2009年10月01日

母刀自(とじ)の意味(尊敬されていた母)

母刀自が老いて寂しく暮らします千駄ヶ谷をば思いやる秋

かくれ里高尾山路の日だまりに古媼いてころ柿を売る(吉井勇)

果物と言えば昔は柿なれや干し柿好きな母なお生きぬ (自作)


あも刀自(トジ)も 玉にもがもや。戴きて、みづらの中に、あへ巻かまくも(四三七七)


刀自(とじ)という言葉自体万葉時代からあるのだから古い、ただその意味は失われた。母を老母を尊敬する言葉だった。台所をとりしきる女性だった。家族も万葉時代だったら今とは相当違っている。大家族でありその中で家事をとりしきる女性が刀自(とじ)だったのだろう。それだけ家族が多いとそういう中心になる人が必要だったのである。今とは違い家事は機械化もされていないし外部に委託されない、だから家事は一軒の家の中でまかなわれることが多い、外食などもないしその用意だけで大変なことであった。女性の労力は家事に費やされていたのだ。


だから家事をとりしきる刀自(とじ)は重要な役目をにない家をとりしきるまでになる。刀自(とじ)をまだ戦前は言葉として使っていた。それなりに使われていたし女性もまだ家の中の仕事が主だったからである。これだけ母刀自(とじ)が慕われ尊敬されることはある意味で幸福な時代だったともなる。今は母でも父でも存在感が希薄なのである。核家族などと家族も一体感が失われた。これは家族のせいではない、社会の変化の結果であり女性差別とかを声高に言うのも実は女性は別に過去に差別されていない、かえって近代になり差別が叫ばれるようになったのも皮肉である。女性が女性の役目をになっていたとき差別はなかったのだ。これだけ尊敬されることでもわかる。

かくれ里高尾山路の日だまりに古媼(ふるおうな)いてころ柿を売る
今はモノと人が結びつかない、世界の果てから食料が集められるけどそれを生産する人は見えない、物質的に豊でも心では貧しくなっている。直接老婆から渡された干し柿は特別温かさがある。 現代はス-パ-に行けばありとあらゆるものを食べられるがその食料を作る人が見えないのである。魔法のように置かれている。ただ金さえあれば食料も手に入る、だから地球の裏側から来る食料に感謝するということもない、人が見えないからだ。
老人の価値が低下したというとき老人のもっている役割の喪失である。女性の場合は大家族の家の中にあった。それが家事が機械化して社会化したとき失われた。その代わりに女性も社会的な役割として仕事の能力で評価される、男と同じ様に競走するようになった。だからかえって女性は苦しいと嘆いているのもわかる。男と伍して仕事はできない、やはり女性の役割は家庭にあったからだ。フェミニズムも社会の変化の中ででてきた思想であり男と戦わねばならないとはまさに社会の変化で女性が男と伍して仕事させられることから起こった運動だったのである。これはかえって女性を不幸にしたのかもしれない、男と女の役割は本来違っていたからである。

母刀自(とじ)の意味
http://homepage3.nifty.com/katodb/doc/text/2468.html

虫の声(三千円の住宅と大きい家)


秋深む隣の墓の荒れしかな


三千円の住宅に住む虫の声

名取より移り住みたる人あわれ住宅古く虫の鳴くかな
 
 
人間は大邸宅に住もうが3千円の老朽化した市営住宅に住もうがいづれは死ぬし死ぬことではみんな同じである。確かに大邸宅に住みたいことはわかる。でも一人になったら大きな家は管理するのに大変になる。自分の家がそうでるある。築40年になると瓦屋根とりかえないと地震の時危ないとか家が傾いているとかいろいろ問題が出てくる。地震に弱いのは家自体が古くなると木も古くなり耐久性がなくなるからである。そして家のやっかいなのは大きな家はリホ-ムすると金が大変なのである。瓦直すだけで200万以上とかもはや直すこと自体嫌になった。すでにリホ-ムで建てる以上に使っている。そして壊すとき200百万以上かかるとか家を壊すこと自体それだけの金がかかるとしたら家自体が大きな荷物となっているのだ。むしろ家などない、三千円くらいの安い住宅ならいいとかなる。それならいつでもどこへでも移れるとかなる。大きな家がいいことはいいのだがやはり一人になると管理が大変なになるのだ。そして今やそうなる日は近い。自分の家の宝は何だったのか?本だったのかもしれない、蔵書だったのかもしれない、本にしたって集めても読める本は限られていた。古典全集をそろえてもよみきれない、他の人も全集をそろえても飾るだけで読めるものじゃないのだ。それで本の重さで家が傾いていたのである。知的仕事には本は必須でありやむをえないが本の整理も大変になった。
 
人間つくづくはかない、この世はしょせん一時の夢、仮住いである。これはすべての人にあてはまっているのだ。大邸宅に住む金持ちでも同じである。永遠にその大邸宅に住み続けることはできない、いづれ死んでしまうしこれもこの世は一場の夢だったとなる。90年生きても百年生きても結局はかない、何を成そうが成すまいがはかないことに変わりがない、この世が無常なことは変わらぬ真理である。その行き着く先は墓だったのである。
 
まあ、今度は何とかお手伝いさんとかヘルパ-を頼みやってゆくほかない、もう親戚はないし頼まない、もう年であり限界である。でも寝たきりでもすでに病院で一年とか知っている人がいるからすぐには死なないのだろう。いつ死ぬかはわからないのが人間なのだ。

2009年10月02日

秋の薔薇(続)


恨みなく秋雨静か石二つ


雨ぬれて石の寂けさ秋の薔薇

寂けさや秋の薔薇散る夕べかな

燃ゆるごと夏に咲きにし赤き薔薇秋に淋しくしみじみと見ゆ

秋の薔薇ここに咲きしを知らざりき隣なれどもひそかなるかな

秋の薔薇いとおしくここに咲き映えて遠くに行かず我が見ゆるかな
 
 
恨みというとき別に恨まれことをしなくても恨まれたりする。例えば人間は必ず誰かと誰かが争うときそのとばっちりを受けるのだ。離婚したりすると親戚に必ず害が及ぶ、どっちが悪いとも言えない、でも延々と互いに悪口をいい恨み言をいうからその恨みが伝播するのだ。それはどこで紛争があっても世界中がまきこまれるのと同じである。それは一見全然関係ないところまで及んでくるのである。私は関係ないと言ってもどうにもならないのだ。そういうことが自分に起きてきたがなんとか一段落したかもしれない、こういう根は深いから困るのだ。
 
「秋の薔薇」というとき俳句の季語になるけど短歌には季語を入れるのは良くない、確かに短歌から季語が生まれたにしてもそうである。ここは別に季語として入れたのではなく単に秋の薔薇という意味である。ここ4年近く本当に遠くに行かない、一回だけ三陸の一泊の旅が遠い旅だった。今までは旅というのは簡単にできた、それも一泊だけの旅ということはありえなかった。旅はどうしても連続してするから長くなる。新幹線で盛岡に行くだけではもったいないとなる。交通費もかかっているからさらに遠くに行った方が得だとなる。それができない、毎日近辺を回るだけで終わっているのだ。空間軸の変化はなくなったが時間軸の変化はある。それが意外と奥深いものとなっている。
 
夏の薔薇があって秋の薔薇がある。春の薔薇もあるが薔薇は夏でありそして秋になると違って見える。今は秋の薔薇にひかれる。人間は常に空間軸と時間軸で思考しているのだ。芭蕉の旅も空間軸と時間軸の旅である。平泉では一睡の栄華は時間軸の無常であった。空間軸は今でも回りは変化しても同じ空間なのである。ただ時間軸は経験できない、あの時代だとまだ平泉を時間軸では遠いものではなかったのだろう。その時間軸を経験することはもはやできない、それで古典はいつまでも新鮮なものとして読まれている。つまり時間軸で残したものはもはや二度と作れないという価値があったからである。
 
 
 

2009年10月03日

ノボタン

 


夕日さし隣の庭に秋の薔薇


我が庭に白き薔薇咲く淋しかも他の庭に咲く赤き薔薇見る

塀の内ノボタン咲くを誰か知る母安らかに眠り入るかな
 

ここのところいろいろあって疲れた。人間も年取ったからといって苦労がなくなるわけではない、90過ぎてからも大変な労苦をになった。なんでこんな年になり苦労するのかなと嘆いている。
現代は老人受難の時代ではないか?もちろんこれだけの老人が80以上の老人が増えたの一番の要因である。昔も老人がいたが楽隠居とかなり苦労しなかったかもしれない、何しろ数が少ないからだ。今の時代こんなに長生きしてもさらに死ねない時代なのである。胃ろうにされて苦痛の表情で生きていると悲惨だとなる。老人がこれで大切にされているようでされていない、やたら苦痛が伸ばされている。それが何か意味のない苦痛にみえる。口ぐせのようにまだ生きているというがまだ死なないのかと他から見られることもある。それだけみんな長生きしすぎているのだ。老人になったからといって悩み事がへるわけではない、たいがい体がどこか悪くなるから生きていることが苦痛になることが多いのだ。だからどうみても高齢化社会は負の要素が多い、80前で死んでいればあんな悲惨な認知症にはならなかった。これも長生きしすぎた結果だったのである。85を境にして脳卒中になる人が急激にふえてくる。85歳が人間の体力の限界である。ここが平均寿命になっているのがつくづくわかる。本当にここを境にして倒れてゆく老人が多いのだ。

 
朝顔とノボタンはにている。日本的な花は朝顔だけどノボタンは昔からあったのか?最近この花にひかれる。なんとも落ち着く花なのだ。塀の内に咲いてにあう花である。あと白い薔薇が咲いているけどなんか淋しい、それで他の家の庭の薔薇を見ている。一見の家の庭で咲かせる花は限られているからたりないのだ。作家の庭は大きな庭だからいろいろな花を咲かせることができる。その手入れが大変になる。人を雇うようにさえなる。金があれば庭師を雇い手入れさせる。鑑賞するのは自分だとなるがそれは普通の人はできない、ともかく何の心配もなく苦痛もなく眠っていれば見る人も楽である。側に病人や老人をかかえることわずらいを持つことである。一緒にいる人も苦痛になってくる。今日は仲秋の名月の日であり月が明るく輝いていたが一句もできなかった。意外と名月になると句になりにくいのだろう。
 

南田洋子の認知症関係ではアクセスがまだあり、今日は増えている、相当ここに関心がある。
でもアクセスはふえていない、平均は200くらいなのかもしれない、認知症であまり書いていないからふえない、俳句と短歌では100になればいい方だろう。その他記事をふやさないとアクセスを増やすことはできない・・・


抽象画-盛岡のイメ-ジ

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盛岡のイメ-ジはやはり川いくつかある。普通一つなのだけどいくつかある。北上川は大きいし
それで水に囲まれたイメ-ジになる。盛岡と仙台はかなり違ったイメ-ジになる。
仙台は近代的でイメ-ジだが盛岡が何かまだ古いものが残っている。
盛岡には秋の薔薇がにあっている。

2009年10月04日

美しい月


広き庭巨石を据えて秋没陽


はや早稲の刈られたるあと陽の入りぬ

月明かり白鳥来るや迷わざれ

禍事の去れや美しき月の二夜


今日は秋没陽と月であった。晴れ渡り秋の夕日が美しかった。すでに早稲は刈られているところがあった。猪苗代に白鳥が来た、夜飛んでいた白い鳥があった。一羽飛んでいた。夜飛ぶ鳥はあまりいないが意外と白鳥が飛んでいるのを見た。白鷺のようにも見えた。、白い鳥だったことは間違いない、白鳥は夜も飛んで渡ってくる。月明かりの中も飛んでくる。それはいかに美しい光景だろうか?それを見ることはできない、でも実際冬が近づいてきたのだ。

 
ともかく姉が認知症になってろくなことがない、なぜこんなに悪いことばかり起きるのか、悪いことは連続して起こる。良いことも連続して起こる。昨日の十五夜と今日の月は曇りが長いなかで二夜見たから心が洗われるように気持ちが良かった。つくづく禍事は去ってくれとなるがまだ禍事は実際はつづいているのだ。これはやはり死ぬまでつづく、病院の閉ざされた病棟で月も見えないとしたら嫌だろう。死ぬまで人はやはり美しいものに触れていたい、そうすれば生きる意味がある。ああ、本当に美しい月だったな・・・人は醜い、月は本当に美しい・・・・・この世は常にそうだったのだろう。今も醜い人の世はつづいているのだ。
 

2009年10月05日

2009年10月06日

柿の意味


石に菊寄り添い堅き契りかな


庭広しエンジェルトランペット夕暮れぬ

学童の帰れる道や柿なりぬ

柿食うて里に暮らせる烏かな
 

日本的なもの花でも果実で何か精神的意義が付与されている。菊などは天皇の紋にもなっているから特にそうである。果実でも柿は極めて日本的だからこそ精神的なものとしても見る。
質実なものとか素朴なものとしてみる。柿はkakiであり海外でも通用しているから日本を代表する果物だった。 烏が柿をくわえていた。烏は雑食だから生きて生けるのだろう。熊もそうである。雑食なものは生き延びる。人間も雑食だから生き延びた。今どうしても飢饉とかになるとは思えない、これだけ米が余っているのだから飢饉になるとは思えない、米が生命線としてあったときは不作=飢饉になりやすい、でも外国から食料が入らなくても米だけは確保してあれば飢饉にはならない、最後の生命線は確保されている。最大の不況でも米が確保されていれば飢饉にはならないという安心感がありそこが江戸時代とは違う。日本人の今の不安は柿を食べて里に暮らすことで満足しないことから起きているのだ。生活にコストがかかりすぎ借金生活になる。不況になればその生活が維持できない、不況でも柿食うくらいで満足している生活だったらそんなに騒ぐ必要がないのだ。

 

車を一人一台持つような生活はコストがかかりすぎるのだ。それが経済成長であり文明生活を実現したとなるのだがそれが遂には車なしでは生活できない、車がなかったら死ぬほかない、車を取り上げられたらすべて終わりだとまでなっている。
実際車なしの生活をこれまでしてきた歴史が長い、でも一旦車をもつとそうなる。車はガソリンが石油なのだから石油なしでは生活がなりたたない、石油を確保するために戦争も辞さないとなり実際資源戦争をしてきたのが人間だった。石油自動車文明は必然的に戦争に向かっているともなる。逆説的には柿を食って満足していればそうならなかったともいえるのだ。 果物でもリンゴ、ミカン、ナシ、カキ・・・・とか日本でとれるものだけで今や十分のように思える。別にマンゴ-やバナナでも食べなくても十分贅沢な時代になっている。そういう簡素な生活を見直すことが必要になっているのが現代なのだ。なぜならこれ以上経済成長はない、成熟社会になってゆくからである。


柿の話
http://www.musubu.jp/hyoronkaki1.htm


 

南相馬市栃窪村十首(秋から冬) ( 栃窪村の今昔)


南相馬市栃窪村十首(秋から冬) ( 栃窪村の今昔)

 
春なれど北風寒し栃窪の町より遠し車なければ

栃窪の奥に墓地あり秋の朝静に蝉の鳴く声ひびく

栃窪へ車なければ遠しかな粗末な墓に虫の鳴くかな

栃窪に見るべきものの何かあれ古き碑並べ秋の日暮れぬ

栃窪に古き碑並びあわれかな柳は枯れぬ人も老ゆかな

栃窪に我が知る人も死ににけりともに働きしは役場なるかな

役場という名もなつかしき今はなし南相馬市と変わりけるかな

草枯れて昔の道のその跡に古き碑残る栃窪村かな

真野川を上り栃窪大倉へさらに遠き佐須は淋しも

冬の日に木の葉一枚散りにけりその静けさや人知らぬかも


栃窪で一番古いのは冠嶺(さかみね)神社である。御山神社は葉山信仰だから江戸時代のものだろう。 冠嶺(さかみね)神社は日本武尊(ヤマトタケル)の奥州蝦夷征服の伝説に由来するから古い。その前に浮田国造(くにのみやっこ)が最初に記されているしそこに隣接しているのだから古い地域である。栃窪の特徴は「古碑の村」になっている。御山の入り口に碑があるのが象徴的である。その碑はいつもひっそりと草に埋もれている。その碑には藁に詰められたご飯などが捧げられていた。それから上栃窪の方に上ると道に沿い古い碑が並べられてある。あれはあそこに集めて並べたものであり今ではどこにあったのか良くわからない。古い碑などを一カ所に並べることが結構ある。古い墓を無縁化した墓を一カ所に集めるのとにている。でもどこの場所にあったかわからなくなるのは歴史の保存としてはよくない、場所が大事でありその場所にあって活きるものがあからだ。今でも畑の中に古い碑が並んでいるがそこはかつて道だったのである。いつしか道の役目がなくなり碑だけがここが道だったことを示しているのだ。

郷土史研究の基礎は村の新旧を知ることである。八沢浦とかはじめて来る人は古い村と思うかもしれない、上萱などは山の上に孤立してあるし塩の道沿いにあるから古いと思うかもしれないがあれは戦後開拓に入って作られた村だから新しいのである。遠くから来た人は明らかに古い村と錯覚するだろう。外から来た人にはどこがその市町村で古い場所かわかりにくい、城などがあれば目印になりわかりやいのだが何もないとわかりにくいのだ。神社の由来も新旧の目安となる。冠嶺(さかみね)神社の由来を知れば古いとわかる。浮田が鹿島区で一番早く開けた地域である。その次に栃窪も古いのである。栃窪の特徴はやはり「古碑の村」である。金比羅の碑が多いからここから金比羅参りに行き箸蔵寺への道標に奥州栃窪村の人が寄進したとしるからだ。そして鹿島区では実際に栃窪村に一番金比羅の碑が多いのである。記録としても金比羅参りした人のものが残っている。

役場(ヤクバ)というときこの言葉は死後になっていないが今は南相馬市の支所であり鹿島町であったときの役場という感覚とはかなり違っている。役場とは死語になっていなくてもここではすでになっている。役場とみんなが呼んでいたときそこは町のコミニュティの中心としての役割をになうものとしてあったのだ。姉が保健婦として役場に勤めていたし知人も役場に勤めていたし役場に勤めている人が田舎では多い、役場で書類などをもらう時嫌な目にあったとか事務の対応で素っ気ないとか悪評もあった。じも役場というのがなくなってみると何かなつかしくなる。


人間はその時感じなくても一旦なくなってしまうとひとしおなつかしくなるのだ。言葉も死語になった言葉が多いがその言葉のなかにはそうした生活の中で生まれた言葉だった。それが生活が変わり喪失したのである。言葉のもっている実感が喪失してしまったのである。

栃窪村も変わる、あそこに常磐高速道路ができてその下のトンネルをくぐって栃窪村に入る感覚は相当今までとは違っている。何か違和感があり素朴な栃窪村も変貌した。入り口に古い碑が草に埋もれてある感覚とは違ってしまった。常磐高速道路ができればかなりまたこの辺も変容する。高速道路の無料化はその変化に拍車をかける。恐れるのは常磐線が消失するのではないかという危惧である。なぜなら高速道路で仙台まで一時間とかなると鉄道を利用しなくなる。車のない人も高速バスを利用するようになる。すでに東京まで高速バスが原町から出ていることでもわかる。高速道路無料化は鉄道に痛手でありJRは政府に抗議しているのもわかる。常磐高速道路の影響も相当に大きい、交通体系を変えてしまうほどに大きいものとなるかもしれない、火力発電所ができたときも大きな変化だった。ここも環境破壊だったがあそこで地元の働き場になっている。一般の人は環境に考慮しない、小高と浪江辺りに原子力発電所できれば景気よくなるとか建築土木関係の業者は言っている。仕事がない不況の昨今、環境より仕事なのである、収入なのである。環境にやさしいのは鉄道のはずだがますます車を使うとなると鳩山首相の環境政策優先など実行できるのか疑問である。

人間は本当にそれぞれ住んでいる土地のことをわかっているかというとき今はわかっていない、時間と距離の感覚があまりにも違ってしまったからだ。車をもっているものともっていないものとのその土地を認識する感覚がかなり違っているのだ。車をもたないものにとって栃窪すら遠い地域になる。これが自転車もない荷車の時代だったらさらにそうである。栃窪は鹿島区では一番遠い場所になるのだ。その遠さの感覚から詩が生まれる。栃窪にも奥があり墓地がありここに秋の蝉の鳴く声がひびいている。栃窪の奥は本当に奥になるのだ。車だとこういう意識は生まれてこない、芭蕉にしても新幹線で平泉に来たなら「奥の細道」は生まれない、つまり車では奥の意識がなくなるのだ。一気に早く到達しすぎるからである。今の時代そんな悠長なことでは生活できないとか言われるのはわかっているがしかし車をもたない生活の方がとてつもなく長い、それが車なしでは生きていけないとまでなった。その変化は政治の変化より余りにも大きいものであり根本的に社会を変えてしまったのである。

栃窪村の金比羅の碑
http://www.musubu.jp/tochikubo.htm

 
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2009年10月07日

山茶花(老後にやりたいこと-庭作り)


台風の雨に打たるる薊かな


ほの紅き白に色ある山茶花のはや咲きにけり石の鎮まる
 
台風の雨がふっている。薊は強いから雨に打たれても耐える、薊は花とも言えない、雑草の一種なのだろう。新しい庭に山茶花がすでに咲いた、白い花びらにわずかに縁に紅い色がさしている。山茶花にもいろいろ種類があるのだろう。山茶花と石はあっている、山茶花は冬の花だが早めに咲いた。花はどうしてある時期に咲くのかわからない、山茶花さんよ、まだ冬は先なんだけどあんまり早く冬が早く来ても困るんだけどな・・・と言っても無駄か、狭い庭だといろいろ花は楽しめない、しかし庭にある花だとまじかにいつも鑑賞できるからいい、理想はやはり作家の庭である。広い庭で様々な樹を植えて花を楽しむのである。老人になっての趣味でいいのはやはり庭作りであり園芸であることは外国でも同じだった。やはり老人になると身近な世界が生活の場になる。介護にしたって近くでないとうまくいかない、車があってもそれなりに手間になるから自転車とか歩いてでも行ける距離がいいのである。視野が狭くなるにしろ濃密な空間で認識を深める思考を深めることもまた意義がある生である。旅行も浅薄になりやすい、一回くらい通りすぎても認識を深めることはできないのだ。
 
現代の老人が金があるといっても中途半端なのである。邸宅をもち広い庭をもっている金持ちはまれなのだ。昔の金持ちは中産階級的小金持ちの金持ちではない、そういう金持ちには金持ちの役割があったのだ。職人にしてもそういう金持ちが余裕をもって技術を磨かせてたという、そこでは職人の腕も磨かれたのである。今はそうした金持ちはまれなのだ。大きな投資をする金持ちもいない、小金持ちにすぎないのだ。自分も今は小金持ちだがたかがしれている。大きな投資はできないのである。せいぜい狭い一間の庭作りするのが精一杯なのである。理想は庭師を雇い大きな庭で老後を思う存分楽しむことであった。八ツ場ダムなどのような巨大な天文学的浪費するよりそうした金持ちがいることも必要なのである。そういう金持ちがフィレンツなどではいて文化を創ってきたのである。あんた一億円やるけど何に使うと言ったらやはり庭作りである。壮大な庭作りをしたいとなる。現代の不況の原因は老人でも金がある貯金があると言っても小金持ちであり昔の金持ちとは違う、だから大きな金が回らない、せいぜい年金がもらえなくなるからそのために貯金しておいた金であり
安全のために貯蓄しているのであり使う大きな金はない、だからこういう老人が大多数では景気はよくならないともなる。

2009年10月08日

抽象画-秋の模様

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万華鏡にする素材はインタ-ネットに無数にある。有名な画家のもある。写真も無数である。
上は抽象画で有名な外国人の絵を万華鏡にした。下は写真から万華鏡にした。
これは著作権違反になるのか?
その元の絵なり写真なりがわかりえようがないから著作権違反にならない
もしわかれば違反になる・・・・・
これもパソコンの新しいア-トだから著作権もあてはまらなくなる
第二芸術にしても芸術であり創作なのだろう。
 
 

2009年10月09日

モノ余りカネ余り家余り土地余り人余りの不況


モノ余りカネ余り家余り土地余り人余りの不況


●焼け野原から始まった戦後の経済
 
戦後焼け野原になったとき文字通り日本には何もなくなっていた。そこに戦争から帰ってきた男たちがあふれ団塊の世代が生まれた。不思議なのはなぜ焼け野原でも何もないのに子供を生んだのか、自然の摂理だからおさえられない、貧乏の子だくさんであり性のエネルギ-はとめられない、貧しい国では子だくさんではないか、避妊を知らないからそうなる。しかし性のエネルギ-はいつも一定なのかもしれない、むしろ先も見えない焼け野原でよくそれだけ子供を産んだという不思議である。私の父は牛乳をもらうために行列して並んでいたとか子供を育てる食料もない時代によくそんなに子供を産んだものだという不思議がある。その当時はみんなそうである。最初にはじめた三文店屋だったが最初の店はモノがあれば何でも売れた、モノを買えれば売れたのである。ただ買う金、資本がないと店も始められないから苦労したのだ。モノがないというとき家庭には粗末な飯台が一つあって食事していた。その他電気製品などはない、暖房はまだ炭だったのである。後進国では今も日本と同じ光景が見られるので興味深い、インドではバラック建ての店でわずかなものを売っていた。あれでも商売が成り立つということは焼け野原から出発した日本と同じだった。袋は新聞紙だった。家でも母が新聞紙で袋を糊付けして作っていたのだ。商品はお菓子でもバラ売りであった。今も駄菓子屋に行けばわかる。ともかくモノを並べれば売れた時代だったのだ。インドのベナレスに行ったとき、そこではまだ炭が使われていたが牛糞が燃料として干されていたり家の中をのぞいたら白黒テレビで子供がゲ-ムしていた。つまり現代の電気製品もすでに入っていた。ベナレスは大都会だからそうなっている。今では明らかにテレビはカラ-になっている。古いもの新しいものが併存しているのがインドであった。牛糞が燃料にしているというときこれは太古からそうだったのだからインドではまだ太古のままの生活をしている人がまだ農村部では多いのだ。ベナレスではガンジス川の辺りで死体が薪を積んで焼かれているのも異様な光景である。まさに太古から現代まで混沌として併存しているのがインドである。
 

続きは時事問題の深層40へ
http://www.musubu.jp/jijimondai40.html#monoamari

 
●パソコンの記憶は一瞬にして消える恐怖
 
プログでは保存とかリンク消えていたのがあった。プログは保存するのには危ないものかもしれない、一回さくらのプログで記憶が全部消えたことがあった。サ-バ-で故障したら大変である。一方ホ-ムペ-ジの方はなかなか消えにくいだろう。リンクも消えにくいだろう。記憶もパソコンの方に自動的に保存されるからプログよりは安全である。デジタルビデオレコ-ダ-でも東芝だったがハ-ドディスクに記憶したのが全部一瞬にして消えた。ハ-ドディスクはこのように一瞬にして記憶したものが消えるのだ。この対策をとっていないとすべての努力は水の泡になる。


ここのところはプログ中心であったが本来はホ-ムペ-ジから2000年から始めた。すでに10年になろうとしている。その間に家族の認知症介護が入りプログに本体は移行した。ただ長い文は時折時事問題深層などに書いていた。ホ-ムペ-ジは書いても何が読まれているか把握しにくい、プログは毎日アクセスの記録を見ているので何が読まれているから把握しやすい、ともかく落ち着いてくれば長い文章も書ける。でもまた一人ボケかかっている親がいるのでまだ落ち着かない、ここのところの変化は大きすぎた。

posted by 老鶯 at 22:45| Comment(0) | TrackBack(0) | 時事問題の深層

2009年10月10日

南相馬市原町区萱浜から鹿島区大内へ(実りの秋の俳句)

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南相馬市原町区萱浜から鹿島区大内へ(実りの秋の俳句)
 
みちのくの桜井古墳や実りかな

萱浜や移民も交じり実りかな

馬肥えて六万石の実りかな

古碑一つ蜻蛉とまりて字の薄る

故郷の古碑をたずねて秋薊

幹太く一葉松や実りかな

鵜の飛ぶや太平洋と秋の空

萱浜や新田川に萱なびく

なお一つ秋の蝉鳴くキャンプ場

野の花を献げむ二体地蔵かな

村一つ歴史のありや石と柿

常盤木の緑うるわし一葉松秋風そよぎ実りに映えぬ


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南相馬市原町区萱浜の方にゆっくりポタリングした。萱浜は本当に萱のなびく原だった。でも越中の移民が来る前に萱浜の地名があったからそれなり古い。だから江戸時代の碑も一つあった。新田川に萱がなびいていたから萱浜をイメ-ジした。鵜が群れて飛んできていた。そこから金沢の火力発電所のキャンプ場に回ったらニイニイ蝉が一羽まだ鳴いていた。土曜日でキャンプしている人もいた。そこから鹿島区の大内の方にでてきて大内の墓を見た。やはり江戸時代の墓があったから大内も古い。今日は秋晴れであり実りの時である。相馬六万石は越中からの移民が二割くらい交じり実りが増加した。だから墓を見れば真宗系の墓が必ずありその子孫が相馬には根付いていることが明瞭である。
 
 

南相馬市原町区萱浜と鹿島区大内の原初は湿地帯
http://musubu.sblo.jp/article/32819227.html
 


 

南相馬市原町区萱浜と鹿島区大内の原初は湿地帯

 南相馬市原町区萱浜と鹿島区大内の原初は湿地帯

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●萱浜も湿地帯だった
萱浜という地名は古くからあった。だからその地名をとって相馬氏が姓とした。
胤往の曾孫・胤久(五郎左衛門)は萱浜村(南相馬市原町区萱浜) に移り住み、萱浜を称したという。金場門馬氏の祖・門馬胤久(五郎左衛門)が行方郡萱浜村を知行して萱浜を称した

相馬の門馬家
http://members.jcom.home.ne.jp/bamen/ichizoku91.htm

萱浜地帯は地図を見ればわかるように谷地とか渋佐(しぶさ)となっているのはしぶさは砂のことである。海が近いから萱と砂の地帯だった。赤沼とかも沼でありここももともとは湿地帯であった。日本は海の近くは湿地帯だった。北海道の釧路湿原のようになっていたのだ。巣掛場などという地名も残っているから鳥や獣をとっていたのかもしれない、湿地帯であり生業は狩猟などだったかもしれぬ。新田川には一面に萱がなびく光景もあっている。海から鵜の群れが飛んできていた。真野の草原は有名だけどここもそうかなと思うかもしれない、ところが日本全国こうした光景はどこでもあるのだからめずらしくないのだからあえて特別真野の草原は都から見て面影にしてまで見る地かとなると疑問なのである。それは前にも書いた。この萱浜の地形を見ると
桜井古墳がやや高台にありそこから海へと湿地帯が広がっていたのである。川と湿地帯の海に面して桜井古墳があった。泉長者の泉も高台にある。それが何を意味しているのか?桜井古墳の前の方にも小さな古墳がある。桜井古墳が川の側であり海に面していることが特徴なのである。もしかしたら船着場みたいなものだったかもしれない、海から目印となるものだったかもしれない、場所からするとそうなるのだ。海の近くにある古墳は瀬戸内海の五色塚古墳なども海からの目印としてあった。海との関係が深かった。ここの古墳から東海系の土器が発掘されている。東海系の人たちがここに移住したのか何か関係はある。東海からどういう経路で来たかわからない、ただヤマトタケルの伝説で原町史談なる本によると《原町市高》は多珂神社の当て字で竹水門は《高川》(現太田川)の河口(湊)の事とあるとあるからここではないが河口が湊になることがあった。上陸した地点がここだとかなると桜井古墳もそれと関係しているのかもしれない、いづれにしろ歴史は地理でありそれと同時に地形を読むことが大事なのである。この地形は実際に路査しないとわからない、高低などがわからないからだ。萱浜はあとで越中からの移民が移り住んだ。ここは海に近く湿地帯であり開墾する地帯が広く残っていた。条件の悪い地帯だった。移民は条件の悪い地帯を開墾させられた。相馬では真宗系の墓が必ず目立ってある。移民が相馬に根付いて六万石の実りとなったのである。


●鹿島区の大内からも湿地帯

鹿島区の大内村の地形は後ろは山に沿ってある。そこから海の方や右田の方を見晴らすとやはりそこも広大な湿地帯だった。真野川の流域でもありここに不思議なのは曽我船という地名が残っている。ソガとはさかのぼるという意味でここに船がさかのぼって来たからだという、それは伝説的地名であり真野の入江がありそこに船がさかのぼって来るからその地名がついた。これが本当だとすると万葉時代からだから相当古いとなる。真野の入江というのは確かに塩崎(しおのさき)が入江になっていて船着とかがあったのだから船が来ていた。それはいつの時代なのか?地名としても残っている。草原(かやはら)は入江のことであり港だったという説も書いた。ともかく大内村は前は広大な湿地帯だからあそこに村が最初にできることは地形的にわかる。小島田というのもその湿地帯のなかに島のようにできた田のことかもしれない、つまり地形をイメ-ジするとき原初の状態をイメ-ジする必要があるのだ。大内村は閑散としているから古い村とも思えないがやはり古いのだ。第一曽我船(そがふね)とか伝説としても地名が残っていること自体古いのである。

豊臣時代に北郷に田中城代として田中忠次郎郷胤、その配下に滝迫館
大内館、杉の館、赤柴館(栃窪村)があり戦争の折りには各館より出騎していた。(鹿島町誌)

大内に南館下という地名があるのはその時のものだろう。館は中世から戦国時代の地名が基になっている。
大内にも家が少ないように見えても館があった。その館を中心に村が形成された。この頃は田中城が中心であり今の鹿島の町があるところではない、田んぼになっいるところに城が館があってそこが中心となっていたのだ。町はあとで街道沿いにできるのが多い、江戸時代になるとそうである。その前は中心は館であり城であった。だから今から見ると辺鄙な所に多いのである。いづれにしろ歴史も地理であり地形を見ないとわからない、地理とか地形は何度もその地を踏まないわからないから歴史も理解しにくい、高低差や距離の感覚がわからないのだ。

南相馬市原町区萱浜から鹿島区大内へ(実りの秋の俳句)
http://musubu.sblo.jp/article/32818579.html


 注意-著作権について
千葉氏一族について詳しく書いている人から著作権違反の指摘があった。その後メ-ルは来ていない?ここは引用するとき注意が必要。長いのは駄目なのかもしれない、短いならそうでもないかもしれない、それはあくまでも歴史的事実であり創作ではない、でもあれだけ詳しく書いているとやはり著作権があるのだろう。だから二三行とかならいいのだろう。あとは詳しく知りたければリンクすれば問題ないのかもしれない、ただ著作権にはいろいろありめんどうである。特にインタ-ネットではまた本とはちがっているからむずかしいのである。ただここの千葉氏のサイトは相馬郷土史関係で良く書いているから一言御礼と挨拶が必要だったのかもしれない、お世話になっていますとか必要だったのかもしれない、あれだけ詳しく書いている人はそれだけ功績もある。ただ自分だってインタ-ネットでいくら書いてもコメントもまれだしインタ-ネットでは何か功績としてほとんど認められないのが問題なのである。もちろん金にもならないから何で書いているのかわからなくなるときがある。ただ無料でひたすら提供しているだけだとなるからだ。

posted by 老鶯 at 19:26| Comment(0) | TrackBack(0) | 歴史(相馬郷土史など)

2009年10月11日

屋根瓦と白髪


雨風に耐えて四〇年屋根瓦思わざりざり今しみじみと見ゆ


キ-ボ-ドに白髪落ちにきあわれかな家も古りにき我も老いにき
 

築四〇年で今度は屋根瓦を点検することになった。一部ぐしをかためたセメントがはがれている。まだ雨漏りはしていない、瓦自体もまだ損傷していないみたいだ。瓦はいい瓦を使ったと聞いた。土壁の家であり瓦もいい瓦を使いば五〇年とか長持ちする。百年も使っているものもある。瓦は美観もいいし長持ちするものだった。瓦の歴史も古い、韓国から瓦博士などを呼んで仏教寺院に使ったのがはじめである。それまでは飛鳥板葺宮跡とか板であり茅葺きとかであった。瓦は重いが台風とか雨風には強いものだった。今の屋根は素材的には一〇年で古くなり塗装しなければならないとか二〇年で張り替えねばならぬとか弱いものである。すると必ず家はリホ-ムせざるをえなくなるのだ。特に屋根は家で意外と最も大事なものだったことを全く考慮しなかった。そして今になってこの屋根瓦が四〇年を家を守ってきたとのかとしみじみと見た。
家というのは毎日その中で生活していてもそのありがたみがわからない、ましてや屋根がそんなに家にとって大事なものか思ったこともない、もちろん土台も大事でありその土台を思って生活している人もいない、でもこうして四〇年もすぎて痛んできて修理が必要となると家のことをいろいろと考える。老人もこうした古い家とにている。ときどき苦労した老人のことを考える。
90となるとその長さはもはや家より長い時代である。やはり家は長持ちするものを建てるべきである。最近長期使用に耐える家を作ることを奨励しているのもそのためだろう。

 
キ-ボ-ドを打ってこの文を書いていたら白髪落ちていた。白髪も増えてきた。ハゲもある。前から自分は老成していて老人みたいだった。今や本当に老人になってゆく、プログは今を書くからこういうことができる。リアルタイムの感想を発信できる。ともかく家族が一人死んでいろいろな整理が今もつづいている。

2009年10月12日

石と柿


我が庭に留まる石や秋の風


我が庭に石岨立ちて光る月

さまよわず定着するや石と柿

誰が家や庭広々と置かる石秋の日さして争わず暮る

石にさす秋の日静かこの道を今日も通りぬ言うこともなく


結局大学に東京に出てから60近くまで彷徨っていたのが自分だった。その間三〇年間家族に問題がおきなかったのは相当恵まれていたのだ。この間になにかしら起こるのが普通だからである。確かに一回台風で水があがったがこれもたいしたことではなかった。この間に家族は病気していないからだ。こんなふうにさまよってきた自分だが今や近くさえ行くのがままならない、これだけさまよいば充分だともいえる。自分は故郷にいても定着した気分になっていない、故郷は一時的に帰る場所だった。常に旅に行っていたからだ。どうしても故郷だけでは景色も平凡で飽きてしまうのである。ここには高い山がないから景色が平凡なのである。今や平凡でもここに閉ざされている。人間どこかに定着するのが運命である。特に六〇以上になると移動するのが億劫になるのだ。二〇世紀は交通の発達で遊牧民、めまぐるしい移動の文明だった。江戸時代は農業中心の定着文明だった。あまりにもめまぐるしく移動する、グロ-バル化から定着文明に移行する時期になった。過剰な移動やグロ-バル化は精神を不安定にするのだ。伝統的コミニュティも破壊されたしそこから様々な問題が生まれた。江戸時代の村社会にもどれというのも無理だがこれから高齢化社会は今までの移動文明から逆のスロ-なゆったりとした定着文明に向かう。それにふさわしいのが石であり柿も元からあったものだからふさわしいとなるのだ。

2009年10月13日

秋の朝


蕊深く蜂の入りぬ秋の朝我が見てをりぬ働くことなく


秋の朝鎮まる石にヒヨドリの声の鋭くひびきて去りぬ

秋の朝鋭く鳥の鳴く声の澄みし空気にひびきわたれり
 
最近晴れる日がつづくから秋らしい、空気も澄んでいる感じだ。都会で感じるのは電車の音などから朝がはじまる。田舎では違っている。自然の中から朝がはじまる。とはいっても道路の近くだから車の音から朝がはじまるのは同じである。山の中でもこれは道路が通っていれば同じなのである。でも自然を感じるには田舎でないととぎすまされないだろう。自然の感受性も日々訓練することから生まれ場合もある。人間はただ漫然として身につくものはない、日毎の訓練の成果が実りをもたらす、でも自然のなかにいなければそれもできない、悠長な時間の流れも必要である。秋らしくなったことは確かである。
 
 

2009年10月14日

投資信託で大損した責任は誰に?


投資信託で大損した責任は誰に?
http://www.musubu.jp/jijimondai40.html#invest(時事問題の深層40)

 

投資信託で70万円損した。最初1500円時買って十万配当あったとかでそのままにしていた。そのあと投資信託について考える暇もなかった。家族の介護から死からその後も忙しくてみている暇もなかった。そのうちどんどん株価が下がりあっというまに70万も損していたのである。
これでわかったことは郵便局も、銀行も証券会社と結託してしかけた詐欺的商法だったことがわかった。投資信託は安全だとか専門家にまかせるから安全だとか錯覚していた人もかなりいた。自分もそうだった、いちいち買ったり売ったりしょっちゅうしているものではないと思っていた。だから「長くおいておくのがいいですよ・・」と銀行員のすすめだった。ところがこういう銀行員もそんなこと知ったことではない、手数料が入るから長くおいた方がいいと言っているだけだったのである。この手数料収入は銀行が貸してもうけるところがないとき大きな収入とはなるから証券会社と結託して素人をだましたのである。でも別に合法的であり責任は自己責任だからいいとなる。つまり郵便局とか銀行を窓口としたことがまちがいだった。証券は証券会社がやるべきものでありそこなら株の会社だから安全はないと素人でもわかる。ところが投資信託はあいまいであり窓口も郵便局や銀行だから安全だと錯覚した人が多いのだ。この責任は明らかに郵便局や銀行にもあったのである。そもそも株は素人ではもうからないようになっている。まず情報を分析したり得ることは素人ではむずかしいからだ。そこで素人をだまして株式に参加させて金をまきあげげようとした魂胆、確信犯的組織的結託があったのである。合法的であってもモラル的には大きな問題があった。でもあえて金儲けのためにしたのである。それだけ追い詰められていたということもある。いづれにしろ銀行員の言うことは信じられなくなった。「長くおくとまた株はあがりますよ・・・」長くおけば手数料がいつまでも入るから長くおいた方がいいとなるだけのことで長くおいても株が上がるとはかぎらない、でも今売ると損になるからそうしているほかないとなりさらに手数料はいつまでも入るからこれほどいい商売はないなとなる。まず銀行員はずるいとこの件では思ってしまった。

posted by 老鶯 at 18:13| Comment(0) | TrackBack(0) | 時事問題の深層

鈴虫


鈴虫のすずろに鳴くや我が耳に心地良きかな一日終えにき

 

鈴虫の声は気持ちよくひびく、自然は癒しである。野鳥がはげしく朝の澄んだ空気にひびきわたったのも自然の中での命に感動する。人間から聞こえてくるのはそういうものではない、
投資信託でだまされたというのもそうだった。銀行員は真面目な律儀な人がなるものだと思っていた。証券マンはそうでなくても銀行員は昔から堅い商売として信用されていた。それが株に手を出すようになってそうでなくなった。

 
「長くおくことが大事ですよ、そのうち株は上がるもんですよ・・・」長くおくということを常に言うがそれは結局長くおけばおくほど損しても銀行には手数料が入り損しないもうけになるということだった。それは実に都合のいい話でありだますものでもあった。人間社会はこのように嘘偽りが多いから自然とは違っている。言っていることとすることが違っている。岩とか樹でも山でも自然は真実を示している。だから常にそこには美がある。人間社会と自然は一致していない、調和していない、文明はいくら進歩したといってもカオスであり混沌であり美がない、人間もその職業自体自然と調和したものではない、証券マンとか銀行マンとかはいかがわしい職業だし宗教家も詐欺師的な職業である。政治家も嘘偽りが多い、職業としてまともであることがむずかしいのだ。職人とか農民とかは人間にもよるが素朴でありえるものなのだろう。
 
日々自然の声を聞いていれば自然に接していれば人間に乱れはない、乱れるのはやはり人間が自然から離れて別な世界を作ってしまったからである。エデンの園から追放されたというときそういう宿命を人間はすでに負っていたのだ。自然と文明社会はそもそも調和しないのである。耳はなぜ与えられたのか、嘘偽りの声を聞くためではない、心地よい鈴虫の奏でる音楽を聴くためだった。目も花々などを見るために与えられたのでありみにくい人間社会を見るためではない、人間は耳から目からも自然の中にあれば癒されるようにできている。心も脳も癒されて乱れことはないのだ。人間と接することが癒しとならず疲れる、不快なものとなるのはやはりまともな人間が少ないからだろう。まあ、この四年間めまぐるしく変化して疲れた。一周忌も終わりなんとか一段落した、またしてほしい、心地よい自然の音楽の中に浸っていたい、自然には真実があり癒しがある。

投資信託で大損した責任は誰に?
http://www.musubu.jp/jijimondai40.html#invest(時事問題の深層40)

2009年10月15日

秋の夕暮(相馬市山上村へ)


93の老母なお待つ虫の声


勤めたる女社長や癌になり看病に行く秋の夕暮

霊山へ玉野を通りつづく道相馬の境秋の陽没りぬ

山上の山陰の墓古りて高玉氏やその裔つづき秋の夕暮

佐須へ行く行合道の遠きかな伊達領に入り秋の夕暮

横川を入りてあわれや街遠く板屋とありぬ秋の夕暮
 
 

お手伝いさんは勤めていたのは土木関係でありその女性が重機も運転していたというからそこに勤めていた。そこに何度も泊まりがけで看病に行く、そんなに世話になったのだろうか?
友達でもそんなに看病してくれるのだろうか?暇だから行くということもある。雇う人と雇われる人があっても雇った人なのかそんなにまでして看病するものだろうか?それほど何か思い入れがあるのか?今一つ事情がわからない、でもそれだけ看病してくれるとなるとありがたいことだとなる。人間は雇われたものでも世話したものでも立場が逆転することは普通にある。世話したものでも世話されるようになるのだ。やがて誰でも人生の黄昏が秋がやってくる。かつて世話になった上にあった人も秋になるとこうして病気になったり零落している人もでてくるだろう。それが人生の秋なのだ。

 

相馬の道の駅から山上の方に上って行った。あの辺は行ったことがない、今田とあり今田村があったのだから古い地域である。坂を上ると山陰に墓があり天保の墓などあった。高玉氏の墓もあった。高玉氏は相馬では目立つ、その一族は玉野から飯館の山中郷にも広がった。記録にも残っているからだ。玉野は相馬と伊達の境だった。この辺の道はずっと来ていなかった。
宇多川をさかのぼると横川がありそこをさかのぼると板屋という地名がある。木を切り出し板をとっていた地域だろう。昔だったらここだって近いようで相馬の城のあるところからは遠いのである。

 
明日あたり晴れるからもう一回行ってみるか、結構疲れるようになったので苦しい、ロ-ドだと楽だがこれは暗いと危険である。つまづいたりしたら大怪我になる。