2009年11月01日

相馬藩玉野村の境界争いはなぜ起こった?



●米沢藩が玉野村にかかわった由来

相馬市の玉野村は米沢藩と伊達藩と相馬藩の三つ巴の境界争いで有名である。
ここに相馬と伊達の境の桜がある。

伊達と相馬の境の桜 花は相馬に実は伊達に  相馬二編返し


天文の大乱の際、伊達稙宗の娘婿、相馬顕胤は稙宗の側につき、度々晴宗と合戦に及びました。それ以降は伊達氏と争うことが多くなり、天正十八年(1590)までの五十年間に三十数回もの合戦がありました。桜は、伊達と相馬の境界を定めた桜として植えられたもので、もともとは相馬街道(川俣町と飯館村)の境界、水境神社にあったものです。

川俣の方にあったとすると川俣の方で争いが激しかったのか、玉野村も米沢藩時代から境界争いの地だった。なぜ、米沢藩なのか、玉野村は最初横田大学という人が会津西部大沼郡金山谷の横田城から上杉氏に仕官した、それで上杉氏の城であった梁川城に配属された。そこに大学舘、大学曲輪(くるわ)と称されたとありそれだけ重きを成した人であった。相馬の城でも岡田館とかすぐそばにあるのと同じである。この時まだ伊達家の領地とはなっていなかった。その後伊達家が進出して領地化して玉野村にかかわることになった。最初にかかわったのは上杉氏であった。玉野村にはその後も伊達藩からも相馬藩からも入植がありともに住んだのである。上杉氏系統が一番古いのである。
tamanozu1.jpg

 
  1. 伊達義広 粟野大館(梁川城?)
  2. 伊達政依 梁川城?
  3. 伊達宗綱 梁川城?
  4. 伊達基宗 梁川城?
  5. 伊達行宗 梁川城?→霊山城伊佐城→梁川城?
  6. 伊達宗遠 梁川城?
  7. 伊達政宗 高畠城→赤館
  8. 伊達氏宗 赤館
  9. 伊達持宗 大仏城(後の福島城)→梁川城
  10. 伊達成宗 梁川城
  11. 伊達尚宗 梁川城
  12. 伊達稙宗 梁川城→桑折西山城丸森城(隠居)
  13. 伊達晴宗 西山城→米沢城→杉目城(隠居)
  14. 伊達輝宗 米沢城→舘山城(隠居)
  15. 伊達政宗 米沢城→黒川城(後の会津若松城)→米沢城→岩出山城→仙台城→若林城(隠居)

伊達政宗の前は梁川城を伊達氏は根拠としていた。

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posted by 老鶯 at 15:46| Comment(0) | TrackBack(0) | 歴史(相馬郷土史など)

残る虫(2)


残る虫化石のごとく地名かな


今日も聞く小さきものや虫の声

晩菊や老人歩む孫を連れ


南相馬市の鹿島区の烏崎に「船着」「市庭」とあるのは一体いつの時代なのか、そこが海だった頃の地名であることは間違いない、しかし船が入ってきたとしてどういう船なのか?何かその船が具体的に浮かんでこない、鳥打沢が海に面していて鉄を生産されたところだがそこに大船という地名が残っているのも船が出入りしたからなのか、平安時代までは烏崎は入江だったのか?地名は化石のように古いのである。

2009年11月03日

石二つ(詩)


石二つ

 
 

雨の日も

風の日も

信頼を分かち合い

ただそこにある

そうしてともにあること

ただあること

それだけのことができない

疑念は常に起こり

信頼を失う時

二つの石は

ただともにあることができない

夫婦でも親子でも

信頼は失われる

雨の日も

風の日も

信頼しあいある石

今日は秋日和

日が石にさして憩う

人と人は信頼が大事

何事のなけれど

無言に信頼を分かち合う石

そこに安心がある

 
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冬に入る(石と茶道)


石と石向き合いつつ冬に入る


winter comes
stone to stone
face to face


一服の茶をたて別る冬に入る

城内に井戸と茶室や冬に入る


手水鉢水透き通り冬に入る


 
 
自分の家の庭は石二つの庭である。石を見つめることは禅宗に通じていた。石は哲学的宗教的なのである。また庭の石は人間化された石になる。犬猫も人間に飼われると人間化した人間になっんた犬猫になり介護までして墓まで作られるようになる。野にある石とは違っている。自然も人間化しないかぎり意味を持たない、火星にある岩石はまだ人間化していないから人間的な意味をもたないのだ。「人間が考える葦」であるというとき人間が宇宙に対して弱いものでも宇宙に対して意味と価値を与えるものが人間だからである。石は単なるモノではない、人間的に意味づけられた石である。石はその時確かに一人の人間になっている。石と石が向き合う・・人間と人間が向き合うとなる。花の多様性は常にわかりやすいから意識化されるが石の多様性は意識化しにくいのだ。日本の文化に庭がある。ここの中心になるのが石である。石を人間化して石そのものの意味を与えた。石は外国ではやはり石の聖堂のように巨大な建築としての効用であり小さな石には意味を認めていないだろう。
 

茶というのが日本文化である。もてなしの文化である。茶室では上も下もなく平等だというとき将軍でも秀吉でも茶をたててもてなすというとき茶室での平等性が確保される。最近リホ-ム業者とかもてなしをしてきたのでもてなしに興味をもったのである。もてなすことも一つの仕事なのである。女性は絶えずもてなしをしてきたから女性的な仕事だともなる。武将がそうしたもてなしの文化を作ってきたことも不思議である。やはり戦場で人を絶えず殺し合うような世界で平和の空間を求めたのかもしれない、殺伐とした世界に一つの安らぎの空間を求めて茶道がはじまったのかもしれない、茶をたて茶をのみその時互いに安らぎの一時を持つことである。それはなんでもないことだがそのなんでもない平凡なことに意味を求めたのである。城の中には井戸と
茶室があった。その井戸から清水をくみだして茶をわかす、人をもてなす、そういう日が城の中にあった。江戸時代はそういう静かな日々があった。今は人間関係でもビジネスライクとか人と人が交わる濃密な充実した時間と空間がないのである。今では茶が別にコ-ヒ-でもいい、問題は茶というものではない、むしろ茶でもコ-ヒ-でも人間の潤滑油としてあり茶を通じて心が安らぐ、それなら水でも湯でも良いともなるかもしれない、別にもてなしに金をかける必要はないのである。

 
冬に入るにはまだ早いが今日は特別寒いからそうなった。石の特徴は信頼を示していることである。石はやはり冬にふさわしいのだ。
 

 石二つ(詩)
http://musubu.sblo.jp/article/33383314.html

2009年11月04日

晩菊(続)


石黙し塵なき庭や冬の月


the silenced stone
no dust in my garden
winter moon


晩菊や近くにあれかし医院かな

晩菊やシルバ-に金を払うかな

秋薔薇に午後の日あたり二輪かな

また来るいつもの池や群れる鴨

ヒヨドリの猛々しく鳴き北風の街に唸るや電線も鳴る
 
 
テレビでやっていたけど会津の天守閣から満月が見えていた。今日はここでは見えていない、雲に隠れている。昨日はきれいな満月だった。十三夜の月は満月ではなかった。会津の天守閣から月をながめたどんな気分になるのだろう。
 
この町の問題は歯医者が五軒あっても内科医が二軒しかないことである。これでは選べないからこまる。車がないと行けないから困る。老人が住みよい場所は医者の問題が大きいのである。医者に恵まれていなければいろいろ困る。だから医者とは何であれ仲良くしろというのもわかる。そうはいっても医者は傲慢な人が多いような気がする。あんなに持ち上げられる職業は他にないからだ。歯医者のようにもっとふえればお客さんになるからもっと増えればいい。
 

シルバ-センタ-に金を払ってきたがここも国から二割くらい援助されているとか60代では職安に行っても仕事がないからシルバ-に登録する人が増えたとか仕事がないとかで騒いでいる。
確かに仕事がここもないのだ。仕事したくても仕事がない、金が欲しくても金にならないとかどこも困っている。 老後はそんな心配したくないが高齢化社会の問題は先が長くても安心できない、年金も少ないし本当にもらえるのかとかなると安心できないから騒いでいるのだ。景気が良くなれば解決するがもうそんなに景気が良くなるようには見えないから安心もないのである。

 
今日もいつもの池により隣の市から帰ってきた。老人になるとゲ-トボ-ルとかいつもでなじみの人と出会うだけである。そういう暮らしになる。それが落ち着いていいともなるがやはり新しい刺激は常に必要だともなる。今は意外とインタ-ネットでも意外な人と出会いるかもしれない、こんな人といたのかとプログでしる、全国になるとやはり異才を放つ人はいる。思想的異端は出版の世界からは出ない、文学賞なんかも全く出版社によって売り出され人しかでない、インタ-ネットからはそういうのとは関係なく作品でも発表できるから変わった人でも出れるからいいのである。
 
no dust というとき英語では全く塵がない感覚になる。これはやはり砂漠のような光景がイメ-ジされる。砂漠なら全く何かがあるかないかでありあるようなないようなという感覚にはならない、あいまいな表現にはならないのだ。ノ-かイエスしかないのだ。そういう厳しい感覚が砂漠の光景なのである。最初にノ-かイエスからはじまる。コンピュタ-でも二進論である。コンピュタ-の原理も自分には理解できない、ただ原理がイエスかノ-からはじまっているのだ。仏教では空となっているのはあるでもないないでもないということとは違っている。

2009年11月05日

山茶花


石にそえ山茶花咲きぬ昨日今日


紅の山茶花咲きぬ庭の奥我のみ見つつ人知らじかな

 
狭い庭の奥の方に紅の山茶花が咲いていた。これは見えにくいところに咲いていた。自分でも見えにくかった。木を剪定して短くしてしまったからだ。花が咲くとも見えなかった。もう一つの山茶花はどこにでも咲いている白い山茶花である。ちょっと花びらに赤味がさしている花でこれはどこにでもみかける。山茶花と石はあっている。冬に咲く花というと山茶花であり。侘、寂の花だからである。
今日は秋夕焼けが美しかった。あと百舌を見た。百舌も秋の季語だった。でも俳句はできなかった。百舌はなかなか見れない、冬の使者のジュウビタキも見た。季節は秋から冬へ移っている。

2009年11月06日

プログのコメント欄の問題


あるプログに長いコメントだったけど書いたがコメント欄に出なかった。前は二三回出たが出なかった。自分のプログの場合、一応即座にコメントしたものはコメント欄にでるようになっている。だからコメントが到達したことがわかる。そこのプログはまずコメントが到達したかどうかわからない、普通掲示板だと自分の書いたものが掲示板で即座に見れる、時々拒否されることがあるがそれもわかる、それは掲示板を主催する側でそうしていることがわかる。
プログではそういうことが不明確である。自分がせっかくコメントしたものが反映されないとがっかりする。それも到達したかどうかもわからない、一応コメントを読みましたが採用はとりやめましたとか反応があればいいがない場合どうしたのか確かめることもできない、つまりコメント欄はともかく到達したということを示すようにしていないとコメントする方も困ったことになる。

自分のコメントが確かに到達したのだと確認できないと機械の関係で到達しなかったのかとかそれとも主催者がコメントに問題があり事前に拒否したのかそういう点が不明になる。
メ-ルでも本当にメ-ルが到達したのかどうか問題になる。スパムのためにメ-ルは大事なものでも読みのがしていることがあった。メ-ルはスパムで使用できないことにさえなる。
フログのコメント欄だと一応必ず即座に反映されるようになっている。そのあとに主催者の意向で消すのは自由である。でも自動的にコメントが反映されていないとコメントが一体その人に到達したのかどうかもわからない、一旦ともかく自動的にコメントが反映される仕組みになっていればそういうことはないのだ。そうしないとコメントをそもそも受け付けないのかとも思われてしまう。

 

要するにプログでは普通の掲示板とは違う、発現の平等性は維持されていない、取捨選択は主催者に決められているからだ。だからそのプログの趣旨に反するものは拒否されるし反映されない、もし批判するとしたら自分のプログで批判するしかない、ただプログも公共性があり
何かしら社会に影響するとなるとコメントされたとき一応到達したかどうか即座に確認されるようにしておくべきである。あとでコメントを削除するなりできるからだ。それがいやでコメントを自動的に反映されず取捨選択するのもやむをえないのだがそれだとコメントしたことが確認できない、一旦一応コメントしたことが確認できればあとは主催者の意向で削除なり反映しないことはしかたないことである。

 

私のプログもずいぶん長く書いてきたがコメントはほとんどないから反応はわからない、結局
認知症の介護に追われてじっくり他者に反応できなかった。他者と会話することは疲れる、相当なエネルギ-が必要になる。ただ一方的に書いていれば楽なのである。ただそうなると一体自分の書いていることが何か意味があるんだろうかという疑問もでてくる。せいぜいキ-ワ-ドで反応を見ているだけになるからだ。

 
コメント→即座にコメント欄に出る→あとで削除、拒否 →一応到達した
コメント→即座にコメント欄に出ない→そのままコメント欄に出ない→到達したかどうかわからない
posted by 老鶯 at 01:06| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記

冬の日(庭の石)

sidestonesss12.jpg


冬日さし所を得たる石二三


a suitable stone
at a ceartain place

in sunny days in winter

冬に入る石の寂けさ人は見ず

冬の日や日がな見つめる石いろいろ

主石に添え石二つ冬の日々

The main stone by two sidestones
day by day in winter


紅の山茶花静か奥の庭紅葉の木に添え隠れ咲くかな

momijisazanka123.jpg

石をわかるには年数が必要である。石は外面的形より内面的要素が多い、だから石は瞑想的であり哲学的だとなる。石の心は若いときはしりえない、石はやはり老人向きである。ただ「岩石は燃えている」というエッセイを上野 霄里 氏が書いたとき岩も躍動的なものとなる。つまり石でも岩でもその人の性格、心によってとらえ方が違ってくるのだ。静的な性格の人は石を静的なものとして極めてゆく、自分はそうである。今になるとある場所に落ち着き何かを回想したりじっと見つめるのが向いている。自分はもともとそういう性格だった。だから老人になればよりそうした性格が出てきやすかったのだ。俳句が写生だというときありのままをなるべく表現する。
庭作りでは主石がありその脇に添え石、控え石をおく、メインスト-ンとサイドスト-ンになる。構造的に基本は決まっている。 添え石は女性でありメインの石は男性ともなる。メイン石の男性に女性はつつましく控えている構図になる。石組みでも必ず人間的なものを連想するのである。
冬の日は石にふさわしい、今日はあたたいにしても日ざしは太陽は冬に入っている。冬の日なのである。いづれにしろ自分にはこの4年間石のような静かな日々がなかった。荒れ狂った日々だった。その余韻はまだある。認知症とか精神疾患の家族をもったら大変である。まともな生活は失われる。極当たり前に進行する生活が失われる。この状態は当たり前の状態である。そういう日が長くつづいたけど4年間は全く乱れの日々だった。その乱れは家族だけではない、外部からも乱れが闖入してきたし平穏な精神はかき乱された。普通の人と思っていてもその人が何か良からぬ念をいだいていたり良からぬことをしているとその念にまきこまれる。親戚にそういう人がいたからショックだった。今でもその人は悪いことをするのではないが何か良い念で動いていないのだ。だからそういう人とつきあっていると必ず影響を受ける。例えば他人の悪口とか愚痴ばかり言う人といるとこれも必ず自分とは関係ないと思っていてもその悪い念を知らず受けているのだ。その念にまきこまれるのだ。別にそれは犯罪になっていないし何でもないようでもやはりその影響は大きいものとなるのだ。必ずその時平穏な心は乱されてしまうのである。
nennnnenn1.jpg

 

 石と山茶花(詩)
http://musubu.sblo.jp/article/33465245.html

石と山茶花(詩)


石と山茶花


 

沈着静謐にして

石は今日もここにあり

ここにありて動かじ

静かなる営み

禍のなかれ

冬の日に安らふ

見えざる庭の奥

山茶花がひっそりと

人知れず咲いている

片隅に謙虚なる石

長年連れ添う

信頼の石

悪しき念は石よりい出じ

また受け取ることもなし

そこに安らぎがある

 
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2009年11月07日

秋の林(鳥の声)


晩菊の色採りどりに夕日かな


八沢浦家の少なく残る虫

墓所静か木立に隠れ木の葉散る

故郷に老いてともにし過ごす人誰なるべしや秋深まりぬ

まれにして秋の林に鳥の合い鳴きかわしつつ飛び去りにけり


寂しさに堪へたる人のまたもあれな庵ならべむ冬の山里   西行

故郷に老いてともにし過ごす人誰なるべしや秋深まりぬ

本歌とりではないがこの二つを相通じるものがあった。 「庵ならべむ冬の山里 」とは老いてともに過ごす人だった。60すぎると今までとは違ってともに老いゆく友が必要になることがわかった。もちろん、夫婦であればそのまま老いをともにする、でもこれからの老いは子供と一緒に過ごすとは限らないしむしろ離れて住む人が多くなる。孤立している老人も増えてくる。


 
つづきはここで
 
 老いをともに過ごす人は誰?

http://musubu.sblo.jp/article/33486492.html
 



鳥が林のなかであい鳴くということこれは極自然なことである。でも人間を考えるときそうした極自然なことが人間にはないのだ。人間が挨拶するとき自然かというと自然ではない、それは実際は嫌々ながらしている。相手に悪いからとかつまり人間は自然な動作もできない、すべてが自然から離れて作られてきたものである。自然の中にあるものは要するに本当に作ったものがない、自然だからこそ気持ちいいものとなるのだ。ただ林の中で鳥が鳥と出会い鳴きあう、それは全く自然なことでありそれが秋の林ひびきあうのは気持ちいいのである。そこで上司にあいさつしたり力あるものにこびて挨拶したりと不自然なことがないのだ。人間の行うことが日々不自然なことであり自然なことが非常に少ない、また人間は機械を使うことでも不自然になる。車に乗るだけで人格も変わってしまう、早くせかされるとか車のリズムに移行するから自然的動作でなくなるのだ。鳥が飛ぶ時は全くその大気と森の枝々を渡るときも自然の中に全く調和している。それが当たり前のように見えても人間はそうなっていない、人間は唯一自然と調和していない生き物なのである。すべての生き物は自然と調和している。人間だけが調和していないから醜いものとしてある。人間の作ったものもやはり調和していない、高速道路でも自然をかなり破壊して調和を乱しているのだ。便利さを追求しても自然と調和しないとき醜いものとなるのだ。

 
 
飛ぶ原生の鳥の力 (詩の部)
http://musubu.sblo.jp/article/33490293.html

老いをともにする人は誰?


寂しさに堪へたる人のまたもあれな庵ならべむ冬の山里   西行

故郷に老いてともにし過ごす人誰なるべしや秋深まりぬ


本歌とりではないがこの二つを相通じるものがあった。 「庵ならべむ冬の山里 」とは老いてともに過ごす人だった。60すぎると今までとは違ってともに老いゆく友が必要になることがわかった。もちろん、夫婦であればそのまま老いをともにする、でもこれからの老いは子供と一緒に過ごすとは限らないしむしろ離れて住む人が多くなる。孤立している老人も増えてくる。
そこで問題になるのは 「庵ならべむ冬の山里 」誰と庵を並べるのか、そこが一番の問題になるのだ。一人暮らしの人にそんな人がいるのか、長年つきあっている人でないと無理かもしれない、一方で老い共に過ごす人を新たに探す人も増えてくるし現に共同で住宅を作り暮らしている女性もいた。団塊の世代というと競走に明け暮れ他者を出し抜くことが生きることだった。人数が多いから必ず席取り競走になるのだ。でも今や老いに入ると逆に共同することが求められる年代になったのである。もはや争うのではない、心から老いをともにする人が必要になった世代なのである。ただ庵を並べむというとき住宅としては別個であり独立しているから施設などで暮らすのとはこれは違っている。施設だとどうしてもフライバシ-がなくなる。窮屈になり嫌だという人もでてくる。そういう老いをともにする人がいなくても金持ちだと老いは豊になる。

 
自分の理想では庭師を雇いお手伝いさんを雇い広い庭の手入れをしてもらい、食事の用意もお手伝いさんにしてもらう、これだと別に老いをともにする人がいなくてもいいかもしれない、昔の金持ちは大工や庭師でも雇っていた家があった。それでそこでゆっくりと仕事させてもらうので職人は腕を磨くことができたという話をきく、今はそういうふうに仕事をさせてもらいないから腕をみがけないというのもうなづけるのだ。切り売り的な仕事しかできないというのが今の時代である。
 
老人問題を追求してきたがこれは実際は人人類史ではじめて直面する問題である。確かに老いの問題は今までもあった。でもそれは極少数の問題であったのだ。今は全員の問題でありそれも数が多いから老いというのが社会の重圧ともなり老人は安楽死させるべきだとかの極論もでてくる。最近の35歳の小太りの女性にだまされて大金をとられ殺された老人などがいたがそういう事件も現代を象徴している。ヘルパ-とかで金のある老人の家に入ってくるから家族の一員のようになるからそういう事件も起きてくる。孤独な老人とか一人暮らしが増えてくるのだ。自分もそうなりつつある。小太りとか太った女性にはあたたかみを感じるから顔はまずくてもかえって安心感があったからそうなった。老人になるとあんまり容姿とかは問題にならない、性格の良さとかかえって性をぬきにした人間的魅力が大事になる。だから老いをともにするのは若いときとは違った条件になる。ただ本当に老いをともにする人が誰になるのか、誰にすべきなのか、そんないい人がいるのかとなるとなかなかいない、でも団塊の世代はそういう老いをともにする人を求めるようになっている。だからいろいろな形態でそういう仲間作りがはじまるかもしれない、それは今までの家族とか夫婦とかの単位になるとは限らない、なぜなら高齢化社会は今までの伝統的な関係だけでは解決しない様々な問題をかかえこんでいるからだ。ただ老いをともにすることはもはや争うことではない、人生の争いは終わり、色恋沙汰や出世争いとかも終わった、枯れたなかでの共同を追求することになる。しかしまた以前として老人もいろいろであり老人ホ-ムでも色恋沙汰で争いなどがあるから自分が求めるのとは違っているのでなんともいえない、ただ老いをともにする人を求めていることはそれぞれ間違いないだろう。

飛ぶ原生の鳥の力(詩)


飛ぶ原生の鳥の力

鳥は生きる術を神から与えられている

翼と鋭い嘴、枝をつかむ鋭い足指

鳥は神から与えられたものしかない

何ものも身につけない

澄んだ冬の大気の中を翼で翔る

その力強い羽ばたきの音がひびく

その足指は枝をぴったりとつかみわたり飛ぶ

林の中で鋭く鳴くと鳴き返す仲間の声

それが冬の林に木霊する

鳥が飛び鳴く時、それは全く自然そのもの

心底から鳴き全身の力で飛ぶ

それが大気に林にひびきわたる

粛然と冬の樹々にも岩にも厳しくひびきわたる

野生の生き物は常に全身でその場で力を尽くして生きる

いかなる道具も使わないで生きる

人間は道具なしでは生きることができない

車なしでは生きることができない

車はすでに道路や石油やら鉄やら文明の塊りだ

自転車くらいならまだいいが

車は文明を凝縮したもの、文明そのものだ

人は車を使うことにより自然の反対軸に立つ

人間は鳥のように飛ぶことも鳴くこともできない

車は騒音をまきちらし大気を汚す

自然の中で本当に生きる力を感じるべき

それは歩いても走っても自転車でも感じるもの

もうやたらモノを作り運ぶことはやめるべき

人間は生まれた大地を踏みしめ

その大気を感じ原生の自然の感覚を取り戻すべき

まだ歩く力、走る力、自転車を漕ぐ力がある

人間は自然の中で原生の本然の力を回復せよ!

原生に生きる歓喜を回復せよ!


 

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2009年11月08日

空蝉(うつせみ)の意味


悲しさや鳴かざる蝉を手にとりぬ


この道に二輪咲きにし秋の薔薇一輪散りて夕暮るるかも

この道に木の葉の散りて夕暮れぬ行く人もなく一本の松

五本松に一本松のなお残る久しく行かじ冬となりしも

 
人間は生きているときは話つづける、騒ぎつづける。しかし死ねばぱったりと何も言わなくなる。姉が火葬場で燃やされるときひぐらしが鳴いていた。それで蝉のことを俳句にしたことを思い出した。俳句は短いからその人がどうしてその俳句を作ったかの背景を知らないと鑑賞できない文学である。人間もはかない蝉である。一時騒いでも死んだらぱったりと何も言わない、騒がなくなる。認知症で騒ぎすぎたが死んだらもう何も言わない、まさに空蝉(うつせみ)の・・・・・になってしまう。虚ろな蝉とはここから来ていたのかもしれない・・
 
うつせみの世は常なしと知るものを秋風寒み偲ひつるかも 465
 
人間は60年も一緒にいればなかなかその人は消え去るものではない、何かわからないが残るものがある。以前として存在感がある、存在し続けている何かがある。まだ一年すぎたくらいでは消えない、丁度9月ころに死んだからヒグラシの鳴く季節だった。それから秋風となり回想する。この歌の感覚である。
 
一本松は極めて人間的なのである。人間のように思えるから人間に語りかけるようになる。それは昔から同じ感覚であり今も変わらないのだ。今はただ余りにも騒々しいからそうした一本松も忘れられているのだ。昔の街道に五本松という地名が残っている。こういう地名はどこにでもある。でもそこに五本松が残っていることは少ない、すでに街道は脇道となっている。六号線は国道であり昔の街道はここ何年か行っていないような気がする。あそこには一里塚もある。あそこはやはり遠回りになるのと坂がきついから行かなくなったのである。それであそこに残っている枯れそうな一本松を今思い出したのである。


 

2009年11月09日

石巻-田代−網地島-牡鹿-短歌十首(冬に入る)


石巻袖の渡りや冬鴎


船来るを待つこと長し島暮らしあわれや江戸の古き碑ありぬ

金華山ながめつ島に老いにける相馬より訪ぬ冬となるかな

荻浜に啄木寄りしは昔かな鯨もとれず冬に入るかな

鮎川に鯨もとれず何をとる訪ねて淋し冬に入るかな

点々と牡鹿の湊あわれかな牡蠣殻の山 冬に入るかな

石巻袖の渡りの冬に入る都よりはるか思う人かな

石巻袖の渡りに一本の松も古りにき冬に入るかも

石巻葛西氏の城その跡や滅びしものや冬に入るかも

北上川流れし遠く平泉石巻に思う冬に入るかも

相馬にも金華山の碑古りにける誰か詣でし冬に入るかな


相馬藩には宮城県関係、伊達藩との関係が深い、信仰も金華山でも青麻権現とか小牛田の山神関係の碑とか館腰の碑などもあり多い、実際に相馬からお参りに行っていたのだろう。最初は出羽三山とかが多い、湯殿の碑が多いからだ。その後宮城県の伊達藩への信仰が広まった。金華山は比較的新しいものである。幕末から明治にかけて金華山信仰が広まった。金比羅信仰も実は幕末から明治にかけて盛んになったのだ。明治に盛んになったということは鉄道と関係しているかもしれない、交通が便利になって遠くまで行けたということもある。そして幕末から明治にかけて農民でも豊になったから遠くまでお参りできるようになった。当時は観光がお参りでもあったのだ。それから病気の快癒を祈る人が多かったのである。医療が発達していないから祈るしか方法がなかったからである。歴史的にこのように宮城県と相馬は深いかかわりがある。名取に妙見が祀られているのが多いというのもそのためである。それから石巻から平泉とこれは一体化している。北上
川を通じて平泉とは結ばれていたからだ。石巻の袖の渡りはやはり由緒ある歴史的地点なのだろう。


知るらめや袖の渡りは時雨して道の奥まで深き思ひを(寂然「夫木」)

この歌のよう道の奥はこの辺まで知られていた。しかしみちのくの真野の草原からは相馬からはさらに遠い地域である。今は近くてもみちのくでも奥がある。今は交通の便がよすぎるから奥の感覚がなくなったのである。歩くたびなら常に奥へ奥へと誘われる旅になるのである。石巻にある葛西氏の城の跡は伊達氏が勢力を持つ前に葛西氏が治めていたからである。葛西氏は南北朝から勢力をもって陸奥に進出していた。だから霊山にも勢力をもち玉野辺りまで勢力を広げたかもしれない、その一族の笹町という名を地名に残したかもしれない、この辺はまだ考証が必要である。


いづれにしろ牡鹿半島から田代島-網地島は景観的にも魅力がある。東北で島というとき松島となるがここには人は住んでいない、塩釜から奥松島の島々には人が住んでいる。寒風島とかある。でもここは島という感じがしないのだ。明確に島として海のなかにあるのではない、陸地のようにつながっているようにしか見えないのである。田代島-網地島は本当に海に浮かぶ島である。金華山もそうだけど東北ではこうした本当に海に浮かんでいる島は少ないのである。鮎川では鯨がとれていたし、荻浜は汽船の航路の港であり啄木もここで泊まり歌を残した。かえってその頃の方が活気があった。今は牡蠣の養殖がすべてである。


陸奥の袖の渡りは石巻の説
http://www.musubu.jp/hyoronsodenowatashi1.html

2009年11月10日

高齢者の二つの事故の意味するもの


 

福島県須賀川市でアンテナをとりつけ作業の61歳のアルバイトの男性が屋上から転落死

福島県双葉で伐採の男性落下して重体-北双広域シルバ-人材センタ-会員-72才
                                                                                  福島民報社-2009-11-10

この二つの記事はやはり高齢化社会の問題を浮き彫りにしている。61才で危険な仕事に従事していた。アルバイトというと若い人かと思ったら60以上の人だった。なぜこんな危険な仕事についたのか、やはり金になる仕事ならいいと安易にはじめたのか?、事情はわからないにしてもこういう危険な仕事はそう簡単にやるべきではない、鳶職のような仕事であり自分も屋根を直したりしてもらったがその人はプロであり慣れている。つくづく体の作りから違っている。もともと体が普通の人と違って丈夫であり資質的にそういう仕事が天職なのである。梯子をかけて上ってゆくとき自分が見上げただけでくらくらした。よほど慣れていないとまた自信がないとできない仕事である。若いとき一時そういう仕事をして死に目にあった。ちょっと足場がぐらつき不安定になると落下の危険があるのだ。ビルの上だから余計そうだった。一命をとりとめたのも運が良かったというしかない、こういう仕事は本当に危険であり日頃の訓練が必要なのである。アンテナとりつける電気工事の人は梯子をのぼるのにも腰に落ちない安全のためのひっかける道具を使っていた。つまりこういう仕事は日頃から親方につき訓練して安全策をとりコツを学ぶ必要がある。職人はいい親方についてその仕事のコツを学ばねばならない、そういうことしないでいきなりアルバイトとかでやると慣れないから危険でありこういうことが起こる。ここで見えてきたのは60以上でもこうした危険な仕事をしなければならない高齢者がいる。優雅な退職者は公務員とか少ないのである。高齢者も格差社会なのである。

シルバ-センタ-というのも現代を象徴していた。高齢者は職安に行っても職がないからシルバ-センタ-に来る、シルバ-センタ-で仕事の取り合いになっているというのも現代のせちがない時代を反映している。桜の木の伐採していたというがこれも慣れた人ならそんなに危険ということはないだろう。この人は経験者だったのか?でも72才という年はいくら経験者でも危険なのである。その年まで働かねばならないのかという疑問がある。楽な仕事ならいいがやはり危険な仕事だから疑問になる。鳶職が35才でやめているとかそれだけ危険なのである。現代は60以上でも働かざるをえない人が多い、それが高齢化社会の実体である。今回の事故はやはり高齢化社会を象徴した事故だったかもしれない、シルバ-センタ-では保険をかけているから保険金がでる、アルバイトの方は出ないかもしれない、そこが民間とは違っている。
シルバ-センタ-と言っても実際は働くことを生きがいとするより切羽詰まって金が欲しくて働いている人が多数なのである。だからこそ危険な仕事もしているのだ。田舎だと家賃が3400円という市営住宅に住めるとかそういう点では金がかからないにしても金をとる職がない、米一袋運ぶといくらとなるが女一人では運べないので二人でなんとか運んだとか言うのも女性だと金になりにくい、一袋運ぶとなると男だって辛いだろう。とにかく高齢者でも恵まれた人と恵まれない人の格差が大きい。この事故は高齢化社会が甘いものではない厳しいものであることを象徴していた。こういう仕事はどうしても若い者向きである。それを老人がするいうことは危険だったのである。

土方の採用って本当に適当なんだな
これで仕事中に死んでたら、どーなったんだろ?


建設現場の事故で複数が死んで、全員が偽名だったて事があったな…


市橋容疑者のように犯罪人でも簡単に仕事につける場所が建築土木関係である。でも経験ない人が入れば危険は大きい、経験があり訓練されていて適応能力がある人はいいがなければやはり事故で死ぬ人もいるがそれもうやむやにされるのか?アルバイト死んだ人は身元がわかっていても保証はでないだろう。ここで派遣など働く場所がないなど言っているのは甘いというのもわかる。まだぎりぎりに追い詰められていないからなのか、危険なところなら働く場所はあったのである。


 

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2009年11月11日

冬の雨(金色堂)

冬の雨濡るるや静か石二つ

冬の雨濡れてものさぶ石二つ

冬の雨姉亡き後や石二つ


冬の雨近くの店の灯の親し




 平泉(冬)

三代の栄華の跡や冬の雨

みちのくや冬の雨ぬる弁慶松

みちのくや金色堂に冬の雨形見と残る栄華の跡かな

みちのくの都はいずこ雨しとと枯野を濡らし暮れにけるかな


冬の雨でも今日は強く風交じりで降った。今は静になっている。新しい庭でも石は年数をかけないとなじまない、日がさし風に吹かれ雨に打たれて石の重みがでてくる。だから石を見るには時間がかかる。もちろん樹もそうである。自然は長い時間をかけないと見えないのである。時間の経過のなかで見えてくるものがある。外国旅行が意外と記憶に残らないのはやはりそこに積み重なった時間がありその時間を経験できないから浅薄な印象しか残らず終わっているのだ。一年くらいそこに滞在すれば明らかに違ってくる。これは京都などでもそうである。長く滞在すれば見えてくるものがある。現代のようなただ早く早く通りすぎてゆくような旅では印象に残るものが少ないのである。


近くに一軒の惣菜屋がある。今や商店街は喪失した。でも老人になると近くが大事になる。現実手押し車でス-パ-で行けない老人もいる。あそこに一軒店の灯がともっている。あそこかなら雨の日でも歩いて行けるとかなる。老人も80以上とかなると近くの灯がより親しいものとなるのだ。車社会でもそうなってゆく、車社会は近くをかえって疎遠なものにしたのである。
 
芭蕉が平泉を訪ねたのは五月雨の時期だった。五月雨や降り残してや光堂-となったがこれが秋から冬に訪ねたらまたかなり違った印象になった。みちのくの夏と秋とでは相当違っているからである。弁慶松とか弁慶にまつわるものは無数にある。今みちのくの冬の雨にぬれて淋しく立っている。平泉と言っても残っているのは金色堂だけである。おそらくだから世界遺産にもならなかった。 千年の都からはほど遠い三代の栄華でありはかなく消えたのである。でも文学的滅びの跡として格好の題材となったのである。

 
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秋から冬の短歌十首(2)(山上-大倉-玉野)

 
秋から冬の短歌十首(2)(山上-大倉-玉野)

伊達の将相馬の将や冬の暮

米沢藩古地図に残る冬の暮

十一(ジュウイチ)の入山上の森に鳴くその声聞き入る夏の夕暮

相馬より分け入り上る山上に流れの清し秋の朝行く

山上に流れの清し蝶の飛ぶ秋の朝かな奥に分け入れる

筆甫(ひっぽ)へと山分け入りてつづく道我が立ち止まる秋の夕暮

みちのくに攻防終えて静かなる北風吹きて城の跡かな

大倉は玉野の隣卒塔婆の峠の道や秋深むかも

大倉の奥は佐須なりその昔行き来淋しく冬となるかも

墓一つ標とあるも消えにけり大倉の奥冬となるかも

山上に落葉を踏みて佇みぬ中村近しも我が下るかな

三〇戸紙漉沢の昔かなその水澄みて冬に働く

山上に中村近しも薪運ぶ昔にあれや冬の日暮れぬ


 
自転車で前は山上から霊山辺りは相当行き来していた。ここ十年以上は行っていなかった。自分の仕事は旅することだった。例えば山上には入(いり)山上となると山上の上流地域になる。その辺に橋がありそこでいつも休んでいた。その時森の中から聞こえてきたのが十一(ジュウイチ)の鳴き声なのである。これは相当前でもめずらしいから記憶していたのだ。ジュウイチジュウイチと低音で鳴いてもこの鳥の姿を見ることなかなかできない、暗い森の中で姿を見せず鳴いているから神秘的である。あそこでこの鳥の声を聞いたが他では聞いていない、これなども相当暇人でないと鳥の観察もしにくいだろう。暇人だからその声を聞くことができたのである。
 
山上は宇多川の上流でも真野川などと違って川は短いからすぐ山に入り清流になっている。街中を流れている水は澄んでいないが山上に入るとすぐ清流になっているのだ。紙漉沢という地名が残っていて実際に三〇戸も紙漉をしていたのだからこの地名が残った。
冬は紙漉に大切な谷間の湧き水が冷たく澄む最適な季節。 紙漉は冬に行われる。冬は農家も仕事がないから仕事になり良かった。相馬では障子紙を作っていた。三〇戸もあるということはそれだけの需要があった。障子ならそれくらい必要になる。障子なら字を書く紙とは違いそれほど高等な紙とはならないから大量生産できたかもしれない、紙漉となるとぽつんと一軒二軒とかになっているが実際は三十戸もあったのだから村全体が紙漉の村となっていたのだ。
 

紙漉の俳句
http://www.balloon.ne.jp/453room/new_page_36%20kamisukisikoro.htm

 

山上から薪なども運ばれた。ここからなら馬車などで城のあった中村は近い、今は相馬市となっているが元は中村市であり中村駅だった。京都の大原などは相当遠いし奥地でありあそこから大原女が薪を運んだということが地理的にわかりにくい、山上だったら地理的にわかりやすい、城のある中村に山上からは障子の紙や暖房や燃料の薪や炭、松川浦からは魚が供給されたことは今でも簡単に想像できる。玉野村の隣は大倉だけど大倉にとっては佐須の方が身近だったかもしれない、川が昔は道となっていたからそうなる。ただ卒塔婆峠は南北朝時代からあったのだから一番古い道であり大倉と玉野は行き来があったのだ。玉野村より大倉が早く開けた。岩松氏の時すでに大倉はあったからだ。岩松氏の伝説の地名が残っているからだ。つまり鹿島区の屋形から一族が大倉に逃れたからである。この辺では卒塔婆から筆甫に行っていない、まだ相馬藩内でも未知の道があったのである。
だから次はここを探索してみよう。

 
 
 


 

posted by 老鶯 at 19:05| Comment(0) | TrackBack(0) | 歴史(相馬郷土史など)

2009年11月12日

冬あざみ


船見えず今日浪荒れて冬あざみ


太平洋小湊一つ冬あざみ

故郷に根付き暮らさむ冬あざみ
 
 
あざみは長く咲いている花というより草なのか、しぶとい花と言えない花である。昨日の余波か太平洋の浪は荒れていた。太平洋と日本海と瀬戸内海とは相当違っている海である。太平洋はあまり船も通わない荒寥とした海である。古代から航路は日本海にあったからだ。港らしい港となると松島辺りだけでありあとは点々と小さな湊が隠れるようにしてある。
 
故郷からは常に出て行く、住む気にはならなかった。一カ所にいるとやはり新鮮味がなくなってくるのだ。だから四、五年全く旅しないということは三〇年間旅してきたのだからこんなことになるとは思わなかった。でも六〇以上になればどこか一カ所に落ち着くのが普通だった。それは故郷でなくてもいい、この年になるとやはりどこかに腰を据えて落ち着き仕事をしたいとなる。

故郷ととなると仕事でもたいがい建築土木関係や農業でも何代かつづいている家が多い。
それで墓の仕事でも家の建築でも親がその仕事を請け負い建てたりする。次にその子供が跡を継いでやる。するとあなたのお父さんはいい仕事をしたとか、この仕事はずさんだったとか父親の代までその責任を問われる。墓を工事したのは三〇年前以上でもこれを建てた人は誰だ、土台をちゃんと作っていなかった、ずさんな仕事だと新しく頼んだリホ-ム業者に言われる、そしてこれが百万では高すぎると聞いて高いのに工事がずさんだとなり疑問に思うようになる。

三〇年前の仕事などすでに忘れていたが今になりその工事のいい加減さが問われたりする。
都会だったら誰が工事したかもわからないから問われることはもうないのだ。田舎だとそうした無責任なことをするとあとあとまで責任が問われる。同じ狭い場所で生活がつづくとそうなるのだ。だからあまり無責任な仕事はできない、狭い地域だから悪い評判がたつと仕事がてきにくくなるからだ。

 
人間どこで死ぬのか、死ぬ場所は人間にとって大事である。骨を埋めるというのはそこで自分の仕事を完成して死ぬということにもなる。旅ばかりしていたらそうはならない、あちらこちら転々としていたらやはり人間として完成する仕事はできない、遂に故郷で死んでゆくのが運命だったのか、東京のような大都会には今や行く気すらしない、結局そこには何の魅力も感じられなかった。東京砂漠であり何か得るものがなかった。人間東京に行ったからといって人間は変わらない、そもそも外国をいくら旅しても人間そのものは変わらなかった。一年くらい留学すれば外国の文化のことが肌でわかったかもしれないが旅だけでは無理だった。それだけ外国を理解することはむずかしいのである。死んだ家族の菩提を弔うということもあり遂に自分もここで死ぬようになるのか、自分もそんな年になったということである。

2009年11月13日

冬薔薇(田舎駅)


一輪の冬薔薇に暮る田舎駅

  
まれにしか電車に乗らず冬薔薇

冬薔薇客のありしや田舎町

駅前も淋しくなりぬ冬薔薇
 
電車はめったにのらない、仙台に行くときだけである。でもまた数カ月三カ月以上くらい仙台にも行っていない、仙台にもそれほど用がなくなったということか、前は本を買っていたけど今は本も買わないから特別行く必要がない。ともかく町自体活気がない、街中の通りに廃屋じみたのがあったり町の中に廃屋があり幽霊屋敷みたくなっている。子供のときから比べたらどこの町も活気がなくなっているだろう。老人だけがふえているのも活気をなくしている。子供のときは子供が群れているだけで活気があったろう。子供の遊ぶ声もしない、にぎわっているのはス-パ-くらいだとなる。この辺では電力供給地帯だから火力発電所に勤めている人が結構多いみたいだ。あとは土建業とか仕事が限られているのだ。土地も駐車場くらいしか活用することがない、土地も家も余っている。早なりミカンも作りすぎて余って安くなって農家もやっていけないという、そういいえばミカンは今年はかなり安いみたいだ。いろいろなものが余っている、作っても売れない不況である。
 
でも新商品が出れば必ず売れる、今度ちょうど近くでヤマハの電動自転車を扱っていたので最新の長距離行ける電動自転車を一五万で買う、これは坂を上れるみたいだし長距離用なので買ってみることにした。自転車は坂を上ることでエネルギ-を消耗してしまうのだ。この自転車は人気があるらしく注文してから一カ月はかかる、電動自転車は売れているのだ。日本も不況でも必新技術の新商品を出せば世界でも売れるのである。自転車は種類によってもメ-カ-によっても走り具合がみんな違っていることが不思議である。宮田の自転車は軽く走りやすい、乗っていて気持ちいい、自転車乗り心地を楽しむものである。走りを楽しむものである。登山は頂上まで上るに苦行であり疲れすぎるから嫌になってやめたのである。自転車も坂さえ軽く上れば遠出も楽になる。電動自転車は半分バイクであり確かに危険な面がある。これは本当の自転車とは違っている。やはりバイクと自転車が違うように電動自転車は本当の自転車とは違う、自転車は人力だけで走るものであり動力をつけたとき本来の自転車ではなくなっているのだ。

チベット曼陀羅

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 一番上のを万華鏡にしたら下のに変化した。確かにチベットの塔ににている。最初は地下をイメ-ジしてたら偶然にこれもできたのである。