2010年01月01日

2010謹賀新年

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新年や海穏やかに陸荒れぬ


元旦に朝鐘鳴りぬ奥の寺

年明けぬ松風鳴りて雪野かな

千里行く寅年西行思うかな

寅年や晩年なおも飛躍せむ

元旦に墓に詣でて寒椿

新年や梢に高く鳥鳴きぬ

我が庭に葉牡丹植えて新年を迎えて雪や石の鎮まる

穏やかに波にゆれつつ鴨の群れむつまじきかな新年の朝

新年や松風鳴りて朝清し昨夜の雪の残りし野を見ゆ

今年の元旦は荒れ模様だ。昨夜雪がふり今朝その雪が残り今は北風がうなり吹いている。元旦から荒れ模様ということは今年も不況がつづきいろいろ苦しみ続けるのか?不思議なのは海は穏やかである。波もいつもとは違い静かであり鴨の群れがその波にゆられている。海が穏やかで陸が荒れているのはめずらしい、。たいがい海は波がここは荒い、これも例年にないことだろう。寺の鐘を元旦の朝に聞いたのもめずらしい、普通は大晦日だからである。 まず霊前に祈り近くの墓にお参りした。姉が死んで一周忌が終わったばかりでありまだ死んだ人は遠くに行っていない、やはり死んで三年くらいはまだまだ死者はこの世を彷徨っている。だからこそその三四年は死者は生者に相当な影響力を及ぼす、これは迷信とかではなく本当だと思う。実際姉が死ぬ前に親戚の人も二人死んだのである。ここ三四年の間に二人親戚の人が死んだ。それでなぜか自分は関係ないと思っていたが一人の親戚を殺したいくらい憎んだ、その因縁は親戚だから複雑にからまりあっていた。年月が相当すぎていたから自分には関係ないと思っていた。でも突然狂気の沙汰として襲ってきた。それでその人をどうしても憎んだ。憎まざるを得ない、突然通り魔に襲われるようなことを経験したからである。そしてその人をこれほど憎む原因がわかった。二三年前に死んだ人の凄い憎しみと恨みが自分にのりうつったのである。そうとしかいいようがない、今は関係を断ったからそういうことはなくなった。まちがいなく死んだ人は三四年は生きている人に強力影響する、もちろん現実問題として財産問題などで墓でももめるのだ。

今年は寅年だけどまた遠くに旅ができるのか?やはり介護になっているからできないだろう。介護になるとなかなか介護している人から離れることができないのだ。虎というと千里を行くというから電動自転車で旅をしたい、坂をぐいぐい上って遠くまで行きたい、西行は凄い人だった。
「年たけて又こゆべしと思ひきや命なりけりさやの中山」その年になって当時旅することは本当に死の危険があった。旅人はやはり旅に死すのがあっている。旅に死ねれば本望だとなる。人間自分のように三十年間旅をしてもあっというまにすぎた。これで旅も終わりなのかということなのだ。まだまだ見ていない所がいくらでもあるじゃないかとなるのが人生なのだ。特に富士山など本当に美しい富士山を見ていなかった。富士山は見る場所が大事だからである。すると日本に生まれて富士山も良くみていなかったなとなりこのまま富士山も良く見ないで死んでゆくのかと思ったときがっかりした。なぜなら富士山の写真をとるために何カ月も寝泊まりしていた人をテレビで写していたからうらやましいと思った。そんなに富士山を見れるのかと思った。車を持っているからこんなことが今はできると思った。人生はつくづく短いのだ。百才を生きてもその間に病気になる。介護になる。そして何もできなくなる。そういう方が多いのである。自分のように幸運だったとしてもそうなのだからこれだけ旅をして仕事もしないでもそうなのである。

葉牡丹を植えたけどこれはなかなかいい、本当に冬ににあうし元旦にもにあう、元旦となるとやはり日本人は初詣でとなるが日本人は農耕民だから一年のはじまりとか季節の変わり目には敏感である。神社に参るとは信仰より習俗である。ただ天皇を現人神としたとき信仰になった。
神社もそこに組み込まれたという歴史がありその問題は継続されているからこれもすんなり受け入れられないものとなった。でも祭りは維持されるべきでありしかたないから元旦には一カ所だけ金は払った。今年も一周忌を終えたばかりであり死者のことをひきづっている。介護もつづいている。体も晩年になり弱ってきた。でもやはり電動自転車で遠くへ行ってみたい、それが今年の願いだ。

今年もプログを書き続けますのでよろしくお願いします

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2010 謹賀新年

2010年01月02日

新年に会津のことなど想う


新年にお手伝いさん勤むかな石に葉牡丹風唸るかも


舘岩の曲家に住み雪埋もる冬の長きをまた雪のふる

おやみなくしんしんと雪ふりにけり会津の奥の暮らし思いぬ

会津にも従軍看護婦の友ありし魚送るも姉は死ににき




お手伝いさんが家に来ること家のなかに人が入り家のことにかかわることは他の仕事とはかなり違っている。その家と深くかかわる。単に掃除したり料理したりとかそれだけではないものが生じてくる。家全体、家族とかその家の先祖とかもかかわってくる。現実自ら花を買ってきて大晦日にはその花を供えてくれた。家族の一員のようになってくる。でもこれは変わったことではなく昔ならみんな勤め先は大きな家だった。大地主の家で働くにしろ商家に働くにしろそこは一つの大きな家だったのである。工業だって家内工業であり大きな家に勤めることであった。農家でも・・・・・屋とかあるのはそこが今の会社みたいな存在であった。大きな家だからこそ使用人も一緒に墓に埋められたりしている。大きな商家でもそうなっていた。そもそも人間の歴史は家族から家から出発している。だからどこの国でも最初の国は家が拡大して発展したものなのである。国は家から起こった。日本では国家であり天皇家が最も古い家となって継続したとなるとその家に仕えているのが日本国家となっているのだ。大きな会社組織とかでも明治になってもやはりそうした江戸時代の家が継続されていたのである。武家社会でも家が中心となった社会である。武家に仕えていた女中や足軽とかみんな家に仕えていた、家に働く人々だったのである。それは極めて人間的な世界だったのである。そこは疑似家族となる、大きな家族としての集団形成だったのである。


会津と浜通りとなると相当気候が違っている。だから同じ福島県でも別な世界のようになっている。浜通りは文字通り海に面している。雪はめったにふらないし積もらない、会津では冬はしんしんとたえまなく雪がふってつもる。テレビで舘岩村の曲家の民宿を写していたがあそこには夏に行ったことがある。山の陰の奥深い所である。会津は夏だけ行ってはわからない、冬の雪深い時行かないとなかなか理解できないだろう。冬が長い、雪に埋もれてどんな暮らしをしていたのか、あの大きな曲家で一日泊まって見れば実感できる。そして車もないときの生活がどんなだったのかも想像するといかに雪に埋もれた生活が大変なものかわかる。その時茅葺きの職人が出稼ぎにでた。会津は茅葺きの家作りが盛んだった。何故なら昭和村の方に行ったら山一面が萱が繁っていた。萱が豊富である。もちろんその頃茅葺きの家が主だったからどこでも萱が必要であり萱場山とか萱とつく地名が多くなることは必然だった。あの雪深い時、越後でもそうだが江戸に出稼ぎに行くということがわかる。毎日のように雪降る中で暮らすことは閉塞感をもたらすし経済的にも苦しい。だからその雪の間に雪のない地域に出稼ぎにゆくことが習慣になることは自然なのである。相馬地方にも茅葺き屋根作りの職人が来ていたのである。ともかく浜通りでは確かに雪がふったがつもらない、すぐきえてしまう。雪を積ということが雪に埋もれる暮らしを実感できないのだ。これは雪国に住まない人はみんなそうである。天候でも毎日のように曇り雪がしんしんとふる世界が人間の心にどう影響するのか?それもなかなか推し量れないのである。


会津というと姉は従軍看護婦であり鳥取とかにも戦友がいて手紙のやりとりをしていた。でも認知症になってから年賀も書けず音信不通になった。会津には松川浦でとれた石鰈などを送り喜ばれていた。あういう魚はなかなか向こうでは食べられないだろう。姉は最後までシンガポ-ルで従軍看護婦をしていた四年間を忘れることができず死ぬ直前まで話していたのである。認知症になってもそのことは忘れなかった。85以上になると互いの消息もわからなくなっている。でも戦争の残した傷痕はまだまだ生々しいのである。テレビとかで見てもそうである。失明した人がいたりその人の姿を見たとき戦争は残酷だなとつくづく思ったりする。盲目の障害者まで戦場に駆り出されていたことには驚いた。傷痍軍人も戦争後まもなくは街に出ていた。戦争の現実はまだ本当のことは語られていない、余りにも残酷だから語られないということもある。ともかく身内が死んで何年かはなかなか死者のことは忘れられない、いろいろとひきずるのだ。


ただ戦争のことにしても戦争を経験した人が死ねばその人が語ったことを伝えることとなるからまた違ったものとなる。戦争のことを経験しないで聞いただけの人は冷静に判断するということもかえってあるのだ。戦争に参加した人はやはり自分たちがした戦争を否定することは簡単にはできない、冷静に見ることはできない、事の真実はあとからなるほどなと明瞭になることがある。それが歴史となる。今の時点のことが後世でどう評価するかは本当にわからないのだ。マスコミの判断に追従したことが全く批判されることもある。今の時点の事を評価することは本当にむずかしい。あとで評価することはいろいろなことを冷静に見て総合的に判断するからわかりやすいのである。それは別に歴史的な大きなことでなくても身近な家族とかでも死んでみると自分の親はこんな人だったのかと回想してわかる。生きている時はあんなにしかられて嫌だったけど今になるとその意味がわかったとかあとになってからわかることが多いのである。だからともかく平凡人でも死んでからその人についてわかることが多いのである。

2010年01月03日

寒椿(冬の街道の行き来-原町まで)

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寒椿最期を全うする命かな


溜め池の凍り忘れられる馬頭の碑

枯芒隣の街へ行き来かな

蝋梅や還暦過ぎし男女かな

我が庭に蝋梅の蕾かそけきや母なお生きて家のつづきぬ

今日も見る街道の松枯れにしを朽ちゆく命あわれなるかな
 
 
最近イオンができたので近道として植松の方を回る。あそこに広い溜め池があり馬頭観音の小さな碑があった。これは普通気づかない、馬頭観音の碑は多いのは当時の交通は馬車であり馬が主役だった。今の車が馬だったのである。だからこんなに多いのだ。これも大正時代であり江戸時代の馬頭観音はまれだろう。明治から大正、昭和、昭和からまもなくも馬車が交通の主役だったのである。小さいとき馬車の後ろにのって遊んだ記憶がある。馬車屋も必ずあった。この道は鹿島から一石坂(いちごくさか)を上る道は坂が多すぎる、その坂もかなりきついから今まではこの道はさけていた。電動自転車になり坂を上りやすいのでこっちの道を頻繁に行くようになった。あそこもなかなか見慣れた風景でも風情ある場所だったかもしれない、意外と人間は近くの魅力に気づかない、かなたは山は飯館の方は雪がふぶいていた。
 
冬の風情もしんみりとしていいものだと思った。それにしても五本松に残っている一本の枯れそうな松をまた見た。あれを見ているともう一年も療養病棟にいる近くの知り合いの老人を思う、一人は胃ろうでもまだ生きている。なかなか死なない、人間は今なかなか簡単に死ねない時代である。93才になってもまたなんとか生き延びている。こんなに人は長生きするものかと不思議である。嵐で倒れる樹もあるが樹も簡単には倒れない、これもいいのか悪いのかわからない、経済的には相当な負担だから社会的に見ると高齢化社会はいいものではない、今年は寒いから寒椿の赤さが映える。寒椿のようにやはり最期を全うしたいとなるがこれがむずかしい時代である。人間の最期は認知症になったり無惨になっている。潔いものもない、見事に死ぬということはまれだろう。認知症になったら早めに死ぬのが救いである。姉も二年半ほどで死んだからそんなに禍とは今では思えない、南田洋子さんも二年半くらいで死んだから良かったのである。介護は長引くから今悲惨なのである。三年くらいならなんとか我慢できるからだ。
 
庭の蝋梅が蕾となって咲きだした。この寒いときに咲くのが蝋梅である。それを還暦すぎた男女が見ている。蝋梅は確かに長寿の花なのである。庭にリホ-ムしたのは良かった。ここに蝋梅もあっている。老後の生活に庭は必需品である。老後は狭い範囲が生活圏になる。するとどうしても身近に接するものが大事になるのだ。ただこの庭は余りにも狭すぎる。庭を造り楽しむまでになっていない、でも一応庭は庭である。老後は高齢化社会はスロ-社会だとすると茶の湯があっている。茶室に一回も入ったことないし茶をたしなんだこともないが茶の湯のことがわかるのである。日本人ならやはり別に茶の湯をたしなまなくても俳句とか短歌とか庭に親しんでいればわかる世界である。これからは江戸時代の隠居文化とか高齢化社会の文化になる。狭い範囲で濃密な時間を過ごす、やたら移動する時代でなくなってくる。郷土史研究が盛んになるのも必然だった。身近なものの価値を見出す時代になったのである。
 

2010年01月04日

寒椿(寝たきりでもボケない人-義理と人情の老人)


寒椿ぼけずに生きる寝たきりも

療養病棟で一年もいる老人を見舞った。病院にそんなにいるとどうにかなる、ボケる人が多いというのもわかる。でもその女性の老人はボケていない、はっきりわかっているので驚いた。
ぼけたら認知症になったらまずそんなに親しくない人、家族でないなら見舞っても誰かわからない、その人がどういう人かもわからない、認知症は過去との記憶の継続がなくなるのだ。
だからその人がどういう人だったのか理解できない、特に最近知った人は理解できない、昔から長く継続してつきあっていた人はわかる、幼なじみでも遊んでいたとかその人は老人になってまでつきあいが継続したのだからわかる。でもその人は認知症になってから全く来なくなった。他にも子供の頃からつきあっていた親戚もこなくなった。そこに入院している老人は不思議だった。認知症になって頭がおかしくなっても話をあわせてくれた。おかしくなったことを知っていたのである。かわいそうだなと言って話をあわせてくれた。変なことを言っても嫌わずにあわせてくれたのである。だからその人のところにだけは毎日のように行っていたのだ。それで助かった面があった。その人には特別世話になったわけでもない、金を全と貸しているくらいだった。でもその人は律儀であり馬鹿正直なところがあり必ず少しの金でも感謝して返していたのである。そして感謝もしていた。世話になったといって姉がおかしくなっても普通に相手していたのである。たいがい認知症になると嫌がるのが普通だから不思議だと思っていた。あとでおかしくなったことを知っていてかわいそうだとつきあってくれていたのである。認知症の人を家族さえかわいそうだと思う人は少ない、嫌悪されるのが普通である。だからこういう人は特殊であった。

それよりその人の性格自体が現代では特殊だった。わずかの金を貸したからと感謝している恩を感じる人はいない、良く姉は貸していたけど誰も感謝しない、でも返さない人がいたからいつも金を返してもらうのに苦労していた。人間はいくら世話したって恩をいつまでも感じている人はまれである。恩も忘れるのだ。また恩を返す人もまれである。だから恩を徒(あだ)で返すとかもなる。恩と義理など日本人の堅苦しい昔の言葉になっている。恩とか義理もすたれたのではないか?そんな古いことを今や守る人もいない、でもどこの国でも昔から伝えられたモラルはあった。恩と義理を守らないということはその代わりにどういう道徳がモラルで生きるのか?恩受けても恩を感じない、恩を返さない、感謝もしない、そこには荒廃した人間関係しかなくなる。人のために何かするものは助けるものは馬鹿だともなる。そんなことをししても一文の得にもならないとかなる。現実そうなってしまったのが現代の社会なのだろう。だから索漠とした潤いのない世界となっている。義理も人情もない社会となっているのだろう。だから宗教などありえない、宗教の目指すものは余りにも高すぎるからそうした恩とか義理、人情もない人はとても宗教の愛とか慈悲など何かをしることすらできない、宗教団体にもそんなものを追求していない、自分の利益だけを権利だけを追求しているだけである。その人は一見馬鹿のように見えても日本人の古いタイプであり恩と義理と人情の人だったのだろう。だからあまりにも珍しい特殊な人となっていた。むしろこうした人が特殊な例外的になったということ自体、日本人の良さがなくなった。明治人にはこうした人が多かった。明治は本当にあらそる意味で遠くなった。人間そのものが明治人と今の人ではあまりにも違っている。今の人はあまりにも利益人間一方になってしまった。それもそういう社会なのだからやむをえないいえばそれまでだがそういう昔からあったモラルを馬鹿にして自分たちが昔より進歩した人間だと思っている。でもモラルの面では後退しているのだ。だから人間はいくら科学技術が進歩しても人間そのものが変わらないというのは本当である。


こうしてその老人のことを自分が生きている今も世話になったとか感謝している。何かその人のためにしてやることもできなかった。それは見舞いに行ってちょっと金をやるくらいでは返せないものである。ただ一方で多額な金をやった人はそれなりに返したとかなる。ところが恩とか全部返せない方がいいのだ。恩になった感謝するという心が大事である。なぜならその心はいつまでも金銭でも返せないものとしたら死んでも継続する。死んでも感謝の心が継続するということは恩になったことを忘れないことでありその人を思いつづけることになる。その方がかえっていいともなる。これだけの金を払ったのだから恩は返したというよりいつまでも金では返せない恩を継続された方がいいともなる。何故なら他人が死んだらそんな恩などすぐ忘れてしまうからである。いづれにしろいかに自分が困った状態にあったか理解する人はいなかったし助けてくれる人もいなかったことをこれは物語っていたのだ。自分が困った時しか人間は助けてもらうことに感謝しない、それは家族さえそうである。介護とかになると家族でも一人の人にまかせられる場合があり助けがなくなるからだ。


ともかく人間はぼけることとぼけないこと認知症になることとならないことの差が大きい、これは一見たいしことのないように見えるが全く違っている。認知症になったら人間失格である。人間として通じなくなる。この人はだから本当に人間なのだろうかという疑問、廃人になってしまったのではないかとか見るようにもなる。あんな寝たきりでもあれだけわかっていれば恩になったからどうだこうだとか通じているのだから人間としてやりとりもできる。認知症の人にはもはやできない、全部できないというわけではないが人間として通じなくなるから悲惨なのである。

 
聖書の言葉の謎(神のみが善行を知る?
http://musubu.sblo.jp/article/34578059.html

2010年01月05日

聖書の言葉の謎(善行を知るのは神のみ?)


天に宝を積め(マタイ)
http://nagosui.org/Toseisho/daily-words/97

 
●報酬ないのが本当の善行? 
 

昨日書いた義理人情に厚い老人のことのつづきだけどその人がしたことはそもそも善行をしようとしてしたのではない、オレはこれからあなたに善を愛をほどこすとかそんな大げさなことではない、ボランティアとかでも宗教団体でもそういうことが多すぎる。お前のためにしてやるのだから感謝しろとかだから俺たちの団体に入り支持しろとかなる。その人はたまたま善行をしたのであり意図したものではない、「右の手のしていることを左の手に知らせるな-マタイ6-3」この老人はそうした善行を成す意図もないしまた善行をしている意識もそれほどなかった。ただかわいそうだなと認知症になった姉のことをさけることはしなかった。おかしくなったけど話をあわせてくれた、というよりはそれは強制的なものでもなかった。例えは福祉関係となると介護関係でも実際は強制的であり金になるため、生活のために仕方ないとか、みんな強いられて福祉の仕事に就いているのだ。それは賃金労働でありだから当然報酬をもらうのが当然であり生きてゆく手段でもある。現実に福祉関係では福祉を口実に施設でモノを高く売りつけているとかいろいろもうけるための工作をしている。福祉でもそれがビジネスとなり仕事となれば誰だって報酬を追求しているのだ。そもそも仕事で報酬を追求しないこと自体ありえないし誰もしないだろう。
宗教団体でもあくなく報酬を追求している。現世利益を追求している。つまり天に宝を積むことではない、地に宝を積むことに毎日あくせくしているのだ。それが仕事であり生きることだから悪いとは言えないのである。それか普通の経済活動であり日々の仕事なのである。報酬を否定したら生きていけないからだ。医者だろうが福祉関係でも利益をよりよい報酬を追求している。だからこそ介護士は仕事がきついわりには報酬が少ないとやめる人が多いのもわかる。そんな過酷な仕事を無償でやれというのかと言ったら誰もしなくなる。そしたら誰も世話しない膨大な弱者が放置されることになる。だから聖書で言うような善行をやれとなど言えない、ただ本当に聖書の言葉はわかりにくい、天に宝を積めと言っても天に宝など積めるのか・・・となる。これは明らかに死んでも人は死なず天で生き続けることを想定しての発言なのだ。ところが人はこの世のことに執着して生きるのが普通であり天とはいかなるところか誰も知らない、そもそも人間は死んでも生き続けるのか、そのこと自体自覚しえないのが普通である。だからこそ人間はこの世がすべてだと思いこの世の価値観でもって日々生きているのだ。天に宝を積め神が報いて下さるということよりこの世での現実としての報酬を得たくてみんな日々あくせく働いている。


●善行を知るのは神であり人間ではない 

 

だからこの言葉一つとっても聖書は実際は全く不可解なものとなるのだ。聖書の言葉をわかりきって説いている人自体も本当にそれを実行しているのか定かではない、誰も報酬なしでは働かないし働くことが成り立たないからである。ただ善行したとか善行しろとか声高に言っているところでは善行はない、そもそも「右の手のしていることを左の手に知らせるな-マタイ6-3」
隠れた行為を神は見ている・・となると誰も人間の善行を知るものがないときそれが本当の善行となっているからだ。それは今生きている人間にはわからないし天でしか死んでのちしかそのことがわからないのである。それがこの世で善行と認められたとき善行でなくなっているからだ。昨日書いた私自身が経験した具体的な例からするとその人は無意識的に善行をした。報酬を得たとしてもわずかなものである。実際に私は他の人には多額の金を報酬として与えた。不思議な話はその人は借金までしてきたからその報酬がこの世で過分に得て借金だけが残ったという不思議があった。恩を返すからはじまって恩を着せる遂には最後は借金だけが残った。報酬を過分に受け取りさらに過分に受け取りそれが借金として残ったという不思議がある。むしろ人の弱みにつけこみ報酬を過分に得たとさえいえる。あなたを助けたんだからそれくらい当然でしょうとなる。こういうことは普通にあるしとがめることともならない、絶えず人間は報酬を要求されているしそれが仕事となっているのだ。ただその時そんなに過分の報酬を得たら天に宝を積めとか天で報いを得ることはありえない、この世ですべて報酬は支払われてすでに借金まで残してしまったからだ。いづれにしろ現実はそういうものであり神が認める善行などありえない、というよりはこの世では善行は明確化されない、知り得ないのが善行なのである。私が接した恩になった老人でもかえって報酬を得ないならその人の感謝はいつまでも残る、心の中に残る。いくらかの金を与えてこれで恩は返した報いは与えたのだからこれで貸し借りはないから終わりだ。それよりも報いを得なかったから感謝され続ける方がいいとなる。その感謝が天での報いににている。この世で金銭であれモノであれ報いを得たものはあの世では天では何も得られないとなる。

 
●来世に天に生が継続されてこそわかること
 

このように聖書の言葉わかりにくい、この世の価値観と全く異にするからだ。そこでは人間は死んでも天が確実に存在しない限り理解できないものである。その天のことが地上の生活から全く別の世界であり理解しにくい、全く見えないからそうなっているのだ。もし天のことがありありと見えればそういうことかならば死後の天に重きをおき地上の価値に重きおかない生活ができるのである。でも人間は決して生きている間は現実の価値観でしか生きられない、また人間が死ぬと全くその人の存在がどこで継続しているのか全く見えなくなる。そのつながりを求めることもできなくなる。そのギャップが大きいから人間は現世の価値観に左右されて生きている。ただ今回の実際の例からそういうことかと理解できるものはある。やはり現実の生活に聖書でも読み解くヒントはある。それは卑近な例でもそういうことかとわかる場合がある。
このようにもし無意識的にこの世の善行が報いられるなら逆に借金などをして返さないものはどうなるのか?たいがい借金も死んだら終わりだ、御破算だとなるのが普通である。でも天ではこの世で借金を返さないものは何十倍にして利子がついて返さなければなくなるかもしれない、借金を返すための労役を課せられるかもしれない、もちろん罪を犯した人も天で裁かれるとなるとその裁きは過酷なものとなる。もし人間が死んでも天で生が継続するならそうなる。でも普通はこの世の生は一旦死んだら御破算になると考えるのが普通である。天まで死んでまで生きることを具体的に考える人はいない、だからこそこの世から罪がなくならないのだ。神は天と地を創ったというとき人間には地しか具体的に見えない、天は仮想であり具体的に見えない自覚できないから聖書の言葉がわかりにくいのだ。ただこの世ですでに悪の報いを得て死んだ人も多い、子供からも縁を切られて無縁仏になり墓参りすらされくなった。またある常識もなにもい女性の顔を見たらなにか今になると奇怪だった。顔に現世の悪しき生活の痕跡が記されたのかもしれない、それが最初は良くわからなっかった。その人も一応親戚になっていたからいい人だと思っていたのである。でも何であんな変な顔になったのかと思う、別に悪人という顔ではないが奇怪な顔だなと今になると思うのである。すでに50年も生きているとその人のこの世での生活の履歴が顔に刻まれ記されるかもしれない、ただ顔をみぬくことは暴力団のような一見みてわかるような場合しかこの世ではわからないだろう。福祉関係の人も同じである。福祉の仕事をしても善行しているけではないのだ。あくまで日々の糧を得る報酬を得るための仕事でありビジネスでありそれは善行とは違ったものだから神から見れば評価できないとなる。

 

寝たきりでもボケない人-義理と人情の老人
http://musubu.sblo.jp/article/34558623.html

posted by 老鶯 at 22:58| Comment(0) | TrackBack(0) | 聖書の言葉と詩など

2010年01月06日

「名医のうそ」児玉知之を読んで・・・自分の経験から納得


「名医のうそ」児玉知之を読んで・・・自分の経験から納得

 
「名医」のウソ・・という本を読んだけどいかに医者に対応することがむずかしいか実感したからわかる。それなりに症状とか正確に伝えないといけないとか質問してもいいとか書いてあるけど医者に下手に質問すると嫌がられるし相当にうまく聞かないと気分を害される。医者とはそもそも対等に話せない、気を使いすぎる。ここには確かにその方法が具体的に書いてあるからわかりやすかった。薬も医者がわからない薬剤師もわからないとかめんどうなものなのだ。でも勝手に素人判断で薬を飲むことを中断することはまずい、実際に血のめぐりがよくなる薬を原町の心療内科からもらっていた。それをやめたのがまずかった。脳出血になったのはそのためだったかもしれない、薬はやはり大事なのである。それから紹介状を書くことでその医者のことがわかるというのも本当だろう。原町の皮膚科専門医では南相馬市立病院の麻酔科に紹介状を書いてくれた。神経ブロックの治療はそこでしかできないからだった。そこではもう治療できなかったからである。でもそれは入院しないとできないものだった。だから救急車で麻酔科のあるところに帯状疱疹は入院しないとだめなことがわかった。その南市立病院の麻酔科では薬の副作用を良く説明してくれた。他の薬ではだめだからこの薬を飲めというのも説得力があった。薬の副作用のことを詳しく説明する医者はいい医者なのだろう。その人は研修医らしいが研修医がすべて頼りにならないということではない、研修医は若いから情熱があり一生懸命みるというのも本当だろう。麻酔科の研修医はそうだった。だから副作用について熱心に説明したのかもしれない、年寄りの医者はそういう患者への病気を直すことへの熱情が薄れてしまっているかもしれない、適当にみるということもできる。若い人はどこの分野でも最初は仕事に熱心なのである。
 
それから胃ろうの手術のとき南市立病院で合併症のことを詳しく説明していた。私たちは万全を期してやりますが万が一失敗あります、合併症は万が一生じますと説明していたから手術について詳しく説明する医者は病院はいい病院だというのも本当だろう。でもその医者は一言質問したら「では手術をしない」とにらめつけて言った。その時こちらも医者は怖いと思った。一言だけ質問することはこのように怖いことなのである。だから医者に何かを聞くことは細心の注意が必要である。実際はこの本に書いたように気軽には聞けない、かなりの危険性をともなうものなのだ。「手術をしない」ええ、医者にそんな権限があるのかというのにも驚いた。危険だからやめてくれというのでもない、年だから失敗してもしょうがないとか思っていた。老人は医療ミスししてもあまり責任を問われないから医者は楽だと書いている人もある。一言質問しただけで「じゃ、手術はしない」と怒鳴られたときはびっくりした。そんな権限が医者にあり患者はその時手術をしてくださいともいえないのか?だから医者は怖い存在であり簡単に質問などできないと思った。そんな権力を権限ももっているのかとそれで病院の事務に不満を言ったら名前と住所を言いなさいとさらに脅されたのである。つまり病院には一言も不満など言えない仕組みになっているのだ。権限はすべて病院側にありそこでにらまれたら診療すら受けられないというのが現実である。
 
ただここで私が言っていることはかたよった見方ではない、この本を読んで確かに合併症のことをあれだけ説明していたのだからそれは信頼できると納得したのである。私自身別に他の人でもいい面は誰でも認めるのである。故意に中傷しているのではない、ともかくいくら医者とうまくやれと言っても本当にこれはむずかしすぎる。そこがやはり患者側としては納得いかない、ともかく医者とは仲良くしておけというのは本当である。相手も人間だから好感をもっていればいろいろ良くしてくれるからである。ただ自分はそういうことが苦手だからなかなか医者とは打つくつきあえないだろう。医者だけではないそうしたコミニケ-ションがへただからだめだとなる。
posted by 老鶯 at 23:46| Comment(0) | TrackBack(0) | 福祉医療-老人問題

2010年01月07日

初乗り(仙台で昭和の回顧展を見る)


初乗りやイタリア人の乗り合わす


仙台に店新しく年明ける

新年や我を迎える黒い肌

広瀬川岸辺の枯木つづきつつ長町により帰りけるかな
 
新年に仙台に行く電車にイタリア人が乗っていた。明らかにイタリア語であり日本人の女性と話していた。ブックオフでは中国人の女性がアナウンスしていた。発音は違うにしても通じている。コ-ヒ-店では色の黒い女性が給仕していた。仙台になるとウエトレスまで外国人になっている。ここでは工場で働いている。とにかくいかに日本に外国人が多くなったか、東京だと本当にここ日本なのかとさえ思うようにもなっているだろう。あらゆる人種の人が入り交じっているのだ。


仙台ではなつかしい昭和20年30年代の催し物が行われていた。飯台一つでその前にテレビが置かれていた。テレビの画面は小さい、ええ、あんな小さいテレビだったのかずいぶん見ずらい、あのテレビを食いいるように見ていた。案内する人が蚊帳を釣って蛍が来たというけど確かに川には蛍がまだいたし蛍狩りをしていた。ほ-たる来い・・・ということが本当にあったのだ。その頃は飯台一つでもにぎやかな家族の団欒があった。その真ん中にテレビが置かれたことが一番印象的なことだった。そしてあらためてテレビがどれだけ社会に影響したか再認識した。茶の間にテレビが入って来たことはテレビ中心の世界が形成されたことだったのだ。テレビなしではありえない、テレビに明け暮れたともいえる。最初に鉄道の影響がこれも大きかった。鉄道村などができたり汽笛一声新橋・・こそ本当に文明開化の音だった。次にテレビの影響が大きかった。そのあとは車だったのである。鉄道→テレビ→車が社会を変えたのである。すでに昭和は遠くなりにけり・・・とかなってしまいつつある。

 
最近家族を一人亡くしたから特にそうである。子供の頃からその飯台を囲み一緒に生活した人を亡くしたから余計にそう思う。人間はこうして一つの時代が終わってゆく・・そのくりかえしだった。一緒に暮らした家族もなくなるということは本当にショックである。それで施設に入った老人が家に帰りたいというとき昔あった団欒があった家族の生活のなかに帰りたいとなるのはつくづくわかる。家族さえ遂に別れなくなってしまうことはあまりにショックなことなのである。ただ茫然自失しているほかないショックなことなのである。家族がなくなることはすべてが失われるなくなることに通じている。 要するにあとは思い出だけになってしまうのである。まあ、認知症の介護として回想療法としてこういう場で昔の話を聞けば臨場感がでてくるからいいとなる。
 
今回駅前だけで用をたして帰ったきた、いつも広瀬川を通り枯木にそって長町により帰っていた。仙台はだいたい駅前でほとんど用がたせるようになっている。今日は古本展があり「奥相茶話記」がのっていた福島県資料集の古い本を買った。これは高かった。一万五千円は高すぎたが資料が多くのっているのでしかたなく買った。そもそもこうした資料とか記録はインタ-ネットで公開すべきなのだ。図書館にあってもいちいちとりだして調べるのがめんどうで最近は介護とか忙しくなり一回も行っていない、図書館で調べるのは相当な手間暇なのである。郷土史関係の研究は本とか資料に頼ることが多い、だから手元にそうした関係の資料や本があれば研究は進むのである。インタ-ネットで自分がやったように進むのである。


 

2010年01月08日

橲原村冬の短歌十首(村に生きる意義)


村に生く人の絆や冬深む


橲原に隠さる墓地や冬木立


街にのみ我が通いつつ橲原に久しく行かじ冬深まりぬ


橲原に生きにし人のあわれかな粗末な墓や落葉に埋もれぬ

この村に生きつつあわれ名もなきに粗末な墓や冬の日暮れぬ

橲原の入り口にし立目石バス停一つ冬の日暮れぬ

橲原に増えし一二軒家の灯や誰か住むなれ冬の夕暮

橲原は町より遠き車なき我に遠しも年は明けしも

橲原の樵の選ぶ木にあれや柱となりて我が家を支ゆ

鹿島町町誌に残る鹿島村橲原田なれあわれなるかも

鹿島区の奥座敷なれ橲原や水透き通り冬の静けき

橲原に何をし見なむ山の上に蛍袋や草深きかな

 
最近は電動自転車で原町の方へ毎日のように買物とかに行っていた。やはり今は山の村と街の交流は経済的に少なくなっている。昔なら炭焼きとかあり薪を供給したり密接に生活の中に山村も結ばれていた。もちろん家を作る木材を供給していたから山は資源で豊になっていた人もいたろう。日本に森林鉄道が多かったのもそのためである。それが外材となったとき失われた。40年前はまだ橲原に樵(キコリ)がいて地元では地元の木材を利用してしいたのだろう。自分の家はそうだった。地元の産物を利用しているときは地産地消していれば人間のつながりも強いものとなる。それが今までの村や町の生活であった。橲原や栃窪は鹿島区の奥座敷である。特に橲原渓谷は水が清らかである。ここは奥座敷だから茶室のようなものがあって心安らぐ場所としたい。ただ高速道路がここにもできたから風致は乱されたのが残念である。産業廃棄物の場所になったことも残念である。あれには反対した人もいなかったみたいだ。橲原村はやはり鹿島の奥座敷だからあそこはまずかった。どんなところもどうしても経済が優先されるのだ。地元の人も経済が先になるから自然は無視されるのである。
 
橲原には何もないのだが橲の字がめずらしくて検索している人が多いことに気づく。どうしてこういう字をあてたのか謎である。橲原というとやはりなぜか墓地が気になる。杉木立のなかにある墓地は自然石の粗末な墓である。ここの墓が行き来して心に残る。今風の墓がある方は普通の墓である注目していない、杉木立の中に隠れるようにしてあるのでいつもその墓地のことが気になっていた。でもその墓地には江戸時代のものはない、明治以降のものである。というのはここは江戸時代から村があってもその後開拓に入った人の墓かもしれない、江戸時代の墓があればそこは古い墓地である。だから墓地を見るときは江戸時代のものがあるかどうかまず見るのである。葛尾村の落合に元禄時代の墓があったのは意外だった。あういう山の奥でも古い地域なのである。
 
橲原で気になるのは入り口の立目石くらいだろう。そこのすぐ近くに新しい家が増えた。普通新しい家は山村では今はなかなかふえない、それでその家のことが気になる。都会だったら一軒新しい家が建っても気にしないが山村だと気になる。そんなこと気にしてどうなるんだというがやはり田舎では新しく住む人は注目されるだろう。監視さえされるようになるのが田舎である。田舎では特に農山村漁村など職住一体だから強固な一体感があって生活していた。だからよそ者は入りにくい場所だった。でもそういう村での生きる意義は存在感は重かった。貧乏でもそうだった。いや貧しいから余計に互いに支えあって生きていたのだろう。


町との交流では江戸時代の鹿島村の時、橲原田という地名を町誌に残しているのは面白い、鹿島村で田を拓いて住んだというのもその頃鹿島村でも田にすべき土地があった。その土地を求めて移住した人がいた。そうしか考えられない、普通だったら町に移住する人は職人とか商人である。町がたいがいそうして成り立っていた。 それが田を拓くために鹿島村に移住しているのだからいかに土地があれば田にする歴史が長かったことを示している。ともかく田舎では一体人が何しているのか気になる。それは普通の感情であり変わった人は住みにくい、それは良くとれば人がその土地に生きる意義を自然と問うためだろう。山村などでも石一つも何か意味が与えられて存在している。人間となれば余計にそうである。そんなむずかしいことなど誰も考えて生きていないというのもそうだが一方で限界集落など経済的効率的に考えたら必要ない無駄だというとき東京に生きることこそ存在意義が見出せない、人間は巨大な社会の部品と化して流砂のように土地との結びつきも失い、人間は無縁化社会になりやすいのだ。


NHKの無縁化社会というのもつくづく現代はこれは一部のものではない、そういう傾向は全体に広がっているのだ。会社から離れたら職住分離では土地からも社会からも結びつきがたたれる。東京などでは本当に人間の根源的アイディンティティ-存在感が見出せない世界である。経済的価値が肥大化した異様な世界なのである。だから限界集落や過疎問題を経済的合理性からだけ議論していることが何か歪んでいる。そなむずかしいことはどうでもいい、そうした村を支えているのは都会なんだよという都会の主張が一方的なのである。あんたもしょせん部外の人と言えばそうなんだがしかし常に行き来しているのはやはり山村的な所だったのである。

 


冬木立の村(詩)
 http://musubu.sblo.jp/article/34630977.html

 

 橲原(じさばら)のジサはエゴの木の古語
http://musubu.sblo.jp/article/12899121.html


 


 

冬木立の村

 
  冬木立の村
 

村人は支えあって生きている

冬木立のようにしんみりと

その中に名もなき人の

粗末な墓が埋もれている

村は互いに支え合い成り立っていた

都会は流砂のように人を押し流す

一つの経済的単位部品として

もはや人は人としてありえない

人と人が支えあうには巨大すぎる

人はそこで盲目の働き蟻とされる

摩天楼が何を意味するのか

それは意味なき蟻塚なのかもしれない

村は人が一本一本の樹のように

深く大地に根付き質素ながらも

冬木立のように支えあっている

一つの岩は時間の中で忍耐を刻み

岩と岩が向き合う存在の重さがある

村は代々支えあって成り立っている
posted by 老鶯 at 22:53| Comment(0) | TrackBack(0) | 詩全般

2010年01月09日

相馬市成田冬の短歌十首(竹(武)内氏の墓-続編)

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相馬市成田冬の短歌十首(竹(武)内氏の墓-続編)
墓一つ何を語るや故郷にたずねてあわれ年も暮れにき

高松に我が上り来て知られざる墓地の静けき冬の日暮れぬ

街道よりわずかはずれて成田なる墓地の古りしも冬の日暮れぬ

三十三才ここに埋もれぬ女あわれ二つの姓や冬深まりぬ

ここよりか竹(武)内一族起こりしや街道近み冬の成田に

街道を相馬の殿の行きにしを見送る人や冬の日暮れぬ

熊川の姓は相馬の境より起こりて残る武士の裔

六地蔵街道に古り柳枯れ冬の日長く城に待つかな

相馬藩郷士の多く城勤む人は少なく刈田の道行く

成田の墓地は古い、竹内氏が竹の内から起こったということを書いた。ここに竹内→武内と変わった姓の人の墓もあった。これは明治時代のものでも江戸時代からの継続がある。
安政 (1854-1863) の僧侶らしい墓もある。ここは旧竹内氏の墓であった。江戸時代の墓は個人の墓か夫婦の墓であり一家の墓は明治以降作られた。その名残として岸家武内家のと両家の姓が記された墓がある。これは鎌倉時代にもあり武家の家では実家の姓をひきづっていたのである。一つの家を姓にした墓の形態は新しいのである。岸タミと刻まれている墓は三十三才と記されていて武内は五十三才である。先に夫が死に明治二十二年に妻のタミが死んだ。タミは若くして死んだ。この竹内氏は竹の内から起こった姓であり相馬氏の系統の姓ではない、例えば熊川という武家は熊村から起こったのでありそこは岩城氏の領地との境であり境川ともある。熊川家老文書として残されているから熊川家は相馬藩で重きを成した人である。日本では姓はその土地の地名からとったものが多い、黒木氏でも黒木という地名が先にあり姓となった。ともかくこの成田の墓地からここが歴史的に興味ある場所として見出された。街道にも近いし相馬の城にも近いというのも魅力なのである。相馬藩では城に専門に勤めた武士は少ない、ほとんどは郷士であり農業をしていた武士だったのである。郷土史はこの成田の墓地のように知られないものが相当埋もれている。もちろん土の下に発見されない過去の痕跡が埋もれている。今回発見した古い墓地でも誰もまだ注目していないのである。郷土史にはそういうことがいくらでもあるのだ。人間の膨大な記憶は忘れられ埋もれてしまっているのである。


磐城-相馬街道(大熊町)
http://hyakkaido.travel.coocan.jp/

iwakisoumakaidou11tomiokanagatuka.htm