2023年10月02日

空き家1000万軒にもなる (個々人では解決しない社会全体の問題になっている)


空き家1000万軒にもなる

(個々人では解決しない社会全体の問題になっている)




●家は思い出があり愛着があり簡単に壊せない個々の事情がある

空き家のことをNHKで放送していた。10年後20年後に1000万戸が空き家になる。それも都会でも空き家が増えている。その空き家の処理をどうするか問題になる。空き家の問題は簡単に壊せないとかある。そこでその家で育った人がいて愛着が生まれている。家というのはただの建物ではない。箱ではない。そこで人が暮らした歳月があり営みがありそれが思い出として家がある。
だから問題なのは家というのは単なる建物というのではない。その家で暮らした人間の思い出がその家と共に宿っている。物がありその物に心が憑くとなる。物は単なるものとしてあるのではない。物心がつくという時も物と心は一体なのである。仏教で言えば色心不二となる。、物と心は一体なのである。それは東洋的思想だとなる。

そこで家という建物はハードでありその建物どういうふうに利用するかがソフトだという。その利用方法があるのだがそれはソフトだから何かアイディアが必要でありそれが問題になっている。
でもリフォームするとそれは使えるし今中古物件が売れているというのも分かる。そのリフォーム代を不動産屋が金を払ってしている。若い人たちが安い家を買えるのだから人気になるのもわかる。ただ都会の空き家と地方の空き家問題とは違ってくる。
東京でも一部では五軒に一軒が空き家となるという。だから東京というのも全体的に縮小してゆくのかとなる。そしてやはり今までは地方から集まってきた若い人たちがすでに老人になっている。そしてやはり高齢化して老人が増えてくるのである。

●空家問題は市町村で社会全体の問題

この空き家問題は個々人の家の問題でもあるがこれだけ空き家が増えるということはそこに住んでいる周りの人にも相当に影響する。だから自治体でも放っておくのではなく関わらざるを得なくなっている。火事とか誰かが勝手に住むとか犯罪の温床にもなる。アメリカではやはり自動車産業が衰退して街自体がすたれてゆく街を紹介していた。そこでは市が積極的に関わり都市計画として空き家を壊してそこを農地にするとか公園にするとかして都市全体の問題として関わる。
つまりこれだけ空き家が増えるということは個々人の問題でもあるが公共的な問題にもなっている。

また東京都心から埼玉県の方にニュータウンができた。そこから東京都心の都心へ通う住宅地であったがそれも空き家化している。そしてなんとかゴーストタウンになるのを防がなければならないとして対策を考えている。
この辺では原発事故で避難区域になったところは実際に空き家だらけであり街自体がゴーストタウンになったのである。今でも空き家だらけでありそれも壊されている。
最近私の家私の住んでいる近くでも四五軒が壊されてそこが空き地化したのである。町の中でもやはり家が壊されて空き地化しているところがある。

ただこの辺では原発事故で避難区域になったところから移住してくる人も多い。そこで新しい住宅ちくわみっつ四つ生まれた感じになる。そして不動産会社でわ土地を整備してその土地を売り住宅さらに建てようとしている。それは原町にも原発避難区域から移住してくる人が多いのである。
だから空き家が増える日本の地図を見るとき南相馬竹茂空き家が多い場所になっているのは当然である。でもなぜいわきのいわき市の方がもっと空き家が多いのだろうか。いわき市には原発避難区域から移住した人が新しい家を建てて近隣ともめたことがあったからである

●いわき市はなぜ空家が多いのか

グラフで見るいわき市の居住世帯あり住宅数は多い?少い?(推移グラフと比較)

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いわき市は原発避難区域からの移住が多いからこういうグラフになった。いわき市は面積が広いから農村地帯もありそれで空家も多いが原発避難者が二万人とか移住して補償金で新しい家を建てたので地元の人もめたのである。

ともかくこの辺は原発事故と津波の被害で海岸地帯の村が消滅したりその変化が激しかった。もし津波と原発事故がなかったらこんな大きな変化にはならなかった。それでもやはり少子高齢化になり空き家はどこでも増えた。それで原発避難区域とかは帰った人もいるがその人たちは老人が多いからまた周りは空き家だらけでありそういう町が維持できるのだろうかとなる。
そこで暮らすのも不便になる。だからいわき市であれ南相馬市でも相馬市にでも移住した人が多いのである。それだけの補償金をもらったからである。

だから原発避難区域になった街は維持できなくなりいわき市とか南相馬市とか相馬市でも移住するようになった。だからそこで減少している人口が歯止めがかかったともなる。
そのことは何を意味しているのかというと人口減少の時代には小さな町とか村が維持できなくなる。それで山の中の村の人を介護とか医者とかでも回るとすると2時間もかかるとかその手間が大きいのである。それが昔のように医者にも見てもらえないとか手厚い介護などしないという時代ならばそこに住むのも良い。

でも今のように手厚い介護とか医者にもかかりたいというとき山間部のような村は一軒一軒回るだけで2時間もかかるとか手間になるのである。そのような村では昔は救急車も来ない。そして子供を医者に診せるために背負って峠を越えていこうとしたら死んでいたとかいう話もある。
でもそうなってもその時代なら諦める他なかったのである。今になるとそんなことはできないとなりそういう僻地の村には住みたくないともなる。でもやはり今の平均的なサービスを受けるとしたらやはりそれだけの手間と金もかかってしまうのである。

●老人は仮設住宅でいつも話し相手がいて良かったという

何か原発事故でこの辺では仮設住宅がいくつも作られた。その時住居も狭いから隣の生活の音が聞こえたり嫌だという人もいた。
でも山間部の辺鄙なところに住んでいた人がいつも近くで話し相手がいていいという女の人もいたのである。確かに山間部だと街から離れていると一軒一軒も離れているから気軽に会えないとはなる。でも仮設住宅だったらいつでも会えるという便利さはあり女の人はいつも話し相手があるとか良い面もあったのである。
どちらかというと老人はそうして離れ離れになっていると孤立しやすい。でも長屋のようなところで集団的に暮らせば返って常に身近に話す人もいて親しい人もいるというとき安心するかもしれない。何か介護となるとき近くが良いのである。それは相馬市に娘がいても隣の市に娘がいても車で15キロくらいあるとやはりなかなか簡単にはこれなくなる。

だから車がない人は一日一回でもいいからバスがでるといいと言っていた。その人は脳梗塞になり自転車に乗れなくなって歩いてスーパーに行くほかなくなったからである。飯館村では大倉の隣の木戸木(ことぎ)に住む老人がそういうバスを利用している。
いくら車で近いとしてもすぐ隣だったら行けるし様子を見にに行くこともできるしまた別々の家でも近くだったら何かおかずを作ったら持って行くとかそういうこともできる。
でも田舎だと離ればなれになって暮らしているし買い物でも街から離れるとどうしても車が必要になるのである。だから車がない人は相当に不便になるのである

●空家で庭の方が価値あると見た

ともかく空き家がこれから1000万軒にもなるという。この数は半端ではない。それをどう利用するのかということは社会全体の問題になる。そしてそれをほっておくのももったいないとなる。だから不動産会社でリフォームして若い人向けに住めるようにしたのはよかった良かった。でもそういうことができるのは東京とか大都市になる。地方になるとなかなか仕事もないから若い人も住みにくいとなる。
私が空き家で注目したのは庭である。近くにも本当にいい庭があった。その家はあまり良いと思わなかった。何か古くなってそこには住みたいとも思わなかった。でも庭が立派でありその庭を活かす方法があってもいいと思った。
でも所有者がいるのだから勝手にはできない。そこを近くの人が集まるような場所にしてもいいとかなる。それも個々にに対応しなければならないから面倒になる。そこには必ず所有者が居るからである。
その所有者がと交渉しなければならないから面倒になるのであるそれで自治体で積極的に関わり空き家を生かす対策をするようになった。でもその家でも空き家でも物置にしたいとか思い出があるとか個々にに違っていて対応が難しいのある。

posted by 天華 at 17:12| Comment(0) | TrackBack(0) | 時事問題の深層

2023年10月01日

青春時代は出発点であり人生の方向を決めるから大事 (人間は失敗するのは最初に方向を誤ることーそして引き返すことができない)

青春時代は出発点であり人生の方向を決めるから大事

(人間は失敗するのは最初に方向を誤ることーそして引き返すことができない)

●若きときに神を覚えよ

ドラマで金持ちの家同士が意に沿わなくても政略結婚のようなことした。それは戦国時代でもその後もあった。でも現代ではそれは強制できない、別に親に反対もできる時代である。
それであとでいろいろ問題が起きて事件が起きた。人間は出発点が悪いと必ずその後に問題が起きてくる。その出発点になるのは青春時代でありそれでそこで方向を誤ると人生をの後悔するともなる。 青春時代は出発点でありそこで間違うと一生が間違った方向に行ってしまうともなる。

ただ若いときは先が見えない。何か時間が無限にあるように思えるので。だから若い時したいことをして欲の赴くままに生きるというのも普通にある。ただその青春の時代を実際はあっという間に過ぎる。それも一瞬の輝きだったとなる。それは女性にも言える。その若さは美は儚く30過ぎるとおばさんとかになってしまう。だから親はその美貌もすぐに色あせてくるから婚期を逃すから早く結婚しろとなるのである。

若きうち神を覚えよ知れという時それがなぜ大事なのか。神を覚える神を知るということが若い時しかできないからだとなる。別に年とってからの方がいろいろ経験を積んで聖書でも深く読めるしいろいろ理解するのだから別に若い時でなくても神のことを知るということはできると思う。でもそれができないとなればいかに若い時の時間が重要だったかあとで知る。でもその時遅しとなっていたらどうなるのか、もう時間を元に戻すことはできない

●カルト二世は親にすべて決められる

それは神を知るというだけではない就職するにしても何をするにしても青春時代が出発点になる。そこでその出発点が誤ると一生誤ってしまうともなる。それは怖いことである。だからカルト宗教の二世問題とかが深刻なのである。その人たちの一生がすでにもう生まれた時から決められていたとはである。その方向は親によって決められそれ以外考えられないとなっている。そういう家族では親に反抗するということは相当に難しいからである。
その人の一生は全く親に決められたもの以外ないないのである。そういう人は別の道があることも全く分からない。そしてそのカルト宗教団体について疑問も何もない。ただおかしいと気づいても目をつぶるのである。
なぜなら親の言うとうりになっていれば親からもほめられるしそれは家族のためになっているのだから家族に反抗するようなことはできない。そこにカルト宗教二世の深刻な問題がある。そういう人は親の言いなりになりその集団組織の完全な一員となり何ら個性を発揮することなくロボットとして奴隷として終わる。

その集団組織に従属して何一つその人が生きる個性も示すものことなくただハイルヒトラーで教祖を偶像化して一生を終わってしまう。これも恐ろしいことである。それもなぜそうなるのかといえば出発点が悪いからそうなったのである。だから青春時代は出発点でありその行く先が方向が決まってしまうから大事な時なのである。方向が間違ってしまえば北に行くのではなく東に行けばよかったとか言っても人生の場合は簡単に方向転換できないのである。

●なぜ大学選びが大事になるのか

なぜ大学選びが大事になるのか。それは大企業などでは選別するのにやはり大学を見ている。マーチから上でないと履歴書を見てすでにそこで選別されて入社できない。そこからしてやはりすでに差が出てきて生涯に影響する。もちろんそれが人間を全て決めるものではない。でも大企業に入るものと入れないものの差がすでに若い時にできてしまうということである。

ただそれから一流の大学を出ても会社に入って仕事ができないとかなりニートになる人も居る。だから学歴ですべては決まらない。社会で仕事ができるかできないかは必ずしも学歴では決められない。
でもそもそもが出発点で大企業に入れないとしたらその差が将来的に大きくなってしまうのである。ただ大企業でもそれがすべて価値を決めるというわけではない。人間の価値はあまりにも多様だからである。だから別に大企業に入らなくても自分自身の価値を作ることはできる。私自身は底辺でて社会から外れてしまったから出発点がそうなると一生社会から外れた人生になる。

でも逆にそのために自分自身の興味あること関心のあることを故郷で追求してきてきたのである。その成果をブログで出しているのである。ただそれは例外的なものであり特殊であり普通はやはり大企業に入るものと中小企業や底辺層になるのは相当な差になる。だ
から氷河期というのはその出発点でまともな会社に就職できず非正規になってしまったから45とか50過ぎて非正規であり結婚もできないしもう60になったら働くことさえできなくなり年金もわずかでありそれが今度は国の負担にもなる。
それは出発点から悪いからそうなってしまったのである。だから出発点が悪いと誤ると氷河期世代のように結局その人たちでも国家でも問題を抱えることになるのである。

●人間は先を見れない

ただ正直人間は個人でも組織集団でも国家でも先を見ることはできない。一時的にカルト集団でも創価などでも会員が爆発的に増えたことがあった。でも今になるともうその熱狂は終わり会員は増えることはないし衰退するだけになってしまった。そういうことは時代的に常にありあれだけ興隆していたのに衰退してしまうことがある。

七つの海を制覇した大英帝国でも今や小国に戻ったともなる。だから時代の変化で人間はその先を見ることができない。それで日本でも高度成長時代がありその後に失われた30年があった。その期間も本当に長かった。給料も上がらないそして今や円安で物価は上がり日本は世界でも実際は先進国ではない貧困国家になってしまったのである。 IT化に遅れ頼む日本は依然としてハンコとか戸籍とか保証人とかが必要であり何か自由に経済活動出来ない国であり改革できない国だったのである。

今や日本は高度成長時代は日本がすごいということばかり言われ日本は今や何でも悪いことしか言われないのである。その代わり方も激しかった。ともかく青春時代2は人生の出発点だから重要なのである。そこで方向を間違うと一生誤ることになる。だから大事なことは何か目先の利益だけではない何か未来にを作るものを志すということでもあ。それで立志式というのはあったということはそのためだったとなる。志すことが悪かったら一生もやはり悪い方向に行ってしまい一生を誤ってしまうのである。

●なぜ14才で立志式があったのか

14歳を祝う行事。
・奈良時代の「元服の儀」が由来。
・将来の目標や夢にして誓いを立てる。

奈良時代から立志式があったということはやはり時代が変わっても人間は変わらないことがある。まあ14歳となるとやはりその年頃でもうすでに将来に対して志を持つことが大事なのである。
私の場合はちょうど14歳に父親が死んだからそれ以来なぜ人は死ぬのかということが頭から離れなくなった。それで求道をしていたのである。その入った先はカルト教団でも私の志は目的は死の解決だったのである。でもカルト教団などはそうかでも他でもそういうことを問題にはしていない。
なぜなら社会で勢力を持ち権力を持ち知恵や名誉や金持ちになりたいというだけだったからだ宗教や信仰など追及はしていない。だから私は学生時代に辞めたのである。
つまりそういう場所で運動している人はこの世の栄華栄誉とか金持ちになりたいというだけである。そうしたギラギラした欲を持つ人たちが集まる場所なので。だからまともな人だったらそんなところに居ることはできない。

ともかく人生の出発点が誤るとその後の人生も誤った方向に行ってしまう。とても人生は短いから引き返すこともできないしやり直すこともできないのである。その深刻さが分かるのは老人であり老人は別に学がなくても何であれその人生の結果を否応なく示されるのでは。
俺の人生が無駄だったとかむなしいとかみんなになってしまっているのである。それは出発点が悪かったからである。ただこの世の栄耀栄華を目指してなんとか他者より優れていることを示したいとかそういう動機が悪かったともなる。

そしてその結果を老人になれば変えることはできなくなってしまうのである。何か方向を変えるのは若いうちなら出来るが30くらいすぎるともうできなくなってしまうのである。それだけ人間には充分な時間を与えられていない。だからチャンスにしても一回だけだとか結婚するにしてもその人が人を選ぶというよりたまたまちょうど若い時に出会いがありそれで結婚したという人も多い。その人がどういう人なのかとなど簡単に分からない。

というより人間には十分に相手を見たり考える時間がないのである。それより先にあるのは性欲でありそれゆえに交わり仕方なく結婚したとかも多い。そして1/3も離婚しているのはやはり十分に相手を見て選ぶ時間が人間にはないのである。
要するに人間はたちまち老いてしまう。そしてみんな後悔しているだけだる。どんな人でも後悔しない人はいない。たとえ恵まれて大企業に入ったとしても結局社畜だったとか言う人も多い
だから若き時神を知れということになる。若き時に神を求めよとなる。でもカルト教団は一切そういうことは教えないし求めていない。この世の栄耀栄華を求めているだけである。世俗社会より異常なほどにこの世の栄誉栄華を達成することをだけを求めているのである。だから仏法であれその教義とは正反対のことを追求しているだけなのである。だからなぜ宗教を看板にしているのか全く分からないとなる。


2023年09月30日

秋になってもまだ夏なのか(鮎、カンナ、朝顔。月影、十五夜)


秋になってもまだ夏なのか(鮎、カンナ、朝顔。月影、十五夜)

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朝跳ねる鮎や一日始まりぬ

十字路に人交わりてカンナかな

縁白き朝顔一輪隠れ咲く

ゆかしきや朝顔一輪隠れ咲く

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苔の庭月影さして隠る石

十五夜の月や小窓に覗きけり

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昨日も結構暑かった。朝に近くの川で関のところで鮎が跳ねていた。もう10月にもなるのにまだ夏の感じだった。
何か地球が温暖化して日本でも春と秋がなくなり夏と冬になってしまうという。そしたら俳句などもできなくなる。日本のように明確な四季があって俳句が生まれたからである。その変化もまた大きいとなる。なぜならそうなれば日本の文化自体を変えてしまうからである。

ともかく川が流れてそこに朝に鮎が上る。そして一日の始まるというとき自然とともに一日が始まるということである。それが農民が6割とかいた時代になるとまさにあゆのように自然の中で一日が始まる。今はみんな会社に勤めるというとき何か自然とともに生きるということもない。田舎ですら農民は1割ぐらいしかいないのだから自然と共に生きるという人は相当に少ないのである。

でも自然とともに生きるということは鮎のように清流を懸命に上り泳ぐそれを見ていれば気持ちが良いのである。今日一日も清流を上り生きるとなるからだ。大都会だと人間の群衆の濁流を上り出勤するともなる。

また十字路に畑がありカンナが咲いている。そして一日が始まるというときその花と共に人も生きている。また広い庭のある垣根のあるところを見たら隠されて朝顔は咲いていた。その縁が白いのである。それで心に止めることになった。

月影が差して苔むす庭に隠されて一つの石がある。その石は自分のことなのである。石はそうして沈黙している。自分もまたそうして隠れ住む隠者のように沈黙していたのである。十五夜の月は一時は出ていたが雲に隠れ消えてしまった。ただ小さな窓から丸い十五夜の月を見た。ただまだ秋という感覚がなく季節的に合わなくなってしまった。

だから秋でも暑いということは俳句の季語でも活きなくなる。つまり日本の文化が部分的に消失してしまうということである。だから温暖化はその影響が大きい方でまた地球は寒くなると言う人もいる。だからこの気候はわからない。これだけ科学が発達してもわからない。本当に二酸化炭素の影響なのかそれも明確ではない。やはり依然として科学でも完全にはである解き明かされていないのであるはあ

2023年09月29日

認知症にならないためにすること (目,耳,舌,触覚・・を働かせて脳を刺激する)


認知症にならないためにすること

(目,耳,舌,触覚・・を働かせて脳を刺激する)

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医者でも漫才家のようであり分かりやすい、youtubeの特徴はわかりやすいことである。
専門的知識がなくてもなんとかりかいできることである

●血管に障害がでると万病の元になる

認知症になる原因として十個あげているが意外なのは遺伝的要素が十番目にしている。だから遺伝的要素は認知症にはそれほど関係していないのかとなる。ただ血管が大事であることはわかった。血管が傷んでくると高血圧にもなりそれが全体に影響する。だから脳梗塞とかになるなると認知症にもなりやすくなる。

また糖尿病も血管を痛めるからそれが認知症になりやすくもなる。また高血圧でもやはり血管がの一部がいたんでそれで血液を流す圧力を高くしなければならないので心臓に負担をかける。つまり血管というのは体全体に張り巡らされていて小さいのでは毛細血管がありそれにも影響すると目とかにも影響して白内障とか緑内障とかそういうのにも影響してくる。目が見えづらくなるのはやはり血管に血の流れがスムーズでなくなるからそうなる。
つまり血管というのはそれだけ大事なものなのである。脳にも欠陥があって毛細血管もあって違う巡っていくからである。要するに血の巡りが悪くなるということは頭の働きも悪くなる。
それで私の母親は百歳まで生きたが血管は丈夫だったのである。

●家事を94歳まで続けた母は認知症にならなかった

だから確かに認知症になったのだったがそれは95歳以上からでありその年になれば誰でも認知症になる。なぜそうして認知症に95歳までも普通でありえたのか。前から言っているように私の母は働きづめでありなんの趣味もない。花など金がかかるからいらないと言っていたのである。でも94歳までも家事をしていたのである。だから何か高等な趣味を持つとかではない。家事でもしていれば料理でもしていれば結構頭を使うのである。

料理というのは様々なものを用意しなければならない。だから料理をすることはかなり頭を使う仕事なのであるである。頭を使うというとき何か難しいことをすることではない。家事をすることはやはり頭を使うのである。だから危険なのは嫁が姑におばあちゃんは何もしなくていいですよテレビでも見てみていてくださいとか言われて何もしないことが役割がなくなることが認知症になりやすいのである。

私には二人の母親がいたがもう一人の母親は役所を退職してから何もしない家事もしなかった。それでも55歳くらいで退職したからそれから30年も生きたのである。その間に何もしない。ただテレビを見ているとか趣味でも何か自分に合ったものをでわなかった。だから認知症になった原因はやはり家事すらせず退職してからただ何もせず怠け者になりポケットしていたら認知症になってしまったのである。生理的にも太っていたしやはり血管がいたんで認知症になってから脳梗塞にもなったからである。だから血管をが痛むことは長生きできないとなる。

だから認知症になる原因が目耳触覚味覚の舌かを働かせないと頭も働かず脳がそれが認知症につながる。目とか耳でも悪くなると外部からの刺激がなくなりそれで脳も働かなくなり認知症になりやすいのである。だから外に出て光でも受けて運動して体全体でも脳でも働かせることが大事になる。そして生きがいを持つことも大事になる。何かもう生きがいもなく感動もなくただ漫然として家事すらもせず怠けているとどうしても認知症になりやすいのである。

●テレビでも自分なりに想像力を働かせて見る

だから長生きの時代はやはりライフワークを持つべきである。それは別に特別専門的なものでもなく何か興味をあれば追求していればそれでひとかどの専門家にもなりうる。ただ会社に勤めていて退職したら用無しになることが問題なのである。

例えばテレビを見るということでもただ漫然と受け身になって見ていると頭は働かない。でも最近見た推理ドラマで古い金持ちの館を持っている男性と両親と早く死別した女性がその男性と結婚して暮らすことになった。
でもそこには前の妻がいた館でありそこにやはり妻がいるという感覚になりその女性は嫌だったのである。そういうことを言う女性を知っているからなるほどと思った。
仏壇に死んだ妻の家が飾ってあってその人は依然として妻を愛している。そこにその家に親しくなった女性がその妻の死んだ妻のことが気になり嫌だったと言ってたからである。
その家は古い金持ちの家でありだからこそその家には何か代々の人がなお生きているという感覚にもなる。それで推理ドラマではその先妻は実は新しく親しくなった妻に女性に殺されていたとなる。

またその女性は妻となった女性は金持ちの家である何か会社を経営している親の都合で政略結婚のようなことを強いられた。そのことで夫婦がうまくいかないとなっていた。そしてそうした事件が起きたのはもともと無理やりに親の都合で結婚させたことだったとか反省していた。
つまり人間というのはその出発点が悪いと後々まで尾を引くのである。そういうことは老人になった時おのずと分かってくる。意に沿わないことを親に強いられて職業でも自分に合ったものを選ばなかったとかなる。それが後々まで尾を引いて老人になって後悔するのである。

●老人は何でも批評に向いてくる

このようにテレビを見ていても何か一方的に受け身になって見ているのではなくそれを自分の経験とかから重ね合わせてみる
ただ一方的にみるのではない何かそこに教訓を得るのである。だから意外とテレビのいい点は今BSで昔のドラマや推理ドラマが面白いのである。ただ漫然としてみているのではなく自分の人生と重ね合わせてそういうことだったのとか教訓を得る。
それはやはり老人になればいろいろ経験しているからその見方も深くなるのである。だからただ一方的に見るのではなくテレビでもドラマだったらそれを自分の人生と重ね合わせて深く見る。

そして批評というものが老人には向いている。テレビドラマでも何でも批評してみる。本を読んでも批評してみる。ユーチューブでも自分なりに批評してみる。そうするとただ一方的に見ているのとは違ってくるのである。明らかに批評するき頭を働かせている。批評というものは創造的なものでありその人なりに見る目がないと見れない。だから批評というのは文学っても一分野となっているので。
例えば自分自身が何か詩でも小説でも絵でも作らないないとしても批評はできる。でも批評は創造的なものでありその批評は経験豊かな老人に向いているのである

とにかく高齢化社会というのは色々な問題が生まれている。その大きな問題の一つが認知症になることなのである。その認知症になった家族を介護したから認知症の怖さを知ったからどうしたら認知症にならないで老いてゆくかそれがおーきな課題なのである。
なぜなら認知症になる人の数が本当に多いからである。だから認知症は誰にでもなる可能性がある。では認知症を予防するにはどうするのかということもある。最近日本でもその薬が出来たがそれもまだ実験的なものでありそれで治るということはない。認知症になる事を多少怒らせると言うくらいである。
でも認知症については世界で研究しているからやがてはいい薬が出来て治せるということもあるかもしれない。ただその先は長い。ともかく認知症になる原因として生理的な問題もあるが五番目までは目とか耳とかしたとか触覚とかの感覚が鈍くなりそれが脳が脳の働きが悪くなり認知症になる事に通じている。
だから五感を働かせることが問題になる。

いずれにしろここのyoutubeを漫才をしているのかとまで思う。医者なのにこんなに饒舌なのかというのも驚く。こういう人は俳優にもなれるだろう。ただ難しい医学のことでも漫才のようにして説明しているから人気になるのもわかる。
ユーチューブとかなると人気になる人はやはりこういう人である
説明が分かりやすく面白いからである。そういう人は数学の先生にもyoutubeで説明していたからである。
だから今やユーチューブは知識を身につけるためには必須のものとなったのである。

正直者は馬鹿を見るは本当なのか (私が家族の介護で経験したことーただ金を要求する人しか来なかった)


正直者は馬鹿を見るは本当なのか

(私が家族の介護で経験したことーただ金を要求する人しか来なかった)

「ずる賢い人が成功して、いい人は損をする」は正しくなかった|研究結果
ライフハッカー・ジャパン編集部 の意見

人に親切にすることは、誰もが知っているとおり正しい行ないです。では、賢い行ないとも言えるでしょうか?

うまく立ち回る、手を抜く、他人を操作するなどはすべて、手っ取り早く成功するために使われる戦略です。

こうした戦略はうまくいくのでしょうか? 古い格言にあるとおり「お人好しでは勝てない」のでしょうか?

自己中心的な戦略で成功したとしても、それはあくまで短期的なものであり、長期的に見れば「お人好しが勝てない」ことなどありません。

「ずる賢い人が成功して、いい人は損をする」は正しくなかった|研究結果

●介護の時金に困る人しか来ずに金を要求するだけだった

私の親の介護のことで塗炭の苦しみを味わった。そのことを延々と書いてきた。一人は事業に失敗して借金を抱えていた。その時点でもはや何も他者に対して助けることなどできない人だった。
だから自分が苦しんでいてもそのことを全く理解できていなかった。ただ金が欲しいということで何か事業で使った機械を1000万で買ってくれとか要請した。私はそんなところではない。親の介護のことで頭が精一杯頭がいっぱいだったのである。そして自分自身が病気でもあった。ただその人が何もしないということではなかった。でも借金を抱えていることでとても自分のことなどないがしろにされたのである。

まだこの辺ではその時原発事故があり避難者は住仮設住宅などに入ってきて混乱していた。だからその避難した人たちも私たちはとにかく助けられるべきだということで私が不満を言った時お前は冷たいやつだとか批判されたのである。

そのときは原発避難者や津波の避難所も混じり外部から援助の人たちがボランティアが来ていた。でも私のように個人的なもので悩むのは苦しんでいるものは全く無視された。そしてその原発避難者でも仮設に入って何もすることがないからパチンコとかギャンブル漬けだったのである。そんなところで借金していた事業に失敗した人の家族がパチンコ屋で働いていたとこあった。それも腹立たしいことだった。だからその時私は原発避難者にも不満を持っていたのである。でもそんなこと全体的には全く無視されたのである。ただそれは特別な異常な状態だからそれを批判するということもできない状態であった。

●私が苦しんでいることに全く配慮がなかった

でもなぜ私が苦しんでいることになんだ配慮はなかった。私のところに来た人たちは何か私の事に配慮が全くなかった。だから一人はれっきとした泥棒であり私が入院した時家が空っぽになり屋探して大金を盗まれた。
とにかく散々な目に合っただけでありそれも私のカルマだったともなるからあまり批判はできない。

人に親切にすることは、誰もが知っているとおり正しい行ないです。では、賢い行ないとも言えるでしょうか?

うまく立ち回る、手を抜く、他人を操作するなどはすべて、手っ取り早く成功するために使われる戦略です。

何か事業するにしても他者への心がけが親切心などが必要なのかもしれない。しかし現実は今の社会は他者から奪うということが普通にある。それが極端になると盗めばいいとなっている。現実に私に起きたことはそのことである。それは相手も金に困っているからそんな余裕がないからそうなったともなる。
そして金を持っている人から金持ちだったら奪ってもいいとなっていた。だから私が病気にもなり苦しんでいる時奪うというチャンスが生まれたのである。

でもそもそも相手が金持ちであり自分が貧乏で困っているときは金持ちから盗めばいいということことで正当化されるのか。そういうことをしてその人は裕福になれるのだろうか?そういう考えになる人もまた多いと思う。
逆に金持ちの家だったらそこに病人がいたら助ければそのお礼も大きなものになるかもしれない。ただそういう金目当てでだけでなく金持ちでも親切にすればやはり見返りがあるかもしれない。ただ金持ちはら奪えばいいという考えてはその人は裕福になれるのだろうか?

共産主義にはそういう思想がありだから貧乏人は搾取されているのだから奪えばいいとなり時の政権でも金持ちからでも奪うとなりそれが革命として正当化される。底辺層で恵まれない人はそうなりやすいのである。でも共産主義でも平等にはならなかった。
党の幹部に富が集まりやはり一部の人が豊かになる。富は一代で築けない、時間がかかり時間の作用があって一気に人間は平等化しない、でも貧乏であっても何代か時間がたつと富の蓄積が行われ豊かになう人もいる。だから一気に平等にするということは武力でも革命することには問題がある。それで失敗したのが共産主義革命であり粛清されたとかの数がカンボジアでは2百万人とか中国でもどれだけの人間が粛清されてころされたかわからないのである。

●金をとる奪うことしか考えない人が事業で成功するのか?

だからここで親切にすることはお人よしであり馬鹿げている。そんなことしても裕福にはなれない。それも一つの見方でありそういう人が多いかもしれない。でもそれが社会で成功するものなどだろうか。何か今の社会は金だけが目的であれ金になればいいとかなっている。それだけではない他者から奪うことが金にもなり裕福になる道だと思っている。ただ本当にそれで裕福になれるものなのだろうか。

それで私のところに来た人たちは一人は泥棒でありその人は果たして裕福になれるものだろうか。また事業に失敗した人は裕福になれるものだろうか。そもそもは相手が苦しみ困っているときただ金になればいいとしかないとしたらそういう人が果たしてで成功するものだろうか。確かに技術者としては優秀でも経営者としてはどういうこと成功するものなのだろうか。その辺は事業に詳しくないからわからない。でもここで書いていること親切にすることはお人よしでありそんなことしても見返りは無いともして人と接する。でもそういう人は本当に事業でも成功するものだろうか

ともかく一人の女性は金をくれとあからさまに言い本当に金を奪ったのである。だから極端でありそいう人もいるというのが現代である。
ただ今の現実社会はそんな甘いものではないとなりただし親切にしてお人好しの人などは貧乏になるだけだとなってしまう。でも本当にそうなのだろうかという疑問をここで呈している。

銀行でも投資信託を売りつけたかそれもただ銀行でもうければいいというだけであり客のことなどは考えていない。もちろん株とかは上がったり下がったりするからそれに文句をいちいち言うことはできない。でもただ銀行でもうければいいということしか考えなかったらどうなるのか。だからこそ転売して手数料を取ることしか考えてないとなる。そんなに転売する必要もないのである。でも転売するとその時手数料が入るのは大きいのである。

いずれにしろ銀行でもまた客から金を奪えばいいという考えしかない。それで銀行も仕事として成功するものだろうか。それもまた客から金を奪いということしか考えない。そこに問題がある。それは確かに一時的には金を儲けることができる。でもそれは一時的であり信頼を失うことにもなる。ただそれを全部銀行側の責任とはおならない。なぜなら客の方にも責任があり問題があるからである。

とにかく相手に親切にすることが助けることがお人好しだとして馬鹿にされることもある。でもガツガツとして相手から奪うということしか考えてない人が長い目で見れば成功するのだろうか。そのことをここで書いていたので納得した。短期的にはそれでいいだろう。儲かることは確かである。でも長期的に見れば逆にしてみれば損したとなりただ奪われたという感覚になる。それは株ならば上がったり下がったりするからそれをとやかくは言えない。
でもそんなに転売して株が上がった時も売ったそしてまた次の投資信託を買わせる。その時手数料が入り銀行にしてみればもうかったとなる。だからそういう商売は果たして長期的に見れば成功しているのかとなる。でも株とか証券とかはなかなか分かりにくいから一概に批判はできない。

●人を助けて親切にすればどこかで報いを得る

いずれにしろ私が経験したことは全く相手のことを考慮しない。何を苦しんでいるのかも見ていない。ただいま金がなくて苦しんでいるのだから奪いばいいという人しか来なかった。それは私の積んできたカルマだったのだ。また私の家自身のカルマであり一概に他者を批判はできない。
でも最近小さい事ではあるがカメラを忘れたりしたらわざわざ車で持ってきてくれた人がいた。また自転車で倒れたとき3人くらいの女性の人がわざわざ私のところに来て助けてくれたのである。それはやはり最近ボランティア的なことをしたり人を助けたりしたからそうそういうを徳積んだから見返りとしてそういうことがあったのかもしれない。見返りというのは必ずしも助けた相手からは来ない。全く知らない人から助けられるとこあり報いがあるということがある。
だから人に親切にしたり助けることは必ず何か報いがある。でもただ人を見たら苦しんでいる人であれなんであれ金になればいいとかをば良いとかとして接してくるとなるとその人に何か報いがあるのか。それはその人に取って悪いことが起きてくる。カルマとなってゆく。それは私自身が苦しみ経験したことである。
やはり徳は得であり親切にした他者をたすけることは得することになる
そのことをここでは言っていた

これを大きく世界的に見ればアメリカは世界の富を収奪したということは。そしてアメリカでも極一部の人がその富を一人占めする。もしアメリカでもその富を世界に分配して世界の人を豊かにすればアメリカはやはり栄えて衰退することはないかもしれない。でも世界史を見ればあらゆる国が栄えた国も衰退している。それは奢れる者の久しからずであり必ずある国に富が集中してもいずれは衰退してゆくのが人間の共通の歴史だったからである

別に中国がいいとかロシアがいいとかではないアメリカもやはり歴史を見れば衰退してゆく。七つの海を支配したイギリスでも衰退した。それと同じようにやはりアメリカも衰退する。それは世界の人間の法則のようにもなっている。この世に永遠に栄える国とかはありえないのである。ただもし世界の人たちを豊かにするいろいろな援助をして助けるということがあればやはりその国は栄えて長く長く栄えるということもある。

ともかく何かただ相手から金を奪う相手が弱ったときチャンスとなり金を奪うようなことをしていてそれが個々人であり国であっても栄えるものとなるだろうか。例えば中国でも確かに福島の処理水を海に放出することには問題がある。でもそれで困る人が相当にいる。中国国内でもいる。もちろん放射線の問題がありそれを許せないということはある。でもまたその魚介類でも売って生活する人がありそれは日本だけではない中国にもいる。そして本当に危険なのかどうかも分からない。
それは政治的なものであり科学的なものでも必ずしもない。そもそも原発自体が世界全体で作るべきものではないということもあった。それが一旦事故になれば福島のようにもう取り返しのつかないものになる。それは世界に波及するし今回のように世界の魚をべ食べられなくなる。だからこそ原発は作るべきではなかったのである。

●強欲資本主義はモラルがなく崩壊

他者に親切にすると言うのではなくそういうことはお人好しだとなる。かえって自分のためにだけ利益を追求して自分の会社のためにだけ利益を追求してもうければいいという感覚になっている。それが強欲資本主義でありそれが普通の感覚になっている時社会は荒廃する。すでに荒廃しているのである。だからもう資本主義というのはモラルも何もないから弱肉強食の世界で生きているとなる。そんな社会がどうして持続できるのだろうか。それはいつか破綻する。やはり人間社会でも共生とか共同とかがなければその社会は野獣社会となり食うか食われるかの世界となり地獄となってしまう。

現実に地獄にもなっている。ただいつの時代も親鸞が言っているように地獄は一定の住処なりである。いつの時代になってもこの世は地獄である変わることがないということである。だからこそやはり親切にするとかそういう人は馬鹿であり正直者は馬鹿を見るとかということわざも生まれたのである。でもそれが本当なのかやはり何らかのただそうして人間が利益をを追求するだけになったら人間社会そのものは自壊して行くだろう。現実にビッグモーターでもジャニーズ問題でも内部のモラルの荒廃から自壊するようにもなる。やはり結果としてそれを示しているともなる。一時的には成功しても長くは維持できない破綻して衰退するとなる

いずれにしろこの世を生きるということは何か。何か経験すればそこから教訓を得る。それでことわざというのは今にも生きているのは人間というものはそもそも変わらないからである。人間から欲を取り除くことはできない。だからこそ社会が変わっても科学技術がいくら進歩してもやはり人間自体は変わらないから同じような事件でも繰り返している。つまりカルマを繰り返すのが人間でありそのカルマ号が尽きることはないのである。なぜなら人間から欲がなくらないからである。

だからこそ自分のことばかり考えて自分の欲を達成するために手段も選ばず相手はただその欲を達成するために奪う存在だとなってしまう。また成功するためにはむしろ相手に親切にするとかでは成功しないとかなる。会社の経営でも客に親切に尽くすとかではなく客からいかにして金を巻き上げるとかになってしまう。それは極端にしろそういう考えで事業を起こしている人も居るだろう。まずは何でも利益が優先される。だからそこに多少の不正があっても目をつぶるということになる。そして利益を上げた人が褒められるし収入も多くなる。それはビッグモーターであからさまに起きたことである。

そして人間はとにかく相手より優れている成功者になりたい。そのために自分は優秀なのだということを示すために事業を起こしたのである。そういう動機になっていること自体が問題だったのである。そういうことで経営ができるのか成功するのかとなるとのかその出発点からして間違っていたのである。
ただ自分自身にしてもそういうことが起きたのは自分が積んできた何かのカルマでありそんな人しか来ないということ自体が自分のまた家族のカルマだったのかとなる。だからそんなに他者を批判はできない。でも現在はあまりにも金だけを追求して人に親切にするとかそういうことが無視されているのである。だからかえってそうそういうことでは事業でも成功しないのかと見る。

●大正生まれの馬鹿正直な女性

その女性は本当に馬鹿正直な女性だった。農家の女性でありその女性はまず嘘をつくことなどあり得なかった。何か今振り返ると私の家族はその人を馬鹿にしていた。でも認知症になったときその女性は私の家族によくされたわけでもないのに気遣ってくれたのである。これまで近くで親しくした人も認知症になったときは付き合うことはなくなった。でもその人はそういうことがなかったのである。でも別に私の家族に良くされたいということでもなかった。

だからその人はまれにみる馬鹿正直な女性だった。その女性は何か悪いことはできないまだしない。他者に対して裏表もない同情心を持っていた。だから今時そういう人は絶滅危惧種となっているかもしれない。どうしても戦後には特にそうなのかアメリカの民主主義が入ってきたとしても良い面はあったとしても人間はもはや金しか求めない。金が全てとなってしまったのである。
でも日本人はもともとそうでわなかった。いろいろな人がいるにしても日本人というのはこうして馬鹿正直な人でも普通にいたのかもしれない。そのために明治に入ってきたヨーロッパ人が日本人はみんな幸福そうだったというと言っているのは人間そのものが今と違っていた。何か悪というものを知らないというか馬鹿正直ということは素朴な人が多かったのかもしれない。

つまりそうして過去の人間のことが今になるとわからなくなったのである。同じ日本人でも今の人間は全く違った人間になっているのかもしれない。それは戦後はすべてアメリカに習ったからである。アメリカに習うということはアメリカはすべて金が第一であり金で全ての価値が決められる。そのことをアメリカに留学した内村鑑三は言っていた。
何するにしてもすべて金には金で測られる。でも日本は違っていると言うことを言っていたからである。何か講演してもその見返りとして金をいくら払えばいいとか金ですべてが決められる。そのことを言っていたからアメリカにすべてを習ったことが日本人もまた全ては金でしかなく金で計られるものとしてあるだけだとなってしまった。

だから戦前でも何か馬鹿正直な人がいたのかもしれない。ただそうは言っても同じ大正生まれでも全く違った人もいるから一概には言えない。でも何か日本人は金だけですべてを図るとか金で全ての価値を決めるとかそういうことはなかったのかもしれない。だから馬鹿正直な人がそれなりにいたのかもしれない。それは本当に絶滅危惧種となり今やもうそういう人は居ないだろう。常に利益を計算している。金をもらわなければ何もしない。何かしてもらえば金を払えばいいとしかなってない。

それはアメリカ人の価値観であり日本人はもともとそういうことがすべてではなかった。他でもラオスの人は素朴であるというときそこはまだ原始的でもあり文明も入ってきていないからそうなっていたのだろう。だから人間に言えることは文明化してもそれで人間が良くなったとも言えないのである。
返ってラオスのようにまだ外国人も入ってこない原始的な生活をしていれば素朴だとなる。でも最近中国人が入ってきているから商売にたけた人も出てくるし素朴さは失われるのである。
だから文明が人間の心を歪め素朴さを失わせる。それは日本でも明治以降に起きたことである。ただ戦前はまだ馬鹿正直な人でも日本人として素朴な人もいたとなる。ただもはやそういう人は絶滅危惧種であり現実にそういう人に出会うことはなくなったともなる。




2023年09月27日

一軒の家がまだ壊される (増える空き家の問題)


一軒の家がまだ壊される (増える空き家の問題)

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すぐ近くに何軒か新しい家が建つ



近くの大きま一軒の家が壊された。最近私のすぐ隣で5軒ほどは壊された。それは空き地になってしまった。ちょっと離れたところでその家も壊された。その家をいつでも見ていた。 大きな二階建ての家であり誰も住まないのはもったいないと見ていた。
でもこの家はもうすでに20年くらい住んでいなかったかもしれない。別にそれほど傷んででいないのである。去年の大地震で屋根瓦などが壊れた。でも瓦も直しているから壊されるとは見ていなかった。
そしてこの家にわ誰が住んで何をしていたのかそれも全くわからない。何かこうして家があってもそこに何か物語があったとしてもそれもわからない。すると何も残すものもないとなってしまう。やはり何か語るものがありこの地域でもそこで何か残すものがあってもいいとなる。

だから人間というのは建物だけを見ていてもわからない。そこでどういう暮らしがあったのかどういう人が住んでいたのか地域でどういう役割があったのかそれがまったくわからないのである。ただいつでも見ていたのは大きな家でありここに住まないということがもったいないと見ていたのである。

この辺では去年の大地震で取り壊された家も多い。ただもう跡継ぎがいないとか何かあって直すのも金がかかるとかで解体されたのかもしれない。ともかく津波でも海岸地帯は家がなくなり家がなくなり空き家化して更地にもなってしまった。
それより原発事故で避難区域になったところははゴーストタウンになり空き家の町とも化した。それは今も回復していないのである。
おそらく原発避難区域は残されたのは老人であり回復するのは難しいと思う。つまり少子高齢化で跡継ぎがいなくなっているからである。街中でも壊されて空き地化したところが結構ある。 農村地帯でも空家が目に付くのである。それは農業というのが衰退して跡継ぎも居なくなっているからである。

全国的に限界集落がありそこでは近くにスーパーが無いとか介護でもそうした村落を回るだけで2時間もかかるとか不便になる。車で回ってもそれだけの時間がかかるのである。だからどうしても現代ではスーパーが近くに病院とかあり最低限のものはないと不便になる。私は一万の町でも一応病院がありスーパー二軒あるからなんとか車もないのに自転車で買い物にもいける。
でもどうしても買い物でも足りないものがあるから隣の町まで自転車で行かざるを得ないのである。 7キロくらいだからなんとかいける。だから山の中の限界集落のようにはならないのである。

ただもともと限界集落でもそこで暮らしてきた人がいたのである。ただ病気になったら医者にかかれないとか介護でも大したことができずに死んでいたとなる。それより長生きもしないから病気になったら大した手当をせず早めに死んでいたのだろう。
現実にそういう限界集落では子供が病気になってそれをその子供を町の病院に見せるために運んでいるうちに死んだとかも聞く。救急車すら来ないからそうなったのである。でもそういう場所でも人間は継続して生き続けてきたのである。でも便利な生活が普通になるともうもう住めないとなったのである。

今日テレビで老人が部屋を借りられないという問題を議論していた。その人たちを空き家に住めるようにしたらいいとかいっていた。田舎でもいくらでも空き家があるのだからそこに住まわせればいい。で
も地方でそうした老人を受け入れるのは問題がある。なぜなら老人は労働力にもならないしすぐに介護とか病気とか介護になりその自治体で世話する他なくなる。すると財政的負担が増えるだけだとなる。。たしかに年金をもらっているからそれで暮らせることがあっても何か生産的ではないので受け入れにくい。若い人ならやはりこれから生産的なことをする時間があるから体力もあるから歓迎されるとなる。

例えば戦後戦争からの引き揚げ者がわずかの耕作放棄地でも土地があればそこに開拓に入り貧しくてもそこでなんとか食料を得てくらしていた。では今の時代にそんな人がいるのかといえばいない。耕作放棄地はいくらでもある。でもそこで農業するかといえばしない。そんな苦労はしたくないとなるからである。
ただ田舎で年金があり空き家で暮らすというのはあまり歓迎されないだろう。老人が増えているのにさらに老人を増やしてどうなるのだとなってしまう。そこに少子高齢化社会の深刻な問題がある。

この辺で救われているのは実はその大きな家が壊されてもすぐ近くに新しい家が何軒も建った。それはおそらく原発避難区域から移住した人たちである。その人たちは補償金が結構大きいから新しく土地を買い家を建てたとなる。
でもその人たちは何をして働いているのかはわからない。でもそのために原町区とか鹿島区とか他でも相馬市でも新地でも移住した移住した人たちがいて人口は減っていないのである。

だからもう原発避難区域は復興すること自体が難しいとも見る。復興してもらいたくても現実は厳しい。残されたのは老人が多いからである。そしたら後を継ぐ人もいない。そういう場所で町でも町でも村でも維持できるのかとなる。それで官僚の人が津波で被害を受けたに三陸などにジジババしかいないところに金をつぎ込んでも無駄だという本音をいったことも分かる。現実を見ればそうなってしまうからである。

そして現在の便利な生活をしようとすれば限界集落には住めない。そこで別に介護とか医療とかのサービスを受けずに昔のようにただあきらめて死んで行くならいいがそうともならない、でも現代のサービスを受けるとしたらどうするのかとなる。だからコンパクトシティとかが勧められる。それがこの辺では原発事故で小高や浪江双葉大熊とか空き家化してゴーストタウンにもなった。
そしてその回復が望まれるがそれもうまくいかない。それはやはり少子高齢化が影響しているのである。だから原町とか5万くらいの年に移住した人が多いのである。それだけの家を建てる保証金をもらっているからである。

つまりもしかしたらもともと大熊辺りは広野とか大野とかなって地名のようにそこは原野だったのである。また夜ノ森とあればy夜は余のことであり相馬の殿様の森として名づけられたのである。だから元の森に戻ってしまうのかともなる。復興を望むにしても現実問題としてやはり少子高齢化とか現在の問題現在の問題が難しくなっている。
そもそもが少子高齢化というのは全国的問題でありどうしても現代のサービスを受けるにわ最低限の人口が必要でありインフラも必要である。スーパーとか病院とか無い所で住むことはいやだとなる。
だからコンパクトシテイとか人々を集めてそこでそのサービスを受けさせる。介護にしても2時間もかけて限界集落を点々と点在する限界集落を一軒一軒回ることは手間になるからである。

そして小さい町でもスーパーがあり車がなくても歩いてでも買い物に行ける。だから現在のサービスを受けたいならコンパクトシティというかにして人口を集中させる以外ないかもしれない。
ただ自分としては生活の多様性があって海でも山でも村でも暮らしがあるのがいいと思っている。でもそれはただ外部から見てそう見るのであり現実問題としてそこで暮らす人にとっては暮らせないとなるのである。だから人口集中させてコンパクトシティにするというのが効率的になるのである。
posted by 天華 at 14:05| Comment(0) | TrackBack(0) | 時事問題の深層

2023年09月26日

内堀福島県知事は総務省の工作員だった! (ジャニーズのTOKIO課があり依然として応援している)


内堀福島県知事は総務省の工作員だった!

(ジャニーズのTOKIO課があり依然として応援している)

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TOKIOは原発事故前から人気番組「ザ!鉄腕!DASH!!」の企画で、福島県浪江町で農業に挑戦。復興支援に携わり、2
012年度から県産品をPRするテレビCMに出演する。21年には、福島の魅力を発信する県庁内のバーチャル組織「TOKI
O課」が設置された。

TOKIOは家族」福島県知事が連携継続を強調 問い合わせは250件

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●総務省が県の行政を監視して支配する

この説明はわかりやすかった。総務省とはそんなに力あるのかと見えるものがあった。マスコミも支配できるし内堀福島県知事がその総務省から派遣された工作員だったということにも驚く。だからこそトキオ課まで福島県庁に特別設置されたのである。なぜ芸能人を強制で行政でそれまで特別待遇しているのかそれは総務省のトップである桜井パパがいるためにそうなっているのだという。そんなこと普通はわからない。でもこの説明でなるほどとわかった。

何か内堀知事は評判が良かったみたいだ。外国に積極的に福島の宣伝をして福島の産物を売らせている。だから内堀知事対してあまり悪いことを言う人はいなかったみたいだ。何か政治というとき福島県知事にしてもあまり関心がない。選挙でも関心がない。でも知事というのは相当な権限がある。何か原発でも知事と土地の所有者だけでその許可があれば原発でも作れたということを言う人もいる。

そして総務省がそんなに権限のある課とも見ていなかったし関心もなかった。総務省はやはり自治体に対して相当な権限を持っていた。だからこそ内堀知事は各県の財政を調べるため財政課に入っていたのである。それは総務省のトップの指示でそうなっていた。工作員だったと言うことを加治氏が言うのもそのためである。つまり権力構造として地方自治体は総務省の意向に逆らうことはできない。だからこそ東電の原発事故は東電が賠償すべきだという。でもそれを政府がさせないのは政府にとって東電が天下り先だとか金になるから守らねばならない。それは検察庁や警察でも海上自衛隊までも天下りして利益を得ていたのである。

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サンデー毎日ー10月9日号−ジャニーズ事件

これが正しい再出発の方法だったのだろう。これまでの膿をだしてこそ再出発できたとなる

東電を守らねばならない。東電を潰すわけにはいかないとなったのが問題だった。本来は東電を潰すべきだったのだが政府は事故の尻拭いをした。その額は20兆円にもなるという政府の国の予算のから支払われたのである。それは国民の税金なのである。そのことについて何か国民も怒ることもない。おそらくそのその官庁などのことなどよくわからないからとも見る。

●原発事故でも国の権力がかかわり起きた

だからなぜこれだけの大事故を起こして原発に関してはそうした政府の高官でも官僚でも誰一人責任を取らないのである。東電の幹部でも責任を取らない。でも何か人間社会というのは必ず誰かが責任を取らされるようになっているのである。政府と東電の責任があってもその人たちは責任を取らない。でも原発避難区域になったところでわその周辺では放射線被害で進めなくなったとかして大被害に遭う。必ず誰かが責任を取らされる。

例えば歴史でもなぜ太平洋戦争で300万人も死なければならなかったのか。その責任は誰にあるのかそれもやはりその責任者とは誰なのかもよくわからないのである。それで昭和天皇は広島に行ったときその責任を問われてしどろもどろになっていたのである。そしてその後三島由紀夫はなぜ天皇は人間宣言したのかと反乱を起こして自死した。それは天皇を神として戦い死んだ人たちが300万人もいたのだからそのことを許すことができなかったのである。ただその戦争でも責任が誰にあったのかというと国民にもあったしマスコミにもあった。

朝日新聞は戦争を煽ったとかいうこともある。だから今回でもマスコミはジャニーズを批判しなかった。原発でも批判しなかった。なぜならやはり総務省というのはマスコミを管轄していてそれに逆らうことはできないシステムになっていたからかもしれない。桜井パパが総務省のトップに居ればそうなる。だから本当に福島県庁にトキオ課まであるのか本当におかしかったのである。でもそのことを指摘するマスコミはいなかった。第一福島民報などは創価の聖教新聞をする株でも50%が福島県庁の出資しているとなれば国とか県の官報と同じである。中央の権力の意向に従うほかないとなる。だから福島県の政治に関しても何ら批判することもない。

ただ政経東北は内堀知事のことを批判していたことがあった。ただトキオ課があるとか批判はしてないだろう。政経東北にしても何10億の金を幹部が山分けした除染で山分けした相双りテックの宣伝を裏表紙でしていた。だからマスコミというのはとにかく新聞を出すにしても雑誌を出すにしても金がかかるからその金でも読者から得られないから県庁でも大企業でも宗教団体でも資金援助してもらわないと成り立たないからそうなっている。

●権力の横暴と暴走とをいかにとめるのか

だからそこにもはや何か権力を監視することはできない。権力と迎合することしかできないのである。それを象徴していたのは原発事故のとき朝日新聞社から読売新聞社からマスコミの代表は東電に招待されて中国で中国に集まっていたのであるその時原発事故がおきたのである。このように政府権力とマスコミは一体化しているからマスコミに何か期待することもできないので。ユーチューブができてこれはあまり金がかからないが個人でも放送局になるようになっ加治氏のように批判する人が出て来たのである。

ともかく地方自治といっても自治体はなかった。中央の権力の命令に従うのは地方自治体である。その工作員として内堀福島県知事がいたとなる。その地方自治体を取り締まるのは総務省だったとなる。ただ総務省にそんな力があるのかなど普通の人はわからない。それよりそうした官庁とかの権力構造はわからないのである。
でも今回加治氏の説明で私自身もなるほどなと理解したのである。なぜ権力が問題になるのか。権力の怖いのは今回のように原発事故になったりまたナチスのように全体主義になり何百万人とも死んでいくという恐ろしさがあるからである。だから権力というものをどういう風に操作するか。それが大きな問題なのである。

カルト教団でも統一教会でもオウムでもそうだったように創価でもそういう団体が権力を持つことを目指しているのだからそれを批判しないとナチスのようになってしまうのである。だからこそ権力をもつものを監視する役割のものは必要なのである。でも三権分立になっても検察でも東電に天下りしていてそれができないようになっていたのである。日本で民主主義がないというとき政権交代がアメリカのように民主党と共和党で定期的に交代しないということもある。政権が交代すれば前の政権の批判もできるしあくも暴くことができる。日本では政権交代がないのだからいつまでたっても政権の悪を暴くことはできないのである。
韓国で最高権力者の大統領が変わると前の政権の批判して悪事でも暴く、それを何か批判するが日本ではそもそも政権交代がないことが問題なのである。すると既得権者がいつまでも有利になり改革できないのである。

●人間が権力を持つことで起きる恐ろしい結果

原発の悪にしても権力で隠蔽されて何もできなかったのである。マスコミも何もできない。ただ津波が地震がその悪を暴いたのである。巨悪になるとそれが見えない。だから巨悪というのは批判もされないから誰もその暴走を止めることはできない。結果的にはナチスのようにもなるし日本の戦争もやはりその暴走を止めることができず300万人も死んだということになる。その結果の恐ろしさを知るべきである。つまり人間の権力を持つということ自体が問題なのである。そして人間はこの世で権力を持つ権勢を得るということがあまりにも魅力が大きいのでそのために人はその権力を得るために何でもするとなる。

宗教は権力を否定するものであるが結局カルト宗教団体になるとこの世の権力を得るために運動するだけになる。だから人間社会はいつまでたっても変わることがない。共産主義がでも結局人間の欲があり権力を持つことで堕落する。権力は絶対的に腐敗するというときそうである。それは人間の欲がなくならないからである。だからこそこの世に理想の国などいつまでたってもできないのである。それは宗教団体がただただこの世の権力を求めて運動していることでもわかる。全て御利益であり権力を得ることしか興味も何もない。その御利益を得られると説けばあれだけ膨大な人が集まるのである。何故ならその信者もまた御利益求めているからそうなるのである。
posted by 天華 at 11:08| Comment(0) | TrackBack(0) | 時事問題の深層

2023年09月25日

ようやく秋になるー窓に月(朝露、稲穂、秋彼岸、酔芙蓉)


ようやく秋になるー窓に月(朝露、稲穂、秋彼岸、酔芙蓉)


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朝露の稲穂に光り玉と散る

街中に空地増えるや秋となる

秋彼岸なれ花挿し勤め墓守る

朝静かそよ風にゆる酔芙蓉

街中に畑の手入れやオクラの花

十字路や1万の街にカンナかな

窓に月一人思索の我が家かな

誰か見る心を見るや窓に月

一時や窓に移りて消えし月


ようやく秋になった。この辺では稲穂は順調にも実っている。。他では暑すぎて順調に実っていないところもある。朝露が稲穂に光り気持ちがいい。
私の住んでいる街は1万位である。だから街の中に畑もある。そこに働く人がいてオクラの花が咲いたりする。また畑に酔芙蓉が咲いている。秋彼岸で私の墓はすぐ近くにある。そういう点では便利である。この夏は暑すぎて自転車で遠くに行くこともできなかった。隣の市でも7キロくらいでも一回くらいしか言っていない。でも1万くらいの町でもスーパーが二軒ありツルハが二軒もある。足りないものもかなりあるが別にそんなに不自由でもないのである。贅沢を言ったら人間キリがないからである。

私の場合は都会には住めない。人混みがいやなのである。何か自分は人と会うことが疲れるのである。陰の性格でありそれで引きこもりにもなったのである。だから人がいないところで住んでいるのは合っているのである。
ただ正直山の中の飯館村のようなところには住めない。スーパーもないし足りないものは多い。この私が住んでいる町でも街内から離れると買い物だけでも手間になる。ななぜなら車がないと田舎では買い物すらまともにできなくなる。だからどうしても車が必要になってくる。でも1万の町でも街内に住んでいればなんとかなる。

そして今日は朝から駆けずり回っていた。一人だと家事があり食事の用意もするから何かと忙しいのであ。その合間をプログを毎日書いている。これも結構手間になる。だから一時動画の方を試しにやってみたがそれも結構手間でしていない。とても何でも一人ではできないことがわかった。
夜には月が出ていた。その月も窓の端に見えていたがまもなく消えた。そのように人も一時映り消えたとなる。月の特徴はこのように移ってゆくことである。
月は何を見ているのか?あなたの心見ている。あなたにやましいことがあると月も住んで輝ない。自然は心に反映しない、人間の心は鏡なのである。だから心がけがれると自然の美は心の鏡に映らなくなる。それも怖いことだがそんなことを気にすることまない、そこに人間の盲点がある。とにかくようやく秋になりほっとした。体調も悪くしたからである。

ともかくようやく秋らしくなったのである。秋になればやはり読書の秋でもあり運動するにも良い。本当に三か月くらい遠くには行っていない。でも家でやることはありプログでも家でやれるからいいのである。家事で時間を取られるとしてもプログはその合間で続けられるのである







2023年09月24日

インターネットで郷土史の研究ができる時代 (神は人の移動とともに移動するー南相馬市鹿島区秋葉神社(只野氏)の由来)


インターネットで郷土史の研究ができる時代

(神は人の移動とともに移動するー南相馬市鹿島区秋葉神社(只野氏)の由来)

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天明というとき飢饉のあった時代である。相馬藩では人口が三分の一に減った
だからここも古い土地である。国誉の戒名は何を意味しているのか?国の誉れになる人だったのか不明である。

「橋本郷土研究会資料」相模原市

郷土史研究というときその方法方法がある。私の場合は地名に興味を持って歴史でも郷土史にでも興味を持った。
でも学問というときそれをどういうふうに研究するのかそれが問題になる。今になると郷土史というのはインターネットの中にいろいろと発表する人が増えてきた。郷土史というのはその市町村でも数が多いからとても調べようがない。確かに本はいくらでも出てる。でもその本でもとても買うことも難しいし調べることも難しかった。インターネットだと学者の論文も出てるしその地域に住んでいる人が郷土史を発表すればそれが全国の人に読まれることがある。でも数が多いから何が重要なのか検索するのが難しいのでは

でも郷土史という時数が多いから調べにくい。でも郷土史でも必ず日本だったら共通性がある。それはなぜかというと神社でも必ず例えば日吉神社とか山王神社とか秋葉神社とかなどこにでもある。それはなぜかというと人が移動してきてもたらされた神だからである。例えば日吉神社とかは南北朝の争いで霊山から逃れてきた人たち落ち伸びてきた侍がその神も一緒にもたらしたからである。
それで南相馬市の鹿島区の日吉神社でもそうである。でも日吉神社となれば全国どこにでもある。ここにだけあるものではない。日吉神社の元は比叡山のあり比叡山は天台宗とかでもあり日本の仏教の総本山になっていたのである。だから鎌倉時代でも日蓮がそこで修業したり日本の仏教の比叡山から広まったのである。

近くの秋葉神社には郡山市の多田野村由来の只野氏の碑がある。それは最近作られたものである。神社を守っていた只野さんは死んでいる。だから祭りも途絶えるともなる。南北朝の争いの時霊山から逃れてきたのが只野氏である。。だから南相馬市鹿島区には只野という姓が50人くらいもいるのでは。只野一族の村でも街でもあった。
だから秋葉神社でも只野氏が移動してきてもたらされたのである。まず人が移動してその人が神も一緒にもたらして移動しているのである。秋葉神社というのは秋葉山がありそこで修験者がが山伏が修業した場所である。だから法院とかの墓がある。

郷土史でもその土地独特の神というのはほとんどない。たいがい日吉神社とこのように総本山があり京都とか奈良から神も移動してきたのである。だからいくら郷土史でもその土地独特のものというより神に関しては共通したものが多いのである。だからかえってどこの郷土誌でも研究していれば共通したものは必ずある。すると理解しやすいとなる。その土地だけにしかないものではないからである。ここにも日吉神社がある秋葉神社があり他にも共通したものがある。だから他の郷土史でも理解しやすいからである。まったく馴染みのない神社というのは少ないのである。

このPDFは一冊のの本のようにもなっていて何か郷土史を調べる基本のものとして優れていると思った。だからこれは読んでおいた方がいい。
posted by 天華 at 17:56| Comment(0) | TrackBack(0) | 歴史(相馬郷土史など)

2023年09月23日

今地球に何が起きているのか―リビアの洪水被害 (自然災害も政治的なものが関係している)


今地球に何が起きているのか―リビアの洪水被害

(自然災害も政治的なものが関係している)

●リビアの洪水被害は政治の問題

地球で今何が起きているのか。リビアのダムが決壊して2万人も死んだということそれはなぜそうなったのか。

●自然的要因

●政治的要因

自然的要因としては地中海に何か異変があり大量の雨が降った。そして政治的要因としてはリビアは内戦状態にありのダムの点検を整備を怠っていた。結果的に2万人も死ぬとことになった。自然災害というのは必ずしも自然だけの影響ではない。そこに必ず人為的なもの政治などが関係してくる。

それは東北地方で起きた津波とでもそうだった。特に南相馬氏では相馬藩が支配していた。でも400年前に戦国時代であり相馬藩内でも激しい戦争があった。相馬藩を作ったのは千葉県の方から来た相馬氏でありその相馬氏がこの地方この地を支配するために争いがあった。在地の勢力と衝突して戦争となっていた。その時やはり津波が来ていたのである。

でもその津波のことより事細かく相馬藩政記には相馬氏がこの地を戦いによって支配したかをということである。その論功行賞が詳しく記されていた。でも津波で700人が溺死したというこたった二行しか記されちなかった。ほとんど700人も死んでも記されていなかったのである。それより相馬氏がこの地を在地の勢力と戦い支配することは優先されていたからである。

つまり自然災害でも政治などのにより無視されて何も対策もされない。それはリビアの状況とも似ている。内戦状態になっているのだからいかにして戦いに勝ち支配するということが第一になるからである。そのためにダムの点検整備をないがしろにしたのである。だから人間社会に起きることはすべて自然災害でもそのせいにすることはできない。必ず人間側にも問題がありそれが自然災害が起きて被害を増大させる。

●飢饉も政治的問題でもあった

他にも飢饉あるとしてもそれもすべて自然災害のせいにはできない。東北の米を江戸に送るために商品作物となりそれで米を送ったが地元では米を食べられず飢饉になったということもある。だからこれは経済政策が失敗したのであり必ずしもすべて自然災害ということでわ片付けられないものだった。

それは今でもクライナで戦争がになるとウクライナとロシアは穀倉地帯であり外国に輸出している。でも戦争でそれが止められると輸入している国は飢餓にもなる。
それは政治的要因なのである。今やグローバル化するとどこかで何が起きても世界中に影響するとなる。だから戦争はグローバルに影響してただ二国間の問題ではなくなる。だから政治的問題として世界で解決しようとしなければならない。また原発事故でも処理水を海に流して中国に批判されたように環境問題は地球がつながっているのだから世界の問題でありそもそもは中国でもトリチウムを流しているとか原発そのものが問題があり廃止するべきだとなる。

環境問題になるとそれは世界の問題であり例えば森と海は密接に結びついているというときそうである。森と海をつなぐのが川であり川から流れる森の腐植土とか栄養分が海に影響して海の魚やや海草や貝などに影響する。つまり森と海は別なものではない。一体化したものであり分離できないのである。

それは地球全体がそうであり密接に結びついている。地球を一つの体に例えればどこか一部分がおかしくなれば病気になれば全体も病気になってしまうのである。それで森や山の木を切ってそこをソーラーパネルにしてしまう。それも危険なので森には保水能力がありまた腐植土などを所蔵して栄養分を蓄えそれが川を通じて海に流れ海の生物を栄養分にもなり養うとなる。だから自然は切り離して見れないのである。

●恵みの意味

恵みとはめぐることであり地球全体がめぐるのである。それはその言葉はもしかしたら縄文時代の生活から出てきたしそうかもしれない。だから自然を別々のものしてそれぞれ部分的に考えることはできないのである。
今グローバル化して木材も外国から輸入する。そして日本の森は利用されなくなり間伐しないので森に栄養分が蓄えられないとかそこにいろいろな問題が出てきている。つまりグローバル化とはこうしてもともとあったその国土内での自然の循環を断ち切り自然を破壊してしまうともなる。貿易は必要でも生態系的経済を重んじれば制限をしなければならないのである。

原発事故の処理水で中国がホタテなどを輸入しなくなったことで日本は大打撃を受けている。それも政治的問題であり自然の問題ではない。グローバル化というのは常にそうした政治的リスクは増大することである。食料品でも政治的問題で外国から入ってこなくなることがある。このように政治的問題が人間社会には常にありそのために苦しむのである。それは自然とは関係ない。自然災害は避けようがないかもしれないが政治的問題は人為的なものであり政治的に解決できるものなのである。

●原発事故も自然災害が原因ではなかった

原発事故がなぜ起きたかということを追求してきたがこれを津波地震という自然災害のためだということになっているが実際は人為的なもの政治的なものも関係していた。まず原発が本当に必要なのかどうかそのような危険なものは必要なのかどうかということから検討されねばならなかった。電気は必要だとしても今年の異常な暑さでも電力は不足しなかった。だから原発なくても天気はまかない。ではなぜ原発が必要なのか。それは電気が必要だからだけではない。そこに何か軍事に利用するとか政治的な役割があって原発がある。

だから原発というのはただ電気が必要だからというだけではない政治的なものとしてまたは軍事にも関係して作られた。なぜなら人口がこれから日本で減少してゆけばそんなに電気など必要なくなるからだよ。もう人口は6000万人くらいになればそんなに電気は必要はなくなる。だから人口減少がすべてマイナスに働くともならないのである。やはり日本には日本の国土にあった適正人口がであればいいのである。
また東京周辺に人口が集中しているのだから地方に分散すればいいともなる。それも実は政治的問題でもある。だからこそ一時東京遷都が言われたのだがそれも今は何も言われなくなった。

とにかく自然災害は実は自然の影響で避けられないということにもなるが政治的な問題としてもある。政治的に解決できるものでもありそれを怠ったときリビアのような悲惨な結果になるのである。だから国が分裂するということは恐ろしいことになるのである。それは政治的問題であり自然災害とも違う。

自然災害はある程度洪水があるとしたら堤防を高くするとか津波でも防潮堤をを高くするとかで現実に防げたこともある。だから何らか対策することができる。とても政治的問題として国内が分裂したりするとその被害が増大するのである。それは世界でも世界大戦になればその被害は甚大なものとなる。それは自然災害以上に恐ろしいものとなるのである。だから人間社会における災いはすべて自然災害によるものではない。それは政治的に予防できるものであり解決できるものでもある。


松永勝彦. 森が消えれば海も死ぬ 第2版 陸と海を結ぶ生態学 (ブルーバックス) (Kindle の位置No.1567). 講談社. Kindle 版. 

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2023年09月22日

ポルトガルで偽札の国家的詐欺をした犯人 (偽札をばらまいたいがアンゴラの経済危機を救った)


ポルトガルで偽札の国家的詐欺をした犯人

(偽札をばらまいたいがアンゴラの経済危機を救った)

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これは再放送がある

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この人の最初の詐欺はオックスフォード大学の卒業証書を偽造したことである。その卒業証書はあらゆる理系の学部を学び卒業したと書いてあった。まず最高の大学で理系だったら相当な価値がある。ここでも文系は価値がないことがわかる。
その卒業証書が見破られなかったのは公証役場で国家の認証を受けたからだった。その卒業証書を持っていたからポルトガルの植民地だったアンゴラで鉄道会社に就職できた。そこで実際に機関車の故障を直して評判になったのである。その人はすでに高校とかで専門学校で工学部に入っていて勉強していたから直すことができた。だから別に本当はオックスフォード大学の卒業証書がなくても仕事ができる人だったのである。

現実にオックスフォード大学を出た人は人もそこで働いていたがそういう現場の仕事はしてしないとなっていた。だからここでそうした卒業証書はすべてそれで判断することは間違っているということになる。ただオックスフォード大学の理系となればどうしても誰でも認める。まず今や大学などが50%以上の人が行っているのだから価値がない。計算も読み書きもまともに出来ない人まで言っている。そういう時代である。でもやたらと学歴にこだわる人もいる。

私は三流大学の経済学部を出ても何も勉強してない。だから高卒で銀行に勤めている人のほうが実務をしているから経済を知っているとなる。まず文系は社会に出て大学の勉強などほとんど役に立たない。文系とは実用とは関係ない教養にすぎないからである。それは無駄ではないにしろ独学できるものなのであるある。

その次は株を買い占めるための資金を得るために小切手の詐欺をしたことである。アメリカの銀行に金がないのにおろさせた。次に鉄道会社の株を買い占めて経営者になることなるために資金が必要であり銀行を通じて紙幣を作ることだった。そのその紙幣をばらまきアンゴラの経済を立て直すということがあった。だからこの人のやっていることはアンゴラのためでありその人自身の私利私欲というものでもなかった。実際に経済政策として紙幣を金を回して経済を活性化するということは国家レベルでもしているからである。

だからこの人のしてきたことは別に私利私欲というものでもなかった。これは別に国家レベルですることでありそれが一個人でしていたという違いである。そして別にオックスフォード大学の卒業証書がなくても実際の現場で仕事ができていたのである。だから会社側でも別にオックスフォード大学の卒業証書がなくてもその人は仕事ができる人だったのである。だから学歴にしてもそれですべてを判断することは間違っている
だからこの人の詐欺は何かすべて悪いものにも見えない。何かそういうことは会社でも国家レベルでも行っている。大掛かりな詐欺になってもいるかもしれない。あまりに大掛かりになるとかえってそれが見えないし信用するとなる。それで現実にグローバル経済とかではそういうことが実際に行われている。だからこそ陰謀論は常に言われるのである。
つまり国家自体とか大会社でも銀行でも詐欺していることがある。でもそれが巨大だからわからないとなる。つまりグローバル経済というのはそうした大掛かりな詐欺なのかもしれない。でもそれは罰せられることはないのである。国家レベルの詐欺ということもある。それは誰も罰することができないのである。

何かこの世はそうした騙しが詐欺が公然として行われる場でもある。それがカルト宗教団体でありそれを取り締まることもできない。税金も払うことがないビジネスなのか何かそれがあまりに大掛かりになると巨大になるとその悪夢は隠蔽されて見なくなるのである。
つまり大掛かりな詐欺はだましは簡単に見破れなくなる。原発事故でもそうだった。検察とかも天下りして官僚もかかわり国家的事業でありそのために安全神話が作られ誰もそこに立ち入ることもできない。アンタッチャブルとなりそこに危険があっても何も言うこともできなくなっていたのである。それは国家的犯罪でありでもそれを取り締まることはできない。だから国家自体が犯罪者になるということがある。でもそれを取り締まることはできなくなる。それで国民が大被害を受けることがある。

不思議なのは一人の個人がこのような大掛かりな詐欺作業したということである。でもそれは全て悪いものかというと国家に代わってアンゴラの経済を立て直すための方策として紙幣をばらまいたのでそれは結果的に効果があった。この人は確かに自分が英雄になりたいとか認められたいとかはあったがそれは私利私欲と言うものでもなかった。アンゴラの経済の立て直しのためにそうしていたのである。国家ができないことを個人で不正であったが防いであったが個人でしていたということである

ともかく国家的犯罪は犯罪にならない。戦争でも国家的犯罪であっても何百万人が死んでも犯罪にはならない。国家を罰するものはいないのである。また国家を罰することはできない。だから原発でも罰することができなかった。ただ津波が地震がその悪を暴いたのである。
だから何らか国家を罰するものは国家を超えたものでありそれは神にしかできないともなる。だからこそ最後の審判がありそれは個々人を罰するものだけでなく国家でも罰せられるのである。国家自体が犯罪を犯すものでありでも罰することはできないからである。
だからこの事件は個人の問題だけではない国家の問題として提起されたのである。国家は何もしてくれないから個人が大きな詐欺をして偽の紙幣をばら撒きアンゴラの経済を活性化させたということにもなる。でも結局は罰せられて悲惨な結果として終わったのである。

posted by 天華 at 09:53| Comment(0) | TrackBack(0) | 経済社会労働問題

2023年09月20日

「家事は全部妻まかせ」が招く認知症?  父の介護で気づいた「男を無力にする真の原因」

「家事は全部妻まかせ」が招く認知症?

 父の介護で気づいた「男を無力にする真の原因」

母は毎日欠かさず三食を用意し、父に給仕していた。かれこれ60年にわたって続けてきた習慣で、父にとって食事とは「食べる」というより母の給仕を受けること。母の前に「座る」ことなのだ。

 この習慣こそ認知症の原因ではないだろうか。家事を一切せず、外でお金を稼ぐだけで、あとはすべて母任せ。いわゆる家父長制が認知症を招いている。父はアルツハイマー型というより家父長制型認知症といえるのではないだろうか。


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私の家族は複雑であった。二人のの母親がいて一人は実の親だけど百歳まで生きた。もう一人は母親違いの姉であり年齢は七歳しか違っていなかった。同じ大正生まれだったのである。そして母は私の父親の家に嫁いできて女中のように働くことだけだった。特に店をしてた時食事をしていても満足にゆっくり食べることができなかった。店にお客さんが来て食事中でも立っていたからである。
そして私の母親は実家でも継母が来ていじめられて苦しんだ。それで何かそこでも働き詰めであり趣味など持つこともなかった。だから花にも興味はなく花など買わなくてもいいといいとか花はいらないと言っていたのである。それも育ちが原因していて貧乏でありそうゆう余裕もなく習い事もさせられることもなくただ働くことだけだったのである。だから実際に東京に出て女中もしていた。だからその一生は女中ともなっていた。

一方姉の方は公務員であり役所に勤めていた。もともとは看護婦だった。 55歳まで勤めて退職した。早めの退職だったが勤めることが嫌になったからやめたと思う。でも55歳は早かった。なぜならそれから30年も生きていたからである。姉も何か趣味になるものもなかった。向いていたのは看護婦だったのである。だから役所を辞めてから何をしていたかというと何もしないのである。家事は94歳までしていたからである。一方の姉は55歳で退職して何もすることがなかった。家事すら全然してない。なぜなら母が全部していたからである。

ここで一見これは何でも食事でも用意されるから人いいと見る。でもそれが認知症の原因にもなっていたのである。役所を退職してから何もしない。趣味もない。向いていたのは看護婦だったがそれもやめていた。ただ保健婦の後は事務的なもので働いていた。でも役所を退職してからは何もしない。家事すらしない。ただ何をしていたのか、テレビとか見て家では何もしてない。それは認知症になった原因だったかもしれない。母は94歳まで家事を一人でしていた。姉は何もしないかったのである。

母は働きづめの一生だったけどそれがすべて悪いものとして作用はしなかった。 94歳まで家事をして働き家で掃除でも常にしていて役割があった。姉は家で役割が無く役所も辞めて何も役割がないものとなってしまった。そのことは認知症になる原因だったかもしれない。家事というのは男が馬鹿にすることもあるが結構頭を使うのである。頭だけでない手も足も使う。特に料理は相当に頭を使うし熟練しないとできない。だから家事をする料理をすることは給料をもらえなくてもそれは仕事なのである。

だから男が退職したりして妻が食事の用意でもなんでもしてくれる時男に役割がなくなりそれが認知症にもなる原因となる。一見何でもしてくれる身分であればいいと思うが実は違っている。人間は常に役割を持ち働いていないと頭も体も機能しなくなり退化してゆくのである。だからこれは何か人生の人間のパラドックスにもなる。

例えば主人がいて召使いがいて召使がなんでもしてくれたりするのはいい身分だと見ているが必ずしもそうではない。認知症になりやすいのは召使いがいて自ら何もせず何でもしてもらう主人の方なのである。
また姑が嫁にお母さんは何もしなくていいですよテレビでも見てくださいと言われると姑がボケるということはある。それは家事も何もしなくて張り合いもなく頭も働かないのでそうなるのである。だから男でも何もすることがなかったら家事をするべきだとなる。家事はそれなりに頭を働かせるし体も使うから全体的にいい作用をするのである。

そして人間は何らか役割がないとボケてしまうことがある。だから長生きの時代老後も長いから何か役割を持ち働き続けることが大事である。
ワーク(work)というとき作用するとか機能するとか作品などの意味がある。つまり人間は生涯ワークする。それが例え金にならないとしても何か役割を持ちワークすることが大事なのである。それが高齢化社会の大きな問題になっている。老人は引っ込んでろとかテレビテレビでも見てるとか何もするなとか若い人に言われたらその人はボケてゆく。すると社会に大迷惑をかけるのである。

ともかく認知症はもう90以上になったら半分はなりどうしてもそれは避けられない。でもそれを防ぐにはやはり役割を持ち何らかの生きがいを持ち働き続けることが大事なのである。理想的なのは働きながら死ぬことなのである。近くの自転車屋は癌になっていても十年間くらい働き3日前に行ったらもう仕事もできないかもしれないと言って3日後に死んだのである。
まさに仕事をしながら死んだのである。街に一軒しか自転車屋はなくなっていたから貴重な存在だったのである。他でも近くの医者も90まで仕事をしていて一週間間くらいであっけなく死んだのである。そういう死に方はいいと思う理想である。
そうはいっても肉体労働者だと働き続けることが難しい。どうしても体が弱りできなくなるからである。でも軽いこと家事くらいはできるからそれでもしていた方がいいとなる。
ただ何もせずボケーとしていることが一番悪いのである。

老後は長くなるというとき大きな問題が病気になること特に認知症になることは一番大きな問題である。それは周りに大迷惑をかけてしまうからである。介護するにも精神障害者になってしまうからその苦労が大きいからである。そして本人にしても馬鹿になったとか言われてその生きてきた人生の価値まで否定されてしまう。あの人は馬鹿になって死んだ。それだけの評価になってしまうことも怖いのである。そして死ぬ最後の言葉が[私は優秀だった〕と言って死んだのである。それも悲惨だったのである。
ただなんらか馬鹿になったこと自覚していた節があった。それで自分は馬鹿ではないということ言いたかったのかとなる。

ここで家父長制的認知症と言ってるが家事もしないでただ妻の何でもしてくれるということは危険なものとなる。
認知症になることが確率は大きくなるからである。ただ人間は高齢化社会を生きることは今の時代になって初めて経験することでありそれでみんなが対応できないとなっている。その最大の問題が認知症になることなのである。

2023年09月19日

特別暑い夏の詩(鷺、涼しい、雷、夏の雲、・・・)


特別暑い夏の詩(鷺、涼しい、雷、夏の雲、・・・)

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雲の台のようになっている

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川の浅瀬の流れが響く
鷺が一羽餌漁りしている
木陰に休み風が涼しい
鮎が跳ね鯉が流れに泳ぐ
夏の雲が依然として湧き上がり
今日も雷が鳴り轟いた
高く高く雲は湧き上がり崩れる
まだ家にのうぜんが咲いて
例年になない暑い夏が終わらない
何か何年分かの夏を生きたよう
夏を十分に生き秋を迎えよう
我が生きる日はそれほど長くないだろう
灼熱の夏を生きてこそ夏は体に刻まれる
暑い夏寒い冬があり地球を感じる
今年の稲の実りは豊かである
十分に強い直射日光をあびたから・・・

今日も暑かった。鷺は夏の季語である。だからまだ今年は夏であり夏の光景なのである。これを見ていると涼しいとなる。
夏の雲も依然として出ている。
今年の夏は十分に夏を味わった。暑い夏寒い冬が枕草子で書いているが京都はまさに盆地であり寒暖の差が激しいからである。
浜通りは海からの風が涼しいから福島市の盆地とは違っている。でも今年の暑さは異常だった。
すぐ近くに川も海もある。散歩するにはいい、でも陽射しが強いので隣の街に行けなかった。近くを自転車で走るだけだった。
今日も雷雨があり今夜風が涼しい。明らかにまだ夏である。

人間の失敗の原因 (自然は成さずしてなる。人間はなして失敗する)


人間の失敗の原因

(自然は成さずしてなる。人間はなして失敗する)

成さずして成るー老子

●しなくてもいい事業を起こして失敗

近くの人は事業を起こして失敗した。その人はもともとみんなが取れない一級の免許を持った電気技師だった。だから会社に勤めていても高級取りだった。でもそれで常に優秀だと他から言われて事業を始めたのである。その事業の始める動機も何か東京とかの人のための別荘建てるような仕事だった。ログハウスとかを建てて東京の人などを相手にして金を稼ごうとしたのである。

その動機はただ自分が優秀である会社の経営者にもなれるそれを示したかったとしている。それが動機だったのである。でもその人は別にほかの人より優秀だったのである。その人を蔑むような人は周りでいなかったのである。
でも常に優秀だと言われているから経営者になっても当然成功して優秀だということを示したかった。でも実際はその事業も失敗して大きな借金だけが残されたのである。それで周りのものは大迷惑となったのである。
私自身もその人と関係していたから介護とかで苦しんでいる人がその人がきてもその人は頭の中が借金のことで生他人のことなど気遣うこともなかったのでだから苦しい時借金の要求にもなったのである。

もう一人の人は腕のいい大工である。その大工の仕事で充分に家族でもでも養うことができたしそれで確かに足りない面はあっても普通の生活はできたはずである。でもそれで満足することはなかった。その人はいい面としては大工だけではない庭作りもできるし壁塗りもできるしいろいろな事ができるのである。社交性もあり営業などにも向いている。

でもこの人も大工だけではその収入だけでは満足しなかった。もともとこうして何でもできる人だからホテル事業に手を出した。ホテルはラブホテルでもあった。このホテルを作るにも資金が必要だった。ただ大工ということがあってその建物を建てるときは家を造ることをしていたから役だった。それでその人は成功して立派な家を建てた。でもその家も津波で被害を受けた。でも流されたわけではなかった。今そこに住んでいないのは原発事故で避難区域になり不便なので隣の町に移り住んだ。

そして60以上すぎて熟年離婚となり一人で住んでいる。家族もばらばらになってしまった。息子は仙台市の方で移って仕事しているからである。確かに原発事故も原因しているがそれだけではないこれまでしてきたことが原因して今がある。何か性格的なこととかその人の人なりのことが原因もしているみたいだ。

●カルマとはこれまでした行為が苦しみとなり現れること

この二つの例の失敗の原因は何なのか。 2人はそもそもやり手であり優秀なのである。だからそのことが悪いわけではない。そして共通しているのは上昇志向が強いことである。他人より他人に負けたくない他人より優秀なのだということを見せてやりたいその上昇思考が強くでもそれだけやれてたということである。それだけの能力もあるとななっていた。

では何故失敗に終わったのか。たしかにそこには大工さんの場合は原発事故の被害があり津波の被害があるとその人だけの責任ではない。でもその人の責任も何かあった。結局人間は60すぎるとこれまでしてきたことが積もり積もってカルマとなって苦しみとなって現れる。それだけは間違いない。

私自身がもそうである。仕事もせず家に引きこもり30年間自由に旅などをして思うがままに生きていた。どうしても陰の性格であり社会生活馴染めなかったからである。
でも家族に恵まれてそういうことが出来たのである。でもその結果として家族が病気になり介護になった時自分一人でそれを背負わされることになった。
そして社会常識もなくなっていたから一人助けもなく苦しんでいるだけだった。それも自分のカルマだったのである。つまり人間は60以上になるとカルマの清算が強いられるのである。だから他人のことをとやかくようこともできない。ただそれぞれになぜそうなったのかということを知ればほかの人もこれから生きる人も若い人も参考にはなる。
要するにそれぞれの人生をふりかえると必ず何かその人の行為が結果として現れる。それが60以上にその行為の総決算が起きてくるのがカルマの法則なのである。

この原因の失敗の原因はどこにあったか

要するにしなくてもいいことをした

カルマとはこれまでしてきた行為が苦しみとなり現れること

これなのである。一人は何も事業など始めなくても充分に収入もあり他からも優秀な人と認められていたのだから別に事業など始める必要もなかったのである。でもさらに自分は優秀だとしてその優秀さを認めてやる認めさせるとしてそんな動機で事業を始めたのである。それがそもそも失敗の元だったのである。

大工さんの場合ももともと優秀でありやり手であり稼ぐ力はありホテルなど経営する必要もなかったのである。でも自分は何か学校ではあまり優秀でなかったからとか優秀なことを見せてやりたいとして始めたので。 2人の共通点はとにかく上昇志向がある強い。
でも別にその人たちは優秀であり他人からも認められているからそんなにまたさらに優秀だと事業を起こしていることが失敗の元になったのである。
大工さんの場合は原発事故とか津波がありそれも原因していたがやはりその人自身の性格とかしてきたことが原因していて家族もバラバラになった。だから結局不幸になったとなる。

ただ共通していることは優秀だということにこだわる。他者と比べて負けたくない優秀だとこだわる。それで私の姉も最後に言った言葉が(俺は優秀だった)とのである。そこまで優秀さにこだわっていたのかと理解できなかった。優秀だったことは間違いないし知っている。でも認知症になり馬鹿になったともなりそれで優秀だったと言ったのかもしれない。最後にどんな優秀な人も人認知症になれば馬鹿になったとなるから悲惨である。そこに人間の限界がある

●してしなくてもいいことをして失敗した

それは別にこうした個人の例だけではない。そもそも原発事故自体が原発を作ったこと自体がしなくてもいい作らなくてももいいのに作ったことによって最悪の結果になったのである。
確かに原発は地元の要求もありお金を稼ぎたいということもあり作られた。でもそれが必ず必要なものというものでもなかった。電気がなくてもいいというわけではない。でもこの夏が異常に熱くなっても電気は不足しなかった。だから電気は原発なくてもなんとか賄えるものだったのである

そもそも原発を作ったということ自体が問題だったので。その事業自体が必ずしも必要ではなかったのである。でも金になるとか作る方でも利権が関わり作ったのである。要するに人間の成すことが全て必要だから実際は成さなくてもなさなくてもいいものでもあえて成す。そのことによってこの大きな禍が生まれるのである。
それを説いたのが老子でありまたキリストでもあり釈迦でもあり宗教は大概人間の行為がカルマとなるというときこうして何か必要ないものでも成さなくていいことでも成す。その結果として災いが生まれるのである。

日本の戦争などでもそうである。なぜ300万人も死ななければならなかったのか。そもそも本当に戦争する必要があったのかそれ自体が問題だったのである。やむを得ないとか色々言われるが戦争というのも事業であり二つの例のように事業そのものが必要だったかどうかはわからない。でもあえてその事業を実行したということが300万人も死ぬという結果になったのである。その300万人の死が何か讃えられるべきものなのかということもわからないのではある

結局人間の問題は成さなくてもいいことも成すてそのことから大きな災いが生まれてくる。戦争もその一つの例であり事業でもそうである。本当にその事業が必要なのかどうかはわからない。ただ橋一つは作ればそれでみんなが助かるということはある。でも事業自体が本当に必要なのかどうかは分からないものがある。でも相手それを実行すると成すことにより大きな禍ともなるのである


2023年09月18日

悪は権力によって隠蔽される (ジャニーズ事件の深層ー背後に権力を持つ官僚の人がいた)


悪は権力によって隠蔽される

(ジャニーズ事件の深層ー背後に権力を持つ官僚の人がいた)

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ジャニーズ不正加害事件の裏第二弾!ジャニー性加害隠蔽〜日本の巨大な力】#980の続き!得体の知れない驚異的な力が、この国を支配する。このシステムを壊さない限り、日本は持続できない!-masakazu kaji-
Kajiチャンネル -加治将一-

絶えず不具合、故障があっても隠せる。だからそれが習慣化していたのである。どうせ誰にも追求などできない、みんな金で抑えている。こうしてしそれが大事故につながったのである。-原発事故も隠蔽が原因


●その背後に総務省の要職の人が存在した

この事件については詳しくない。ただ必ず悪と言う時隠蔽される。それは一つの法則のようになっている。櫻井翔が芸能界で活躍でき有名になったのはその背後に櫻井パパがいてその人が政府の有力な官僚であり権力と地位を持っていた。だからなぜマスコミでも攻めせないのかとなったらその桜井パパに忖度したからだとしている。
この加治氏の説明はわかりやすい。なぜこの背後のことがわかるのかというと彼は直接そうした上層部の人と付き合っているからである。普通の人はそういう人と直接は話したり親しくなれない。だからなかなかそういう人たちのことは分からないのである。

総務省とはテレビとか通信関係など大きな力を持つものだった。だからこそマスコミはそのことで指摘できなかったし放送もしなかった。マスコミというのは常にその宣伝してくれる会社の会社があればその会社を批判はしない。つまりマスコミというのは権力に逆らうことはしない。そうすれば会社自体が維持できないからである。だから宣伝をしてくれる宣伝料をもらうくれる会社には忖度して批判はしない。それが福島県でも政経東北は相双レテックのことを裏表紙で宣伝していたことでもわかるそんなことはないと思っていたが意外だったのである。

マスコミとは既得権者であり権力を持っている側につく。その権力というとき必ずしも政府の権力とかだけではない。マスコミに何か利益を提供してくれる組織団体は批判しない。例えば創価の聖教新聞をすらせている新聞社が多い。福島民報などもそうであり大手の新聞社もほとんど聖教新聞を刷っているしそれを配達している新聞社もいる。そうしたら創価など批判しない。つまりマスコミでもテレビ放送するにも新聞を出すにも雑誌を出すにもお金をかかる金がかかるからその金を本来のテレビ放送でも新聞でも賄えないのである。それで必ず大きな組織団体とか政府にでも頼ることになる。そこからして既に自由な報道はマスコミには無いのである。

●権力で隠蔽される巨悪−原発事故も隠蔽が原因

絶えず不具合、故障があっても隠せる。だからそれが習慣化していたのである。どうせ誰にも追求などできない、みんな金で抑えている。こうしてしそれが大事故につながったのである。

そうして結局巨悪は隠される隠蔽される。それは原発事故でも同じだったのである。そもそも原発というのは放射性物質を出すのだがそれが常に隠蔽されていた。その放射性物質というのは毒にしても匂いも色もなく気づかない。だから隠蔽されやすいものだったのである。そこに政府の権力とかがかかわり御用学者が関わり危険は隠蔽されたのである。なぜなら東電には海上自衛隊から司法関係検察関係から警察まで関わり天下りしていたからである。そのために権力によって安全神話が作られたのである。

そして常に危険は隠蔽されたのである。そこでその現場で働く人はその危険に気づいて東電の上層部にその危険を忠告していたのだがそれも無視された。津波にしても十数メートルの津波が来ると学者集団が東電に警告していたのである。でもそれも無視されたのである。金がかかるとして安全には金をかけなかったのである。それがなぜできたかというとなるとそれだけの権力を持っていて隠蔽することができたからである。
今でも放射背物質を地下深く埋めて隠そうとしている。でもそれが安全なのか何か地震でもありやはり隠したものが災いとなるかもしれない、ともかく原発はこうして常に隠蔽するものだったのである。
だから悪と権力は密接に結びついているのである。そのために巨悪は隠され隠蔽されて表に出ない。だからこのジャニーズ事件でも同じだった。その悪の背後に櫻井翔のパパが総務省の要職についてその権力のゆえにマスコミでも忖度して追求しなかったのである。だからマスコミの言うことを鵜呑みにしていると危険になる。

●この世は変わらない悪も消えることはない

つまりこの世は何か変わったようで変わっていない。時代劇ではよく要職についている上級の侍が裏にいて例えば今回のように性加害あったとしても隠される。それは表に出ないのである。ただそれを追求されて切腹したとかもある。時代劇の場合は今と違ってその悪がわかりやすいのである。現代の悪は複雑であり分かりにくいのである。それは世界でも同じでありそれだけ広い世界になると世界はどうなっているかなど誰もわからないのである。
そうなると巨悪でもでも隠されて見えないのである。だからこそ常に陰謀論になってしまうのである。
グローバル社会というのは公正な社会でもない。やはり今ならアメリカが取り仕切る。覇権国が取り仕切り世界の富はアメリカの一部のものに上層階級に集まるのである。。ただそういうことは可視化されない。だから一般の人はその悪を知ることもできないのである。

とにかく人間の社会というのは進化したとか進歩したとかいうが本質的なところでわ変わっていない。ただ複雑化しているから悪というのは見えない可視化されない隠蔽されやすくなっただけである。
こうしてこの世からは悪はなくならない。それは人間の欲がなくならないからである。だから人間は欲によって滅びると聖書に書いてある。そしてこの世では悪を消滅させることはできない。別にこの世でこうして悪を働いたからといって罰せられることもない。原発事故では東電の幹部でも政府でも官僚でも天下りした検察関係でも罰せられることがなかったからである。

ではこうした人間の様々なな悪はただ放置されているしまうだけなのか?明らかにもされずに隠蔽されたままで終わるのか。それが不可解だとなる。ただ聖書で死後裁きがあるということはそうした悪でも死んでから明るみに出されて裁かれる。

ただそんな死後のことを気にしている人もあまりいないだろう。そのことを恐れたら悪をなすことはできない。権力を持ったものは大きな悪にかかわりやすい。でもそれがまたその人自身によって意識されにくいのである。だから自分が悪人になっているとか思わない。社会でも善人として見ているからである。でもしも白日のもとにその悪が暴かれる時どうなるのか。その人は依然として何も悪いことはしていませんということになる。そもそもその悪を意識できない気づかないからである。でも死後に裁かれるとなって裁かれたら怖いことになる。でも死後のことをそんなに恐れる人はいない。人は今目の前の現実を生きることで精一杯だからある

●人間は人間を裁けない

いずれにしろ人間は人間を裁けない。司法があったとしても検察が裁けるいったら裁けない。現実に検察関係者が東電に天下りしていたことでもわかる。その人たちは東電の幹部も裁けないのである。つまり検察関係でも警察で裁かれる立場にあるのだが権力を持っているから裁かれないとなる。そこに人間社会の限界がある。人間は人間を裁けない。だからこそその悪は隠蔽されて表に出ない。ただそれがその悪はそのままではない。必ず誰かがその悪によって被害を受ける。

日本でも戦争になって300万人が死んだとか原発事故では故郷に住めなくなったとか必ず責任が取らされる。その上層部は利益を得たものは罰せられなくても必ず誰かが被害を受ける責任を取らされる。それが悪の怖さである。悪はそのままで隠されたままで終わらない。必ずその悪は誰かに影響してその人たちが被害を受け苦しめられるのである。
だから悪は隠されたままであることありえない。いずれそれは表に出てきて大きな被害をもたらすのである。それはナチスでもそうだったし日本の戦争でも判断するのは難しいにしてもやはり300万人がなぜ死ななければならなかったのかというとそれも理解できないのである。それは日本だけの責任でないとしてもそれだけの被害があったということがやはりそこに悪がが隠されていたともなるのである。

結局この世は善と悪との戦いでありそれはこの世が終わるまで継続される。ただ何が善なのか悪なのか明確ではない。かえって大悪人が大善人ともされるのはこの世である。それを象徴しているのはカルト教団であるその教祖ははこの世の王となり支配することもある。それはまさにサタンだととなる。つまりこの世の王ははサタンなのである。それは人間から欲がなくなくならないからその欲によってサタンの王となるのである。だからこそこの世は滅びるとか神によって滅ぼされるとかこの世に理想の国などできないないからである。いくら科学技術が発達しても依然としてカルト教団がなどは巨大化して支配しよう支配することにもなる。

それを作り出しているものは何なのか。一人のの人間が作り出したものではなくその一人の教祖でもその教祖を祭り上げる人たちがいるそれでご利益を得ることがありそうしているのである。いずれにしろ人間の悪は消えないなくなることはない。だからこそこの世は一旦滅びそして裁きがある。この世で悪は隠されるても死後裁きにあう。そうしなければ公平にならないからである。そんな世界を見逃して許されるわけがない。この世はそもそもどんなことしても不平等なのである。

●裁けるのは神のみ

主はいと高き方で、高い所に住み、シオンを公正と正義で満たされる。知恵と知識とが、救いの富である。主を恐れることが、その財宝である。

だからなぜ悲しむ者は幸いなりとか言うのだろうかとなる。つまりこの世で得する人たちたとえ巨悪でも隠されて楽をして良い目を見る。でおこの世では悲しむ人も多いのである。だからこの世では利益を得て得したものがあっても来世では裁かれてこの世で悲しんだものはその涙もぬぐわれて神に祝福される。この世とは逆転してこの世で苦しみ悲しんだものは来世では神の国では恵まれたものとして祝神されるともなる

でも現実は人間は今生きていることしか考えない。それで来世で裁かれなければならないのだとかなる。ただそんなことを恐れたり意識したりしないのである。それで奇妙なのは誰でも来世で裁かれる時こんなことになるなら現世で生きてきた時裁かれた方が良かったともなってしまう。それは現世しか考えないでで生きているからそうなるのである。この世とほんの一時的に生きるだけでありその生はあっという間に終わってしまう。でも来世とか神の国は永遠に続くのである。

そしてもし地獄があるとしたら永遠の地獄があるとしたらそれこそ最大の恐怖である。ただそういう恐怖のことを自覚したらすでにそのことでその人は救われるともなる。悪人は悪のことなど意識しない。だから悪を成したからと恐れることもない。来世のことなども考えない今は良ければいいだけである。だから何か悪を意識する人自分は悪人だと思う人こそ救われるというのはそのことである。普通は自分にしても悪人と思わないからである。
だからは自分は悪人だと思う人は本当は善人だとなる。どんな悪いことをしても悪いと思わない強盗して殺人までした人がたまたまを悪くて捕まったとこ全然反省していないのである。たまたま運が悪かったというだけにしか思ってないそれは人を殺してまでそうなのだからそもそも人間というのは悪を意識することことが難しいとなる。それで親鸞が人を千人殺してみろという言葉になったのであるそのくらいしないと人間は悪を意識できないのである。

そもそも主とか神を恐れるなどということはない。このように無神論者も多い。この世で恐れているのはこの世で権力を持っている人である。神は恐れている人はいない。この世で権力を持っている人は例えば会社であれば社長がいて首にされることが一番怖い。だから一番恐れているのは社長だとなる
その他でもマスコミがジャニーズ事件で攻められなかったのは総務省の要職の人が櫻井翔のパパだったためである。そのためにマスコミ全部が忖度したのである。ということはそれだけ総務省というのはマスコミに対してでもその上にあり権力で報道できなくもさせるのである。

何であれ神など恐れる人がそんなにいるのかとどこに神がいるんだとなってるのは普通である。実際は権力を持ってその権力を行使できる人は恐れるのである。でも本当は一番恐るべきものは神になる。神は見えない形がないでも確実に存在しているのである。人間の権力というのはあくまでも人間が作ったものであるその社会も人間が作ったものでありそれは完璧なものではない。だからこそ結局巨悪には無力だし様々な悪が隠蔽されてしまうのである
そのためにただ悪は常に隠蔽される。権力によっても隠蔽される。でもそれがそのままではありえない。その悪がその本人でなくても周りに次の代にも必ずカルマとなって影響してくる。だから悪そのものは隠蔽されるということはないのである。権力で隠蔽できると思ってもできないそれは必ず時間がたてば明るめに出されたりこの世で裁かれなくても来世で裁かれるのである
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posted by 天華 at 13:19| Comment(0) | TrackBack(0) | 時事問題の深層

2023年09月17日

ハードからソフトに移行した時日本は遅れた (ソフトは文化を作る、これからは文化の時代になる)

ハードからソフトに移行した時日本は遅れた

(ソフトは文化を作る、これからは文化の時代になる)

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人間はハードの機械ではないソフトなのである 機械にソフトの人間が入って来たのである。
being image creatorがこうして表現できることが不思議なのである

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医師とプログラマーと地域創成の女性とかが討論する。でもなにか議論でもかみあわない、それぞれ違った立場でありかみ合わない、そこに現代の複雑さがある、異分野の人と話しても互いに理解すること自体むずかしいのである。



現在はあらゆるものが飽和状態になっている。電器製品でも車でもあらゆる機械道具類でも飽和状態である。それで新製品になると何を変えるのかとなるとデザインとかを変える。それはパソコンでもハードの面ではこれ以上の技術的進歩は得られない。今やパソコンはハードではなくソフトの面がの方が大事になっている。だからソフトというときそれはハードではない。ものづくりともう違う。

それで一番感心したのがbingイメージクリエーターである。なぜ簡単な言葉を入れただけで絵画は作られるのか写真が作られるのかそれもかなり優れたものなのである。それがどうして作られるのか不思議になる。それはパソコンというハードが作っているものではない。パソコンのハードは今やどこの会社でも個人でさえ作れる。となると何が売れるのかとなるととソフトなのである。
それはパソコンというハードを作ることではない。日本がなぜコンピューター分野で遅れたのか。それはハードの面だけでなくソフトは作れなかったということである。

日本はものづくりで優れていたとされていた。それで高度成長時代を築いた。でもコンピューター時代になった時なぜ遅れてしまったのか。コンピューターというのは確かに最初はハードが大事だった。でもコンピューターで大事なのはソフトだったのである。そこが理解されされていなかった。だから日本で世界に通用するソフトが作れていない。 bing イメージクリエーターというのもソフトの一つである。そういうものは日本で開発されていないのである。そして機械とか道具とか製品とかハードの面だと画一した大量生産して日本では電器製品などを売り高度成長時代があった。でもその後IT化とかコンピューターのソフトは大事になった時日本は遅れてしまった。

そしてものでも道具類でも機械でも飽和状態になったとき人々は何を求めるのか。人々それはハードの面ではなくソフトの面に人間の関心が移行していることなのである。
このソフトというとき何なのか。それは文化的なものにもなる。文化というときカルチャーはcultivateでありその土地土地から生まれる独自のものである。
なぜ独自になるかというと地理と風土がみんな違っているからである。福島県だったらハマナカアイズと違った風土であり景色だからである。そこでそこから生まれてくるものもまた違ってくるのである。感覚的に海側に住む者と山側に住む者は違ったものになる。そこで作られる世界観も違ったものになる。それが多様な文化になるのである。

だからこれからはハードではなくソフトが大事になる。コンピューターはハードが大事なのではないいかにソフトを作るかが大事になる。その一つがbing イメージクリエイターなのである。コンピューターは芸術の分野まで関係してコンピューターを通じて創作するという時代になっている。それはハードを通じて創作するのではなくあくまでもソフトを通じて創作するのである
だからイノベーションというときハードを作ることではないソフトを作ることなのである。プログラムとは物を作ることではないソフトを作ることである。

そして文化というとき一番食が文化になるというときその食の元になる材料がその土地土地から取れて独特のものになっているからである。その土地と風土によってその材料も違ってくるし味わいも違ってくる。それが文化なのである。
ハンバーグのように世界中どこでも同じようなものを食べるのは無味乾燥であり味わいもなく文化もないのである。ただ腹を満たすというだけである。人間は今文化を味わいたい。だから観光が盛んになるのはものを買うというより文化を味わいたいということでそうなったのである

なぜならそもそも地理は違うと景色もまるで違ったものとなりそこで食べるものも違ってくる。その魅力は尽きないし画一化して作られたものに魅力を感じなくなる。
だから文化というとき車に乗って旅することではない。むしろ昔の街道歩いたりすれば人間の五感が働き新鮮な感動をもたらすということである。車でただスピードを出して通りすぎても何も感じないとなるからである。だから文化を味わうというときは人間の五感を働かせるようにすることである。

大量規格品製品を作るという時代は終った。でも手作りの作品などがかえってそこに温かみがあり価値が出てくるかもしれない。それは高くても買う人が出てくるかもしれない。つまりそれが文化の時代なのである。外国に来てただハンバーグを食べてるだけなら何の感動もないのである。必ず土地土地には違った風景がまずありそこで生まれた食もあり何かそこにはその土地に育まれて作られたものはありまた料理もあるからそれが魅力となるのである。

この辺では福島県でわハマナカアイズとありそれぞれ違った風土になそこで育まれたものもまた違っている。会津だと食べ物として栃の実から作った栃餅などがある。そそれは結構作るのに難しいのででもそれを食べた時山国の会津を感じるのである。
そして狭い範囲でも同じ景色ではないし歴史も違っている。だから相馬藩内でも原町は機関区にもなり明治以降物流の拠点として新しく発展した街でだから駅前通りが繁栄したのである。

でも相馬市は城があり城下町である。だから雰囲気が違っている。ただそれが外から来た人には城もないので分かりにくいのでそれで最近分かったことは原町は白い夏菊があっている。鹿島区草深く咲いている藪甘草が合っている。相馬市は城跡に藤棚があるように藤が似合っているともなる。それが文化なのである。文化はそこに長く住んで発見されるものである。だからちょっと旅に寄ったからといってその土地のことは理解できないのである。文化を知る文化を作るということはやはり相当に時間がかかる。それはやはりその土地土地に違った風土があり地理がありそれを理解するにわ時間が必要だからそうなっているので

文化というものは何か物のように必ずしも金で買えないものなのかもしれない。その土地の風景などは確かに誰でも見れるがそれを深く感じるということは難しい。その土地と風土と一体化したものを感じることは時間が必要であり難しい。でも芭蕉の奥の細道とかなると別に長く住んでいるわけでもないのにみちのくというのを外から見て発見されたのである。なぜならみちのくというとき必ず奥の細道をイメージするからである。だから一人の詩人の力も大きかったとなる。

5月雨の降り残してや光堂 芭蕉

これは空間的なものと時間的なものは表面されている。みちのくという空間的なものと風雨にもめげずに残された光堂という時間軸での表現がありまさにこれが文化なのである。文化というときやはり空間軸地理的なものと時間で育まれるものがあ。時間は歴史で形成されたものは文化なのである

その味わいは深くその価値は返って400年過ぎても価値を増しているのである。文化というときなぜか大都会からは生まれない。東京とか1000万もの都会になるとそこは物流の世界であり物量の世界でありそこで歴史とか風土が感じられない。東京なら確かに江戸時代がありその風景は美しいものだった。でも今東京に行って美となるものを感じないのである。ただ巨大なビルを見上げて人間の小ささを知らしめられるだけである。
だからヨーロッパでも文化が生まれたのはフィレンツェなど5万くらいの都市国家だったのでそんな小さな年からでも文化は生まれる。むしろ小さいからそこで一つの独得のの世界を認識し文化が生まれたとなる。とても東京とかニューヨークとかからは文化は生まれない。巨大な物流の世界であり群衆の世界でありただ経済の場であり文化の場にはならないのである。

文化は地方から発信される。それがインターネットができて誰でも気軽に発信できるようになった。その土地のことを誰でもその場に住んで紹介できるのである。だから私のプログを読んだらどういう場所なのかある程度はわかる。これまではなかなか地方というのは紹介しにくかった。テレビとか紹介テレビとかで紹介しても地元の人がそこに住んで紹介するということができなかった。今ならユーチューブでも簡単に紹介できる。ただそのコンテンツを作る動画を作るスキルが問題になる。動画になると相当に手間なのである。するとそんなにいろいろなことを一人でやるのは無理だとなる。プログで一記事毎日出すのは結構な手間なのである。それに加えて動画を出そうとしたら面倒になったのである。今は家事も全部しているからその暇がなくなったのである。

2023年09月16日

小さきものの声(虫の声)


小さきものの声(虫の声)

深夜に数匹の虫が
懸命に鳴いている
更けゆく夜の静けさに
その声が響き合う
ここに共に生きるのだ
苦しくもここに生きるのだ
小さなるものの声が
ここに響きあう
その命は短くも
その鳴く声が響きあう
ここに生きるのだ
更けゆく田舎の夜の静けさに
その声に耳を傾ける
小さなるものの声が
ここでは大きく響いている

暦では秋になっているがまだ暑い。雲の峰がまだ高く必ず見える。でも確かにその声を聞けば秋なのである。ふけゆく夜の静けさに虫の声が響いている。田舎の夜にその声だけは大きく響いている。
何かこの辺では原発事故で避難区域などはふるさとにも住めなくなった。帰って住んでいる人はどれくらいいるのだろうか。 1割か2割とか小高では3割くらいしか戻っていないだろう。それもみんな老人なのだからいずれは町や村を維持できるのだろうかとなる。

虫の声というときそれが飯館村だとこのように昼間でも響いていた。そこはまさに街でもないし山の村だからそうなっていた
人間はやはり住む場を持つことが大事である。その場が生き死にの場となる。だからこころとはここにあり場を離れて人もありえないとなる。その場アイデンティティとなり人間を作るのである。ただ現代は移動する時代であり何かみんな遊牧民のようになっている。一つの場所に定着するということは拒否されている。

だからこそそこに生きている場というものに愛着がなく補償金をもらったらバラバラになったのかもしれない。つまり金というのはどこに行っても通じる時代であり外国でも金になれば住むという時代にもなっている。だから一つの場所に固執するのは嫌だとなる。でもやはり人間は一つの場に定着してアイデンティティ化する。
それはその土地に根付いて成長する木とかと似ているのである。人間には確かに移動するという習性もあるが定着するという習性もある。移動するのは動物であり鳥であり定着するのは植物的だともなる。でも最終的には人間はどこかの一定の場所に定着してそこでアイデンティティ化して死ぬ定めだとなる。

2023年09月15日

地獄の沙汰も金次第−墓の効用はなになのか? (金もなければ相手にされない老人)


地獄の沙汰も金次第−墓の効用はなになのか?

(金もなければ相手にされない老人)

100歳以上の高齢者 全国で9万2139人 53年連続で過去最多を更新 きょう「老人の日」


何か埼玉の方に兄さんとかいて具合が悪いから呼ばれて行った。ところがその人は女性は金がないからそのために金を要求する。一回だけだから良かったが今度もまた何か特別なことがあり呼ばれていった。でもその人は金がない。もう今回限りで終わりだと言っている。となると金がなかったら兄さんでも会うこともできない。ただ埼玉とかの方ではそれなりに遠いから簡単にはいけないのである。

何か特別の用事があるというとき金でもくれるのかと思ったらその人も福祉に世話になっているから何もないとなる。臨終の時に必ず呼ばれる。だからまた行くのは金もないのにどうなのかと思った。ただこれが最後となると金を惜しんでもいられない。だからこそこの世の中地獄の沙汰も金次第だとなる。つまり兄弟でも姉妹でも親子でも最後の別れを惜しむとなるとき離れていると交通費がかかり金がないとそれもできないとなるからだ

その人は親しい近くの人がと来てくれと言っても行かない。その人自身が日々の生活に事欠いてその人は援助してくれないからである。その人が失敗したのは一人娘に金を全部預けてしまったことである。自由にする金がないのだからその困った女性に援助はできないのである。ただ人間というのは本当に最後まで金のことがつきまとっている。それは誰でもそうでありその金の縛りから逃れることができないのである。でもやはり金に困っている女性を助けられないということは大きな問題になる。携帯電話で話ししているが直接にあって話すことはないようである。ただ一人で行ったり病院を出たり入ったりしているから話し相手が必要なのである。その女性は話がうまいからである。

とにかく人間は金から解放されるのは死んでからしかない。それはいくら金を持っていても金でもめたり遺産相続で争ったり家族でもいろいろと金から問題が起きてくる。だから人間は本当に死ない限り金から解放されないのでる。そこに人間の不幸がある。おそらく天国とか神の国では金など関係なく生活できるに違いない。だからこそ地獄の沙汰も金次第にな。金を与えれば確かにその人が好きでなくても老人でも何かしてくれる。話し相手にもなってくれる。現実に話し相手になるだけで金を払っているということもあるからだ。

だから老人は金をもっていればその金を目当てに相手にするということはある。老人がなぜ権力を手放さないかというと権力をもっていればそれによって人も寄ってくるし相手にもしてくれる。その老人が嫌でも金のためにそうなるのであ。女性でもその金のために寄ってくる人がいる。それは問題にしてもやはり人間は金から切り離されられないのである。

ただ別に金がなくても老人のこれまで生きたことを語れば興味を持つことはある。老人の価値はやはりこれまでの人生で経験したことを語ることである。ただ正直その人が本当に語るべきものを持っているかどうかが問題になる。例えばカルト教団など入って一生終わった人の話など何も興味あることはない。ただロボットとして何の個性も出さずにその人なりの生きたものは何もないのである。
そしてその教団や組織もいつかは消えてしまうのである。それは会社に入った会社で働いた人でもそれとは違っていてもやはり会社から退職するとその人の価値は相当に減少してしまうのである。でもそこで何か語るべきものがあればそれは価値あるものとなる。

要するに老人の価値というのはもちろんお金があれば金に寄ってくる。だから金があったほうがいいことは確かである。でも何か老人がその人生を語りその語ることに価値があればその老人の価値があるともなる。それは金なしでもその経験したことが価値あるのであり巨額の金を集めても残してもそれがすべての価値になるとは思えないのである。
やはりその人がどういう人生を送ったのかまた語るべきものがあるのかそれが問題になる。ただ芸術家などだったら何らか作品を残しそれでその人の価値も生まれる。でも別にそれが金になるとは限らない。芭蕉は奥の細道を書いたからといってそれで金になったかとなればない。でもその価値は400年でも過ぎても依然としてその価値は衰えないし価値が増しているのである。だから人生は短し芸術は長しなっていたのである。でもそれもごく一部の人せりあとは消えているのである。

いずれにしろ人間は最後に何を残すのか。骨を残すのか灰を残すのかそれも土となって消えた。 5人くらいは土に埋められて一つは骨も残らず灰になっていた。土になっていたので誰のものかもわからなくなっていた。だから人間というのは骨とか灰を残してもそれが誰のものなのかもわからなくなる。その人の人生がどういうものであったのかそれが最後に問われるのである。私の兄はこうしてただ灰になり土になり誰の物だかも分からなくなっていた。それで私は私の墓に隣に小さな墓を作作って供養している。そこには骨も何も埋まっていないのである。

だから骨とか灰は海にまけとか木の下にまけとかとかでも構わないとなる。ただ墓が必要なの何かドラマで常にその墓の前で死者と語り懺悔する人がいる。そして墓に向かってはお詫びしたりする。だからそこには墓の効用があるとなる。もし海にまいたりにしたりすると誰の墓だか誰の者だかわからなくなるからその人に向かって死んだ人に向かって懺悔したり語りかけることができなくなるからである。だから墓がいらないということではない。
墓もそれなりの人間として効用があるものだったのである。ただ墓もも儚くついには誰もお参りするもなく墓の墓場となってしまったのも無常だということである。人間は無常から逃れることができないのである。

また彼岸が来る。お盆から彼岸は近い。お盆とか彼岸はやはり死者を思い出し供養するということに意義がある。ただいまや墓も維持する跡継ぎもなくなり維持できなくなっている。だから墓じまいとかになり。それでは墓にに金をかけるべきではなかった後悔している。なぜなら跡継ぎがいないのだからは卒塔婆のように簡単なものでもよかったのである。立派なものにしてもその後継ぐ人がいないのだから無駄だとなっていたのである。