2022年08月12日

レバノンの国家破産危機の原因ー貨幣から見る世界史


レバノンの国家破産危機の原因ー貨幣から見る世界史

●レバノンの国家破産の危機





ヘロドトスは、著書『歴史』の中でリディア人のことを「我々の知る限りでは、金銀の貨幣を鋳造して使用した最初の人々であり、また最初の小売り商人でもあった。」と述べています。

 リディア王国が発明した貨幣(コイン)というアイデアは、その後ギリシャ、ローマに広まり、そしてペルシアや西北インドなどの西アジア政界にも広がりました

 歴史的には、用途によって特定の機能の貨幣があり、複数の貨幣を組み合わせていた[7]バビロニアでは価値尺度としての銀、支払い用の大麦、交換用の羊毛やナツメヤシなどを使い分けた
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%B2%A8%E5%B9%A3%E5%8F%B2


第一次世界大戦まではオスマン帝国領であったため、この地域ではトルコ・リラが使用された。大戦中にイギリスに占領されるとエジプト・ポンドが流通したが、大戦後にフランスの委任統治領となるとシリア・ポンドの発行が始まり、1ポンド=20フランス・フランの固定相場制をとった。これはシリアとレバノン共通の通貨であったが、レバノンでは1924年から独自の硬貨を、1925年から独自の紙幣を発行するようになった。当時はまだシリア・ポンドとの互換性が保たれていたものの、1939年には完全に独立した通貨となった。1941年、フランスがナチス・ドイツに敗北すると、レバノン・ポンドは8.83レバノンポンド=1イギリス・ポンドのレートで英国ポンドにペッグされた。1949年にはフランス・フランとの固定相場は放棄された。1975年から1990年の間、1ポンドは3アメリカ・ドルの価値があった。2006年、レバノン・ポンドは1アメリカ・ドル=1507.5ポンドのレートに固定された。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%AC%E3%83%90%E3%83%8E%E3%83%B3%E3%83%BB%E3%83%9D
%E3%83%B3%E3%83%89#top-page

国からの金銭給付と預金には年度に紐づけられているものがあります。もし預金者が満期日に自身の米ドルを引き出そうと思えば、銀行からは米ドルを市場から確保するか預金を米ドルに換金して口座内に留め置くよう言われることになります。つまり20日前に、レバノンはバウンド経済に突入したわけです
https://www.arabnews.jp/article/middle-east/article_3222/

レバノン国内には主なものだけで18の宗派が存在し、なかでも多いのは、国民の約55%を占めるスンニ派やシーア派などのイスラム教、次いで約40%を占めるマロン派などのキリスト教。そのほか約5%がイスラム教少数派のドゥルーズ派など他宗教です。

レバノンでは宗派ごとに権力を分散する体制をとっていて、大統領はキリスト教マロン派、首相はイスラム教スンニ派、国会議長はイスラム教シーア派から選出。国会議員数も1932年の国勢調査をもとに18の宗派ごとに割り振られる決まりになっています。

野菜やハーブを多用するレバノン料理や世界最古級の歴史もつとされるレバノンワインなど、料理を目当てにした観光客が多いです。特にレバノンワインは紀元前7000年頃からつくられていたそうで、オスマン帝国時代に一時途絶えたもののフランス統治時代に復活し、本場フランスワインにも負けない味わいだといわれています。

現在レバノンがある地域は、古代ではフェニキア人が土地を有していました。首都ベイルートも、もともとはフェニキア人が築いた都市。彼らは航海技術に優れ、レバノン山脈に自生していたレバノン杉で建造した船を用いて地中海に乗り出し、カルタゴ、バルセロナ、マルセイユ、リスボンなどに植民市をつくりました。

現在のレバノン人とフェニキア人には民族的な繋がりはほぼないとされていますが、レバノンの国旗にはレバノン杉が描かれています。

紀元前10世紀頃、フェニキアがアッシリア帝国に滅ぼされると、この地は新バビロニアやアレキサンダー大王、セレウコス朝シリア、ローマ帝国などが支配。7世紀頃にはアラブ人に征服され、イスラム化しました。

レバノン南部では、シリアやイランが支援するヒズボラと、イスラエルの紛争が継続。2006年にはイスラエルによる「レバノン侵攻」を招く事態に

https://honcierge.jp/articles/shelf_story/9399



  レバノンは国家崩壊状態にある、ではレバノンという国をどう理解するのか、フェニキア人がいたとしてもそれは関係なくなりイスラム国家になりアラブ人が主な人種となり支配している、ただイスラエルとの関係が悪くヒズボラが支配してどこの国なのかわからなくなっている
あの辺はとにかく歴史が古い、7000千年前にワインが作られたというのも驚きであるもちろんエジプトでは小麦がとれるからビールを作っていた

●貨幣から見る歴史

世界史でも貨幣から見ると興味深い、レバノンボンドというときそれはイギリスの支配下にあったからボンドを使っていた、ボンドは世界的には今のドルと同じ役割を果たしていた、世界基軸通貨ともなっていた、エジプトボンドを使われている
中東でもイギリスの支配があったからだ

私はイスラエルの港から船で一時キプロスによった、そこで7時間位船が停泊したのだ
そこで金を使うにはイギリスボンドに変える必要があった、それでドルからだったのか交換した、まずドルが世界基軸通貨だから世界的に通用しやすい、だからこそドルに交換しないと世界では通用しないとなる、その役割が前はボンドがしていたのである
また世界で英語が共通語のようになったのはイギリスが七つの海を支配したからである
キプロスはすでに中世でも十字軍がキプロスを支配したことがあったから古い

1191年、第3回十字軍の途上にキプロス島沖を航行していたイングランド王率いる船団の一部がキプロス島に漂着し、僭称帝により捕虜とされてしまう。これに対してイングランド王リチャード1世(獅子心王)はキプロスをわずか5日で攻め落とし、以後キプロスの領有権はイギリス王に帰することになる。キプロス島はギリシャ正教会からカトリック教会の支配下となり、東地中海でのキリスト教国家の「基地」としての位置を約400年間果たすこととなる

もともと中東は文明発祥の地だから古い、何かどこに立っても歴史を感じるのが中東でありヨ−ロッパであり中国だとなる、日本では歴史が古いとしても二千年前となると縄文時代でありそれが文明なのかどうかわからない、すでに中東やヨ−ロッパでは高度な文明が生まれていたからである、
今はキプロスはユーロ―になっている、2007年まではキプロスポンドを使っていた
となると確かにその頃行ったのだからユーロ―にはなっていない、ヨ−ロッパも旅行したときもユーロ―ではなかった、だから国が変わるごとに両替していたからめんどうだったでもそのことで別な国に入ると意識したのである
やはり国境とかでもないとかえってつまらないとなる、いよいよ国境を越えて別な国に入るとなる緊張感が生まれるからである

ドラクマという名前は「つかむ」という意味の動詞「ドゥラットー(ギリシア語: δρャττω)」に由来している。これはもともとドラクマが手のひらいっぱいの量の金属塊にあたる6ゴーコスに相当したからである。オボロイ(単数:オボロス)は、紀元前11世紀以降使われていた通貨単位である。

紀元前5世紀以降、アテネでつくられた四ドラクマ硬貨は、アレクサンドロス大王以前のギリシア世界でもっとも広く用いられた硬貨であった。このコインでは、表にかぶとをかぶったアテナ女神の胸像が彫られており、裏にはアテナの使いフクロウの像が彫られていた。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%89%E3%83%A9%E3%82%AF%E3%83%9E



コインの旅

キプロスで一時船が停泊して
イギリスボンドの貨幣に変える
7時間ばかり滞在する
次にギリシャのアテネの露店で
何かを売っている
ドラクマを出して買う
そのドラクマの歴史も古い
アレキサンダーはインドまで遠征して
その貨幣が流通する
イギリスのボンド、アメリカのドルと同じ
ベトナムで中国だけではない
日本の貨幣も使われていた
重い金属の貨幣があり運ぶのも容易ではない
国々をめぐり貨幣は変わる
それが旅の思い出となる
またそれぞれの国の歴史を想うようになる
南の島で石貨がある
それは流通しない飾りとしてある
金は交換の道具
だから様々な国と歴史を語る
世界で貨幣のない国は今はない
でも未開の国で貨幣をもっていっても
通用しない所があるだろう
貨幣にはそれだけ長い歴史がある
塩と金が対等にアフリカの砂漠で交換されたと
つまり貨幣がなければそうなる
物々交換になる
ネパールの山岳地帯では物々交換が活きている
交通は容易ではなく閉ざされるから
交通が発達しないと貨幣も流通しない
ともかくいろいろな貨幣と紙幣が残された
でも価値があるのはドルである
ドルはエジプトの果ての辺りで
ロバに乗った少年がワンドーラ―くれと叫ぶ
アフリカの果てまでドルは通用する
アメリカが世界の覇権を握っているからだ
またなぜアンティークコインが安定した価値があるのか
それはやはり貨幣の種類でも中東ヨ−ロッパでは多い
トルコのエフェソスではローマの重厚な遺跡が残っている
そこでローマの貨幣を露店で売っていたが
それは偽物だったから損した
でもあれだけの荘厳な遺跡があると
その貨幣も価値あると思ったのだ
貨幣には何らかの裏付けが必要である
貨幣自体が金とか銀とかであれば価値がある
でも鉄のコインとかではそれ自体に価値がない
だから日本ごと小判であり
石見銀山の銀が価値があり世界から求められた
貨幣のことは語り尽くせない
それだけ貨幣は人間の歴史とともにあったからだ
世界の歴史が貨幣という物から物語になるからだ



キプロスにおける古代貨幣製造はBC6世紀頃に始まったとされています。当初のコインはキプロス文字の銘文を記したタイプとなっており、その後、ギリシャ文字に変化して行きました。

1878年に入ると英国(イギリス)が行政権を獲得し、1879年の3種の青銅貨が発行され余した。その後、1950年までキプロスのコインには英国王(女王)の肖像が描かれることになりました。

ドラクマが手のひらいっぱいの量の金属塊にあたる6ゴーコスに相当したからである

ベトナムで金属の塊りが貨幣になっていた、骨董品を探して回る日本人がいた
その金属の塊りは持つだけで重いしとても持ち運べるものでもなかった
金属が貨幣になり金属そのものがもともと価値があったからそうなる

●国が崩壊するとどうなるのか?

レバノンという国が崩壊しつつあるのは理由は政治がうまくいかない、宗派対立があり
宗派でコミュニティがありその利権があり対立する
4っつくらいに分断されてまとまらない、そして援助したとしてもその金も上の方で一部のものに奪われてみんなに回らない、政治が機能していないからだという
宗教というのは利権化して利権対立になり争う、中東とヨ−ロッパはキリスト教とイスラム教の対立がありまとまらない、絶えず争いがあり戦争があった
日本という国はこの大陸の歴史からはずれていて熾烈な争いからまねがれていたのであるそれで明治維新になり日露戦争とか太平洋戦争となりその争いに巻き込まれたのである
日本はそもそも国際性が養われないのである

中東とかヨ−ロッパの歴史をみればわかる、民族でも様々であり四分ごれつして戦っていた、絶えず陸で国境を接して争っていた、それで悲惨なのだけど国際性は養われたのである、レバノンは外国に出て稼ぐ人がいた、それがカルロスゴーンだったとなる
莫大な富を得たからである、でもその故国のレバノンは悲惨な結果になっている
政治に宗教がからんでくると複雑怪奇になってくる
政治経済に宗教がかかわると経済合理性とかは無視される、科学的なことでも宗教がかかわりガリレオが地球が回っているとしてカトリック教会から刑務所に入れられた
つまり近代はこうした宗教支配から脱することだった
経済合理性と科学とまた宗派で対立するのではなく人権が重んじられるようになりフランス革命はカトリックに反発するものとしてあった
イスラム圏で政教一致だから経済でも科学でも停滞して発展しないのかもしれない
つまり近代は宗教と経済と科学とかを分離することになったのである
宗教が利権と結びつくとこうして政治でも介入して利権争いになる、宗派対立は利権利益の争そいになる
互いに宗教が絶対だとすると譲らないからである、聖戦だとかなり政治的妥協もなくなるからである

レバノンで注目したのは国が破産状態になるとどうなるのかとういことである
水不足になっているのは浄水場などを機能させる人材がいなくなったとかある
水はあるが浄水できないのでウィルスとか毒が交じっていて飲めないという
また電気が使えないので浄水できないとしている
つまりエネルギーとか水が得られないと国家破産状態にもなる
日々の生活に水は不可欠でありエネルギーにしても電気がないと何も動かなくなる
そしてレバノン人の優秀な人たちは脱出している、国を見捨てている
それはロシアでも起きた、ウクライナと戦争になり何十万人がエリートが脱出したとしている、大陸では民族移動がありそれで国も変わる、もともと遊牧民国家の人民は移動するだから移動するのに抵抗がないとなる、日本は島国であり海に囲まれていて脱出できないとなる、だから一億総玉砕とかになったのである、大陸だったら国から脱出するからである

いづれにしろ国が破産する崩壊するとどうなるのか?

そのことを他山の石として学ばねばならない、日本でもそうなるかもしれないからだ
日本は何か実際は相当な危険な地理にあった、ロシアと中国にはさまれアメリカに支配されたがアメリカは本国は遠い、アメリカは大陸と分離した島国である
だから直接攻撃されて戦争しても本国には被害がなかった
ロシアとかだ二千万人がヨ−ロッパから攻められて死んだとかある
戦争とは人間が大挙して移動することでもある、だからこそ遊牧民は戦争に強かったのである
日本の経済が低迷して貧困化して日本国家が破産するとかまで言われる
そういう機器がるときレバノンのことも無関係だとは言えない
レバノンも宗教のことで分裂しているが日本だって統一教会とか創価とか他の宗教団体もありそれらが衝突しないとも限らない、なぜなら中国派とアメリカ派に分断されるからである、創価は中国につき幸福の科学は右寄りであるからアメリカ側になるののか、ともかく日本は大国によって分断されることがありうる
時代劇で大藩にはさまれた小藩がただ大藩の言いなりになるだけで搾取されると嘆いていた、小藩の悲哀が江戸時代にもあった
だから日本がそうした危機が来るのではないか、戦後75年は冷戦などがあり米ソ対立で日本は直接戦争に巻き込まれなかった
でも米中対立とかでは必ずまきこまれる、台湾有事ではもう逃れられない、隣国だからである

日本でもエネルギーが石油でも石炭でもガスでも入らなくなると危機になる
でも原子力発電は危険度が高く失敗した、ウクライナも遠いからと傍観しているが何か日本もウクライナになるのではないか、アメリカは日本を中国と戦争させたいとか言う人もいる、ウクライナの戦争はアメリカがかかわりロシアと対立したからである
日本は明治維新で危機になり70年過ぎて太平洋戦争になり焼野原となった
そして戦争から75年過ぎて大きな危機にみまわれる
それが津波とか地震でも原発事故とかで現象化して次に経済危機から戦争ともなる
それでレバノンであれスリランカであれよそ事にもならない
同じような不安が増大しているのである

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レバノンは世界最大のポンジスキームだった! 世界銀行がレバノン政府の詐欺行為を強く非難【越境3.0チャンネル】
https://onl.bz/nTT2KyF

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2022年08月11日

2022年08月10日

盛夏の俳句と短歌(白鷺、夏霞、蝉の声、夏の月) (暑くて外に出れず部屋に籠もる)


盛夏の俳句と短歌(白鷺、夏霞、蝉の声、夏の月)

(暑くて外に出れず部屋に籠もる)

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右田浜に新しくできた沼
ここにアメンボウなどが棲みついた
ただ脇に風車があるから風景としては良くない

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舗装されたサイクリングロードはいい

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なべかんむり山が見えるけどこの辺は高い山がない
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夕方に霞んだ山脈

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きれいに見るにはクリック拡大




暑ければ海に向かいぬ浜通り

草深し蟹横切りて隠る夏

白鷺の川面に映し去りにけり

夏霞山の高くも見ゆるかな

ヒグラシ屋形の森に鳴きにけり

下り来て河口の広く夏の月

草深き夜道を行きて夏の月

老鶯や草深し里月光る

大窓に映りて二階や夏の月


白鷺の木にとまりけり一時や川風涼しまた飛び去りぬ

アブラゼミミンミン蝉や我が部屋に聞こえて今日はニイニイゼミかな

一夏に4種ほどの蝉の声我が聞き分けて部屋にいるかな

草深し鶯鳴いて隠されし花も眠らむ月の光りぬ

昼顔の四五輪咲きて草深し今日またここに我は来たれり

新たにそ沼やあまたのあめんぼう波紋交わり生きにけるかな


暑くて外に出れない、ただ晩方頃涼しくなるので自転車で海の方に向かう
舗装されたサイクリングロードはいい、でも河岸は草に埋もれている
合歓の花は散った、あそこの真野川の土手の道には合歓の木がいくつかあり咲いた
その岸辺は夏草にうもている、白鷺が川面に影を映して毎日一羽来ている
遠くを見ると山脈が霞がかかり夕暮れになる、その時なぜか山が高く見えた
この辺では高い山はない、400メートルの鹿狼山が高いから遠くからも見えるだけである、ただ蔵王が見えるのだが夏は雲に隠れて見えないのである

夏草というとき草深しになる、そもそも草深し里である、南相馬市でも原町区はもともと市であり相馬市は城下町であるから感覚的に違っている
例えば季語にしても「夏草や兵どもが夢の跡」とかなるにしても今はそういう感覚はない
あまりにも遠い昔のことだからである、だから俳句とかでもその時代でしか作れないものがある、その価値はもうそういう時代がないのだから再現できないのだから貴重だとなりその価値が衰えないのである
でも現代は俳句でも文明化して自然が映えないからそういう価値あるものは作れないともなる
鹿島区となると草深し里となる、飯館村はまた高原の村でありそれで涼しいとなる
だから海があり山がありとこの辺は変化にとんでいる、ただ高い山がないのでものたりないとなる、その代りとして一応蔵王が見えるのである
老鶯は俳号にしたが今は天華である、何か老いて鳴いていると確かにあっていたのだが天華の方がいいとなる

今日も暑い、34度くらいになる、もうっとして外に出れない、自転車で夕方に近くを回るだけである
ただ部屋にいても蝉の声は聞こえるようになった、油蝉、ミンミン蝉、ニイ蝉、ツクツクボウシとかである
もうお盆であり秋ともなるが今年は夏が遅い、蝉の声も少ない
それより小さいモンシロチョウなどが少なかった、わずかしか見てない
でも黒揚羽は結構見た、黄揚羽も二三羽見た、黒揚羽は結構見ている
本当にモンシロチョウ類はまれにしか見なかった
何か異変があるのかとなるが全国的にそうらしい、一地域のことではない
また鮎は放流したがその鮎が成長して上ってこない、だから川には魚がいないから淋しいとなる、やはり鮎とか岩魚とかが住んでいるのは会津の山の方がいい、川でも激流などがありいい、でも今は行けない、ウィルス騒ぎで行けない
それよりももう自転車では行けない、体も弱り行けない、また家を留守番する人もいないので行けない、結局自由に旅できたのは姉と母がいた結果だった
介護になって十年その後も何か行きづらくなったのである

ともかく暑いから夜も外にでる、夏の月がでている、田舎だと夕涼みとかなる
都会だとこうはいかない、散歩する場所がない、それで恵まれているのだ
ただ暑い時外で仕事している人がいるが苦しいと思う、また必ず田舎でぱ草刈りがあり
これもこれだけ暑いと危険にもなる、熱中症になる
私は二回くらい前に痙攣したので警戒している、でも運動は必要なので夕方に海の方に行くのである
でも松原も津浪でなくなり涼む場所がない、日影の場所がない、風車が回っている
ただそこに新しい沼ができた、そこにあめんぼうがあまた波紋を広げ泳いでいる
トンボも飛んでいる、何か前もそうだったがこうして水辺ができると昆虫が集まってくるのである、ただ風景としては風車とかあり自然の状態ではない
この辺は風景が変わりすぎたのである

2022年08月09日

高校野球は地域代表ではなくなった (高校野球に人生を見るー聖光学院と日大三高戦を見て)


高校野球は地域代表ではなくなった

(高校野球に人生を見るー聖光学院と日大三高戦を見て)


高校野球は見る方にすると面白い、聖光学院は福島県だけど図を見ればわかるように
福島県出身は三人しかいない、意外と宮城県が多いとみる
宮城県なら東北なのだから大阪とか遠くからの留学生のような人よりはいいとなる
高校野球は前は公立高校の磐城高校でも準優勝とかあった
池田高校も地方の公立高校であり一時優秀もして熱狂したそういう時代はもう昔になった
だから高校野球は全国の地方代表が戦うものではない、全国の選ばれた野球エリートが
地方の私立校に所属して戦うだけだとなる
地元とは関係ないともなる、めうしなければとても強豪チームには勝てないからだ
日大三校は強いと見ていたが意外と聖光学院が強かった

春夏通算3度の優勝・3度の準優勝を誇る強豪校として知られています!

日大三校は強豪チームだった、でも最近東京勢は強いと見えない、勝ちあがってこない
でも日大三校でも東京出身者が5人しかいなかった
これも意外だった、東京だったら人材が集まるかと見ていたらそうではない、全国から野球エリートを集めていたのである
東京すら東京に住んで育った人が出ているわけではなかったのである
そうなると高校野球は一体地方代表でもない、野球エリートが全国の私立校に散って争うプロのようなものなのかとなる
東京すらそうなのだから他はもっと地域の代表ではない、そうなると高校野球は何のなのだろうとなる

聖光学院と日大三高の戦いを見て面白かったのは甲子園特有の浜風が吹いてそれに左右されたことである、それで風にのって大きく伸びたこともあるがさえぎられたこともあったまたライトの方に風が吹いて外野の選手がフライをとれなかった
また盗塁があり二塁になげたが失敗したのは甲子園の球場は勾配がありそれで捕手の玉が高くなったとか地形の影響まで解説していた
それで甲子園で練習していないと損だとも言っていた、すると甲子園で練習している関西の高校は有利なのかとなる、今回は甲子園で練習できなかったからそれで不利になっていると解説していた

ここに私が注目したのは風土とか地理にか関心があり戦国時代の戦いでも必ず地の利が関係してまた天候も関係している、信長の桶狭間の戦いも地の利とその日の天候で勝ったとしているからだ、その他関ケ原の戦いとかも天候が関係していたとかある
勝敗は必ずしも簡単に決められない、時の運が作用するからである
ただそもそも本当に実力がなければ勝てないことはある、高校野球でもいくら運が作用するにしても実力が基本にないと勝てない、だからこそ全国から野球エリートを集めて精鋭部隊を編成しているから強いのである

ともかく私は野球が見ていて一番面白い、見て面白いスポーツだと思っていた
ただ高校野球はそれだけではない、プロ野球とは違った要素がある
その一番の特徴は一回限りのトーナメント制の勝負だということである
一回負ければ即退場になってしまう、そこに緊張感が生まれる
そこで一戦一戦全力を尽くすことで真剣さが生まれる
人生も実際は一回限りの真剣勝負だからである、そしてチャンスをものにしたものが人生の勝利者にもなる

だからチャンスにヒットを打つホームランを打つということが最高に印象的になる
いかにチャンスにヒットするかこれが人生でもある
それもそのチャンスは一回限りの勝負だとなると余計にそうなる
人生でも重大なチャンスは一回か二回なのか本当にない、そのチャンスを逃すとチャンスはもう後はないともなる、そのチャンスは若い時に30くらい前までである
そのチャンスを逃すと後はないとなる、何回もチャンスがある見ているが意外とないのである、だから就職でも新卒で大企業に入れないとしたら一生しょうぼい会社で過ごすとかなるのである、これは別に大企業でくなしてもやはり30前まで人生の方向が決まってしまのである、だから今は引きこもりが多いけど20代で就職に失敗したりすると一生引きこもりになる、これも怖いことだと思った

スポーツでも人間のドラマになる時にる時興味深いものとなる、ただ正直後のスポーツはそういう興味が感じられない、サッカーでもそうである、ただサッカーでも一回シュートを成功することで勝負が決まるとかやはりそれもチャンスをものにしたということである一回のシュートが勝敗を決めるとなるからだ、その時やったとなる
いづれにしろ高校野球に野球エリートがこだわるのはわかる
つまり甲子園という大舞台に出るだけで本当に選ばれた人となるからである
そういう舞台は人生で一回限りなのである、そういうチャンスは与えられないからであるだから甲子園に出た人は最高の思い出となりヒットを打ったことでも忘れられないものとなる、そういうことで人間臭いものがあり高校野球に惹かれることがある
人生をふりかえれば30とかまでは青春は得難い時間だったとなる
「少年老い易く学なりがたし」というのはあらゆることに言えるのである
青春などあっというまに過ぎるからである、だから何であれ青春時代に打ち込むことがあり懸命にスポーツであれした人は後でその時のことが忘れられないとなるのである
なぜなら後は意外とそうした大舞台など人生にはないからである

ただ最近は野球は見ていない、どうしても福島県の高校が戦うとういことで見た
それも実際は違っていたのである、だから将来的には今でも現実的には地域の代表ではない、でも強くないと勝てないのだからそうなった
それで将来的には地域の代表の戦いとなれば東北ブロックとか関東ブロックとか中部ブロックとか分けて代表を選び戦うようにすればいいのかとも見る
もう県代表では勝てないからである、聖光学院に宮城県出身者が多いことでもわかる
そうなると東北の代表なのかともみるからである
そもそも高校野球は県の代表とかみているけど実際は違っている、それは錯覚なのである地域の代表同士の戦いではなくなっているのである
ただ高校野球自体には魅力がある、見ていて面白い、エキサイトするスポーツだとなる


センバツ「私学と公立の格差」埋まらぬ根本原因
https://toyokeizai.net/articles/-/419878?page=4

聖光学院出身高校
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宮城が二人と山形県がいるーこれは一応東北勢であり
地域代表になる、東北ブロック代表となる

日大三高出身中学
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東京も関東地方が多いから関東ブロック代表ともなる
ただ沖縄とか大阪からも来ている

posted by 老鶯 at 16:22| Comment(0) | TrackBack(0) | 時事問題の深層

2022年08月08日

政教分離とは何か (宗教と法律の問題ー宗教は心の内面を追求する)


政教分離とは何か

(宗教と法律の問題ー宗教は心の内面を追求する)

●法律と心の問題

法律とは何か、それは強制力を持っていることである、法律に違反すれば罰する力を持っていることである、権力で執行する力はを持っていることである
宗教とは何かとなれば様々な罪があるとしても法律に触れなければ罰すること刑罰を与えることはできない、ある人を恨んでいても殺したいと心でも思っても罰せられない
現実に人を殺した時罰せられる
でもあるインドの思想家は心で思ったことは必ず影響する、誰かが殺したいという念を強烈に持つと誰かにその念が伝わり殺すこともありえると言っていた
それだけ念は目に見えない具体的行動とならない場合でも罪だとなる
心で女性を犯したものは実際はそれも罪だとしている

こうなると誰も罪がない人はいない、それで不思議なのは自然界では罪というのはない
動物でも他の動物を食べるにしてもそれが罪とはならない、そうしなければ生きていけないからである、ただ自然界には人間のような様々な悪念はない
自然災害にしても人間を恨んで災害を起こしてはいないのである
津浪でこの辺で多数死んで海を恨んだという人もいたが自然を恨んでも無駄である
それよりなぜ人間が自然災害に備えなかったのかと人間を責めるのである

ともかく人間の思想とか念とかは相当に影響するから怖いのである
それが例え犯罪にならないとしても逮捕されないにしてもそういう念を持つことが危険になる、それで韓国でも中国でも戦争の恨みがありそれで日本に復讐しようとする
そういう念を政府が過剰に作り出す、そして日本人は謝るべきだとなり統一教会ではそれを宗教として正当化して韓国をアダムの国として日本をエバの国としてエバの国は韓国に尽くすのが当然だとして金を奪った
韓国では常にそういう念があり今の国だとしている、常に侵略されてきた歴史があるからだ、そういう念があると全体に影響して全体が恨みの念となり日本人は謝罪するべきだ
金を奪ってもいいのだということが正当化される
そうした集団的念が過剰に政府からでも作られることが怖いのである
それは別に行動にならなければいいというがいつか中国でも日本人を標的にして暴力にもなったし韓国でもなる、結局その集団的念が戦争になってゆく
つまり戦争とは外国に対して国単位で集団で全体に念が大きくなり強くなり本当に戦争となり外国人は殺してもいいとまでなったともなる

韓国人に最も顕著な、他の民族にはあまりない特徴といえばやはり「恨(ハン)」の精神であろう。

この恨(はん)は個人的なことではなく歴史的なものであり国家的恨(はん)だとなる
個人的恨みは批判されることがあるが国家の歴史的なものは肯定されるとなる

●心と念の問題

宗教というのはキリスト教でも仏教でも他の宗教でも法律ではない、法律の基であっても宗教に強制力はない、逮捕することはできない

「お前は人を殺したいとかの念を持ったから逮捕する」

こうはならないのである

なぜカルト宗教団体が問題なのか?それは法律にふれるから問題なのか?
オウムのように武装して権力得て日本を支配してその教祖が王になるという思想があったそれを具体的に実行しようとして武装化して本当に反対者を殺した
でも思想信教の自由というとき心で思っていただけらならそれが危険思想でも自由民主社会では罰せられることはないのである、刑罰も与えられないのである
宗教と政治の問題が政教分離でもわかりにくいのかというとそこに宗教とは本来どういうものなのか明確にしていないからである

宗教とは個々の心の問題であり政治や法律は現実社会で具体的に適応して執行力がある
でも具体的に心で人を殺したいと思っても恨んでも別に法律でそれが現実化しないかぎりかかわらはないのである
政教分離のむずかしいのは政治と宗教を分離するというけどそれがどういうことなのか明確ではないからである
別に現実に罪を犯すにしてもそれが具体的なものとなり他人を傷つけて殺すとなると犯罪として認定されて罰せられるのである
でも別に心で個々人でも集団でもどう思うかは関係しない、でも推理ドラマでは必ず殺人でも動機を調べる、それはどうしてどういう心から犯罪を犯したかを問題にするからである、それは個々人の心と関係しているから動機を必ず問うのである

カルト宗教団体の問題は思想の問題でも日本は韓国を戦争で苦しめたのだからその贖罪として金でも寄付すべきだとしている、日本人は謝罪すべきだというのはいいとしてそれがた現実になり金を献金するのはその贖罪のためだとなったとき問題が起きたのである
思想が思想のままではありえない、現実化して具体的なものとして行動になったからそれは犯罪と同じだとなった
人間は思想を軽いものとみる、人の思いは念はたいしたことがない、ただ心で思っているだけにすぎないとかなる、でもそれが必ず行動になるとインドの思想家は言っていたのである、阿部前首相を殺した人はその積年の恨みが積もり積もっていたのである
その激しい恨みの念がありあういう行動に出たのである

今政治と宗教の問題になっているのは政治がかかわるものと法律がかかわるものと宗教がかかわるものの区別が明確になっていないからである
一緒くたになっているからである
カルト宗教の問題は思いとか念にとどまっていればいいがそうではない、具体的に政治にかかわり御利益を得ようとする、それが政治権力として創価なら国土交通大臣となっていることである、宗教が心の問題ではない具体的な権力を得て施行できる立場にある
それは明らかに宗教団体の代表がそうなっているのでありその権力を利用して組織団体の力を増大することができる、だから宗教団体が国からいかなる特権を得てはならないということに政教分離の法律に違反していることは確かである
すると法律は執行力があるのだからそうしてはならないと政治に対して検察側が止めるべきだしてそういう地位につかせないようにすることである
つまり法律は無視されて執行もされないということである
だから法律など別に力があれば無視できるとなりそれは民主主義社会の崩壊に通じている三権分立は機能していないとなるからだ

●他者を地獄に落ちるとか脅迫することは犯罪

ただどんな思想を念を持つにしろそのことで具体的な犯罪とならない限り法律で罰することも刑罰を与えることはできない、だからどんなことでも思っても念など関係ないとか
現実にはなるが人間は動物と違って念とか思想の力が大きく作用する
それが人間の特徴なのである、カルト教団の危険なのはその念と思いが集団化組織化していることである
だから何か反対すると創価でもそうだし統一教会とか幸福の科学でも猛反対して組織的集団的に地獄に落ちるとか罰が当たるとか脅迫するのである
つまり宗教はそもそも他者を呪ったり恨んだりしないことが基本としてある
でも宗教になると平気で地獄に落ちるとか罰当たるとかいうのである
宗教が現実社会に適応されると心の問題内面の問題にとどまらない、なにかと言うと地獄に落ちるとか罰当たるとかいうのである、じれで呪縛される人がいる、洗脳される人達がいて問題になる

ただ不思議にそういう人達も実はその地獄に落ちると罰当たることを恐れているのであるとにかくささいなことでもカルト宗教とかなると何か不満があると相手に対して地獄に落ちるとか罰当たるとかいい、相手が不幸になることをみんなて喜ぶのである
それは仏法に逆らったからだとして信仰の問題にするのである
現実社会に宗教が適応される、人間にはいろいろな不幸がある、それをいちいち宗教的に判断する、成功したら福運があり信仰のおかげだとなる、でも商売に失敗することもあるするとそれは信仰がないからだったとかなる、つまり経済のことでも宗教を適応するのである、宗教をあらゆる世俗の世界にもちこみ判断する、宗教も経済てもなんでも一体化するのである
だから何か不満があると反対があると簡単に地獄に落ちるとか呪ったりするのである
人間はともかくいろいろあっても恨んではいけないとか言うのが本来の宗教である
ただそれが実行するとなると最高にむずかしいからみんな何か得すること利益があることが宗教だとして入るのである

要するにカルト宗教団体は確かに外国では禁止されている、統一教会も創価もフランスなどではカルトとして法律で禁止されているのである、世俗社会に宗教をもちこむとあらゆることが宗教と関係づける、そして常に不満があり反対する者は地獄に落ちるとか罰当たるとか脅迫する、そのこと自体が大きな犯罪とも思うのである
何か確かに具体的に殺すとかしなければ犯罪にはならないがそれは宗教的脅迫でありそういうことを口にしてはならないことではないか?
実際に人間を裁くことは神しかできないからである、だからはそういうことを平気で言うカルト教団は強迫団体なのでありとりしまるべきだとなる
脅迫罪というのが現実にあるからである

●世俗化された宗教はナチスにもなる

いづれにしろ集団組織化したカルトは具体的に心だけではない金銭を要求して収奪する
また政治権力を得るということは政教分離に違反するのである
それは心だけでない、具体的に権力を得ることであり権力を行使できる地位を得たことになるからだ、それは政教分離の法律違反だから取り締まるべきなのである
でも自民党はそれをしていない、票をもらえるからそうしている
統一教会でも票をそんなに持っていないのに選挙運動を手伝うとかして自民党に相当に影響していた、ただそんな力が10万くらいの信者の規模であったのかという疑問はある
ただ法律的には多額の金を献金させていたことは具体的でありそれは法律で取り締まるべきだとなる
権力を持てば罰があたるとか実行できるようになる、国土交通大臣なら大きな力をもっているから公明党に票を入れるなら仕事を与えるとかなる、応援しないものには罰を与えるともなる、予算でも公明創価に有利なように配分することになる
福運を団体組織の利権化することができる、第一そうしたいからこそ毎日選挙運動している

ただ思想にしても創価だと日蓮の教えが王仏冥合であり王は政治のことである、そして国立戒壇を目指しているのである、すると現代の政治からすると法律違反になるのである
でも信教思想の自由があるとしたら別にそれも認めさせることができる
選挙で勝てば数で決めるのが民主制だとするとそういうことでも決めることができる
そして数が万能になるとき遂に民主主義の選挙で法律に違反することなくナチスが生まれたようになる、それは合法的政権だったのである
だからすべてが数が多いからといってそれで決めていたら大惨事になる
「赤信号みんで渡れば怖くない」となってしまう
だから何らかの歯止が必要なのである、それが法律なのだがその法律も万能ではない
法律が執行されていないし法律も数によって変えられるからである
だから法治国家といいっても法律も実際は通用しないときどうなるのか?
結局数であり遂に暴力が決めるとなる、それで山上の行動が快挙だとして賞讃されるのは結局選挙でも政治は変わらないからである、そして政教分離などの法律も有名無実であり阿部前首相は最高権力者となり司法でもその悪事に手を出せないとなっていたからである
宗教とはどうしても内面から心から規制するものである、法律とか政治は外面的に規制する、いくら政治でも法律でも外面的に規制しても人々の心を変えることはできない
心が清いものが神を見るだろうという時、その心が清いということは内面的なことであり外からの圧力でできることではない、だから宗教の役割は外面的なものとして政治権力とか世俗的力で経済力でも変えるのではなく心で本当に悔い改めるとかするのが宗教だとなる、そういうものとして宗教がありそれはキリスト教でも仏教でも他の宗教でも同じなのである、ただ現世的なものの力があまりに強いから現世利益の宗教になってしまったのである

心の清いものは神を見るだろう

神は個々人の心を見ている

心の貧しい者は幸いである

悲しむ者は幸いである

・・・・・・・・

これは外面的なことではなく心の問題としてそうなったのである、宗教というのは思いとか念を浄めることなのである、山伏でも六根清浄を唱えて山で修行することは心の問題をとして宗教があったからである、心を浄めるには大都会ではできない、清浄な自然でしかできないからである
でも人間は現実社会に生きることはどうしても世俗とかかわりそこで宗教も世俗化して
現実社会にかかわり心の問題として宗教があったときまるで違ったものとなったのであるむしろ人間の思いは念は御利益権力志向になる、思いとか念を軽く見るのである
それより現世で金持ちになりたいとか高い地位につきたいとか美人と結婚したいとか様々な欲望を具体的に達成したいとなる、それがまた信仰にもなったのがカルト宗教なのである、だからこそ何百万人も集まらない、票にならないからである
世俗的欲望達成のための宗教となってしまったのである
ただ別に世俗社会だったらそういうことも容認される、でも宗教本来の目指したものとは正反対なものでありそれで矛盾しているのである、理論的にも崩壊しているのである
だからこそナチスになっていったのである、そもそもこうして矛盾しているのだから
いつかその矛盾から理論的に崩壊して破綻してしまうとなる
その破綻にしてもナチスのようになることが怖いのである

●宗教団体組織に頼っても問題は解決しない

ともかく宗教とは何かとなるとき心の問題とか内面的なものだとか言っても現実社会ではバンの問題であり日々の生活が優先されるから宗教もその庶民の日々の問題に適応する
いくら高等なことを言っても日々の生活に足しになるかどうかで決まる
生活に困っていれば援助してくれとなる、だから生活保護者が多くもなる
創価とか共産党に頼めば優先的に受けられるとかそうした日々の生活で足しになることで頼り一票にする、心がどうのこうのとか高等なことでは票は集められないからだ
でもそれが極端になるともう心の問題だった宗教が世俗以上に日々の生活のことになり
それで御利益を受けることしかなくなる、そうして創価とかではどうなったのか?
権力を奪い御利益を配分することが目的になる、だから権力異常に執着する
つまり世俗よりも世俗的になり宗教はただ世俗の御利益を得るための手段となる
そして何か反対すると批判すると地獄に落ちるとか罰当たるとか何百万人の会員が攻撃してくるから怖いのである、別に宗教と関係なく底辺層でも相談にのるとかはいいのである宗教がかかわるとややこしくなる、その区別ができなくなるから問題なのである

例えば社会で生きていれば必ず事業するにしても成功失敗はある、それがいちいち宗教に関係づける、信仰があれば成功する、なければ失敗するとかなる
すると事業で成功するには拝むことになる、そして成功した人は持ち上げられる
でも悲惨な失敗もある、その方がこの世では多い、会員でも実際は悲惨な失敗も多いのである、別に会員になっても問題は解決しない、かえって悪いことが起きることがある
近くで会員になったらすぐに息子が若くして病気で死に母親も死んだとかある
他でもそういうことは無数にある、交通事故だって学生時代に創価の人が死んだ
でもそれでも成仏したとかこじつけていたのである、その会員を見ても様々な問題は解決していないのである、むしろ悪くなっていることもある

それはそれぞれの家族とか個人のカルマが影響しているからかもしれない、自分の時はそうだった、なんらか家族とか親戚のカルマを受けて苦しんだとなる
だからそれぞれの問題は一様に解決はできない、一様に解決しようとしているのが組織団体として解決しようとして個々のカルマがありできない
共産党でもみんな平等にしようとしても結局共産主義が失敗したのは個々の運命とかカルマが違っているからである、そういうものを一様にできないからである
ただ苦しい人は藁をつかむ思いでそういう団体に頼る
女性だと頼ることが習性になっているから余計にそうなる、統一教会で息子が事件を起こした女性は夫を早く亡くして頼る人がいなくなりそうなったらしい
人間が困ったら組織団体で何でも解決してくるのか、結局上の人達はそういう人達を利用して議員になったりして得するだけだとなる、それは共産主義でも同じである
貧困ビジネスだという人もいる
問題になった女性は金はあったのである、一億円も献金していたからである
では何が問題だったのか?それは夫が自殺してそれで頼る者がいなくなりそうなった
でも金はあったのだから困ることがなかった、だからすべてが金の問題でもなかった
その解決方法は別にあったし統一教会に入ることではなかったのである
ほとんどの問題が金で苦しんでいる時、この女性自体の問題だったのである

悲しむ者が幸いだとなぜキリストが言ったのか?

そもそも人間には悲しむことが必ずあり愛別離苦がありそういうことはすべて金で解決できない、この女性は金持ちであっても解決できなかった
そうして解決できないことがあり悲しむ者となる、でも神はその涙をぬぐいたもうというとき救いがある、でもカルト宗教団体ではただそういう人達を利用して自分たちが得することしか考えないのである、だからいろいろ苦しみ困っている人達を勧誘するのにはいいのである、藁にもすがり助けてもらいたいとなるからだ
でも現実はそう言う組織団体はそういう人達を利用するだけだとなる
そして問題はそれぞれの問題が必ずしも金の問題ではなく違っていることにあり一様に数式のようにあてはまめて解決できなことである
だからカルト教団でも共産党でも似ている面があるのだ
ただカルト教団の悪質性は常に罰当たるとか地獄に落ちるとか恐喝することなのである
それは脅迫罪であり犯罪なのである、だから法律で取り締まるべきだとなる
つまりカルト宗教団体は法律ですべてではないにしろ取り締まるべきだとなる
現実に外国ではフランスなどでも取り締まっているからである
日本はそういう面でゆるいからと統一教会にでもつけこまれたとなるのである

●裁判で霊感商法は罰せられる、脅迫罪にもなる

「相手方に害悪を告知したり、心理的な圧力を加えるなどして、殊更に相手方の不安、恐怖心等をあおるなど、相手方の自由な意思決定を制約するような不相当な方法でされ、その結果、相手方の正常な判断が妨げられた状態で献金等がされたと認められるような場合には、当該勧誘行為は、社会的に相当な範囲を逸脱した行為として、違法と評価されるといわざるを得ない」

旧統一教会、信者家族らと法廷闘争も 夫の財産を内緒で献金、伝道しなければ「自分も家族も不幸に」…裁判所はどう判断?

これも犯罪として適応されるのか?犯罪ではあるが刑罰を与えられるかどうかである
そこに金銭がかかわっているからその金銭が問題になる
でも宗教が脅迫罪にもなる、先祖で苦しむとか罰当たるとか地獄に落ちるとか言うのは
脅迫罪なのである、そういうことは誰もわからないからである
神のみぞ知るとういうことになる、霊感商法は金もうけのためにそういうことで脅迫して売る、だから罪であり罰せられるとなる、そこに明確に金銭がかかわっているからである宗教は強要できないからである、信じる信じないを強要できない
そこには信教の自由がある、また結社の自由もある、でもカルト宗教団体の結社に問題がある、それが犯罪集団にもなることである、オウムとか統一教会とかそうである
その団体組織が犯罪組織でもあったからだ、創価でも折伏とか前は宗教を強要していた
そして会員にして票に結びつかせて権力を得るために運動していたし今でも継続されている
やたら宗教で他者を脅迫することは特にそれが金銭が具体的にかかわるときは禁止すべきであり罰するべきだともなる、ただその区別がむずかしいのである

2022年08月06日

昔の暮らしを俳句から偲ぶー明治の貧困を今と比べると・・・


昔の暮らしを俳句から偲ぶー明治の貧困を今と比べると・・・


「殺し掻き」は木が枯れるまで漆を採取し尽くしその後は切られてしまうところからきているようです。
採取された漆は「血の一滴」と呼ばれています。木が傷を付けられ、修復のために流した樹液なので、漆は一滴一滴を無駄にしないように大切に使われています。

谷深うまこと一人や漆掻き

翁住んで壺の漆を干しにけり

漆掻く山に通草(あけび)の赤きかな

(河東碧悟道)

漆はJAPANと外国で言う、陶器はチャイナで中国である、漆の製品は外国と特別重宝された、その漆の技術は縄文時代から始まるから本当に古い、だからどうしてそういう技術を知ったのかとなる、たいがいは中国から入ってきたからだ

漆(うるし)とは、日本、中国、朝鮮半島ではウルシ科ウルシ属の落葉高木のウルシ(漆、学名: Toxicodendron vernicifluum) から採取した樹液であり、ウルシオールを主成分とする天然樹脂塗料および接着剤である。その他ベトナムなどの東南アジア、ミャンマー、ブータンにも成分や用途は異なるものの一般的に漆と呼ばれる天然樹脂が存在する

ウルシという言葉はやはり中国から来たのか?ウルシの木があるから古くから漆塗りは始まっていた、ただ日本で一番古くからウルシは使われて日本の特産品となった

なぜウルシのことを言うのかというと私の家の前で漆塗りをしていた家があったのだ
だから身近だったのである、いつも漆を丁寧に塗っていたからだ
何かその頃石屋とかも近くにあり石を一日削っていた、また篭屋があり竹で篭を編んで作っていた、子供の時そういう仕事を見ているとその仕事に親近感を覚える
そして近くの山に入った時でも漆の木がありうるしにかぶれるとか騒いでいたのである
漆はその頃身近なものとしてあった、でも漆を製品化することは相当な手間だった
手作りであり外でも着る物でも機織りでも手仕事であり家で機織り機があり織るおとは手間である、つまり昔は機械で大量生産できないから一つ一つ手作りだから手間でありそうして作られたものは貴重である

今はいくらでも商品があるがその商品がどうして作られているからわからないのである
だからユニクロの製品が貧しい国の労働者が作っているとかその労働も過酷だとかなり問題になった、でもその現場を見ることができない、何でももはや物を作っている現場を見ることは現代ではできない、フィリピンのバナナを作る所で日本人が働いたらその労働がきつかったとか報告がある、そういうことは全くわからないで商品を買って食べているのが現実である
だから物を貴重に思わないから無駄にして捨てるともなる
どうして生産しているかわからないからだ
ただ大工さんに地震で壊れた所を直してもらったりして補助役をしてその苦労の一端がわかる、その大工さん異常に苦労なんだよというから困るが確かに苦労していることが実感としてわかる、でも今人間の仕事が多岐に分岐して理解できないのである
まず仕事を身近で見ることができないからである
だから過去の仕事がどういうものだったか偲ぶ時俳句とかでも役に立つ
文学とかも実地の実際の生活を離れてありえないからである
そして一時代が過ぎるとそうした仕事がなくなったりするから余計にわからなくなる
紙漉きという仕事でも冬に行う、冷たい水を利用するから辛い仕事だったとなる
するとその紙は貴重なものとなる、それだけの労働の結果として作られたからである
でも今は紙なんか大量にあるから捨てるとなる

まず野菜にしろ農作物でも畑じ実地にしている人を見たらいかに大変かわかる
その女性は結果的にはほとんど収穫がなかった、ただネズミに食われた、道具が盗まれた畑をうなってもらって金を払ったとか肥料代がかかり実際は金をかけてもとれたのはほんのわずかだったのである
苦労ばかりで収穫はほとんどなかったのである
そのことで農業とは大変な作業であり簡単に実りにはならないことを知った
何か生産者の立場がわからないのである、私自身でもプログに毎日文章書いているけどこれも手間なのである、最近キーボードを打ちつづけて肩の所が痛くなったのである

そこに力が入りそうなった、それは職業病でもある、体の一部を使いすぎてそうなったのである、つまり何でも文章でも生産する側になると手間であり苦労がある
ただ知的なものはかえって文章を読む人が苦労することはある
芸術だと鑑賞者が優れていないと作品を活きないのである
ただ最近わかったことは何かを本でも理解するには何回も読まないと理解できない
何回も読んでいてその人の言いたいことを納得するとなる

とにかく人間は昔をどうして理解するのか、これはやはりその人の経験が大事になる
経験していればイメージできる、だから子供の時の経験は貴重だったのである
裏の堀で洗濯していたとか今では信じられない時代だったからである
水道でもガスもない、電気も裸電球一つくらいしかない時代である
燃料は炭だったから江戸時代と同じだったのである
そういう時代は今は経験できなくなった、余りにも変わりすぎたのである

漆掻く山に通草(あけび)の赤きかな

通草(あけび)の実は割って食べていたのである、ただ赤いというのは花のことだろう
子供のころは風呂のたきつけの落葉を拾ってきたりとか原始的生活だったのである
水道もなかったから井戸水であり街には井戸がない人は井戸水がある家にもらいに行っていたのである、それは無料だったのである
人間の生活は戦前までそういう生活であり江戸時代のつづきだったのである
それが高度成長時代から急速に変わってしまったのである

現代と過去の仕事の相違は地元で働く人が少ないのである、昔はほとんど地元で働いていた、農業であり漁業であり林業であれそうである、大工であれ建築工事関係でも地元中心に働いていた、今は地元ではなく遠くへ働く人が多いのである
足場の仕事の人は最近横須賀の方に行ったとか前にでも青森に行ったとかある
運輸関係でもトラック運転手などが結構多いし出合うのである
現代の仕事は運ぶことが多いからそうなる、特に通販時代になると運ぶことが多いから
その仕事にたづさわる人も多くなる

六号線トラック休む夏の雲

何かトラック運転手だった人が足悪くしたとか自転車で近間を回っている、その人と良く合うのである、その人が働いていたときはまさにこんな風景だった
俳句でも文学でも必ず時代を反映する、戦前とかまでは馬車が多かった

馬車屋とかもあった、馬車で荷物を運んでいたのである、リヤカーも利用した、でも一番重い荷物を運べるのは馬車だったとなる、それで子供の時馬車の後ろにのって遊んでいたりしたのである、だから馬に自ずと親しむということがあった
この辺では野馬追いがあるから未だに馬に親しむことはある
でもその頃は生活の中で馬が不可欠であり人間とともに活きていた、

元々甲州街道の中には上下の高井戸宿があったそうですが、その間を埋めるように新しい宿ができたので新宿と名前がついたそう。
四谷新宿馬糞の中、、」と書かれているので四谷新宿は馬糞が目立ってしょうがないところだということがなんとなくわかります

鳴雪の句「新宿や馬糞の上に朝の霜」

新宿となると江戸時代でも人通りがある、馬も来る、だから馬糞が目立つ、この辺でも野馬追となると馬糞が目立つのである,インドだと牛の糞を干して燃料にしたりする

菜の花や馬車をこぞりて下る人

馬車にのせられて人達が一気におりる、その数は多い、菜の花と馬と人間がいる
そういう風景は絵になり詩にもなる、でも車時代になるとそういう人間的風景が失われたのである、だから私は車は好きではないのである
車にとって自転車は邪魔物であり歩行者すら邪魔者となっている、それは自転車は道を急に横切ったりするからである、また自転車からしても車は相当に危険なものなのである
特に後ろから来る急に来るから危険なのである

とにかく馬頭観世音の碑が多いのは戦前までは戦後ですら馬車が荷物を運んでいたからである、その供養のためにいたるところに馬頭観世音がある、それはまさに馬の時代だったことを象徴していたのである、新宿でもそんな時代があったことなど今になるとイメージすらできないのである

昔を知るという時、やはりいかに貧乏だったかを知る、それは今の貧乏とはまるで違ったものである

水買うて分かつ蜆(しじみ)や隣同士

隣から薬草くれぬ蜂の毒

(河東碧悟道)

隣同士でこうして物の分かち合いがあった、貧しいから互いに助け合うことがあった
薬草というとき薬ではない、野の薬草をとって分けていたのかとなる、そもそも薬は高いものだから簡単に買えない
今でも金がないと薬も買えないし医者にも行けないとかなる、日本が貧困化してそういう人も増えているのである
蜆というとき真野川で結構蜆がとれていた、私は蜆を暇なのでとって家族とともに食べていたのである、大きな蜆もとれていたのである、津波以後はとれていないが今とっている人をみかけるが少ない、そういう思いでがあったとなりなつかしむ

当時の暮らしをみると

家賃日掛け 2銭

布団損料 3銭
薪小束  一銭五厘
計り炭  一銭
醤油   一銭
たくわん漬け一切れ 5厘
塩魚    二銭
酒コップに一杯代 一銭五厘
白米一升  一四銭

(明治東京下層生活誌ー中川清)

明治の暮らしの家計簿である、これで思いあたるのが家賃日掛け二銭というのは毎日家賃を払っていたのである
というのは私の父親は酒屋をしていて姉は毎日家賃をとりに行っていたということを聞いた、家を貸していたことがあった
父親の通い帳というのが残っている、それは貸したものかもしれない、それでその貸したものをとりに回っていた、つまり酒を飲む金もなかったとなる、それで貸した金が払えないのでわずかの土地を得た、それが今でもかえって税金をとられている
その土地がどこなのかもわからない、これも変なのである
その頃質屋が多いのはやりくりするために多かった、何かを質にしてやりくりしていた
酒コップ一杯代が一銭五厘とは高いかもしれないからだ
一番高いのは白米一升で14銭である、白米は贅沢品だったのである

薪小束 一銭五厘とか計り炭 一銭とかは薪とか炭が燃料だったからである
たくわん漬け一切れ 5厘というのは高いのか安いのか結構高いのかもしれない
なぜなら私の母親は原町紡績に十年間糸取りしていて昼間の食事は味噌汁とたくわんとかあとなにかあったのか、一汁一菜なのである
だからそんな栄養で良く仕事できたなと聞いていた、醤油でも貴重だったとなる
布団損料とかあるのは布団を買えないで借りていたからだとなる
この暮らしは江戸時代の本当につづきである
私の父親は病気になり

サシミ食えるようになったが食いたくないと言って死んだ

これも悲惨だった、その頃店をして豊かになった高度成長時代の始まりだった
その頃バナナを売っていないので仙台市まで姉が買いに行って食べさせた
果物は高いと買えないというがバナナだけは安いから買えるのである
こうして昔を比べると貧困というのがどういうことか本当は今の人はわかっていない
確かに日本は貧しくなっている、でもその貧困の度合いが昔とは比べられない貧困なのである
ただ貧困の中で食べ物でも分かち合うことがあった、そこに人情があったとはなる
また馬と身近に接しいるから情が育まれてはいた、車とか機械になると情は育まれないからである、また隣同士で助け合うとういこともなくなった
すべて金となり何か物を分かち合うことはない、でも金はいくらくれても感謝もしないことがある、物だと物に憑くとか物に心がついて金とは違ったものになるのが不思議なのである、その物は今と違って相当に貴重なものだったのである

とにかく昔を知り今を知ることが大事である、今確かに貧困な日本になっている
では貧困とは何かとなると実際わからなくなっているのだ
今の貧困は電気ガス水道が止められることである、それが一番深刻なのである
でも昔は電気ガス水道もなかった、そこに金を払うことはなかった
ただ日々の食事をするだけで精一杯だったとはなる


posted by 老鶯 at 19:59| Comment(0) | TrackBack(0) | 歴史(相馬郷土史など)

2022年08月05日

大衆ファシズムとカルト宗教団体の時代 (地の塩の消失した大衆社会はヒットラーに指導される)


大衆ファシズムとカルト宗教団体の時代

(地の塩の消失した大衆社会はヒットラーに指導される)

●政治とは利権利益の調整

政治とは何かと言えば利権利益の争そいである、互いの利権利益があり奪い合いとなり戦争にもなる、戦国時代は入会権の争そいから始まったというときわかりやすいのである
地域の入会権に戦国大名がかかわり大規模な戦争にもなった
水争いとかなると砂漠地帯では水が命だから水の奪い合いになるとかわかりやすいのである、本質的には人間が争いになるのは利権利益の争そいである
それが自分の住んでいる場所でも起こった

原発事故の補償金でもめたからである、それは今でも尾を引いてる、隣でなぜ多くもらえたのかとか、30キロで区切られたから女性の親は泣いて訴えていた
なぜなら別に放射線量など変わらないからである、だから30キロで区切ったのは問題だった、南相馬市では鹿島区が30キロ以外になり補償金が30キロ内の原町区と小高区とは相当に少なかった、原町区は避難区域になっていないのに三倍もらっていたとかなる
それで南相馬市は一体化感が失われたのである
でも避難者が仮設住宅に押し寄せた、それは相馬市でもそうだし新地とかでもそうである補償金では津波被害者と原発避難者では差が大きかった、それで同じ仮設に住んでいても口をきかなかったという、それも人間は金になるとシビアになるからである

人間はともかく争いの原因は利益利権の争そいである、政治とはその争いを調節することが役割だとなる、でもそれも公平にするのはむずかしい、だからこそその決着は武力になり戦争になる、平和的に解決しようとしてもできないから最後は武力で力で解決するとなる、それが人間の歴史だったとなる
それで三国志とマキャベリズムが生まれた、いかにして権力を得るかとか権力が最大の課題となるからだ、そして宗教でも占いでもなんでも戦争に利用しろというとき統一教会でも同じだった、宗教は戦争のために利用されたのである

●カルト教団も大衆ファシズム

カルト教団とは何かとなれば統一教会でも創価でも幸福の科学でも権力志向が強いのである、政治に深くかかわり権力を操作したいということである
創価なら毎日365日選挙しか関心がない、そのために祈る
それが利益になり利権になるから祈る、御利益のために祈るだけである
あらゆる欲望は肯定されるしむしろもっと欲望を持てと幹部が指導する
会員もそうした欲望を満たすために祈り運動しているからである
だからなぜそれが宗教なのかとなる、政治活動であり御利益を得る経済活動だから税金をかけろというのは正論なのである
それも結局民主主義とは数であり数だ多数になれば法律も数で決められるのだからどんな理不尽なことでも通る、そしてナチスになりファシズムになるのである

つまり現代とはファシズムの時代だったのである、なぜなら民主主義といってももう大衆民主主義でありすべては数で決まる、内容など関係ないからである
だから創価とはでもカルト教団では必死になって会員を増やそうとしている
数が集まれば社会を威圧できるし権力化するからそうする
ただ統一教会はそんなに力があったのかということである
隠されて報道されないのでわからなかった、全国で十万くらいの会員で自民党を操作する力があったのかとなる

キリストがこの世のものをあなたに与える、王にしてやると言ったとき断った
でもカルト教団だったら喜んで引き受ける、それよりそもそもがこの世の王になること権力を持つことが目的だからである、理論的に王仏冥合とかあり矛盾しないからである
それは中世のものであり現代にとても適用などできないのである
ただ理論などどうでもいいのである、権力を得ることが利権御利益を得ることが目的でありそのためにいろいろ理屈が言えるからである

●共産主義も全体主義で大衆ファシズムと化した

現代とは大衆社会であり民主主義と大衆は相性がいいのである、そしてマスコミが大衆を洗脳するのである、実際は大衆があってマスコミがある、大衆の意向にそってマスコミもあったのである、だからナチスがラジオから生れたかというときもそうである
ラジオのようなものでもそんな影響があったのかとなる
ただ現代社会は報道するときその場に立つこともできないし世界になるとさらにわかりにくくなる、だからフェクニュースでも信じやすいのである
マスコミによって操作されやすいのが現代だったのである
でもそれまでは新聞がそうだった、朝日新聞が一番戦争をあおったというのも意外だがそういうことがあった、そこでファシズム的熱狂が起きていたことはいえる
ファシズムというとき全体主義のことである

共産主義も全体主義でありそのために何千万人が死んだとか言われる
カンボジアでは二百万人が共産主義で粛清されてその骸骨が山と積まれた博物館がある
共産主義も全体主義でありファシズムでもあった
また宗教ファシズムにもなるのがカルト教団である
それらを野放しにしているとナチスとなり膨大な犠牲者が出る、何か信教の自由と自由、自由とかまるで絶対の権利になったのが現代である
そこであらゆるものが自由だとなり結果的にはそれがナチスとなりファシズム戦争となったのが現代だったのである

政治というとき民主主義でもポリスは一万くらいしかの人口がない、そこでは直接投票であり誰かの代理人を選ぶ投票ではない、だから一票の重みがあったし責任もあった
現代で一票など何の価値もない、だから組織化集団化したものに頼る、それがカルト教団でもいいとなり問題化したのである
つまり現代の危険はどうしたら大衆洗脳されるものから逃れて各自の自主性を確保するかとなる、そのためにカルト教団などは規制すべきなのだができないのである
自民党はカルト政権だったということが統一教会のことでもわかったしそもそも創価と一体化しているのだからカルト政権であり政教分離に違反している
でも法律など関係ない、政治は数だというときカルト教団も数となれば票を得られるのだからそれでいいとなる、とにかくまとまった票がない勝てないとなるからそうなる

●ノブレス・オブリージュ(地の塩の消失した大衆社会)

現代とはあまりにもあらゆることが自由にしたことなのである
そしてカルト教団でも信教の自由があるとか主張する、あらゆる人が自由を主張する
権利を主張する、しかし義務とか責任は意識しないのである
貴族支配に問題があったが侍支配にも問題ががあったがそこで

ノブレス・オブリージュの精神とは、
「財産、権力、社会的地位というものは、自分自身の能力ではなく、社会から、祖先から与えられたものであるから、自己を犠牲にしてでも果たすべき社会的義務がある」という考えである。

要するに大衆は義務とか責任は感じない、ただ利益を得ることであり利権を得ることしか考えないのである、無責任なのである、そこで起きたことはもう大衆に社会が席巻されて終始がつかなくなる、誰も国でも地域でも責任は持たない、すべては大衆の利益と利権しか追求しない、それで原発事故でも家の前の海に権利があるとして補償金をもらう権利がるとして主張したりあらゆることで権利を主張するようになったのである
そこに責任とか義務などはない、それが意識できないのである
でも結局必ず責任がとらされる、その責任とは大衆戦争だったら何千万人が死んだとか原発事故だったら故郷に住めなくなったとかである
その責任は空恐ろしいものとなったのである

この世には一定数の地の塩が必要である、とても大衆にまかせたらあくことなく権利利益を主張するだけであり社会は餓鬼地獄にもなる、大衆は責任とか自覚しないからである
結局現代文明とはこうして大衆によって消耗される社会だともなる
カルト教団でもそうである、膨大な大衆によって使うようで使われる
大衆に使われて一生も終わる、結局大衆は真善美など追求しない、真善美を追求するのはやはり一定数の地の塩だとなる、その人達がいて下々でも社会は治められるとなる
カルト教団などは真善美など追求していない、権力しか眼中にない、数を集めて権力を得ることしか眼中にない、あとは人間のあらゆる欲望を肯定して御利益を得るために活動しているだけである

そして大衆を使っているようで大衆に使役されて一生を終わる
民衆のためだとかはない、自分の御利益と欲望しかない、その教祖は実際はサタンだともなる偶像でありそれに使役されて終わるとなる
何か善きものは残さない、会館とか各地に建ててもそれも虚しくされる
でもそこに費やされた金とか時間は膨大である、それも何ら実りがないのである
だからつくづくこの世は何なのかとなる、無益なことに膨大な時間と金と人員が費やされるのである、それはサタンに使役されるためにあったのかとなる

●代議制は無責任社会にした

人民の代議士はその代表者ではない、彼らは人民の委託人にすぎない
最終的に何事も取り決めることはできない、人民が親しく承認しなかったような法律は
すべて無効であり決して法律とは言えない
イギリス人民が自由だと自分では考えているが彼らが自由なのは議会の構成員を選挙する期間中だけであり選挙が終わってしまえばたちまち奴隷の身となりなきに等しくなる

戦争を起こすものは人間の関係ではなくものごとの関係である
そして戦争状態は単なる対人関係から生まれない、ただ対物関係から生まれる

人民は代表を持つやいなやもはや自由でなくなりもはや人民として存在しなくなる
(社会契約論ールソー)

代議制では代表者を選ぶのであり選ぶ人は責任もなにもないいてある、すべて委託するだけであり責任を放棄するのとも同じだとしている、だから代議制というのは無責任であり選ばれた人でも実際は無責任である、選んだ人に責任があり選んだ人が悪いのだとか
選ぶ人たちが低劣なる選ばれる人も低劣だとなる
むしろ低劣な人間しか選ばれないともなる、そこに民主主義の限界がある
直接民主制とかはもう国単位では無理である、巨大すぎるからである
それは一万くらいのポリスで可能な政治体制だったのである

そして大衆民主主義とかポピュリズムとなるとき芸能人とかただ名前が売れている人が選ばれることになる、それで青島だとかふざけた人でも東京都知事になる
それは大衆にとって芸能人が身近であり名前も知っているからそうなる、第一大衆は考えるのが嫌なのである、めんどうなのである
だからこそカルト宗教が人を集めたのである、そこで一切考える必要がない、教祖の命令のままに動くロボットとなる、ナチスの党員となるからだ
その人達は機械のように動く、それで怖いのは殺せと命令されたら何の躊躇もなく人間を大量殺戮したとなる、命令されたことに疑問もなく考えることもなくそうしたことが怖いのである、大衆民主主義はそうなりやすいのである

大衆民主主義は最低限の人達のレベルに合わせることである、知性もなにもない芸能人に投票するような人に合わせることである、よくよく考えて選ぶ人ではない、人気投票のようなものになる、つまり大衆民主主義は最低辺のレベルの人達に合う人しか選ばれないということである、そこに絶望がある
経済的には最下層の人達に合わせるのがいい、でもその外のことについては大衆には合わせるべきではない、経済的な富裕層というのではなく何か選ばれた人達、一定の地の塩が必要なのである、一番下劣な人達に合わせて社会はどうなるのか?
もう高等なものを追求することもできない、愚民社会であり最悪は大衆ファシズムとなりナチスとなってゆく、それが今問題にしているカルト宗教のようなものになる
それはただ数を集めることを目的として権力と御利益しか関心がないからである
ただ現代はあらゆることが水平化するから何か優れた人とか認めないのである
それでニーチェのように衆人から逃れよとなってしまう、そして山に入り自然と一体化してロゴスを追求するのてある,アウトサイダーになってしまうのである
別に超人ではなくても自然のロゴスと一体化するのである

●水平化される大衆化される社会はヒットラーが指導者となる

大衆に高遠なことを説いて無駄である、それより大衆からは逃れよとなったのがニーチェなのである、雲霞のように押し寄せて来る大衆を相手にすることではない
結局大衆に消耗されて疲れるだけだとなる、大衆は相手にしないことである
政治の問題は市民とかではない、もう大衆を相手にしているから行き着く先は大衆ファシズムになる、それを象徴しているのがカルト教団なのである
何百万人の会員がいる、その中に百万以上の幽霊会員がいるとかもうそこには何も人間的なものは生まれない、ただ数として人間は処理されるだけなのである
つまり大衆は幽霊化した実体のないものでもある

そもそも現代文明とは人間は数として処理されるだけである、統計的数字として処理されるだけの存在なのである、万物の霊長たる人間はいない、そうなるには大衆より逃れよ
山に入れとかなる、何か大衆に諭すことなどできない、大衆に説教しても無駄である
個々人ならできるが無数の大衆には無駄である、それはただ数としてあるだけであり
リンゴであれミカンであれバナナであれ果物でも違っていてもみんな一個として数えられるだけなのである、カルト教団などは創価などでも毎日数を数えている、票を数えているだけなのである、結局大衆に使役されているのがカルト教団である
結局ロボット集団なのである、その制服はみんな真っ黒なのである
人間的なものはない真っ黒な集団でありナチスの党員と変わりないのである

対話するときは同じレベルの低レベルの人達と会話しても対話しても低レベルにとどまるだけである、現代は高レベルの人でも水平化されるから大衆が力をもっているから高遠なことを説いても無駄である、雲霞のような大衆に席巻されるのである
政治とは金と数だと田中首相が言ったように数を第一にすることは大衆が席巻する時代である、だからこそ自民党がカルト教団に牛耳られる、まとまった票を得られる
無料で選挙応援もしてくれる、金もくれるとかなる
現代とは大衆を操作するものが権力を持つのである

それはナチスを見ればわかる、民主主義があり選挙して勝ったから数を集めてそれがナチスに発展したのである、つまり低劣な大衆扇動者が権力を持ったのである
カルト教団はみんなそうである、その教祖を神のようにあがめハイルヒットラーとなっているのである、それがサタンになっているのである
とにかく代議制というとき他者に住民がまかせることがなかったというとき以外である
ローマでもそうだった、今と違って直接民主主義か責任をもって参加する度合いが強かったとなる、だから代議制民主主義は堕落する、議員に成る人は禄な人がいないとなる
でも現代社会ではエリートとか地の塩とかは否定される、すべて水平化されて大衆化される、つまり優れた者はない、みんな同じだとされる
そして大衆を指導するの扇動するのはナチスになったのである,カルト教団だったら
教祖になる、そもそも宗教もカルト化したとき大衆化したからである

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2022年08月03日

安倍晋三とは何者だったのか? (在日とアメリカとその背後にあったものー人物を知るにも地理が不可欠


安倍晋三とは何者だったのか?

(在日とアメリカとその背後にあったものー人物を知るにも地理が不可欠

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安倍晋三というのは何者だったのか、山上に殺されてから統一教会が問題にされ問われた歴史的には勝共連合からその祖父の岸信介とかから受け継がれてきたものがある
CIAとかは関係していたとか議論されている
韓国はアメリカ軍が駐留しているし統一教会ともトランプ大統領でも関係していた
統一教会のバックにはCIAとかがあり日本工作していたとかいう
何かそれが辻褄が合うのも不思議である
日本は今でもアメリカに戦争に負けてから属国なのだから当然だとなる
なぜ安倍政権が長期政権になったのかとういうとバックに統一教会がいてアメリカもかかわっていたとなる、たいして功績がなくても長期政権になっていたとなるからだ

そしてもう一つは政治も地政学が基本にある、下関とかは韓国に近い、韓国に行く定期船が出ている、そして岩国基地がありアメリカ軍がいる

 垂直離着陸可能な米軍のステルス戦闘機F35B16機を、米軍岩国基地に追加配備する計画が動き出している。岩国基地は厚木基地からの空母艦載機移転や「沖合移設」を掲げた滑走路増設で、すでに120機の軍用機と滑走路2本体制を備えた極東最大の軍事拠点に変貌している。そのうえに空母艦載機であるF35Bの一個飛行隊を追加配備し、岩国基地を対アジアをにらんだ空母艦隊出撃拠点に増強しようとしている
 
岩国には岩国城があり山城がある、そこに上ったことがある、でも小さい城だった
ここはアメリカ軍基地としては第一の大きさである
ここはやはり地政学的に韓国に近いし日本最大のアメリカ軍基地となった
そういう地政学が必ずあらゆることに関係している、なぜなら明治維新でもここは長州でありここを基点として幕府軍と戦って明治維新になったからである
それに比べると会津でも国際情勢にうとくなる、明治維新は四国の坂元竜馬、長州の萩の吉田松陰とかあとは薩摩藩が合体して成したということがあるからだ
そういう人物が出たのも地政学でわかる、例えば江戸時代で赤穂浪士が討ち入りしたとき青森の弘前藩までそのことが伝えられるのに相当な時間がかかった
電話もないのだから伝わるまで時間がかかる、そうして東北とかは国際情勢にうとくなるのである、そこに会津藩の悲劇もあったのかとなる

地政学的に山口県とかなると知った人だとアメリカ国籍であり在日の人がいた
これも不可解なのだがそこにいれば不自然ではない、アメリカの第一の基地があり
在日の人も多いからだ、でもその人は日本人ではない、それでも日本語はしゃべれるし日本人と区別できないのである
だからこうして複雑な事情がありそういう人物も生れたとなる
日本人になるのは嫌だ、では在日という国籍はない、それではアメリカに住んでアメリカ国籍をとったとなる、だから実質はアメリカ人なのである
それで岩国のアメリカ軍人と話ししていたのである、それも不思議だとはなるがこうしいう人は地政学的にあの辺りにはいるということである
その人はアメリカと通じ在日に通じまた日本人に通じている、でもアメリカ国籍とするとアメリカ人でありCIAの一員なのかともなる
それは統一教会とも似ているのである、在日とか韓国人は戦争のことで日本人を恨んでいる、それは共通している、そこで差別に異常に敏感なのである
だから在日というのは扱いにくいのである、一体何人なのかわからなくなるのである

Yoshitakaは,名前を 「YoshitakaLEE-MIYAZAKI」 とい うかたちで名
乗 りたいと思 うようになっているとい う。
《Yoshitaka》両方にしたいかもしれません.LEE でもなく,MIYAZAKI
でもなく,まあ,スペイン人風に,LEE-MIYM AKIって。それなら,韓
国人でもない。 もう,ほんと,在 日ですよね。
LEE-MIYN AKIなら,アメリカにいれば,コリアンから見ても,ああ,
日本で生まれたコリアンね,つて,そ うい うところで理解を得てもらえる
と思 うので。ぼくは,アメリカ人 としての部分もあるんで,そこを強 くし
て い き た い と思 っ て

越境する 「在 日の苦悩」
- 日本名 でアメ リカ国籍 になった在 日コ リア ンか らの聞 き取 り
file:///C:/Users/yuichi/Downloads/KY-AA11946779-26.pdf

こういうことである、LEEとは李のことなのである、李とは李朝鮮があり中国でも大きな一族の姓である、日本で李と名乗る時、その人は私は在日ですと宣言しているのである
でも日本名になるともうわからなくなる、区別がない、だから李と名乗る人は日本人になりたくない人だともなる、だからはこそその人はアメリカ国籍をとったとなる
でも現実は日本で育ち日本人なのである、だからそもそも国籍とは何かとなる
二重国籍も普通にありグロ−バル化すると増えた、そうなるとその人は一体何人になるのか不可解になるのである

安倍晋三という人間もこうして山口県であり長州閥でもあり岸信介から韓国とかかわり
勝共連合とかかわり統一教会とかかわる、その背後にはアメリカがいるともなる
東北だとそういう人物は理解でなきないとなる
その人は個人的にそうなっているのだが統一教会は組織団体としてそうした立場になっているのである、韓国人にとっては在日にとっては日本人を操作するものとしてあったとなる、ただ在日朝鮮人を理解することは本当にわかりにくいのである
東北人はそういう歴史とか地理にない、そこで日本でも地政学が影響するのである
なぜなら人間は基本的に自分が住んでいる場所から世界を見るからである
そこにどうしてもずれが生れて来る、東北ではどうしても国際性が育たないのであるもともと出雲に国引き神話があるように韓半島は常に近いからそうなっていたのである

つまり安倍晋三とは地政学的に歴史的に理解する、地政学なくして人物も理解できないからである、安倍晋三はどうみても国葬にするような人物ではない、外交で多少功績があったとしても国葬にするような功績はないだろう、だから国民は賛成していないのである
結局何であれ人間が一旦死ぬと美化されやすい、どんな人でも死者を責めるのははばかられるからだ、そして美化されることによって自民党は国民の支持を得ようとする
死者を祭あげて政治に利用する、そういうことは共産党でもソ連があったとき書記はまるで神のように葬られたことでもわかる、エジプトでも王が神のようになったのもそういうことがある、神聖政治になるのである

ただ人間が別に普通の人でも死ぬと必ずその人が何だったのか問われる、この人は何をしてきた人なのか、何を残したのか、何の価値があったのかとか死んだ時客観的に冷静に見られるのである、それで安倍晋三が死んだからそういう議論が開始されたとなる
その評価はいろいろあるにしても何か目立って政治的に功績があった人なのか疑問であるどうしても右寄りの人は良くいうのは政治的に死者を美化して利用することがある
それが歴史的にも政治の手法だからである
ただ日本を衰退させただけの人だという人もいる、現実に衰退はつづいている
でもそれが安倍晋三のせいなのかとなるとまたわからない
そこには様々な要素があるからだ、政治もその大きな要素であり責任はあったとなる
ただ山上一人がこれほどの反響を呼んだことは驚きである

多数決の民主主義にこれで疑問を感じた人は相当にいる、民主主義の選挙では何も変えられないということを常々思っている人は同じようなテロに走るかもしれない
テロというのは否定されるにしても命をかけてしているから違っている
一票を投じるのとは余りにもその覚悟が違うのである
そもそも民主主義は大衆民主主義であり機能しなくなっている、だから何らか改革しないとテロが横行するようになるかもしれない、選挙では民主主義では変わらないということをみんな実感しているからだ、だからこそ山上が祭りあげられるようになった
その効果に驚いたのである



李という人はパソコン通信で知ったのである、それも20年前とかなるのに驚く
何か時間が過ぎるのが早い、あの人と旅で逢ったなと思ったら十数年過ぎていたとかなる大学時代あった人は50年過ぎたなとかこれも信じられないとなる
パソコン通信とはあの時相当な熱気があった、それは全国に住んでいる人が出合い文字で話すことによってそうなったのである、そういう経験をしたことがないからである
それはインタ−ネットができて起きた新しい経験だったのである
だから今でも自分は5chとかを読んでいる、ただ発言はしない
やはり発言するとなるとその人を知るには不十分でありものたりないからしていない
また今は忙しいので対話もしていない、返事もしていない
何かプログに文章を書くだけで手間なのである、そしてスマホを買ったがこれも手間で
今はほとんど利用していない、結局一人でいろいろなことをすることができないことがわかった、家事から何から何でも一人ではできない、それでフェスブックとかもしようとしたが一回も書き込みも返事もしていない、結局使い方自体がわからないからできなくなったのである

posted by 老鶯 at 16:21| Comment(0) | TrackBack(0) | 時事問題の深層

2022年08月02日

日本は法治国家ではない、すべて多数で物事が決められるの? (政教分離も有名無実であり危険なカルトに支配されかねない)


日本は法治国家ではない、すべて多数で物事が決められるの?

(政教分離も有名無実であり危険なカルトに支配されかねない)

人の本性を悪であるとし、人の善性に期待せず、徳治主義を排斥して、法律の強制によって人民を統治しようとする法治主義によって統治される国家のこと。

法律を絶対として人を治める法治国家である、でも法律が絶対的なものかとういとそうでもない、なぜなら法を扱うのは人でありその人が法律通りにするかというとそうはならない、法律は数式のようにもなる、自然を見る場合でも科学は数式でありそれで納得する
ただあいまいな根拠で一方的なものとなると誰も信頼しない
重さを計るにしても計量器で計り数字が出て納得する
だからだいたいこれくらいの重さですと言っても納得しない、だから法律とは数式のようなものなのかとなる
なぜなら機械の方が人間より信用できることがあるからだ
機械は偽らないことがあるからだ
それがこの辺で起きた原発事故でそうだった、モニタリングポストの下の土を削って故意に低くしていたのである

それを見ていた人がいて告発した、私もその回りを計ると倍くらいの放射線量だったのである、それをしていたのは大成建設とかだったのである
それは政府ぐるみで行われていたのである
大成建設が勝手にできない、政府の支持でしていたからである
だから政府そのものが嘘をつくし権力があるから大成建設とかゼネコンに命令できるとなる、そしたら一体誰が罰するのかとなる
それは裁判所になり現実に東電でも過失がありと判決があった
それで賠償金を払いとなったのである

法律が絶対とはならない、第一弁護士でもただ相談するだけで百万の金をとったのであるそんなことありえないのだけで頼んだ人は弁護士を知っているとかでそうなった
これも法律違反ではないか?弁護士が法律を守らない、政府でも守らない、大企業でも守らない、となれば法律は有名無実になる、また法律にも抜け道があり解釈がいろいろありそれで法そのものが絶対的なものではない
そもそも法律の始まりは宗教だったのである、モーゼの十戒がその始まりだった
これは神から授かった厳命だった、特殊なのは形をあるものを神となるなという偶像崇拝の禁止だったのである、ただではこれが法律化しているかとなればしていない
信教の自由となれば何を拝んでもいいとなっているのだ
イスラム教とかキリスト教とかではアブラハムを祖として同じルーツがあり偶像崇拝を異常に恐れているのである、そこは共通しているのである
そして無神論は許されない、つまり法律でも無神論主張すれば殺されるとなる
でも言論の自由がある民主主義社会では許されるのである
結局民主主義社会の問題はあらゆるものが何でも自由にしたことなのである

そこから様々な問題が生まれたのである、あらゆるタブーがなくなった
性のタブーでも同性愛でもなんでも自由であり何かそこからわからないにしてもサル痘が生れて来たとかなる、またあらゆるものが自由だとしてヒト、モノが外国でも出入り自由になった、そのためにウィルスも自由に入ってくるともなった
なんでもあらゆることが自由だということの弊害が出てきたのが今問題化したともなる
グロ−バル経済でもそうである、公平な自由市場の世界経済など実際は成り立たない
だからアメリカの一握りの人間が世界の富を収奪してとんでもない格差社会になったのである

今必要なのは自由を制限すべきだ!

人間にあらゆる自由はありえない、それがどうなるのか?大きな災いが世界的に起きる
現実に起きている、宗教も自由だ、信教は自由だと主張する
でも現実に政教分離があるのにそれも守られないのである、法治国家なのに法を守らないのである、そのことから統一教会問題やカルト教団の問題が起きた
創価などは明らかに政教分離に違反していても取り締まることもできない
もしかしたら法務大臣にすら公明党がなりうる、現実に公安委員長が統一教会と通じていたことでもわかる、カルト教団が権力の中枢に入りこんで政治を操作してくる
莫大な金が宗教を通じて韓国に貢がれていたのである
宗教は宗教ではない、金を収奪するための方便であり目的は金であり権力に影響して操作することだとなる
政教分離とかは有名無実なのである、政治家も票になればいいとかなり無視しているのである、法治国家ではない、そして民主主義もここにも法律が上として適用されればいいのだがしていない、法律より上なのが選挙である、選挙で勝つものが法律は無視してもいいともなる、そして民主主義でナチスが政権とって大惨事となったのである
日本の戦争でも同じではないにしろ似たようなものがあった
天皇が神となり日本は神国で負けないとなり戦争が苛烈なものなり一億総玉砕までなりえたのである

宗教は現代文明では病理的現象として現れたのであり過去の宗教とはまるで違ったものなのである、大衆洗脳宗教なのである、大衆ファシズム宗教なのである
だからこそ選挙が権力を得る為のものとなり統一教会でも創価でもそれを最大の仏法の戦いとしているのである、統一教会を批判するけど自民党は創価と一体化しているのだからまさにカルト政権ともなっている
ただ統一教会は表に出なかった、隠されていたが自民党の中に深く入りこんでいたのである、だから外国勢力が宗教を通じて他国を乗っ取るとか警戒されたものもわかる
外国のスパイが宗教団体を通じてはいりこみ操作するからである

いづれにしろ政教分離の法律にしても有名無実である、そうして制限制約されないことはどうなくのか?、また同じ道を行くことになる、日本帝国現人神戦争とかナチスの戦争の再現なのである、現代社会が大衆社会だとするとき数が権力だとするとき民主主義社会もまた数で決まる、数で決まるとういことは一人二人の賢者の声など簡単に抹殺される
大衆の数ですべてが決まる社会である、赤信号みんなで渡れば怖くないとなる
だからもう自由主義とか民主主義とか世界が自由市場のグロ−バル化でも限界にきているもはや統制できないのである、かえってあらゆる自由はアナキーになる
それはアメリカでも起きているし世界中で起きて来る、世界市場などでも公正ではない
そこでグレートリセットが起きるとか言われるのもそうである
とにかく人間はそもそもタブーとか否定してきたけど人間にあらゆる自由はない
それはカオスとなり統制できないものとなり混乱になりバベルの塔のように崩壊するとなる

宗教というとき信教の自由があり制限できないとなるがこれも規制するべきなのである
カルト教団を野放しにした結果として統一教会問題がありカルト教団で苦しむ人達がいるだからこそ政教分離を厳格にして信教自由を維持することが課題となる
創価のように公明党が国土交通大臣になっいること自体が最大の政教分離に違反している宗教団体は国からいかなる特権を受けてならないとしているからだ
その最大の特権を受けているのだから法律違反でも自民党は法律を守らないのである
肝心の政府が法律を守らないとしたら誰が法律を守るのか、弁護士だって法律を守らないそうなるとこの世はアナキーとなり戦国時代にもなる
ともかく大衆を扇動してもいいからナチスのように権力奪取して支配することだとなるからだ

でも奇妙なのは法律を作るのが国会であり議員であり議員は選挙で選ばれる、だから選挙で勝ちさえすれば多数になればどんな法律でも作れるともなる
創価公明党多数になれば国立戒壇も可能になり創価が国民を支配するともなる
そもそも法律は多数によって決まらないものなのである
宗教とはそういうものである、人を殺してはならないというとき多数決でそれは決めるとしたらどうなるのか?多数決で法律が作れるのかとなる
だから法治国家がどういうものが理解していない、法が最高の権威としても現実は司法も国会議員によって決められるとしたらそうはならない
それでナチスが生れたことを知るべきである、多数は正義でも法律に叶うものではない
でも多数ですべて決められるとしたら別に法律などいらないのである
つまりそういうことを国民も理解していないのである

天皇の象徴天皇であり戦後は国民の総意でその地位にあり権威があるとするのも変なのである、国民の総意が総意とは何なのか、ただ数が多いというだけなのである
天皇の権威はそもそもそういうものではない、そもそも政教分離なら天皇も日本からなくなるかもしれない、皇室はヨ−ロッパのようになくならないにしても最高権威とはならないとなる、では最高権威に成るのは何かとなれば選挙ですべて数で決まるとなってしまうのである、だからこそカルト教団ではどんな人でもいい、一票に結びつく運動を創価でも選挙の二年前からしている、毎日数を集める運動なのである
でも別にそれは法律違反でもない、政教分離で罰せられることもないのであ
そうして結局数ですべてが決まるということはナチスの再現となる

そこに自由市場とか民主主義とかはもう限界にきて結果としてアナキーになりカオスになりそこで権力を握る者は武闘で決まる、殺し合いで決まるともなる
それがアメリカでも起きている、カルト教団でも実質武装するということもありうる
オウムがそうだったし創価でもそうである、、なぜなら創価とは一つの軍隊組織になっている、隊長とか参謀とか軍隊組織なのである、武闘集団でもあったのだ
寺というのも僧兵がいたし武装集団でもあったのと同じである
だからこそ時の権威の武士集団と衝突して権力争いになり信長が僧侶を大量虐殺したのである、それは寺が城であ僧兵がいる武装集団だったからである

とにかく大きな時代の変化がきている、規制のものが崩壊する破壊される
自民党も安泰ではない、新しい勢力が出てきて変わる、日本は実際は戦後70年間自民党政権一党独裁とたいして変わりなかったのである
一回くらい政権交代があったとしても自民党一党独裁は変わらなかったのである
だから野党がだめなら自民党が二つに割れるとかして新しい政党となり出直すとかならないないと日本の再生はないとなる、あらゆる方面で改革が望まれている
でもそれが成されないと日本はますます衰退して沈没してゆくだけだとなる

死後に神の裁きがある

こういうときやはりこの世で悪は裁けない、人間にそもそも裁く能力がない
なぜなら人間はみんな罪人だからである、だから奇妙なカルト教団の教祖とかである
あたかも神のようになって人を裁いている、地獄に落ちるとかで恐怖を与えている
その本人がサタンになっていることでもわかる
この世とは誰が悪人かわからない、大悪人が大善人にもなっている
そしてとても人間を裁くことを人間はできない、そこには隠された悪も膨大にあり裁くことなどできない、その最たるものが神の子キリストをローマの官吏が死刑にしたことでもわかる、そんな権威があるのかとなる、この世とは神の子が裁判にかけられ死刑にされる場所でもある、そうだからこそこの世の人間が裁くことはできない
死後に罪が明るみに出される、この世で隠された罪が白日の下にさらされる
これも怖いことである、何か悪いことしましたかと自分で思っていても隠された罪が明るみに出される、その時反省しても遅いとなったら怖いのである
そうならこの世で罰せられた方が良かったともなる

ただ死後のことは誰もわかないし見ることもできない、でもカルト教団などは宗教詐欺罪になるからその罰は相当に厳しいものとなるかもしれない、そんなはずがないと言っても明らかにされる、この世とは何か悪が隠されまた栄える場所としたら不公平になるから死後裁かれるとなったのである、だから法律とかでない、この世の権力者でもない
神を畏れよということはそのことである、裁く能力を持つのは神しかないからである
ただみんなが恐れているのはこの世の権力者である、でもこの世の権力者もまた罪があり裁かれる、それも権力のない者より苛烈な罰が与えられるともなる
恐れるべきは神であり人間ではないとなるが現実は死後のことなど関係ないとしているのが人間である、いづれにしろ聖なるものの濫用は相当に罪が重い、ただこの世では裁かれないからかえってそれで成功する人は危険である
そもそも宗教で成功すること自体危険である、なぜならこの世で成功することはまさに
この世で力を得て権力を得るとういことだからである
だからこの世で成功した宗教は実際は失敗した宗教だともなる、そこに金が集まり人が集まりそして巨大権力化してこの世を支配する、それこそそこはサタンに乗っ取られたとなる、それがこの世なのである


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2022年07月31日

合歓の花、芙蓉、ひぐらし、夏の雲 (隠された家ー八沢浦から相馬市の方へ)


合歓の花、芙蓉、ひぐらし、夏の雲

(隠された家ー八沢浦から相馬市の方へ)

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松の影芙蓉の映えて家一軒

隠されて瀟洒な家や日影道

溜池に風のそよぎて合歓の花

合歓の花枝しなだれて眠るかな

坂越えて遠山望む風涼し

蝉の声ひびきわたるや家数軒

芙蓉映ゆ家々離れ庭広し

六号線トラック休む夏の雲

ひぐらしや村々あわれ墓地たずぬ

純白の白百合に向かい雷鳴りぬ


八沢浦の方から回り道して六号線の前の道の駅に出た
そこの道は細い道であり気持いい道だった
上り下りして変化があった
一軒の瀟洒な家がありそこに芙蓉が咲いていた
芙蓉は秋の季語だが今頃咲いている
この花は大きいのでゆったりとしていい
この花は飯館村に何か合っていたのである
土地土地に合う花がある

こういう家は農家とかとは違う、相馬市とかが近いから勤めている人である
他にもそういう家があったからだ
でも隠されるようにしてあり場所がいい、田舎ではそういういい場所に住める
でも街の中だと密集しているから都会的になる

合歓の花がため池がありさざなみ風にゆれて咲いている
合歓の花一部は散ったがまだ咲いている盛りにもなっている
やっと蝉の声を聴いた、森があるところでは結構鳴いていた
私は必ず墓地をたずね墓を見ていた、江戸時代のものがあれば古いなり注目していた
ひぐらしは蝉はようやく鳴き始めたようだ

六号線の道の駅は休館になった、また新しく始めるらしい
そして近くの喫茶店も閉店して売りに出されていた
その近くの食堂も三軒くらい閉じたみたいだ
五本松があったが三本松になり遂に一本になりみんな消えた
何か淋しいとなる
コロナウィルスの影響があったのか?良くわからない
暑いから相馬市の市街には行かなかった

昨日あたりはカサブランカが庭に咲き雷鳴が鳴った、でも大きな雷ではなかった
いかにも夏らしい、でも今日は暑くてここも34度くらいになりぐったりした

2022年07月30日

統一教会と創価とかカルト宗教がなぜ力をもったのか? (大衆社会となりマスコミも政治もすべて大衆化したため)


統一教会と創価とかカルト宗教がなぜ力をもったのか?

(大衆社会となりマスコミも政治もすべて大衆化したため)


●現代文明の病弊として生まれたカルト宗教

その人は創価一家であり兄弟が議員でもありその人は創価しか見えない人だった
ただその人は素直な人でありもし本当の宗教を追求していれば全く別な人になった
ナチスでヒットラーユーゲントがいて青少年がナチスの強力な一員になった
それは中国でも起きた、文化革命の時毛沢東崇拝が起きて青少年が熱烈な紅衛兵となり中国全土を席巻した、それで粛清された人がどれだけいたのか、空恐ろしいものだった
また日本の戦争でも別なものとしてもそういうことがあった
だからこれはやはり現代社会の病弊として起きたともみる
大衆社会となり大衆により席巻される社会である、大衆が洗脳されてそうなる
これまでの戦争は日本でも侍が貴族同士の選ばれた戦士が戦っていたからである
そこから貴族でも騎士道が生れ日本だったら武士道が生まれた、互いに殺し合うにしてもそこにルールが倫理が生まれたのである
それはなぜか?それは一騎打ちになると相手の人間のことを殺すとなると卑怯なことをするなとか一個の人と人が戦うからルールが生まれて敵への憐憫でも生まれる
つまり人間的なものとなる

それが近代戦争となると一対一の戦いないし集団戦である、それは前からあったにしろ
戦争に参加していたのは貴族であり貴族同士の選ばれた戦士同士の戦いだった
日本では侍同士の戦いだった、それが明治維新で西郷隆盛率いる西軍と政府軍が戦った
政府軍は庶民でも参加できる国民軍だったのである、めれで侍の集まりである西軍が負けると思わなかったが負けた時、侍の時代は終わったのである
それは世界的にも起きたことなのである
こういうことが宗教問題と関係ないようで関係はある、近代社会は大衆社会でありあらゆることが大衆によって決定される、数によってすべては決まる社会である
また戦争にしてももう人間と人間の戦いではない、機械と機械の戦いにもなる
そこで敵を思いやる人間はいない、相手が機械になればそうなる
大衆とか群衆社会であり宗教でもそうである、選ばれた人を相手にしているのではない
無数の人達を相手にして操作するものマインドコントロールするものとなった

大衆ファシズムの世界となった、それで力を得たのがマスコミなのである
マスコミは大衆を相手にしているのであり優れた人達を相手にしていない
要するにパンとサーカスである、面白おかしくみんな見る娯楽番組が主流なに
むずかしいことは言わない、マスコミはこうして大衆の洗脳機関でありその裏にはまた大衆宗教と化した巨大権力化した宗教団体がある
それが今問題となった統一教会とかであり創価などが最たるものである
創価などは一人など関係ない、数しか見ていない、一票としてしか人を見ていない
大衆ファシズム団体なのである、それはナチスと同じではないにしろ似たものなのである
そもそも現代社会とは大都会を見ればわかるように無数の人間が群衆化して大衆化した世界である、大衆は高貴なものなど求めない、つまり現代には高貴なものを求める人は無視される、ただ数がすべてであり数が権力化するのである
田中首相が金と数ですべてが決まると言っていたとでもわかる
政治家とはそうして大衆を相手にしているのであり高貴なものを求めるものを求めていない、どんなに高貴なものがいても一票に変わりないからである、それは同等なのである
だから現代には指導する人はいない、大衆を操作するものが指導者でありそれがマスコミだったりする、マスコミは大衆を相手にしているのでありやはり視聴率が一番大事だからであるあとはスポンサーが金をくれるのだから大事なのである

●地の塩が消失した現代文明の荒廃現象としてのカルト宗教団体

要するに現代社会文明からは地の塩は消失した、ただ宗教でもそうだが大衆化したのである、だから宗教でも大衆をいかに操作するかが問題になる、そして大衆を支配するのである,マスコミもそうである、マスコミは何か常に公平中立を装うがそうではない
NHKは何か善人の代表のように見ているがそこに大きな悪がひそんでいる
それがわかったのはと民間では統一教会のことを批判しているのにNHKでは全くしていなのである

これはなぜなのか?

これは大問題である、そこには何らかの深い事情がある、統一教会を批判できない何かがあるとなる、なぜならNHKでも幹部が協議して放送することを決めるからである
その幹部の中に統一教会を批判できない人達がいるということである
それだけ統一教会は力がないとも見ていたがあったのかとなる、それは韓国との関係で政治問題化もするからである、また在日問題もありそれで表に出さないのである

いづれにしろ今回の統一教会とか創価とかカルト教団の問題の根は現代社会の病弊から生まれていた、それはナチスで経験していることである
社会が大衆という得たいのしれないものに席巻される社会である
そこに本来の宗教は皆無なのである、ゼロなのである、ただ大衆が理解するのは利益になることであり利権になることであり御利益になることである
それしか見ない、それは原発事故でもそうだった、それは莫大な利権だった
それで地元でも金の成る木であり群がったのである、そしてマスコミでも原発を批判しなかった、なぜなら原発が爆発した時、朝日新聞の幹部まで全部中国に招待されていたのである、つまり原発は東電からでも電事連からでも莫大な宣伝費が出ていたからだ
だから批判できなかったのである、だからマスコミは大衆洗脳機関なのである
肝心のNHK自体がそうなのである、そこは公平に見えても公平ではない、肝心のことを報道すらしないのである

福島県の報道関係でも同じである、福島民報は聖教新聞を刷っているし政経東北も何か鋭く問題を追求しているように見えてもそうではなかった
相双リテックはたいして技術もないのに除染でもうけて幹部で何十億もの金を山分けしていた、そして銀座で金を使っていたとこれはNHKでもちょっとだけ報道したからである
なぜなら相双リテックの宣伝をしていたらである
そもそも福島民報は県で半分出資しているから実際は県の広報機関であり政府の広報機関なのである、国の意向を伝えるだけのものだったのである

 なぜカルト宗教が増えたのか、これもやはり前々から偽預言者とかいた、それが現代社会では組織化して巨大化化したのである、それは大衆社会になったとき必然的に生まれたのである
つまりナチス化したのである、現代社会ではもう何かまともに教える場所などない
学校とかはただ知識を教える場所であり本来の人間を教育する場所ではない
だからこそマスプロ大学で千人とかの入る講堂で授業することに反発して学生運動が起きたりした、そこはエリートとしての教育の場所でもない、ただここも大衆化した学生をつめこむ場所にすぎなかったのである、理系は別として文系はそうである

だからなぜ宗教がカルト化したのか?

それは大衆宗教となったからである、大衆を相手にしいるのであり本当に求道心ある人など相手にしていない、今やそういう場所がなくなったのである
現代とは大衆に席巻された時代である、宗教もそうである、大衆宗教でありそれは容易にファシズムになるのである、結局人間がまともになるにはアウトサイダーになるほかないともなる、あらゆるものが大衆化して本来の人間でありえくなったからである
もちろんそこにも大きなも問題があるにしてももうニーチェのようになるしか本来の人間になりえないともなっているのである

●偶像崇拝の拒否から起きた一神教を日本人は理解できない

宗教二世の問題は親子二代で奴隷の霊が与えられることなのである
なぜカルト宗教問題が深刻なのかと言うと霊を支配するからである
罰当たるとか地獄に落ちるとかで霊を支配して奴隷化するからである

でもよくよくそういうことを言っている人間はどんな人間なのか?

全くの俗人でありその辺にいる普通の人である、そんな人がそんうなことが言えるの
お前が真っ先に地獄に落ちる、罰当たると言える人なのである
そんなこと簡単にわかることである、でもマインドコントロールされて見えなくなっているのである

おそらく日本人は宗教の基本を知らない、それで日本は宗教に寛容である、それがカルト宗教の吹き溜まりのようになった
ユダヤ教でもキリスト教でもイスラム教でももともとアブラハムを始祖して共通のものがある、宗教で一番大事なものは偶像崇拝の禁止なのである
なぜなら聖書は偶像崇拝との戦いでありその戦いから神を認識したのである

神は妬(ねた)む神として現れたからである

神は像ではない、像となるもの形あるものを神とすることに強烈に妬んだのである
これは本当に不可解でもあるが現実なのである、ねたむ神として現れたのである
だから一神教のすべての根幹は偶像崇拝の禁止なのである
いかにイスラム教では偶像崇拝を恐れているかわかる
人物像は像になるものは一切壁の模様としても描かかない、幾何学模様だけなのである
それだけ偶像を描くことを恐れていたのである、なぜなら神から恐ろしい罰があるとして恐れていたのである
でも日本だとこういう宗教の基本が欠けているのである、やはり仏像を日常的に拝むとかありそれも問題だった、教祖でも偶像化しやすい、一時オウムの麻原が偶像となったし
創価だと池田大作が偶像化したからである
ともかく宗教というとき本当に偶像崇拝が一番の問題なのである
ただ不思議なのは神社だとそこに偶像となるものがない、何に拝んでいるのかわからないのである、だから神道は謎である、御神体が自然だともなっているのである

●カルト宗教団体から真善美は生まれない、文化は生まれない

いづれにしろカルト宗教とか現代文明の病弊から生まれたものであり大衆社会から生まれたものであり本来の宗教とはまるで違ったものである
だからそれをなくすことや正すこともむずかしい、なぜなら大衆社会になったとき指導するものはいない、否定されたからである、マスコミがNHKが指導するものともなったからである,NHKの言うことはみな正しいともなったからである
NHKも偽善なのである、何か善人の顔しているが実際は悪人だということもある
それはカルト宗教でもそうである、天使を装うサタンなのである、要するにこの世は偽善が多すぎることなのである、偽りが多すぎるのである
そして社会は何らかみんなブラックなのである、つまり社会自体が暗黒社会なのである
罪の社会でありもうそれを正すことは不可能である、だから滅びるほかないともなる
罪の清算の時が来る、それは近いのかもしれない、もうあらゆることが限界に来ている
それで大清算のカルマの清算の時がくるともなる
カルト宗教もその一つでありそれは虚偽のものであり意味ないものであり大衆を洗脳するサタンに操られるものにすぎないのである

いづれにしろこの世は暗黒である、その闇は深く晴れることがない、ただ自然は美しいのである、そこにこの世の救いがあるとなる
カルト宗教を見分けるのはそこから何ら善きものが生まれないことであるし
肝心の真善美は生まれないのである、だからむしろ過去の宗教というとき問題があるにしろキリスト教文化が芸術が生れ仏教文化芸術が荘厳に生まれたことでもわかる
現代のカルト宗教からは一切そういうものは生まれない、ただ権力を操作したいというだけである、そこに集まる者も醜悪なものしかない、なぜなら教祖はサタンであり偶像崇拝しているような所から良きものが生まれるないからである
また大衆から良きものが生まれない、文化を作りだすこともない、大衆と民衆は違う、民衆は民謡とかでも文化を作りだしたが大衆は何も作りださない、マスコミとかに操作されるものでありパンとサーカスであり不毛なのである

ただマスコミではないインタ−ネットからは新しいものが文化的なものが生まれている
個々人が映像化したものが世界的に膨大に表現されているからである
そこに現代のグロ−バル化した文化が生れているのかともみる
でも現代から文化とかは生まれにくい、どうしても大衆社会であり大衆が求めるのはパンとサーカスだからである、そして大衆が権力化する世界である
一人が消費するより十人でも店に行き消費すれば金を使えば力となる
一人が消費しても力とはなりえない、だから店でも一人は相手にしない、問題は数だとなるのである、すべて人間は数としてか計算されない社会なのである
誰でもいい数を集めれば社会で権力化して支配できる社会でありそれが極端化するとナチスとなったのである、カルト宗教もそういうものとして生まれたのである

●カルト宗教団体が背後で国を操作することの危険

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この図のようにカルト宗教団体は国にかかわる、国を操作しようとしている
それで内村鑑三は外国の宣教師を嫌ったのである、何らか背後で国を操るということで嫌ったのである
だからこの図のように背後に国がかかわる、統一教会でもそれが明るみに出た
これほど選挙にでもかかわり日本を支配しようとしていたことに驚いた
自民党の安倍派はもともと勝共連合時代から支援したし支援を受けていた
一心同体だともなっていた、それは儀礼的な浅い関係ではなかった

また創価の後ろには中国がいる、創価もなぜあれほど中国に肩入れしているのか?
とにか中国様様なのである、宗教と共産主義が相いれないのにそうなっている
それは政治的意図があってそうしているのか、勢力を拡大するためにそうしているのか?でも中国で布教は無理だろう、どういうわけでしてしいるのか良くわからないのである
ただ創価は権力を権勢を拡大することが目的でありそのために布教もするし会員をとにかく増やそうとしている、その権勢を拡大するためには日本だって中国に売るとなる

それからエホバは別に日本の政治にかかわるようには見えない
でも後ろにアメリカがいて工作する、その団体なのかともなる
日本キリスト教会という団体もあるけどこれもアメリカから金が入ってきているのか
なぜなら信者数が創価と他でも比べると極端に少ない、でもあまり寄付金など要求しないのだろう、だから経済的にどうして成立っているのかとなる

日本基督教団は、神のみまえに、在日韓国人キリスト者たちとその同胞に対する戦前、戦後にわたる罪責を告白し、今日の在日大韓基督教会との協約締結を感謝する。
https://wvtravelclub.jp/the-united-church-of-christ-in-japan/

統一キリスト教団体だけではない、こういう主張をもっているのである
キリスト教団体は韓国に多い、また在日朝鮮人も数多くいて影響力がある
宗教団体でも内部に入り重要な地位をしめていたりマスコミでもそうである
在日の力は表に出ていないが大きい場合がある、それはなぜかというと在日は日本人なのである、見分けもつかないし日本語を普通に使うし優秀な人も多いのである

だから不思議なのは在日でアメリカ国籍を持っている人が下関とかにいた
この人はなんなのだろうと理解できなかった、れっきとしたアメリカ国籍だからアメリカ人であり岩国にアメリカの基地があるから出入りして兵士と話したりしているのである
留学もしているから英語を話せるからである
こういう人は他にもいる、だから一体何人なのかわかりにくくなるのである
宗教団体でも様々な人が入る、国籍は問わないからである、その中にスパイも入っているかもしれないということである
だから何かこの辺で在日の小説家が住むようになったのはなぜだろうと疑問になる
在日の人が何か運動するためのなのかとも見る
すでに市役所ではアメリカから賞をもらったとか横断幕がかかげられているのである
それは背後在日の勢力がありそうなったのかともみる

●不純な動機で数だけを集めるカルト団体

いづれにしろこうしてカルト教団には様々な勢力が入ってきて工作することがある
別に信仰とも関係ない、そもそもカルト教団は信仰など目的にしていない
勢力拡大してその国を操作するとかそういうものに利用されるだけだとなる
だからどんな人が入るにしろいいのである、数が増えれば勢力拡大になるからである
そうしているのは背後にそうさせている国があってそうなっているのかともみる
アメリカと中国がそうである、統一教会の不思議はアメリカとも深くかかわっていたのである、だから公明党でも統一教会の集会に出ていたのである

そもそも宗教団体自体が何か純粋な信仰を求める場所でなはい、不純な場所なのである
信仰は別に教会に入らなくても唯一の神を知ることができる
私は一回も教会に行ったこともないし全く別な創価とかのカルトで運動していたからである、だから本当に奇妙だともなる、ただ私に言えることは私は政治運動に興味もなかった私が求めていたのは死の解決だった、それで宗教を求めていたのである
結局宗教でもその人自身が動機が純粋であれば汚れることはない、創価にいい女がいると金持ちになれるとか金銭的にも援助してくれるとかなんとか得することばかり考えて入る人が多い、つまりそういう不純な動機の人達が膨大なのである
そんなこと考慮しないのである、創価だったら一票になればいいだけである

そうした余りにも不純な場所がカルト教団なのである、それは天使を装うサタンに操作される場所である、その背後に教団を利用して別な政治目的があり利用されるとなる
自民党なら利用してまた利用されるものだとなる
それが一つの権力集団だからそうなる、その権力に目をつけるからである
一票でも得られればいいとなる、それが権力をつくるからである
要するにこうしてみんな権力を求めているのがこの世なのである
権力となるのが金であったり軍事力だったり現代なら一票となる数なのである

宗教が権力化すると本来の宗教でなくなる、神が見るのは心だとするとき個々人の心を見ているからである、数とか権力化したもの建築でもこの世の威勢を誇るものでもない
個々人の心を見ている、心の清い人は神を見るだろうというときそうである
でも宗教とは必ず政治にもかかわりこの世とかかわりこの世的なものに変化する
そしてこの世の人間の欲望のためにも利用される政治にも利用される
そして日本人は宗教の基本を知らない、偶像崇拝がどれほど危険なものか知らないのである
そしてそもそも本当に神を求めるなら牧師とか教祖とかそうした仲介者を通さないことである、その人達でもいかがわしいのが多いからである

その人たちあたかも神の取次人のようになり権威を持ち権力を持つからである
誰も仲介がなくても神を知ることは個々人でできる
そこに仲介者を立てないことなのである
その仲介者は天使を装ったサタンになるからだ、そして偶像化されるのである
だから禅宗だと何か偶像崇拝を拒否する,師まで殺せというときそうである
それは師でも弱者はどうしても偶像化するからそうなったのである
そういう宗教の基本が日本人は教えられていないからカルト宗教の吹き溜まりのようになったのである、ただ外国でもカルトはあるから一概には言えない
でも日本はカルトとかに抵抗なく洗脳されやすい民族だともなる

2022年07月29日

島国日本と大陸文明 (日本人は大陸を理解できないー遊牧民を理解できないのが致命的)


島国日本と大陸文明

(日本人は大陸を理解できないー遊牧民を理解できないのが致命的)

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イスラエルを世界の中心に神が定めた

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人間のアイディンティティが作られる要素は風土と地理である
これは今でもそうである、また空間軸と時間軸でも作られる
基本としてはこの二つの要素が人間を文明を作る
日本の特殊性は回りを海に囲まれた島国でありしかし中国大陸と海を隔てていても結びついていた、その仲介役が朝鮮半島になっていたのである
仏教でも朝鮮半島から入ってきたし文化でも技術でもそうである
ただ謎なのはなぜ日本語が孤立語なのかということである
どこの言語とも共通性がないのである、ということはすでに独特の文化として日本が形成されていてそれで外国との言語との共通性がない、それはもしかしたら縄文時代から日本語が形成されていて独自のものとしてあったともなる
その後に漢字が入ってきてハイブリッド化したのが日本語だとなる

言語でも大陸だと特にヨ−ロッパとかなると言語が国々が交わり民族が交わり長い時間をかけて構築された、だからギリシャ語由来とかもありフランス語とかドイツ語とか英語でもさらにロシア語でも共通性があり英語の習得が楽である
ウクライナ人でも英語をしゃべる人が多いなと見た、英語ができるとグロ−バル化しやすい、日本がIT分野で遅れたのは英語ができないのも大きな要因だった
なぜならITはプログラムは英語でしているからである
それでインド人は英語ができるから有利だったとなる、またもともとインド人は数学で
ゼロを発明したように数学に優れていたのである

ともかく日本人のアイディンティティは島国でありさらに村単位の閉鎖された小地域で作られてきた、そのメンタリティもそうである、大陸的なものと相当に違っている
ても日本でも大陸的なものは文化でも古代から入ってきていた
なぜ妙見信仰があるのか?これは広範囲にある、妙見信仰は北極星と北斗七星の信仰である、これは相馬藩の紋でもあり片倉氏の白石城でも妙見信仰の紋になる
これは日本に広範囲に広がった、北斗七星は北極星は方向を示す星であり遊牧民から伝わったものである、なぜなら砂漠であれ平原であれ遊牧民は羊を追って移動する
馬をたずさえて移動する、移動する民だからどうしても方向が大事になる
方向を間違うと死にいたるからである、それで砂漠を旅した日本人の一団が水のある方向へリーダーが導いて助かったとかある、そこで方向を間違うと死にいたる世界である
だからこそ北極星は不動であり信仰にまでなったのである
日本でも星という姓があるからそれも北極星信仰と関係しているのかとなる

日本人は島国に閉ざされて長い間暮らしているからどうしても大陸のこと砂漠とか平原のことが理解できないのである、第一そういう場がないのだから理解できない
でも人類の始まりはメソポタミアとか今のイラクとかイラン辺りから始まった
ただ文明という時、農業を基盤にしないと文明にはならない、だからナイル川の恵みがあるエジプト文明は麦の生産をしていたビールまで作っていた大農業国である
農業文明は定着文明であり定着しないと文明は生まれない、だから四大文明は農業が基本にある、建築というときやはりピラミッドがあるときそれは大地に定着する農業的なものとしてある、でも一方で四大文明は大河があり交通があり商業も発達した
文明と商業は深い関係がある、商業は移動して商品を運ぶというとき大河が必要になるからだ、移動するのがそもそも遊牧民であり自ずと商人にもなる
だから商業の起源が古いのである、農業が古いとみているが商業の起源も古い
なぜなら聖書でなぜ神との契約ということになったのか、それは商業が盛んであり契約ということが必ずありその言葉が生まれたのである
日本ではそもそも小さな村に契約という言葉が入ってきたとき理解できなかったのである日本の村はよそ者を嫌うし商人でも村に入れないし商売も自由にできなかった
神社が無縁の場所として提供されてそこが市場となり売り買いされた
それは限られたものであり特別許可されたものであった、なかなか閉鎖された村に商人は入れなかったのである

文明とは確かに農業を基本にして生まれた、でも次に商業が早い時期に発達した
それは遊牧民地帯で発達した、なぜなら遊牧民は移動する民であり自ずと商品でも運ぶ商人になったからである、だから早い時期から商業があった
また商業に必要なのは文字である、文字は重要であり文字がない文明は成り立たないともなる、それでマヤやインカの文明はジャングルに埋もれた謎の文明となった
エジプト文明はヒエログリフがあり神聖文字がありその歴史を知られるようになったのである
またアルファベットはフェニキア人が発明したという時やはり地中海を航海する商業の民だから文字が必要でありそれで契約するとか発達した
大陸だと文字が大事であり文を重んじるのはこうして商業が発達して契約するということで文字が大事なのである、だから大陸文化は文字を重要になる
外国人が文章の方が書かれた文字を信じ?というとき商業が早い時期に発達した結果として契約する文字の重要性を肌で知ったからである、外国人を信用にするというときやはり契約は文で文字でするから大切になる、それは信頼の基だからである
日本人はもともと契約という観念がないのは商業が発達しなかったからである
でも漁業が盛んだから船で海岸を行く漁師が最初の商人になったということは同じだったつまり漁師は船で移動するから自ずとそうなったのである

商業というとき中国人は巨大な農業国家に見えて商業国家でもあった
中国人は商売上手だというときそうである、中国人は農民であっても根っからの商人だというとき中国人は最初の国家が始皇帝が長安(西安)から始まったように遊牧民と砂漠の民とか平原の民と一体だったからである
中国は農業国家というだけではない、きわめて商業的要素がありそれが日本と違っていたのである
日本でも商業民というとき関西人はそうである、近江商人とかいて商売上手なのである
だから関西人と東北人とかのメンタリティは相当に違う、東北人は根っからの農民であるが関西人は根っからの商人なのである

この遊牧民地帯は広大でありそこが文明の揺籃地帯だった、それがイスラエルまでつづいていたのである、イスラエルというとき離れているから砂漠と関係ないと見ている
でも砂漠の延長としてイスラエルがあった、半分は砂漠でありイスラエルにユダヤ人が入り入植して豊かな土地にしたのである、もともと半分は砂漠でありラクダとも泊まる隊商宿がある、広大な砂漠地帯がありそこにエホバが現れた、一神教が生まれたのである
つまり自ずと遊牧民は移動する民だから商人となりその遊牧民がフェニキア人となり貿易の民となり地中海を船で移動したとなる
移動するには道が必要になる、でも大陸だと道は長大な川になりまた砂漠でも平原でも馬で移動できる、モンゴルが馬を操作するのに長けていたから大陸を制覇して拡大したとなる、移動するにはラクダとか馬が欠かせなかったからだ、そして移動するには海だと船になったのである

この移動する遊牧民はやがて船を操作して大航航海時代を築いたのである
ヨ−ロッパも遊牧民が入ってきている、東ヨ−ロッパは遊牧民が侵入してきた末裔である小さな国が多いがそれらは遊牧民の末裔である
第一トルコ自体が突厥とか中国の周辺の遊牧民が移動してきて作られたからである
イスラム系は砂漠の民であり遊牧民だからである、だからこの遊牧民を理解しないと世界は理解できない、でも日本では砂漠とか平原とか大河とかがないので遊牧民とか移動する商業の民を理解しにくいのである
大陸のメンタリティは共通性がある、ユダヤ教からキリスト教からイスラム教と一神教として共通している、イスラム教はもともとアブラハムを祖としているからだ
アブラハムもイスラエルに移動してきた遊牧民なのである

古代のギリシア神話には、主神ゼウスが白い雄牛に変化して攫ったフェニキアの王女エウローペー(希: ΕPρホπη)が登場する。ゼウスは彼女をクレタ島へ連れ出し、そこでミーノースら3人の子どもを得た[31]。このエウローペーがヨーロッパの語源という説がある[32]。

ヨ−ロッパがフェニキアの王女と関係しているということは移動する商業の民のフェニキア人がヨ−ロッパを発見したとなる

世界を理解するときどうしても遊牧民を理解ずる必要がある、でも島国の日本人には理解できない、魏志倭人伝に日本に馬、牛、羊なしと記されいることでもわかる
日本の特徴はまさにここにあったからだ、馬も牛も羊もいないということに日本の特徴を見た、それは大陸と根本的に違うものだったからである
たでから日本とは異質の日本文明がありそれは大陸の文明とは相当に違ったものだったのである、だから日本のアイディンティティとかメンタリティは世界基準と違っている
熾烈な民族抗争も経験していない、身内の争そいだけであり敵味方塚として敵すら丁重に葬るとなる、そこで中国人はそんなことあるのかありえないとして驚く
なぜなら中国人は敵を殲滅して墓からも死体を取り出して罰を与えるとしているからだ
それで民族抗争が激烈でありジェノサイドが起るのが普通なのである、民族は殲滅されるのである、だから東ヨ−ロッパはそうした遊牧民が国家の起源であり抗争するとなる

2022年07月28日

お医者さんの本音youtube(老人に投資信託を売る銀行員)


お医者さんの本音youtube(老人に投資信託を売る銀行員)


在宅看取りをしたくない医師の本当の理由とは0認知症専門医・長谷川嘉哉

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高齢者に投資信託を売る銀行員は天国に行けない0認知症専門医・長谷川嘉哉

お医者さんがいるとして知っていることは患者から見たお医者さんである
では医者から見た患者はどうなっているのかはわからない
それでここで医者が一番重んじていることは晩酌でありこれを邪魔されたくないということだという だから在宅医療はしたくないという、急に呼び出されるのは嫌だという

そんなに晩酌が大事なのか?

救急医療もあるがそれで邪魔されたくないという、考えて見れば毎日患者を診ているから別に患者を大事に見ているわけでもない、親しい人でもない、医者から見ればその他大勢にすぎないのである
それで病院で議員が番号で呼ばれたことに怒った
それは病院でも常に不特定多数の大勢の人を診ているからそうなる
別に家族でもないし赤の他人でありそこに愛情が通うということもない
だからこそそういう不特定多数の人の救急医療でも晩酌を邪魔されることは嫌だとなる
それは医者側から見ればそうなる、あなたは特別の人ではない大勢の中の一人にすぎないのである

でも特別扱いにしてもらいたいとかなる、何であなたが特別なのかとなる
それより晩酌を邪魔されるとしたら患者が憎いともなる
その本人にとっては緊急でも必ずしも医者はそうではない、毎日患者を診ているしその数も多いからである
医者から見れば患者より大事なのは医者の晩酌だとなる
それもわかりやすいとなる、まず他人のために親身になる人はいないのである
我が身が先なのである、自分を犠牲にしてまで働きたくないのである
患者はそういう医者の心を知るべきであるとなる、それが別に冷たいということでもない医者は聖人でもなんでもない普通の人だからである、ただ医療の技術があるということで違っているだけだとなる
でも医者だけはお医者様とかなり特別尊敬されていることは確かなのである

ともかく人間は相手のことを何でも理解できない、職業のことが理解できない
なぜなら医者になって患者を診ることなど体験できないからである
そこに必ず誤解が生まれるし高望みしたり要求も高くなる
でも医者にとって一番大事なことは晩酌でありそれを邪魔されてまで患者を診ていられないということである、それで今なら医は算術にもなるのである

そしてここのyoutubeで高齢者をだます銀行の投資信託をすすめる銀行のことを批判している、あなたたちは天国に行くことはできないですよと批判している
投資信託は銀行がもうかる仕組みでありそれもわかりにくいし顧客のことなど考えていない、手数料商売であり銀行側は絶対に損しないものである
そんなものを高齢者に売りつけて罰が当たりますよと言っている
それは経験しているからわかる、本当に手数料商売であり顧客のことを考えない
そしてこのお医者さんはその金はどういう金かしれと言っている
それは汗水たらして貯めたお金なのである、だからそういうお金を自分たちの利益のためだけに奪うことは大きな罪だとまで言っている、天国に行けないと言っている
そこまで言うというのは驚きでもある

ただ私自身の金が確かにそれなりに大きな金であっても遺産で入ったものだから自分自身汗水たらして働いたものではない、だから自分の金にはつくづく重みがないのである
だからこういう金は消失しやすいと思った、苦労して得た金ではないからである
他の人は家を建てたとき相当に苦労しているからである
私自身も大きな家に住んでいるとしてもそれも親から譲られたものであり私自身は苦労して建てたものではないのである、そこは違っているのである

そういう人から金を奪ってもいいとさえるな、それで大金を盗まれたということもある
なんでお前は苦労もせずに金が入るのくだと羨まれるのも当然だとなるからだ
こういうことは私だけではない上級国民とかにはある、それでその金を奪いとかまでなるそこに罪悪感すらなくなる、確かに資本主義社会だととんでもない格差が世界で生まれている、その格差があると汗水たらして働いても金にならない人は恨みとなる
そうした恨みが世界で蓄積されるとその念がやがてそうした大金持ちに向かい恐ろしいことが起きることにもなる、その念が恨みがいつか確実にその大金持ちに向かうからであるそして革命とかなり殺されるともなる

ともかく人間は家族でないかぎり他人となりその他大勢に過ぎない、だからその対応は親身にはならない、それが世の中だとなる、資本主義だと弱肉強食の競争社会だとなる
それはいつの世でも同じだった、そもそもこの世の中みんなブラック会社でもある
それは他者はあくまでも自分の利益を得るためにあるのであり他者のために犠牲的に尽くす人などいないからである、そのためにこの世に生きることは地獄になるのである
それは自分自身でもそうなる、そしてまたこの世では偽善が多いのである
カルト宗教なども全く偽善にすぎない、宗教なのだから他者を愛すとか慈悲とかあるのかとなると全くない、ただかえって宗教が祈るのはエゴであり自分の欲望を満たすために
毎日祈っているのである、他者よりエゴの欲を満足するために御利益のために祈っているそれが集団的組織的になったのがカルト宗教団体なのである

党派であるときそれは自分自身のエゴの延長として党派があり党派団体組織に属さないものは人ともみない、それで何かあると組織団体意外の人は罰当たるとか地獄に落ちるとか平気で言うのである、それはただ自分たちの利権とか利益を阻害するものとなるから言うだけである、そういう本人たちがエゴであり地獄に行く人達なのである

この世とは本当にブラックであり罪の社会であり職業でも一部を除いて業{カルマ}を持っている、それが人間である、職業がブラックなのが多いのである
社会自体がブラックだからこそ出世とは世から出家することであったのつまりこの社会にあればもともとブラックなのだから罪を犯す、罪に染まるからこそそうなったのである
いい職業としては大工とか建築関係は別にそこで働いている人はブラックにはならない
ただその上で指導する人は社長とかでも仕事をもらうために賄賂がやったりもらったりする、でもその下で働く人は別にそれで罪になるとはならないのである

ともかくここのyoutubeで医者自体が投資信託をすすめる銀行員は天国に行けませんよというのはなるほどと見た、でも別にみんながそうではない、つまり苦労もしないで金が入るような人からは奪ってもいいとすらなる
それで自分自身は奪われたのである、ただ銀行員がそういう商売になったというのは意外だった、もともと金貸し屋でありそういう業(カルマ)をもっていてそれが不景気でそうなってしまったのである、だから確かに今銀行員はいいものではなく、農業を自らたずさわるとかしたのもわかる、何かそうなると後ろめたいものとなりそれが心に影響してくるでもこの世の中ブラックなのだからそこで良心を保つことはむずかしいとなる
そこに職業の大きな問題がある、まず文系の職業は何かブラックなものにかかわりやすいのである、証券会社にしてもそうであり物造りとは違うからそうなる
それで理系の人は物造りに携わる人がいい顔になるというのはわかる
文系にはいい仕事がないのである、それでたそもそも文系の大学はいらないとまでなる
私自身も体力があったら大工の修行でもしていた方がましだったとなるからだ
何か職業につくものが身につかないのである、それが大きな問題だったのである


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写真の変形ー忍耐の岩

Transforming Photographs - Rocks of Patience

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大きな岩は忍耐する
岩は踏ん張り動かない
雨の日も風の日も
どうどうと流れる音がひびく
山中に岩は動かず
そこに標と留まる


Big rocks persevere
Rocks stand firm and do not move
In rain or wind
the sound of flowing water echoes through the air
In the mountains the rock does not move
It stays there with its mark




写真の変形ー忍耐の岩

これは写真を変形したものである、写真を変形すると別なものに見えるしかえって見映えがすることがある、これも不思議だとなる、写真の価値は変形したら加工したらなくなるともなるからだ、でも加工するということが芸術になる

石とか岩でも山でも人間化するからだ、人間の精神がそこに入り一体化するのである
山は高いから崇高だというときそれは人間にも言える
石や岩は忍耐のシンボルなのである、それで石や岩が私は好きなのである

ただ問題なのは写真の加工は著作権違反になる可能性がある、でもこれもやはり創作なのかとも見る

Transforming Photographs - Rocks of Patience

This is a photo that has been transformed. When a photo is transformed, it looks different and sometimes it looks better.

Stones, rocks, and mountains are humanized because the human spirit enters into them and becomes one with them.
When a mountain is sublime because it is high, it is also a human being.
Stones and rocks are symbols of perseverance, and that is why I like them.

The only problem is that photo manipulation may be a violation of copyright, but I also see this as a form of creativity.

2022年07月27日

相馬野馬追いは維持できるのか? (歴史の保存の祭りであり新しいものが入れない問題)


相馬野馬追いは維持できるのか?

(歴史の保存の祭りであり新しいものが入れない問題)

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3年ぶり通常開催 相馬野馬追 14歳と49歳それぞれの「初陣」
https://www.youtube.com/watch?v=C-NePWYrryo&ab_channel=TUFchannel

伝統文化の継承・発展も、この『変化を受け入れる』ことがキーポイントだと思います。その文化が持っている価値を継承しながらも、それを提供する技術や表現方法などの手段は時代に合わせて変化させることが必要と感じます


野馬追いも伝統文化の一つなのか、歴史の再現であり歴史の保存でありそこに意義がある文化というのとも違っている、ただ確かに侍の時代の再現ではあるが文化とも違っている伝統文化というとき俳句とか短歌は今にもつづいている伝統文化である
これがなぜつづいているのか?俳句だと四季があり季語が必ず入っていないと成り立たない、季語の文化である、それは日本の四季があり風土があって生まれたものである
その風土が変わらないから俳句がありつづけた、でもその表現には限界を感じる
短すぎるからである、短いことがいいにしても限界を感じる
それで一応短歌は長いので生き残るのかとも実作者としてはみる
ただ写真と俳句が合体した写俳の分野が生まれたのは現代的である、現代はデジタルカメラやスマホで写真が日常的なものとしてみんな使用しているからである
そして俳句は正岡子規の写生俳句が主流であり私自身もそれを基にして創作している
写生とは写実であり見たままをありのままを俳句にする、だから写真と相性がいいのである

伝統的文化でもそこに必ず新しいものを注入しないと衰退して維持できなるなる
歌舞伎とかあってもそれは一般の人は関心がない、でもドラマはみんな関心があり今ではテレビドラマを見る、推理ドラマが面白いのである、このドラマはyoutubeなどでは作れないからテレビでもこの部分は生きつづけると思う、また時代劇も面白いが今はいい時代劇が作れていない、それで過去の時代劇をBSで見ている
こういうふう何事時代によって変化する、でも時代によってでも変化しないのもあるし
変化しないことで重要なことを伝えることもある
それで相馬野馬追いで宇多郷(相馬市)と北郷(鹿島区)が合流する儀式がありそれは
古式にのっとたものでありそれをわざわざ見に来た人がいたのである
その人は地元の人より野馬追いに興味があり詳しいとなる、かえって外部の人が関心をもつことがある

ただyoutubeでも野馬追いに外部から新規参入する人のことを放送していたがそれがいかにむずかしいかを言っていた、もともと新規参入は野馬追いではできない
代々甲冑でも旗でも家伝として残されたものであり勝手に使用できないのである
何かそこは非常に厳しいのである、それは歴史をそこなうからそうなる
だから相馬野馬追いは何か新しいものを注入しにくいのである
歌舞伎でも代々世襲であり外部からは入ることができないのともにている
そこにかえって限界があるともなる、新しいことができないからである
相馬野馬追は見る人と見られる人に完全に分かれている、地元の人でも参加できないのである、今回のyoutubeの放送は特別許可されたもので参加したのである

でも原発事故で小高郷が避難区域が離散した、すると野馬追いに出る人も避難した人がいる、浪江でも野馬追いに参加していたが避難した人がいる
その一つが小高から鹿島区(北郷)に移住した人がいる、その旗が「御家」だったのである、もともと小高郷の人だったが北郷のものになった
そもそも北郷とは小高に相馬氏の城が最初に築かれてそこから見て北だから北郷に成ったのである、小高がもともと相馬藩の中心だったのである、その後に原町の牛越城とかに移り相馬市に移ったのである
だからこうしてそもそも歴史の保存がむずかしいかわかる、時代が変わり不測のことが起きて歴史が維持できなくなる、また新しいものを注入しないと維持できなくなる
地元でも何か毎年同じであり不満も多いからである
それはみんなか参加できないものだからである
青森のネブタ祭は誰でも衣装を借りてハネトになることができる、参加型の祭りだからである、そこでは民衆の熱気があり祭りが盛りあがるとなる

野馬追いの見方の一つとして視点として侍に注目しているが実は馬が注目される祭りなのである、馬はもう見かけない、馬を見るのはテレビで見る競馬くらいなのである
馬は日常から消えたのである、でも戦前までは馬は農耕馬としてあり活きていた
それで農耕馬が野馬追いに出ていた、それは競馬の馬ではないから細身でなくとても早く走れる馬ではなかった、今は10万で競馬の馬を借りて野馬追いに出ている
確かに早く走る馬を見ると迫力がある、でも馬と人間が一体だった生活は喪失した
それで馬にまつわることは伝説化してしまった
馬を身近にみることができないのである、接することもできない
でもこの辺では野馬追いがあるために馬を飼っている、だから馬に親しむとういことはある、少女が馬の顔をなでるとかしていた、そうして馬と親しむと情緒が養われる
ペットのようにもなる、そうして曲がり家で馬と一緒に暮らしていて馬と結婚した伝説が生まれた、それだけ馬と人間は一体だったのである
その馬にしても大平洋戦争では軍馬を使っていて馬を飼っていた
太平洋戦争だと馬に乗って兵隊が南京とかに入場する写真が残されている
馬がその時は軍馬として活きていたのである
だから軍馬を祀った寺もあった、また馬頭観世音が本当に多い、これも馬で物を運んでいたからである
それでいたるところに馬もご苦労様でしたと供養したのである
それだけ馬とのかかわりが日常的にあったからそうなった

つまり野馬追いというとき侍に注目するが実は馬も生き返る祭りなのである
だから馬がいななく声をこのとき聞ける、馬が主役にもなる、それで雲雀が原でも馬があれだけ結集すると壮観になる、戦国時代を彷彿とする絵巻物となる
必ず落馬する人もいる、馬が必ず勝手に走り回る、落馬は必ず交通事故のようにあったからだ、野馬追いの維持とは馬が生き還ることであり馬の祭りでもある
そこに注目すると必ずしも人間側の侍にだけ注目するのではなく馬に注目する
馬を活かすことになる、ただ今馬が活きているのは競馬だけなのである
これはギャンブルでもあり日常的には馬は活きていないのである
だから何らか馬が活き還ることも考慮すれば祭りとして維持できるかもしれない
それををとするのかとなると小高とかでも荒地化した所に馬を飼うとかする
そこで馬が駆けているのを見ると気持ちいいとなる

何か馬と言う時、私は電動自転車に乗っている、これはいいものであり悪路でも行く
馬力がある、だからある程度馬にも似ていると思った
神旗争奪戦で旗をとり本陣めがけて一気に馬で登る、あそこは迫力がある
あのような坂道を馬が良く登れるなと見る、馬はそういう能力がある
マウテンバイクとも似ていると見たのである
ともかく野馬追いは果たしていくら歴史の保存でも維持できるのか?
千年つづいたとしても維持できのか?やはり侍だけの祭りではない、民衆が参加しないと維持できないのではないか?
新しいものを注入しないと維持できないのではないか?
それは地元の人達も思っていることである、でもそれがむずかしいことはyoutubeの放送でもわかる

例えば旗でも新しい旗を作ってもいい、会社の旗でも何か新しい旗でも作る
古式にのっとるものと歴史を保存するものと併用する、そして馬が活き還る祭りとして
伝える、だから確かにモンゴルとかアメリカでも牛を追う馬に乗ったカーボイいてそれらと共有するものがある、外国にしろ馬とかかわりが深い、でも馬というのは世界的にも
活きる場がなくなったのである、移動するもにも車であり馬は必要なくなったのである
だからこそ馬を活かす場が必要でありそれが野馬追いだともなる
そういう視点からも野馬追いは見るべきだとなる、そこに野馬追いを維持するコンセンサスがあるともなるからだ

今回の野馬追いは350騎は少なかった、普通は450から500出ていた、100少ないと何かものたりなくなる、迫力がなくなる
野馬追いを維持できるには約500騎が必要だとなる、神旗争奪戦でも少ないから迫力がなくなる
でも数を維持することもむずかしい、小高区が原発事故で離散したのでその影響もあった
浪江でもそうである、原発事故は何か家の歴史とか相馬藩の歴史も断つような大きな影響があったのである
その象徴が小高区の「御家」の旗だったのである、それはもともと小高に住んでいて歴史を継承できるものだったからである
こうして歴史を保存することはいろいろ変化するからむずかしいものになる

旗とりて一気に上る本陣へ馬とともにし誉れなるかな

人馬一体であり馬も誉れを受けたのである、それが野馬追いなのである、神馬も出るから馬祭りでもある

posted by 老鶯 at 10:07| Comment(0) | TrackBack(0) | 歴史(相馬郷土史など)

2022年07月26日

相馬藩内の姓 (日本人の姓は村の地名に由来している)

相馬藩内の姓
(日本人の姓は村の地名に由来している)

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●日本人の姓は地名に村の名に由来している

日本人の姓はほとんど地名に由来している、村の名前に由来している
日本人の姓をたどると必ず地名に行きあたる
只野の姓が鹿島区とかに50軒もある
その由来は明確である、南北朝の争いで南朝の城となった霊山が炎上して逃れてきた
落武者がその基となっている
その只野一族はもともと郡山市の多田野村に由来していたのである
だから姓を辿れば必ず村の名とか地名に行きあたるのである
姓はまたかばね{屍}であり死体のことでもあった、つまり先祖と深く結びついてるのが姓なのである

相馬藩の起りも相馬氏に由来している、その相馬氏は相馬という地名がありそこを根拠としていた、千葉県でありその辺でまだ開墾されない広い荒野がありそこに野馬がいてその野馬を捕まえて馴らして軍馬にしたのが相馬野馬追の始まりである
日本人のアイディンティティが村にあるというときそうである
相馬氏でもここに移住してきたとき今の相馬氏は中村に土着したから中村と姓が変わったのである、だからもともと相馬という姓が中村に変わった
そういうことが多いからその出自がわかりにくくなる
不思議に郡山市の多田野村の近くに小林村がある、すると小林とは多田野村の近くから出てきたのかとなる
ただ私の家は父親が葛尾村から出たことはわかっている
でもなぜ小林になっているのかわからないのである

地方を開拓するために展開した藤原氏、源氏、平氏等に出自をもつ武士が誕生していました。この頃の武士では武蔵七党が有名です。その武士たちも公家と同じく姓を同じくするものが多かったため、区別がつきづらくなっていました。そこで、武士たちは自分たちの領地・名田(みょうでん)を守り、かつ明確にするため、自分の支配する土地の地名を名字として名乗ったのです。

苗字帯刀(みょうじたいとう)」であり、苗字が身分の象徴になったため、武士等の特権階級や一部の庶民(庄屋・名主)を除いて苗字を公の場で名乗ることができなくなってしまいました

商人や農民の中でも、元々武士の家が帰農した場合には苗字があり、上層の農民も苗字を持ち、商人も名字に「屋」をつけて屋号にしたりしていました。あくまで苗字を公に名乗ることが許されなかったのであり、苗字を持つことが許されなかったわけではありません
https://ka-ju.co.jp/column/myoji#anc-7

●姓にまつわる物語

明治になって名字が名乗れるようになったことは重要な歴史である、江戸時代でも庶民の墓はない
墓にしても個人の墓であり殿様の墓にしても一人の人間の墓となる
家族墓は明治以降に法律化されてできたもので新しいのである
天皇を親として家族でまとめて赤子とする明治の政策でそうなったのである
それで誰でも名字を名乗ることができるようになった、しかしその由来はわからない
庶民の姓は・・・屋が代わりになっている、屋号である、今でも自分の家で店をしていたから屋号で呼ばれるのである、それは近くの古い農家でも屋号で呼ばれているのである
江戸時代で農民で個人の墓はないが幕末頃になると個人名の墓が作られた
百姓の名前が記されているからだ、それで得意なことがあった
その頃経済力がついて百姓でも墓を作ったとなる

相馬藩だと侍の名字は相馬野馬追の時に目立つ、旗印の下に名字と名前が記されるからである、名字というときこの辺では鎌倉から移住した岩松氏が有名である
岩松氏は領地を広げて飯館村まで領地として支配したのである
その岩松氏の支配になったことでその名残りに地名が残っている、千倉とか街内の御前の内とかがそうだろう、それは鎌倉時代のものだから古いのである
そしてその家来の日里、中里、島、蒔田に惨殺されたのである、幼児まで殺されたのでひどいとして伝説としてより明確な事実として語り継がれたのである
後に日里は郡に変えたのである、祟りを恐れたからである、この姓は相馬藩内で残っていて結構子孫は反映して残っているのである、別に祟りがあって後がつづかないということでもなかった、姓は歴史を語る、名前はその個人を語る、でも名前だと連続した歴史がわかりにくいのである、でも胤と必ず相馬藩主の殿様についている、それは連綿としてつづいている、そう相馬野馬追がつづいているので殿様がまだここでは活きているのである

ただそれを言うと現実にその子孫が生きているので語りにくいことが500年過ぎてもある、地元では悪いことは語りにくいのである
それで郷土史は悪人がいないからきれいごとになっているから面白くないと指摘していた人がいたのである
岩松という姓は一族が断たれたので相馬藩内にはない、これが如実に歴史を語っているのてある
もう一つ相馬藩内で姓で大事なのは越中などから富山県などから飢饉で三分の一の人口が減った時移住してきた人達である、その姓はわかるからその末裔だとわかる
墓だと南無阿弥陀仏としか記されているのでもわかる

岩松氏の伝説
http://www.musubu.jp/kashimamanonado.htm

●「御家」の旗は小高から鹿島(北郷)に人が移住しため

ともかく野馬追いで鹿島区(北郷)から出た「御家」の旗に違和感をもったのは
もともと小高の侍の出であり北郷ではないからだとなる
どうして違和感があったのかというと江戸時代の封建時代は土地と人間が一体化していた封土とは土地を納めてそこから年貢をとる仕組みのことである
だから土地と一体化して人々は侍に支配されていたとなる
農民社会だと土地が一番大事だからである、だからこそその土地の名前が村になり姓名となる、その土地から離れて人はありえなかったのである
それで「御家」の旗印が鹿島区(北郷)に移った時、小高という歴史的土地から離れたことで違和感をもったのである、もともと小高にあってこそ歴史的存在として価値をもっていたからである、ただ相馬藩内であれば依然として歴史は共有されて活きている

でも原発事故で小高ら避難した人達は相馬藩内に移住したとは限らない
相馬藩外に出るといくら侍の出であり甲冑とか旗印が伝えられても価値がないとなる
そこに原発事故がいかに歴史を断つような過酷なものとなったかを知るのである
他でもこの土地に生きた歴史を消失しているだろう、家も一つの歴史を語るからである
でもその土地から離れた時価値がなくなる
日本人は土地の一体感が強いからそうなる、土地とアイディンティティ化しているからそうなる、それが文化でも作ってきたからである
先祖を大事にするというときその土地の先祖なのである、他の村とかの先祖ではないのである

●外国人の姓

でも大陸の遊牧民とかなると土地とは余り関係ない、一定の土地に定着しないからであるそれで姓はあくまでも血縁であり氏である、土地に由来しないのである
ロシアでウラジミールプーチンとか言うけどウラジミールという姓の人が多くいて一族だということがわかる、つまり名前は多様でも姓は限られているとなる
それは韓国でも中国でも例えば李という姓があるとすると大勢の李氏がいる
韓国では李朝鮮ともなっていて李一族が国家にもなっていたのである
中国でもいろいろ姓があっても限られている、中国は農耕民だとしても日本とは違いやはり大陸文化を受け継いでいるから姓は村の地名にはならないのである

Влади мир 「世界を征服せよ!」ですかね。
ウラジスラヴァという名前もあり、そちらは「名誉を征せよ!」ですね。
都市のウラジオストクは「東方を征服せよ!」という意味です。

やはり大陸的だとなる、常に大陸では征服せよになるからだ、まさにプーチンがそうである、征服せよとしてウクライナに侵攻したからである
大陸だと姓を見れば一族となりつながりがあるとなる、
そして外国人と結婚すると夫婦別姓になることが認められている、姓はそのままなのである、つまり姓とは歴史であり系統をたどるものなのである、名前にはそういうことがないのである、外国人の姓になったら日本とは別な姓に属することになりその国の歴史として組み込まれることにもなるからである
だから在日朝鮮人だと李とか多いがこれは韓国が一時李朝鮮となっていたことでもわかるし中国でもいろいろな国が群居していてその国の名が姓になっていることでもわかる

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相馬氏成田の武内(竹内)は墓も夫婦別姓である
武内と岸と記されている
江戸時代まで夫婦別姓だった、農民には姓がなかった
ここで嫁いできても実家の姓を残したのはやはり侍の出だったからだろう
姓はその家が有力な家だったら嫁ぎ先でもその姓が伝えられた

●片倉村の由来

片倉村は片倉辺の神が長野県の方で有名である、するとその神を奉じた人たちが相馬氏が来る前に土着していたのか、片倉という地名と大田という地名も相馬氏が来る前にあったとなる、他にも片倉という地名はありやはり神の名として残したのかもしれない
必ず人が移動するとともに神も移動するからである

南相馬市片倉村の由来
http://musubu.sblo.jp/article/48048119.html


片倉財閥の片倉家と北海道開拓を担った伊達藩白石城主の片倉氏の関係をネットで調べると《絹の道を往く 八王子編 Vol.6》に、両者の先祖は「諏訪湖で繋がっていた」と記述されていました。
http://hibinokizuki0126.livedoor.blog/archives/6340337.html

やはり2つの片倉は同一の先祖だったのです。実際に、現在の住所の伊那市高遠町藤沢に「片倉」という集落が存在していたといいます。諏訪大社上社本宮の裏手の神体山である守屋山の麓です。

また、伊達藩白石城主の片倉氏の家祖として「片倉辺命(かたくらべのみこと)」がウィキペディアに記されていました。「諏訪氏系図.続編」においては片倉氏の祖神といいます



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2022年07月24日

相馬野馬追い (雲雀が原へ結集ー神旗争奪戦ー御家の旗印が北郷から出たことについて)


相馬野馬追い

(雲雀が原へ結集ー神旗争奪戦ー御家の旗印が北郷から出たことについて)

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御家は小高郷の出の旗印である、でも北郷から出ている
それは小高から鹿島区(北郷)に移住したためなのである

五輪の塔が先祖だから似合っている

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原町区北高平に立った旗印

高平は越中からの移民が入った地域として知られる
でも野馬追いの旗が立っていることは相馬氏に連なる古い家である
相馬野馬追いとか相馬の歴史を知る時、野馬追いに出る家を知ることが大事なにる
でもそれが広いしわからないのである
野馬追いに500頭で出たとしても所帯数にする何万もありわずかしか野馬追いには出ないのである
それがあんなに数が多いからと錯覚するのである
実際は野馬追いに出る家は全体から見ればわずかなのである


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揚羽蝶の紋は平家になる
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甲冑競馬
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片倉村から太田神社に向かう途中に鷲宮神社がある


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殿様の帰るのを迎える侍たち




旗印陽射しの強く映えにけり

旗印風の文字なれ風なびく

御行列続く長さや暑しかな

伝来の旗印も古る歴史かな

雲雀が原馬いななきて蘇る

蝉鳴いて甲冑競馬や一周す

馬走り馬も喜ぶ三年ぶり

旗印家の誉れを担うなれ

野馬追いや落馬二人に終わりけり

御家また帰り馬かな北郷へ


勇み入る雲雀が原へ従えぬ相馬の殿や誇らしきかな

旗とりて一気に上る本陣へ馬とともにし誉れなるかな


今回の相馬野馬追いは三年ぶりだったのか、集まった馬は350頭である
普通は最高で500頭でありそれに近い数字を出していた
だからずいぶん少ないと見た、それでも結構長く感じられた
野馬追いは出るにも金がかかる、まず野馬追いに出る馬を一年中飼っている人がいる
するとそれは結構な出費になる、ただ馬が牧に飼われているのはこの辺の風景としてはいい、第一今は馬に接するというとき競馬くらいしかないのである
牧場で少女が馬の顔をなでるとかするのを見た、それは子供の時から馬になじんでいるのである、そういうふうに育てば馬を怖く感じないとなる
それで馬が農耕馬として飼っていたとき馬と結婚した女性の伝説がある
馬は曲がり屋で馬と一緒に寝起きしていればそういう伝説が生まれるのも当然だとなる
ともかく馬と人間が一緒にいる風景がなくなったのである
馬の代わりになったのが車だとなる

相馬野馬追いはそもそも祭りとしても参加型ではない、歴史の保存として維持しているのである、勝手に旗を作り庶民が出ることはできない、伝来の兜と旗印があり出れるのである、それで奇妙だったのは「御家」というのは実は小高郷に住んでいた人の旗印なのである、なぜ御家となるのか?それは小高に最初に相馬氏が城を作ったからである
小高が相馬氏の始まりである、相馬太田神社が起点となり小高に城が作られた
相馬太田神社が相馬藩の中心の神社ともなったのは相馬氏は片倉村の山の方から入ってきた、そこに八重米坂とか初発神社がある、山を越えて下り相馬大田に至った その途中に鷲宮神社がある
そこに相馬太田神社があり小高の方に進出して最初の城を小高に築いたのである
それから城は海の方の村上に一時作りそこは縁起が悪いとして原町の牛越城に移った
そこに五年間あった、それから相馬市に移ったのである
だから外から見ると誤解する、今城がある相馬市が城下町で一番古いと見るからである


だから奇妙なのは「御家」の旗印なのである、それは鹿島区に北郷に移りあたかも北郷の一員であったとように見える、現実原町の雲雀が原への行列でも北郷に入っているのである、このようにこれは歴史を誤って見ることになる
なぜなら相馬野馬追いは歴史と伝統の保存でありここでそれが原発事故で小高区が避難区域になって鹿島区(北郷)に移り住んだ結果なのである
ここに違和感を感じたのは相馬野馬追いは歴史に忠実であり歴史の保存を目的としているからおかしいと見たのである、勝手に誰でも参加できない、伝来の旗とか兜とかを伝えられている侍の出しか出れないからである
また鹿島区の北郷では本陣がもうけられて相馬市の宇多郷と合体して雲雀が原に向かう、その古式がここで行われる
それを見たくて来た人がいたのである、その人は相当に野馬追いに詳しいとなる、なぜなら地元の人でも知らないからである

御家で構成される、「旗本組」という部隊が行列して参加しなかった武士たちの待つ原町宿へ向かう
元禄12年の野馬追いの旗本組の備の構成人数だけで1000人を越えていた

特に忠胤は野馬追いの行事を大きく変化させた、鉄砲の奥義や武田流の軍学を積極的に取り入れ、備立や駆け引きをはじめている
約8000人の武士が参加する大規模な駆け引きが行われた

相馬野馬追の歴史から見る行事内容の確立と存続のためになされた様態変化

御家の意味はこういうことだった、旗本というとやはりエリート集団だった、だから誇りがあった
それにしても8000人が参加したというのは驚きである、それだけの侍がいたということになる
ただその当時は郷士であり侍であっても農業していた農家の人が侍になっていたのである
だから侍専門の人は少ない、旗本は侍専門の人達である

一般的には歴史にそれほど興味がなければ野馬追いはつまらないという人もいる、私は青森のネブタ祭りを見に行ったがハネトには誰でもなれる、祭りで地元の人達と一緒に踊ることができる
ネブタ祭りはそれで盛り上がるとなる、でも相馬野馬追いにはそういうことはないのである、だから相馬野馬追いは出る人と見る人に分かれている、参加形の祭りではないのである

そしてそもそも相馬野馬追いは旗祭りというときなぜこれほどの旗印があり多様なのか?
これが解明されていない、どういう由来なのかわからないのである
ただ芸術的デザインとして見るだけではない、それがどうしてその家の旗印になったのかわからないのである、例えば揚羽蝶の旗印があったとする、するとこれは蝶の紋は平家なのである、すると平家に連なる一族として相馬氏に仕えていてそうなったのかとなる
でもこの旗印は余りにも多様でありその出自とかが誰も解明していない
それを研究している人も見つからないのである、それは余りにも多様だからそうなる
その由来をたどることができなくなっているのた
その由来をたどると関西方面になるからである、千葉県に相馬氏の基があっても相馬氏でもいろいろな人が入って来たからである、武田信玄の六文銭の旗印があればそれは武田氏の末裔なのかとみる、武田信玄は織田信長に敗れて伊達藩にも入った有名なのは伊達政宗の重臣だった

大坂城が落ちるまでそこにいれば、豊臣方として男子は処刑され、女子も命が助かったとしても出家する他道はなかったでしょう。
それをなんとか助けてもらう方法はないかと、思い倦ねた幸村は、死の前日、伊達政宗の参謀の片倉小十郎景綱の嫡男、片倉小十郎重綱という人物に目をつけます。

自分の娘「阿梅おうめ」を、この片倉小十郎重綱に嫁がせよう。
義に厚い伊達政宗ならそのほかの子供達も守ってくれるかもしれない。

幸村は大坂城にいる子供達に手紙を渡し、伊達家の庇護のもとに命永らえて欲しいと願ったのです。幸村の願い通り、伊達家は子供達を徳川から守ってくれました。

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こういう話があり不思議なのはなぜ片倉村がありそこから太田神社につながっているかである、そして白石の片倉氏の紋は相馬氏と同じ九曜の紋なのである
他にも片倉という地名はある、この片倉の由来がわからないのである
伊達藩でも相馬藩でも争ったとしても戦国時代が終われば平和的に交わっていた
当然相互に交流もあり歴史が作られてきたのである

このように六文銭の旗印があれば真田幸村までたどることができる、でもこれだけ多い旗印の由来をたどることは不可能になっているのだ
そもそもなぜ片倉村になったのかわからないのである、片倉という地名は他にいろいろありわからなくなったのである
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何か旗でも古びたのがあった、いかにも古いから歴史を感じるともなる
ただ他は旗印はそのままでも新しく作り直している、今回の風という文字の旗印があり
デザイン的に見れば面白いと見た、なぜこんな旗印にしたのかその由来もわからない
また鯰の旗印もあった、それも不思議になる

ともかく「御家」の旗印はもともと小高郷から出たものであり小高の城が相馬氏が最初に築いた城でありだから歴史的に見ればふさわしいとなる
御家とはヨ−ロッパだとハウスブルグ家なのである、ハウスは家でありブルグは城だからである、一つの家が拡大したのがあれだけ大きな国になったのである
こうして相馬野馬追いはどうしても歴史を知る必要かある、そして相馬野馬追い祭りは
歴史の再現なのである、相馬藩が一つになる祭りなのである
祭りとは祀るとは死者を祀ることであり先祖を祀り先祖を偲びその時代を偲ぶのが祭りだとなる、時間がすぎるともう30年前でも時代がわからなくなる

本当に学生時代とか50年も過ぎるとその時の東京はどうだったのかとかわからなくなるましてや400年前とかなるとその時代を具体的にわからなくなりただ想像の世界ともなってしまうのである、でも相馬野馬追いは具体的に歴史が再現されることに意義がある
だから全員参加型の祭りとは違っているのである
日本の歴史を知る時やはり祭りは具体的に時代を再現するから知ることが欠かせない
それでフランスの人が日本の祭りを見て旅していたのである、それだけ日本には祭りが多いからそうなった、また神社が多いのはその土地の先祖とのつながりが残されているということなのである

ただ正直相馬野馬追いの旗印を知るのは容易ではない、参考になる本もないし研究している人もいないようだ、それだけわかりにくいからそうなった
今回は「御家」という旗印から歴史をたどったのである

とにかく今回は行列でもすいていた、だから写真とるには良かった、混み過ぎて前はうまくとれなかったからだ、野馬追いとは写真とるにはいいのである
その写真をとるにしても一年に一回しかチャンスがないから意外と毎年違った写真がとれるのである
それで写真が趣味の人はいい、実際に70万とかの望遠レンズを持った人が写真をとっていた,プロというものでもない、写真は写真機よりレンズの作用が大きいのである
だからレンズの方が写真機より高くなるのである、そしてレンズの種類がまた多いのである、その人の持っているカメラは10何年か前のであってもレンズがこれだけ高くていいものだから違っているのである、でもその値段には驚いた、金持ちは都会になるといるということである
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2022年07月23日

二年ぶりの野馬追いを見るー北郷(鹿島区) (馬が蘇り活きるのが野馬追い)


二年ぶりの野馬追いを見るー北郷(鹿島区)

(馬が蘇り活きるのが野馬追い)


北郷本陣へ向かう

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これは只野家なのである、只野家は鹿島区に50軒くらいある
南北朝で南朝の城が炎上したときここに落ち延びた末裔なのである
郡山の多田野村が只野家の発祥の地なのである

旗の下に桔梗が咲いている

旗印只野一族桔梗咲く

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木槿が咲いているが似合っている
鹿島区は大きな街ではないからだ、回りが田圃なのである

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紫の母衣(こも)は副大将である

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大将の母衣が見える

この季節のうぜんが野馬追いに合う



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御家という旗は小高から移って来た侍の家なのである
原発事故で鹿島区に移り住んだ、でももともとは小高の人なのである
こういう変化もあったとなる、歴史的には北郷(鹿島区)の人ではないのである

とにかく野馬追いの時はのうぜんかずらの花が咲く、それが季節的に合っている




南相馬市原町区雲雀が原

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殿様のいる雲雀が原に神輿をみんなで持ち上げ登るとき一体感を感じるだろう
ただ今は会社員に頼んでしているのである
昔は侍がみんなでかついだ、神社の人達をもかついだ、そこに一体感を感じたのである

クリック拡大で鮮明に大きく見える




いななきあい鼻息荒く本陣へ

旗印木槿に映えて御行列

野馬追いやのうぜん熱く咲きて散る

杉の紋誇らしく立つ只野家に

旗印只野一族桔梗咲く

大将を迎えどよめく人と馬


野馬追いは二年ぶりだろう、人は集まらない、ウィルスがまた蔓延しているからだろう
人混みをさける、野馬追い行列見る人も少ない、
近くの只野家には杉の旗印の旗が立っていた、鹿島区だととにかく只野の姓が50軒くらいある、その歴史は南北朝にさかのぼるのである、南朝の霊山の城が炎上したとき落ち延びたのである、只野とか桑折の姓はその落ち延びた先祖なのである

野馬追いというとき千葉県に牧が多くあり野馬がいてそれが畑などに入ってきたりして
困るから野馬土手を作った、侵入できないようにした
野馬は誰かが飼っていたものが逃げたりしてそのまま原に野生化した
その頃まだ田畑でも開墾されない土地が多く原が多かったからである

昔の絵図を見ると広大な原が広がっている、そこは田畑に利用されていない、だから野馬になっても生きていける広大な土地があった、その後そういう原は田畑化していった
原町もそうである、もともと原っぱなのである、原町村があり一騎だげ野馬追にでていたその後雲雀が原が明治になり開墾に入る人がいた、外部からも来た、今の雲雀が原よりもっと広い土地があったからだ

野馬追いは宇多郷の侍が北郷で合流して原町の雲雀が原に結集する
小高郷からも集まる、飯館村が山中郷であり江戸時代から出ていたが今は出ない
ともかく馬というのがわからなくなった、馬を見ているのは競馬だけである
馬が日常的に生きていないときわからなくなった
馬とかは農耕馬もあり人間とともに生きてていた、馬と人間が一体となった曲がり屋もあった、馬は身近な動物だったのである、今は牛の方が身近な動物となっている
飯館村は牛の村で有名だったからである

北郷の本陣に馬が集まりいななきあうとき活気を帯びる、この時馬が活きるのである
人馬一体になる、今日は暑かった、これで危険なのは熱中症である
陽射しが強かったからである、写真をとるのも結構暑いと苦しくなる
野馬追いで不思議なのはいつも写真を撮ろうとするのだが必ず見逃してしまう
それは年に一回しかないから、撮り逃がしてしまうのである
だから野馬追いは写真撮ろうとすると飽きないとなる
その年年で違ったものになるからである
明日は雲雀が原に行き写真を撮るとなるのが結構暑いと熱中症が怖い
ただ人が少ないから写真をとるにはいいとなる、人が混んでいて写真をとる場が見つけられないかである

ただ8時ころから行かないと間に合わない、10時ころ行列が開始されるからである
野馬追いは田畑の中でも旗をなびかせて来る時などが絵になる、それを撮るのはむずかしいのである、毎年雲雀が原には写真を撮り来る人がいる、でも雲雀が原の中まで入るのは予約して許可がないと入れない、それは早い時期から予約して決めていないとできないのである、やはり写真を撮るというのは結構どこでもむずかしいし手間になるのである



2022年07月22日

いつの時代も言論の自由はなかった (人間の権力を求める、宗教も権力を得るために利用される)


いつの時代も言論の自由はなかった

(人間の権力を求める、宗教も権力を得るために利用される)

●言論の自由は歴史上なかった

そもそも人間はあらゆる自由が可能なのか、これが政教分離でも問題になる
結社の自由とか信教の自由があるからだ、人間は自由を求めて来たことは確かである
信教の自由と言ってもそれは歴史的に見ればなかった、必ず弾圧されてきた
それはキリスト教でも仏教でもそうだし思想としてもそうである、共産主義でも弾圧されてきた、人間に信教でも思想の自由がなかった
常にそれを許さないものが社会にあり権力でも弾圧してきた、キリスト教でもカトリックが今度は権力をもったから弾圧してきた
そして人権を重んじるフランス革命が生まれた、つまりこれは宗教からの解放として生まれたのである、それはなぜかとなればカトリックは宗教でも社会で権力をもっていたからである、その自由を求めてルターの宗教改革がありプロテスタントが生まれた
何か自由というとき権力側から弾圧されて血を流し犠牲になった人達が大勢いた
戦前なら天皇が神となりそれに逆らうものは弾圧された、殺された人達もいる
創価の創始者の牧口常三郎などがそうである

また言論の自由というけどこれもなかった、権力者に歯向かう批判の言論は許されなかった、中国では

焚書坑儒(ふんしょこうじゅ)

『史記』秦始皇本紀によると、始皇34年(紀元前213年)、博士淳于越(中国語版)は郡県制に反対し、いにしえの封建制を主張した。丞相の李斯は、儒者たちがいにしえによって体制を批判していると指摘し、この弾圧を建議した。始皇帝はこの建議を容れて、医薬卜筮・農事以外の書物の所有を禁じた「挟書律」を制定した。

これで学者が生き埋めにされたとかあった、つまり皇帝の絶大な権力に反抗する者は苛烈なものとなった、そこには批判する自由も思想の自由もなかった
だから権力者を批判することは死ぬ覚悟でしないとできなかったのである
言論の自由など江戸時代にもなかった、幕府の批判は許されなかった、「見ざる、言わざる、聞かざる」になっていた
戦時中は政府の批判は許されなかった、戦争に対して何か批判的なことを言ったら特高が着て刑務所に送られた、つまり言論の自由は戦前まではなかったし今でもない
一見あるようでもない、私自身でも個人は発言してはいけないと町の図書館に本を置けなかった、公務員はそういう力を持っているからだ
つまりいつの世でも言論の自由はなかったのである、民主主義になっても言論の自由はない、なぜなら発言するにしても批判するにしてもできない、本を出すにしても普通はできない、だから原発でも危険を知っていた人があっても発言できなかった
またマスコミでも自由な発言はさせないし批判はない、原発でも原子力村が強固に作られていて批判は許されなかった

●権力をどうして監視できるのか

統一教会がなぜマスコミで一時あれほど批判して放送したのに

なぜその後全く報道されなかったのか?

これも不思議だった、統一教会のことなど忘れていたしそんな影響力があったとは思えなかった、でも自民党に働きかけて影響力をもっていた

そして公安委員長も統一教会に忖度していた!

これは大きなことである、権力というとき一番の権力は警察とかまた戦争になれば自衛隊とか軍隊になるからだ、戦時中軍人が一番威張っていたというときそうなる
人間の権力の最たるものが暴力であるからそうなる

統一教会が報道されなかったのは報道させないように権力が働きかけた

こういうことは常にある、権力あるものと権力がないものがありマスコミは報道する権力をもっているが報道しないのはさらにその上の権力あるものがあり報道させないからだとなる、原発でもその危険は報道させなかったとなるからだ

人間の社会の問題はこの権力にある、権力あるものが必ず自らの権力を維持するために守るために批判させないのである
権力というとき統一教会はそれなりに資金を集め奴隷となる信者を集め権力を持つことになる、民主主義では確かに自由があるが票を集めに苦労する、するとまとまって票がある組織団体とつながる、そこに癒着が生まれる

宗教団体でもそこにはまとまった票が得られるからつながる、創価はまとまった票が必ず計算して得られるから票田になり自民党と一体化する、その見返りとして大臣の椅子を与え権力の特権を与えるのである
創価の活動はまた権力を得ることにある、その権力を得る為に無血革命とか言ってその活動は選挙活動なのである、目的は権力を得ることである
そして今度は巨大な権力化すると反対する人を弾圧するのである
創価を批判する者は許さないとなる、そのために福島民報でも毎日新聞でも聖教新聞を刷らせて資金援助するのである、そうすれば批判できないからである

●権力がなぜ生れるのか?

そこから危険な状態になる、原発の危険は知らされず地元の人たちは故郷にも住めなくなったとか戦争で何百万人死んだとかなる、つまり権力とは実効力あるものでありただ何かを言うだけのことではない、批判を封じることもできるし何かを強制的に実行できる力なのである
だからこの世とは必ず権力との戦いになる、権力を持つものとの戦いなのである
その戦いはこの世の終わりまで終わらない、それは人間が権力を求めることにこそある
この権力とは何なのか?それは人間の尽きない止められる欲望だということである
権力をもてば得をする、金も入ると女性への欲望がかなえられるとか何かこの世の欲望が得られ立場になる、中国の共産党なら幹部になれば莫大な富が得られるとかなる
またアメリカにしても今度は一見平等を言うにしても民主主義にしても世界の富をわずかな人たちが独占する、株などでもそのシステムはわからない、巨大すぎて理解することは不可能なのである、その富は後進国などの貧者の汗の労働から得たものにもなる

だからこそ人は権力を得れる者になりたい!

それは宗教でも共産主義でも同じなのである、権力者がいるから権力者に代わり自分たちも欲望をかなえたい立場になりたいというだけである
統一教会を見ればわかる、信者を奴隷にして豪華な建物を建て幹部は贅沢しているのである、結局この世の中人間を養分にするものと養分にされるものとに分かれるのである
結局この世の中はブラック会社なのである、養分にする者が政治家であれ官僚であれ他にもいろいろある、パチンコする人はそれて儲ける人の養分だということもそうである
カルト教団だと信者は奴隷であり幹部の養分だとなる
要するに養分にされるものか養分にする方になるかがこの世である
政治家は国民を養分にする方であり自分のことしか考えない、選挙のときだけ愛想良くするが後は知らないと自ら議員が言っているからである
このようにこの世のからくりを知るべきだとなる

宗教でも山の中でわずかの食糧で節制して修行しているような人ならいい、カルト教団はとにかく権力を追求しているのである、政治化するのも数を集めるのも権力を求めているからそうなる、宗教はそもそもの始まりは権力の否定からはじまったのである
よくよく聖書を読めば権力を否定していることがわかる、権力を求めないことこそが宗教である、神の国とは権力なき世界である、唯一の神によって治められる世界である
全権が神にあり神が治める世界である、そこで人間は権力者の養分ではない
一人一人が自律的に神の子であり神の国に生きるのである

●権力を監視する三権分立

だからこの世でまともな人は必ず時の権力者と衝突する、これはさけられない
その権力者とは誰かとなるととにかく何らかで権力を持っている人である
官僚でも大きな力を持っている、警察は暴力装置だから権力を持っている
宗教団体でも数が多ければ票になるから権力を持っている、権力によって社会を人間を社会を動かすのである、宗教もその方便として使う、その目的は権力を得ることである
そのために人間は偽善的になる、宗教でも結局人間の欲を達成させる為のものとして利用される、美辞麗句を並べてもその中身は汚いものなのである
オリッピックでも美辞麗句を並べても実際はその実行者は金を得る為だったのである
人間はそもそもそういうものなのである、ジキルとハイドなのである
自分の欲望が第一でありそれをかなえるためにいろいろある、宗教もその一つになっているにすぎないのである

民主主義が三権分立になったのは「権力」を一番問題にしていたからである

「三権分立」とは、国家権力を「立法権」、「行政権」、「司法権」の3つに分けて、立法権は国会、行政権は内閣、司法権は裁判所という形でそれぞれ独立した機関が相互に抑制し、均衡を保つことで国家権力の濫用を防止し、国民の権利と自由を保障する仕組みのことです

司法とは権力の監視機関である、立法権は国会で審議して法律を決める、でも政教分離の法律を決めるとなると簡単にはできない、自民党でも他の党でも宗教団体の支持を受けているからそれができないのである
そもそも司法権でも絶対ではない、統一教会に公安委員長がかかわり忖度していたとかなるからだ、つまり宗教団体でもすでに大きな権力でありその権力に影響される
だから巨大化したカルト宗教団体でも取り締まることはできないのである
そして権力は危険なのは権力が巨大化するとそれに逆らうことができなくなり暴走する
それがナチスだったのである、もう誰も止めることはできない、それは独裁国家で起きて来る、独裁国家は独裁者に権力が集中する、そして誰も逆らえなくなる
それがロシアのプーチンであれ中国だったら習近平にもなる

そうした権力の暴走をどうして制御するのか?

それが民主主義社会でも自由社会でも課題になる、なぜならナチスは民主主義で選挙で当選して大きな力を持ち暴走したからである
つまり権力とは暴れ牛のようになる、その時誰もその牛を制御できなくなる創価などは今下降気味だけど会員がうなぎのぼりに増えてナチスのようにもなる勢いだったのである、民主主義は自由だとしても全体主義になりやすいのである
大衆が主役でありそれはただ数によってすべてが決まるからである、数が権力になるからだ、だからその数を集めるためにカルト教団は毎日活動している
布教するというのもただ数を集めて奴隷にするためである

●カルト教団員には獣の印が押されているーサタンの偶像崇拝である

カルト教団は精神的な奴隷にすることだからである、教祖が神となり絶対服従になるからである、それは偶像だとなる、それらは獣の印を押された人達だとなる
ある時は卍が印しとなりZが印しともなる、牛とか羊でも焼き印を押されたようなものである、その印しのある者はまるでサタンに属したともされる
この世は二つの人間に分かれている、この世のサタンの印を押されたものと神から選ばれた者の印を押されたものである、神の国の約束を得たものである
結局カルト教団の教祖は実際は天使を神を装ったサタンだとなる
結局宗教もサタンに乗っ取られるのだこの世だとなる
なぜ乗っ取られるかとなれば人間は限りなく欲望を持っているしその欲を絶つことは不可能である、だからこそその欲によって人は動く、サタンはその欲をかなえてやるとして
崇拝するのである,サタンは人間が作り出す、人間の欲望が作りだしたものである
もし欲がなければ子供のようにサタンはかかわれないからである

実際は統一教会の教祖の文鮮明でもまたオウムの麻原でも創価の池田大作でもサタンだったとなる、サタンを偶像を崇拝するのがこの世の人間である
本当の神は崇拝しない、だから神の一人子は十字架にかけられた、この世で崇拝されるのは善を装うサタンだとなる、そのサタンの権力が絶大なので多くの人達が従うのである
そして世を支配するのであ、その人たちは獣の印が押された人達のである
つまりサタンのものになった人達だとなる、何か無神論者の方が独立的であり優秀な人が多いこともいえる、カルト教団は大衆が相手でありただ数として数えられる人達であり
そこで一人一人など見ていないのである、数を集め権力として見ているだけである

そして人間は遂に権力と権力が対抗してハルマゲドンになり滅亡する
アメリカが中国がロシアが巨大な権力でありその権力同士が衝突して世界は核戦争とかで滅亡する、どうしても権力を求めるのだからそれをやめることができないのだから結果的にそうなる、もし人間が権力を求めなければそうはならないのである
でも権力と欲は一体なのだから権力なき世界など生れないのである
だからこの世は一時滅びなければならない、そして神の手により再び神の国が創造されるそれを望む他ないのである、いくら理想を求めても無駄だとなる