2018年12月14日

冬の暮(故郷俳句十句) (景観は歴史的に長い時間で作られたものだから貴重だか意識されなかった)


冬の暮(故郷俳句十句)

(景観は歴史的に長い時間で作られたものだから貴重だか意識されなかった)


隣り合い住みて長しも冬紅葉

点々と農家の古りぬ冬き暮

質実な暮らしつづきぬ冬の暮

松ありぬ一軒一軒や冬の暮

なお立ちぬ家の跡に松冬の暮

老木のここに朽ちなむ冬の菊

陽の没るや冬田に農家五本松

一本の木のここに動かず冬の暮

天明の碑近くにあれや冬の暮

なお空家大原にあり冬の暮

大原に凍み大根や農家古る

干し柿に紙漉きの里水清し

小山田に忘らる道標冬の暮

街道の祠に松や冬の暮

代々や相馬六万石冬の暮 

景観を見る時それが当たり前の風景に見ている、田んぼに点々と農家があることなど田舎では当たり前の風景だから気にも留めない
でもその景観というのは人間のくらしとともに作られてきたものだった
そもそも田んぼの景観は米を作る暮らしがあり作られてきた
農家があるということはそこに暮らしていける実り生業があったからである

そして人間とは長くそこに住んでいないとその土地のことがわからない
長く住むというとき田舎だったら農家だったら何代もつづいて生活している
そこに農家の重みが生まれている、それで農家の人が三代つづかないと仲間に入れないというのもそれは人間の関係でも長い時間の中で作られるからである
つまり歴史的に重みが生まれのは長い時間そこにありつづけたからである

そういう景観が失われたことは大損失だったが第一そういう風景は当たり前のものとして見ていたから貴重だとも思わなかったのである
むしろ農家などはもう農業だけで暮らしている人はまれになった
だから親が農業をやりたくないのだから子供でもやらないとなったのである

ただ景観というのは当たり前にあったものではない、それは長い時間の中で作られてきたのである、そこに人間の営みが暮らしがあり生業があった
景観は簡単に作れないものだった、でも人は景観を大事にしない
景観は努力しないでもそこにあるものとみているからである

結局価値というのが何かというとき人間は全体の価値を見ない、木を見て森を見ないのである
それが津波とかで右田の松原が根こそぎなくなるとか原発避難区域で町ごと人が消えて
空家と化して田んぼが草ぼうぼうとなりその跡にソーラーパネルとかになりまるで変り景観が失われた
それはイメージできないものだった、景観はやはり田舎だったら田んぼがあり畑があり森がありとか変わらないものだと思っていたからである
ただ右田の松原などは人工的な松原であったから根こそぎ消失した

原発訴訟で生業を返せというときこうした代々つづいたものが消失したことの損失であるそれは取り返せないものとなった時その貴重さに気づいた
やはり人間の営みは代々つづいていると歴史があると重みが生まれる
それは一代では築かれないものである
そして何か農家を見ると質実だなと感じる、そういう風景がまた人間の心に知らず影響しているのである

都会ではビルの谷間に生活していればそれも心に影響してくる
都会の人がみんな疲れた顔になるのは当然なのである
田舎だと大地に根を張った木のように強化される、ただそうはいっても今は田舎でも実際は勤めているのは会社であり専業農家はまれである
農業だけで生活している人はまれなのである
田んぼの中に家があるから農業で暮らしているとはならない
ただ風景がそういうふうに見えるだけなのである

でももし戦前とか江戸時代にその風景を見たら感動するだろう
石神とかでは紙漉きをしていた、そういう暮らしがあったことが心にしみるものとなる
紙漉きは冬にするから厳しいのである、でもそういう暮らしがあることがその景観が心にしみるものとなる
今でも大根を干していたり干し柿を見ると冬の暮らしを感じる
都会ではもうそういう風景はないしどこも都会的になっている
田舎でも一見農家のように見えてもそうでもない、ただ蔵があると古い家であり農家だったのかとか見る、でもその蔵は農家として仕事するためのものでもないし飾りのように今はあるだけなのである

ともかく家とかその土地に重みが生まれのはやはり何代とかつづいて暮らしているとそうなる
それで自分の家は二代だから重みが生まれない、それでも自分は二代目だということで一応重みが生まれる、それじ死んだ親のことを書いたのである
明日は母の命日である、母は大正生まれであり干し柿が好きだったということはそれくらいしか食べるものがなかったから好物になったのである
今は干し柿など子供でも食べないだろう、いろいろ果物がありすぎるからである

でも江戸時代に憧れる惹かれるのは素朴で質実なものがあったからだとなる
ただそれはイメージの世界になっているからであり現実はまるで違った貧乏の苦しみを生きていたとなるのである
田舎の冬はとにかくいい、都会は季節感がないのである、だから俳句なども季語も活きてこないのである

故郷の大地に根付き
静かに長くもあれな
樹々は隣り合い黙して
そこに落ち着き根を張る
そこに自ずと連帯が生まれる
ともにここにある
ともに長くここにある故の
深い絆が自ずと生まれる

こういうことになる、そういう田舎の生活を奪ったのが原発だったのである
ただ地元の人でも金を第一にしていた、強欲になっていた
家でも車でもなんでも欲しい欲しいとなっていた
借金しても豪華な家を建てて車でもいい車を買い、とにかく現代では欲が限りなく増大するのである、もう切がなくなる
そして故郷にすら住めなくなったのである
そもそもその土地に故郷でも住むということが最低条件である
住めないということは最悪なのである

ただ人間は当たり前にあることを意識しないのである
それを失ってみてはじめて意識するのである
それで生業を返せと東電とか政府に訴訟を起こしているがそもそもその生業を大事にしていたかというとそうではない、ただ金が欲しいということで原発を誘致して
その後も補償金をもっとよこせと金しかなくなった
そして補償金を一億円でももらったら故郷を出て外に家を建てて帰ってこなくなったのである、それも勝手だなとも思う
それだから確かにその損失を理解できるのだがそこに暮らしている人はそういう田舎の暮らしを別に大事にしていなかったのである
むしろ都会的な贅沢な暮らしを求めていたのである
それはどこでも同じだとなるが何かこの辺ではそういうことが実際にあり意識させられたのである


2018年12月13日

明治維新で日本だけが工業化できた謎 (識字率の高さとか教育の結果なのか?)


明治維新で日本だけが工業化できた謎

(識字率の高さとか教育の結果なのか?)

明治当初の就学率は男子43%、女子10%と推計するデータもある。さらに、開国以降、日本の輸出を担ったのは生糸であるが、その生産は慶長元和(1596年〜1623年)から正徳享保(1711年〜1740年)のころまでの約100年の間に生産量が4倍増となるなど、問屋制家内工業を主体として定着しており、明治以降、基幹産業として発展する素地ができていた
改正小学校令(1907年)で6年と定められ、そのころまでに小学校への就学率はほぼ100%近くにまで高まった


1902年明治35年116歳
1912年明治45年
1912    大正元年106歳

まず工業化という前に識字率が上がらないことにはどうにもならない、工業化の前提として読み書きができなければできない
その読み書きが江戸時代にすでに寺子屋などがありできる人が多かったという
でも現実は読み書きは侍階級ではできていたが庶民は別である
農民で読み書きできる人は少なかったのではないか?
識字率が高い、読み書きできる、文字があることが文明を作る、だから楔形文字とかエジプトのヒエログリフなどで文字が神聖化されたし中国では漢字が発明されたときも神聖なものにされた、日本が奈良時代に中国から漢字を取り入れたとき唐の文明文化を取り入れて国家を形成した、だから読み書きができることが文明化できる基本になる

明治維新でもそうだった、外国語を訳すとき大和言葉だけでは訳せないのである
新しく入って来た概念を現す言葉を作れないのである
それで漢字で造語したのである、それが中国にも逆輸出されたとなる
つまり漢字にはそれだけ造語能力があるということなのだ
大和言葉にはないのである、新しい概念はカタカナにするほかないからである
それも明治維新に成功した理由だとなる

言葉がなぜ基本になるのかというと技術的なことでも言葉を通じて取り入れることが最初にあるからである、物だけではな言葉を通じて新しいものが入ってくるからである
それで翻訳するのでも日本人は苦労した、杉田玄白らの(解体新書)などがそうである
それはあらゆるものでそうだった、つまり明治維新という時、侍の吉田松陰とか西郷隆盛とかの英雄が話題になるがその底辺でも何か明治維新を成功させるものが働いた
上を改革しても庶民レベルでも何かそれだけの改革をさせるものがなければできないと思うからだ、そういう下地がないとできないからだ

だから何かがその下地としてあったからできたとなる、ただ工業化というとき籠で人を運んでいるようなのを見ていると急速に鉄道になったということの変化は大きかった
最初鉄道が使われたのは人を運ぶというより物資を運ぶことだった、常磐炭田ができて石炭を東京に運ぶために常磐線ができたともなる、それはどこでもそうだった
その後に人を運ぶことが主となったのである
イギリスで産業革命が成功したのはエネルギー源として石炭が豊富にあったからだとされる、そこに技術改革があり成功した、何か下地となるものがあって成功する
何もない所から何も生まれないともなるからだ

だから確かに日本の教育が読み書きができる人が多かったからそれが下地となり明治維新が工業化をいち早くできたというのは大きな原因だということが言える
でも最近わかったことは私の父親が葛尾村から酒屋に丁稚奉公に出て双葉の前の長塚村の新山で働いていたということを書いた
私の父親は良く筆で字を書いていたのである、明治生まれでありどこで字を覚えたのか?どうも学校ではない、それがなぞのだが字を覚える場所はまた寺子屋だけではない、葛尾村に寺子屋があったとは思えないのである

それで最近読んだ本の中に丁稚奉公で字を学んだことが書いてあったので納得した

「相模屋の丁稚たちは店の営業を終えた後、番頭の忠兵衛が師匠役でいわゆる読み書き算盤を教わっているというのです、しかし下女の自分は教えてもらえない、丁稚たちが字を教えてもらっているのをみるとうらやましくてしかたがないとそれを聞いてほろりとしましたね」〈不便でステキな江戸の町ー永井義男)

下女は字を教えてもらえなっかた、丁稚は仕事上字を読み書きできないと仕事にならないから覚えさせられた、私の家には父の通い帳が残っていた
とにかくよく筆で字を書いていたのである、そして死ぬときも最後に記念として将棋盤に私の名前を書いてくれたのである
人間にとってやはり基本は読み書き算盤なのである、それが高等になって算盤が数学とかになってゆく、算盤ができて工業化しえたともなるのだ

この本では当時子守りが普通にいてみんな年長の女性は子守りしていた
それで子守りのために学校に行けないという人を知っている
それで何かそ女性は小説を読んで字を覚えたとか言っていた
その女性はまともに学校には行っていないのである
それから明治生まれの人で字を読み書きできない人がいた、その人は人に頼むのだがそれで引け目を感じていた
私の母は生まれだったけど字は書けていたのである
尋常小学校出であったが読み書きソロバンはできていたのである

とにかく日本人は教育熱心だったということは確かだろう、それが工業化に成功した要因だったということもわかる
ただ明治になっても大正になってもみんなが読み書きできていたわけではなかったのである

いづれにしろ明治維新というとき英雄が出たからといってそれだけではとても成しえない社会全般の根本的な改革だからそうなった、それができたことの大きな要因に日本人が読み書きソロバンができたことにあったともなる
そして漢字の役割も大きかった、それは奈良時代と同じである
ただ英語にしても江戸時代にすでにオランダ語ができる人がいたし医学の面でも西洋医学に触れていたから明治維新後も取り入れやすかったということはある、下地があったからである、おそらく江戸時代は何か遅れた社会のように見えてもそうでもなかった
ただどうしても駕籠のようなもので人を運んでいたとかそんなに技術が遅れている国で近代化工業化できたことが不思議に見えるのである
時代劇はリアリティがないということは確かである
子守りの女性が映らないのはありえない、そこらじゅう子守りしていた
それはその役をする女性がやはり子供だからできないとしている
小学生の女の子に赤ん坊をおんぶさせることができないからだという。
時代劇は本当の江戸時代のリアリティを映していないのである

江戸時代を知ることはやはりこれも積み重ねなのである、でもそうした経験がないものは本を読んでもピンとこないのである
私の世代は団塊の世代は子供の時

江戸時代を経験している        

水道もない、井戸水を街内ではもらって生活していたとか、電気は裸電球一つだったとか電気製品は他に一つもないとか燃料は炭だったとか本当に江戸時代だったのである
だからその時の経験は貴重だったなと今では思う
どうしてもあまりにも今は便利すぎてそういう生活がイメージできなくなったからである炭だと暖房しても相当に寒い、エアコンとか電気炬燵とも違うからである
人間は人の話を聞いても戦争のことなど経験した人しかわからない
いくら話を聞いてもその悲惨さを理解できないのである
それはリアルな体験がないからそうなる、江戸時代をイメージするとき一応親とかから昔のことを聞いているからまだ団塊の世代くらいは理解できるのである

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2018年12月12日

小山田にある道標と道引地蔵 高速道路と忘れられた道標(詩)


小山田にある道標と道引地蔵

高速道路と忘れられた道標(詩

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上真野へー小山田ー岡和田

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馬坂神道ができて古道がある、馬坂新道は高速道路と似ていたのである


道の辻にひっそりと
枯草に隠され道標があった
その字をなんとか読む
東 岡和田
西 上真野
これはすぐ近くだ
昔は近くを示す道標がある
それは今はどこでも忘れられている
それはなぜなのか?
車がひっきりなしに行く道に忘れられている
そういう道の辺には必ず馬頭観世音の碑がある
昔は馬で荷を運んでいたからである
昔は歩いていたからである
それでこんな身近な所にも道標がある
もう今はこの道標を見る人はいない
なぜならその前を高速道路も走っている
新道が古道になる
時代は急速に変わった
遠くから車がひっきりなしに来る
近くは忘れられている
その視線は遠く遠くへと高速のように伸びている
その上に道引地蔵が祭られている
何か不明の石をおく祠がある
そこにまだ生きていた赤とんぼが一羽飛んでくる
今冬の日がここにさしてしばし休む
近くに隠町(かくれまち)という地名がある
何か私はここで休みたくなった、眠りたくなった
山眠る時期だが高速でも車はひっきりなしに行き交う
休むことなく行き交う
世の中は常に変化である
そしてここに地蔵と道標が忘れられている
枯草におおわれ忘れられている  


最近よく常磐線のSAに行く、それほど遠い場所でないから行ける、遠いとなかなか行けない、そこはいつでも自転車で行ける場所である
でも昼食をとるには行けない
そこまで行くのに遠いと疲れるからである、だから近くでないと昼食は行きにくい
昼食も手ごろな値段のがこの辺にはない、1000円だと高いとかなる
だからたまにしか行かない

なぜか最近SAに行くようになったら小山田を通る、すると小山田を意識するようになるのも不思議である
やはり頻繁に行く所を人は意識するようになる
だから新しい人が集まる場所ができることは過去もそこの歴史なども意識することになるのだ
人間とはそういうものだと気づいた、昔の遺跡でもそれは今の生活からかけ離れた所にあると意識しないのである
日々に行く所を意識するのである

だから桜井古墳は街中にあり意識する、そこは公園にもなっていて日常的に意志する
小山田で今回なぜここに道標があるのか、草に埋もれてあったのか?
すぐに上真野であり岡和田であるからこんなところに道標が今なら必要はない
ただ道標はどこにでもある、例えは横手にも栃窪へと印した小さな道標がある
それはあまりにも小さいので気づかない、線路がある道で横手古墳があるところである
それに注意する人は今はなくなる

道標はたいがい明治以降である、江戸時代のがあればこの辺では貴重である
なぜこういう場所に道標があるのか?
それは昔は馬で行くか徒歩で行くしか移動の手段がない
ただ岡和田から上真野に行くとしたらみんな地元だったら知っている
道を知っているからあえて道標が必要だったのかとなる
遠くから知らない人が来るなら道標を見るがここに住んでいる人なら道標がなくてもわかる、ただそう見るのは今の時代から見ているからである
やはり必要だったからここに置かれたとなる
ただどこでも道標は多いのである、やはり目印として欠かせないものだったのである

ともかくあそこは常磐高速が通りその下に隠町とあるのも奇妙である
頻繁に車の通る下にあるからだ、そこに生きていた人がこれを見たら驚くだろう
道標とかは確かに遠くを示すのならわかる、旅では必ず分かれ道があり必要だからである右と左に道が分かれていたら間違えたらとんでもないことになる
歩いてゆくのだから簡単に引き返せなくなるからだ
ただ今は歩く旅がどういうものなのかわからなくなっている
分去(わかれさり)という地名が多い、それはそこで分かれてもう会うことがないということにもなった、今なら会う気があれば距離に関係なく会えるからである

分去(わかれさり)永遠に別れし人もがなここに木の葉の舞い散りにけり

車社会になるとどうしても人間的なものが失われる、そこに人と人の出会いがない
車は閉ざされた空間なのである、だから誰がいるのかもわからないのだ
旅したとしても車の人が泊まっていて誰がいるのかわからない、話もしないからだ
そこは閉ざされた空間なのである、道連れの旅などもないのである

街道を旅している人を見たら歩いているから出会いと別れがある
後姿をいつまでも見ている、やがてその姿が消えてゆく、そこに時間があり人間的なものが生まれる、車だったら一瞬にして消える、だからキレル時代なのである
バイクでもそうである、早すぎるのである

いづれちしろあそこで坂があり高台に上ったら道引地蔵というのがあった
あとなにかわからないが石が小さな祠に飾ってあった、何かそれはわからない
そこで休んでいたらまだ赤とんぼが一羽とんでいた
赤とんぼが地蔵にとまるとかなると何か江戸時代の雰囲気になる
地蔵だって昔はなんらかそこに生活する人に欠かせないものであり活きていたのである
人々がお祈りしていたからである

ともかくなにかあそこでは不思議な気分になった
近くでも発見されないものがいくらでもある、昔は忘れられているからである
人間そのものが死ぬと急速に忘れられる
それで昔も忘れられてしまうのである、そこだってひっきりなしに車が通る、その道標など誰も見る人もいないのである
高速道路を行く人となるとそれこそこの土地のことは関係なくなる
ただ道路を走る機械が行くというだけになる
SAに休んだとしてもそれはその町のことを何か知るということもないのである

2018年12月11日

常磐高速の鹿島のSAのイルミネーションがいい


常磐高速の鹿島のSAのイルミネーションがいい 

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鹿島の駅は去年と同じイルミネーションである
なかなか年毎に変えるのは予算とかまたは手間でできないのだろう
鹿島のSAは道路公団とかかかわってしたのかきれいにできている
通り抜けができる所がいい、他でも今の時期はいろいろ見れる

馬をあしらったのは相馬らしいとなる
常磐高速ではとにかく人が集まるから何かしらイベントするのに向いている
何かを売るというときもやはり人が集まらないと売れないのである

原町区の深野の人が東京の方に牛売りに行く (30キロで区切られて補償金が少なかったことの不満を言う)


原町区の深野の人が東京の方に牛売りに行く

(30キロで区切られて補償金が少なかったことの不満を言う)

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駅で今日朝に会った人は深野の人だった、東京の方に牛売りに行くという
東京の方で大きな牛を売る市が開かれる、そこでセリで売るから値段は決まっていないという、肉質で値段が決まるという
その人は小規模に牛を飼っている人である
深野に大きな牛舎があったから大規模にしている所もあった
それを震災以後放射能被害でやめていた
その人はつづけていたのである

それで不満だったのは30キロで区切られて原町区と同じようにもらえなかったという
その不満をしきりに言っていた
ええ、そうなのか?深野は原町区であり同じようにもらっていたというより
例えば石神とか放射線量が高かったから街内よりもらった人がいた
その人は新しく家を建てた、おそらく資金ができて建てたとなる
ただローンも組んでいるからそれほど余裕あるという人ではなかった

それにしてもなぜ深野ですら同じように補償金を払わなかったのか?
それは本当に不公平である、それは他でも30キロで区切られるとその内と外ではその差が大きすぎたのである
それでもめるようになった、それは政府で放射線量の度合いで補償金の額を決めたわけではないからである
ただ30キロで区切りその圏外は補償金を払わないとしたのである
そのことで市町村が分断されたのである

それに対して市町村で対策できなかった、それで補償金が金が恨みとなって市町村が分断された
30キロ圏で区切られた結果、それは鹿島区の塩ア辺りで女の人が子供も争っていじめになっているとか補償金がもらえないので苦しいとないて訴えていたのである
ここだけではない、前の都路村とかでもそうして区切られてもめていた
放射線量は全く変わらないのに差別されたからである

牛を売るという時飯館村でも被害が大きくやめた人が多い、でもその人が言うには補償金を多くもらった人は大きないい機械を買ったという、それでうらやましがっていた
それだけもらった人はもらったのである
飯館村では補償金の額が多いからと外に出て立派な家建てて帰ってこないとか言う
それで飯館村では残る人と残らない人に分断された
出ていく人は補償金をもらって外で暮らしたいとなったのである

これで何がおかしくしたのか?

政府で30キロ内で補償金を払う払わないを決めた

それにたいして自治体では何の対策もしなかった

そして分断された

南相馬市だと合併したのだから平等にするべきだった、少なくとも何らかの対策が必要だった、例えば鹿島区は半年で医療費とかの無料とかは打ち切られた
それで不満をもっている人がいる、原町区は今でも無料とかともいう
長く補償されていたし高速もずっと今まで無料である
やっと鹿島区は市長が変わり高速が無料になったのである
それで前の桜井市長に不満を言う人が多いのである、ただ原町区の人にとってはそういうことはない、鹿島区の三倍もらっしいるし他にも補償がつづいていたからである

とにかくこの補償金ではもめた、理不尽だったのである
そのことが今でも尾をひいている、それで協力しづらくなり復興が進まないということもある
いくら政府で決めてもそれを自治体の都合とかありそのまま受け入れることは問題だったそれは原発そのものが政府主導であり逆らえない構造になっていたと秘密にされていたとか前の左藤知事が言っていた、それでプルサーマルのことで抗議してそれがきっかけで政府ににらまれて別な件で逮捕されたという説もある
政府は権力をもっているから一方的に決めてしまう

それに自治体が対抗できないのである、そのことで復興が進まない原因にもなる
原発事故では政府の対応とかが厳しく問われたがその責任は誰もとっていない
また自治体の対応も問われたがこれも何の対策もなくただ分断されて協力できないようにしたのである
そこには議員でも何の働きもなかった、現実に鹿島区の議員が仮設の小高の人を応援して票を入れてくれと頼みにきたのである
南相馬市になったのだからそれも仕方ないがそれにしてもその議員にしろ鹿島区の不満を考えないのである
ともかく政府と自治体の関係が問われたことは確かである
ただ国の方が政府が権力をもっているから自治体でも逆らえないということが原発事故の原因にもなっていたのである、原発は国が推進するものであり強力な国の権力で推し進められたものだからそうなった、事故以後そうだったのである

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2018年12月10日

アメリカの国の成り立ちをホイットマンから読む(短歌十首) (日本は時間軸に生き外国は空間に生きる)


アメリカの国の成り立ちをホイットマンから読む(短歌十首)

(日本は時間軸に生き外国は空間に生きる)


アメリカの空広々と大なり冬の夕焼け赤々と染む
アメリカの建国いかにリンカーンの丸太小屋や冬の日暮れぬ
大いなる太古の巌層をなし大森林や凍てつきにけり
アメリカの国土広しも長々と冬夕焼けの赤々と染む
アメリカの国土の広しも冬夕焼け赤々と消えず心に残りぬ
アメリカの大陸走る凍てつくや貨物列車の長々と行く
西部なり原始の磐のそそりたち冬の月いで明るさ増しぬ
アメリカの大地に根付きインディアン住みしもあわれ昔を語る
アメリカを希望の地として渡り来ぬ夢のふくらむ大陸なるかな
アメリカの冬の夜ふけぬアムトラック誰か一人おりプリンス駅かな



とても書ききれない
詩にも言葉にもできない
新大陸の万物が人々の営みが
一人の詩人、ホイトッマンにおしよせる
その万物に人々に意味を与えようとした
多くの死者にも、名もなき人々にも
アメリカに国王はいない、貴族はいない
アメリカは血筋ではない、自力で這いあがる国
一人一人その土地を拓いて主となった
その自ら開いた土地を守るのは銃であった
その荒野に警官はいない
荒々しい原始の巌が屹立する
彼らは何を頼りとしてたのか
聖書一巻たずさえ信仰なのか
彼らに古いヨ−ロッパの教会は大聖堂はない
その歴史もない、粗末な教会を建てる
リンカーンは粗末な丸太小屋からはじまる
黒人は奴隷として連れて来られる
白人の下で働かされる
しかしその黒人も建国とともに古い
アメリカに様々な国の人が人種が押し寄せる
アメリカ合衆国はいかにして成りしか
それは壮大な実験場なり
今も移民が押し寄せる
アメリカの産みの苦しみは今も続いている
アメリカの土地はその広い土地
その資源、石油、そして機械工場産業
巨大技術が大陸に適応する
莫大な富を産み出すも
アメリカの歴史はまだ古層とならぬ
原始の山塊が岩山が砂漠に横たわる
なお国は新しく産みの苦しみにある
人種や言葉が混交して分断の危機にある
アメリカの国土はまだアイデンティティ化されていない
広大な原始の大地がまだ広がっている


まず国を理解するとなると容易ではない、地理の理解に始まるがそれ自体が中国でもアメリカでもあまりにも広大すぎるのである
日本の感覚では理解できない広さである、空まで広いと感じる
それで日本は時間軸に生き他の国は空間に生きるというときなるほどと思った
日本は狭いからその狭い中で工夫して生きる、時間軸というとき狭い中で何か時間的に集積してゆく狭い土地で生きる術を身につけてゆく、それは土地が制限されているからである

だから日本には空間を生きるより時間を活きるとなるのかもしれない。狭い中で歴史の積み重ねがあり工夫して生きるとなる
茶の湯などの文化も狭い国に生きることから生まれた芸術である
俳句とか短歌でもそうである、俳句などこれほど短い詩は世界で存在しないからである、それは日本の風土にあったものだから生まれたのである
それでグランドキャニオンを前にして俳句とか短歌など作れるのかとなる、その差に愕然とした、そこは地球なのかと火星なのか別な惑星に来た感じになったからである
その時言葉を失う、とても一句詠むかという気分にもなれない、それほどスケールが大きすぎたのである

外国が大陸国家になると空間を生きるというのはその広さを知ればわかる、無限に広がる大地が空がある
すると遊牧民などは無限の大地とか草原とか砂漠がありそこを移動してゆく、移動する生活である
特定の場所にこだわり生きる訳ではないからこれまた理解しにくいのである、一つの場所に日本の村のような所に生きるのではない
それで日本では一つの狭い場所からぬけられないから村八部が制裁になる、それは重いものとなる、そこで暮らすことが辛くなるからだ、そしていじめが日本ではどこでも普通にある
北海道には広いからいじめがないというときそうなのかともなる

日本の感覚は狭すぎるのである、大陸国家だと空間を生きるというときその住んでいる場所が暮らしにくいとしたら移動すればいいのである、するとその広大な土地に新しい世界が開けるとなる
空間を征服することが生きることになる、世界史をみてもそうである、空間が拡大してゆくことが新しい世界を見ることであり開けることなのである
日本でも明治維新で北海道がフロンティアになったことでもわかる
まだ開かれていない土地があったからそうなる、アイヌが住んでいたとしてもそれはアメリカのインディアンとにていてやはり広大な開かれていない土地があったから移住できたのである

遊牧民の空間感覚は農民のように土地に定着するものと根本的に違っているのだ、その世界観も違ってくる、都市は遊牧民が作ったというとき遊牧民は自ずと移動するから商業民族になる
するとオワシス都市があるようにその中継点として都市が生まれる
空間を結ぶものとして都市が生まれる、オワシス都市を結ぶものとして都市が生まれたとなる
農業からは都市は生まれにくいともなる、農業は移動しないからである、都市は商業都市であり物資の流通や人が行き交う場所に発展して作られるからである
そして空間を生きるという時大陸国家では河が重要な役割を担う
それは道路と同じであり遠くを結ぶものとしてある
広い空間の離れた地点と地点を結ぶものとしてある
河は運河ともなり現実に道路と同じなのである

資本主義というときcapitlismでありcapitalとは頭のことである
それは羊の頭だともなる、羊とともに移動して生活するのが遊牧民である、そこから資本主義が生まれたという説もある

(英語: capital)の語源は、ラテン語で「頭」の意味を持つ「caput」で、12世紀から13世紀にかけて動産を意味するようになり、更に「資本家」や「資本主義」との言葉が派生した「資本家」(英語: capitalist)との用語は、17世紀に「資本の所有者」との意味で使用されるようになった


ここで説明されているように頭には資本という意味もある、日本の株もかぶら(頭)からきているから共通しているのかとなる

大陸国家から資本主義とかグローバル社会が生まれたことは確かである
イスラム世界は遊牧民から生まれた、一神教は遊牧民から生まれた
それは農民から生まれたのではない、一定した土地をもたない遊牧民の宗教なのである
だから空間を生きる遊牧民がやがて地中海に進出するフェニキア人の祖先だったとかとも言われる、アーリア人というのも遊牧民でありヨ−ロッパは遊牧民を祖先とするともなる
ただローマとのなると先祖は農民であり農業国家として発展したのである

大航海時代というときも空間を生きる遊牧民の末裔が開いたとなる
航海は未知の世界でありその知られざる世界を発見することだからである、それは大きな冒険であり死ぬ人もそのために普通にいた
アメリカに船で渡った人たちも死んでいる
今は移民でもやはり命がけで死んでいる、ただ今の移民はそこが豊かだからそこに住みたいと移動する
それもやはり過去にもありローマ帝国があったところにいろいろな蛮族が押し寄せたという時ヨ−ロッパの歴史にもそういうことがあった、文明国を目指して蛮族が移動したのである
つまり大陸では空間の移動が大規模に起きる、それで歴史が変わる
日本ではそういうことがなかった、海に囲まれていてなかった
ただ秀吉が朝鮮半島を遠征したことはあったくらいである
それ以上広がらないのはやはり海に囲まれていて大規模な移動ができないからである、そのことでモンゴルも大挙押し寄せたが海にはばまれて日本は征服できなかったのである

いづれにしろホイットマンの詩が理解しにくいのはその広大なアメリカを詩っているからなのだ

押韻も、古典も、外国の宮廷に漂う香料も、屋内の書庫もわたしは歌わず
私の歌う香気とは、例えばメインの松林、それともイリノイ大草原の息づかい、それにバージニア、ジョージア、テネシーの、それともテキサスの台地、フロリダの湿地帯から
それともサギネイ河の黒い流れ、ヒューロン湖の広く青い湖面から
漂いよせるさわやかな空気、
そしてイエローストーンの風景やヨセミテの描写
それに底流を成す低いつぶやき、すべてにくまなくゆきわたる
不変の調べ、世界の二つの大海から終わりなくひびきつづける
あの波立ち騒ぐ海鳴りも歌うつもりだ

これだけの広大なのアメリカが開けたしそれを詩にするとなるとあまりにもスケールが大きすぎるからそれを日本では理解しにくくなる、日本ではこうした詩が生まれようがない
それはそうした背景の風土がないからである
日本は最果ての土地にひかれるというけど島国だからすぐに最果てになってしまうのである

そして大陸国家が遊牧民から始まって空間を生きるというときなぜかアメリカ人が西へ西へと進出する拡大してゆくというときそういうふうにそもそもが空間の拡大征服を生きるのが遊牧民だったからだとなる、そういう性質というか文化をもつ人たちだったからだとなる

アムトラックでアメリカを旅した、それでもロサンゼルスとかからシカゴまでとか行ったのはアメリカの一部なのである
とてもその広大さを理解することはできない
テキサスとなればさらに広くメキシコに接する土地となる
砂漠もあるからその広さに空間に生きているというのはわかる
その広大な土地の感覚から世界を見るからアメリカを理解するのがむずかしい、日本はその土地に制約されたものとなる
だからこうして遊牧民とか空間を生きる世界から生まれたという資本主義というのは日本にはあっていないのである
グローバル経済もあっていないのである
そういう世界に適合できないのである、そこに文化や歴史の相違があり溝があり適合できないのである

大陸国家では常に空間を生きるから摩擦が戦争が生まれる
ともかく激しく対立してそれでそのあとに調和を産みだす、理解し合うとなりルールが法律が生まれる
それで外国では自分の主張をいい喧嘩もいとわないとなる
そこで互いの合意点を探るとなる
日本だと争うことをそもそも嫌う、それは狭い土地で村とかで生活して離れられないからである
だからなるべく穏便にすませる、事をあらだてないとなる
いい点としては敵味方塚のように敵まで手厚く葬る

東北では明治維新の戦争でも薩摩長州軍でも官軍でも敵味方塚として葬っているのである、それを中国人が見たらありえないとしている、中国では墓まで暴いて敵を罰するからである
それだけ大陸は空間を生きる、その争奪戦が過酷になる
民族同士が熾烈な戦いになる、負けたものは奴隷にされる
そういう過酷な世界なのが大陸国家だったともなる
日本は歴史でも異民族との争いがないから敵味方塚がありえたのである、同じ日本人じゃないかとなり通じ合うからそうなる
腹でわかるとかなる、でも外国ではそうはいかない、わかるように説明しなければならないのである、そこでルールが大事になり法律が生まれたのである




2018年12月09日

ベニスの紋章(Venice's coat of arms)ーabstract painting about venice


ベニスの紋章(Venice's coat of arms)ーabstract painting about venice

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Islamic Palace


ベニスは商業の都市として栄えたが今は芸術の都市である
一時はオスマン帝国に支配されていた
そこでベニスの大使が豪華な衣服を来てオスマン帝国の首都のイスタンブールを訪問する
その帽子も形が面白い

この抽象画はこのドラマを見てイメージした
花模様はカンナににている、カンナは大きな花だからである
ベニスは世界で一番不思議な港である
あのような都市は世界でも他にはないから魅了される

Venice flourished as a commercial city, but now it is a city of art
At one time was dominated by the Ottoman Empire
So the ambassador of Venice came luxurious clothes and visited Istanbul, the capital of the Ottoman Empire
The shape of the hat is also interesting

This abstract picture looked at this drama and imaged it
The flower pattern is in Kanna because Kanna is a big flower
Venice is the most marvelous port in the world
Such a city is attracted because there are no other cities in the world




Islamic Palace

2018年12月08日

職人の仕事が失われてゆく、後継者もはいない (地方を活かす文化が再び求められているのだが・・・)


職人の仕事が失われてゆく、後継者もはいない

(地方を活かす文化が再び求められているのだが・・・)


「福島県地域おこし協力隊」を募集します。

福島県には、国見町のあんぽ柿、会津美里町の会津本郷焼、須賀川市の牡丹、西会津町の会津張り子など、多くの伝統産業が地域に息づいています。
 これらは、地域の風土、気候に根ざし、歴史を紡ぎながら独自の産業として 受け継がれてきた「宝」であり、「地域住民の誇り」です。
  
  
 南北朝時代、時の武将「斯波兼頼」が山形市で地盤を築き、以降職人の町が発展した際には150を超える職人屋敷がありました。
現在、伝統を受け継いだ職人さんは急激に減り、桶樽や竹細工など残念ながら埋没してしまった技術もあります。和傘や漆器、鋸や特技木工は特に事業の承継が急務な状態です。



職人の仕事がなぜあったのか?
そもそも戦前から江戸時代は地元密着の経済だったからである
地元にあるもので生産して消費する傾向があった、外部から入るのではなく外部に頼るのものでもない、自給自足が原則だった
それはそもそも農業に従事する人が8割だったというとき当然そうなっていた
その土地に根ざした生活が基本になるからである


このテレビ放送は面白かった、室町時代にこの土地で飢饉があったがこの芋だけはとれて助かったとその家に伝えられているのも古い歴史がある、室町時代となると残っているものが東北では少ない、それが農家に伝わっていたということで興味をもった
そんな言い伝えが山の一軒の家に残っていることの驚きである
飢饉は崔さんあり山の人たちが買えって山に食料があり助かったとかも伝えられている
また米だけを作っていることで飢饉になり苦しんだとかある、土地にはそもそも米だけではない多様な食料を作っていたからである、米は伊達藩では江戸に売る商品作物化して飢饉になり食べるもものがなくなって死んだとも伝えられるからである
これは現代ではグローバル経済でコーヒーだけを作っていた所でもそうしていろいろものを食料として作らないからコーヒーが売れないとそうなっていたのである

何か私はこうしてその土地に根ざしたものがあるとき関心をもつ、そこに歴史があり土地に密着したものがありそれが人間の本来の生活だったともみるからである
だからそこにこうして物語がある、会津でも木地師の物語が伝説が残っているのはそのためである

そもそも職人とは今のように特殊な人たち、芸術家のようなものではない、ただ日々の生活に必要なものを手作りで作っていた人たちである
それを民芸としたのは近代になってからである、竹細工とかあれば竹で籠などを作っていた、そういう人が近くにいた、籠屋とかいたのを知っている
竹を削り竹を編んで籠を作っていたのである、漆屋も近くにいた
そこでは何度も何度も塗りをしていたのを見ているから一個の製品を作るのが手間なのである、それは職人はみんなそうである、石屋とかもあり近くで石を一つ一つ鉄の道具でたたき削っていたのである、墓一つ作るのに手間だったのである、手作業だからである
それがなんでも機械化した、墓の戒名でもなんでも人の手で彫るのではない機械でしているから楽なのである

だから団塊の世代は戦後生まれであり戦後十年は江戸時代の継続だったからある程度江戸時代をイメージできるのである、高度成長時代になったとき急速に変化したのである
だから職人の世界というのをこの世代は親が職人だったりするからまだ理解できる
私の父親が酒屋の丁稚だったということでその丁稚のことで時代劇を見た
暖簾分けして一人前になる物語でありそれが何か身近に感じたのもそのためである
第一自分の家がその暖簾分けした家だったからである
すると江戸時代からの継続があり江戸時代に興味をもつのである

確かに職人の世界は喪失した、陶芸以外は厳しい、陶芸はまだまだ需要がある
そしてお土産品にはいいのである、その土地独特のものとして室町時代からでも継続しているのがあるからだ、相馬焼は大堀焼は古いから他に技術が伝播された
職人の手仕事の世界には今の物とは道具と製品は人間味があり人間臭いのである
そこにだから物語が生まれ伝えられる
今の大量生産の製品にはそうした人間味がない、人間が作ったというより機械でロボットで大量生産した画一化されたものとしてある
それぞれに個性とか土地の匂いとか文化はないのである
どこでも文化が喪失したのである、なぜなら文化とはもともとcultivate-cultureから来ているからだ
その土地を耕すということが文化なのである、甚五右ヱ門芋とかがまさに文化なのであるその土地の名のついた練馬大根とかもあり他にもある
それが特産品となりその土地のものとして伝えられてきたのである
だから江戸時代の方が食べるものでもその土地のものからとれたものが出されたから味わい深いとなる、郷土料理は別に特別なものではない、その土地でとれたもので工夫して作られていたのである

ともかく今盛んに文化の時代になるというとき大量画一生産からその土地のものを作り出すべきだというときそれは戦前まではあった、それが失われたとき一体その土地独特のものを作り出すことは容易ではなくなる、また同じようなものを作っても伝統が活きるとはならない、伝統でも新しいものが加わらないと商品化しにくいのである
地域おこしのむずかしさはやはりそうした伝統が消失してきたときそれでは新しものを簡単には作れないのである

ただあくまでも日用品として生活の中で日々使われることで道具でも物でも活きる
芸術品のように鑑賞品となるだけでは活きてこないのである
そこがまさに現代の民芸の問題である、それは日用品として使うものではない、特殊ものとして見られるからである
つまり今は職人の仕事は芸術家のような仕事に見られているのである
でも現実には手間がかかり高価になったりして何か実用品より芸術品のように見られているのである、それでここも跡継ぎがいないというとき金にならないといことでそうなる

それでも現代は大量生産の品物とか道具に飽きている、だから茶の湯のようにお椀とかその作法とかにこるようになり芸術化する
実用と機能性重視からお椀を手に取りそのお椀をしげしげとながめくろいだ時間を過ごすようになる、茶碗でもコーヒーカップでも色の違ったものとか変えて気分転換するとかなる、そういう時代にもなっている
ただあくまで日常的に日用品として使うことで道具でも物でも活きてくる
その基本は変わらないからそこで新しいものを作る必要が生まれる
会津漆器のお椀でもレンジで使用できるものを作っていたとかなる

ともかく何か土地の物語が文化が失われたのが現代でありそれを回復しようとするが現実はその基本としての生活に使用されないから回復するのがむずかしいし後継者も育たないのである
職人に弟子入りして苦労するというのも何か現代では向いていないのである
だから職人芸というものも工場での製品作りにあったがそれもコンピュターに伝承させるとかなっているのである
それでもデザインとかは本当に抽象画をパソコンのソフトで作ってみて多様だからそういう装飾性をくわえることは新しい技術で変えることができる
そもそもartは技術き意味だったからである

posted by 老鶯 at 23:34| Comment(0) | TrackBack(0) | 経済社会労働問題

師走の仙台を歩く(短歌十首)


師走の仙台を歩く(短歌十首)

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みちのくの駅々に散る紅葉かな

木の葉舞う人入り乱れ仙台へ  

仙台の路地のいくつも師走かな


仙台に人入り乱れ木の葉舞う人せわしき行き来師走となりぬ

仙台の銀杏の古りぬ通りかななお散り残る黄金(きん)の葉見ゆ 

二本の(ふたもと)の銀杏の木立にけりホテルの前や冬となりにき

仙台の通りを行けばはなやげる銀杏散りてハイヒールに行く

仙台の喫茶店に入り今買いし本読む銀杏散りにき

民芸店路地にありしも灯のともり冬の夜ここに入り見るかな

仙台の並木道行き師走かな人それぞれや思い交差しぬ

仙台の路地を曲がりてまた曲がり短き日のはや暮れにけり

冬の夜の仙台の街のともしびを電車より見つつ帰りけるかな

みちのくの駅々とまるともしびのあわれや冬の夜帰りけるかな


仙台には東北では街の情緒がある、それはせこの辺では原町市とか相馬市とは違う大きな都会の情緒である、ただ東京とかなると大きすぎるから情緒もなくなる
街歩きで楽しいとなると仙台くらいの規模がないとない
この辺では仙台とか盛岡になる

そして最近家事をして料理などして気づいたことは人間は豊かになると器にこる
ただ食べるだけではない、器にこる、いろいろな器を茶碗でも装飾でもこる
それで茶の湯が生まれた、人間はただ腹が減ったからとがつがつ腹を満たすというのではない、人間は豊かになれば文化を生きることになるのである

現代はいろいろなもの物やインフラは整備された、ハードが整備されたからソフトの時代文化の時代になったのである
そして別にこうした茶碗とかでも高いものは買う必要がない、種類をそろえると楽しめることがわかった

フラワーアレンジメントをして壺などでガラスのも通販で買ったが別に高いものではなかったからだ、ただ種類をそろえると楽しめるのである
だからこうした趣味でも必ずしも金がかかるというわけではないのである

仙台だといろいろな店を見て回り楽しむことができる、店とは見せるからきているからである、本も買ったが今はほとんど通販である
でも今買ったばかりの本を喫茶店で読むのは記憶に残ったりする
書店でも古本屋でも実際に見るとこんな本があったのかと気づいて買ったりする
ただ本は高すぎるから今はほとんど古本とか通販でしか買わない
高いものは買わないでもそれだけで十分になっているからだ

前は一週間に一回仙台で本を買ったいた、今になると本がこんなに多いのかと驚く
前もそうだったがアマゾンとかで買えるようになってその多さに驚く
それだけ知識の量が膨大なのである
それで田舎では知識を吸収する面では不利だった、そもそも本が読めないと新しい知見も得られないからである
今は膨大な本を読んで何か編集するように読んでいる
インタ−ネットでもそうだが編集することで新しい創作になっているのだ

介護十年で仙台でさえゆっくりと行けず楽しむ余裕さえなくなったいた
それをふりかえると介護の負担は人間的生活すら奪ってしまうと思った
余裕がなくなってしまうのである、その負担が大きすぎるのである
今回はようやくゆっくりと仙台を楽しめたなとなる
何か十年前の状態に戻ったという感じになる
そしてまだ仙台に行けるなと喜びを感じてもいる
下手すると死んでいたかもしれないからである









2018年12月07日

仙台の師走の一日 (どこも後継者不足で日本が終わる)


仙台の師走の一日

(どこも後継者不足で日本が終わる)

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会津塗りー刷毛の跡がある

師走の仙台に行って街を歩いてきた、今日は用事があった
ドルを円に換えることである、このドルも10年以上前に残っていたものだった
それからトラベラーチェッカーズもそうである、アメリカエキスプレスのものだから信用があった
調べてみたが交換できた、20万円くらいあった
実際はこの交換は損している、なぜなら円安のとき交換していたからである
紙幣は機械で検査した、一ドル紙幣だけが交換できないものだったから良かった
10年以上前のものであり古くなっていたからである
なんでもそこで世界の紙幣が交換できるので余ったものを交換しよう

駅前のトラベルックスはドルを交換するとレートが悪い
それで三井住友銀行で交換した、109円だった
トラベルックスでは100円になる、こういうふうに差がある
だから外国でも場所によって差があるから損している
電話で事前に聞いていったからできた
ともかく海外旅行も十年以上と化していない、日本国内の旅もしてもいないから旅する感覚を忘れるともなる、ただ一応新しいパスポートは申請してもっている
でもこれも使用するかどうかわからない、なかなか海外となると行くのが苦しくなった
国内さえそうだから海外になるとハードルが高くなるようになった

次に自転車を見に行こうとしたが場所がわからずできなかった
何かタイヤが普通のタイヤの何倍もある太いのに乗っている人がいた
聞いてみたら20万したという、私はヤマハの電動自転車を買おうとしていた
それは38万する、電動のマウテンバイクである
でもそのタイヤがこんなに太いとしたそれでどうなるのか?
これは山道を悪路にはいいにしても普通の道路走るにはどうかなと見た
その太いのに驚くからである
自転車は乗ってみないとわからないから困るのである
自分にはロードは向いていなかったからだ
高いから失敗すると大損になるから困る
アメリカのトレックのはボッシュ制の電動を使っている、これは馬力がある
30ボルトとかなりこれはヨーロッパで開発されて人気になった
そもそもe-bikeは体力のない老人用に開発されたのである

仙台と食べ物がいろいろあるからいい、この前は山形の芋煮を食べたし今度は宮城の豚汁を食べた、こうしていろいろ食べられれば楽である
ともかく一人暮らしで困るのは食事なのである、用意するのがめんどうなのである
皿だしてそろえるのもめんどうである、人間いろいろなことをできないのである
だから一人暮らしは外食がいいのだが仙台のようにいろいろなメニューがこの辺ではないのである、それで不便なのである
でも仙台にいたら贅沢できるから金がかかってこまるとなるのである
ともかく料理はめんどうすぎる、そこに時間をかけていたら何もできなくなってしまう

帰りは駅前で店を出しているので会津塗りのお椀を買った
その売る人が言うには跡継ぎがいなくて困ったと言っていた

ここもそうなのか?

漆塗りは縄文時代からあったとか古い、子供の時前の家が漆塗り屋だった
そこで仕事を見ていた、何回も何回も塗りをするから根気もいるし手間がかかるのであるだから大量生産はできない、一つ一つ手作りになるから売るとなると高くなのである
農業も跡継ぎがいない、近くの畑でも借りて畑で野菜を作っていた人が死んだ
そこも荒地になる、隣は車に乗せられて這って畑でやらん作りしてしいたが力尽きて
やめた、その後は草ぼうぼうになり隣でも困る

何かどこでも人手不足で困っている、それで外国人に働いてもらおうとなる
そもそも日本は人手不足というとき日本国自体がそうして崩壊しつつあるのではないかとも思う
人手不足ということは民族の力が衰退しているからなのかもしれない、弱体化しているからかなのかもしれない、日本が戦争に負けたとき不思議なのだが民族の力は弱体化しなかった
戦後団塊の世代が大量に生まれたからである、それで高度成長となったのである
その反作用として少子高齢化になり日本の国力が衰退しているのかとなる
この後継者不足は実際は相当深刻なものであり日本の国力の衰退となる
そうすると他国からの侵略を受けやすいのである
例えば耕作放棄地とか空地とかが多くなると中国の人に買われたりする
特に北海道ではそうなっている、ただ放置しておくより金にした方がいいとなるからだ
それで空地とか耕作放棄地はソーラーパネルにもなる、すると景観が破壊されたりする

例えば駅でも無人化すると変なのだけど取り仕切る者がないから勝手にする人がでてくるそれが自分だった、JRの社員とか駅長から嫌われているからである
勝手に自分たちの仕事の中に入ってくるなり嫌われている
でも無人駅だからこそそういう人もでてくる
それは悪いことをしているのではない、誰もいないからそれを補うことをしている
そうして無人化することは何か勝手にそこを自由にする人が出てもどうしようもないことがある、誰もいないから管理していないから勝手にされるのである
そもそも空地にしている人はただ土地をもっているだけで利用していないのだから土地があっても活かせないのだから所有する権利すらないともなるのだ
それは空き家でもそうだし土地でもそうである、そういうことがこれから少子高齢化で増大してくるのだ、それは800万軒の空き家が生まれるとか空恐ろしいものなのである

いづれにしろ日本はどうなるのか?人手不足で会社が継続できないとか伝統も維持できないとかもう日本が終わりなのかとも思う
国力が衰退すると必ず他者が他国が侵入してくる
それはそこに人がいないと土地でも放置されているとそうなりやすいのである
誰かが勝手にしてもそれをとめることができなくなる
むしろ耕作放棄地なら誰かが勝手にそこを畑にしても文句言えないとなるのだ
それは土地を活かしているからである、ただ土地をもっていても放棄しているのだから誰かが活かして使ってもらった方がいいとなるからだ




posted by 老鶯 at 20:58| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記

2018年12月06日

南相馬市高倉に移り住んだ人が地元の歴史に興味をもつ (詳細に調べているので感心する)


南相馬市高倉に移り住んだ人が地元の歴史に興味をもつ

(詳細に調べているので感心する)

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南相馬市で古い地区となると古代から歴史を継続して刻んできたのは桜古墳と泉官衙(カンガ)跡から高平地区である
古代からそこに歴史が記されてきたからである
泉かんがの前には桜井古墳があるからわかりやすい、そこも高平地区一帯である
そうればとうしてそうなったのか?
その場所が新田川があり海に近く住みやすい場所として最初に開けたとなる

それと製鉄遺跡のある真野郷の遺跡まで道まで作られて管理されていた
新田川も運河になっていて物資が運ばれていた、古代ではそこは湿地帯であり行き来ができないから川を利用した
桜井古墳は立地的に見れば高台であり場所として最適だった
だから今回の津波はそこまで来ていても被害はなかった

最近駅で会った外部から来た人の研究では泉長者から鎌倉時代から南北朝時代までつながりある地帯として調べている
外から来た人でそんなに興味をもてるのも不思議である
地元に住んでいるといつも目にするものがあるからそこで興味をもつようになる
私の場合は墓に興味があり地元の歴史に興味をもった
墓とは文書ではない、何か本当の人間がここに埋もれているとも見るからである

ここまで地元の歴史に興味をもつ人はないだろう、それも詳細に調べている
そういうところが学者的なのである、私の場合は何か芸術的に見るから学者的な研究となっていないことがある
この人は文書からも学者的に詳細に調べて指摘しているからそういう素質があるとなる

例えば南北朝のことで代々の相馬藩主殿様のことで南朝についたものと北朝についたものとして年号に注目している
南朝の年号と北朝の年号が違っていたのである、それは天皇が二人になり日本全国が分裂したからである

足利尊氏は、光厳上皇の院政の下、光明天皇を擁立し、11 月 7 日には建武式目けんむしきもくを定め、幕府の基本方針を示した。
一方、後醍醐は 12 月に京を脱出して吉野へ逃れ、光明天皇に譲った三種の神器は偽物であり、自らが持っているものが本物であると称した。ここに天皇家は、光明天皇の北朝と後醍醐天皇の南朝に分裂し、1392 年(元中 9 年/明徳 3 年)に両王朝が合一するまでの時代を「南北朝時代」と呼ぶ。 

尊氏は条件を容れて南朝に降伏して綸旨を得る。この和睦に従って南朝の勅使が入京し、11月7日北朝の崇光天皇や皇太子直仁親王は廃され、関白二条良基らも更迭される。また、年号も北朝の「観応2年」が廃されて南朝の「正平6年」に統一される。これを「正平一統」と呼ぶ(後に足利義満により再度図られた南北朝統一である「明徳の和約」を、正平一統に合わせて「元中一統」と呼ぶことがある。)
年号も北朝の「観応2年」が廃されて南朝の「正平6年」に統一される。これを「正平一統」と呼ぶ

親胤は 建武2(1335)−延元2(1357)で南朝の年号であり
胤頼は 延元2(1357)−貞治6(1367)で貞治は北朝の年号である

相馬藩も南北朝になり二つに分かれたともなる

高平地区にあった寛徳寺に胤平を中心に城が築かれとどまる南朝方で活躍するが1347に北朝方に下る


北畠親房が准后に任じられて17年ぶりに京都に帰還、続いて北朝の光厳・光明・崇光の3人の上皇と皇太子直仁親王を拉致、本拠の賀名生へ移された。後村上天皇は行宮を賀名生から河内国東条(河南町)、摂津国住吉(大阪市住吉区)、
さらに山城国男山八幡(京都府八幡市の石清水八幡宮)へ移した。近江へ逃れた義詮は、近江の佐々木道誉、四国の細川顕氏、美濃の土岐頼康、播磨の赤松氏らに、足利直義派だった山名時氏や斯波高経らの協力も得て布陣を整え、3月15日京都へ戻って奪還、さらに21日には後村上天皇の仮御所のある男山八幡を包囲し、物流を遮断して兵糧攻めにした


石清水八幡宮は、足利将軍家が特に篤く信仰したお宮ですが、同宮は足利氏だけではなく八幡太郎の名で知られる源義家や、鎌倉幕府を開いた源頼朝、それに徳川将軍家など、歴代の源氏一門から、源氏の氏神、武門(弓矢)の神として篤く崇敬されてきました。

鹿島の男山八幡神社はここから由来している、京都に男山という山がありそれが基である

ともかく南北朝の混乱は全国的であり60年続いた、その傷跡は今でも残りつづいているこの辺では霊山炎上で落ち延びた只野氏とかがいて考察した
その子孫がここには本当に多いのである、野馬追いの旗にも南北朝時代の侍の子孫がいて旗印にしているからわかる
野馬追いの旗印は鎌倉時代からさらに古代までさかのぼるからわかりにくいのである

その人は高倉に住んでいる、その高倉の由来はもともとは鷹であり高倉になったという
あそこにある神社の由来を聞いたがわからなかった、その人は明治以降なのか昭和なのか開墾に入った人だったかもしれない
あそこの神社の屋根の紋は9曜の紋だが亀甲紋もあるという、あの神社は綿津見神社である、この綿津見はこの辺だけに使われる文字だという、やたらこの辺ではこの綿津見神社が多いのか謎である

綿津見神社 (小倉南区) - 福岡県北九州市小倉南区石田鎮座
綿津見神社 (古賀市) - 福岡県古賀市庄鎮座
綿津見神社 (東区) - 福岡県福岡市東区三苫鎮座
綿津見神社 (糟屋郡) - 福岡県糟屋郡新宮町湊鎮座
綿津美神社 - 福岡県北九州市小倉北区萩崎町鎮座   

福岡県福岡市東区志賀島の志賀海神社を総本社とする。綿津見三神は阿曇氏の祖神とされ関わりが深い

なぜ福岡県にこの漢字をあてているのか?つまりなんらか九州に関係あるのかとなる
他にもいろいろ当て字しているがこれだけ同じ当て字しているのは関連があるとなる
とにかくこの辺ではこの字をあてた神社が本当に多いのである
それはなぜなのかとなりその関連性を知りたいとなる
神社とは神が勝手に来るのではない、必ず人が来て人がもたらすからである
つまり福岡県と関係してこの神がもたらされたのかともなる
それにしてもこの神社がこれほど多いのはそれだけこの神社に関係した人が多いということである
だから何か因果があると思うのが自然なのである
それがどういう経路でもたらされたのか知りたいとなるがこれもむずかしい
でもこの神社のある場所を特定して地図化してみたら本当に多いから何なのだろうとなる 

長野県にも安曇族とか海人族が入ってきて船の祭りをしていたのを見ている、安曇とは九州から来た海人族だからである、ここにこの字が由来していることはやはりなんらかその由来を語っているのか?

これと対象的なものとして飯館村の佐須にある山津見神社がある、これは綿津見神社と対象的でありこの辺にしかないのかもしれない、インタ-ネットの検索では出てこない
なぜか松川浦付近に山津見という地名がある
これは綿津見神社が多いからそれに刺激されていうとおかしいが山の神としてそう名付けたのかもしれない、綿津見神社があり次に山津見神社が生まれともなるからだ

いづれにしろこの人の指摘していることは要点をついているのである
だから外部から来てここまで地元の歴史に興味をもつというのはめずらしいと思った
地元に住んでいると別に歴史に興味をもたなくても自ずと持つようになる
でも外部から来たらなかなかここまでは興味をもつ人はない、だから不思議だとなる
ただ震災以後は外部から入ってきている人が増えた
鹿島ではおそらく2割くらい外部から入ってきた人たちかもしれない
駅で会うのは外部から来た人達が多いからである




ここで調べた人は名前も知らない、ただそれなりにこれだけ詳細に調べるということはその人の努力があり勝手に紹介できないということがあるかもしれない
その人が発見したものがあるから著作権が生まれる
それで勝手にここにのせていいのかとまどったが一応返答ということでのせた
高平地区は南相馬市の歴史を語る場所であることは間違いない
あの五輪塔がそれを語っているのである


posted by 老鶯 at 23:25| Comment(0) | TrackBack(0) | 歴史(相馬郷土史など)

平和と幸福は何もしないで与えられることはない (常に平和と幸福は努力して作り上げてゆかないとない)


平和と幸福は何もしないで与えられることはない

(常に平和と幸福は努力して作り上げてゆかないとない)

平和とはなんだろうと思う、平和平和と叫んでも平和が来るのか?
そもそも平和とは何なのか?
平和の逆を見るといい、極端なのは戦争状態であり飢餓状態とか災害で破壊されたとか事故で苦しむとかいろいろある
平和でない状態は常に歴史的にも個々人でもあった
個々人でも病気とか必ずあるからだ、死もあるし逃れられないのだ

最高にに平和を感じる時は逆に戦争で苦しんでいるとき戦争がないときとかなのである
殺し合いしているのは最悪だからである、だから戦争がない状態にもどったというとき
幸福感を人一倍感じる、それは個々人でも病期が直った時一番感じる
その時生きられんだとかつくづくそれだけで幸福を感じる

平和とか幸福はそこにただあり与えられているものではなかった
何か自分は恵まれていて家族に与えられている存在だった
その家族が介護になり死別がありその時自分は今度は家族のために尽くさねばならなかった、自分が今度は与える側になった
でも何かを与えるということも喜びになる、苦しみもあるが与えることは喜びがともなうただ相手から与えられるだけの存在に平和と幸福はない

平和とか幸福とかはただ与えられるだけでは得られない、人間はそういうふうにできている、何かをただ与えられるだけでは平和も幸福もありえない存在なのだ
幸福になるためにはやはり勉強も必要になる
勉強するということは幸福になるためなのである
ただ受験勉強とはかそうではなかった、勉強するのは人間は才能があったとしても必ず勉強せねばならない、才能を開発しないかぎり天才でない限り生まれないのだ

そして勉強していれば雑学でもなんでも最後に花開くことがある
それも勉強していなかったらありえないのである
ただ何でも努力も勉強もしないで与えられることは人間にはないのである
絵の才能が全然ないのに抽象画でもパソコンのソフトで描けたとなればそれなりにただ見ているよりはそこに自らで作ったという満足感がある
これもやはり才能を開発するという努力の結果で幸福が生まれたとなる

人間という存在はそもそも何か何もしなくて与えられない、平和でも幸福でもそうである家族だってそれも互いに努力するなかで築かれてゆくのであり結婚したときは愛がないというのもわかる、恋愛は愛ではないというのもわかる
愛は結婚して共に生活して子供を育てるという過程を経て家族も作られる
それはただ何もしなくて家族が生まれるわけではなかった
家族はそうして長い間生活してその中で苦労を共にして作られてゆく
家族はもともと与えられるものとも違っていたのである
子供の時は与えられる存在だが大人になれば常に努力して作っていかねば何事成ることはないのである

例えば農業でも何かを実らせるには本当にむずかしい、様々な試行錯誤必要である
そこで練馬大根とか・・・大根とか下仁田葱とか地名がついたブランド品が生まれる
それは特産品となる売れる、それがてきるまでは苦労している
それはどこでもそうである、それで特産品となったときそこに努力の成果がありその土地に幸福をもたらしたのである
それはあらゆる分野でそうである、平和とか幸福は作り出すものでありただ何もしないで与えられるものではなかった

だから復興というときこれもそうなのである、それは不幸な状態でありそこに再び平和と幸福を作ることが要請されている、それでもし復興が成ったらその喜びは何倍もの平和と幸福感を感じる、でも何もしなければもう何も生まれない
ただ荒廃してゆくだけだとなりそこには平和も幸福も生まれないのである
今の所はそうなっている、何か打つ手がないとなり町や村は捨てられたという感じになる
私の住んでいる所は幸いに避難区域でない、かえって外部からの人が集まり増えてにぎやかになったということがある、いろいろな施設も生まれたとかもある
だから避難区域との差が大きすぎるということがある
ただ人間はつくづく何もしなかったら平和も幸福も与えられないようにできている
戦争とは破壊でありだからそこからは平和とか幸福は生まれない
それでも破壊した後に建設がはじまりその時あらためて平和と幸福を感じるのである
それは前より一層平和と幸福を感じる

幸福は何か与えられる得たいということがある、でも人間の幸福は与えることにある
何かを与える時平和と幸福を感じる、神は与えるだけの存在だから幸福だとなる
人間にあらゆるものを与えるのが神だからである
ただ神は人に感謝を求めるが後は一切なにも求めない、人間は何か与えたとてしても必ず見返りを望む、そして恩着せたり俺は与えたからとその何倍を要求する
それは遂に脅迫にすらなる、無償で与える人は一人もいないのである
神は無償で与えている、でもそれを実らせるには人間でも農業に絶えない努力が必要になっているのである

でも一番実りの幸福を感じているのはそうして努力して実らせた人なのである
その時まさに平和と幸福が作り上げられたからである
無人駅でボランティアのまねごとしてもそうである
みんな自動化しているから別に人はいらないとなるがやはり人がそこに手を加えて作り出すものがある、まず機械とかAIだけで平和と幸福は作り出せない
なぜならあくまでも人間が生きるのであり機械とかはAIでも生きるということがないからである、それは人間が生きるということが先にあって活かされるのである
あくまでも人間が生きることであり人間が主人であることには変わりないからである

だから無人駅でも人間はいらないとか他でも機械があるから人間はいらないとはならない必ず人間が必要であり人間が主人公なのである
そもそも機械とAIは何か望むということもない、平和とか幸福とか愛とかも望まない
だから機械だと兵器となり武器と化して人を殺しても何も感じないのである
機械とかはあくまでも人間の道具でしかないのである
だから機械でもAIでも平和とか幸福をもたらすものとは必ずしもならない、それはあくまでも人間の道具だからである、使い方を誤ればやはり不幸をもたらし平和は破壊されるのである

いづれにしろ人間は与えられるだけの存在だと平和も幸福も感じない
それで退職した老人が不幸になりやすいのは何か社会的活動して与えるものがなくなるからである、ただ一日なにすることもなくテレビを見ていたり暇つぶしにギャンブルばかりしていたらそこに幸福は生まれないのである
そういう何も与えない人は膨大に増える時社会自体が不幸になる
それが高齢化の問題だともなっているのである  

人間の信頼関係でも簡単に作れない、俺には金があるからなんでもできる、人も自由に雇い働かせられるとかともならない
家に入れる人は相当に信頼関係がないとできない、金だけではひとを頼むことができないものだった
その人にとって金だけを得ることだとすると危険になるからだ
それじ十年もその家で働いていたとかなると信用できるとなる、でもそれだけの年月が必要であり時間が必要になる
そういうことで金だけで平和とか幸福は得られないのである
それが互いにでも作り上げてゆくものだからそうなっている、研究者に金をやるから一大発明しろといってもできないというときもそうである、研究するのは地道な努力も必要でありいくら金を積んでも一朝一夕にできるものはないからである

ともかく人間の逆説は「悲しむ者は幸いなり」ということもある、なぜ悲しむ人が幸いなのか?
そこに人間の根源的な問いがある、この世は悲しむことなしでありえない、悲しむことによって人間の深いものを理解するからだ
悲しむ者が幸いだという時、悲しむ後に本当の人間の平和と幸福を知るからそうなる
だからこの辺の復興でもそうなのである、悲しむ状態だけだとそこからまた幸いが平和がもどるということがあるということを示ししている、ただそう自覚することはむずかしい、ただ不満だけがあるともなっているのである

タグ:平和と幸福

2018年12月05日

冬の鳩に紅葉、木守柿(平和を感じるこの冬)


冬の鳩に紅葉、木守柿(平和を感じるこの冬)



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我に街に平和もどるや冬の鳩

苦労せし地元の女(ひと)や冬紅葉

老人と駅に語るや冬紅葉

金屏風紅葉の映えて古き壺


赤と黄の紅葉交じりつ映えにしも今日が見ればはや庭に散る

駅前の仕事いそしむ自転車屋今日も見につつ冬に入るかな



鳩というとき平和の象徴である、何か平和がもどった感じになる
それは自分自身も介護とか病気とか惨憺たるものだった
ただ毎日四苦八苦していた、だから余裕がなかった

でもすでに十年が過ぎて何か元の平和がもどったのか?
もう確かに家族は帰ってこない、でもまた自分自身にもここでは我が街でも平和が戻ったのかとなる、ここは避難地区ではなかったからかえって他からの人が増えた
それで駅で良く会うのは外部から来た人たちなのである
それは話しているとすぐわかるからである

それだけ外部からの人が実際は相当増えたということなのだ
原町でも同じである、新地辺りでも増えているのだ
それだけの人が移動して家を建てたりして住んでいるとなる
そして避難区域になった所には帰らないともなっているのである
だからそこには未だに平和ないのである

冬の鳩が駅の上を群れ飛んだ、何かそれが平和を象徴していた
ここでは平和な日がもどったとなる
何か自分自身でも周りでもまるで戦争のような状態だったともなるからだ
家族を失ったことはショックだし色椅子ショックがつづいたが何か平和がもどったという幸福な感じをもった
それは戦争のように焼野原から復興したとき人々も感じた
平和がやってくるんだなとそういう中で感じていたのかもしれない
平和もまたそうして苦しんできたあと一層感じるということがある

ただこの辺は本当に平和が来るのは相当に先の長いものとなる
避難区域はほとんど復興していないからである




タグ:紅葉 木守柿

2018年12月04日

年寄りの冷や水 (人間はこれまでやってきたことを老人になってもやめられない)


年寄りの冷や水      

(人間はこれまでやってきたことを老人になってもやめられない)

週刊誌ではしょっちゅう死ぬまでセックスとか一面で出している
週刊誌とかテレビは老人向きの番組作りにある
老人が多く老人が読み見るからである
老人社会になっているからである

人間は老人になろうがつくづく今までしてきたことをやめられないのである
死ぬまでセックスとかもそうである
なぜそうなるのか?快楽が忘れられないのである
これも中毒のようなものである

死ぬまで登山とか死ぬまでバイクとか死ぬまで車とか死ぬまで自転車とか死ぬまで・・・・・とかなる
死ぬまで酒飲んで早死にした評論家もいる、これもやめられないのである
自分もそうだった、自転車に乗ってきたからやめられない
電動のロードバイクは合っていなかった、軽くていいのだがふらついて危険だった
だから今度は最新式のE=BIKEが欲しいとなる
それは今までより馬力があり技術進歩がある
やはりロードは危険だかこれなら安定して安全だとなるからだ
私はあまり悪路を走ることはないが歩道を走るので安定性があるのがいいとなる

年寄りの冷や水という言葉の意味は何なのか?
それは今までしていたことをやめられないということで無理をする
今までバイクに乗っていたから74歳でもバイクで飛ばしていた人がいた
登山でも70歳でしていた人が普通にいる
それで遭難したとかある、それから車でやめられない、それで事故を起こしたとか免許を返納して失敗したと80歳の人が言うのもわかる
そして何か今までしていことができると思うのである、だからそれが年寄りの冷や水になる

人間は年をとろうが今までしたことがやめられない、酒が好きな人もやめられない
そういう快感が頭にインプットされているからやめられないのである
麻薬と同じである、人間の業(カルマ)は死なない限り消えることがないのである

結局自分の場合は

死ぬまで自転車だ!

これもどうにもならないのだ、40万近くても欲しいとなる
悪路を行かないにしろこれなら乗ってみたいとかなる
ただ乗ってみてロードのように失敗するかもしれない
でも乗ってみたいとなる

やはり技術革新したものはイノベーションしたものは売れる、老人でも買う
もともとe-bikeは老人が体力がないので作られたのだから合っているのである
70代でもまだ元気な人がいる時代である
だからこういうものでも老人が買うかもしれない、金のことがあるけどどうしても快感を味わいたいとなる
そしてどうせ死も近いんだからやりたいことをやって死んだ方が得だという考えになるのだ、この年になると毎日いつ死ぬのかとなる、現実に死んでいる人も多いからだ

死ぬ前に何をすべきなのか?

それが老人にとっては切迫したものとなる
何か常に死を意識するのである、金があってもそれを使わないで残しても損だとなる
無駄には消費しないにしても何かやりたいことしないで金を使わないのは馬鹿らしいともなるのである

ただ正直老人は動的なものより静的な志向にはなる、私はもともと性質は静的なのでじっとしていることが性にあっている
それで何か深い詩が作れるようなったとも自分ながら感じる
こういうことはほとんど金はかからない、田舎で冬ごもりで風の音とかじっとしている聞いているのがいいのである、そこで沈黙するとき自分は充実感を感じるのである

posted by 老鶯 at 23:13| Comment(0) | TrackBack(0) | 福祉医療-老人問題

南相馬市の仮設は終了取り壊しがすすむ


南相馬市の仮設は終了取り壊しがすすむ

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はる食堂は小高ではじめるという

双葉食堂はいつも満員だから向こうに移れば客も見込める
浪江とか双葉に近くなるからその辺からも客が来るかもしれないからだ
鹿島でも工事関係者の客が仮設ではほとんどだった
地元の人はわずかだったからここではもうやっていけなくなった

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ここにも仮設があったが壊されて大東建託が3棟建つ

向こうの家は建築土木関係の家だという
それだけもうけたから立派な家を建てたともいう

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南相馬市の鹿島区の仮設は終了した、まだ住んでいる人がいるが来年の三月で住めなくなる
それにしてもまた一区画に大東建託が3棟建つ、そこも仮設があった場所である
なんでこんなに大東建託が建つのかと思う
もう20棟以上になる、そんなに借りる人がいるのか?
そんなに需要があるのか?
需要が見込めるから建てている、それはなぜなのか?

大東建託側の事情もある、利益だすとさらにその金を使って新しく増やすのが経営上いいためにそうしている、コンビニでも同じように増やすからだ
でもこんなに建つのはこの辺の特殊な事情のためだろう
外部から入ってきた人たちが多い
鹿島区も多い、新しい街が三つくらいできた感じになる
まるで変ってしまったのである

そして外から来た人と駅とかでも良く会う、それだけ外部から来た人達が住むようになったのである、まず2割くらいは外部から移り住んだ人たちかもしれない
原町区でもあれだけの復興住宅が作られたのだから多い
だから南相馬市の人口は5万とか減ったとしても実際は多いのである
原発事故で移り住んだ人たちは市の人口として数えられていないからである
南相馬市の市民にはなっていないからである、手続きではそうなっている

いづれにしろ震災以後仮設も修了してまた一段落である
鹿島とかは前より良くなったのである
相馬市にあった障害者の学校も大きい、その工事も大きなものにある
それでそれを請け負う建築会社は車を増やすなど大きくなったのである
建築会社は震災以後は大きな工事をつづけてきたから成長してもうけた
これだけの工事があるということはなかなかありえなかったからである

障害者の学校でもそれなりの規模でありこれができるとまた町がにぎやかになる
駅でも利用する人が増える、周りにも影響する、何かしら飲み食いしたり金を使うからである、波及効果がある
障害者というのは何かアサガオでもありそこで働く人も多いのである
良く私は障害者と会うからである、まず障害者の数もここだけではない全国的にも多いと思う、それに費やされる労力も大変なものになる


posted by 老鶯 at 12:41| Comment(0) | TrackBack(0) | 福島原発事故関連

2018年12月03日

四人石(詩) (飯館村のまでいな村作りは間違っていなかった しかし原発事故がみんな駄目にした)


四人石(詩)

(飯館村のまでいな村作りは間違っていなかった
しかし原発事故がみんな駄目にした)

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落葉に埋もる四人石

大都会の顔のない
群衆に交じり
その無数の人に疲れぬ
誰でも疲れぬ
その顔に疲弊の色が濃い
山の村の林に
四つの石が落葉に埋もれあり
互いに寄りそいいつまでもあらむ
かなたに稜線の明確に
冬の陽は輝き没らむとす
その鋭い影を心に刻みぬ
ああ 都会に無数の人の群れ
その顔を覚えられることもなし
ただあわただしく消えるのみ
四人石、ここに離れず
記憶を留めぬ
一つ一つの石は異なり
そは長くもあれな
互いに寄りそいつ
ここに留まりて忘れられざるべし
人はみな散り散りになる悲しさ
金の切れ目が縁の切れ目
人はかくして離れて帰らじ
四人石ここに変わらず
長くあるべし
黙しつつも心は通じあう
そは幸いなり
北風は一段と吹き唸るも
ここに変わらず身を寄せ合いぬ
死すともここにあるべし
その場こそ生き死にの場なればなり



何かパラドックス(逆説)があった、双葉町は原子力とともに歩む町として進んだ
結果として住むことすらできなくなった
生業をもどしてくれといってもできない、それは何を意味しているのか?
何が間違っていたのか?

一方飯館村は貧しい村だったけどまでいな村として村作りをしていた
そこはもともと原発とは関係していない地域だった
ただやはり原発で働いていた人はいたのである
原発はそれだけ金になっていたからである

でも飯館村の村作りはまでいな村作りである、までいなとは無駄にしないで物を使うとか生活するとかの意味である、山菜なども利用してまでいな生活をすることである
物を粗末にしないことである、もったいないという言葉とにている
もともとみんなそういう生活をしていた、そうしなければ生活できないからである
外国からなど石油でも入ってこないからエネルギーは炭だとかなっていたから自ずとそうなった

この二つの村は対象的なものとしてあったとなる
しかし原発事故でどちらも崩壊した、双葉は積極的に原発を誘致して町作りしたのだから自業自得だという面があった、だから何か補償金でも限りなく要求することは国民から嫌がられる、原発乞食だとか見られる
それは最初から原発を町の方針として受け入れてそれで町作りして豊かになろうとしたからである

飯館村にはそういうことはなかった、ただ風向きとかその時雨がふったとかで雪がふったとかで条件が悪く最も汚染されてしまったのである
でももともとまでいな村作りしていたし東電からなど補償金をもらっていないだろう
だから飯館村の方針は今になれば正しかった
でも村民でもなんとか豊かになりたいということはあった
だからこそ原発で現金収入を得たいと働いた人がいたのである

ただ原発事故以後は今度は多額な補償金でもめるようになった
できるだけ補償金をもらって村を出る組と残るべきだという組に二に分断された
一つのまでいな村としてまとまることはできなくなった
それは南相馬市でもそうである、補償金のことで分断された

結果的にいづれにしろ飯館村の荒廃はひどい、放射線量が以前として高いのである
だからそこに住めるのかとなり若い世代は出で行きたいとなり帰ったのは15パーセントでありそれも老人が大半だとなりそれは他でも同じである

何か原発とういものが一番打撃を与えたのは不思議に漁業関係とか農業とか林業だったのである、それこそまさに第一次産業でありそれでこれまで生業として成り立っていたものだった、でも高度成長時代になるとその第一次産業は全体の経済活動の一割にも満たなくなっていたのである
そして誰も跡を継がないとかなっていた、グロ-バル化経済でも地方は打撃を受けた
木材は外材になり森の木材を活かせないとか農業でもそうである
そしてもう跡継ぎがいないとかなっていた
今でも農業に従事しているのは65歳以上であり後継ぐものがいないから農業が崩壊して食料危機になるともされている

ともかく何か極端なアンバランスな経済になった、中央と東京と地方の関係でもそうである、日本国土がアンバランスなものとなり歪みが生じたのである
だからこのアンバランスな状態を歪みを元にもどさねばならないということが政策にならねばならない、でもそれも簡単にはできない
それで東南海地震が津波が来ればもう東京でも一極集中だめだとなり地方分散することを決断せざるをえなくなるということを予想する人もいる
なかなか荒料理はそうした大きなことが起きないとできないからである

やはり最初の方針が間違っていたから今日の結果があるともなる
ただ豊かさのみを金になることのみを極端に求めることしかなかった
原発は金の鳴る木であり漁業組合は東電に漁業権を売り渡して贅沢な暮らしをした
事故前補償金で潤い事故後もなんら困ることがないのである
それも矛盾に満ちたものだったのである   
それは漁業だけではない、農業でも林業でもそんなものより金がとなり東電に国家権力の政府に売り渡したのかともなる
そこに価値を見出さなくなっていたからである、そもそも国土というけど東京に住んでいたら土もないのだから意識できない

意識するのはトヨタとか日産とか自動車産業で世界で売ってもうけるということが最優先にされるし政治でもそうなる
だから国土は地は血であり血肉である、そういうものを金のために売り渡したともなる
現実に空気でも土でも水でも森でも汚染されたらもう住めなくなるからである
実際は国土なくしてありえないのだがそういう意識もなくなっていたのである
車を売ることとか電気を生産することの方が最優先されていたのである、それに意義を唱える人などいなかったからである
豊かになるためには金になるのはそれしかないとなっていたからである

私は都会を嫌って田舎で文化を追求してきた、その田舎がこんなふうになるとは予想もできなかった、石が四つ離れずにある、そこに住めることこそ最も最優先することである
その住むことができなくなったらもうすべて終わりだとなる
何がなんでもその場に住めることこそ最優先なのである
それが奪われたときすべての努力は無に帰したとなってしまったのである

だからなにか修復できなくなったこの状態に茫然とする
でばどうしたらいいのかとなると自分にわからないのである
ただ何か無力感がそこに漂うだけになる、なぜなら放射能汚染というのはどうにもならないからである
一旦町でも村でも崩壊すると元に戻すことが至難になるのだとつくづく思った
そこには何もない所から始めるより困難になる
積み木のように一旦壊したらまた同じものを建てるのが嫌になるからである
ただそこに新しいものを違ったものを子供は作ろうとする
それは人間の心理なのである、復旧とは前と同じものにすることでありそれではなく復興は何か前と違ったものに前よりいいものとして復興することである

それができたのは新地町だったのである、駅で書いたが前よりずっと良くなっている、そこはやはり津波の被害だけだから復興できた放射線被害はこれはそのベースとなる土とか水とか森とか空気まで汚染したからどうにもならないものとなった
それに対処する方法がない、ただ花は放射能汚染と関係ないから花栽培はしている
後は奇妙なのだけど老人は山菜を食べているともいう、放射能など関係ないというのもわかる
いづれはガンになるしもう関係ないとなり食べている
でも若い世代が帰らないから復興できないのである

高度成長時代とかグロ-バル経済とか世界的にもゆきづまり次の時代は東京一極時代の転換も言われるようになりそういう転換期に原発事故が起きた、津波も起きた、その時もし原発事故がなかったら飯館村などは貧しくても注目される村になっていた
までいな村とかそれはこれからの人がかえって見本とすべきものでありかえってそれで人が集まるということがあったかもしれない
時代の風潮がありそれに今度は合うものとして村があり移住者すら増えていたかもしれないのである
だから原発事故は本当にあまりにも悲惨なとりかえしのつかないものとして打撃だったと思う
村は補償金で分断されて荒廃した村の土地がある、金があればいいとなるがそれにも大きな負の面がありそれがあからさまにこの辺では現れたのである 

ただこういうことは歴史でも世の中には起きてきた、金の切れ目が縁の切れ目でありそういうことを一身上で嫌というほど経験した
みんな求めるのは金だけでありみんな去った、そして二度と近くにいても合わない、絆とか盛んに言われたがそもそもそんな絆があったのかとなる、結局金の方が大事だったとなる、ここではそういうことが極端な現象となって現れたのである
この世の中でそういうことは日常的に起きているのである、だからつくづくこんな風に町でも村でも崩壊するとなると絆が何であったのかともなるのである、自然の無情、人間の無情、無常を極端なものとして経験したのである
これほど常なきものかということを経験したのである、町や村すら消失するということは想像できなかったからである

ただ冬の空には高原だからやはり一段と星が美しく輝いていたからそういう所は変わらなかった
それは救いだとなる、冬の銀河はその空にかわりなく映えていたのである 


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posted by 老鶯 at 22:26| Comment(0) | TrackBack(0) | 飯館村

2018年12月02日

冬の日の俳句と短歌 (深野のユッサから大原ー橲原ー飯館村へ―ユッサの庭は貧弱すぎる)


冬の日の俳句と短歌

(深野のユッサから大原ー橲原ー飯館村へ―ユッサの庭は貧弱すぎる)

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舞い去りぬ今日も一羽の冬の蝶

道の辺に南無阿弥陀仏木の葉散る

(深野ー大原)

深野に地元の温泉冬紅葉

集いける地元の温泉木の葉散る

大原やや大根干しぬ家古りぬ

冬紅葉水面に写し川の奥

(飯館村)

離れじや落葉に埋もれ四人石

冬日没る遠山の影刻むかな

満天に漏らさず輝く冬銀河

心澄みきらめき増ゆる冬銀河

冬銀河千、万の星秘めにけり

(真野川)

大岩のここに隠され冬の星

闇深く隠さる岩や冬の星


大原に住みにし人の家なほもありしも住まず冬の日暮れぬ

大原に眠れる人の墓あわれここに生きしと冬のくれかな

橲原の奥にし家や隠されて我が知らじかな冬の日暮れぬ


ぬばたまの世のけゆくや大倉に冬の灯二三誰が住めるかも

(大原)

病院に大原語るその人の思いはここに短き日暮る

大原や子は街に出て家継がず残れる家や冬の日暮れぬ

(飯館)

村人の豊作願ふ井戸のあれ帰らぬ人やまた年暮れぬ

庭荒れて空家となりて久しかな帰らぬ人や冬の日暮れぬ

(我が家)

姉と母待ちにしあれや亡きにしをありしと思ふ冬の夜かな

我が家に帰り来たるも一人かななぐさむ人なく冬の夜ふけぬ

我が家に家族のなしも我が家やよすがとすべし冬の夜ふけぬ

(相馬市)

五本松二本欠けしもなおありや冬田の暮れて道の駅かな




天気がいいので深野(ふこうの)から橲原渓谷を行き飯館村までトンネルを通って大倉を通り帰ってきた、橲原渓谷は通行止めが解除されていた

深野のユッサはこの辺では唯一の温泉となるけどそれが本物なのかどうかわからない
一応温泉にはなっている、でも八〇〇円は高いが温泉ならこの辺ではないのだから価値があり高いともならない
ただあそこの問題は庭は貧弱すぎるのである、それはただ石を並べただけでありがっかりする、あまりにも貧弱なのである

普通のありふれた庭より貧弱なのである、個人の庭より人が集まる場所の庭が貧弱なのはがっかりする、まず個人の庭でも目を見張るものがいくらでもある
最近は船主の人が豪華な庭を作っている、それは軽く一千万以上の庭かもしれない
石だけで相当な値段である、なぜなら見ただけでほれぼれするような巨石だからである
私は石が好きだからしげしげと他人の庭の石を見ている
それで何か写真をとってとがめられたことがある
それに比べたらユッサの庭はあまりにも貧弱である

私は今旅行すらならいい庭がある旅館とかホテルに泊まりたい、そういう宿には泊まったことがないからだ、日本の文化は庭にある、だから京都は庭を見て歩くことになるからだなぜいい庭を作らないのか?予算の関係なのか?
今の時代はハードは整備された、それでこれからの経済は感性の時代だといういう人がいる、それはハードは建物であるがそれにほどこす装飾などがソフトになる
それから実は人もソフトなのである、もてなしとかソフトだからである
そういう時代の変化がある、だから人が集まる場所であの庭はあまりにも貧弱である
私がしたいことは庭作りだった、でも私の家の庭は狭すぎてできなかった

温泉という時長野県のアルプスに近い所の岩風呂の露天風呂は貫禄があった
大きな岩でありその岩から何か本当に英気となるものがにじみでていた感じになる
残念ながら浜通りにはあのような貫禄のある温泉はない
何か岩に癒されるとかなる、そういうことは本当にあると思う

深野から大原に行き大原では私立病院で一緒だったS家の家を見た
そこには息子は住まない、街の方に家をもって住んでいるからである
一か月いて大原の話をその人はした、暇だだからその話を聞いて興味をもったのである
でもそのあとすぐ死んでしまったのである
それで今でも大原を通るとその人のことを思い出すのである

橲原渓谷の奥の方に冬紅葉が美しかった、それが水面に映っていた
そこから飯館に向かった、トンネルを歩いた、あそこは幅が狭く歩く他ない
二キロくらいあるらしいがもっと長く感じた
飯館は坂がきつくて簡単に行けない、今回もひさしぶりである

トンネルを出たら日が暮れかかっていた、かなたの山に安達太良なのか冬の日が輝き没するところだった、までい館で働いていた人は地元の人ではなかった
年配の女性の人だったが地元の人ではない、それも変だと思った
飯館村はまず一五パーセントと帰ったとか言っているけど通りは誰も住んでいない
草野ですらそうなのだからもう村が崩壊したという感じになる

途中で石が四つくらい落葉に埋もれていたので四人石と名付けたがそもそも人が住んでいなければそういう石すら活きてこない、人が住んでいて自然も活きるということがある
人が住んでいなければただの石であり名前もないとなるからだ
小高と比べると飯館村は帰った人が本当に少ない、浪江でもそうである
小高は街でも帰っている人が増え店も増えているとかある
飯館村はもともと広いからもう崩壊したという感じになる
作見の井戸でももう人が住まないと生業が消失すると死んだものとなる
なぜなら人がいないければ農業もしていなければ誰も豊作を祈るということもなくなるからだ、その井戸を見て豊作を占なったということもなくなるからだ

大倉も真っ暗だった、二三灯が見えたから誰かが住んでいるが真っ暗である
それで万葉集のぬばたまという表現がふさわしいとなった
万葉集時代にどんな明かりがあったのかとなるからだ、行燈すらない時代だからである
それでぬばたまという表現が生まれたのである、漆黒の闇である

それから我が家を目指して帰った、満天の星がきれいだった、冬の空は澄んでいるから気持ちいいとなる、夜に行くのも景色が変わるから昼に見えないものが見えるのでいい
飯館は日帰りできる、ただ坂がきついのでなかなか行けない、風が吹くと自転車では行けない、今日は風も吹かないし晴天だったから行って見た
トンネルはできても自転車では何の役にもたたなかった
横の道が狭すぎるのである

いづれにしろ家に帰っても誰もいない、それでも何か家族が待っているような気がするのは不思議である、結局それだけ一緒に長くいたせいなのである
六〇年とか子供の時から一緒にいれば人間はその存在が簡単に消えるものではなかったのである

相馬市の道の駅の五本松の二本は枯れて消えたがやはり五本松として地名が残りまだそこには二本の松があるように見えるのと同じである
そこに長くあったものは簡単には消えないのである
ただまだ三本がまだあるから五本松をイメージできる
しかし津波のように根こそぎなくなるともう何もなくなってしまうという恐怖なのであるもう誰も右田の松原を思い出せなくなる、そこには何の面影も残っていないからだ
一本松もないし何も残らないからだ、土盛った高台とか風力発電の風車とかソーラーパネルになったとき思い出しようがなくなっているからだ
そこに津波の恐ろしさがあった、根こそぎあったものが消失させられたからだ



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ユッサのこの庭が貧弱すぎる、枯山水だとしたらもっときれいな砂があったり白い小粒の石でもしきつめるとかあるからだ
狭いこともあるが狭くてももっといい庭が普通の家であるからだ

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樅の木(fir tree)ーabstract paintaing


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shadow of forest

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drizzling rain [a shower] (in late autumn and early winter).

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2018年12月01日

みちのくの北風と荒野(詩) (みちのくの場の働きは何なのか?)


みちのくの北風と荒野(詩)

(みちのくの場の働きは何なのか?)


ごうごうと北風がまた唸り吹く
木の葉が舞い散る
それは荒野の声だ
みちのくに北風がまた唸り吹く
ごうごうと唸り吹く
その時森の樹々は強く結び合う
巌はさらに威厳まして主となり
みちのくは遠く閉ざされる
みちのくにはなお荒野がある
ごうごう北風がまた唸る
乱雑と騒擾の世に疲れし者よ
都塵を離れて荒野の声を聞け!
聖なる者がここに住む
荒野にこそ神が棲むものなれば・・・・

急にごうごうと朝から北風が唸り吹いた、それはいつも聞いているものだが年年に違って聞こえるのも不思議である
何か見るにしても同じものを見ていても違って見える
年齢によって心境が変わるからだともなる
私の場合は家族がみんな死んで無常をひしひしと感じたこともあり北風は一段とすさまじいものに聞こえた

風土という時、風と土なのである
風の感じ方はその土地土地によって違う、これはなかなか旅してもわからないのだ
まず現代の旅だと車とか電車でも風は感じないからである
風がどういうふうに吹いてくるのか感じることがむずかしいのだ
ここでは海から吹いてくる東風と山から吹いてくる西風と北風に分かれる、でも会津のような山に囲まれたところではどういう風が吹くのかわからないのである

例えばみちのくというとき一つの大きな地域であり今でもそうである、ここには荒野がまだある、みちのくとは日本では辺境であったから荒野がある
ただ仙台辺りになると繁華になるから荒野を感じなくなる
荒野とか自然がないところに宗教もなかった
だから東京とには宗教はありえない、カルト宗教とかなるとそれは宗教ではない、労働組合と経済活動団体である、宗教の神秘性とか聖なるものとか皆無である
どろどろとした人間の欲望がそこに噴き出している

宗教がどうして生まれたのか?
釈迦は洞窟にこもり一神教は砂漠で生まれたことを見ればかる
荒野から生まれたのである、モーゼはシナイ山に上り神の啓示を聞いた、山伏とかの山岳宗教だってそうである
何かいかがわしいように見えても自然の中で六根清浄を求めたのである
今の宗教には全くそういうものがない、ただ組合活動であり経済活動であり世俗の欲を増大させている場だから変なのである

みちのくはまだ荒野があり何か日本でも異質な場になっていた
つまり権力闘争とあまり関係しなかった
だからみちのくは常に敗者が逃れて敗者の場所にもなっていた
強力な権力を持ちえなかったのである
だがみちのくという場は荒野がありそこで西では確かに繁栄したが堕落した
宗教の場も金儲けの場になった、観光の場とか堕落した場なのである

日本をみるとやはりみちのくと北海道は異質だと思う
沖縄も外国になるがみちのくと北海道は感覚的に何か自然でも違っている
北海道は空気まで違うと感じる、原自然がある場なのである
だからみちのくと北海道は原生の心を養成する場なのである
ただ経済的には苦しいということがありそこが問題であり原発事故が起きた

それは間違っていた、みちのくという場はそうした場ではない
原発などは誘致すべきではなかった、本来の場は自然の中で荒野の中で野生の声を神の声を聞く場所だったのである
もちろんあまりにも戦前のように貧乏だと精神も醸成されない
ほどほどのところで質素に荒野の声を聞く場所としてあるべきだったのである

結局なぜこれほど人は働かねばならないのか?
それは余分なもの余計なものを作りすぎているのである
そのために人手不足となる、別に食堂とかで働く人がいないとしたら食堂でもあればいいがそんなになくても間に合うということもある
余計なものがありすぎるとそれだけ労働力が必要になる
オリンピックなどでも本来はするべきではない
なぜならそのためにまた人手が必要であり人手不足になるからだ
なんでも経済成長が果たしていいのかどうか?
それも見直される時が来たのである
それは多数の声とはならないからどうにもならないとはなる

風で電車が遅れる季節に


風で電車が遅れる季節に

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電車が風で遅れるようになった、それでとまどう人がいる
すると若い女性は遅れたと言ってどうこうとか教えていたら
私は知っているからいいわとか待っている人の前で言う
前にもそういう人はいた、地元の人はなれているから知っている
またスマホでも見て遅れが連絡されているのもわかる人がいる
でもみんなそうではない

駅に来た若い女性でもわからない人がいた
それは何か電車がどうなっているのか見にきたのかもしれない
それで説明したらわかったとなる
地元の人でもわからない人はいるし説明するとわかる人もいる

だから自分は知っているからというのは勝手なのである
その人は他の人を考えないのである
こういうふうにコミ二ケーションできない人はいる
何か話しかけても答えない人はいる
今はそういう人が多くなっているのかもしれない

若い人で遠くから来た人でも話せる人は話せる
その人は仕事できたけど津波のことを知りたかった
海は近いですかと聞いてきたからすぐ近くの高架橋に上れば見えると教えた
海は松原がなくなくり直接見えるようになったからである
その人は長崎の人だった、若いけどはきはきして受け答えが良かった

人にもいろいろだからこれはどうにもならない、別に聞かれなければ答える必要がない
でも遅れてみんなとまどうことがありそれを聞いた時、知っているからいいわとかいうのは身勝手なのである、他の人のことを考えていないのである
そこでまた私自身がここで何をしているのかということを認められていないからだともなる

つまり自分はJRからも客から認められないということがある、ボランティアには何かそういうことがある、ただ組織的にnpoとかの一員とかでやれば違っている
そういう人は報酬をちょんともらっているからだ
ただそうなると定期的に仕事をしないとだめになるからできない

いづれにしろこれからは風で必ず遅れる季節である
これがこれからの鉄道利用と駅の一番の問題なのである
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タグ:電車の遅れ