2010年02月01日

腕一本の誇りに生きた時代と仕事を嫌い鬱病になる時代

 腕一本の誇りに生きた時代と仕事を嫌い鬱病になる時代

 

江戸時代の職人の世界では腕一本で勝負していた。 大工調べでは、ある大工のところへ同僚がいくのだが この前俺がいったらあいつ本を読んでいるんだ 字が読めるだけじゃなくて書けるのだ ヤナ奴だね ことによると算盤もはじけるんじゃなかろうかと問いただしたらすまねえって謝るのだ
要するに、学があるのは職人として恥ずかしいという感覚だ。

http://www.nescom-asuka.co.jp/teacher/soliloquy/japan/beautiful.html

例えば、飛騨には昔から「貧乏したけりゃええ大工になれ」という諺がある。高山に近い国府町の岡村利衛門邸を作った広田藤兵衛という大工は、施主から与えられた材料で仕事を始めたが、どうしてもその材料に満足できず、色々工夫してみたがうまくいかない。そこで施主には黙って、高山八軒町あたりの材木店へ足を運び、やっと気に入った材料を見つけて普請した。そして、何喰わぬ顔で仕上げて帰った。
どっちみち、大工は貧乏するようにできている」という言葉を残して。こういう言葉の奥にひそむのは、すさまじいばかりの「誇り」なのである。

(飛騨の匠)
http://www7a.biglobe.ne.jp/~fujii/s_hidatakumi.html

 男一匹、銭を持ってる訳じゃない。境遇に恵まれてる訳じゃない。ただ自分を信じて、腕一本で、たくましく根を張る伊佐次の生きざまに胸がすく。

戦前は職人が腕一本で多くの会社を渡り歩くのが当たり前であった。これくらい短い歴史の中で年功序列・終身雇用・首にされにくい制度が日本の文化によるものだというのは無理があると思う。
 昭和の日本には、旧きよき時代を腕一本で支えつづけた男たちがいた。 頑固一徹に磨き上げられた熟練の手技。 愚直なまでにひたむきに昔ながらの手仕事 ... 昭和の男たちは自信と誇りに溢れていた


   職人は腕一本の人であり今でもそういう人はいる。そういう人をまじかで見たとき今も腕一本の人がいると実感した。前にも書いたけどその人は庭作りもできるしリホ-ムできる大工であった。いろいろできるからめずらしいし仕事できる人だと見ていた。腕一本というとき腕が太くないと力仕事になるから職人にはなれない、畳職人でもそうだし職人は腕を使うのである。戦前から江戸時代にさかのぼるとそういう腕一本の職人が巷にあふれていた。その人たちは気っ風が良く威勢が良く職人気質であり町の中を誇らしげに自信に満ちて歩いていた。こんなことをなぜ今思うのかというと今はそういう仕事に誇りをもっている人が少ない、見えない、絶えず聞こえてくるのは仕事への不満、こんな仕事したくない、給料が安くてやっていられないとか不満ばかりなのである。職人の世界でもそうだろう。「大工は貧乏するようにできている」・・・貧乏より仕事に誇りをもち仕事にひたすら精を出す、そんな人がいたこと自体不思議になる。大工でも今は会社に雇われている人がいるのだから月給を給金をもっと高くしてくれとなる。自分の収入に今の時代満足している人はいないのである。「腕一本オレはどこに行っても食える」昔は一つの会社に勤める終身雇用などない、そんな保証を求めない、腕さえ良ければ仕事はある、それが誇りとなっていたのだ。一般的に仕事に誇りをもつというとき戦前から江戸時代の方がそういう人が多かった。まだ仕事は細分化されていない、職人でも一つのもの完成品として作っていた。一つの部品を作るのではない、完成品を作っていたことにある。字が読めなくても算盤ができなくても良かった。腕一本仕事一筋に励んでいれば良かったのである。仕事に誇りがもてないということはかなり深刻である。仕事が人生でもありもしその仕事に誇りがもてないとすると人生そのものが否定されるからだ。それで仕事しないニ-ト、フリ-タ-などが増えたのかともなる。


仕事してオレは仕事に誇りをもっている、腕一本で生きている、給金は安いけど仕事が生きがいなんだという人は極めて少ない、嫌々ながら仕事して鬱病になったとか鬱病になる人が実に多い、それは仕事に誇りがもていない、仕事に充実感がないことなど日々の仕事に原因しているのだ。仕事に満足しない人は賃金が安いと訴えることになる。目的は仕事ではなく賃金を多くもらい別なことをすることなのである。なぜ現代の文明の空気が濁っているのか?爽快感がないのか?仕事に誇りをもてない人があふれているからだ。こんな給料で仕事していられるか・・・そういう声しか聞こえてこない、それは否定できないにしろ社会全体がどんよりとした曇り空、鬱病的空になっているのは仕事に満足している人がいないことなのである。仕事がいやでも金のためにはしょうがないとかそういう人が日々仕事しているからこの世はますます鬱病的になっている。出版社で売れる本を作れと言われできないからとやめた人が鬱病になった。売れなければ価値がない、その人の作るものも価値がないとなることが多い社会である。売れなくても価値あるものを作り出すことに意義がある、それができれば鬱病にはならない、現代はまさにそういう点で病的であり社会の空気も鬱病的に濁っているのだ。「腕一本どこでもオレは生きてゆく」そんな颯爽として生きている人がいないのである。ニ-ト、フリ-タ-、派遣と比べると余りにも違っている。そういう人たちがあふれている社会と腕一本で生きてゆくという人があふれている社会はあまりにも違っている。仕事に誇りをもてない人が余りにも多すぎるのである。

働いたら、負けだったのか。
俺はマンホール開けては中に入る仕事をしているが、
もう腰をいつやられるか心配で心配で。
着ている服は役所と同じだから公務員と思われているかもしれんが、
派遣会社からの契約社員で、保険も、年金も手取りの17万から出さなければならない。
腰など痛めてしまったら、労災も出ないだろうし、会社からは放り出されるだろうし
考えると鬱になる。
もう安月給でマンホール持ち上げて臭い中に入るの嫌なんだよーっ。
こんな仕事についた俺はまさに負け。
働かない方がまだいいかも。


マンホ-ルだけではない、こういう人が現代では多いのである。月給が安いこともある。それより仕事に誇りがもていなことが日々憂鬱になっている。それは医者の世界でもあれだけ崇められている人でも給料が少ないとかいろいろ不満なのである。それは逆な見方として自分の腕に誇りがもてないからなのだ。むしろ医者自身より機械の方が優秀なのじゃないかとか思っているかもしれない、オレなんか偉そうにしているけど人間のほんの体の一部しかわからない、でもわかったように偉そうにしていないと医者はまずい、医者もこんな給料じゃやっていけないよ・・・とか必ず金の問題としてすべてが提起されるのが現代なのである。年収一千万でも不満なのか?やはり不満なのだから今の時代、自分の仕事に心から満足している人はいないのである。
要するに自ら働いているのではない、働かされている、働きたくないのだけど金のためにしょうがない、食うためにはしょうがない、人に使役されてもしょうがないとかそうしたいやいやながらの労働に満ちているから鬱病の時代なのである。その影響は社会全体に及んでいるから空気まで濁ってしまうのである。


秋日和(かっこいい、粋な鳶職)
http://blog.sakura.ne.jp/pages/my/blog/article/edit/input?id=33101295

posted by 老鶯 at 16:17| Comment(0) | TrackBack(0) | 経済社会労働問題

蕗の薹と退職者


蕗の薹近くで探す退職者

 
蕗の薹がもうでていた。各地でも出ている。自分の通る道ではみかけなかった。やはり同じ道を行っているからみかけなかったのか、ちょっと道をそれたような所にある。なんでも蕗が一杯しげるところには蕗の薹がでる。そこを知っていて蕗の薹一杯でていたと退職者が言う、退職者というより現役をしりぞいた60代の女性だけど町に住んでいても近くにそうした食べるものを探して料理して食べているのだ。それが楽しみなのである。ともかく田舎だと半分が退職者かもしれない、そしてますます退職者が高齢者だけが増えてゆくのが田舎なのである。なぜなら田舎に住みたいという都会の退職者も増えているからだ。田舎の空家を探している人も多いだろう。都会では蕗の薹を探すことは無理である。また蕗の薹を探すということはやはり退職者は何か生きがいを求める。仕事という会社という生きがいがなくなると新たに生きがいを求める。そのために田舎暮らしが生きがいを与えるだろうという幻想を持つことになる。それが戒められるのもわかる。
 
そもそもその女(ヒト)は実家は農家でありもともと田舎に住んでいた。それと女性だと地域に溶け込みやすいことがわかる。シルバ-センタ-とかで仲間作りもできるし趣味でも仲間を作ったり仕事でも家の老人と仲よくなり簡単な仕事をさせてもらったりと女性の場合家に入るのも適合力がある。男性はなかなかこうはいかない、退職しても地域にも何か生きがいある場を見出すのもむずかしいだろう。これは人にもよるが女性の場合は適合力あるなと思った。
 
老後をどうするかは高齢化社会の大きな課題である。高齢化社会の問題は各地でいろいろ起きてくる。NHKのクロ-ズアップ現代の「フ-ドデザ-ト-食の砂漠」というのもそうだった。近くのス-パ-がなくなることは影響が大きい。ここでも遠いがショピングセンタ-がイオンができたことで二軒のス-パ-が影響しているかもしれない、通りはほとんど店が消滅した。水戸とかあんな大きな市で買物もできないとなるのはひどい。車が利用できないとあのようになる。今の社会は車を利用できない人のことを全く考慮しないのである。だから車の運転できない老人は弱者になる。特に一人暮らしの人は買物すらできなくなるのだ。自分も今度は蕗の薹を探しにでかけよう。確かに蕗の薹はある所にはあるのだ。この辺でも近くにあるのだ。

2010年02月02日

雪の朝

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蝋梅に墓に雪積む朝かな


生き生きと犬の足跡雪野かな

葉牡丹に雪積む朝や石の庭
夜ここでは雪が降っていた。結構積もっていた。それで朝マウテンバイクで雪の中を走った。太いタイヤだから走れた。これは相当太いのでないと滑るから走れない。蝋梅に雪であり墓にも雪が積もっていた。ただ見た通り写生に心がけて作った。蝋梅に雪--墓石にも雪-朝-これは何か作ったものがない、まず写生に心がけた結果できたのである。つまり想像で作ったものではない、写生なのである。ここでは余り雪は降らない、降ってもすぐ消えている。でも二月とか三月にふる。東京がふるとここもふりやすいのである。会津や中通りがふってもここはふらないことが多い、東京の方がふるとここもふるのだ。今日は朝まずこの辺の雪景色をみて次に仙台の松島にでかけた。仙台の方は夕方から夜に雪になっていたがここは雪になっていない、晴れて星がでていた。こういうふに天気はどこも一様ではない、近くでも変化がある。松島の方は夜も雪がふっているのかもしれない、雪景色の松島となっている。

雪の松島-俳句短歌-政宗のこと

雪の松島-俳句短歌-政宗のこと

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走り去る電車や雪に椿かな

みちのくに金の障壁画冬鴎

抹茶飲む観欄亭や冬障子

鴨群れて観欄亭や冬障子

秀吉の威勢及ぶむ冬障子

政宗の伊達も威勢や冬障子

松に雪観欄亭に藩主の座

さしだせし名器の茶碗松に雪

みちのくに島の少なし冬鴎

松島や雪に散り赤し椿かな

尋ねざる奥松島や雪となる

松島や雪また雪や夜の更けぬ

塩釜に海見つ墓所や冬深む

雪となり夕べ遠しや石巻

北上川上の遠きや冬の月


松に雪かもめ飛びつつ松島や瑞巌寺の門古りて暮るるも

松に雪鴨の群れつつ波にゆれ松島暮れて旅人の去る

小松島小さく見えぬ幾度も松島たずね冬のくれかな


ねんごろに茶碗を手にし島望む観欄亭の冬のくれかな


老木の枯木の磐に根づきつつ雪の積るや松島の海

文永の碑のあり遠き松島は祈りの島や雪のふるかな

大いなる港ととならむその跡やみちのくの海に雪のふるなり

夏の日に一度はたずぬ鳴瀬町松に家古り冬となるかも

石巻冬に遠きや葛西氏の城跡古りぬ河口の島に

葛西氏は滅びけるかな石巻その跡たずぬ冬のくれかな

勝つものの陰に滅びしもののあり政宗たずぬ冬のくれかな

さらに遠し石巻より平泉北上川 に雪のふるかな

小牛田の碑相馬にあれや山神を祈り祀るや冬深むかも



歴史を知るというとき例えば伊達(だて)は派手好みとして中央に秀吉などに見せて有名になったけど実際は東北は貧しい農民がほとんどであり財力はなかった。それでも政宗は財力あるように装うために伊達者を演出した。そういう歴史的背景を知らないと歴史は全く違ったものとして解釈してしまう。また逆に秀吉の時代でもみちのくのことは情報が入りにくいからわからない、すると派手な格好した伊達者がいるので陸奥は裕福なのかと思うこともある。一方で葛西氏などは秀吉を見くびり秀吉を甘くみて滅ぼされた。その当時社会情勢を理解すること自体むずかしいことを物語っているのだ。地理的に隔絶された世界であり時代の情勢を読むことはむずかしいからそうなる。葛西氏は相当な有力な氏族でも滅びた。石巻を中心にして領地をもっていたが滅びてしまった。政宗は常に脚光をあびるが葛西氏はその陰に歴史の地層の下に埋もれてしまったのである。こういうことは歴史には常にある。政宗は余りにも華やかであり常にスポットライトをあびる存在である。でもその陰に必ず滅びて埋もれた人々がいた。観欄亭にしても冬だと冬障子であり確かに金の障壁画が残っているが秀吉の豪勢な安土桃山文化からすればとるにたらないものとなる。だからむしろ冬障子というものがにあいだとなる。みちのくには豪勢な城も文化も残らなかったのである。平泉にしても金色堂だけが辛うじて残ったように関西や京都と比べるとの規模は余りにも小さいのである。ただ政宗の時代に世界まで羽ばたこうとしたことは政宗だけだった。それだけの世界的視野を陸奥でもち得た人だったのである。

今回、雪ふってきたので奥松島から石巻に行かなかった。この頃何か近くでも遠くなっている。一日泊まることさえ容易でないから近くでも遠くなってしまった。奥松島から鳴瀬町から石巻まで自転車で行った。石巻からは必ず北上川をさかのぼる、すると石巻から平泉までイメ-ジする。それは北上川を通じてイメ-ジされるのだ。石巻からは平泉は北上川を通じて結ばれている。そうでなくても石巻からは平泉をイメ-ジする。芭蕉も石巻から平泉に行ったからである。石巻は地理的に特殊なのだ。その港は江戸まで通じていた。仙台平野の米が運ばれていた。
 

川上とこの川下や月の友 芭蕉


これは隅田川でありここでは船の行き来が多かった。北上川はそんなに多くはない、でも川が道として結ばれていた。 でも平泉となるとやはり相当奥なのである。それで「北上川上の遠きや冬の月」とかイメ-ジして作った。陸奥は奥深いのだ。平泉よりさらに奥に広がっていたのが陸奥である。芭蕉の奥の細道でみちのくの地理的感覚の基礎が作られた。だから石巻は重要な地点だったのである。宮城県関係の神の碑が相馬には多い、館腰宮やその他いろいろある。それだけ宮城県とは密接な関係が江戸時代からあった。相馬藩は伊達藩との関係が深いのである。地理的にも一体化しているのだ。いづれにしろ冬になると近くも寒いとか雪がふるとかさらに私的な事情で家から離れられないとかなり遠く感じてしまった。冬はやはり近くでもこれだけ交通が発達しても遠い感覚になる。新幹線で近いじゃないかともなるがやはり冬は遠出しにくいから遠くなる。いづれにしろ宮城県の神社が江戸時代では相馬藩の人がお参りしたとしてもやはり遠いのである。ともかく今日は夕方から松島が雪になり奥松島も雪になり石巻も雪となり平泉はかなたであり遠く感じた。でも相馬の方は夜は晴れていたのである。東北でも広いから遠いなと感じることがある。それが普通の感覚なのである。

2010年02月04日

寒さ(芭蕉と類想俳句)


もの言わず石にしみいる寒さかな

 

[類想俳句] 


物言えば唇寒し秋の風  芭蕉

もの言わず石にしみいる寒さかな


俳句の鑑賞として対称的なものとして類似俳句とは違う、類想俳句である。共通性を見出す鑑賞方法がある。芭蕉の句はもの言うと何かとさしさわりがでてくる。だからもの言わない方がいいという日本的なものなのかもしれない、日本人は自分を主張しない、外国人は常に自分の正当性を主張する。異民族と絶えず交わっていたから自分の正当性を主張しないと生きていけない、だから謝ることはない、謝ったら負けになり財産は没収され命までとられる。日本人はかえって何か言うと生意気なやつだとか責められる。何か自分を主張して言えない文化があり何も言わなくてもわかるとか空気を重んじないものは排斥されるとかもの言えない文化がある。文化というとこのように奥深いのである。もの言わずただ寒さが石にしみいる、これももの言わぬことの類似した俳句となる。これも理屈というのではない、一つの類想俳句である。二つを比べて鑑賞するとより深くみることができる。 ものを言っても寒しでありもの言わなくても寒しであり人の世は生きにくいとなる。


川上とこの川下や月の友 芭蕉
 

北上川上の遠きや冬の月

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これも類想俳句になる。芭蕉の方は隅田川だからかなり船が行き来しているから川上でも川下でも友を思う川になっている。北上川となると確かに平泉があり交通があったとしてもなかなか川上と川下がそれほど人が通い結ばれていたとはならない、それで冬の月になったのである。

とりわきて心も凍みて冴えぞわたる衣川見に来たる今日しも 西行法師

 

平泉は冬になれば一転してこのような歌がにあう場所だった。皓々と冬の月が冷たく冴えわたり光っているということにもなる。
 

寒々と御池凍りて平泉柳の御所も名ばかりなるも


今日は立春とはほどとおい、しみ入るような寒さだった。

2010年02月05日

愛しあい調和する家族(詩)

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愛しあい調和する家族

春の日が部屋にさして

花が二つ明るくよりそい咲いている

赤い花と紫の花

ともに映えつつ咲いている

そこに争いはなく調和の美

花はともに愛し合っているよう

その色を尽くしてともに咲いている

家族すらともに愛し合い調和しない

長い間私はそういう家族にあった

他にもそういう家族はある

家族すら愛し合えない調和しない

それがこの世の家族であった

その期間は余りにも長かった

私の願いは家族が愛し合い調和すること

この二つの花はよりそい愛し合っている

だからさらにここに美しさは増している

いつくしみ愛し合うのが家族

それがない家族は家族だったのか?

家族が愛し合うからこそ

この花の美は家に映える

家族がいさかうなら花も映えない

家族でなくてもこの世に自然の美は映えない

国と国は争い、争いはやむことがない

愛し合わない争い憎しみが絶えない

だから自然の美は映えない調和しない

その痛みは深く傷は癒えない

望むものは愛と調和

平和の日が長くつづくこと

その傷痕は余りに深きが故に・・・・


posted by 老鶯 at 19:47| Comment(1) | TrackBack(0) | 詩全般

spring stream2(抽象画)

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                      宇宙の芽吹き
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        spring stream

2010年02月06日

家族は不幸でも逃れられない宿命を背負っている


家族は不幸でも逃れられない宿命を背負っている

●ゆがんだなりの美しい実
 
家庭  室生犀星


 家庭をまもれ

悲しいが楽しんでゆけ
それなりで凝固ってゆがんだら
ゆがんだなりの美しい実になろう
家庭をまもれ
百年の後もみんな同じ諦めきれないことだらけだ
悲しんでいながらまもれ
家庭を脱けるな
ひからびた家庭にも返り花の時があろう
どうぞこれだけはまもれ
この苦しみを守ってしまったら
笑いごとだらけになろう  

 
室生犀星は妻をなくした旧武士の小畑弥左衛門吉種が六十四歳の時、身の廻りの世話をしていた女中のハルにうませた子である。女中の子ということが生涯ついてまわる。そして吉種の死と共に、吉種の長男たちによって泥棒呼ばわりされ追い払われた女中であった自分の生母への思慕と悩みを持ち続けた。女中なるが故の不幸であり、悲運であり、

生まれてすぐに生家の体面上、他家にやられた作者にはほとんど母親の記憶がない。わずかな記憶は、「殆醜い顔に近い母親だった」ことくらいだ(『紙碑』)。

室生犀星は、複雑な家庭の中で私生児として育てられた。兄(後に金沢裁判所書記の職に就く)と姉(後に娼婦として売られる)がいたが、二人とももらい子であった。実母も、はっきりとはわからず、終生彼の詩の中にも母に対するあこがれが歌われているように思える。

 普通の家庭は両親がいて兄弟姉妹がいる。そういう普通の家庭でもインタ-ネットだけなのだろうか、匿名になるから親の文句を言う人がかなりいる。その憎しみも強い。家族自体がおそらくみんな違ったものとしてあるのかもしれない、トルストイが「幸福な家庭はみなおたがいにかよっており、不幸な家庭はそれぞれその家なりに不幸である。」と言ったとき家族というのがやはり千差万別だからかもしれない、家族とは例え外から幸福に見えても不幸を内在しているかもしれない、なかなか家族はわかりにくい、自分の家族も外から理解できるとは思えない、こんな家族もあったのだということを自分自身でつくづく矛盾してもふりかえるだけである。姉が死んでわかったことは自分には正常な家族がどういうものか知らなかったことである。そういう人はやはりいるのだ。家族の愛を受けて育たない人もいる。親がいない人は家族とは何か知らない、親の愛とは何か知ることはできない、兄弟姉妹のない人は兄弟愛とかも知り得ない、両親がいても絶えず喧嘩ばかりしているとそこにも愛と調和の家族はない、そういう所で育った人は喧嘩が普通であり家族は喧嘩する場所として育つのである。でもそれが嫌でも異常ということに気付かない、それが当たり前になってしまう。両親が愛し合いいつくしみあうことがあるの?とかなる。もちろん具体的に継母とか昔から問題が置きやすいからその不幸が語り伝えられてきた。


そういうのは外からみてわかりやすいから理解しやすいのである。ところが家族の問題は外からはどうしても理解しにくいものがある。その一つが自分の家族だったのである。でも自分自身にとっては全部が悪い家族とは言えない、ただ正常な家族がどういうものか自分は知らなかったのである。だからその不正常さが最後に悲劇を生んだともなる。人間は異常でも矛盾でもそれが長くつづくとその異常さが普通になってしまう。戦争すら余りに長くつづくと戦争が普通であり人がバタバタ死ぬことすら驚くこともなくなるかもしれない、もはや平和と何かも理解できなくなっているのだ。人間の社会は本質的に平和はない、家族にすらないから平和がないのだ。だから天国に行ったら驚くだろう。ええ、こんな人が愛し合う平和な世界があったのかとそれは全く地上では経験しえない世界である。はじめて経験するものであり地上の経験をそこであらためてひどいものだったとわかるのである。

ゆがんだなりの美しい実になろう
家庭をまもれ
百年の後もみんな同じ諦めきれないことだらけだ
悲しんでいながらまもれ
家庭を脱けるな
ひからびた家庭にも返り花の時があろう

犀星は家族の愛を知らないで育った。自分は家族の愛を複雑でも受けすぎて育った。矛盾の愛の中で育った。その期間があまりにも長すぎた。つくづくだから「ゆがんだなりの美しい実になろう」というのも実感としてわかる。ゆがんだ矛盾した家族でもそれが与えられた家族であり逃れたくても逃れられないのである。悲しいことでも逃れられない、家庭を脱することができないというのが真実なのである。家庭とはそういう宿命的な場所なのである。それが自分一人の力では変えることはできない、それでも調和させようと努力する他ないのだ。そうした家族にもゆがんだ家族でもゆがんだなりの実がなる。それは生前ではなく死んだあとに経験することもありうる。ゆがんだ家族であり矛盾していたけどやはり家族は家族であり全うした家族だったとかなる。
 

●知的障害者をかかえた立派な家族

兄が知的障害てんかん持ちです。
子どもの頃は兄に暴力振るわれたり、近所や学校でも兄の事で苛められたり、
家の中は滅茶苦茶で、親はいつも謝って回っていましたし。
普通の子どもの生活ではなかったな〜と今思います。
今でも皆さん同様、両親は大変な思いをしています。
でも、私は不思議な事に一度も兄を疎ましく思った事もなくて、
むしろ、人の痛みを分かる様になったのは兄のお陰だ、とすら思っています。
それもこれも、両親が偉かったな、と今自分が子どもを持って改めて感じます。
もちろん、両親も歳をとって来て、これからは悠長ではいられないかもしれません。
夫も夫の両親兄弟も、事情をよくわかってくれていて、
「みんなで力を合わせれば、苦労も減るよ」と言ってくれます。
そんな言葉に甘えるつもりはありませんが、私は幸せだなと思います。
今後、どうなるかは不安ですが、あまり先の事は考え過ぎない様にしています。
母が「先の事を考えると、今日生きていられないくらい不安になるから、
せいぜい一ヶ月先の事しか考えない様にしてるのよ。」とよく言っていました。
兄も今は私が一番好きな様で、遠方ですがたまに会うととても喜び、
私の子ども達の事もとてもかわいがります。

子どもの頃から、人がしないで良かった苦労をして来たここの皆さんが、
少しでも、哀しい思いや苦労をしないで生きて行けるといいなと心から願っています。

こうした知的障害者をかかる苦労は並大抵のものではないことを自ら実感した。認知症もやはり幼い時から知的障害者とは違うが症状は同じなのである。そうして普通知的障害者をもっている家族のことなど外からわかりにくい、その苦労もわかりにくい、そういう人はでも近くにいる。すでにその障害者は65才とかなり親は90才でなお世話しているのだ。その苦労は並大抵のものではない、これも近くにいてもその苦労を察することはできない、それぞれの家族の不幸がありそれは外部からは察しにくいのである。自分の家族もそうだったのである。障害者をもっていてもこうして親がしっかりしていればいい家族になっている。一般的にはみんなこの反対になっているのが普通だからだ。この文章を読むだけで感動的なものではないか?泣けてこないか?

夫も夫の両親兄弟も、事情をよくわかってくれていて、
「みんなで力を合わせれば、苦労も減るよ」と言ってくれます。

こんなふうに言ってくれる兄弟がいるということ自体他の家庭とは違っている。

身寄りがなくなれば一生施設にいるだけよ
障害者も高齢になれば兄弟すら面倒みないよ
私は姪の立場だが、障害者の兄である父が死んだあとに
縁切りということで。
母には姻族関係終了届けを出させました
すごーーく嫌なことです
親族にそういうのがいることって
いない人にはわからないだろうがね
結婚にも足かせになると思う
いとこも嫌がっていたからさ

こうなるのが普通であり例外的なのだろうか?知的障害者の問題はふつう家族にそういう人をかかえないと無関心である。むしろ知らず差別などししているのが普通である。自分もそうだったけど家族にアルツハイマ-の患者をかかえたので関心を持つようになった。認知症は生まれつきの知的障害者とは違うがやはり症状は同じである。違うのはこれまで優秀な人でもなる。それも単に学問ができるとかではない、しっかりした人でもなる。特別優れた人でもなることが違っている。社会的に家庭的にも頭脳的に優れた人がなる。それでなぜ知的障害者になったのか、ジキルとハイドのように一人の人間に起きてくるからただ茫然として唖然するだけだった。実際にレ-ガン大統領でもサッチャ-首相でもなった。両方とも特別強く優れた人だった。それでもアルツハイマ-になり知的障害者になったのである。ということは認知症とかは老化が原因だからどんな優秀な人でもなりやすいという恐怖があるのだ。知的障害はだから今やすべての人にとって身近な問題になったのである。人間とはそれほど完全なものではない、弱いものであり知的障害者となるリスクもかかえている。それが高齢化社会で数がふえるから人間の無惨さを目の当たりにすることが多くなるのだ。

愛し合い調和する家族
http://musubu.sblo.jp/article/35142957.html

2010年02月07日

冬障子

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石に雪家に籠もりて珈琲飲む


つつがなく家に籠もりて冬障子


ものの影写りて静か冬障子


冬障子の中は金箔の障壁画

石二つ晩年静か冬障子


幸せはいづこにあれや石二つ耐えつつ北風唸りけるかも

 
冬障子という季語も最近はじめて使ったからこれもぴんとこない、松島の観欄亭の障子はいかにも冬障子という感じがしたので使った。昨夜は異常に寒かった。エアコンしてすきま風が入ってきても寒い、こんなに寒いのは余り経験していない、今年は寒いときは寒かった。会津とか雪深い所の感覚はここではわかりにくい、すでに今日は雪はとけて残らない、寒さの峠は越したみたいだけどまた北風が吹いた。これは春北風(はるきた)となるのだろう。季節の変わり目だから気候も変わりやすい、雪の深いところだと家にこもってコ-ヒ-を飲んでいるのがふさわしい。冬が長い、雪が深い、そいういうところでは物語が生まれやすい、ロシアの小説が延々と語り長いのは冬が長いせいなのである。単調な寒い冬にはただ暖炉とかであたたまり回想に耽ったり物語するのに向いているからだ。実際に会津や日本海とか雪の深い地域は日本でもそうなる。雪に閉ざさされる感覚はここではわかりにくい、この世の中幸せをあえて探してもない、かえって幸せを探しにゆくと不幸をもらってくる。幸せを探しにゆくこと自体が間違っているからだ。


幸せはおそらく北風に吹かれてじっと耐えている石にある。何かに耐えなければ幸せはないのだ。幸せはそうした長い忍耐のあとにやってくるのだろう。苦労したから苦しんだからそのあとに幸せがある。冬があって春がくる。寒さの峠は越して春になってくるのだろう。今日は風は吹いたが寒くなかった。晩年はあまり動き回るのが向いていない、人によっては違う、スポ-ツとかする人もいるがどうしてもじっとして回想したり思考したりするのが向いてくる。

冬障子に写る竹
http://blog.goo.ne.jp/kurumiruku1016/e/fd7dc854e3f649e43ee5f05b18f145e3

2010年02月09日

グロ-バル化の過酷な就職難の時代


グロ-バル化の過酷な就職難の時代


●江戸時代の職業は世襲
 

 生きかはり死にかはりして打つ田かな 村上鬼城

高卒でも就職できないことをNHKのクロ-ズアップで放送していた。製造業は時代の波を受けやすい、不況の影響を受けやすいから農業とか介護の分野に仕事を広げて就職させて地元密着型にすべきだという意見がでていた。トヨタのリコ-ル問題でもそうだがその影響は下請けなどでも大きい。製造業は一旦落ち目になると簡単にリストラされて職を失う、地元に工場を誘致してもグロ-バル化の影響で仕事を失う、仕事は継続性がないと安定性がなく社会も安定しない、江戸時代は代々親の職業を継ぐことが多いから仕事に関しては安定していた。親の職業を子供の頃から見ていて受け継いだ。侍にしても親の跡を継ぐのであり全く異業種から入ってきて侍になるのではない、代々受け継がれたものを受け継ぐことが仕事であり仕事を選ぶことはできない、仕事はインドのカ-スト制のように生まれた時から日本でも決まっていたのだ。そこには今になると洗濯屋は未来永劫まで洗濯屋なのかという理不尽があった。でもカ-スト制でも仲間の連帯感が強いから助け合いがあるから社会的安定をもたらしたという面はあった。日本でも江戸時代は大工だったら大工同士で職人同士で農家同士で結婚することが多かった。同じ職業の人が結婚するから代々その仕事を知っている人が結婚するからうまくいくということがあった。江戸時代までは職業選択でそれほど悩むことはありえなかった。だから社会的に安定していたのである。「あなたの好きな職業を選びなさい」と言われてもとまどってしまう。一体自分は何に向いているのか自分で判定することは若いなら無理である。そして今は職業が見えない、親がどういう仕事しているのか見えにくいのだ。だから親を模範にすることはできない、江戸時代なら親を模範にして入れば良かったのである。そこに親子のつながりも自然とできたのである。江戸時代までは仕事は代々受け継がれるものであった。 田でも畑でも何代も受け継がれて耕していたのである。江戸時代までは農業社会であった余計にそうなった。

労働者のモラルの崩壊へ

採用側は、パート優先で労賃を切り下げようとしており、若い
労働者を長期にわたって育成する姿勢などなくしているのが現実である。
欠員が出ても、即戦力となるパート経験者で補充する。
http://www2.odn.ne.jp/~oginaoki/seito15.html


終身雇用の時代は、入社後に教育をし人材を育成することが可能だったが
今は終身雇用が崩壊しつつあり、しかも高卒の離職率が高い。

高度成長時代には会社が即戦力ではなく教育をもになっていた。それは結局江戸時代が子供の頃からすでに家庭が職業教育の場となっていたことの代わりとなった。家庭中心から教育は学校へ会社へとか移っていったのである。 今の若者は会社ですら仕事を受け継ぐ教育すらされない、ニ-ト、フリ-タ-、派遣とかになり仕事を通じて社会性やら人格形成ができないのである。経済的にも問題だが社会的にそうした人間形成の場から放逐されたらどうなるのか?みんなアウトサイダ-になってしまうのか?・・・・・という単に職業が食うためだ賃金をもらうためだというだけではない、社会の基礎をモラル的にも作っていくものだとしてあるときこれは深刻な問題となる。これは社会の崩壊に通じてゆくのではないか?終身雇用だったらそこに安定した社会が一応形成されていた。日本が企業社会、会社社会となっていてもそこに安定がありそれなりのモラルも形成された。長期的視野で人生設計もできた。それが今やできない、そのあとに何が起きるのか、遂には暴動のようなものさえ起きてしまうかもしれない、やけくそになり無法化してしまうかもしれない、するとますますそうした日本人でも不穏分子が外国に追放ささるかもしれないのだ。グロ-バル化とはそういう厳しい過酷さを世界的に実現してしまう社会である。グロ-バル化には経済合理性の追求でありそこにモラルを追求できない、労働力でも安ければいいというだけで労働者のモラルを培うものはない、働くということにはただ賃金を得るというだけではない精神的要素も大きくあるから問題なのである。職人気質というときやはり仕事を通じて人格が形成されたからである。
 

●中国人の研修生と同列化する就職難の過酷さ
明治時代から急速に社会が変化して職業は自ら選び自分に適したものを才能を伸ばして職を得るものとなった。福沢諭吉の「学問のすすめ」はまさに学問で立身出世をして官吏にでも博士にでもなれるということを示したのである。でも反面そこから職業を選ぶとなると自らの才能を伸ばすことを強いられた。親の仕事を受け継ぐことではない、厳しい勉学やらを強制されるし才能や実力ないものは生きていけない厳しい社会になったのである。それは欧米に追いつけということでも余計そうなった。そして日本人はそうした懸命の努力の結果欧米に追いつき豊になることができた。そして今は中国が日本や欧米においつけということで凄まじい追い上げをして日本は中国に追い越され属国になってしまうとまでなってしまった。製造業や商業は厳しい競争の世界である。他国に他社に負ければたちまち職を失う世界なのである。世界的不況でその製造業が一番影響を受け職を失ったのである。それはすでに中国などが製造業で日本の代わりになっているから余計にこの失業は一時的なものではなく長くなる。不況ではなく日本の衰退となっているから今までの一時しのぎの対処ではおいつかない、日本の製造業がもはやグロ-バル化の競争に一人勝ちはできない、むしろ中国などに追いこされとって代わられるとなるとそこで失業問題はさらに深刻になるのだ。 グロ-バル化とは実際は相当に厳しく過酷なものであった。中国人の研修生が一杯の所に高卒の人が一緒に働かねばならない、これがグロ-バル化の現実だった。
中国人の方が日本人より懸命に働く、日本人は日本人というだけで何の特権もない、労働力として中国人が安価で使いやすいとなる。日本人は10万で保証も何もないというから現在の雇用状況がいかに厳しいか実感した。ニ-ト、フリ-タ-は逆に役たたず、用なしとして外国に中国に追放されるかもしれない、移民一千万となれば現実的にそうなる。 グロ-バル化の是非はともかくそういうことが現実化することであった。だから高度成長時代の方がみんなが企業戦士にならなくてもいい、ニ-トとかフリ-タ-、派遣でもいてよかったのである。そういう余裕が社会にあったのである。でもほとんど全員が正社員でありはずれた人はほんのわずかだった。今になると逆なのである。なぜこんなにニ-トとかフリ-タ-とか派遣が多いのか?それはもはや自由に個性的に生きる人たちではない、社会からはじき出された人でありグロ-バル化になれば日本には無用となり日本からもはじきだされる恐怖が迫っている。そしたらよほど自分の能力を磨かなければもはや日本ではやっていけない、底辺労働は中国人や外国人の低賃金でまにあう、日本人でも同列でやってもらうとなる。それは日本の物価からしたらあまりにも過酷だとなる。
posted by 老鶯 at 01:12| Comment(1) | TrackBack(0) | 時事問題の深層

イソヒヨドリ(失われた記憶)


春光や海広がりてイソヒヨドリ


東京の近きも静か大島に喧騒なしも春の夕暮

大島に三光鳥の声を聞く東京離る春の夕暮


今日イソヒヨドリを海岸で見た。今日は春の光がまずしく、海が光っていた。イソヒヨドリは一目見たらわかる。鮮やかな鳥だからわかる。春にふさわしい鳥なのか、この鳥は海では結構みかける、イソヒヨドリだから磯にいる鳥である。大島でも見た、大島の不思議は東京から近いのに自然がある、喧騒もない、東京の喧騒は桁違いである。それが大島に来た時全く消えている不思議がある。東京から近くて喧騒を離れられる島がある。でもすでに何十年前だといくら旅しても忘れる。どこにいたのか?三光鳥の声を確かに聞いた。この鳥を見ることはよほど見ようとしないと見れない、鳥を見るだけで時間がすぎる。旅しているときはそういう暇がない、東京は余りにも大きいからどこに何があるか記憶できない、上野に来てここから東北に行く、帰るんだと意識するだけである。その他は意識できない、地理もわからない、東京はおそらく長く暮らしても記憶に残らない場所である。記憶も喧騒のなかに埋もれてしまい残らないのである。東京から離れた大島のような地域は記憶に残りやすいのだ。それでも30年くらい立つと記憶に残らない、その30年もすぎてみればいつこんな時間が過ぎたんだと想う。そんな時間が過ぎたことが信じられない、なぜ自分の人生は旅している間にあっというまに過ぎてしまった。


今のニ-トとかフリ-タ-も自分のように地道な社会人として人生を終わるのではなく、何をしたかわからない、ふらふらしているうちにあっというまに過ぎてしまう、その経歴には何もなくて終わる。そんな人生を多数が送ることは今までなかったのである。旅といっても山頭火のような本当の旅ではない、楽な旅である。だから旅人として特別ではない、旅人は実際は一カ月とか旅しているのではない、山頭火のように毎日延々と歩いて旅していることが旅なのである。もちろん勤め人のように何日か休んで旅館でグルメなどというのは旅ではない、休養であり旅ではない、昔はどうしても交通が不便だから歩く他ないから旅になりやすかったが今はない、現代は旅人はいない、六号線を紙袋下げて歩いて東京まで向かったホ-ムレスも旅人ではない、流浪者であり旅人ではない、現代では本当の旅人に接することはできない、そういう人が実際にはいないからである。 人間の一生も終わってみれば全くあっけない、その記憶に残ることがわずかなのである。ただ最後は記憶に残ったことが人生だったとなってしまうのである。例えふらふら何もしなかったニ-トであれフリ-タ-であれそれも一生である。


それにしても立松和平という人が死んだ。62才である。意外と早く死ぬ人多い、同じ年代で早く死ぬ人が多い、団塊の世代は食生活の関係などで意外と早く死ぬとも言われる。今長生きしている人達は特別だというのも本当かもしれない、まともなものも食わず過酷な時代を生き抜いてきたから生きるということに今の人より執着する。その生命力、欲望が普通じゃない、だから90まで普通に生きる。それもそうなのかもしれない、団塊の世代は意外と早く死ぬのかもしれない、まあ、そうすれば高齢化社会の介護などの問題は解決する。それを望む若者も多い、これも先はわからないことだがやはり有名人で早く死ぬのが気にかかっているのだ。

 
 記憶されない大都会(詩)
http://musubu.sblo.jp/article/35223329.html

記憶されない大都会

記憶されない大都会

巨大都市、東京は存在したのか

ごご-がが--ぎぎ--がちゃがちゃ

なんだかあちらこちらうるさい音

百万人の人とすれちがったが

みんなあっいうまに消えた

その人の顔も何も覚えていない

何か一人くらい一つくらい覚えてもいいはず

なぜか現実味なく消えてしまった

そんな大都市があったのかどうか

どうしても記憶に残らない

田舎の一本の枯木

夕日に長い影を帯びている

いつまでも長い影を帯びている

悠長な時間に記憶させるかのように

その木の方が存在感がある

 
posted by 老鶯 at 21:30| Comment(2) | TrackBack(0) | 詩全般

2010年02月10日

大島のイソヒヨドリ(詩)

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大島のイソヒヨドリ

大島の海岸に溶岩の赤

鮮やかに映えて磯伝い

飛び回るイソヒヨドリ

その胸は溶岩の赤色

島は海の碧と森の緑

三光島の美声のひびく

大島はなお火山の島

煙吐き溶岩の形造る島

椿の燃え咲く島

東京湾に近く迫る島

伊豆七島の連なる一つ

太平洋の波高鳴りぬ
posted by 老鶯 at 19:37| Comment(0) | TrackBack(0) | 詩全般

製糸工場女工の労働から働く価値観の変化を歴史的に考察


 

製糸工場女工の労働から働く価値観の変化を歴史的に考察(時事問題の深層40へ)
http://musubu.jp/jijimondai40.html#seishi

母が原町の製糸工場で10年間働いていた。この10年間はそれなりに長く重いものがある。でも必ずしも女工哀史ほどの悲惨さとは思えない労働だった。自宅から通っていたこともあったのだろう。今でも流れ作業などは労働として苦しいから同じである。食べるものなどは味噌汁とタクワンくらいだから違っている。でも現代でも労働は楽ではない、女工だけが特別辛かったともいえない、丸森町の新潟から来た女工は20才前であり名前を記した墓があるがずいぶん死んだものだから何か悲惨だった今になると思う。やはり結核にかかったからこんなに死んだのである。ここで死んだ人を思うとやはり辛かったろうなとは思う。とにかく15才から20才と若いからである。ただ別に結核は国民病といわれ製糸工場でなくてもかかっていた。だから特別製糸工場で死んだから製糸工場のひどい労働のせいだとはならない、その辺が女工哀史として特別に搾取されたとか言われるようになった。確かに製糸工場は生糸の輸出で日本は明治維新以後富国強兵を成すことができた。輸出するものは生糸くらいしかなかったからである。だから国のために働く、奉仕するという働く価値観が生まれた。それは戦争中の歌とにていたのである。みくにのために命をささげる、製糸工場でも支配者側ではそうしむけた。支配者側の意図が大きく働いていたのだ。


明治以降はすべてが国家のための労働であり欧米に追いつくためにそうなった。だから今になると批判されるのはやむをえない、今は働く価値観が全く違っているからだ。でも戦後はすべてが会社のための労働となった。国の代わりに会社になったのである。その会社一辺倒も批判されるようになった。ニ-ト、フリ-タ-がこんなに多いのは何なのだろうとなった。これは団塊の世代の価値観の反映であり子供には自由に個性を伸ばす生き方をしてもらいたいという親の願いからそうなったという分析もうなづける。すでに団塊の世代でも個性的趣味を生きる時代になっていて実際にそれを実現した生き方をした人もいる。でも大方は会社人間の企業戦士となったから会社の犠牲になった。戦争中の国の犠牲になったということと同じでありそれで子供には自分の個性を伸ばし生きてほしいとなりその結果としてニ-トとかフリ-タ-が増えたのである。ここでまた労働の価値観は変わってきた。それがグロ-バル化とともない労働の価値観は今までにないものとなりどうなってゆくのかわからいようになった。個性を伸ばす生き方といってもグロ-バル化で日本が衰退してゆくとき個性どころではない、ただ職にもつけない失業者の群れでありこれは高度成長時代とは比べることができないような悲惨な状態にもなりつつある。個性を伸ばす生き方などいつの時代でもほんの少数者が幸運でできたのであり何百万の人間ができるものではない、ただ労働の価値観そういう方向に向かっていることは確かである。

 
これは論文のように長くなったからホ-ムペ-ジの時事問題の深層に書いた。ここはずっと継続していた。ただアクセス状況など見るのにはプログが便利なのでプログ中心になった。長く論文的になるとホ-ムペ-ジの方が書きやすい、インタ-ネットはインタ-ネットの中の情報を編集すると明らかに論文を書くことができる。著作権に違反しないようにして論文を書くことができる。ただインタ-ネットを丸写しでは著作権違反になる。その辺のかねあいがむずかしいことは確かである。でもインタ-ネットは自ら編集して読むと意味あるものとなってくるのだ。ただ情報を集めていたのでは意味あるものとならない、部分であり断片にしかならず意味がないものとして消失しやすいのだ。編集して読むことはこれはかなり労力と読む力と書く力がないとできないのである。インタ-ネットを創造的に利用することは相当むずかしい作業なのである。
posted by 老鶯 at 20:35| Comment(0) | TrackBack(0) | 経済社会労働問題

2010年02月11日

白鳥と鴨と雪(建国記念日)

白鳥や雪に暮れゆく声もなし

白鳥の純白夕べ雪つつむ

白鳥のしみなき白さ雪つつむ

白鳥の寄り合い白し声もなし

一つ松群れにし鴨やこの池になお雪ふりつ春は遠しも

一つ松群れにし鴨やこの池になお雪ふりつ都は遠しも


白鳥は神の鳥に一番ふさわしい、白いことは汚れない純白でありその貴品はまねることはできない、真野川に白鳥はいる、他にも白鳥は今はいる、でも最近わかったことは何でも日々見ていないとその美はやはりわからないのだ。時間の中で会得するものがある。富士山でも毎日見ていればその美がわかる、旅をして一日見たくらいでは自然の美、人間の作った美もわからない、今日は夕方になるころ雪がまたふった。ここは今頃雪降るんだけど結構雪がふる日が多いかもしれない、でもつもらないからたいした雪ではないから電動自転車で買物に行くことができた。それでまた帰り道、平凡な池によって帰る。その池にはいつも鴨が群れている。そして鴨というといつも


百伝う 磐余の池に 鳴く鴨を 今日のみ見てや 雲隠りなむ  大津皇子


百伝う  磐余の池に 末長く 群れつつ鴨の あらじ哀しも


鴨というとなぜこの歌を何度もとりあげることになるのか?それだけこの歌が鴨を歌うことでは一番の秀歌でありそれも古代だから今では歌いないものとなっているから価値があるのだ。この池がどういう池でどこにあったのかわからない、百伝う 磐余の池・・・・代々伝えられた古い謂われのある池なのである。そこには平和に末永く仲間と共に群れてあるべき池だったのである。そういう池はみちのくにはない、春は遠しもとしたがこれは時間感覚で遠いとなる。ここに長い時間が流れている感覚である。一方ここに距離的感覚として都は遠しもとしても成り立つ、貴人が流されてきたみちのくという遠い地にあって都を偲ぶのである。

都を偲ぶというとき万葉集では大和になる。

葦辺ゆく 鴨の羽交いに 霜降りて 寒き夕べは 大和し思ほゆ  志貴皇子
今年はやっぱり寒い、梅などでも開くのはまだまだである。みちのくだと関西からすると大和からすると一カ月は遅れるから季語の感覚も違ってくるのだ。 古代では今より寒かったことはまちがいない、大和はやはり日本人の拠り所となる最初の国だったのである。今日は建国記念日だった?じゃ大和を思うことはふさわしかった。

白鳥の詩
http://musubu.sblo.jp/article/27303451.html

消えるプログの記録の危険


消えるプログの記録の危険

 
郷土史関係で明らかに5つつくらいの記事が復元できなくなっていたのでがっかりした。前に一度さくらのプログは全部消えたときはショックだった。一応パソコンに記録していても最近のを記録していなかった。今回はurlの番号はわかっていてもその記事が全くでてこない、その文を書いたのはごみ箱に入れたから再現できなかった。これもまずかった。一応とっておく必要があった。プログを「今日の一句一首」から「相馬郷土史研究」に分けたとき一部混乱した。ただこれはこちらの不手際なのか不明である。どうしてそのurlをクリックしても記事がでてこないのかわからない、全部が出てこないわけではない、
ちゃんとhttp://musubu.sblo2.jp/article/.htmlとなっていてhtmlの前に番号がでている。さくらのプログの不具合なのだろうか?これはさくらの会社に聞いても無駄である。プログは保証していない、サポ-トがない、プログはどうなっているかわからない、インタ-ネットにはこういうふうに突然消えることがある。すると全くこれまでの努力が水の泡になるのだ。ここがインタ-ネットの一番の問題である。他でも全く書いても消える、やはり重要なものは印刷しておくべきである。ホ-ムペ-ジは安全である。プログとは違う、パソコン内に他の記録メデアに保存していれば消えない、危険なのはプログなのである。最初はホ-ムペ-ジで書いていた、2000年からはじまり十年にもなる。時事問題の深層で延々と書いてきた。書くことに魅せられたのである。反応がなくても書き続けたのである。出版はできないからここに全精力を傾けて書いてきた。今日一人からホ-ムペ-ジの時事問題について反応があった。書き込んでくれたのは10年書いて二三人とかであった。でもアクセスがあることはわかっていた。プログは一つの記事ごとにアクセスがあることがわかるのでそれが反応だった。
 
「古池や蛙とびこむ水の音--意味」これがなぜ毎日のようにアクセスがあるのか不思議である。これだけ継続して10以内にしろアクセスがあるのはめずらしい。これは読まれているなとはっきりわかる。それからキ-ワ-ドも毎日のように調べている。これも仕事に誇りもてない・・・とかいろいろあり確実に自分のプログの記事にふさわしいのがきているからそれ相応にヒットして読まれていることがわかる。プログは全く変わった関係ない人は来ていない、確かに辞書のようにも読まれているが記事の内容にふさわしい人が読んでいることは確かである。自分もキ-ワ-ドで調べ関係したものを集めては編集して書いている。それがインタ-ネットを読むことであり書くことでもあったのだ。ともかくプログは記録の確かな保存をしておかないと消える。だから印刷しておくべきである。やはり記録で安全なのは印刷なのであり冊子でも本でも残せば残る。インタ-ネットは記録に関しては不安である。一瞬にして全部消える・・・そしたら努力も水の泡になる。


かといって出版はみんなできない、インタ-ネットの強みはこうして毎日いくらでも書けることであり全国に自由に放送できることなのだ。普通だったら狭い地域、10万くらいの都市に住んでいれば郷土史などその人数内でしか読まれない、ところが郷土史でも全国を相手にするから読まれるのである。これが大きな今までのメデアとの相違である。全国の人を相手にしているんだということはやはりやる気を起こすのである。アクセス数は最近また増えてきた。相馬郷土史関係では70くらいになっている。これはでも他から相当数アクセスししているから地元の人は少ないだろう。野馬追い関係などもっと書けばアクセス数はあがる。本プログの今日の一句一首は200を越えている、プログで便利なのはコメントを即座につけられることである。メ-ルはスパムでとめることができない、かえってプログに書いてもらうと即座に反応できる。誰かが読んでいるというだけでもやる気にはなる。

 


旗巻峠-伊達と相馬の攻防の歴史
http://musubu2.sblo.jp/article/27366573.html

戊辰戦争東北の一つの哀話(白河の遊女の墓)
http://musubu2.sblo.jp/article/27039464.html

 

このほかにも消えて復元できないものがいくつかある。書き直すことができるものもある。
ミルトンの詩と酷似していた相馬野馬追いなどはもう一回書けば復元できる。書いたことを忘れてしまいばなかなかむずかしい。なんとか試みはしてみる。


 

posted by 老鶯 at 22:18| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記

2010年02月12日

白鳥(優れた作品どうしてできる?)

新しく積もりし雪を踏みにつつ白鳥によれば夜しきり鳴く

しんしんと今日またつもる雪の夜や白鳥思いいねにけるかも

白鳥に魅せらるるかも絶えずして我が心よす他は見じかも

白鳥にはヨ-ロッパの湖にもにあうし魅了される。白鳥は純白であり聖なる鳥なのである。醜い人間を思ったらただ悲惨である。最近認知症の家族をかかえてから人間の醜い面をまざまざとみて翻弄されつづけてきたから余計そうである。すでに四年くらいたっているから結構長い、それでも月日がたつのは早い、いつのまにかプログを書き始めてから5年近くすぎていたのだ。
ホ-ムペ-ジを始めたのは2000年だからすでに10年はすぎているのだ。これもいつのまにかに過ぎた。その間につくづくひたすら反応もなく書き続けた。書くことに魅了されて書き続けた。これだけ書ける場など誰も与えてくれないのである。自分をいくらでも表現できることはインタ-ネットの強みである。雑誌にしたってわずかしかのせられない、個人で発表することも大変である。インタ-ネットは発表すること自体は簡単であり何の苦労もないのである。ただそのあと評価とか反応を得ることは本当にむずかしい。インタ-ネットでは誰が認めるのか、評価するのかということが問題である。目安はアクセス数だけになってしまう。でも毎日感じたことを書けるのはインタ-ネットしかない、それもプログが一番便利なのである。一つ一つの記事が読まれたかある程度判断できるからだ。トップペ-ジからくるとわからないのは問題だが平均して何が読まれているかわかる場合がある。これはホ-ムペ-ジではなかなかむずかしい。ともかくずいぶん書いてきたものである。途中認知症関係が多くなり読む方も書く方も混乱したがやむをえなかった。

これまで書いたものをやはりまた編集して整理する必要が出てきたのだ。インタ-ネットではプログで書いたものが一部消失して復元できなくなったように消える危険があった。ホ-ムペ-ジは消えにくいがプログが危険である。前も一度全部サ-バ-で消えたことがあったのだ。どうして
urlから記事が出てこないのか?こちらの落ち度なのか、記事が消えるということはありうることだった。とにかく10年書き続けたのだ、書いたものをもう一度整理する必要が出てきた。

いい詩をいい句や他にいい芸術作品を作るにはどういう方法があるのか?結局天才でないとだめなのか、凡人はあきらめるほかないのか?そうでもない、自分の記事を読んでいれば凡人でもそれなりのものに到達する秘訣が書いてある。俳句は全く才能無視の写生に心がけよであるなど、自分は全くあらゆる点で天才的なもの才能がない、それでも60すぎていいものができたような気がするし自分のようなものでもできるのかと我ながら感心しているのは不思議である。

20代であれ俳句とか短歌で何らいいものを作っていない、でも一つか二つはあったかもしれないが余りにも幼稚でありだから誰も認められるようなものではない、結局芸術は天才でない限り
年数がかかるのだ。いいものを作る秘訣はこの世の汚れに染まらないことが一番肝心なのである。ひたすら純粋を目指して身辺も純粋であること、汚れないよう努力することなのだ。世の汚れというときそれはいろいろある。女性で汚れてゆく人もいるし金で汚れてゆくこともあるし名声を求めて汚れてゆくこともある。余りにも汚されるものがこの世には多すぎるのだ。結局才能がどうのこうのよりそうした世の汚れに染まるためにだめにしてしまうのである。才能がなくても世の汚れに染まらないなら凡人でも本当の美を神が創造した美を知ることができるのだ。

汚れを清める雪のなか白鳥は一目見たら誰でもその美に感じるがさらに深く感じるには常にその美を思い一心に心を寄せて思うことなのである。そうすれば才能がなくても白鳥と美と一体化するのである。その時いい作品が自ずと生まれるのである。それは才能ではない、純粋さを保つ集中力である。でも実際はくだらない低俗なものに目を奪われるから遂に本当の美を見ずに終わるのである。低俗というとき芸術を創造する場にも入り込んでくる。低俗なものが宗教でもカルトのように一番強い力、権力をもっているからだ。芸術の世界もまた権力が左右することがあるのだ。それがこの世なのである。

雪の朝(松に雪)

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雪の朝黒々固まる烏かな


何を食う雪食む烏朝明けぬ

雪に鳥浪のひびくや朝の海

松が枝に雪の重さやひびく浪

松が枝の雪にたわむや蔵一つ

喜多方に蔵のいくつもそちこちに積まれし雪や冬の長しも
 
 
俳句はまず写生である。これらもただ写生しただけである。この辺ではこうして雪が積もることがめったにない、だから雪の中を自転車で海まで行ってきた。雪景色はめったに見れない、会津とか雪国では雪の中で暮らしているからうんざりしているけどここでは雪は新鮮なのである。この雪は山では相当つもった。山の方があんなに白くなるのはあまり見たことがない、海も松原もこんなに雪になることはない、めずらしいから写真にとっておいた。
 
松が枝→雪にたわそ→蔵一つ・・・・これも何かここで考えない、作らない・・見たままなのである。こういう光景は蔵の街の喜多方などではいつでも見ている。ここではめったに見れないからめずらしいのだ。浜通りには雪の情緒はない、雪国の情緒はない、雪国には独特の情緒が作られた。ただそれも他からはわかりにくい、それも地域的奥深い文化なのである。福島県では会津は一つの別な国なのである。会津の城は最初は黒い城だった。それが江戸城をまねて白壁の白い城になった。黒い城の方が感覚的には良かった。山国と雪国にあっていた。とにかく会津の地理はわかりにくい、会津を知るならどうしても冬を雪の世界を知らないとわからない、だから一冬でもここで過ごせばわかるのである。浜通りは関東と気候はさほど変わらないから同じである。会津のようなところは雪を知らないと理解できないのである。
 
烏が一段と黒く目立ったのが今日の朝だった。実際に雪でも食うしかないような雪景色だった。烏が本当に黒いと自らも意識したかもしれない、確かにこれだけ雪がつもれば雪一色になれば黒さらに黒くなる。
喜多方は蔵の喫茶店がいい、会津は城だけど喜多方は蔵である。最近何か会津も遠い、会津は日帰りとなるとやはり遠い、なぜこんなに近くても行けないのか未だに納得がいかない、余りにも自由だったからそのギャップが大きいのである。人間は今までの暮らしとか価値観ががらっと変わると簡単には適合できないのである。
 
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相馬野馬追いとヨ-ロッパ戦争の叙事詩(ミルトンの詩より)-消えた記事を回復


相馬野馬追いとヨ-ロッパ戦争の叙事詩(ミルトンの詩より)

さて今や厳しき命下る

勇ましき喇叭高らかに響き・・・と鳴りわたれば

彼の大いなる 旗を掲ぐべしと

丈高き天使ゼイゼルこの高き誉れは我がものぞと思う

彼ただちに煌めく旗竿より

帝王のしるしをひろげぬ

いと高く掲げられ風になびきて流星のごとく輝く

天使の紋章勝利のしるしなど

宝石と黄金の光ゆたかにちりばめられたり

この間喇叭は戦いの調べを・・・と吹き鳴らしたり

今や群れいる全軍の将兵一せいに喊声をあげ

地獄の底をつんざき

かなた老いたる夜との国土をも震駭す

たちまち薄暗をすかして見ゆ

一万の幟虚空にそそりたち

華やかなる色どりもてはためけるさま

同時に巨いなる林のごとく槍もそそり立ち

群れなす兜 密集せる楯の列限りなく続けり

やがて彼らは整然たる方形陣を成して

横笛 縦笛のド-リア風の調べに合わせつつ

前進を開始したり

ミルトン(失楽園)

この詩と相馬野馬追いの祭りが酷似していた。

勇ましき喇叭鳴り渡り
勇ましき法螺貝鳴りわたり
天使ゼイゼルこの高き誉れは我がものぞと思う
妙見の神、北斗七星の旗を高く掲げ殿の誉れを得むと
横笛 縦笛のド-リア風の調べに合わせつつ前進を開始したり
相馬流山の軍歌をひびかせて誇らかに前進せり


今や城より出て主君から厳しき命下る

馬上一せいに勇ましき法螺貝鳴りわたり

相馬の山々、大地、海にも木霊して

藩主の下に 集結して打ち揃う相馬の武士(もののふ)

先祖代々の旗印はなびきて華麗に練り歩く

相馬流山の軍歌の雄々しくひびき

藩内の社もここに総結集して雲雀が原へ

武田菱の旗の護衛に北郷の大将の紫の母衣(ほろ)鮮やかに

先導す一の旗の伝令の若者は駆けめぐる

雲雀が原に千の旗ゆれ御神旗を馬せりあいて奪い合う

主君の誉れを得むと馳せ上る若武者の馬よ

この時老将も勇みかつての武勲の蘇る

人馬一体、荒ぶる馬の鼻息荒しも

山中郷、中ノ郷、小高郷、標葉郷、北郷、宇多郷

代々の郷士、大地を耕し郷土を守る者たち

今雲雀が原に相馬藩の力は結集せり

夏の大空に法螺貝はひびきわたり

村々に土着して、代々の旗は眩しい光のなかにはためけり

相馬藩の隅々の力のここに総決起して伊達に立ち向かう

三百年つづきて変わらず君主をいただき

相馬の武士の誇らかに年に一度の祭りかな

旗の役割
http://members.jcom.home.ne.jp/bamen1/souma2.htm

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ヨ-ロッパというと日本と相当違っているように見えるけど共通点がかてりある。城があることや紋章が豊富なことは旗印が豊富なことににている。このミルトンの詩もまさにそうだった。野馬追いを詩にしたとしても違和感は全くなかったのだ。野馬追いの魅力は相馬藩のすべての力が結集することあった。そこが一番の魅力なのである。祭りにはそういう村や村々が藩が一体となるものがあった。今のようにすべてがばらばらとなってしまったとき、老いも若きも雲雀が原にすべて結集して一つとなることが魅力なのである。現代では世代もつながりがなくばらばらであり地域もばらばらであり総合につながりが希薄になる、ということは実は大地とのつながりも自然とのつながりもばらばらであり一体化しないことにも通じている。現代はあらゆるものが分割して部分化してばらばらになりすぎたのである。そのことが生きる力すら喪失させてしまっているのだ。これからは総合的な全体としてのつながりを回復することにある。それは自然と一体化して成される必要があるのだ。それを再現するのが相馬野馬追いやその他の各地の祭りなのである。そんなことは旧弊な昔にもどることであるとかなるが人間は常に一体化するものを目指す、大地(自然)と人間とが総合的に一体化することが人間の回復(ルネサンス)なのである。現代文明はあまりにも人間がばらばらになり部品化して生命力が疲弊してしまったのである。


平和の祭りならいいが戦争で一体化していいのかともなるが今の時代とは違う価値観の中で生きていたのだから今の考え方を時代を見ることはできない、ともかく当時はどういう感覚で生きていたのか、戦場に向かったのか、やはり今でも野馬追いに出る人は馬にのって先祖代々の旗をなびかせて出陣する人は当時の感覚を実感するのである。会社員とか事務員とか工場で働く人とか商人とかとは違う、何か誇らしいものを感じる。馬上の雄姿を再現する。だからおそらく金がかかるけど年に一度、昔に帰り侍に戻ることがやめられないのだろう。そうでなければなかなか野馬追いも文化財の維持だからというだけではつづかないだろう。別にこれを賛歌しても今の戦争賛歌とは違ったものである。


辛うじてこれだけは残っていた。結局「今日の一句一首」と「相馬郷土史研究」を二つに分けたときいくつかの記録が消失した。二つにそのまま残したおけば問題はなかった。別々にして一方だけにしたとき消失したのである。プログはホ-ムペ-ジのようにオフラインでは同じ様にみれないいし記事が無数に分割しているから消えやすいのだ。二つのプログに同じものを必ず記録していないとまずかった。プログは記録するには危険だった。この詩も結構貴重なものだった。あとは回復できなくなった。
 
posted by 老鶯 at 21:38| Comment(0) | TrackBack(0) | 歴史(相馬郷土史など)

2010年02月13日

相馬より会津へ (白河街道-詩と文)

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東北でも地理的感覚は平面地図のようにならない、距離感覚でも違っている。
地理の感覚は地図どおりにはならない、それは現しようがない、これも一つの
コンピュタ-ソフトでアレンジして偶然にできたがこれも地理感覚の表現である。


相馬より会津へ (白河街道-詩と文)

 


太平洋望む浜通り
阿武隈山地のさえぎりて
中通りに出て会津は遠しも
歴史を秘めて雪に埋もれぬ


七層の黒川城の威容かな
奥深き会津山国の城
歴史はここに積み重なり
代々の藩主はここに眠りぬ

その奔騰する川の流れや
迫る峰々隆々として険し
断崖絶壁にひびきわたれり
鬼百合こそここに熱く燃えて咲け


会津に入り福良の蔵の宿
茅葺きの家並み残り菖蒲咲き
猪苗代湖波うちひびきあわれ
境の松の枝の長々と垂れにける


関所もあれ勢至峠や秋の一部落
殿様清水にその名残や偲ぶ
一面に月見草咲き家まれに
道は郡山へつづきけるかな


遥なり残雪の飯豊連峰
桐の花咲き雨しとと墓所ぬれぬ
藍色の猪苗代湖に秀峰磐梯山
我が望みつ相馬に去りぬれ


阿武隈山地を我が越え行けば
太平洋の海の風そよぎ涼しも
船も行くかな松島牡鹿半島へ
伊達政宗は海を望み想いは外国(とつくに)へ


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蒲生氏郷が最初に築いたという黒川城は七層の黒い城だった。あとで江戸城の城をまねて白壁の城になった。最初の七層の城の方が山国、雪国ににあう威容のある城だった。七層となると今より高いからそうなるし黒いということがいかにも奥深い山国に来た感じになる。
勢至峠から福良で蔵の宿に泊まったことがある。猪苗代湖の岸辺の道を行きそこに松の枝が長々と垂れていてそれは境の松でありいかにもふさわしい松である。今は会津に行くのに福良の方をまわる人はいない、だからこちらは取り残されたようになっている。ただ昔を偲び旅をするのにはこっちがいいとなる。秋の日磐梯山の山影がここに伸びてくる。その時まだ宿場町にふさわしく茅葺きの家が通りに何軒かあったものさびた町である。昔を偲ぶにはこの街道を行かないとわからない、秀吉もこの道を行き会津若松に出た。
自転車で行ったから延々とつづく街道の記憶が残りこうして詩に書ける。福島県の地理は浜通り、中通り、会津と別れている。浜通りからすると会津はかなり遠い、それはまず阿武隈山地が障壁となってさえぎるからである。まず中通りまで出るのが容易ではない、中通りから出てまた遠い、電車で行くと岩沼から郡山に出て会津になるがこれも乗り換えがあるからめんどうになる。それより昔はどうしても阿武隈山地を越えないと会津には行けないからその行程は遠いのである。阿武隈山地と中通りでは気候もかなり違う、福島市は盆地であり冬は寒く夏は蒸し風呂のようになる。それがはっきりはわかるのは阿武隈山地を越えてゆくとき涼しい風が太平洋から吹いてきたときだった。自転車だから歩いて坂を越えるから特にその風には救われた感じがした。涼風は太平洋から吹いてくる。ここで気候が変わるのだ。
浜通りと会津はこのように隔絶されているのだ。だから地理的には宮城県までの海沿いを通じて塩釜や松島、牡鹿半島に結びつくのである。相馬藩にいかに宮城県関係の神々が勧請されていたことでもわかる。館腰という駅名があるがあれも神社であり相馬にもあった。宮城県のそうした神社に相馬からお参りに行っていた。山神も多いが小牛田神もそうである。船で塩釜の寒風沢に行き来した記録も残っている。金華山の碑もある。会津の方からそうした神々はもちこまれない、それだけ交流が少なかったのである。ただ木こりとか茅葺きの屋根葺きとか出稼ぎで来ていて住み着いた人も記録として残っている。やはり会津藩との交流は地理的に隔絶されているから少ないのである。
人間はやはり自分の住んでいる地点がコンパスの中心になる。自分の住んでいる場所から世界をみる、相馬から磐城、中通り、会津、宮城県の仙台、塩釜、松島・・・と見るのである。それでもこれだけの視野をもつこと自体、江戸時代だったらむずかしいことになる。庶民は会津などに行くこともない、宮城県にはお参りで行っても会津までは行かない、だからその地理感覚は狭いのである。もちろん伊達政宗のようにスペインまでその視野を拡大化したことはあった。東北では例外的なことだった。これだけ交通が発達しても日本は山国だからその地理がわかりにくいのだ。会津は特に山国だからわかりにくい、峠また峠である。山が障壁となり閉ざされた国が大和(やまと)の国なのである。

猪苗代湖や会津街道の御前桜などの詩
http://www.musubu.jp/sakuranewpage2.htm