2009年12月01日

枯菊(六号線のレストラン)


枯菊や落ち着く近くのレストラン


鴨の池内装落ち着くレストラン

レストランここに二年ほど枯芒


鹿島区から原町区へ六号線のホテル兼レストランには何回か入った。500円のランチが安いからだ。あのレストランはまだ新しい、二年くらいしかたっていない、老人になると何か落ち着いたものがいい、派手なものは合わない、性格にもよるが一般的にはそうである。枯れた菊でも落ち着いてサ-ビスを受けられるのがいい、高齢化社会に適したものはそうしたものでありそれが全部悪いものではない、若者向きばかりでは落ち着かないし街の雰囲気も騒々しいだけになる。高齢化向きにすることは街全体が落ち着いたものとなるのだ。スロ-社会にもなる。 レストランには滅多に入らないし食事もしない、食事では贅沢しない、そもそも贅沢はできない、家ではどうしてもずっと食事を自分で用意している方だから自分では贅沢な食事ができない、また帯状湿疹でヘルペスで母が寝たきりなので困った。痛い痛いとしぼりだすように言っている。本当に痛い病気らしい、これも相当悪質な病気である。90にもなっているからこれからどうなるのか?

お手伝いさんが来てくれるので本当に助かる。痴呆ではないのでお手伝いさんとまだ話すことができるのでいい、姉の場合は認知症になり知らない人とは話すこともできないし受け付けないからその時は年金で金があったがヘルパ-を雇うこともできなかった。今度は外からの援助を金でできるから救いがあった。金があっても認知症だけは手伝ってもらうことすらできない、全くやっかいな病気だった。ただ家でこうした病人をかかえると陰気になり自由も拘束されてしまうのだ。これは一カ月くら痛むしそれ以後も痛むとかこれまた本人にとっても家族にとってもやっかいな病気である。60以後は病気やら何やら悩まされることばかりになってまた年の暮になった。
 
今日は電動自転車でビデオレコダ-を買った。このビデオレコ-ダ-の恐怖はハ-ドディスクに記憶したものが一瞬にして消えたことである。パソコンでは経験していたがビデオレコ-ダ-で同じことが起こるとは思わなかった。ディスクに記憶したものはパソコンでも消えにくいがハ-ドディスクは劣化すると突然壊れ消えることが怖い、今や1TBとか遠くできても一瞬にしてハ-ドディスクは消えるからその膨大な量を記憶しても消えては何もならない、その対策はディスクに記憶するしかないのだから大容量のは買わなかった。電動自転車は荷物にも強い、重さを感じない、風にも強いらしい、半分バイクだからそうなっている。これは日常生活にも相当役に立つ優れものである。

ビデオレコ-ダ-買ったのは今度できた山田電機だった。ケ-ズ電機は相当な打撃になる。ところがレストランとかは競争相手ができても競合できる。一つのレストランだと同じメニュ-でありあきる。
別な料理を食べたいとなるから同じレストランに行きつづけることがない、高くてもそうである。一カ所だけのレストランに通いつづけることはほとんどないから競合できるのだ。でも電器は同じ品物であったら安い方を買うだけであり競合できない、安い方に客は流れてしまうのである。

南相馬市鹿島区江垂の一石坂 (いちごくさか)のこと


南相馬市鹿島区江垂の一石坂 (いちごくさか)のこと
 
●一石坂 (いちごくさか)の由来
 
住古女あり年20ばかり、木履を納め米一石を頭上に捧げこの坂を上りし故一石坂と名づく
陸前浜街道の鹿島区江垂の日吉神社まで上る坂は急である。あんな急な坂を上り相馬藩の武士が野馬追いの時も上ったのかと思う。馬にしても疲れてしまうだろう。よく駒止峠とういのがあるが例えば檜枝岐に田島の針生から行く七曲りの坂道をバスで行ったことがあった。ここも延々と坂がつづく大変な難所であったがトンネルができた。日本には延々と坂がつづく峠が多い、八木沢峠もそうである。だから自転車では歩くことになるから容易ではない、馬にしても駒を止める峠だというのは納得する、馬も延々と坂を上ることが嫌になる、もう上りたくないとなるのは人間と同じだった。

昔の道は最短距離で通じるように道ができています。ですから、どんな急傾斜の地形でも直線の道だったりします。それは徒歩ではそのほうがよいからで、道によっては、人はともかく馬は無理という道もあります。例えば、先の熊谷通りの道がそうで、ちょうど神社の参道に男坂と女坂があるように、徒歩は釜伏峠越え、荷駄馬は荒川沿いの道というように分かれます。
http://blogs.yahoo.co.jp/futamision0801/2210374.html


発見された近道
http://musubu2.sblo.jp/article/28422250.html

つまり歩くならこんな急な坂道でも上ることができるから直線的に行くことができる。でも馬だったらきついのである。徒歩で行く道と歩いて行く道が別れていたというのも納得する。

木履を納め米一石を頭上に捧げこの坂を上りし故一石坂と名づく

木履とは下駄なことなのか?納めたとはどこに納めたのか?下駄を運び米も運んだのだろうか?

日本酒の一般的な容量が一升(一八〇〇ml)。江戸初期に升の大きさを統一し、広さ四寸九分平方、深さ二寸七分の升に入る分量を一升とした。その十分の一が一合、一〇倍が一斗、さらに一〇斗を一石という。

一石は頭のせるとしたらその重さは大変なものである。ここに誇張はあるにしろこの急な坂を毎日のように上る力持ちの女性がいてこの名がついたのである。よくあんな重いものをのせて上れるものだとみんなが見ていたのである。女性だったから余計に目立ったのである。
 
比べ石 尺石 力石・・これは日本全国にある。力比べが行われていた。そもそもこうした石を持ち上げて一人前と大人と認められていた。江戸時代の生活は人力が基本であり機械がないから人間の力が頼りなのである。庭師が百キロ以上あるような石を人力で立てた時はびっくりした。あんな力をある人をまざまざと見たからだ。そういう力持ちは江戸時代なら注目されたのだ。
今はNHKで放映した麦の刈り取りで鎌一つで出稼ぎに集団がいたが一方でコンバインならその人力の麦刈りより一人の作業量より百倍にも千倍にもるから比べようがないのだ。石を動かすにしても機械を使いばそんな力を今は必要ないから力ない人でもやれることはやれるが庭師とか大工とか建築関係は以前として力が必要である。
 
●津川の城の伝説(阿賀野川)

麒麟山の上に津川城があり、城の石垣がけわしく、狐も通れないというので 狐戻し城といわれていました。昔、津川城の殿様が病気になり、医者がいろいろ手当をしましたが、なかなか よくなりません。そこで、山の麓の温泉の湯を汲んで湯治をすることになり、 温泉の湯を運ぶ役を、美しい小姓の蔦丸(つたまる)に命じました。
蔦丸は毎日、山も麓から、山の上のお城まで、せっせとお湯をはこびました。 殿様は湯治のおかげで、病気がだんだんよくなりました。
ある日のことです。蔦丸はお湯を汲みに来るお鶴という娘に会いました。
お鶴 も母の病気を治すために毎日、お湯を汲んでいたのです。
二人は仲良くなり恋仲になりました。そのため蔦丸の帰りがおくれがちとなり 人々のうわさになりました。これを知った重臣たちは怒って蔦丸を頂上近くの 石牢に閉じこめてしまいました。

この話はリアリティを感じる。狐の嫁入りとかを売り物にしているがそれは観光のために作られたここにはない伝説である。でもこれは城が山の上にあり実際に毎日湯を運んでいたのである。これも一石坂ではないが大変な労働だった。当時城は館は高台にありそれで必要なものを下から運ばざるを得なかった。日吉神社のある所も相当な要害の地であり高台なのである。
要するに昔は車もないのだから歩くほかない、だからそうした山や要害の城に物を運ぶことを仕事にしていた人がいたのである。これは湯をくむことをさぼったためにお咎めを受けたのだから当時の下々の生活が厳しいことを示している。歴史は伝説でもその土地の地形から生まれてくるのである。

殿様の病直さむと日々

険しき山道上り城に運ぶ

何故の咎めや残る恨みぞ

若者なれば恋ありて悪しきや

その山道は会津の奥の奥

雪に埋もれし津川かな
 

 

郷土史発見-ホ-ムペ-ジ
http://www.musubu.jp/jijikyodoshi.htm

posted by 老鶯 at 23:21| Comment(0) | TrackBack(0) | 歴史(相馬郷土史など)

2009年12月03日

NHK歴史秘話ヒストリ- 正岡子規を見て


NHK歴史秘話ヒストリ- 正岡子規を見て


●人間は弱いからあわれみの文学が生まれた


正岡子規は自分でも写生俳句を作ってきたからなじみ深い人である。そもそもあの若さであれだけの文学的業績を残したことはやはり天才だったのだろう。俳句でも若いときなどいいのはできないのではないか?40代でもいいのができていない、60代でいいのができたかなというのが自分だった。若いときは普通は血気盛んであり文学に向いている人は少ない、強い人は短歌や俳句や文学に向いていないというとき、体が丈夫だと強い人は自らの弱さを知って謙虚になることがない、俺は病気になったことがないとか何かで自らの弱さを知ることがないと文学に向いていない、文学では体が丈夫で病気をしたことがないという人は山頭火などがいるが比較的少ない、あれだけの旅行したのだから体が丈夫でなくてはあの過酷な旅はできない、でもそれは例外的存在でもある。啄木でも結核になった結果、自らの天才としての傲慢を砕かれて自らの弱さを自覚する短歌を後世に残すことができたのである。三島由紀夫も弱い人間だったが涙ぐましい努力をして強い人間となろうとして不自然な自決となったのである。公的な要素より私的な自決の要素が大きいのである。老醜の恐怖もありそれを公的なもの愛国心と転化されたからその自決は演技的でもあり批判されることになった。

誰でもス-パ-マンになりたい、でもなれない、ス-パ-マンとは異常な人間である。人間には弱さが与えられていることが他の動物とも違っている。弱肉強食の動物とは違う。人間に弱さがなかったら神など信じない、ニ-チェのようになってしまうだろう。ス-パ-マンは自ら神となってしまうのである。それを神が許すはずがないのである。若いときは体も丈夫であり行動に向いているが文学には向いていない、何か表現することに向いていないのである。正岡子規もあれだけ行動的社交的人間だったから文学に精を出すことはなかった。皮肉なことに子規も啄木も病気の結果あの若さで後世に残す業績を残したのである。 病気になると不思議に自然とか人間の共感が起きてくる。病気になるともののあわれが自然と生じてくる。それは自分自身のことではなくても他者の病気でも特に家族が病気になったりするとあわれだとなり同情するから文学が生まれる。姉も体が丈夫であり病気などしたことがない女性だった。それが頭から体から無惨な結果になり最後は病院でうめくようにして泣いて死んでいったとき本当にあわれだったとなる。それまではあわれみを覚えるような女性ではなかった。そういう人はこの世に結構いる。それでも老人になるとどうしても病気になる人が多くなりあわれだなる。そこにあわれみの文学が生まれることになる。
 

●柿の俳句について

子規が柿が好きだったというとき特別なことではない、その頃の果物は柿が一番多い、今のように外国からいろいろな果物は入ってこない、大正生まれの母も柿が好きである。干し柿も好きである。果物でも柿は食べられたからである。子規が柿が好きだったというのではなくその頃みんな柿は好物だったのである。
 
東大寺裏の旅館に泊まっていた子規が夕食の後に柿を食べて居た時、
近くの東大寺の鐘がなったのだそうで
この鐘は「初夜」と呼ばれるその日最初の鐘のことで、

翌日法隆寺を訪ね、
この風景と結びつけ句を読んだと言われています

 
柿食えば鐘が鳴るなり法隆寺


 

俳句は短いから背景を知らないと深く味わえない、「初夜の鐘」というのもやはり鐘として心にひびくものがあった。これは茶店のようなところで外で柿を食って作ったかと思った。東大寺の近くの宿だった。そのあと法隆寺にしたのである。これはまた漱石の句の「鐘つけば銀杏散るなり建長寺」からヒントを受けたという。こっちは何か明るい感じがする。この句もいい句なのだろう。
 

子規泊まる昔の宿や柿の味(自作)


柿の味は日本の変わらない昔の味なのである。現実に柿はKAKIとして世界で通用しているからだ。 ビジネスホテルで柿を食っても情緒がなくなる。昔風の旅館も当時の風景とマッチしていてこうした句ができたのであり今の時代ではできなくなる。なぜか車の騒音とか様々な騒音の世界であり鐘の音のひびきも今とは違っているからだ。これが江戸時代になるとさらにそうなのである。文学もそれができた背景がありその背景が失われるともうそうした俳句もできないのである 。子規は果物好きだったからこんな句もあった。
 

林檎くふて牡丹の前に死なん哉


これなんかも簡単な何でもない句のようでも死なんかな・・というところが普通の健康な人とは違っている。常に死を意識して作っていたから何でもないようで切実なものとなっていたのである。果物でも林檎でも梨でも食っていた。林檎はその頃みんな食っていたのか?都会だと食えたのか、結構高かったように思う。それなりの収入があったから他の人よりは贅沢していたのだろう。
子規を支えたのは友人でもあったが妹も目立たないが大きな役割を果たした。庭を子規の見やすいように作っていた。庭の花などが慰めだったからである。
 

薪を割る妹一人冬籠もり


この妹は子規の庵を死んだ後も守っていたという、俳句が写生だというとき自分も写生俳句を基本にしてきたから子規の業績が大きいとなる。他に子規がいい句を残しえたのは死を常にまじかにしていたからである。死は常に目の前にあった。だから事物を末期の目で常に見ていたのである。

柿の話
http://www.musubu.jp/hyoronkaki1.htm

 
インタ-ネットにこの柿の話はいろいろでていた。それをNHKで説明しただけである。ただNHKでは映像として話を展開するからわかりやすいのである。

2009年12月04日

冬の鳩(つづく介護)


優しさや介護の助け冬の鳩


老人の介護に追わる師走かな

夕暮れむ五本松に落葉かな
 

認知症の介護からまた帯状湿疹から介護になった。前にも書いたけど介護とか病気になると俳句とか短歌ができやすい、正岡子規のことをNHKで放送していたのでそのことを書いた。
「優しさや介護の助け冬の鳩」この句は何なのだろうと自分自身が作って不思議だった。作った本人が不思議なのだから他の人は何のことかわからないとなるのが多いだろう。鳩のように素直であれというとき鳩は平和の象徴である。冬の日に介護で助けられている。朝に鳩が群れて飛んでいる。そこに深い意味を感じた。鳩は平和の使者なのである。

 

旧約聖書の《創世記》8章には、ノアの洪水について書かれていますが、
この中にノアが放った鳩がオリーブの若葉を持ちかえり、
これによって洪水が終わったことを知る話があります。

 
人を罰する洪水が終わったとき、平和がこの世に再びもたらされたとき、鳩がオリ-ブの若葉をもちかえった。だから平和の象徴となった。老人の介護など無駄だというのも一理あるが弱いものをいたわることは人間の優しさを愛をひきだすものでもある。俳句とか文学はこうして背景を深く読まないと理解できないのである。明日死ぬかもしれない人が作った俳句とのんべんだらりと過ごしている人が作った俳句の重みは余りにも大きいのである。病気とか介護は俳句でも短歌でも特別な深い意味を与える。
 

姉が認知症になってから母も年だったし介護は継続していた。そのなかで今まで経験しないことを多々経験した。自分はこれまで金のことでありほとんど世間とかかわらずにすごしてきた。
金を借りたことも貸したこともない、若いときの一時期を除いて金で困ったこともない、それが金でいすいろいろもめごとを経験した。いかに人間が今金に左右される存在か身にしみてわかった。今回は安く病院に行く方法があり助かった。これは半分ボランティアだった。手伝いさんに助けてもらってもその金はたいしたことではない、でも親戚とかには金ではひどいめにあった。額が半端じゃない、でも要求されても断れない、ただより高いものがこの世にないことを実感した。金で割り切ってやってくれる方が助かる。へたにただで助けてもらったりしたらあとで何十倍もの金額を要求されるしへたに親戚でも何でも頼めないことがわかったのである。困ったときに人に簡単に助けを頼めない、今の時代は金で割り切って頼めることは頼んだ方がよかった。ただ金だけではどうにもならないことがあった。今度は金で頼めたからそうなると気楽だった。

 
老人の介護というとき必ず良くみていると街の通りを路地でも老人をかかえて歩いている人をよくみかける。これだけ弱った老人がいる老人社会、介護社会になっているのだ。家に一人寝込んだらまた大変なことになる。ただ今度は金で外部から助けてもらえるからいい、家事を負担してもらうとかなり楽だし一人だけやっているのと違うから心強いとなる。まあ、年だからいつ動けなくなり衰弱して死ぬのかわからない、そうなってもおかしくない年だからである。師走は自分だけではない親の介護に追われる人が全国いかに多いか、そういう時代なのである。

2009年12月05日

冬紅葉(介護の俳句)

 
老いし母病に臥して冬紅葉

寂けさや石に茶の花今日も暮る

シクラメン病の癒えてなお生きむ
 
若々しい健康な文学もあるが病気と文学は密接な関係がある。自分でも他者でも病気は何か自然とか人間とかへの感受性を高める。人間はそもそも弱さを知らなかったらどうなるのか?おそらく全く同情ということを知らない非情なものとなってゆくのではないか?弱さ知るが故に他者への動物でもあわれみの情が生まれてくる。そういう情がないとしたら人間ではないとなってしまう。全然病気もしない、何らか弱さを知らない人間は人間でないとなってしまう。
 
まあ、今の時代に老いといっても90過ぎるとなると今まで経験していない老いでありいつも言っているのが生きているのが不思議なんだよなとなるが本当に他から見ても人間ってこんなに長く生きるものかそれも細身であり体が弱いたちなのに不思議だとなる。長生きの原因がよくわからないのだ。血液検査でも異常がなかったのだから脳出血にならないことが長生きの要因の一つかもしれない、85以上になると脳出血になる人が多いからだ。それで死なないにしても寝たきりになる人が多いのだ。帯状湿疹、ヘルペスは細菌がウィルスが死んで黒くなっているので痛みもおさまってきたから回復に向かっているのだろう。「老人 ヘルペス 入院 死」というキ-ワ-ドできた人いたからこれで老人でも死んだ人がいたのだろうかびっくりした。下半身に帯状湿疹ができたから良かった。上半身だと若い人でも入院したり大変だったと報告がある。
 
ともかくまた一安心なのか、それにしてもこの年ではまた何かになってくる。でもお手伝いさんにお茶までたててもらい出してもらうとなると楽である。細菌ず-と自分がお茶出ししていてお茶をたててだしてもらったことがない、もし金がありお手伝いさんとか一日中雇うことができたら楽である。妻にやらせていると同じである。一日お手伝いさんを雇える人は少ない、一人分の一日の月給を払うとなると大変である。でもヘルパ-を一日一万とかで雇っている人はいる。そうなると介護でもかなり楽になるだろう。そんなにしてまで親戚などでもやれない、どうしてもヘルパ-頼りになってしまうとなると介護も金だとなる。ただ認知症の介護となるとこれはヘルパ-さえ頼めない過酷なものとなっていた。他人と話すことすらできない、正気だからお手伝いさんとかヘルパ-を雇えるのである。

2009年12月06日

シクラメン(手伝いさんやヘルパ-の仕事)


手伝いの人に明るしシクラメン


冬薔薇帰るを待ちし空家かな

不景気や空家の多し年の暮

 
会社を経営して人を雇ったりしたことがない、人を雇うことがどういうことかもわからない、手伝いの人をヘルパ-を頼むことも実は人を雇うことである。でも会社とか工場とかで働くのと家庭に入り働くのはかなり違っている。家庭のなかに入ることはその家と知らず深くかかわってしまうのである。手伝いの人でも住み込みだったりしたら本当に家族の一員になっている。葬式まで出しているし墓まで一緒になっている。ある家の墓の前に道標が立っていて名前だけが書いてある墓がある。その道標もいくつもあるからその家の使用人だった可能性がある。ある家で大勢の人が働いていた。そういう大家族制形式で雇っていた家があったのである。昔は女中といって家事が一仕事だから金持ちの家には必ず女中がいたのである。ヘルパ-となったのは介護とかで似た仕事なのである。ヘルパ-になり家事手伝いをやらせて嫌になったというのもそのためである。ともかく家のことを手伝ってもらってわかったことはその家の先祖やら因縁やらその家と深い縁になるのが違っている。単なる賃金労働者とも違う。10年とか手伝いとして働いていれば明らかに家族の一員のようになる。だから金持ちの家では認知症になった人を手伝いの人が介護できたのはそのためである。それでも盗ったとか言われていたが介護してくれたのである。
 
その家庭のなかに入って働くことはだからいい面も悪い面もでてくる。金持ちの家でもいろいろであり因縁的に悪い家もあるだろう。そこは金持ちでも陰気になっている。そういうところで働くとそうした悪い気を受けてしまうかもしれない、そもそも介護とかなると寝たきりとか病人がいるのだから家が暗くなっている。特に認知症をかかえた家族は陰気そのものになっている。自分の家もそうだった。そもそも姉は社交的で明るい人でいつも人の出入りのある人だったのだ。それが全くなくなった。人の寄りつかない陰気な家になっていたのだ。これも今から思うと当然だった。認知症の人をかかえていたらやはりどうにもならない、最悪の家になってしまうのである。
金がもらえるから働くとなるのもしょうがない、普通だったらそういう家では働きたくないとなってもしょうがないのだ。家にもいろいろありいちがいに金持ちの家がいい家ではない、人でもいろいろあり金持ちの人がいい人とは限らない、家であれ人であれそこに接する人は相当な影響を受けるのではないか?実際に親戚で常識もない信じられない人がいたからあういう人といくら金をもっているからと接していたら絶対にその接している人もおかしくなってくる。悪い因縁を結ぶことになるから実際は怖いことなのである。だめだめ家庭と接することは自分自身もだめだめ人間に落ちる怖さがあるのだ。宗教団体の怖さはこのだめだめ家庭の集まりなのである。ええ、宗教を信じるような人だから純真な人が多いのではないか?その正反対なのが宗教団体である。だからそういう場にいるとかえってさらにだめだめ家庭に落ちてしまうのである。
 
例の近くの空家は庭を掃除していた。だからあそこは一時的に空家にしているのでありまたそこに住んでいた人が帰ってくる家なのだろう。そこには赤い冬薔薇が咲き主を帰るのを待っているのだ。ともかく不景気を最も象徴しているのは全国で空家が膨大に増えたことなのである。
 
 だめだめ家庭
http://renewalmmbacknumber.hp.infoseek.co.jp/mokuji/sougoumokuji.htm

2009年12月07日

冬籠もり(外の景色が見える部屋)

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小窓より外の景色や冬籠もり


主なき家の淋しき赤々と薔薇一輪や冬の日暮れぬ


物置のように使っていた下の部屋を休息のために利用するようになった。小窓が一つありそこから外の景色が見える。隣の大きな庭が見える。これだけ見ているだけで気分転換になり楽しい。自分の家は前は家にふさがれて外の景色が見えない、いつもいる場所は全く外の景色が見えないところにある。ただ風の音とか雨の音は聞こえる。人間はやはり外の景色が見えるだけで気分いいものになるのだ。空に流れる雲や光の変化だけでもそこにじっとして見ていても自然を味わえる。庭の前も家であり外が見えないから庭も映えない、借景としての自然が欠けているからだめなのだ。だから外の景色が広々と見える家に住んだらまた見える景色が違ってくる。そんな家田舎では当たり前だと言うがそうではない、一万の田舎町でも町と在では全然違っている。町は外の景色が家に塞がれれて見えないのだ。家と家の間が隙間もなく立っているからだ。一万の町でも町はやはり都会のように人との結びつきも薄い、代々住んでいる人も少ない、一方在は人と人の結びつきが昔のようではないにしろ強いのである。一万の町でも人の関係も違っている。これが5万くらいの都市になるとまた相当違っている。それでも郊外は田野が広いから田舎なのである。

「田舎暮らし」というとき農家をイメ-ジしているし山村のような限界集落に住むのが話題になっていて町のなかに5万くらいの街のなかに住むことが話題になっていないのが不思議である。そこも十分に田舎なのだが「田舎暮らし」としてとりあげられていない、そこはさほど都会と変わらないかもしれない、田舎暮らしは特別な辺鄙な所に住むことしか話題にならない、別に5万くらいの都市に住んでも田舎は楽しめるのである。過疎のひどい山村とかには住むべきではない、自分も隣の5万くらいの都市に移りたいのだ。病気のとき車がないから困るのだ。一万の町でも町から離れた在に住めばス-パ-など遠くなるから車なしでは住めないのである。5万くらいの都市に住めば車なしでも十分に便利な生活ができるのだ。それにしてもこのところ仙台に半年も行っていない、何か外に出れない、母が病気になって寝込んだら介護になったらまた外に出れなくなる。介護の問題は自由がなくなることなのだ。温泉に一泊して気分転換したいから介護を交代してくれとか切実なものとなる。介護とは牢獄に入れられたようになる。交代する人がいなとそうなるのだ。今回はお手伝いさんに家事をしてもらいヘルパ-の役もしてくれたので助かった。こんなに助かるものかと実感した。それも一日一万とかではない、まだ一日二時間とかだから安い、そして介護の助けは近くでないとだめである。隣の街が近いといってもここまで来るのが手間なのである。
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東風吹かば にほひおこせよ梅の花 あるじなしとて 春な忘れそ 菅原道真
この家はなんとも前にも紹介した不思議である。廃屋ではない、一時的に空家にしている。車が庭にあり草ぼうぼうだったが草を刈り掃除していたからだ。だから主がないが主が帰ってくる家なのである。もう主が帰らない家が近くにある。病院で死を待っている女性の家である。跡を継ぐ人もいない家である。主が帰る見込みのある家と全く帰る見込みのない家は違っている。庭に一輪赤い薔薇が咲いているが主が帰るとしたらその薔薇の花も主を待っている、明らかに帰ることがあるのだから完全な廃屋に咲く薔薇とは違う、家族が帰る見込みがあるのだからまだ華やかさが薔薇にある。全く帰らないで放置された家もあり朽ちてゆく家も山村には多い、そういう廃屋は荒れ放題でありあまりにも淋しすぎるのである。

絵の才能が全くなくても技術でア-トで作れるのがパソコンである。枯木の写真を適当にインタ-ネットから探してアレンジした。これでも一つのア-トになっているから不思議である。ア-トは
確かに多様に作り出せるのだ。それは必ずしも才能と関係ない、作り出そうとする意志と関係していることもあるのだ。創造する能力も作り出そうとする意志があれば才能がなくてもできる場合があるのだ。ただ芸術を鑑賞する能力がないとだめだろう。鑑賞する能力も創造する能力と通じているからだ。

2009年12月08日

冬の菊(田舎暮らしをなぜ特別辺鄙な場所で?)


人見えず塵もつかずに冬の菊


この句と類似俳句は
 
冬菊のまとふはおのがひかりのみ  水原秋桜子

町のなかに菊畑がある。菊をいろいろ栽培して売っているようだ。町のなかにそういうものがある。田舎暮らしというとき5万くらいの都市でも街中に畑もある。農家もある。それより田舎暮らしというとき東京に住んでいるような人は仙台くらいの都市がいいのではないか?50万くらいでもそこは都会と田舎が混在している。仙台だって百万都市といってもすぐに田んぼになる。そこには都会もあり田舎もあるから東京に住んでいるような人にとっては理想的ではないか?
そもそも東京から僻地の山村に住むギャップが大きすぎるのだ。そういう所に住もうとすること自体不思議である。田舎の人自体そんな僻地に住もうとしていない、むしろみんな東北でも仙台に住みたいという人が多い。自分も仙台に住んでみたい、飯館のような山の村にたまに行くにはいいが住みたいとは誰も思わないだろう。仙台に住んでも田舎は十分に楽しめる、ちょっと中心部から出れば田舎なのである。特別辺鄙な所に住んで報告してその体験を本にしたりするなら珍しいから売れる、それで田舎暮らしはそういうものかと思うのも不思議である。
おそらく札幌に住んでも田舎は身近なのである。東京から比べればそうした都市は全国にいくらでもある。それがなぜ特別辺鄙な所にだけ住むのが田舎暮らしとして推奨され話題になるのか不思議である。

 

別に辺鄙な限界集落とか僻地に住んで人間関係でも暮らしでも60以上になって苦労する必要もない、自分などものぐさでありずぼらでありやはり60以上になれば楽な生活の方がいいからそもそも全く田舎暮らしにはあわない、でも田舎に暮らしている人はみんなそんな過酷な生活などしていない、都会と同じ文明生活をして苦労などしていないのだ。
苦労して薪を割ったり自給自足の生活などする必要がないのである。そんなこと田舎の人だって物好きしかしていない、だから田舎暮らしがなぜ辺鄙な所だけが注目されるのか理解しにくいのである。人がいなくなったから確かに退職金などがある都会の人を呼び込み活性化するためというのもうなづける。そんな宣伝にのせられて親切にしてくれるとかはないというのも真実である。そんな辺鄙な所に住むなくても東京から比べれば全国は都市でも田舎なのである。
60以上になると病気になりやすいからそんな辺鄙なところでは病院で必ずこまる。だからいろいろ考慮してもそんな辺鄙な所に住むことを選ぶのはどういう人なのだろうとなり理解できないのである。

2009年12月09日

仙台の枯木並木

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仙台に古本買うや落葉踏む

我が貸しぬ金の返らず年の暮

明らけく新地より見ゆ新雪の蔵王まじかに朝の清しも

久々に仙台に来て街灯や枯木並木の通り歩みぬ

仙台の喫茶店に入り本を読む枯木並木に街灯ともる
 
 
半年ぶりくらいに仙台に行った。今年ほどいろいろなことがあったことはなかった。姉が認知症になってからいろいろなことが起こりすぎたのだ。死んでからもその後始末やらなにやらつづいた。庭作りやリホ-ムしたのもはじめての経験であり楽しかったが大変なことだった。自分で金を貸したのもはじめての経験であり金のことにまつわる問題がいろいろ起きた。金も相続したり金のことをこれだけ考えたこともなかった。自分はほとんど社会とは没交渉だったから金でも百万という金さえ自由に使ったことはなかった。金がどういう働きをするのかも実際の生活でわかっていなかった。そして年の暮まで今度は母の帯状湿疹、ヘルペスで寝込んで介護だった。親の介護とか最後の看取りとか葬式とかそのあとの供養とか結構これは大変なことである。これは子であるかぎり普通はさけられないことである。子をもつことも大変なことだが親をもつこともまた実際は最後になると大変なことになるのだ。人間はモノではないから死んでも祀り供養していかねばならない、団塊の世代は団介(護)の世代になっているのだ。
 
新地の駅から明らかに新雪の蔵王見えて気持ちよかった。あそこからだとかなりまじかに見えた。新地は伊達との境の地だったから蔵王が見えるのもふさわしい。新地駅は海が近く牡鹿半島も見えた。地理的にも宮城県、伊達藩の領域に入ってくるのだ。仙台では古本屋で郷土史関係の古本を買った。最近郷土史関係のネタがなくなった。インタ-ネット関係だけでは郷土史関係はわからない、やはり古本に研究したいい本がある。ただ高いので安いのだけ買ってきた。仙台の喫茶店で本を読むのが適している。雰囲気が変われば気持ちも変わる。4年間も旅に出れないから気分転換ができない、精神も停滞してしまう。介護は本当に交代する人がいないと旅はできない、一日泊まった旅が二回しただけだった。つまり一日泊まるだけでも容易ではなくなるのだ。病院に入院していればそういうことはない、在宅介護になると交代する人がいなければそうなるのである。

2009年12月10日

なぜ棚田が作られたか?



なぜ棚田が作られたか?

 

棚田について
http://highknowledge.seesaa.net/article/118728697.html


棚田などない方がいい、棚田ほど非効率的なものはない、なぜこんな棚田を山の中に苦労して作ったのかという疑問を書いている。このプログは東京から四国の山間部で農業をはじめた30才の人が書いている。これほどしっかりしているなら東京からこんな辺鄙な場所でも根付くことができる。自分は農業のことを語るのとは実際の経験から地に足をついて語っている。自分は田舎に住んでいても農業のことがほとんどわからないことがこのプログを読んでわかった。農業はこれほど奥深いものなのである。農業とはこのプログのように実地に経験しない限りわからない、この人は東京から来て自然とか農業のことを実地で経験した。そこでは次々と新しい発見の世界だったから東京からこんな辺鄙な田舎に移って農業した意義があった。これだけしっかりしているからこそ農業を新鮮な世界として体験しているのだ。農業をしている人は金にならないとか不満しか言わない人もいる。逆に東京から来てこれだけ自然と結びついた農業に新しい発見の生活をしている人もいるのだ。これも30才だからできたことかもしれない、団塊の世代などが田舎に憧れるのは危険である。体力的にも精神的にも田舎暮らしをはじめるのが遅すぎるからだ。若いなら適応力があるが田舎暮らしをのんびりとなどできない、農業も無理である。やはり地方の大都市が老後には向いているのだ。
 
ここで私が前にも書いたが棚田を作ることは大変な努力が必要でありなぜこうしたものを作ったのかという素朴な疑問を出している。それは結局、米作りする場所がないためである。ネパ-ルに行ってみればわかる。まるで天に届くような所に家がある。そんなところにどうして住むんだとなる。不便なところへ住むところが拡大化したのは分家したとしても土地がないのだから土地を求めて不便な所へ住むほかないのである。まるでもう耕す場所が天になってしまう。耕して天に至るとは実感である。棚田は天まで耕すとかいわれて美しいというがそれはかえってそうしなければもう耕す場所がないからだった。冗談じゃなくてネパ-ルでは天に達しして天に家があり天に畑を作るほかないような世界になっているのだ。
 
南相馬市の鹿島区栃窪の上萱(うえがや)も相当山の上の不便なところである。そこは塩の道があっても古い村ではない、戦後に開拓に入った新しい場所なのである。戦後も生活は農地を開拓することがつづいていたのである。だからあんな辺鄙な場所に開拓に入ったのである。今では誰も住んでない、廃村になった。 飯館村でも大倉からの坂を越えた場所にある二軒の家も新しく開拓に入った家であり一軒は廃屋になった。あんな不便なところに昔から住んではいなかったのである。人間はそもそも不便な所には住まない、住む場所がないから仕方なく不便な場所に住むようになる。その不便な場所でなんとか米作りする場を確保するために棚田ができた。それが外から来た人は棚田を作る苦労がどれほどのものか知らずただ美しいと美的なものとして見る。そこに実地に生活してみれば棚田など必要ないという発想になる。地名も実用的なものから名づけられたのであり詩的なものとして単なるイメ-ジでは名づけられていない、そもそも奈良が均す(ならす)から来た言葉であり営々とその土地を耕作に適したものとして均す作業が奈良の都を作ったとなるからだ。平地でもそこに人間の労苦があり住みやすいように作られてきたのでありそこが都となったのである。住みにくい場所でもなんとか住みやすいように努力するのが人間である。それで棚田を作るようになった。米を食べたい、米を作る場所を広げたいということで棚田が作られてきたのである。
 
山深く棚田に実り営々と労苦のありてここに暮らしぬ



この労苦を象徴しているのが中国の黄土高原なのだ。中国人とは労苦の民である。黄土高原には木がない、日本より索漠としている。黄土高原では土の洞を家として生活していた。中国は沿海部ではすでに文明の最先端の生活をしているが奥地では原始時代に毛のはえたような生活をしている人がいる。鎌一つで麦刈りに出稼ぎに来た人がいたが今はコンバインの時代であり人より百倍千倍も労働量に差があるのだから原始時代から一飛びに文明時代に突入しているのだ。
 

隠し田
http://blog.livedoor.jp/apec_pe/archives/cat_971663.html

 
棚田は隠し田でもあった。隠し田を作るのも棚田を作ると同じ苦労があった。これもなんとか米を税として納めることから逃れるために目立たないように米作りには適さない隠れた場所に作られた。それもわずかな土地である。鹿島区の隠町とかもそうである。越中から来た移民などが隠れて作った田かもしれない、なぜなら移民だからもともと土地を与えられていなかったからである。わずかの土地をこっそりと拓き作っていたのが地名化したのかもしれない、それが字地名として残ったのかもしれない、隠し田の話が多いのも今も税金逃れが多いのと同じなのである。ここにも生きるための農民の必死の努力があったのである。そういう努力は今になると忘れ去られているのだ。農民さえ忘れているだろう。これは農民だけではない、過去の先人の労苦は忘れられ安いのだ。これは別に職業に関係ない、人の労苦は忘れられやすい、老人が話す苦労話も伝えられなくなる。戦争の話などもそうである。戦争でなくてもたいがい今の80才以上の老人は何かと苦労が多い世代だったから苦労話がある。例えば継母(ままはは)にいじめられた話が良く残っているがそういうことを身近に聞いたのでそいうことは昔からあったことだと納得して同情したのである。人間は苦労話でも自分が体験したりしないと実感がでてこないから老人の話でも良くきかないのである。だから前にも書いたように郷土史は祖父母の話を聞くことからはじまる。それが一番身近な郷土史になるからだ。
 
 
 


 

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戻ってきた忘れ物

ス-パ-でバッグを忘れたけど今回ももどってきた。携帯がなかに入っていて通じた。とりにいったら今回はス-パ-の中ではなかった。ス-パ-の敷地内で落としていた。だから拾った人の名前が書いてあった。これがス-パ-の敷地の外だったら警察に届けられただろう。でなければもどってこないだろう。ス-パ-には何回か忘れている。でも寄った場所がわかっているのでどこに忘れたかはわかる。行動範囲が狭いからどこに行ったか寄ったかわかる。ス-パ-にしても二軒しかないのだからわかりやすいのだ。そのス-パ-も小さいから忘れてもわかりやすいのだ。都会だったらこういうことはありえない、ほとんど返ってこないだろう。田舎はそういう点ではいい、一方で田舎は狭い範囲で暮らしているからプライバシ-がないとかすべて筒抜けで家のことが知られてしまうというのも本当である。沖縄の島に行ったとき、同じ場所にいて動かないから怪しいと警察に連絡されたのには驚いた。旅をしていてもそんなことされたことなかったからだ。島だからよそ者が目立つのである。どこに暮らしても一長一短はある。田舎は安心社会であるが相互監視社会ともなる。日本は江戸時代から安心社会だったが今やそうではない、外部のものよそ者が外国人でも入り混在化した社会になった。田舎でも安心安全社会とはならない、ただ田舎だと今回のように落とし物、忘れ物などは回るところが限られているから返ってきやすいことはある。ただ今回はス-パ-内ではない、ス-パ-の敷地内でもそこに落としたものを拾った人がいてス-パ-の係に届けたのだからその人のおかげであり感謝している。


これは明らかにス-パ-内に忘れたのとは違う、やはりその拾った人がいい人だった。財布には携帯と金が6千円入っていた。その他カ-ド類もあったからもっていかれると結構めんどうになった。金もとられていないから感謝である。警察に届けたら落とし主にお礼をしなければならないことは確かである。この前はス-パ-のカ-ドを忘れてそれを届けた人がいて二回も警察から電話が来て嫌になった。そのス-パ-のカ-ドはほとんど使っていなかったからだ。警察に届けられるとめんどうになるのである。そんなものは届けなくてもすぐに作れる。そういうものを届けて連絡される方がめんどうだとなる。ありがた迷惑ということもあった。ともかく今回は届けてくれた人には感謝している。田舎で良かったなということであった。高齢化すると明らかに田舎の方がいいのだ。不便ではあるが都会のような混雑した所に住むことが億劫になる。行動範囲が狭い方がいいのである。認知症になっても行動範囲が狭いとある程度暮らしていけることもある。都会だったら認知症でなくても老人になったら機敏に対応できないから迷ってしまうだろう。田舎は活気がないにしろ高齢化社会には田舎の方がいいのである。

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2009年12月11日

寒雀(みんな貧乏の時代?)


今日も来るお手伝いさんや寒雀


ジョウビタキ窓にながめて雨しとと


都会の人には信じられないだろうけど市営住宅だと3千円とか千二百円とかある。古い住宅が田舎には多いのだ。汲み取り式のトイレだし築50年とかなっている。でも住宅がただ同然なのだ。意外とこういうこと知られていないかもしれない、都会でも市営住宅は格安だけどただ同然で入れる住宅が田舎には多い。ただリホ-ムのため金がかかる場合がある。風呂がなくてそれなりにかかったとかそのままは住めない、田舎にも資産のある人とない人がいる。でも家持ちは多い。田舎は今は特に景気のいい話をきかない、どこかでもうけているとか話をきかない、建築関係でも今はだめである。医者くらいが元から金持ちだけどそれも歯医者がふえすぎてやっとやりくりしているとかワ-キングプアになっているとか開業医もそんなにもうからないとかこう考えると田舎でいいのは公務員と公務員で年金をもらっている退職者くらいだろう。その他景気いいというのをきかない、やはり高度成長時代は相当に活気があった。でも田舎では一人一台とか車をもっているのだから車代には金を使っている。そういう金はあるということで中国人の労働者から見れば日本は金持ちだと見えるのだろう。みんな貧乏の時代、寒雀の時代になるのか?シルバ-センタ-ですら仕事がない、仕事の奪い合いだというのもわびしい。田舎でも介護関係の仕事はふえているだろう。でも給料は高くないだろう。

 
高齢化社会でも格差社会である。金のある人と金のない人の差が大きい。でも現代では本当に金持ちというのはいなくなったのだろう。小金持ちはいるが本当の金持ちは非常に少ないし金持ちになれない時代というのもわかる。昔は大地主とか恒産があり多くの人を雇っていた。大工とか庭師まで雇っているような家があった。それだけ家を維持するのに金をかけていたのである。だからそこで職人はゆっくりと仕事ができて腕を磨くことができたとかなる。今はみんな手間賃稼ぎの労働になったからだ。金持ちには金持ちの役割があった。金持ちがなければ文化を生まれない、フィレンツでルネサンスが生まれたのはメジチ家が薬でもうけて芸術家を養成したからである。現代の民主主義は平等民主主義であり突出したものは才能でも財産でも怨嗟が激しい、結果的に金が子供手当てとかみんなに平均的に受けるものにばらまくことになる。もし金持ちに金が集中したらその人が芸術趣味があったら大きな庭作りとかに費やす、そこで職人の技術も活きてくるのである。
 

一句鑑賞 
 
富士の風や扇にのせて江戸土産  芭蕉
 

江戸と関東と富士山は結びついていた。今では東京から富士山は見えても富士とは結びつかない、江戸土産というと当時は浮世絵などが広まっていたから絵本なと最高の江戸土産だったろう。それを見て想像をたくましくした。現代は別に江戸-東京に行っていない人はいないしいつもテレビで写されているから情報の希少価値がない。江戸時代は情報の価値は今より何百倍も大きかった。本当に村のことくらいしか知らない人もいたろうし知っても範囲は非常に狭いのだ。扇一つでもそこには江戸が富士山が感じられる。富士山もめったに見られるものではない、今や土産の魅力もなくなった。土産はかえって底上げとか高いだけでまずいものが多い。それでも何か土産を買うということで売れる。土産の魅力が薄れたのである。江戸時代と現代を比べるとあらゆるものの価値が違ってしまっている。江戸時代よりこれだけ交通が発達して旅も自由なのに本当の旅をしている人は少ない、いづれにしろ江戸土産の浮世絵にしてもその価値は高い、食い入るよにして見ていた。今は次から次とテレビやら何やらで情報があふれかえって興味を失ってしまうという好奇心も薄れてしまう奇妙な世界になってしまった。あまりにもいろいろなものがありすぎる豊かな過剰化社会で人々が倦んでいる。豊さゆえの貧しさがある。
一方で本当の豊かさを追求できない平等民主主義の弊害もあるのだ。ともかく江戸時代の面白さは現代ではありえなくなった価値の発見なのである。

2009年12月13日

負のエネルギ-を受ける問題(借金のことなど)


負のエネルギ-を受ける問題(借金のことなど)

 

借金する人は人格的欠陥があるのだろうか?借金する人がみんなそうではない、例えば起業のための投資のためにはそれが有望であればそこに金を貸すことこそ資本主義なのである。
そうして金を回さなければ資本主義は停滞してしまう。現代の不況はまさに金が有望な儲け口に回らない、もうけ口がないために起こっている。戦後まもなくと高度成長時代は銀行でも起業する人には金を貸した。それでも審査は担保が必要だし厳しかった。当時で5万とか今では50万とかなるのかそれだけでも普通の人は借りることができなかった。銀行では高度成長時でも担保がなければ貸さないのだ。それほど金を借りることは簡単にできないのだ。

 
借金を個人的に考えるとどうして借金するのか?ギャンブルとかないのかに金を使う見栄のためにとかいろいろある。それは個々の事情がありわかりにくい、借金する人は借金癖があるというのも確かである。借金をする人はまた借金をする。借金にこりない、借金をちゃんと返す人は少ない、でも正直に借金を10万なら10万必ず期日に返して感謝した人がいた。一方で全く借金に感謝しない人もいる。金を貸したからと言ってたいがい感謝したりしない、だから金を返さないとかで殺人事件などが常に起きてくる。借金する人は人格的問題、依存体質があるのだろうか?
 
こういう人は何か困り事があると宗教を渡り歩いたりする。ともかく頼るところを探す、でも例えば自分の見栄とかギャンブルとかで浪費して金がなくなり借金して困り神仏に祈るというのは勝手すぎる。そんな願いを神仏がきくはずがない、でもそういう人はこの世に多い。だからそうした勝手な人がいてカルト宗教団体などが栄える。カルト宗教団体ではその人自身が悪いとか、自己責任を問わないのだ。先祖が悪いから先祖を供養すればいいとかただ祈ればいいとかその自己責任をあいまいにするのだ。個人的には事情がいろいろあってもやはり自己責任の部分が借金する人にはある。社会のせいだ、これは前代未聞の不況のせいだというのは楽である。でもやはりこれまでの長い生活の結果として借金になっている。これは今は個々人だけではない、クレジット社会であり借金社会になっている。国すら膨大な借金なのだから個人もしょうがないともなるのか、でもその負担を他者に強いられるとき困るのだ。
 
借金だけではない、他者のいいかげんな無責任な行動は必ず他者に被害を及ぼす、全然関係ない人でも他者の無責任ないい加減な行動で被害を受ける。つまり他者のために責任を負わされるのだ。犯罪にあうのはそのためである。それがいくら理不尽だといってもどうにもならない、通り魔事件にもあう、この世には負のエネルギ-を持った人が大勢いる。念だけならいいが借金を背負った人は具体的な負のエネルギ-をもっているからそうした人と接するとなると接する人もその負のエネルギ-を受ける。ともかく何であれ借金しようとする、頼る。でも別に貧乏でも借金しない人もいる。その人はその貧しいなかでやりくりして借金はしないのだ。一方で身の丈の生活をしないで借金生活をする人も現代では多い、アメリカではそれが引き金となり不況に陥った。いづれにしろ借金する人と借金された人との関係は平等でないから友達関係も親戚関係もうまくいかなくなる。
 
借金だけではない、ある人がある人の悪口を盛んに言う、するとただ聞いているだけで不思議に同調してしまう、事情もよくわからなくても一緒に同席して聞いているだけで事情がわからないのだからその悪口を言う人の念が知らずに移ってしまうのである。これはたいしたことがないようでも結構怖いことである。それから親戚関係も破綻したりしたからだ。一方的に聞いていただけなのだがその念が知らずに移っていたのだ。その人の念は必ずどこかに伝播する。悪い念は特に伝播しやすい、この世には悪い念が満ちているからだ。だからどんな人でもそのつきあう人により何らかの念を受けてしまうのだ。ともかくこうしした負のエネルギ-を持った人とつきあうことは接することは何らかのその負のエネルギ-を受けるし禍ももたらしやすい、その人たち自己責任をもたない、依存体質の人が多い、そういう人はカルト宗教団体にとりこまれやすい、自分たちに何かしら悪いことがあっても責任を正されないからそういう場所で誰かが悪いとかただ自分を反省しないで神仏の助けを求めるのは安易だからである。
 
年の瀬だけどこの世の中、人間関係はむずかしすぎる。ほとんどそいいうことにわずらわされなかったの自分だった。今になり責任者になり責任を負わされる立場になったから金のことやら毎日のように考えるようになった。金を貸すも結局自分の責任になったしその他金を使うことも自分の責任になったからである。
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2009年12月14日

田舎では医者は選べない、一番不便なのが病気になったとき

田舎では医者は選べない、一番不便なのが病気になったとき
病院に行って疲れた。前もそうだったが病院はいるだけで疲れる。車椅子を押したりするのも疲れる。帯状疱疹で三カ所で医者に診てもらった。でも実際診てもらったのは原町の皮膚科だけだった。ここもここでは治療できないということで市立病院の麻酔科に行けと言われて今日行った。すでにウィルスに犯された傷は黒くなり細菌は死んでいる。でも痛みがあるからその痛みをとるために麻酔科で診てもらうことにした。神経ブロックという傷そのものに注射して痛みをとるのは入院しないとできないという。この病気は入院した方が治療がしやすかった。緊急の措置も大事だからである。それも麻酔科のあるところが良かったのである。鹿島区にはそうした大きな病院がないから不便なのである。
三カ所でみてもらったけど一カ所はいつも研修生でありまともにみていない、研修生自体、専門の皮膚科でみてもらった方がいいですよと言っているのだから当然である。今回はむずかしい病気ではないからすぐに傷をみて病名がわかった。それで応急措置ができた。これは研修生でも誰でもわかりできるものである。でも近くの・・・・医院はこれはわからないから皮膚科でみてもらいというのは疑問だった。なぜならこの病気はわかりやすい病気であり専門外でもない、その科で治療している人もいる。だからなぜそこで病名を言い応急措置してくれなかったのか不明である。これは医者の常識として知っておくべきものだからである。専門とは関係ないもののように思える。この結果は医者に行くのが二三日遅れたからである。そして近くに皮膚科がないので週二回ほどくる研修生にみてもらうほかなかった。

田舎は医者に関しては相当不便である。また田舎でも5万の都市に住むものと一万とかの町に住むものと山村の村に住むものとではまた不便の度合いが違っている。医者は通わねばならないのでかなりの手間である。いづれにしろこのように最初からいい医者を田舎では選ぶこともできない、医者そのものがいないのである。麻酔科は原町区で二つしかないからもちろん選ぶこともできない、ここも今日みてもらったがやはり研修生が来ていたのか?でも薬について良く説明していたから一番良かったように思える。副作用について良く説明していた。普通薬の副作用について詳しく説明する医者はまれである。ただ薬をたくさんよこして副作用の説明はしない、そしてわかったことは医者はそれぞれみな診断を違っている。これまでの薬は良くきかいない、この薬が一番きくんですよと言われた。その説明をきいてそうなのかもしれないと思った。
こんなに薬の説明をした人がいない、薬飲んで食欲なくなったんですよというとそのことも説明した。高齢だから薬の量を減らして飲ませますから言われて一種類の薬をもらった。眠くなるとか副作用のことも説明してくれた。こういう医者はやはり一番いい医者だったのかな?薬の知識については医者もまちまちでありわからない医者もかなりいるから薬の副作用などをインタ-ネットで調べている人がかなりある。

いづれにしろ医者がどういう医者なのかみるのもむずかしいし医者と応対するのもやっかいである。まず質問されることが嫌がったりこうじゃないですかなどと患者が言うとお前みたいな素人に言われることがないとあるものは怒り嫌がられるだろう。質問しただけで怒られて手術すらしないと言われたことを前に書いた。手術の失敗を責任をとられることを極端に恐れていたのだ。だから私たちは責任をとりません、とりませんということの契約をさせられたと同じだった。
そして老人は甘くみられる、年ですよということで直りませんとかなる。それも90以上になるといたしかたないとなる、そして病気は薬で治らない、薬をなるべく使わないようにして直せともある。今は薬を余りにも多く多用しすぎるからである。ともかく医者に関しては田舎は不便である。
名医など探すようべくもないしそもそも専門の医者にかかること自体容易でない、ただ医者にも力量の相違がある、でもいい医者がまれだとすると田舎では医者の力量は都会よりかなり劣っていることはまちがいない、都会なら切磋琢磨があるが田舎ではない、田舎では互いに才能でも競い合うとか切磋琢磨する場に欠けているから若い医者は都会にいることを望む。

結局「遠くの名医より近くの藪」とか言われようにどんな医者でも近くの医者の方が役に立つ、そして医者は命にかかわるから大事なのである。応急措置をとらないと致命傷になる場合もある。帯状疱疹は一週間以内に治療しないと薬も一週間以内でないときかなくなるなるものがある。いろいろ医者では苦労した。近くで不親切な医者がいても他でみてもらえばいいとかもならない、ここでは二軒しかない、つまり医者がいないよりいいとかなる。それだけ医者は必要だから医者とは仲良くしておけとなるがこれもむずかしい。いづれにしろ医者の不満も田舎では言えないのである。あいつは医者に文句を言う生意気なやつだとか目をつけられたりしたら医者にもかかれないようになる。それだけ医者に関しては田舎は不利なのだ。

注意-自分は車をもっていない
posted by 老鶯 at 23:07| Comment(0) | TrackBack(0) | 福祉医療-老人問題

2009年12月15日

南相馬市鹿島区栃窪の魅力(冬の俳句より)

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水清し竹林に映えて寒椿

栃窪や古碑の並びて冬の雲

山中に命を保つ冬薊

栃窪に数本かそか冬柳


山の村一族の墓や冬木立



山の村落葉に埋もる一族の墓やその裔ここに生きるも

寂けさや木の葉一枚墓に散るそのかそけさや山の村暮る

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相馬藩内の村でもそれぞれ独自の雰囲気がある。栃窪には何でもないのだが一番感じるものがある。栃窪は古碑の村でもある。村には何かしら特徴がある。その土地と地形も深く関係している。栃窪は奥まった所にあるから鹿島区の奥座敷なのである。大谷(おおがい)という姓が多く一族の墓があり落葉に埋もれていた。他に山の中にはこうした一族の墓が残っている。ここも高速道路が通るからかなり風致が乱されたことは残念である。電動自転車はマウテンバイクにもなる、悪路でも坂道でも上る馬力がある。ヤマハのパスブレイスは坂道に強い、都会の急な坂道でも上れるように試行錯誤して作った。だからマウテンバイクにもなり馬力がついているからちょっとしたバイク感覚になっていて楽に上って帰ってきた。冬薊がその山中に残り咲いていた。平地ではみな枯れたがなぜかここに冬薊が咲いていたのは不思議である。山中でこそ保つ命があるのかもしれない、今日はかなり冷えていたが冬らしい冬になった。冬だと余り遠くには行けないからこの辺だと比較的楽に来れるからいいのだ。電動自転車で行動範囲が広がったことは確かである。ここは舗装されていないオフロ-ドでありマウテンバイクには向いている道である。いづれにしろ一つの村は宝かもしれない、それぞれの村に独特の雰囲気がある。一見何もないようでもそこだけが違うものを感じるのである。だから山中の過疎地でも一つの村が失われることは何か貴重なものとりかえしのつかないものを失われたのである。都会の人はそんな効率的でない税金を食う老人ばかりの限界集落はつぶせという。経済的にはそうかもしれないが逆に都会こそなくなっても惜しくないものともいえるのだ。


それは経済的な価値の問題ではない、アイヌでもカムイコタンというとき神の村というごとくそこに村があるということはやはり都会とは違う、別な価値を帯びていて神から見たら都会は失われてもいいが村は失われてはならない価値をもっている。自然にも神秘性があり村にもそれぞれ独自の神秘性がある。別な観点から見ると都会は経済的な価値だけが突出した異様な世界なのである。都会は惜しいとは思わないが村が喪失することは神から見たら惜しいと思うだろう。現代は余りにもすべてが経済的価値観で計られるよになったため様々な貴重なものが失われてしまうことになった。そもそも一つの村の価値を金で換算することはできない、そこに村があるということ人が暮らしているということに無限の価値があるのだ。野生の動物が鳥が自然とマッチして生きているようにやはり自然と調和して活きている村がある。大都会にはそれがないからいくら経済的観点から都会がいいと言っても価値が付加されないのである。だから都会から若者が田舎に移り住むことは経済的観点からした全く意味がない、馬鹿げている。でも別な観点からすると自然の中で生きることが無限の価値を帯びてくるのである。そこには貨幣では金では計れない価値がある。貨幣を越えた価値がある。本当に価値あるものは金では買えない、村の中の農産物を買うことはできても村全体をもっている価値を買うことはできないのである。それは部分ではない全体によって作り出されたものだからである。景観というのもそうである。景観の価値が見逃されるのは部分ではない全体の価値だから価値がつけようがないのだ。それでその全体の中で都会では知らなかった自然の中で暮らす価値の発見を体験する。自分はそこまでする根性もない、性格的にずぼらすぎる。だから田舎にいて都会的な生活をしたり鑑賞しているだけなのである。
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2009年12月16日

冬薔薇(俳句はやっぱり写生だ)

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冬薔薇二輪の雨にぬるるかな


冬薔薇二輪の雨にぬれにけり

冬の薔薇痛々しくも美しく雨にぬれつも庭に咲きしも

良く見れば隣の庭に冬の薔薇咲きしを知らず夕暮るるかな

薔薇は不思議である。最初蕾のようにしか咲いていないから寒いからこれで終わりなのかと思っていたらやはり蕾では終わらず確かに全部開いた。この寒さでもこのように開き咲くことの不思議である。薔薇は四季を通じて咲く、冬にも実際はこのように咲き開くのだ。ただ見ているだけで痛々しいのだ。俳句は写生だというときまさにこれは写生である。写真そのままでありその他何も付け加えていないからだ。写生俳句はまさに前にも書いたけどデジカメでとった今の写真と一体化するのである。ただ問題はこれだとその人の個性というものもなく誰かが全く同じものを作っているかもしれない、写生俳句はその人の特別個性から作られるとは限らないからだ。だから写生俳句は才能がなくても作れるのである。写真とったそのままが俳句なのである。もしここに寒そうに雨にぬれているとか入れる余裕も俳句は短いからない、だからこそ写生に徹する他ない、短歌にすると冬薔薇ではない、冬の薔薇になる。隣の庭にも冬薔薇が咲いていたのに気づかなかった。意外と花というのは気づかないのである。
パソコンのソフトから自動的に作られる抽象画の不思議がある。この薔薇を万華鏡にしたら確かに冬の薔薇の感じになっている。俳句の上達法はやっぱり写生を学ぶことだろう。なぜならこれだけ短いと何か工夫すること付け加えることができないからだ。デジカメによる写俳というのもまさに写生俳句に最もふさわしいものとなったのである。写真は最も写実に徹するものだからである。


 補足  

つくづく身内であれ他人であれここ五年間は病気のことに追われ今度は自分の病気になった。支える人がいないから辛い。
そして「冬薔薇二輪の雨にぬれにけり」をしみじみと感じた。何かしらないがここ五年間は自分は責められつづけた。世間の冷たい風をまともに受けた。今もそうである。でもふりかえると30年間は世間の冷たい風を受けなかったのだから世間と没交渉であったこと自体余りにも恵まれていたとなるしこういうことは他の人はないだろう。世間の冷たい風、荒波にもまれているのが一般的なのだ。今になると苦しいことばかりが起こってくるのだ。それは今も変わらなかったのである。だからただ人生は苦だとなる、最後はそうなりやすい、それで冬薔薇の句が一段と身にしむものとなる。その時はただ写生として作ったが今の自分の状況からこの句を読むとまた違ったものとしてよむ。俳句とか短歌とか文学はその人の心境によって違って読むようになる。
病気になると同じものでも違ったものに見える。ましてやもうあと一年で数カ月死ぬとなるとなおさらそうである。冬薔薇にただ冷たい雨がふる。世間は無情であり人間も無常であった。ただ冷たい雨がふるのみだったのである。やはり写生で作っていればあとでその句をもう一度読み直すと深い解釈ができるようになる。だから俳句は写生なのである。

 


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2009年12月17日

寒雲(飯館の方へ)


寒雲を飯館の方を覆うかな


門なす枯木二本や冬の暮

60すぐ男女二人や冬薔薇


俳句とかでもその背景をよむ力がないと鑑賞できない、それ以上に常に言っているのが地理なのである。地理はわかりやすいようで本当にわかりにくい、福島県がどういう地理なのか地形なのか即座にわかる人は少ない、ハマ、ナカ、アイヅと別れている。気候も違っている。会津は日本海側はいつも雪になっているが浜通りはほとんど雪は降らない、中通りは会津よりは降らないにしても降る、ここでもわずかに雪が降ったらしい、昨夜から今日は本当に寒い、凍えるように寒い、阿武隈山脈のかなたの飯館の方から寒雲がどんよりと広がっておおっている。飯館は阿武隈の地でありここでは度々寒さのために飢饉がありその供養塔が立っている。この句だってこの辺の地理がわからないと鑑賞できないのである。何事地理は大きく作用しているのだ。

60すぎると男女の関係は恋愛関係とか若いときの関係とは相当違っている。うわついたものや激しい性欲とかの関係とも違う。そういう盛んな人もいるが女性でもすでに孫をもっている人も多い、おばあちゃんであり女性の見方も変わってくる。若いときは容姿が第一になるが年取ると容姿はさほど問題ではない、60年で生きて培われたものやその人の性格やら容姿ではないものが魅力を作るようになる。何か落ち着いた関係になる。恋愛も結婚も関係なかった自分だけど女性は必要であり女性的なものが必要なのである。それは若い女性のもたらす魅力ではない、大人となった落ち着いたものとして安らぎを与えるものである。


枯木(柿の木)二本が門のように立っている写真をとった。ぴったりと門のようになっているから面白い。

 
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2009年12月18日

相馬藩内の人の移動について


相馬藩内の人の移動について

●相馬藩の外部からの移民

南相馬市の鹿島区でも原町区でも前は鹿島町であり原町市であって街としてあり中心だったがもともとは鹿島村であり原町村だった。原町市が原町村だったというのは意外お思うかもしれないが原町村からは野馬追いに一つの姓で一つの旗しか記録のっていないのだ。他の村はいくつも旗が記されているから昔から農家として郷士が住み着いていたのである。一地域内にも人の移動がある。大きな移動は相馬氏の移住だった。次に大きな移動は越中や薩摩など全国にわたり相馬藩は飢饉に陥って人工が激減したとき三分の一くらい減ったとき相馬藩では「相馬、相馬と草木もなびく・・・」と民謡のコマ-シャルソングを作り全国から人を呼び寄せたのだ。だから鹿島区に薩摩内とか他にも九州地名が残っている。なぜ九州の方からまで相馬に来たのかというと様々な事情があった。薩摩に真宗が広まったのは越中などの薬売りが広めた。薩摩とは薬を通して深くかかわっていたのである。真宗が薩摩で禁止されて移住したとかあるのは薩摩と越中が薬を通して結ばれていたからである。相馬藩内で移民の影響はかなり大きかった。相馬藩の墓所を見れば必ず真宗系の墓が二割三割とありその影響を如実に知る。
今日見た六号線の脇の川子の小高い山の上の八龍神社のあるところから下ったところの墓所は三分の二くらい真宗系の墓であり越中などの移民でしめられていた。ここは集中的に越中の移民が住んだ場所だった。

富山の薬売りと薩摩藩」の周辺
http://atky.cocolog-nifty.com/bushou/2008/07/magn_8ec0.html

●鹿島区塩崎からの鹿島町への移動(中田氏など)
塩崎の中田氏は文政十年十月、越中砺波郡中田村より当地に来る
中田氏と大岩氏は一緒に来た

記録にはこうあるがこれは塩崎であり川子ではない、でも川子にも越中系の移民が多く住んだのである。塩崎から川子へと移民は拡大して住んだ。塩崎は越中の移民が多い場所だった。
中田とか大岩という姓は実際に鹿島区の鹿島町内にその姓の人が住んでいてその子孫である。もともと農家だったのだが町にきて大工とか菓子屋とかその他商売やら職人となって町を形成した。町はまず近郊の在-農村から移動した人たちによって人が集まり形成された。だから代々続いている家は少ない、でも農家だった家は町のなかでもかなりある。その家は広い庭と敷地をもっていたし今ももっている家がある。その家は古い家なのである。そのあとに職人や商売する人がすみついたのである。面白いのは鹿島区の鹿島村の橲原(じさばら)に橲原田がある。これも橲原の人が移り住んで田を作ってなづけた。橲原(じさばら)という奥から鹿島村に移り新しく田を作ったという不思議があるのだ。中田氏については明確だが大岩氏は大岩村から移り住んだのだろうか?不思議なのは詳細な字を記した地図に大岩下とある。これも地名だとするとこの大岩から大岩の姓となったのか、越中から移住したとなるともともと大岩姓だったのか、移住しても土地の名前をとることがある。相馬氏は移住しても相馬という地名はなかった。土地の名前の中村をとって中村と名乗る人はいた。とするとここに大岩という地名がありその地名を名にしたのか、この辺が混乱するのが姓と地名の関係なのである。

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●明治になってからの人の移動
相馬藩は小さいから中村市(今の相馬市)に城が作られてもそこに城勤めする人は少ない、郷士として農家として住み着いた。農業と武士の兼業だった。相馬藩で一揆が起こらなかったのは農民のなかに郷士が多く武士が多いから純粋の農民が少ないから不満があっても反乱できなかった。北朝鮮では兵士の数が多い、農民のなかにも兵士がどこでも交じっているからなかなか農民が苦しくても反乱を起こせないという、監視役の兵士がいたるところにいるからだ。明治維新で郷士が武士階級が廃止されると武士は失業したのだから職探しが大変だった。それで北海道への移民が推奨され武士が大量に移動した。仙台藩は伊達氏は大打撃を受けたし武士の数も多かったから移住した先が伊達氏となった。ゲルマン人の移動ではないが社会の大変革時期には大きな人の移動が起こる。絶えず人は移住している。小さい地域内でも移住しているのだ。また移住を強いられる運命にもあるのが人間である。一カ所で人が住むにも人が増えれば耕作地域を広げねばならない、それで分家して新しい土地を耕すことになる。明治維新でもやはり農業中心であり開墾することが新しく住む地域を広げることだった。それで相馬藩の中村の城下の武士は鹿島区の八沢浦を干拓して移り住んだ。田の中に妙見神社があるからわかる。普通は田の中には妙見神社はあまりないだろう。つまり城下に住んだ武士はまた郷士のように農業に帰ったのである。その頃まだ農業が主産業でありそれで人を養うほかなかった。相馬藩でも北海道にかなり移住した。どこだか不明になったが鹿島区江垂の宝財(ほうさい)踊りをしていた町があった。祭りも北海道に移民した人がそのまま伝えたのである。その後も人の移住はつづいた。遂には農耕地を開墾地を外国までにも求めるようになった。満州がそうでありそれが戦争にもつながったのである。日本にはもう開墾する土地がない、外国しかない、満州はどでかい、いくらでも土地はあるとなり移住が戦争となり悲劇を生んだのである。ゲルマン人の移動でないにしろ移住することが戦争になることがある。アメリカも移民がインディアンを殺戮してできた国であった。戦後も土地を求めて移民はつづいた。アメリカにもブラジルにもペル-にも移民がつづき藤森大統領まで出たことでもわかる。農業は土地が必要だから土地を求めて移動するようになるのだ。二十世紀になり工業化したが基本的には農業中心の世界だったのである。

原町の名の起こり
http://musubu.sblo.jp/article/25384267.html

 
 八沢浦の妙見の祠
http://www.musubu.jp/somahantokushoku.htm
posted by 老鶯 at 20:02| Comment(3) | TrackBack(0) | 歴史(相馬郷土史など)

2009年12月19日

枯木に月(川子を回り原町へ)

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この前の道に池があり凍っていた。ある程度どこの家か察しがつくだろう
六号線から塩崎の方へ入る道である。 
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 池凍り二本(ふたもと)の樹に蔵一つ

倒木に祠二つや冬の暮

枯木二本祠守りて古りにけり

声なきも枯木も叫ぶ痛切に

山上に昔舘(たち)あり冬の月

越中の移民の姓や五賀の墓高台にあり冬深まりぬ

黒々と枯木の影や己がじし命を保ち冬深まりぬ

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枯木が二本ある家が六号線から入る川子にある。そこからさらに入りもっと高い所、八龍神社のあるところの手前に墓所がある。ここは真宗系統の越中の移民の墓が多い、五賀などはまぎれもなくそうである。遠藤はもともと相馬市系統の郷士である。ただここには江戸時代の墓はなかった。移民の分家が住んだ所なのだろうか?この道を上った高台に祠が二つ残っていた。この祠は何の祠なのか不明である。でも土地の人が藁に米などをはさんで捧げものしていたから何か昔からあったものなのだろう。ただ謂われがわからなくなっているかもしれない、土地の人でも謂われがわからなくなるのがある。八龍神社は名前がわかっているからまだいい。こういう祠は一体何なのだろうとなる。この祠が凄まじかったのは木が倒れていて枯木が二本あり一本はまるで天に向かって叫ぶように見えたのである。ここは高台であり相当風をまともに受ける。木にも声はないが表情があるのか、やはり耐えがたいように叫び苦しむように見えた。それまでしてこの祠を守ろうとしていたのか?ここは明らかに二つの祠を守る樹であったのだ。
この辺はあまり来ていなかった。ここは坂だから今まではさけていた。今度電動自転車だからこれは坂に強いので上ることにした。郷土史研究でもその場に立つことが一番大事なのである。
 帰りは細い三日月がでていた。黒々とした樹にも表情があるのか、デジカメでとった。今日も本当に寒い、冬は寒くないと冬らしくない。ただ部屋も寒くてエアコンをかけた。「風流は寒きものなり」というけどこれだけ寒いと炬燵だけでは体も冷える。でも今年は結構寒さに耐えている。

真野の日吉神社のあるところに冬の三日月が光っていた。あそこには中館があり中世に館があった。
飯館とか合成地名だが館は舘(たて、たち)であり山の上の要害の地に館を作り敵から守っていたのだ。 


今日も原町まで行ったのだから体が弱っていたけどまた少し回復してきたのか不思議である。
体の調子いい時期と不調な時期は十年とか二十年単位でみるある三四年は不調だがまた回復することがあるみたいだ。いろいろ負担がかかったから体も不調になっていたのかもしれない、ただ自分の体もよくわからない、そもそも体力がないからこうしてそれなりに60すぎて活動できていることも不思議である。

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2009年12月20日

ヤマハ パスブレイス(電動自転車)にのる

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ヤマハのパスブレイスはやはり評判どおりの優れたものだった。まだ長距離は乗っていないがこれは長距離用に作れたのだ。リチウム電池が長時間もつようになったからだ。これは半分バイクになっているのだが違うのは平地ではそれほどスピ-ドがでない、自転車だからスピ-ドが制限されている。ロ-ドよりスピ-ドが平地ではでない、でも坂には強い、どんな坂でも普通より少し力を入れれば上れるのだ。坂では苦労したからこれは凄いと思った。バイクに乗っている人はたいしたものではない、そんなことはすでに簡単にできたことで何ら目新しいことがないとなるが自転車しか乗っていない人はそうではない、自転車からの格段に進化した自転車なのである。自転車からバイクへはバイクも自転車にエンジンをつけてバイクに進化したのだがバイクと自転車は全く別物なのである。バイクはむしろ車に近いのだ。スピ-ドだって車と同じであり早すぎるのだ。そしてすでにバイクになると自ら動かすという感覚はなくなる。自動車と同ように自動に走る。ガソリンで自動に走るから車に近いのである。バイクは早すぎるから途中の景色もゆっくり見ていられない、車と同じく環境にも優しくない、轟音とともに過ぎ去ってゆく、しかしこの電動自転車はやはり自転車でありペダルを自らの足で回さない限り動かない、坂でもやはりそれなりにこがないと坂を上ることはできない、スピ-ドもかえってロ-ドよりは出ないからスロ-な自転車でただ坂に強い自転車となる。自転車は平地だとロ-ドの方がかえって楽だし早い。しかし日本はどこでも坂が多すぎてまいってしまう。それで坂に強い自転車がリチウム電池とかの発達と同時に開発された。これは電機自動車が開発されるのともにている。電池の性能が良くなったから電気自動車も実用車になる。
 
日本は山が多いからトンネルの技術が世界的に一番となったように自然条件を克服する技術が発展する。この自転車は坂に強いから実用的であるし長距離向きになったのは電動自転車でははじめてである。百キロくらい電池がもつとしたらまた荷物にも強いのでスペア-の電池をのせて走れば一日坂をいくら上っても電池は切れることはない、途中で電池を切らすことがないから安心だとなる。ただ欠点は電池の充電器が大きいのでこれを持ち歩くことは難儀である。ただ荷物にも強いからかなりの距離のツ-リングできる。それを試してみたいが今や介護などでできなくなったのが残念である。この電動自転車が出てから十年くらいたっているしようやく本格的なものに乗れるようになった。パソコンでもデジカメでも一般化したのは最近である。人生の晩年でもこの新しい技術を経験できたことは幸福なことだった。いくら金があってもこの時代に生まれなければこうした技術は経験できないからだ。
posted by 老鶯 at 22:59| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記