと個性を尊重して自由に生きてもらいたいと反動としてそういう精神傾向をもっていたから子供にも嫌な仕事にもつかなくても寛容だったとなる。でもこれは今や裏目となった。自由になるというより回りが仕事につく自由さえなくなってきていたのである。いづれにしろ自由であることは必ず「小人閑居して不善を為す」というのは今の時代には多くなる。高度成長の時代にはニ-トとかフリ-タ-はほとんどいない、みんな正社員として働いていて働かない人はアウトサイダ-とかなる。それは上野霄里氏とかの天才をさして言っていたのである。あのような天才であってこそ自由でありえた。自分のような凡才は自由に生きることは容易ではない、だから大学でもそこは高校と違い余りにも自由すぎたのである。授業に出ないのが普通でありそれを誇りにしていたとか全くそこは自由の世界なのである。だから一日マ-ジャンで終わっている人もいたし結局マ-ジャンだけして大学を終えた人も相当いるのである。これも 結局「小人閑居して不善を為す」なのである。ましてやこれだけ増えたニ-トとかフリ-タ-もそうなる。自由は簡単に天才のような人でない限り使いこなせないのである。選択も自由だとなるとき一体何を選ぶべきかもわからない、それでカルト宗教に誘いこまれたりするのである。自由とは大衆にとっては重荷でありその代価がカルト宗教団体など跋扈してそこで精神が狂わさせられることになるのだ。
 
●なぜカルト宗教団体から脱するのが困難か
 
宗教というのは信仰はまず独立した信仰でないと必ずゆがめられたものとなる。信仰するとき誰かを仲介するとき、何かしら必ずゆがめられているのだ。仏教を究めようかとなるとき宗教団体に入ること自体とんでもないことである。ここは仏教を教義としているからここで仏教を学べるのかとなったらそこは暴力団の組織だったとかと同じなのが宗教団体である。こういうことがまかり通っているのが今の世の中である。そして団体に入ることが宗教であり団体に入らないものは宗教とは信仰とは全く認められない、巨大な数を要して圧力をかけるときその団体が何者かと他では意識させられるのだ。八百万票を提供できる団体か、これは無視できないと政治家ではなる。ただ数として勢力として認定してその中味はどうあってもいいのだ。政治にはこうした宗教団体が必ず具体的に集票組織として関係しているのだ。そもそも団体に入ることが宗教であるというとき団体はBODYとも訳すから団体はすでに肉なのである。霊と肉があるとき団体に入ったものは肉として機能する運命にあるのだ。団体に入らない宗教者とか信仰者はこの世に存在しないのである。この世は肉(BODY)しか認めないからである。でも団体は圧力を社会にかけるのはいいが宗教的な根本の慈悲だ愛だとか徳を実践することはない、圧力かけて寄付させたり票を集めはさせるが個々人にそうした愛とか慈悲とか徳ある人は存在しない、あくまでも組織の勢力拡大を第一としているからそういうことにこだわると会員は増やせないからそうなる。あなたが苦しむのは先祖が悪いとか信じて拝まないからだとかいうがその人自身の責任など問わない、借金で苦しむ人はそれなりに金がないのに贅沢して金を使っているかもしれない、でもそういうことを問わない、先祖が悪いと言うけど実際はその人が悪いのである。
 

ロマ 8:15〜16
「あなたがたは再び恐れをいだかせる奴隷の霊を受けたのではなく、子たる身分を授ける霊を受けたのである。その霊によって、わたしたちは『アバ、父よ』と呼ぶのである。御霊みずから、わたしたちの霊と共に、わたしたちが神の子であることをあかしして下さる。」

 
奴隷の霊を受けるというとき団体に入ったものは肉(BODY)のものであるからそうなる。そして仲介者をもって霊を受けることはできない、霊は神から直接来るからである。そこに牧師であれ仲介者が入ればその人は肉の人だからどういう人かわからないから頼るべきとはならない、そういう人の中には邪悪な人もいる、除霊するとかなんとかキリスト教団もカルトがかなりありそこで奴隷の霊を受けるからだ。なぜこれほどまでに宗教団体の奴隷になる人が進んでなる人が膨大なのか?まさにこの世がサタンに支配されているからではないか?容易にサタンの奴隷にされるのがこの世なのである。宗教団体の奴隷化した人たちは執拗にスト-カ-したりしていることはサタン(悪魔)の手下たとして働いているとしかいいようがない、それで自分たち信仰深いと思っているから始末が悪い、戦争のとき多くを殺した人が英雄となるように全くサタンに洗脳されて行動してしいるとしかいいようがない、でも自由の名のもと民主主義の名の元に公然と勢力を拡大化できるのだから自由と民主主義はまさにサタンにとって好都合なものだともなってしまっているのだ。自由だということはサタンにとっても自由だ、自由に自分たちの手下を増やして勢力を拡大化できるという皮肉があるのだ。
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2010年04月08日

騒音語と化して詩語が喪失した現代文明 (原生圏の森の人-詩)


騒音語と化して詩語が喪失した現代文明
(原生圏の森の人-詩)

一切が語っていて、一切が聞きのがされる、
一切が語っていても、成就するものは何もない
一切が鵞鳥のように鳴きたてる
しかし静かに巣籠もりして卵を孵(かえ)そうとするものはいない・・・
そこでは一切が語り語り壊されている・・・ニ-チェ(ツアラストラ-帰郷の部)

現代文明を痛烈に批判した。一切が語るというとき一部の人が成熟した人が語ればこうはならなかった。今やあらゆる人が語る。全部は無駄でないにしろそうなるとすべてピカ-トの言う騒音語として意味を成さないものとなる。言葉は沈黙の背景があって生きてくるし長い沈黙の中に言葉は成熟して詩語を形成する。自然は常に樹であれ石であれ大地であれ山であれ沈黙しているからだ。だからその沈黙から発する言葉を聞くには自らも相当沈黙せねばならない、太古の沈黙の世界に帰らねばならない、そうなると文明圏では不可能になる。新たな原生圏を意図的に作り出さねばならない、そこで沈黙の業を行うのである。現実に禅僧などはそれをしてきたからめずらしいことではない、つまり社会から離れて禅を究めるためには禅堂があり庭を作り社会と区別した世界を造ったのである。文明圏は今や余りにも巨大であり騒擾の混沌(カオス)となっている。一切が語っていても今や誰も聞いていないとかなる。インタ-ネットなんかもあらゆる人が無秩序に語りカオスとなっている。いづれにしろ現代文明の中から成熟した言葉(詩語)を見出すことはむずかしい。あらゆる人が成熟しない言葉を吐きだしつづけすぎるのだ。有名でないにしろ10冊以上の詩集を書いている20代の自称詩人もいる。詩集など出版されなくても今や本自体作ることは簡単になったからそうなる。でも誰か価値を認めることはないだろう。
自然に通じるには自然が沈黙の長い継続である時、人もまた沈黙せねば通じることはできない、だから禅堂に籠もったように文明圏と分かたれた原生圏を作りそこに新たに自然が語るものを詩語として語りだすのが詩人の役目である。原生圏と言ってもそれは全く別にあるのではない、自然にあるものであり自然が残っていればそこから自然の再創造が行われる世界である。それは東京のような都会にはありえようがない、沈黙と言ってもそれは全体に沈黙がなければ沈黙は孤立してしまうとかある。江戸時代は全体の沈黙があったから芭蕉の句が生まれたのである。それは今になると作り出せないその時代の沈黙から生まれた句だったのである。
静かに巣籠もりして卵を孵(かえ)そうとするものはいない・・・この時間が相当長くなるのだ。だから待てないから20代で未熟な成熟しない言葉を吐きだしているのだ。これは別に若い人だけではない、詩人は騒音文明の中で大自然の沈黙に通じた言葉(詩語)を吐く人が途絶えてしまったのだろう。言葉は無限に吐き出されているがその言葉は騒音語なのである。成熟した言葉(詩語)は沈黙を習慣としているような時、徐々に紡ぎ出される。自然のロゴスがその長い時間の内に成熟して吐き出されるようになる。

人間の心が文明の中で通じなくなったというとき共通基盤としてアイディンティティの基の自然を喪失したためだろう。それでそのアイディンティティ取り戻すために回復するために相馬郷土史研究をはじめたのもその一つだった。郷土だから土の上にあり土の上に本来の人間のアイディンティティを見直そうとしているからだ。自然に通じるには本当に長い時間がかかる。だから今のような時代は自ら沈黙を作り出せねばならないし沈黙を習慣とすることをあえてせねばならない、そういうことができれば自然に通じて成熟した詩語を吐き出すことができるのだ。しかしその道のりは長いから60代前で死ぬと未完成に終わる。中途半端なものとして終わる。天才は別として凡人はだから長く沈黙の修練すれば詩語が自然のロゴスが宿るようになる。
それは必ずしも才能ではなく結局修練なのである。

いづれにしろ誰でも超人になりたいというのは強い願望だからニ-チェが特別なことを言ったわけではない、神になろうとしたとき倒れたのである。どんなことをしても自力で超人や神になることはできない、でも誰でも健やかになりたい、強くなりたい、それは当たり前のことである。弱い人間などなりたくない、体が弱ければなんとか強くしたいとなり自分もそうなろうと努力してきたのである。やはり詩でも病的なものがかなりありそういうのは精神上読むと良くない面があるのだ。そういう詩ももてはやされるのも文明人が病んでいるのだというの上野霄里氏の指摘ももっともなことなのである。誰も病人のように弱くなりたくない、だからニ-チェでも上野霄里氏でも当たり前のことだが天才だからあのような強烈な主張ができたともいえる。体が弱くても節制したり訓練すると多少は体も改善される。ただ60代になると何らかの病気が出やすいのである。
自分に欠けているものはニ-チェや上野霄里氏が持っている強さであり雄渾なるものであった。自分のような細身の神経質な病的になりやすい性格の人は逆の志向を持たねばならない、おおらかな陽性な性格に憧れるようになるのだ。

繊細なるものは胆を大にすべし・・正岡子規が俳句大要でその上達方法を書いているが詩人には繊細なるものが多いがもし繊細なるだけなら自然を現すことはできない、自然の詩語を吐き出すことはできない、自然は余りにも雄渾であり雄大であるからだ。それを詩にしようとしたらその性格も雄渾なるものとならねばならない、繊細な病弱な人も日頃からそう努めれば天才的にならずともそれに近づくことはできるのだ。人間はすでに生まれつき固定されたものとして決定されていない、常に生きている間は生成発展している。遂に衰弱することもあるが性格も体力もやはりそれなりに他者から補ったりして拡大化できるのが人間なのである。沈黙するというのも修練だとするとき沈黙によって自然の偉大さを感得するということなのだ。それは生まれつきの才能ではなく修練だとなるから後天的に作られたものなのである。

(原生圏の森の人-詩)
http://www.musubu.jp/jijimondaiueno.htm#genpoem2

2010年04月09日

春の野(鐘の音について)


bellspring1.jpg 

時を告ぐ夕べ鐘鳴る広き畑

春の野に鐘の余韻や陽の没りぬ

梅散りて鐘の余韻や寺いづこ

鐘の音や野の広々と夕雲雀

草萌ゆる野の道歩み夕の鐘

鐘鳴りて余韻や春の野の暮れぬ

春の夕せせらぐ音に鐘の鳴る



めずらしく鐘の音を聞いた。あれ鐘を撞いている寺があったのか?正月には鐘の音を聞くことがよくあるが今普通に鐘を撞いていると思わなかった。この鐘の音だけは気持ちいいのだ。心静まるのだ。鐘は別に寺だけではない、鐘楼や時計台があり時を告げるために撞いていた。江戸時代の時間感覚はこの鐘の音だったのである。鐘の音が時間の区切りだった。鐘だけではない、太陽が上がり没すとか自然の感覚が時間の感覚だった。そこに鐘の音がアクセントのように時を告げたのである。時間を鐘の音だけに頼っていたわけではない、今は時計だけに頼っている味気ない時代である。時間に追われている時代である。江戸時代は時間に追われない、そろそろ鐘が鳴ったか仕事もやめるか眠りにつくかとか一分刻みに時間に追われる現代とは違うのだ。悠長な時間の一つのアクセントだった。


江戸時代に、時を告げるのは、寺の鐘の音でした。捨て鐘といって、最初に3つほど撞いてから、時刻の数を撞いて知らせたそうです。
 

現在と違い、当時は鐘の音には大きな実用性がありました。お寺としても、檀徒に対して時報を提供することは重要なサービスの一つであり、お寺の存在価値を示すPRの意味もあったのでしょう。

寺の鐘は同じ区域でも遠くにひびかない、サイレンのように遠くにひびかないとすると狭い地域に寺があり鐘楼も必要になる。寺は単なる宗教施設ではなく公共的役目を担っていた。戸籍係でもあり武士の菩提寺でもあったが役所の一部としての役目があったからこれだけの寺があり今日継続しているがその役目が喪失したとき寺の役割も半分くらいは喪失しているのだ。
 

捨鐘の間を降り出(い)だすくれの雪-曲翠

鐘の音とくれの雪がマッチする。鐘の音はさらに静寂を深める音なのだ。しんしんとくれの雪がふりだしそこに鐘の音が調和して鳴る。鐘の音は心を静める音であり江戸時代なら全く自動車の音などないのだからその音は更に心に深くひびくのである。
 

畑打ちよこちの在所の鐘が鳴る(蕪村)

畑に働いている人にも鐘の音はひびく、ミレ-の晩鐘も有名である。教会の鐘が鳴った時、野に祈りをささげる。教会の鐘もやはり時を告げていた。
 

教会の鐘の古くひびきけり晩秋の湖畔ドイツの夕べ

The Death of the Old Year
( 旧き逝く年に )

アルフレッド ・テニソン
Alfred Tennyson

  

冬の雪は 膝までも 深く
  冬の風は 悲しくも 息を漏らす
  鳴れよ 教会の鐘 悲しく緩やかに
  そして 静かに歩め 声低く語れ
  旧き年は いま 逝こうとしている 


これも教会の鐘の音を適切に表現している。教会の鐘と日本の鐘の音はかなり違っている。やはり教会の鐘の音は甲高いから空にひびきわたる。東洋の鐘の音は大地に鈍くひびきわたる。いづれにしろ現代の時を告げるものは情緒がない、音楽を鳴らしたりサイレンであり何かせかされる音なのだ。もちろん毎日時間に追われている。時間に酷使されているのが文明人である。ただ何でも過去は情緒的にイメ-ジするが現実は過酷な労働に追われていたことも事実なのである。過去はその人によりどうにでもイメ-ジできる便利さがあるから問題なのである。

公園前の道は時の鐘通りとなっており石町の鐘楼があった道につながっている。
所在地
中央区日本橋小伝馬町。
http://www.geocities.jp/kikuuj/kyudo/kane/toki.htm

花の雲
      鐘は上野か
          浅草か   松尾芭蕉

「町の時の鐘」の音が聞こえる範囲のお寺の鐘の音を聞いて、遠くのお寺が鐘を撞く、さらに遠くのお寺が…という具合に遠くまで伝えられていく。だから、同じ江戸といえども、場所によってかなりの時差があったようだ。
東京では今はこうした情緒を感じない、江戸時代を偲ぶことができないのだ。余りにも変容してしまい過去を留めていない、ビルの谷間に過去は埋もれてしまった。もし東京でも江戸時代を実感したら救われた気分になる。余りにも雑多なカオスであり騒音に埋もれた異世界になってしまった。江戸時代は今になると癒しの世界なのである。


月落烏啼霜滿天
江楓漁火對愁眠
姑蘇城外寒山寺
夜半鐘聲到客船


月落ち烏啼きて霜天に満つ、
江楓の漁火愁眠に対す。
姑蘇城外の寒山寺、
夜半の鐘声客船に到る。

現代語訳

月は落ちて烏が鳴き、霜の気が天に満ちている。
漁火の光が運河沿いの柳の向こうに見え、旅愁のため眠れない私の目にチラチラして見える
http://www.k2.dion.ne.jp/~osafune/kansi/fukyouyahaku/fukyou.htm#

中国でも鐘の音はこの詩でも有名だし各地に鐘の音がやはり時を告げていた。夜半の鐘というと当時は電気もないのだから真っ暗だししんしんとふける寒い夜にひびくのだから一段とその音もしみいるものとなったのだ。
鐘の音は戦前辺りまでそれなりに日常的にあった。


夕焼け小焼けで日が暮れて山のお寺の鐘が鳴る。お〜手々つないでみな帰ろ、カラスと一緒に帰りましょう。♪

これも今になると牧歌的な光景である。今や子供も遊んでいないしイジメ問題とか索漠としている。その頃はこうした人間と自然が一体となり暮らしていたのである。今や余りにも変わりすぎた光景である。でも田舎だと広々とした野が残っていて鐘の音がひびきわたったからそこが東京とはかなり違っている。まだ自然と調和した世界があるのだ。

 追記
 

 モスクワの鐘を 心に秘めて
 http://poems.minna-no.jp/poems/view/33544

 
冬のオリンピックの浅田真央さんの踊りの音楽は「鐘」だった。鐘の音が氷上にひびく、これもまた特別なものがあった。鐘の音は地域的にもそのひびきが違っている。モスクワにひびく鐘の音は南なの国にひびく鐘の音は相当違っている。鐘の音はやはりその地域地域で違ったものに聞こえているし季節的にも違った音として聞こえている。日本の鐘の音でもそうであった。

 

インタ-ネットは何回も言っているけどこうして編集すると活きてくる世界なのである。キ-ワ-ドで素材を集めやすいからそれを並べただけでも一つの世界が生まれてくるのだ。「鐘の音」で集められるのである。編集は創造なのである。単に分類とかでも創造だから著作権があるのだ。
出版社は作家の編集をしているとすると編集権がでてくるのもそのためである。インタ-ネットではこうして常に編集すると意味がでてくるし創造となっているのだ。これは掲示板でも何でもそうだけどある個人が編集したとき意味のあるものとなってくる。編集しないからただ混沌となり意味を帯びてこないのである。

2010年04月10日

春の日の飯館村(俳句短歌十句十首)

iidateishiii22.jpg 
 


二三段滝落ちひびき芽吹きかな


山の蝶流れに沿いて舞い下る

石くれの粗末な墓群れ落椿

流れ澄み春の光の波紋揺る

蟻いでるあと越える坂いくつかな

日永きや大石六つ飯館村

a sunny long day
in spring
the six fixed stones
in IIDATE villige


春の日や番を忘れて犬眠る

蕗の薹にとまる鮮やか山の蝶

飯館の分け入る奥や春の山

飯館の山陰の家夕鶯

山越えて飯館村や夕鶯



 jisatubaki11.jpg
 


橲原に今年も散りぬ椿かな粗末な石の墓群れ隠りぬ


上萱を越えて飯館山陰になお雪残る我が上りゆく

春日さし飯館村やほのぼのと身のあたたまる寒き地なれど

山雀の枝にとまりてほこらしげ春の日さして飯館村かな

道々に蕗の薹かな春を告ぐ山に住む人健やかにあれ

分け入りぬ飯館村のその奥に家またありぬ春の山見ゆ

山陰にまた一軒の家ひそか細道たどる春の夕暮

飯館の林に春陽輝きつ没りゆく静か山を下りぬ

飯館の家々離れ鶯の鳴きつつ暮れて静まる森かも

飯館の夕暮れ静か森の奥処に群れ鳴く春の鳥の声かな

日の長くなりにけるかな帰れる山路なお明るしも

日の長く暮るる山々健やかにして事もなきかも



昼から上萱から飯館村に行った。2時間くらいで行けた。前は電動自転車でないから朝に出て午後の二時についていた。坂を歩くとそのくらいかかるのだ。今は体力なくなったから電動自転車に乗るのがいい、もっと体力がなくなるとバイクになってしまうだろう。橲原の墓所で不思議なのは粗末な石の墓群れが杉林に隠れるようにある。あそこに椿が散っていた。その落椿が何かその墓ににあっている。あそこの墓は明治以降のものである。江戸時代のものがないとしたらあとから開拓に入った人たちの墓なのだろうか、橲原自体は江戸時代からあるし慶応という石碑もあった。
上萱から飯館に入ると山陰にまだ雪が残っていた。今日は暑いくらいだったから雪はないと思っていたがあの辺はいつまでも雪が残る日影の道なのだ。飯館は南相馬市からすると相当標高が高いから寒冷地でありそれで悲惨な飢饉を経験してきた。だからこそあたたかい春をひとしお感じるものとなる。今日の不思議はいつまでも明るい、日が特に長く感じられたことである。こんなに日が永いのか、いつも暗くなるのが早いから追われていた。こんなにいつまでも日が永いのかと不思議であった。いつまでも明るく暗くならないのだ。これならゆっくり回れると思い道草をした。桜も咲き始めたからやはり春は盛りになり相当日が長くなっていた。日が長いということに特別なものを感じた。全体が明るくなっている。山々も明るい陽光の中にある。そして健やかに感じた。認知症とか何か病気とかかわったりすると自分もそうだけどそのために相当に病んでしまった。健やかな気分が消失してしまうのが鬱病であれ精神の病なのである。
 

山雀は四十雀とは違うから見分けがつくなかなか見れないけど飯館村で見ることができた。飯館村がなぜ他と違うのか、いつきても他とは違う、それは家々が山の陰や森の中に隠れるようにある。だから飯館村を回っても家々は隠されているから人がいるように意識されないのだ。意識されるのは森とか山の自然そのものなのだ。だからこそ気持ち良くなるのである。ではそこに住んでいる人とかかわると気持ちいいのかとなるとそうはならない、人は自然の中に隠されているからいいのだ。美瑛なども丘が多い所で有名になっているがそこの農家に泊まったがその人は畑をもっているが延々ともう農業なってやっていられないいられないといいつづけていた。そして最期には中国人の方がまだましだとか愚痴が尽きることがなかった。実際農業がそれだけひどいのだろう。でも外からくる人は美瑛の丘の風景にひかれて来るのである。つまりそこに住む人の生活とはかかわらないから美瑛は美しいとなるのだ。飯館村も同じなのである。
人の生活が家が隠されているからあとは森や山の精気がそこに満ちて感じて帰ってくるからいいのである。そこに住むとは自然の中に住むのではない人と住むから嫌になるのである。それはどんな美しい場所に行っても同じなのである。

posted by 老鶯 at 22:18| Comment(0) | TrackBack(0) | 飯館村

2010年04月11日

日永(太陽の偉大さ)

 
日永きや遠くの山を望み見む

タンポポの回りに土筆伸びにけり
 
 

昨日も書いたけど日が長くなったことを特別なものと感じた。古来から太陽は世界の中心になっていることは当然である。聖(ひじり)は日を知る人でありマヤの文明でも太陽の神殿であり日が衰退することを恐れて犠牲を捧げたことでもわほかる。それだけ日々太陽を意識していた。
日本でもそれは変わらなかった。日の丸はまさに太陽の象徴である。文明人は自然を意識する度合いが少なくなっている。文明人は電気の明かりの方が太陽の代わり光の代わりとなっている。部屋でも日夜照らされているのは電気の光であり遂には電気の光は太陽の光ではないかと錯覚している人もいる。実際に夜でも昼のように明るいではないか、確かに不夜城というのはわかる。でもこれも自然の大きさ偉大さから比べると違っていた。電気の明かりは空全体とかを明るくは絶対にできない、太陽が消えてその代わりに電気の太陽に置き換えることなどできないのである。それを感じたのが日が長くなり山々や空全体の明るさであった。いつまでも暗くならない明るさがあった。これは太陽の運行と関係している。当たり前なことであり今さら言う必要もないとなるが文明人は文明の電気の明かりの中で暮らしているから太陽の偉大さを自然の運行がいかに大きいものなのか意識しにくくなっている。

 
かえって古代の人は意識していた。地球全体を明るくし暗くする太陽の巨大さを意識されなくなっている。太陽は信じられない広い範囲を照らしている。文明の全部の電気のエネルギ-を集めてもこんな広範囲を明るくすることはできないのである。自然が偉大であることは神が偉大であるとなる。今は文明が偉大だ、文明が自然を凌駕しているとか錯覚している。自然の中より文明の中に人間は生きているからだ。その時自然は意識されず小さいものとして錯覚する。それが文明の傲慢さ通じる。人間や文明から自然を比べるとそこには信じられない落差がある。自然の大きさは時に意識されない、日々の生活の中で毎日あくせくしていると意識されないのだ。ともかく日が長くなるということは大きな季節の変化でありどこでも注目してお祭りにもなっていた。復活祭というのもそうだろう。太陽が復活するとかの意識がそこにあった。文明が余りにも巨大化したとき人間は自然の大きさを見失ったのである。

   
万能の神の手が日を作る

太陽の鏡の向きを変え日が長くなる

一つの奇跡のように

太陽の運行は劇的に変わる

こうして万物の命が目覚める春が来る

旅人はまた遠くを目指す

かなたのさらに高い山を望むために
 

2010年04月12日

日永のこと(つづき)


家までの山路の遠し日永かな

 

昨日のつづきだけどマヤ文明が極端に太陽が衰退することを恐れたのは科学が発達していなかったからと今では言うがその当時からすると本気だった。太陽がすべての命の源だと認識していたからそうなった。実際に太陽がなくなればこの世が暗黒となり生命は死滅してしまう。
そしたら太陽の光が衰退することを最も恐れることがわかる。日の長くなる春はだから特別な
季節になるのだ。太陽が復活したような気分になるのだ。一方で日が短くなることは太陽が衰退してゆくという恐怖を感じていたのである。

 
文明はそうした自然への恐れを科学で克服したとように見えたが克服されていない、高度に発達した文明でも太陽が衰退してゆくように危機感を覚えることがある。石油がなくなったらどうするのだろう、石油がなくなったら生きていけないとかまでなっている。実際は太陽が衰退するよりはまだ人間は生きていける。そうして人類は生きてきたし最近石油が欠かせないものとなったのであり石油がなくても生きていける。だから石油がなくなったらもう生きていけない、石油を確保するために戦争も辞さないとなる感覚はマヤ文明などの恐怖感より馬鹿げたことだとなる。

確かに太陽が衰退するから人間を犠牲にしたことは今からすると野蛮だとなるがでは石油がなくなるからと石油のために戦争する現代人が野蛮ではないのか?こうして歴史的に人類の行動を考えると文明人はさも賢くなったように見えるが人間の愚かさは変わらないのかと思う。
太陽がある限り人間は石油なくても生きていける、だから石油のために戦争することは愚かだとなる。

 
飯館から南相馬市の今まで帰るのは相当に遠い、でもいつまでも明るかった。だからゆっくりと帰れたしあれまだ明るいなと何回も感じた。今日は雨で寒いし外に出れない、一日一回人間は運動しないと体も頭も快活になれない、最近毎日のように動いていたから余計にそうである。

2010年04月13日

落椿の墓所橲原-詩)

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  落椿の墓所

今年も椿がひっそりと散った

その杉木立に隠れるように

粗末な石くれの墓群れがある

名前も定かではない

ここで暮らしてこの村で死んだ

いろいろなことがあったろう

今は静かに眠っている

今年も椿がひっそりと散った

清らかな流れがひびき

蝶が一羽は流れにそって舞い

細い樹々の影が枝をさしかわす

この道を通る人はまれなるがよし

死者の眠りを乱してはいけない

安らかに眠らすがよし

遂には人はみな永久の眠りにつく

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posted by 老鶯 at 18:19| Comment(2) | TrackBack(0) | 詩全般

南相馬市原町区の桜(墓の不思議)

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朝の風落ち合う流れ芽吹きかな

原町の郊外広し春の畑

原町の郊外広し燕来る

原町に通りの多し燕来る

原町へ松に日のさしゆくりかに浜街道に桜咲きそむ

夜ノ森に花見の人や昔なれ母の実家は今はなしかも

墓のみそ残りてあわれ夜ノ森の桜を見しと我が帰るかな


南相馬市原町区の夜ノ森公園の桜は満開になっていた。あそこのすぐ近くに母方の実家があった。その実家が消えて久しい、実家は消失しても墓だけが残った不思議である。墓が実家の代わりになっているのだ。意外と墓は家がなくなっても残っているし無縁化しても墓だけは集められて残っている。墓は意外と長く残る。実際実家はないのだから墓が今や実家代わりなのである。そして最後に遺言した実家の長男たるべき人の言葉が忘れられない、「墓を守ってくれ」と言って死んだのである。だからその言葉が墓から聞こえてくるから不思議である。その人とは30年も会わなくなっていた。死んでから墓に語りかけてあっているというのも不思議なのだ。最後に言う言葉はやはり重みがあるのだ。とにかく実家の墓はいろいろと複雑すぎた。でも原町には縁深い人であり原町に眠るのにふさわしかった。墓も誰かが墓参りしたり死者に語りかけているときは活きているのだ。墓はだから近くに住んでいる人がいないと守りにくい、結構墓掃除とか行ったりしないと墓は汚れる。東京とか余りに遠くなると墓を守ることができないからその子供などは東京に墓を移してしまうのである。墓は掃除するだけでも死者に語りかけることなのである。


墓についてはいろいろ書いた。墓から歴史を探ることもしてきた。墓はやはり歴史と密接に結びついている。

死者はつねに見捨てられた歴史の彼方で、生者を呼んでいるのです
http://www.shonan.ne.jp/~kuri/hyouron_2/haniya/hennshitu.html

墓は江戸時代の武士ではない庶民の墓もある。そこには名字もあり名前も記されている。でもそれ以上のことはわからない、でもその墓を見るときこの言葉を感じるのだ。どれだけの死者が歴史の彼方に見捨てられているか?戦争で死んだものもさらに見捨てられる、陸軍兵長とか墓に記してもそれが今何の意味があるのかと思う、何か虚しい、でも戦争当時は誇らしげにその階級を記していたのである。
そして墓所でもいろいろあった。原町区の橋本町の墓所は街の中にあり広く区画されているから近代的な墓地である。一方鹿島区橲原の杉木立の中に隠れるようにある粗末な墓に心ひかれるのはやはり名も定かでない石くれの粗末な墓だからである。立派な墓だったらかえって心にひかれない、墓自体が隠れるようにあり外から来た人にはわからない、それが落椿とあっているのだ。墓は場所によって相当違ったものになる。都会の墓は鉄道のすぐ脇とか騒々しい所にあるから嫌だと思った。団地のようにロッカ-のような骨を納めただけの共同墓も何か嫌である。でも橲原のような杉木立の墓にひっそりと埋もれて眠ったら幸せだと思う。死んだ後のことなどわからないとなるがやはり都会の騒々しい所には死んでもいたくないとなるのが人情である。でも橲原にしても産業廃棄物として埋め立てられた所があり田舎も産業廃棄物の場所が多くなっているからすべてがいいとは限らない、ただ墓所はやはり心鎮まるような場所があっている。
それにしても原町はつくづく広い、ス-パ-のキクチだけ三つもあったし最近イオンも出たのだからス-パ-だけでもいくつあるのか、歯医者は軽く十以上ある。鹿島とか小高は原町区に吸収されて商店街もますますさびれる、ス-パ-さえ原町区に吸収されるのである。ただそれぞれの街や村には必ずないようでも特徴がある。原町区は相馬市より面白い街かもしれない、一早く近代化された街としてすでに百年の歴史があるからだ。近代化の産業の遺産が廃墟として魅力が見直されているのもそれが歴史になってしまったからである。


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これは面白い、中に窓を作り花を飾っている、そこがアイディアだった
 

落椿の墓地(橲原-詩) 
 http://musubu.sblo.jp/article/37076028.html

2010年04月15日

桜咲く(変わらぬ無常なる世)


人の世や永久に会えざるその女を思いば悲し花は咲くとも


水仙の石に向きつつ今日も咲き事もなきかも二輪草も咲く

  3108: うつせみの人目繁くはぬばたまの夜の夢にを継ぎて見えこそ

3292: うつせみの命を長くありこそと留まれる我れは斎ひて待たむ

最も深刻な歌は死んだ人を思う歌である。それで万葉集の相聞歌は実は折口信夫は死んだ人を思う歌だとした。魂乞いの歌だった。恋うは乞うであり死者を呼び寄せる歌だったのだ。だから浮ついた恋歌ではない、死者を思うということは深刻なのである。
・・・我れは斎ひて待たむ・・とかあるのは身を清くして死者が現れるの待つことかもしれない、万葉時代の感覚には現代では計りしれないものがある。こんなに恋歌ばかりあるのかとなるとうんざりするがその大半は死んだ人を思う歌だとするかなり違ったものとして認識する。死別を経験した人の悲しさは癒えることがない、そもそも二度と会えないから癒されない、延々と思っても二度と会えないからますます癒されないのである。だからその歌も深刻なものとなっていた。ただ恋愛ならば一時別れてもまた会えるのである。死者とは二度と会えないからその歌も深刻である。ただ妹(いも)とあるから恋人のようよ思っているがそうとは限らない、親であったり兄弟姉妹であったりとむしろそうした肉親が多かったのかもしれない、いづれにしろ空蝉(うつせみ)の世がこの世だった。逢うとしてもうつせみの世の命としてあう。常にうつせみの世と感じていたのはこれは今も昔も変わらないのだ。

延々と死者を思いつづけるのは結局二度と会えないからせめて一度だけでも会いたいとなる。それを乞うことはやむことがないのだ。

お母さんの顔が見たい。
お母さんの声が聴きたい。
お母さんの匂いを嗅ぎたい。
お母さんの温もりに触れたい。
お母さんと話がしたい。
お母さんと一緒に出掛けたい。

延々とその面影を追いつづける。それは徒労でもどうにもならない、特に若くして死んだ場合は死別は痛切なものになっているのだ。妹とは母親のことであるかもしれない、つくづく人間は死ぬと二度と会えない、これは本当に厳粛なことである。生きているときは一緒にいること逢うことは当たり前であり特別なことではない、しかし一旦死別すれば二度と会えないのだ。そしたらこの世にある、うつせみの世であれ一緒にあることが逢うことがどれだけ貴重なことだったか痛切に思い知らされる。二度と会えないから死別の悲しみが癒されない、うちのめされてしまうのである。
こうした無常は何も今だけではない、延々とくりかえされてきたことだから珍しいことではない、みんなが経験することなのである。その時期が早いか遅いかはあるがいづれは誰しも経験することなのだ。この世にあることは一時でありこの世で逢うことも一時なのだ。遂には永遠に会わない、会うこともできない、そういう無常の世であることは変わりない、その無常から脱するために宗教が生まれたのである。無常ならざるものを求めてきた。死がある限り無常があり死別がある。死が無常であり死を克服しない限り無常を脱することはできない、そもそも人間は死ぬから死別があるのであり死なないとしたら死別もないのである。結局死なない世界に行かない限り解決方法がないのである。人間がこの世に存在する限り死はあり死別もある。それは厳粛な事実でありそこにこそ本当の人間の姿があり華やかな青春の一時もたちまちすぎさり無常の世界がやってくる。それは変わらぬ厳粛な事実である。
飲めや騒げやと人生を浪費している間に夢のように人生は過ぎ去りただ白髪の老人が茫然として過去を夢のようにふりかえっている。それはくりかえされてきたことである。それは特別なことではない、だから無常から人や人生を見なければならない、無常こそこの世の変わらぬ定理なのである。今華やかに見えたものもたちまち色あせる、それは嫌というほどくりかえしてきたが自分のこととなると今のことはそう見えないのだ。特に若い人はそう見えない、輝かしい生のなかにありそれは永遠につづくように錯覚しているのだ。それをいくら諭しても実感できないのだ。そして老人になり無常が現実になったときみんな愕然とする。でもそれは確実に予定されたことである。死は一定あり逃れることはできない、死別もまた逃れることはできないことだった。だから死こそ一定として見据えて生きる必要があった。しかし実際は無常のなかにみな生きている。でも人間の行き着く先は死があるのみなのである。

2010年04月17日

花の影


寂けさや今日も踏み行く花の影


山鳩のとまりて去りぬ花の影

時にして花にも嵐寒々と雪のふりつつ花凍え咲く
 
 
41年ぶりに東京に雪がふった、東京がふるとここもふる、これでは冬に逆戻りだ、鹿島区でも祭りはだいなし他でも花見どころでない、花に嵐はあったが桜に雪というのは41年降りだから一生のうちに一二回しか経験しないことである。これと重なって胃酸過多とかになり対処が誤って失敗した。寝ていればいいと思い横になり寝ていたのが良くなかった。胃酸過多は食べてから横になると良くないとインタ-ネットに書いてあったのだ。早めに見れば良かった。こういうのはタイミングなんだ、何でもタイミングが良くないとだいなしにしてしまう。人との出会いもタイミングでありそのタイミングを逃すとあとは二度と会えないことになる。行動もタイミングでありその時どうしても行動せねばならぬことがあるがそれを逃すともう二度と行動を起こせなくなるしいつのまにか老いてしまうのである。そういう人生の分かれ目はみんな遭遇している。でも実際真剣にそのことを考えないで行動しないから行動を起こすチャンスもなくしてしまう。
 
こんな寒さでは季節感もなくなってしまう。やはり桜咲く時期は穏やかであってほしい。花の影を踏み歩むことそれは何でもないことである。その何でもないことが平和だった。結局ちょっとした病気でも何かあることでありそこに平和な日々は喪失する。人間と人間の間にも絶えず争いがあえ家族でも夫婦でも争いがあり静かに花の影を踏み歩むことがいかに平和なことか再認識するのである。山鳩が桜の樹にとまり去ってゆくその何でもないことが平和なのである。自然は石や樹でも他を傷つけることがない、鳥も他を傷つけることがない、自然はみだりに他のものを傷つけないのだ。人間はささいなことで人を絶えず人を傷つける存在なのだ。だから人の世には平和は本質的な部分でないのである。
ともかくここのところ電動自転車で動きすぎたのかもしれない、それが負担になり胃酸過多になった。前から胃腸は丈夫でないからそういう傾向はあった。だから冷たい水はひかえ温かいものだけ飲んでいたがそれでも胃酸過多になった。

争わない石と石(詩)


争わない石と石

 
 

石と石は争わない

石と石は傷つけあわない

千年そこにいつもいる

それは奇跡的なことだ!

それが本当の平和なのだ

人はどんな人も傷つけあう

石と石は傷つける言葉を吐かない

石は無駄なことはしない

沈黙して原生圏の静謐を乱すことはない

深い信頼で結ばれそこを動かない

石は特別でしゃばろうとはしない

石は神に与えられた場所に

定められた場所にいて誠を尽くす

人にはそれぞれの定めがある

その定めに逆らうことはできない

与えられた場所で定められた場所で

誠を尽くして生きる他ない

定めの場所を出てもうまくいかない

平和はありふれた場所にあった

平和は特別な場所にあるわけではない

何気ない日々の生活で平和は実践される

石と石は争わない

石と石は傷つけあわない

千年そこにいつもいる

posted by 老鶯 at 18:50| Comment(2) | TrackBack(0) | 詩全般

二本松の城の桜(2)短歌十首

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 二本松の城の桜(2)短歌十首

小浜城その跡に咲く桜かな夜に束の間よりて去りにき

二本松へ花咲きつぎぬ道のりの遠しも城を目指し行くかも

二本松残れる花のなお散りぬ相馬より来て夕陽さすかも

相馬より二本松に来てなお散りぬ花を惜しむやあわれなるかな

相馬より二本松遠し花のなお残り咲けるを我が惜しむかも

二本松朝の桜に残雪の安達太良映ゆる城門を入る

二本松花こそ散らめ安達太良に残雪光り風騒ぐかも

残雪の安達太良まじか百輪の椿のゆるる夕べの風に

二本松夕風吹きぬ旅人の急ぎ帰るや花も散るらむ

二本松一夜泊まりぬここに散る花に心の騒ぎけるかも

巻淵に水渦まきて桜咲く朝日のさして我がよりさりぬ


二本松の霞城には何回も行っている。あそこの城は見物である。桜の時期も自転車で二三回相馬から行ったから遠かった。一回は満開のときでありもう一回は城に着いたら桜は散っていた。でも余花でありそれが風情があった。この風情は情緒は相馬からわざわざ自転車で来た時生まれたのである。これが電車だとか車だと生まれにくい、はるかに来たとなると歩くとか自転車くらいでないと旅の感じがでないのだ。だから旅人は今になると二本松まで車で来るのは簡単だが本当に江戸時代の感覚で二本松まで来た感覚は味わえない、その喜びは大きかった。あの絶頂の城の本丸に上って四方を眺めたとき、相馬藩は山の彼方に隠れて見えない、相当に遠い感覚になるのだ。

記憶からすると着いたときが夕べであり風が吹いていた。残雪の阿武隈を仰ぎ夕風が吹いていた。それを体で覚えていた。それでまた思い出して短歌の連作を書いた。こうした短歌もやはり相馬からはるばる来たということで情緒が生まれているのだ。これも昔の相馬と二本松の街道を来るべきであり岩沼回りの鉄道だとそうした情緒が生まれないのである。
途中小浜城がありこれは暗くなり夜になってついた。そこでちょっとの間寄った。暗い道を進んで二本松にようやくついた。もう一回は夕べについた。花は大方散っていたが余花がなおわずかに散っていたのである。これも情緒あるものだった。帰りは巻淵というところが阿武隈川にあった。?ここがどこかわからない、淵が巻いている、水が確かにうづまいている大きな淵でありそこにも桜が咲いていたのである。随分桜の短歌を作ったからこれらをまとめれば連作として作品化できる。西行も桜の歌人になったのは当然だった。それほど桜は日本を象徴する花だったからである。

二本松の桜(1)
http://musubu.sblo.jp/article/28451498.html

2010年04月19日

鶯と水仙

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鶯の声聞く魚や水底に

碑新し御霊眠るや花の影

なお生きて水仙見るや繊き月

水仙や雪にしおれてまた咲きぬ

春寒し母なお生きて繊き月


今年は春寒いというより春冷える、今日も結構寒い、風流的寒さとは違う、冬戻るになっているが今年の季節である。寒いから外に出れないのだ。昨日は原町の雲雀が原の陣が崎の桜が良かった。墓全体が桜におおわれ墓も桜におおわれている。橋本の墓所には何か花がないからものたりない、墓があれだけ桜におおわれているのもめずらしい。あそこのは墓地は新しいものだろう。桜の時期にあそこは墓参りしたくなる。花見にもいいところだった。桜は南相馬市立病院の桜も見物である。桜はいたるところにあるし新名所もできるのだ。

水仙も今年は雪にしおれたり本当に寒い時咲いた。水仙にはふさわしかった。今日は繊い月が出ていた。今年の春は花見に浮かれるという気分になれない、花見に行くという気にもなれない、それだけ寒いのである。
鶯の句は想像で作った句である。写生とは違う句である。写生もあきるときがある。


郭公(ほととぎす)声横たふや水の上 芭蕉
 
 初夏の隅田川、ほととぎすがするどい声を残して飛び去った後も、その声は水の上にゆたかに広がりまるで横たわってでもいるかのように波にたゆたうことだ・・・・


この句の類想俳句になる。こういう感じは江戸時代でしか浮かんでこないのではないか、そこにはやはり江戸時代の悠長な時間があるのだ。墨田川も今の濁った川とは違っているし川幅も違うし堤防もない大きくゆったりと流れていたしその回りはまだ田んぼであり田舎の風景なのである。俳句とか短歌でもその時代でしか作れないものがかなりある。時鳥の声が水に反射ている感覚である。これだとあまり濁った水では浮かばないイメ-ジだし回りがビルだけの世界ではもうこうした句は江戸時代に帰りイメ-ジの世界で再現する他なくなっているのだ。


尾瀬には3回しか行っていない、3回行けばいいじゃないかとなるが8回行ったとう言う人もいるしやはり尾瀬沼などは本当に澄んでいるからこの句にふさわしい。自然の沼は北海道にあった。そこは本当に自然そのものであり人工的なものが加えられていない、尾瀬にも人工的なものがないから素晴らしいのだ。
まあ、澄んだ神秘的な沼や湖の底で鶯の声を聞いて外には出たくないというのが心境である。いろいろ相談を受けて俗世の問題は因縁がからまっていて解決できない、疲れるのである。