2023年06月06日

誰も予測できない景気とか株 (なぜ日本の株が上がっているのか?)


誰も予測できない景気とか株

(なぜ日本の株が上がっているのか?)


経済学者の予測が驚くほどハズレる根本理由

●金融資本主義は実体経済と乖離している

地銀とか銀行でも株のことなどまったくの素人である。
証券取引所で働いていたと言うがその人は何も知らない
ではどうし奨めたかというと分散投資しろということであった。だからカナダの国債とかリードとかアメリカの株とかに投資したのである。しかしその理由も適当なものだったのである。ただ分散投資が安全だということでそうしただけである。
つまりABCDとあればそれぞれにランダムに理由もなく投資したのである。そのうちの一つくらい当たるだろうということであった。実際に一つは当たったのである。
それも円安になってそうなったのである。その円安にしてもドルが110円から120円になったくらいだった。今の円安には本当に驚く。こんなに安くなったらアメリカに投資していたらその利益は相当なものになっていた。だから投資して大儲けした人がいることは確かである
なぜ今これほど株が日本で上がっているのだろうか。その理由もわからないのである。日本の景気がとても良くなったとは誰も思わないからである。ただインバウンドで海外からの旅行者が戻ってきたということで観光面では景気が良いとなることはわかる
でも経済の基本となる輸出するものが日本にあるかとなるとトヨタの車くらいだろう。だから今なぜこんなに株が上がる上がるのだろうか。
その理由がわからない。アメリカだって景気が良いようには見えない中国だって行き詰まっている。そしてウクライナ戦争は終わりすそれも世界経済に影響しているからとても景気がいいとこ見えないのである。

ただファンドが日本の予算の規模の2倍の金を持っていて投資している。その莫大な金が日本に投資されているのかもしれない。つまり金融資本主義になれば実体経済から離れてファンドのようなものが右から左に金を動かして巨額のもうけを出す。
それは実体経済とは関係ないのである。だから今日本の株が上がっているのは日本の経済の実体を反映していないのである。もし高度成長時代のような時だったら実体経済が良いからみんな金回りがよくなっていた。その裏付けは日本の電気製品とかが外国で売れたからである。だがそれは理由が明確なのである。

でも今回の日本の株の上がっているのはなぜなのかその理由がわからない。ただ金融資本主義によるファンドなどの莫大な金が日本に流入して株が上がった。そうとしか見えないのである。
だからこれで日本語景気が良くなり経済が回復するとは誰も観ていない。みんな物価が上がり窮して生活しているからである。
実体経済が反映してないからこそまた急激に株でも暴落する。それはまるで天災のようにやってくる。その時日本の予算の2倍もあるファンドのお金が動き日本からそのお金が入ってこない時別な国に行く時日本株はまた急落するのである。

●資本主義はグローバル化は限界

つまり金融資本主義になれば巨額の金が右から左にAからBへCからDへそしてまたDからえAと移動して株の上り下がりがあるだけになる。。実体経済は何にも変わっていないのである。
それでもう資本主義経済は行き詰まっている。金余りになってその金を投資するばかなくなっているからである。一時は中国が投資する場となりアメリカでも日本でもその恩恵はあった。
とてもそれが一段落するともう中国が発展せず成長せず行き詰まる。そして今や世界的に経済も行き詰まり成長は止まっている。
インドが中国のようになるとは限らないみたいである。
いずれにしろ資本主義が金融資本主義になり投資する先がなくなる時行き詰まり終わりとなる。銀行でも金を集めてもそれを投資して利益を上げることができない。投資する先が無いのである。

だからなぜ銀行に利子もつかないのに貯金しているかわからないのである。
銀行でも金を集めても投資して儲けることができない。だから利子もつけることができない。
それなら銀行は貸金庫なのかとも見る。安全に金を守る金庫なのかともみる。
つまり投資先がなくなるとき資本主義も終わりとなるのかもしれない。それでただ銀行の役割もなくなる。それでも何か最近ステイブルコインとかが世界の通貨となるという人もいる。その時そのコインを管理するのは大銀行でありそれも日本だったら三つくらいあればいいとしている。後の地銀などはいらないとしている。
それは銀行が融資して儲ける先が無くなっているからである。
銀行の役割はただそうしてコインを管理するものであり投資して融資して儲けて預金者に利子お与えるものではなくなったのである。
そもそも学者でも銀行員でも証券会社員でも株の予測などできないのである

なぜ経済予測でも良くなるという人と悪くなるという人はいるのか。いったいどちらが正しいのか予測として当たるのかというと当たるも八卦当たらぬも八卦なのである。
だからグローバル経済というのは誰も予測できないし規模が大きすぎて何かようとしてもごく一部分のお見て言っているだけなのである。規模が巨大過ぎて誰もわからないのである。

ただわかったようなことを言っているだけなのである。学者ですらそうなのだから誰も予測できない。それでグローバル経済は爆博打場になりギャンブル場なのである。
ただその胴元がいて影の支配者でありそれがファンドなどになるのかもしれない。それがわからないから常に陰謀論になって終わっているのである。いかさまだとしても規模が大きすぎて実態が見えないからである。そして突然株でも急激に上がったり下がったり最悪は暴落するのである。
それももしかしたら日本の予算の2倍ものお金を持っているファンドが操作しているのであり実体経済とは関係ないともなる。
だからそもそも今や資本主義というのは限界にきている。投資先がなくなるということは資本主義にとっては致命的になるからである。いくら金を銀行に集めても投資先がないのである。

●ドルではない通貨が模索されている

だからもう銀行はいらないとなる。そして銀行員は失業するとなる。ただスティーブルコインとかでは大銀行が役割があり維持されるという
そもそも世界基軸通貨とかは覇権国が支配されるための支配世界を支配するためのものだったのである。イギリスが七つの海を支配していたときはポンドは世界基軸通貨だった。それで今でもエジプトポンドは使われているのである。介護
次にドルが世界基軸通貨となったのである。そこにアメリカのファンドが金を動く巨額のお金を動かして巨利を得ているそれは実体経済とは関係ない金融資本主義でありある意味でギャンブルで儲けているとなる。
だから今やドルでもロシアが使わないとか中国が人民元を基軸通貨にするとかサウジアラビアでも石油の代金をドル以外で取引しようとしている。アメリカではサウジアラビアにドルで石油を買わせるために軍事的にサウジアラビアを守るとしてドルで支払うことを守ったのである。

つまりアメリカの強さは軍事力があってドルを世界の基軸通貨として守ったということである。
でもそもそもそういうことに反発する人が国があって当然だとなる。アメリカだけが世界の富をドルを投資して得るということは不公平だからである。
そのためにもう世界通貨をどうしたらいいのかということでステーブルコインとかが使われるようになるとか模索する時代になったのである。
とにかくグローバル経済資本主義が金融資本主義とかなり実体経済から離れてただ右から左に巨額の金を移動させて暴利を得ていることはギャンブルで設けていると同じなのである。
それに反発するロシアでも中国でもサウジアラビアでもブラジルでも当然だとなる。別にその国々がいいとか味方して言っているのではない。公平なグローバル経済だったら貿易だったら世界中の人が認めるのである。そうでないからこそドルにドルが世界基軸通貨になっていることに反発することは当然なのである。

●突然暴落する株−そのからくり

そしてもうグローバル経済は規模が大きすぎて制御できないから突然天災のように暴落したり恐慌に陥る。それを避けることができないのである。だからこそスティーブルコインとか別なシステムが必要になってきたのである。ただそれも途上でありどうなるかわ予測できないとなる。

とにかく誰も株でも経済予測はできないこれだけは知っておくべきである。それは株の専門家でもできない。ウクライナ戦争のようなことは突然起こったりそれよりも金融資本主義になると実体経済から離れて金が右から左へAからBからCからDへまたDからAへ移動して株も上がったり下がったりしているからである。
だからなぜ日本の株がこんなに今上がっているのかその理由は何なのかそれはとても日本は景気がよくなったからだとは思えないのである。

とするとまた株は暴落する。それを見込んでいないと大損するとなる。それよりそんなギャンブル場にエネルギーを貴重な時間を費やすのは無駄だとなる。ただそこでは金を動かし金を得たいいうだけでありそれで何かを作り達成するということもないのである。要するに金融資本主義になればそこは博打場でありギャンブル場なのである。だからそもそも世界的投資家とかは詐欺師なのかともみる。
そこで巨利を得るのはファンドとかまたは陰謀論になればディープステートとかになるのである。だからこういう経済はむしろ破綻するのは当然だとなる。そんなギャンブル場に参加すること自体ただ金を奪われるだけだと思うからである。だからこそもう資本主義は限界であり終わりになると言われるのである
posted by 天華 at 22:14| Comment(0) | TrackBack(0) | 経済社会労働問題

2023年06月05日

昭和30年頃の暮らし (テレビの影響と蒸気機関車から新幹線の変化)


昭和30年頃の暮らし

(テレビの影響と蒸気機関車から新幹線の変化)

salary.jpg

月給が5000円くらいだと店を開く金を5万を得るのに相当に苦労した。それで借りたことを公務員だった姉は常に語っていた
つまりその時5万は大金だったのである、銀行でも貸してくれなかったのである


●昭和30年の公務員の月給が5000円−馬鹿高いテレビの値段

昭和30年で国家公務員の月給が5000円くらいなのには驚いた。そしてテレビの値段が12万なのである。それも信じられないとなる。ただテレビは出たときは個々人の家庭でわ買っていない
理髪店とか電器店とか人の集まるところでテレビを置いていた。
だからそこに人が集まったのである。個々人の家ではテレビが買えなかったことはこの値段でわかる。
それにしても月給が5000円ぐらいでテレビが12万とかするのは驚きである。役30倍の値段になる。他にも冷蔵庫でも高い。それらは簡単に買えるものではなかった。

なぜならその頃冷蔵庫も洗濯機も無い。テレビももちろんない。
裏に小川が堀がありそこで洗濯板で洗濯していた。燃料は炭でありトイレは外にあり新聞紙がトイレットペーパーだった。電機は裸電球一つだった。
認知症になった家族の一人が洗濯機が使いなくなり洗濯板でごしごし洗っていた。機械の操作ができなくても昔していたことはできるからしていたとなる。
何かその生活は江戸時代とたいして変わらなかったのである。だから江戸時代のことはリアルにイメージできたともなる。
この値段表を見ればテレビはバカ高いものだった。だから個々人では買えないものだった。テレビに映ることが大きな驚きであった

●テレビの影響は甚大だった

だからテレビの影響はどれだけ大きいものだったかわかる。テレビに出ただけでその人がどんな人であれ名前が売れて国会議員にも東京都知事すらなれたのである。青島とかいう人はそうだった。俺は選挙運動なっかしないと宣言して当選していたのである。その人の中身などどうでも良かったのである。テレビに出ただけで名前が売れて選挙運動しなくても芸能人が当選した時代だったのである。それだけテレビの影響力は大きい物だったのである。テレビによって相撲中継がありプロ野球の放送はありスポーツが娯楽となったのである
それをテレビがないときどこ比べればわかる。江戸時代だったら相撲でも演劇でもドサ回りとか地方回って金を稼ぐ他なかったからである。テレビは家にいながらにして楽しめるからそれだけ普及したのである。

ニュースにしても蒸気機関車の時代がありフイルムを鉄道で運んでいたのである。映画館がありそのニュースを映していたのである。だから一日とか2日とかさらに遅れたものとして映していた。それも本番の映画のドラマの前にニュースを放映していたのである。だからその時動画によってニュースを知るということは難しかった。それで毎日配られる新聞がニュースのニュースを伝えていたのである。新聞の時代でもあった。。その紙も貴重だからトイレットペーパーとしても他にもいろいろ包装などに使われていたのである。
私の家では店を始めてその包装に商品を入れる袋に新聞紙を使っていたのである。その時バラ売りとか量り売りがでありそのために袋を必要としていた。それで母が新聞紙でその袋を作っていたのである。そののりはご飯をつぶして作っていたかもしれない。あらゆるモノが無い時代だったからである。

●繁盛した小さな小売店

でも店は繁盛した。私の子供の時はまるで丁稚だった。常に配達をさせられていたからである。私の父が第一双葉の酒店で丁稚をしていたのである。だから私にそろばんを習わせたのである。その頃みんなそろばんを習っていたのである。
でも今になればコンピューターでありそろばんは何の役にも立たなかった。それは常に時代の変化としてあるある。将来の変化時代の変化があり社会のどうなってゆくかわからないのである。だから先を見るということが大事になる。
日本では30年失われた時代がありITなど先を見ることができなかったので今日の停滞と衰退がある
今ならコンピューターのプログラムを学ぶことは必須となりそれはできないものは給料も安くなるのである。
つまり親の言いなりになることは危険なのである。なぜなら親の時代と全く違った時代を生きるようにもなるからである。
江戸時代なら変化が少ない。だからそろばんでも通用していた
今はめまぐるしく技術でもなんでも変わるから親の言うとうりにしていると時代遅れになってしまうのである。
親の奨めるものは時代遅れにとってなって役に立たなくなるということがある。

●蒸気機関車から一気に新幹線の時代に

ただ私の家はでは昭和33年ごろテレビを買った。それは当時ではかなり贅沢だった。それは父親は病気になって家族が買ってやったのである。そのテレビでも病気になりまともに見ずに楽しめずに死んだのである。
また刺身が食えるようになったが食いたくないと言って死んだのである。病気でそうなったのである。だから高度成長時代の華やかな時を経験せずに死んだのである。
要するに戦後は今より活気があり希望に満ちていてみんな懸命に働き高度成長を迎えたのである。その時東京オリンピックがあった。日本が戦争の敗北から立ち直った象徴として世界に示すためにあった。。その時まだ蒸気機関車であり原町の高校に通っていたのである。だからそれも信じられないとなる。このように時代は常に変化しているのである。

1964−昭和39年ー東海道新幹線開業

これがわからないのは確かに高校の時蒸気機関車で通っていた
それが新幹線開業の時だったとなる。そんなに早く開業したのかと驚く、常磐線では蒸気機関車だったからである。
鉄道も急速に電化して新幹線が走ることになったことに驚くのである。

●毎年一万賃金が上がていた

s30age2.jpg

今や昭和すら昔として語られるようになった。昭和時代を懐かしく思う人が50代とかでいる。ただ昭和時代でも高度成長時代を経験した人としない人は違っている。
平成時代が30年ありそれが高度成長時代が終わり失われた30年となったからである。それで今30歳あたりの人は高度成長時代とかバブルの時代を経験していない。するとただ日本が低迷して貧困化した時代しか知らないとなるのである。
だから公務員の月給でも毎年1万ずつ上がっていたし労働組合でも賃上げ要求毎年のようにして必ず賃金が上がっていたのである。日本だけが世界で30年とかも賃金が上がっていないのである。その失われた30年の歳月は取り戻せない。 30年は相当に長い年月だったのである。

それだけ長いのに政府でも何もできず手を打たず国民でも何か惰性のようにして過ごして30年のたちまちすぎてしまったのである。ただ私の場合は高度成長とかバブルとか関係していない
会社にも勤めていないしただ自分の家にこもり好きなことをして旅をしていただけだとなる。だからその時代を生きたともならない。ただそれでも高度成長時代があり経済的に余裕ができてそういうこともできたとなるのである。

●少子高齢化衰退縮小する日本

こうして過去を振り返ると何か不思議になる。その生きていた時代のことも子供の時でありいろいろわからないことがあった。
でも今になるとその時代が今と相当に違っている。その雰囲気も違っている。近くの神社に子供はワンサと集まって遊んでいた。今は一人二人の兄弟がちょっと遊んでいるの見かけるだけである。何か全体的に停滞している活気のない世界に見えるのである。増えるのは老人と病人だけだとなる。。そして空き家が増大してゆく。もぬけの殻のよう空き家は点在しているのである。

時代の雰囲気としては少子高齢化でありどうしても活気がないのである。またその頃田植えとかの時期になれば村総出で田植えしたり稲刈りしたりしていたのである。小学校でも農休みとかあり農業が中心だからそうなったのである。その時機械を使っていないから人力でみんな働いていたから活気があったとなる。それは山村でもやはり子供や若い人でも多かったから活気があったのである。確かに貧乏ではあったがは活気はあったのである。

ここのyoutubeでその頃病気している人が少なかったと言っている。医者は往診していた。それも車がなく自転車とかで往診していた。大きな病院は少なかった。でも病気になる人はいたけど元気な人が多かったというとき病気になって早く死んでいたからそう感じたのかもしれない。
でも若者も子供も多く老人とか病人は少なかったとなる。だからこそ全体的に活気があったとなる。医療費とか福祉にかかる負担も少なかったとなる。やはり子供や若者や健康な人が多ければ当然社会に活気が出る。福祉でも医療費でもそんなに負担がなかったということである。

でも今はこれから少子高齢化というのは長く続く。それで日本の社会全体が停滞してさらに衰退してゆく。社会自体も空き家が増大して縮小してゆく。そういう下り坂の社会になってゆく
社会的には成熟した落ち着いた社会になってゆくかもしれない。どうしても高度成長のような時代は来ない。それは一時の幸運であり栄華だっともなる。
posted by 天華 at 20:00| Comment(0) | TrackBack(0) | 歴史(相馬郷土史など)

2023年06月04日

現代文明はもはや一個の人間が認識する範囲を越えている (狭い範囲で自然の中で認識しアイデンティティ化することが文化をうむ)


現代文明はもはや一個の人間が認識する範囲を越えている

(狭い範囲で自然の中で認識しアイデンティティ化することが文化をうむ)

●テレビでは世界を認識できない

現代の問題とは何か。それは人間の認識の限界を超えて世界が拡大したことである。人間の認識は肌感覚で知る世界である。
人間形成にしてもとても現代のような世界では広すぎて世界を認識できない。人間は今や無数の部品とかしてそこにつながりを見出せない。グローバル化したからといって人間の認識が拡大して進化したとも言えない。肌感覚で知りえたものではないからそこに錯覚が生じているのである。

それでイラク戦争の時油まみれの海鳥がテレビい映されたその周りは別に油がで汚されていたわけでなかったのである。
その海鳥だけを取り出して作られた映像でありそれで世界中の人がイラクはフセインはひどいやつだとされたのである。それはアメリカの一方的な横暴だったのである。
つまりテレビと言う小さな箱からの映像では本当のこと真実は映し出されないし知り得ないのである。それで映像によるやらせがテレビを通じて行われてきたのである。
だからマスコミをとうして世界を見る日本でもそこで本当の真実を認識できるかとなればできないのである。

●人間の認識する範囲は狭い

そもそも人間の認識は限られたものでありそこに必ず人間の認識を超えたものがあり問題が起きる。 孫悟空のように地球の果てまで言ったと思ったらそこはお釈迦様の手のひらのうちだったのである。つまり人間は地球とか宇宙とかとても肌感覚で認識できない。その広さとか認識できない。

世界のことでも地理でもあまりにも広大で理解できない。日本では砂漠もないし草原もないするとそもそもがとても大陸を理解できないとなるのである。
そこにどうしても肌感覚で理解できないものがあり誤解が生まれるのである。世界地図をいくら見ても世界がわかることなどありえないのである。

人間は認識できる世界は実は狭い。そのその範囲は私の住んでいる相馬藩くらいなのかもしれない。でもそこにも海があり山があり全体を把握することは認識することは難しいのである。それで福島県となるとその地理を認識することが難しい。なぜなら浜通りだと阿武隈高原み遮られて中通りとか会津の方は全く高い山でも見えないからである

地理の一体感は常に見えることによって認識する。
常に見えなければそれを認識することは難しいのである。
福島県は広いからそれで一体感を感じないのである。
むしろ山からでも牡鹿半島が身近に大きく見えたことに驚いた。
すると宮城県の方が地理的一体感があり身近なものとしてある
交通でも仙台市が鉄道で通じているから宮城県の方が生活でも関わりが深くなっている。

●なぜに日本では小国という地名が多いのか

とにかく人間の認識は日々の生活で見える範囲が認識する
見えなければその存在すらなく一体感もないのである。
日本は山が多いから山に遮られて分断されている。
だから地理的には日本は統一することが難しいようにも見えた。
外国だと大陸だと広大な土地があり山もない平原が森林でも続く。そういう世界では大帝国が生まれやすい。遮る物は無いから平面を平原を遊牧民が移動すればそれによって既にジンギスカンのような大帝国はおのずと生まれたのである。

日本の場合なぜ無数に小国という地名が多いのか。それは山に遮られて人間の行き来が少なく小さな世界に閉ざされて自給自足していたからだともなる。だからその小さな国が一つの独立した国のようになっていて小国という地名が多いと思うなる。
とにかく人間の認識には限界がある。アメリカのグランドキャニオンやモンゴルの遮ることのない広大な平原は砂漠など日本ではとても肌感覚で実感できない世界なのである。

ただ人間はその精神を育むとしたら基本的にはやはり小さな世界でも村のような社会でも何かそこに共同性がありアイデンティティ化するものがありそこで認識を深め社会でも世界を知るということになる。
基本的にそういう場がない時人間はアイデンティティ化できず不安定なものになる。それで現代文明はグローバル化しても世界を認識できたとはならなかったのである。
むしろ人間はもともとは狭い範囲で認識して外界でも自然でも社会でも一体化していた。それができなくなったとき人間の精神でも心でも分裂状態になってしまったのである。なぜなら東京のようなところでどうしてそこで世界を認識し一体化できるのか。その東京を見れば何か既に核分裂状態にあるのではないかとぴカートが言ったがそれも説明しなくても東京のような大都会を見れば一目瞭然だとなる。

●言葉で表現できな世界の異常性

そこではもう言葉も通じない。言葉でそもそも表現できないので摩天楼のようなビルを見上げて人間は粒のようになってただその巨大なものを見上げている蟻のようになっているのである。
そこに人間がどのように繋がっているかもわからない。核分裂状態になっているから核兵器も生まれたと言っても言っているのも分かる。
つまりもう人間の認識を遥かに超えた社会になっていて精神がそこで作用することができなくなっている。
それはすでに言葉で表現できないということで分かるのである。何かすでに言葉で表現できないものが無制限に拡張して隙間もなく埋め尽くされている。そこはカオスとなりその大都会時代がすでに核分裂状態にある。
だからその異常なカオスから分裂状態からヒットラーがナチスがまだオームのようなカルト教団や団地から生まれた選挙宗教となった創価などが生まれた。それは現代文明の病理的現象として生まれたものであれ本来の宗教とは何の関係もないのである。
でも怖いのはその病理的現象が大衆ファシズムとなりナチスとなってゆく怖さがある。だから今や人間は人間として存在しえない。そのために天才とか特別優れた人間はアウトサイダーとなり文明を拒否するようになったのである。

●動物とも一体化したアイデンティティ化したエジプト文明

文明というときエジプト文明だとあらゆる動物が神聖化して人間と一体化した。それはアニミズムになるがそれでもなぜそうなったかというと動物が自然の中で生きている姿を見てそれが神のように見えたのである。鳥でも牛でも神格化されたのは自然の中でそれを常に見ていた結果自然に調和しているから神格化されたのである。
それは確かにアニミズムなのだが偶像崇拝にもなるが現代人ではそういうことはありえないということ自体また人間がいかに自然から遊離したものになったかであるお示しているのである。

大都会に居ればまずそうして自然の中に調和している動物であれ植物であれ見ることがないからである。そして機械化してロボットを作り自然に生きる動物は駆逐されたのである。
動物が生きているということはやはり自然があるからであり日本に熊がなお生きているということは山に熊を生かす自然がなおあるということである。だから動物が絶滅することは自然も消えてしまうということにもなる。
だから依然として日本に山に熊が生息していることは自然がまだ残っているからだともなる。ヨーロッパあたりでは熊がいたとしても居なくなったからである。それだけ自然が破壊されたことをそれは物語っているのである

●教育する場の共同体の喪失

そしてなぜ今現代文明の中で人間形成することが難しいのか。
それはそういう場が消失したからである。学校があるとしてもそこは何か人間を教育するというよりは膨大な知識をつめこめさせて競争させて選別する。そこには何か人間を作るとかはない。
ただ膨大な知識を詰め込む場所でありそれもそこで何か連関的に知識を習得する場ではない。それがないのはそもそもは教育の基盤である村のような共同社会がなくなったからである。
子供はそうした狭い世界で世界を認識し育つからである。その狭い世界でもグローバル化したり広域化したりすると相互のつながりを認識できなくなる。そこでどうしても分裂状態になるのである。

それでなぜ江戸時代に明治維新でも多くの偉人を産んだのかというとそれはそれぞれの地域の藩内で藩校とかで教育されたからかもしれない。それは狭い範囲でも具体的にその土地とかその人間とか社会とか歴史でも共同性があり認識されていた。おのずとその社会自体が教育の場であり誰か立派な先生がいなくても教育されていたと思う
そういう場が明治以降はなくなり学校中心の教育になり人間形成がうまくできなくなったともなる。ただ明治以降でもやはり農業中心の世界だから地方でも田舎でも江戸時代からの連続性があり共同性があり人間はそういう場があり教育されていたともなる。

ただ戦争の時は村の中心の神社は戦争の勝利を祈るものとなった。テレビドラマでで八幡神社の誓いで8人くらいの同士となり特攻隊になったのである。
だから太平洋戦争でも村々の小さな神社がもともと共同隊として継続していたからそうなったともなる。
ただそれは国家によって悪しく利用されたのである。もともとは村々の神社は五穀豊穣を祈るものでありそういう戦争のために祈る場所でわなかったからである。
ただ神社とはやはり日本の共同社会のなかから生まれたものであった。それは農業社会だからありえたのである。今大都会で小さないやしろなどがあっても存在感が亡くなったのは農業社会でわなくなったからである

●拡張、拡散。拡大の世界の終焉ーclose,deep,rootがキーワードに
closedeep.jpg

今必要なのはグローバル化のように拡張拡大拡散することではない。そこで確かに外国の物産は入ってきても物と心は分離している。貿易は必要でもそれで人間は一体化して協力するとはならないのである。
むしろ物と物だけの関係だったら何かあれば対立して戦争にもなるのである。人間の認識できる範囲はまた相互に繋がれる範囲は狭いのである。認識できる範囲が人間には限界があるからである。人間の正常な精神の育成できるのは狭い場所でなのである。
そこで精神のアイデンティティ化できて自然と調和した精神が育成されるのである。そこでは物と心も一体となるのであるもちろん貿易は必要である。でも今のようなグローバル化経済は金融経済などは人間の精神からはかけ離れたものとなりもう制御もできない頃突然天災のように恐慌になっ崩壊するクラッシュするのである

そもそもグローバル化したからといって人間が教育され育成されることはなかった。むしろ逆に狭い範囲でこそ人間は正常に認識して人間も形成され精神も形成されたのである。
いくらグローバル化したとしても物質的には交流しても人間の精神は認識は限界があり形成されない。
だからこれからの世界は逆に江戸時代とか中世の閉ざされた世界へ回帰する伴う。文化にしてもフレンツェルのような5万くらいの都市でもあれだけの芸術と文化創造はあった。そこにはそれだけのものを作り出す基盤があったとなる。
でもグローバル化したからといってそうした文化は生まれていないのである。返って食べ物でも飲み物でもコカコーラとかマグドナルドとかその国独自の料理が生まれなかったのである。ただ寿司などは世界的になり日本の文化が広まった永遠なる。
とにかくこれからの世界は拡大拡張拡散することではない

キーワードとしてはclose.deep.rootになる

close identified place
deep identified place
steady rooted place

こういう志向になる。精神の充実が形成が優先される世界になる。これは木のようそれぞれの土地に根を張る植物的志向だとなる。
大航海時代から世界は拡張拡散拡大になったがそれも限界にきてもう投資でも開拓する場所もなくなったのである。これ以上増産拡張拡大していけば世界の自然環境も破壊されるからである。
それは世界の人も気づき始めたのである。それで持続可能社会(SDGs)を志向するようになったのである。

2023年06月03日

相馬藩内の市町村の特徴−花から見る (地理と風土が基本にあり飯館村も一体であった)


相馬藩内の市町村の特徴−花から見る

(地理と風土が基本にあり飯館村も一体であった)

somaflowerpic.jpg

natugikuharamachicity.jpg

市町村の特徴はどうして作られるのか。それはまず地理とか地勢とか風土を基本にして形成される。それを基にして歴史が形成され個性が作られる。相馬藩というとき規模が小さい、六万石だから小さい、でも地形的には変化に富んでいる。
海があり山がありと地形的に変化がある。海の民山の民の国だとなる。それは日本が海彦山彦の神話があるごとくそういう国柄だからである。だから飯館村が相馬藩だったの一見離れてみえるが地理的に一体なのである。なぜなら南相馬に主な川が三つあるとして真野川は飯館村の大倉の真野ダムに通じている、その川は佐須を源流としている新田川は草野の飯館村の中心地を源流としている。

こうして飯館村地理的に離れて別世界になっているようで海側の南相馬市と一体なのである。だから放射性物質でもフレコンバッグが破れて流れ出しいたというときそれが川を通じて流れてくるから騒いだのである。真野ダム蓄積した放射性物質も真野川を通じて流れ出してくる。だから飯館村と南相馬市は一体なのである。それはすでに鎌倉時代でも鹿島区の鎌倉から来た岩松氏の領地になっていたことでも歴史的にも一体化していたのである
相馬藩になっても山中郷としてあり野馬追にも出ていたのである

ただ飯館村が海側と違った高地にあり温度でも5度も違うということはそこは亜寒帯であり植生も違っている。
なぜなら海側は浜通りは温暖だからである。それで照葉樹林帯の南限の地としてマルハシャリンバイが海老地区に指定されていた
また多珂神社の近くにスダシイ神社があるのも南国的な照葉樹林帯に属するか自生したとなる
そして大和王権が鹿島区辺りまで支配地とした。それで万葉集の真野の草原の歌は気候の境界線であり草原でない、かやはらを萱を歌ったものではない、大和王権の支配地として認定された歌でもあった。そこに大きな歴史的意味があったのである。

ともかくその土地のことを肌で知ることはむずかしい、その土地を知ることはまず地理と風土を知る。そこから始まる。
ところがそれは地図を見てもわからないのである。なぜなら地図を見てもなかなか土地の高低がわからない、モンゴルでは海抜が1000メートルある。飯館村の海抜が平均500メートルくらいだから倍の標高さがある。飯館村で平地の海側より温度が5度も違っている
そのために飯館村では冷害があり飢饉となり苦しんだ歴史がある。米がとれなかったからである。
ただ夏は高原地帯となり涼しいのである。

monngoruweather.jpg

このようにモンゴルは冬は非常に寒く厳しい地帯なのである。
日本人が北海道の人がテントで一年間暮らして一回り痩せたと言っていた。ということは栄養がとれずにやせたとなる
服でも分厚い服を着ているのは冬が寒いからである。
マイナス30度くらいになるから厳しい風土なのである。

世界になると地理でも風土でも知ることは簡単にできない、地図を見ただけではわからない、それが近くでもそうなのである。
海側と山側では特に飯館村は相当に風土が違っているのである

そして最近飯館村の森に銀蘭が咲いていることを教えられた。
その花は森の中に入らないと見れないしあいの沢の管理人は教えないと言っていた。採ってゆく人がいるからだと言っていた
確かにこの花は森の中でしか見れないとしたらめずらしいとなる
白色の花が暗い林内では銀色に見えるというときこの花の神秘は森の中で見るとき感じるものなのである。
それで飯館村の花は銀蘭にした。でも一回も見ていないのだからこの花が適当なのか問題になる。でも森の中に咲いているということで飯館村にふさわしいとなる。
それから原町の花をヒマワリにしていたがこれは外国産であり自生したものではない、それで小川町の川の土手に咲いている夏菊がふさわしいとみて原町の花は夏菊にした
相馬市は城下町であり藤の花があっていた。鹿島区は草深いとなり藪甘草が合っていると見た。小高区は最初に相馬氏が城を築いた所であり枝垂桜がさいていたのでふさわしと見た

ただ南相馬市というとき範囲が広くなったので町とか村の特徴を消したことはある、つまり南相馬市より原町市に方がふさわしかったからである。原町というのは長い間なじんだものであり南相馬市というのはただ相馬市の南としかならなかったからである。
それが無味乾燥にしたとはなる。相馬市は江戸時代の城下町でも原町市は常磐線の機関区となり別な発展をして作られた市だったからである。

確かに県の花とかある、でもさらに市町村ごとの花もある、しかしそれもふさわしいかどうか風土性と地理と歴史から感じるものだからである。それは地元の人でもなかなか気づかないとなる
つまり文化的なものはこうして風土とか地理とか歴史が複合的に関係していて気づきにくいし地元の人でも発見できないことがある。それだけ相馬藩であれ一地域のことでも知るのはむずかしいのである。それでもアイデンティティ化することはその土地と一体化することでありそこから文化が産まれるのである
そして豊かになれば時間にも余裕が生まれると文化が産まれる。
私が指摘したもの新たに地元で発見したものである。
その土地の魅力は実際はまだ発見されていない、未だに知らないことがあり感じないことがあるからである。
地元の人でもそうなのだから外から来る人が余計にわからないのである。相馬市と原町の相違がわからなとなる。これは旅してもそうなのである。表面的にしか理解できない感じないのである。
それで芭蕉がみちのくを旅してその風土性と歴史性を実感したことに感嘆するのである。

五月雨の降り残してや金色堂

五月雨とは自然の変わらぬ気候の巡りである。その大自然の五月雨にも朽ちず残された金色堂を歴史と自然の中で見事にとらえたのである。そこに悠久の歴史を感じまた自然の猛威ともなる五月雨を感じるのである
自然と風土と歴史性がこの短い句に凝縮されたのである
そのようにみちくの自然と風土と歴史性が一体化したことで
不朽のものともなったのである。
それはそれぞれの地域で風土と歴史性が一体化することアイデンティティ化すうることが文化なのである
だからcaltureとはcultivate(耕す)なのである。その土地のことはそこに長年住んでいる人でも発見されないことがある。
それだけ時間がかかるということである。
この歴史性というときそれを活かす時文化になる。飯館村までの塩の道が落葉に埋もれ忘れられている、でもそこをたどれば昔の人の苦労を偲ぶことができる。

それで栃窪にまんじゅうだけを売っている店がある。するとそれを助のまんじゅうとかすれば歴史を感じることになる
助の観音とは栃窪から山の道を行き休んだ場所だからである
白石に足軽饅頭というのを売っているからである。その饅頭を食べて力をつけたということである。その謂れを知り昔を偲ぶとなる、ただ腹を満たすだけではないものとなるのである
ただこの風土性とか歴史性とかを感じるのはむづかしいのである
地理でも車で一気に飯館村に行くと何かその高さとか塩の道でも苦労して塩を運んだことを偲べないのである。そこに返って便利になっていろいろなことを人間は感じなくなったともなる

とても奥の細道の芭蕉が感じたようなことは感じない、時代のせいもあるにしても余りにも便利になりすぎて感じなくなったのである。新幹線で二時間ちょっとくらいで来たら感じないのである。だから意外と今は旅でも浅薄な旅となり印象でも深いものを感じずに通り過ぎてゆくだけだともなっているのである。





posted by 天華 at 19:19| Comment(0) | TrackBack(0) | 飯館村

2023年06月02日

長野県中野市の警官銃殺事件の深層 (銃を持つこと警察で許可したのは親が市議会議長だったから?)

長野県中野市の警官銃殺事件の深層

(銃を持つこと警察で許可したのは親が市議会議長だったから?)


yutubewada1.jpg

長野立てこもり事件】精神科医:和田秀樹としての見解


ここの解説が興味深かった。なぜ銃を持つ許可が降りたのか。その理由が父親が市会議員の議長であり土地の有力者だった。それで父親の威光で許可されたと言っている
それも確かにありうると思った。警察とかは弱い者には厳しいのである。でも権力も持つ者には忖度する。地域でも田舎でも有力者がいればその有力者に媚びる。
警察自体があるある意味で銃なのである。暴力装置であり強制力を持つ最大の権力なのである。それは自衛隊とは違って常に日常生活で庶民にその暴力をもっと暴力装置で強制する力を持っているのである。

でも警察の問題は大きな権力には弱い従うとなる。三権分立でも警察の力はやはり時の権力者に弱いのである。
そのことは庶民も衆知している。庶民でも警察を一番恐れているからである。身近に警官には直接触れるからである。交通事故でもそうだし日常的に警官に関わるからである。そして脛に傷を持たない人間はいない。そのために江戸時代の目明しのように警官は嫌われる存在なのである。

でもその土地の有力者とか権力者となると警察自体が媚びて大目に見ることがある。それで今回でもなぜ銃を持たせたのかをここで指摘している。それはやはり父親が市議会の議長であり有力者でありそのためだったのかということで納得する。
警察は巨大な権力には弱いし忖度してそこに犯罪があっても見逃すともなる。それがカルト教団とか分からないにしても創価などでも常に警察が強制的権力を持っているので何か犯罪があっても表沙汰にしないようにしているともされる。
つまりこうした大きい権力には警察でも弱いとなる。
だからこそ逆に人は権力を利権を得たいとなる。

そもそも人間の問題として権力というのはそれ自体が大きい問題を抱えている。権力というとき暴力装置としての機関だけではなく金も権力を持つ最大のものである。
これによって金によって人を支配することは容易だからである。
だから貨幣には時の土地の支配者たる王の像が刻まれている、貨幣でも紙幣でもそれを発行する力を持っているのはその土地の国家の支配者だからである。
ドルが世界基軸通貨となっているときアメリカが世界を支配していたとなるからである。
だから三権分立として暴力装置である警察とかでも行政から独立した権力を持たせるようにした。
つまりいかに権力を操作する権力を制御する権力を暴走させないそのために三権分立が生まれたのである。

権力は暴走する

銃は暴発する

それは歴史が証明している。ナチスであれ日本の戦争であれ権力が暴走することを止めることができなかったからである。
だから権力をどうしたら制御して大きな災いを産まないようにするのかが大問題なのである。
そして警察を利用する操作する背後の大きな権力が問題になる。だからこそ警察でも地域で働くにしても土地の有力者の方が権力者であり忖度し銃でも許可したとなる。だから警察にも許可を与えたものにも責任があったともされる。
つまり市議会の議長が父親でありその父親がいてその子も大目にみられたのである。ともかく人間は利益を得たい必死になっている。得する地位や職に就きたいとなる。それで公務員は得する立場にあり羨ましがられるということがある。それは親は公務員だったので分かるのである。

権力というのは銃とも似ているのである。銃を持つことは権力を持つことである。武器を持つことになるからである。
だから革命というとき共産主義でも武力革命であり暴力が肯定されていたのである。創価学会などでもそこで言われるのは指示されるのはいかに権力を取ることかである。
それしか頭には無い。その権力を奪うためには民主主義社会では選挙になるから日日選挙活動でありそのために毎日祈っているのである。すべては数であり一票を得るために日々祈り活動しているのである。これも政教分離にが違反しているのだが自民党が公明党と一体化しているとき法律も無効になるのである。

要するに権力を持てば法律など関係なく思いのままにできるということである。日々の生活でも人々は権力を得たいと思うのは権力を得れば思いのままにできるということを知っているからである。それは頭では無い日々の生活の中で具体的に知っているからである。権力を得れば利権を得ていい暮らしができるとなっているからそれは法律に違反してようが権力をもっているものには逆らえないからそこで大きい災いがナチスのように生まれてくる。
権力が巨大化すればもう誰も止めることはできない。戦争にもなり何百万人も死ぬことにもなるのである。
カルト教団は創価などでも頭にあるのは権力を得たいということしかない。それでなぜ創価が東京の選挙区にこだわり自民党ともめるのか、それは東京都が認可権をもっているからだともなる。

原則として、宗教法人の認可は、自治体によります。つまり、その宗教の本拠地がある自治体です。
東京にあるなら、東京都です。

ここで警察の予算にも口だしているというのもそうなる。でもそれを制御しないとナチスのよなり大きな災いとなるのである
いずれにしろここでは銃の問題を指摘したがそれは大きくは武器の問題であり権力の問題でもあった。だから父親が市議会の議長であり土地の有力者であったことが警察でも忖度して危険な人物に銃を与えたということである
結果的に警察で土地の有力者に忖度してその災いが警察自体に及んだともなる。これもカルマだったとなる。権力者でもその上の権力者には媚びるとなった。
・・・に刃物だったのである。それは核兵器とか原発にもいえたのである。ヒットラーでもプーチンでも独裁者にそれを許可して使わせたらどうなるのか、その恐怖が具体的にウクライナ戦争で今でもありうること知ったからである。
この事件で背景がいろいろあるにしても銃の問題があったということこの観点から指摘したことは大事である

posted by 天華 at 11:36| Comment(0) | TrackBack(0) | 時事問題の深層

栃窪の塩の道から八木沢峠の麓の家 (牡鹿半島が見えたー青葉風、夏つばめ、夏鶯、、、)


栃窪の塩の道から八木沢峠の麓の家

(牡鹿半島が見えたー青葉風、夏つばめ、夏鶯、、、)

soltroad.jpg

ojikasea.jpg


牡鹿半島と松川浦が見える、大きく見えたのは驚き

syclingai1.jpg


AIで作った画像

mountainhouse.jpg


八木沢峠の麓の家ーここから山に登る道がある

route6tutuji.jpg

五六羽の夏鶯の競う声
大原や黒揚羽三羽夏あざみ
青葉風軽快に走るサイクル車
駐車場車あまたや夏つばめ
喫茶店夏の空にや昼の月
つつじ赤く車の絶えじ六号線

登り来て青葉の山の間海見えて牡鹿半島連なり見ゆる
山囲み家の見えじも誰が住むやここに暮らして何思ふらむ

栃窪から塩の道を登ってゆくと道は崩壊していた。でもそこから男鹿牡鹿半島がはっきり見えた。こんなところから見えるのかと発見だった、意外と浜通りは海を通じて地理的に一体感がある
まず見えなとしたら地理的一体感が感じないからである。
浜通りは阿武隈山脈にさえぎられて吾妻山でも見えないからである、ましてや会津の山は全く見えないからそこは同じ福島県でも別世界なのである。
ただ蔵王は南相馬市でも鹿島区からでもはっきり見えるから山形県と一体感が感じるともなる

塩の道を上って行って助の観音からさらに登ると崖崩れがあり飯館村には行けなかった。それで引き返して上萱(うえがや)を通り八木沢峠の下の道に出た。そこで一軒の家がありそこには人は住んでいない、でも車があったから全く放置はされていない、そこは小高い山に囲まれていて不思議な空間だった。家が見えない、ただ山に閉ざされた空間だった。
その前は湿地帯になり黄菖蒲があまた咲いていた。もともと日本はこうして湿地帯だったところが多い。だから菖蒲田とかの地名がある。
そもそもこうした辺鄙な所に人が住んだのか、そこでも暮らしがなりったったからだろう。その一軒の家から山の中への道があり結構長い道を上ると行きずまりになっていた。

その道にも人の手で作られた石垣があり人がこの道を利用していた。何か木材とかを利用していて道を作っていた。
炭焼きなどでもしていたとなる。なにかしら生業がないと暮らせないからである。
ともかく人間は住む場所によって気持ちでも変わる、家も見えない山に囲まれたところで住んでいたらどんな気持ちになるのだろうかと思う。街が全く見えないからである,隠棲の場所としてはいいとなる。でも不便になるから車がないと生活できない、その家には車があるから人が住んでいるようにみえる。全くの空家とは違う、ただ空家化した所も多い、とにかくあんな不便な場所でも人は住んでいtえ暮らしていけたのである
そういう場所は日本でもいたるところにある、やはり炭焼きとかがあり暮らしがなり立っていたことが大きい、その時山は活きていたのである。

そこから下って来て大原にでてイオンに出て休んだ
昨日は陽射しも強くなく快適だった。五月の気候は気持ちいい時であったが最近暑くなりすぎたのである。陽射しが強いと熱中症になるので出れなくなった

2023年05月31日

松川浦から飯館村への塩の道(詩)

松川浦から飯館村への塩の道(詩)


塩の道去年(こぞ)の落葉踏み
助の観音あわれ
塩を運ぶ昔の道
塩を待つ山の民
塩を運ぶ海の民
その長き道のり
その塩の貴重さ
塩を待ちわびる人
塩を苦労して運ぶ人
人と人は塩を通じて
ここに結ばれぬ
今その道は忘れられ
山の森に埋もれぬ
しかしその道を歩むとき
積る落葉を踏みて
助の観音を助け泊まる
昔の苦労を偲びぬ

今日は天気が良いので栃窪から塩の道を行った。土地を途中崖道が崩れて通れない所があった。でも自転車ではその脇を通ることができた。
でもさらに行くと土砂崩れのようになって道を遮りそこは通ることができなかった。ただ工事しているから通れるようにはなる
それで引き返して上萱の道を八木沢峠の方に下った。上萱(うえがや)に残っていた茅葺の家はなくなっていた。何か津波でも海側の家がなくなったりしている。ここもそうである。

塩の道は栃窪から沢の道を行く、下を沢になり道も細いから危険だった。そこは随分長く行っていない、難所であり馬で行くのも危険だった、だからこそ牛転がしとかの地名がついた、長野県の日本海から松本市へ行く塩の道は長い、そこで塩を運んだのは牛だったのである。それで牛つなぎ石とか残っている。
松川浦から塩を馬で運びこの助の観音で泊まることがあった
一日では飯館村まで運べなかったのである。

いずれにしろ道が細く沢伝いとか山中の道を上るのだから難儀した。つまり人間の営みとして常に運ぶことがあり苦労したとなる
日本では木材が豊富でも山の斜面とから切り出し運ぶので苦労した、馬車で運んでいたから苦労した。外国では平地に延々と森があり運ぶには楽だとなる。
日本に森林鉄道が張りめぐらせたのは木材と石材とか運ぶためだった。

いずれにしろ塩は貴重なものであった。サラリーというときそれは塩の意味だった。ローマ帝国の兵士に塩を配ったことが起源となっている。
またアフリカで塩と黄金が等価で交換されたのもそれだけ塩が貴重だったからである。地の塩たれというのもそのためである。
塩なしで人間は生活できない。縄文時代でもやはり塩が必要であり海岸に暮らしていた人は塩は取ることができた。
でも山となると塩を手に入れることは容易なことではない
だからこの辺で早い時期から塩を手に入れるため山の民が海の方にやってきた。その道が大原から八木沢峠を越える道でありまた栃窪からゆく塩の道である。

もう一つは松川浦から宇多川を登ってよく道である。一番利用されたのは松川浦から栃窪を通って行く塩の道である。そのの道は安曇族が飯館村まで行った道でもあった
なぜなら八木沢峠のヤギとは安曇族の八木氏のことだからである。
また山津見神社が栃窪にあり塩の道を登ってゆくと山の中にも山津見神社がr安曇族は松川浦から宇多川を登って途中栃窪から塩の道を登った道と大原から八木沢峠を登って飯館村に到達したのである


春の塩の道を行く―写真あり

助の観音の内部の絵馬―馬と人が休んでいる絵

二か所崩落があり自転車でも通れなかった

brokenroad1.jpg




posted by 天華 at 20:35| Comment(0) | TrackBack(0) | 飯館村

2023年05月30日

金融資本主義化グローバル経済の終わり (実体経済と乖離した市場は賭博場ともなった)


金融資本主義化グローバル経済の終わり

(実体経済と乖離した市場は賭博場ともなった)

金融資本主義を貫いて働いている人って、なんかつるんとした人が多いんです。なんかそれぞれのクセとか、趣味趣向とか、そういうものがなくて、つるんとしている感じ。その人は、多分100万円の絵よりも1億円の絵は100倍美しいっていうふうに思う。「俺はこんな絵が好きなんだ」とかいう趣味嗜好の引っ掛かりがなくて、つるんとした人が多い。

資本主義のこれから−その2 金融資本主義の本質は「手段の目的化」。

●実体経済から離れた金融資本主義

なぜグローバル経済というのはわからないのか。それは規模があまりにも巨大化したのである。
それはとても日々の生活からかけ離れたものとなっている。
エコノミーの語源が家計だということでもわかる。
とするとその規模はとてつもないものとなる。日々の生活だと買い物でも100円とか1000円とかである。そして100円でも損したとかなるのは実感なのである。グローバル経済というのは株式でもファンドは日本の国の予算の2倍のお金を動かしているという。そのファンドの会社の人は千人くらいだと言う。その人たちはプライベートジェット持っていて世界を駆け巡っている。
そんな天文学的な金を持って株式市場わ動かす

だからなぜ日本が物価高で苦しんでいるのに株だけが上がってくるのだろうか。どこで日本が景気がいいのいいのだろうか。
それがまるで理解できないのである。つまり実体経済と金が動くだけの金融資本主義があれただ金融資本主義によって金が巨額の金がAからBへまたCへ移動してるだけなのかもしれない。金余りであり金の行く先が投資する場がなくて移動している。アメリカが国債などで債務不履行(デフォルト)が迫ったので日本へ一時的にファンドの金が移動したのかもしれない。ファンドの金が日本の国の二倍もあるとしたらその金が動いたらその影響も大きのである

●貨幣や紙幣は支配する道具

いずれにしろグローバル経済になると天文学的な金になりとても日々買い物して100円とか千円感覚で実感する経済とはまるで違ったものになる。ただそうして金を動かして儲ける人たちがいる、その人たちは世界で千人くらいだとしている
でもそういう人たちでもやはり背後に政府とかの権力お援護がないと力を持てないだろう。そこにアメリカの軍事力がありドルが世界の基軸通貨となった。
でもアメリカだけが得をするドル決済に反対する国がロシアでも中国でもあって不思議ではない、もうけを独り占めするのかとなるからである。

要するに世界のギャンブル場になったのが現代のグローバル経済でありその賭博場で儲けているのが千人くらいのファンド会社の人間なのかもしれない、その人たちは何ら生産に物つくりをしているわけでもない、ただ賭博場で金を動かしているだけだとなる。
それは八百長だとなりロシアでも中国でもグローバルサウスでも対抗するようになったのは当然だとなる
結局金というのはそもそも支配する強力な道具なのである。

それで七つの海を支配した大英帝国がポンドを世界基軸通貨としたのでありドルもまたアメリカが世界帝国となり支配するからドルが基軸通貨となったのである。
貨幣というのは必ず皇帝とか王様の肖像が刻まれていた。つまり皇帝が王様がその地を国を支配するというシルシだったのである。
それでオスマン帝国のテレビドラマを見ていてエジプトに派遣された地方長官が勝手に自分の肖像刻んだ貨幣を発行したのである。そのためにその地方長官は殺害されてしまったのである。これからわかるように貨幣でも紙幣でもそれは支配する道具としても機能していたのである。だからそもそもグローバル経済でも公正な市場などないのである。

そして今や資本主義自体が行き詰まっている。なぜただ巨額の金を右から左へと移すだけで儲けているのか。それは実体経済とは関係ないのである。これまでは何か経済というとき実体経済であり江戸時代でも何万石とか米のとれる量が多いで経済は計れていた。だから実感としてわかりやすいものだったのである。

●マネーゲームと化した株式市場

それでなぜ今金融証券銀行などが採算が取れなくなったのか。実体経済とから離れて証券とか債券とか金とかが動いている。でも実体経済とは違ったものでありマネーゲームのようになっている。それで銀行で働くような人も何か働く生きがいというかは喪失してしまった。
それで銀行をやめて農業をするようになった人もいたのである。

今や証券とか銀行に勤める人は胡散臭い人に見られてしまっているのである
投資にしても直接ものづくりをしている人に買う人は投資する。
クラウドファンディングが生まれて銀行はの役割は喪失しつつあるのである。銀行もメディアであり仲介するものであるということがあり直接作る人にものづくりする人に投資する方法はインターネットで生まれたとき銀行の役割もなくなるともなる

金融関係で働く人が何かこのように実際の物つくりとか農業とかでえる労働の充実感を得られない、金を得ても実感として何か作り上げるとか育てるとかしないので架空のバーチャルな世界で数字の世界で抽象的な世界で生きているからつるんとした個性のない顔になっている。何か実生活で手ごたえのあることしていないからそんな顔になったのかとなる
つまり人間でも人格でも作るのは仕事になる。それで職人気質とか生まれたのである。
いずれにしろグローバル経済とかはとても実体経済から離れているから乖離しているからそこに起きる問題が大きいのである。
そして資本主義が金融資本主義のようになってゆくときモラルもう消失して資本主義は終わりになるのかまた変容して新たな資本主義になるのかそういう一つの大きな時代の区切りにきているのである

fundmoney.jpg




posted by 天華 at 21:21| Comment(0) | TrackBack(0) | 経済社会労働問題

2023年05月29日

桐の花、老鶯、黄菖蒲(梅雨になるのか) 桐の花、老鶯、黄菖蒲(梅雨になるのか)


桐の花、老鶯、黄菖蒲(梅雨になるのか)

kirihananew.jpg


watepoolkirione.jpg


tanboshoubunew.jpg

tanbonew.jpg

霧雨や残り咲きひそか桐の花
霧雨や裏道ひそか桐の花
水溜まり映りてひそか桐の花
家近く老鶯鳴くや雨しとと
草深く老鶯鳴くや籠るかな


裏の道
残り咲く
一輪ひそか
桐の花
この道行くを
誰か知る
雨しとと
水溜まりに
その花映りぬ
幽かに
その花の映りて消えぬ
あるともなしに
穢れし手で触れるなかれ
そは水に映り
神の見ていつしか消えぬ
そは神の鏡に映りて消えぬ
そを神に記憶されしも・・・・

The Road Behind
Remaining blooms
A single flower blooms in secret
Paulownia flower
Who knows where this road goes
Who knows
Rain drizzling
in a puddle
Reflected in the flowers
its flowers are reflected in the puddle of water and disappear
without being there
Do not touch it with unclean hands.
It is reflected in the water
God sees it and it will disappear someday
You are reflected in God's mirror and you will disappear
God remembers you: ・・・・


今年は梅雨になるのが早いのか、裏の道をいつも通る。今日もしとしとと雨であり霧雨でもある。強くは降らないから干ばつににもなっていた。でもこれから梅雨になれば長く降るから解消するだろう。また台風も来ているから大雨になるかもしれない。

桐の花は何かひっそりと咲いている。その花は何か自分の性分と合っている。どうしても人付き合いが苦手だからである。
もう一つは人というのは何か必ず汚れたもの醜いものがあり接したくないのである。そのために私は30年間も引きこもっていたのである。それで社会性がなくなり問題が起きた。
小人閑居して不善をなすとなったのである。隠者となるのはよほど優れた人でないとなれない。そこで長野県のようなところで田舎で凶悪な殺人事件がお引きこもりだった人が起こした

ともかく花にもいろいろありその人に合った花があることは確かである。桐の花は私の性分に合っている。
また草深く藪の中に老鶯が鳴いている。いかにも田舎らしい。でも隣の原町だと5万くらいの人口になるからこことはまた違っている。それで夏菊が原町に合っていると見た。
黄色が田植えしたあと水に映っていた。そこに暮らしがあり花も生きてくるのである。だから原発事故で草ぼうぼうとなったとき荒涼となってしまったのである

やはり自然でも人間が住んだ時人間の営みがありそれが自然の中で調和して生きてくる。暮らしがなければそこは生きてこないのである。だから日本からそう今人口が減り縮小して行く時限界集落とかが維持できなくなる。
そこから暮らしがなくなり何か荒れ果てた感じになるのである
また空き家も増えたことで荒れ果てたものとなる
隣の家も空き家となり広い庭何もなくただ積まれた石が残っている。でも冬の日その庭に洗濯物を干していたときその石も人間と一体となり生きていたのである。

冬の日に洗濯物干し大き石

つまり石がありその石も人間の生活と一体化して生きていたのである。それが空き家となった時全体の死んだようになってしまったのである。
田植えをが終わりそこに黄色の菖蒲が写っている。そこに暮らしがあり菖蒲も生きているのである。

写真はAIで作られたものと写真の合成である。

2023年05月28日

若者は病み老人は心身を病む爛熟文明 (一連の若い人の凶悪事件は何を意味しているのか)


若者は病み老人は心身を病む爛熟文明

(一連の若い人の凶悪事件は何を意味しているのか)

●カルト宗教も現代の文明の病理現象として生まれた

犯罪が時代を象徴することがある、ただ人間の業としてカルマとして変わらないものがある
男女関係とか基本的に変わらないものがありそのために同じような事件が起き続けているのである。
ただ犯罪も時代に影響される。現代だと複雑な社会であり昔の江戸時代のような村社会とは違って犯罪もまた複雑化する
なかなか簡単に理解できない事件や犯罪が起きてくる。

統一教会のカルト宗教に歪められた家族の一人が安倍首相を恨んで殺害したのもカルト宗教が増えたために起きた事件である。それも時代を象徴している。
カルト宗教もまた現代の文明の負の部分として生まれたものであり本来の宗教とは何の関係もない。創価などでもその発祥を見れば団地の宗教と言われ地方から出てきた人は仲間意識を持つために生まれた宗教であり組織である。
宗教だとそもそもが自然と一体化して心を清めるとかがあった。
天台宗というのは先にあり天の台というごとく山岳宗教だったのである。。だから山にこもり修業したのが始まりである。
山伏などもその系譜にあるのである。
だから大都会の団地から生まれたような宗教はま全く宗教的要素を欠いているのである。

●一連の若者が起した事件の原因は何なのか?

何か最近の一連の若者の起こした事件は政治的要素より経済的要素より現代文明社会のなかから起きた事件かもしれない。
個々人の問題もあるがやはり時代の社会の歪みとして犯罪が生まれる。統一教会のカルト問題から発したのも阿部前首相の事件もそうである。
その次に岸田首相を狙ったてテロも何か明確な政治的意図があったとも見えない。むしろ個人的なものとして個人的な不満が岸田首相に向けられたのかもしれない。何か公憤ではなく私憤だったとなる。自分の鬱憤をはらすために
起こした事件であり政治的意図があったとも見えないのである。

猟銃で警官を二人も殺した事件も驚いたがこの人は恵まれた家族に育ったのにこんな恐ろしい事件を起こしたことが理解できない、別に引きこもりでも百万人いる時代であり家族にめぐまれたのだからそこで生活できていたからである。ただ何か認められないということで回りに対して敵対的感情をもったらしい
でも高校時代野球部で活躍したとか問題児はなかった。
でももともと社交性が無いとかで陰の性格だったのかもしれない

この性格の人は人付き合いが苦手なのである。それは私自身がそうだからわかる
回りとうまくコミニケションできなかった。陰の性格の人は社会で生きることが困難になる。引きこもりになりやすいのである。
もう一つは大学を中退したということは挫折したということである。必ず何らかで人間は挫折を経験する。若いときは挫折を経験する。私自身もそうだった。まず学校とか集団生活には馴染めなかった。そして大学出ても就職もせず家族に恵まれて引きこもってしまったのである。
でも人間は挫折する経験は必要だった。何か打ちのめされるそして返ってそこで謙虚になるのである。だから挫折することは若いときは返って必要なのである。もし若い時から成功したりしたら高い地位についたりしたらその人は高慢な人となってしまうのである。だから挫折は悪いことではない。
そして別に家族に恵まれているのだから生活にも困らないのだから引きこもりでも良かったのかもしれない。どうしても陰の性格だと社交性がなく周りからよく見られないからである。

今日のニュースでは家に来る女性から話もしないで一人でいると言われたことに気にしていた、母親がフラワーアレンジメントの先生をしていて女性が来ていたからそうなった
そいうことは何か社会で言われる。何でも付き合いがありしゃべらないとか酒を飲まないとかになると変わった奴だとされるのである。無口でもそうである。自分自身が引きこもりだからほとんど付き合ないし沈黙していた。そのために山とか石とかと一体化したのである。何故なら自然は沈黙しているから自然に通じるには沈黙の修行が必要なのである。それが寺とかで座禅すらならいい、社会ではそれができないのである。
でももし花に興味があったらなんらか話はできたとなう。そもそも猟銃を持つような人が引きこもりなのかという疑問もある
でも社会性がないことも問題なのである。

●小人閑居して不善を成す―引きこもりの危険

これが一連の若い人の事件に通じているし引きこもりもそうなるから危険なのである。つまりこれからもこうした事件は起きやすいのである。
ともかく若いときは本当に危機の時代である。何かしら必ず問題を起こす犯罪でも起こしやすいのである。この場合大学を中退としたとしたとしても家で暮らすことができたのだからどういうことなのかなかなか理解できない。
ただ全般的に現代文明の社会の影響はありまた若い時に挫折がありそれが社会にむかって犯罪を起こすということはあった。
でも一方で引きこもりがこれだけ多いということはすでにこれは個々人の問題ではなく社会どう大きく言えば文明の問題だともなるのである。

それで天才的な人は文明批判になったのであるニーチェとかヘンリーミラーとか上野霄里(うえのしょうり )とが強烈に文明を糾弾したのである
ただ引きこもりはそうした特別優れた人ではない。普通の人でありそれが事件を起こしているのである。でも何か共通性はあるとなる。私自身は天才でもなんでもないむしろ劣っている人間だからである。でも引きこもって自然と一体化することから俳句や短歌や詩歌を追求してきたのである。これも異常だったが家族に恵まれてそうなったのであるそれが出来たのである。だから私は家族に感謝しているのである死んでも感謝し続けているのである。

●精神病の医者が語る本に賛同

本を整理していてこの一連の事件でそれにふさわしい本があった。

精神に病理性が発現しやすくなるのは十代中頃からである
この辺りから生命的エネルギーがやあ低く何らかの不器用さをあわせもった少年が次第に競争社会の中で追い詰められてゆく
たいていはひきこもることで当面の困難を回避する。

そもそも殺意とは誰でも少年の中で日常的に懐いているのである
かつて精神病者や病的な心理に基づく犯罪は多く家庭の中にとどまっていた。それが世に向かうようになったのである。
その理由の一つとして家族の力が弱くなったことである。例えば弱々しい母は一人息子に振り回され外への攻撃が向かうの阻止できなくなったおそうしできなくなったようなことが起こる

文明はたいてい外敵の侵入を持って最終的崩壊に至るものであるが。その前におーいなる爛熟がありそれにより弱体化が進む。
爛熟こそが人間を弱くするのである。特に若者に強い依存心をもたらすか無力化させられるのではなかろうか。世紀の節目、文明のの爛熟の中にこの国の衰退を予感するのは私だけではあるまい
素朴に生きる人が残る―遠山高史

いずれにしろ現代社会は文明は病んでいる。それは若い人でもそうだし高齢化社会になり老人も肉体を病んでいるだけではない精神も病んでいる。そしてそうした病んだ人がこれだけ多いとなるともう健全な社会が維持できるのかとなる。確かに若い人はエネルギーがあるから凶悪事件でも起こす。でもこれだけ老人が多いというとき社会自体が老人病人社会にもなってしまう。そんな社会がもう維持できるのだろうか。つまりもう文明社会は病的な社会であり素朴に生きる人が生き残るというものではない。もう老いも若きも病んでいるのである
もう内部から文明社会は疲弊して滅んでゆくのかとも思う。それは世界的に共通しているのである。文明の進歩が果たして人間を幸福にしたかというとそうともならなかったのである。いくら技術が進歩してもプラスの面はあってもまたマイナスの面も大きくなったのである。人間は得るものがあれば失うものが必ずあるということである
posted by 天華 at 13:35| Comment(0) | TrackBack(0) | 時事問題の深層

2023年05月27日

人間が最後に欲しいものは何か それは健康である―金で健康は買えなくなる


人間が最後に欲しいものは何か

それは健康である―金で健康は買えなくなる


人間は生まれたとき手を握りしめている。何かを握ろうとしている。何かをその手で握りしめ得ようとしている
死んだら手を開け放つ、何か得ようとしてしないで開け放つという、とにかく人間は何かを得ようとして握りしめようとして生まれてくる
でも死ぬときはただ何か得ようとするのではなく開け放ち死んでゆく

人間がこの世に生まれることは何かを得るためである。その得ようとするものはいろいろある。人間の欲望は限りないからである

しかし最後に人間は得たいものは何なのか?

最近でも回りに老人だけが増えてくる、それも病人が多いのである。その中には金もない老人もいる、そのため医者通いであり必ずレントゲン写真とかとると何万とかかかる、その医療費が余りに増大するので負担になり極端になると老人は集団自殺しろとかなる。それはその負担が下に若い人の世代もふたんすることになるからである。

そして問題なのはいくら治療しても老人の場合直らないということもある。延命はできても老化が病気に関係しているから直らないのである。ただ死ぬまでに相当な治療費がかかるのである
でも病気そのものは直らないのである。そこに老人の場合絶望がある。要するに死ぬまでの期間を長くすることはできる。でも全快する、完治することはないのである。その間に相当な治療費がかかるのである。その負担も大きいのである。

人間は何かを得ようとして手を握ろうとして生まれてくる。でも老人になり病気になり得たいものは何なのかーそれは健康だったとなる。その健康はいくら金を出しても得られないのである
その時最高の価値は健康になってしまうのである。
もう年で仕事ができなくて悔しいとか、病気になり歩くこともままならないとかそんな人ばかり増えてくる
子供は近所に一人二人くうらいしかいない、ただ増えてくるのは老人でありそれも病気になった老人なのである。

これが少子高齢化の現実なのである。老人にとって金があればいい、でももはや金で健康は得られないのである。あとは死ぬだけだとなる。その時この世に望みは希望はなくなる、ただ来世が神の国に行くことが望みとなるのである。
それでも余生があり人間は病気なっても生きていく、でも病気は多少回復しても死に向かっているのである。

そうなると人は今世に希望を託すことはできない、来世が神の国へゆくこと願う、何かを得たいと励んできた働いてきたでも今や老人になり病気になったら得られない、ただ今これまでしてきたことを語り自慢したり記憶したものに生きることになる
いずれにしろ百歳まで生きるとしてもその前にたいがい病気になる人が多いことが高齢化社会の問題なのである。

2023年05月26日

本が整理できないー本は何なのか (電子化されると本でも相対化してみる)

本が整理できないー本は何なのか

(電子化されると本でも相対化してみる)

「真 実 」 あ る い は本 来 の 「価 値 」が 否 定
隠 蔽 さ れ て 全 く別 の もの(モ ノ)が そ う した
真 実 や 価 値 を も っ もの と み な さ れ る と い う,
取 り違 え や 誤 認,ず れ を 示 す 用 語 」

小川, さやか. 書評 フェティシズム研究(第1巻)フェティシズム論の系譜と展望

●本が貴重だった時代

本が何かというと本は紙でありそれは物体なのである。でも本に価値あるのは本という物体ではないのである。そこに文章となって書かれたものに価値のある。
でも紙として物体化したときそのものを愛するフェティシズムは生まれる。何かものだと茶碗がでもそのものを使用したり触ったりして愛することにもなる。本でもそれが物体化したとき触ったりして愛することになる。そのものに愛着が生まれるのである。そこが何か本に対して錯覚しているのである。
だから今電子本がある。文章を電子化すると本というものはなくなり物体でわなくなる。でもそれもやはり紙に書くわけではないが文章なのである。それでその文章をやはり読んで利用しているのである。

でもなぜか電子で読む文章と電子本と本の相違は何なのか。それが明確に理解できないのである。長年それも歴史的に2000年とか本というものがあれ親しんできたから電子化した文章というのが何かもう一つなじめない理解しにくいものとなっている。
そしてなぜか本には重みがあり本自体に価値がある。例えばヨーロッパの中世になると修道院で写本がありその写本一冊作るのに大変な苦労をしていた。するとその写本自体が相当に価値あるものとなっていたのである。そもそも庶民が本を手にするということは長い間なかった。本を手にすることができたのは聖職者とか僧侶とか貴族とか一部の恵まれた人だけだったのである。
だから本というものは何か黄金とは違っても財産にもなっていたのである。その後も本はやはり財産であり知識というのは本から得られていたのである。
それでなぜかローマ帝国だと実に立派な図書館がすでに建てられていたのである。そこには本があれ知識がそこに集積されていたのである。でもその図書館が石造りの立派なのにはには驚いたのである。

●本と電子本の相違

とにかく知識は本から得られることが第一だった。でもだから本というのは貴重なものだったのである。また紙に書かれたということで紙自体が希少なものでありそこに書かれたということで本は今と違って相当に価値あるものだったのである。
でも文字になるとでもネット化して電子化して文章で伝えられるようになると本は相対化して見られるようになった。
本を一冊出す人はすでに選ばれた人であり知識人ともされていた。本は簡単に出せない。本を一冊出す人は社会に認められた人だったのである。本を作ってもも出版するとなると出版社がかかわり書店にも置くからなかなか本自体を流通させることは難しかったのである。
つまり本を出せる人は特権的な人だったのである。
本を作るにも本を流通させるにもコストがかかり過ぎていたのである。それは新聞でも同じである。新聞も紙に書くから本とも似ている。でも本よりは軽いものとしてみられていたのである。それで子供の時は新聞紙がトイレで使ったり風呂の焚き付けにされていたのである。それは紙に書くからそうなっていたのである

これで本の価値は本来はその物体化した紙にあるのではなくそこに書かれた文章にある。でも文章というのは文字から成り立っている。ということはそもそもは文字に価値があり文字を発明したことによって本が生まれた。その価値の基は文字にあったのである。人間が文字を発明したことによって本が生まれたのである。
でも文字は物体ではないのである。何かそこに茶碗であれ皿であれ人形であれ石であれ家であれそれは物ではないのである。。それは写真でもそうである。現実にあるものを写したものだからである。でも写真もまたフィルムにするとそのフィルム化した写真を愛着するようにもなる。
でも電子化したものは何か愛するということフェティシズム二はならないのである。そこに本と電子化されたものの相違があるのである。

●本を関連付けて利用することがむずかしい

また本は一冊一冊になっていて完結している。だから本を理解することは全体を読みそこから部分を読まないと理解できない。
でも全体を読まなくても数行を読んでもやはり理解すれば価値あるものとなる。でも違うのは本は一冊としてありその一冊に価値がある。しかし人間はその一冊を全体を読んで理解するしようとするとかなり困難になりとうして全体を読んでいないともなる。
そこでこれまで買った本をいろいろパラパラとめくって部分的に読んでみたらつくづく買ったとしても読んだとしても忘れているしまるで初めて読んだように思えるのも不思議である。
それだけ人間は忘れやすいのである。いろいろなことが起きても次々に新しいことが起こり過去のことは忘れられてゆくのである。そこに確かに住んでいた人がいても死んでしまうとたちまちに忘れられてしまうのである。

それで今私が読んでいる本でも作者はすでに死んでいる人も結構いるのである。するとその人の残したものは本だったとなる。それしかその人を知る方法はなくなっているともなる。それで最後に自叙伝を残す人がいる。金持ちだと何百万かけても本を作ったりする。本はそれだけ庶民にとっては価値あるものとなっていた。私が本を出したよ作ったよとなれば自慢できたのである。
今なら本自体はアマゾンとかで一冊から作れる。たいして費用もかからないのである。でも本を流通させることは難しい。それでいくら本を作っても出版は書店にで回ることは簡単にできなかったのである
今になると本に出して本にして流通させるよりインターネットでプログであれ簡単に自分の創作したもの即座に出せる。ただ読まれることは至難である

では本にしたものは優れたものかと言えば今はそうともいえない。別にプログであれ何であれyoutubeであれ電子化したものがにも優れたものはある。
でもこれまでは本に知識が蓄積されていたからその本を頼る他なかったのである。それで私も本を買ったのだがそれを今手に取ってパラパラと読んでみると読んでいなかったということになっていたのである
これでもそれでも集めた本に何かしら価値がありその本を分類してなんとかまた生かそうとしているのである。ただ本は一冊一冊でありそれらを関連させることが難しい。
ネットだとわからないことでも検索して関連付けさせることができる。一冊の本だとなかなかそれができない。なぜなら一冊の本は完結していてほかの本と連結させることが難しいからである

●私設図書館が必要に

私の場合私用の書庫または図書館のようなものは必要になっている。有名な小説家だったら施設の図書館のようなものを持っていたからである。なぜなら知的作業にはとても一人の知識では成り立たないからである。必ず他者のものを参考にしたり引用するからである。
それで今AIが小説を書くことができるというときその有利な点は膨大な情報を参考に出来るからである。いちいち本で調べるのではなく膨大な情報から小説を書くことが出来るからである。
関連付けが出来るからである。今私は音声入力しているが紙というときどうしても神が出てきて紙は出てこないのである。
でも紙に書くというとき紙がでてくるのである。それはやはりコンピューターが連関したものとして認識しているからだろう
紙に書くとなれば神はでてこないのである
ともかく膨大な本でもその内容を関連づけることで知識も活きてくる、それがネット上ではしやすいが本だとしにくいのである

ただ本にはネット違い専門家とか一流の知られた人が書いているから中味があり本は何回も読んでりかいする、また詩などでも鑑賞するとなる。ネットだと一回しか読まないからである、本には何回も読む価値があるとなる

買い貯めた本をいかに活かすかが今私の問題になっている
一冊の本の感想文を書いてみるのもいいだろう。すると読んだというだけではな自分自身も関与すうことになるからである。

ローマ帝国のトルコのエフェソスの図書館

本を電子本にできるがめんどうになる、本一冊を電子本にすることが手間なのである、ただ買いためた本をこれからどう活かすかが問題なのである。



2023年05月25日

赤モズを発見!! (絶滅危惧鳥類アカモズはどこに何個体いるのか?)


赤モズを発見!!

(絶滅危惧鳥類アカモズはどこに何個体いるのか?)


akamozu.jpg


akamozuplace.jpg

初夏や赤モズの姿とらえけり

枝渡り飛び去りゆくや夏の鳥軽やかにして涼しかりけり



国内における2019年現在の亜種アカモズの繁殖つがい数は149つがい,成鳥の総個体数は332個体と推定されました。国内における本亜種の繁殖分布域は北海道と本州の一部地域に限られ,過去100年間で90.9%縮小したと推定されました

夏季に中華人民共和国や日本、ロシア東部、朝鮮半島で繁殖し、冬季になるとインドやインドネシア、東南アジアへ南下し越冬する。日本では亜種シマアカモズが九州南部や南西諸島、亜種アカモズが北海道、本州東部に繁殖のため飛来(夏鳥)し、本州西部、四国、九州では渡りの途中に飛来(旅鳥)、沖縄では越冬のため飛来(冬鳥)する。
鵙はスズメ目モズ科の鳥の総称。夏鳥のアカモズ、チゴモズ、冬鳥のオオモズ、オオカラモズなど日本各地に広く繁殖分布し、寒いところで繁殖するものは暖かい平地に移って越冬する。翼長十センチくらい。羽色は全体に地味で、頭は栗色、背は灰色、翼は黒褐色で中央に白斑が一つある。食性は肉食で、昆虫類、節足動物、甲殻類などをを食べる


のうちの1亜種の亜種アカモズ Lanius cristatus superciliosus 以降アカモズ)は,日本とその周辺地域(サハリン南部・千島列島南部)でしか繁殖しません。国内では主に本州や北海道で繁殖するとされ,私の生まれ育った新潟県内でもいくつかの繁殖地が知られていました。図2は新潟市で2005年に見かけた看板ですが,カワラヒワやムクドリに並びアカモズ(図2左上)が紹介されています。かつては,ムクドリやカワラヒワのように,たくさんのアカモズが生息していたのでしょうか。私はアカモズの観察を夢見てこの場所に2005年から2011年にかけて7年間通いましたが,残念ながらアカモズを観察することは叶いませんでした。



モズは秋とか冬に見るけど夏にはみないと思っていた
これは繁殖するために渡って来てその途中にここに寄ったのか
この赤モズは非常に少なくなっている。

私はアカモズの観察を夢見てこの場所に2005年から2011年にかけて7年間通いましたが,残念ながらアカモズを観察することは叶いませんでした。

これほど野鳥を観察している人でも見れないのである。そしたら写真でも撮ったとすると相当に貴重だとなる。
これは街中を流れる真野川の岸辺で撮った、鳥はすぐに飛び去るので撮りにくいのである。一瞬で去ってしまうこともあるからだ。
だからこの写真は相当に貴重になるかもしれな、そんなに見かけないしまして写真にとらえたとしたろそうなる。幸運といえば幸運だった。そのときカメラをもっていたこともそうだった、やはりカメラは常時持っていないとチャンスを逃す、どこでシャッターチャンスがあるかわからないからである。



Bing イメージクリエーターで作られた絵の不思議 (日本の庭をイメージした絵)


Bing イメージクリエーターで作られた絵の不思議

(日本の庭をイメージした絵)

gardenflowfff1.jpg

ayamegarden2.jpg

gardentree.jpg

gardenwaterfall.jpg

flowergarden.jpg

flowergardenlane.jpg


The wonders of paintings made by Bing Image Creator
(Picture with the image of a Japanese garden)




至福の花の庭

静かな木陰に休み
流れる水の音を聞き
庭の小径を散歩する
ここを乱すものなく
時折小鳥が来て木の実を食べる
蝶は優雅に花々をめぐり飛び去り
石は黙して様々な花が映える
その花々争うことなく調和している
そこに至福の時を味わう
外の雑音は聞こえず
木はここに深く根づき
閉ざされた一つの楽園に安らぐ



Resting in the shade of a quiet tree
listening to the sound of running water
I stroll along the paths of the garden
Nothing disturbs me here
Occasionally a little bird comes and eats the nuts
Butterflies gracefully flit past flowers
The stones are silent and various flowers are reflected
The flowers are in harmony without conflict
I enjoy the blissful moment there
No outside noise can be heard
Trees are deeply rooted here
I am at peace in a closed paradise

Translated with www.DeepL.com/Translator (free version)

AIで作られた絵は本当に不思議である、これは現実にある世界ではないが日本の庭を見事に表現していることの不思議である。
私は全く絵を描けないにしても言葉を入れただけで絵に変換している。その絵でも明らかに優れたものである。
するとAIは芸術の分野にも相当に深くかかわるものだとなる

絵や小説や詩とかまでAIが創造できるのかとなる
ただ歌謡曲のようなものは作れるがむずかしい詩は無理だろう
でも画家でも小説家でもAIが代わりになり失業するとかなるとしたらショックである。

それだけ衝撃が大きいものとなったのがAIの技術なのである
それはもともとartが技術の意味だったことでもわかる。
医療でももともと技術だったということはそれも技術と深く関係していたからである。その変化が今は大きいのである。

The AI-made drawings are truly mysterious, this is not a real world, but it is a wonder that they beautifully represent the garden of Japan.
Even if I can't draw a picture at all, I convert it into a picture just by inserting words. The picture is clearly excellent.
This means that AI is also deeply involved in the field of art.

I wonder if AI can create pictures, novels, and poems.
However, it is possible to make something like a popular song, but it is impossible to make a difficult poem.
But it would be a shock if both painters and novelists could take the place of AI and lose their jobs.

AI technology has had such a big impact.
This can be seen from the fact that ART originally meant technology.
The fact that medical care was originally a technology was also deeply related to technology. That change is now significant.


2023年05月24日

家の修復が依然として続く (水漏れしたの樋をまっすぐに下にしなかったから)


家の修復が依然として続く

(水漏れしたの樋をまっすぐに下にしなかったから)

houserepair.jpg

樋を真っすぐ下に作れば水漏れはなかった、樋を曲げて迂回したため管に落葉がたまてつまった
それで水があふれて家の下に落ちてきたとなる



家の問題は家そのもの物体としての家がある。建築物としての家がある。なぜ玄関の入り口が水漏れしたのか?
それは樋の配管に問題があった、本来はまっすぐに下に水を流す配管をするべきだったのが建物の構造でしにくくなり遠回りの配管になりそれでつまりながれなくなり逆流した
水がそこであふれて下に落ちてきた。
それを説明されたのでそうなのかとも納得した、でもそこは見ていないので明確にはわからない、そこは入りにくい場所だからである。

前の大工さんは見て水漏れた原因がわかったと言ったがそれを説明していない、でも金は払ったのである
ここで問題なのはなぜそうなったのかそしてなぜ直ったのかの説明が必要だったのである。
家というのは素人でもなんとかわかる理解できることがあるからである。
ただまだ完全にわかったはならない、落葉がたまってながれにくくなりあふれたとしてそれがどういうふうにもれたのかわからない、それはそこ見れないからである。危険な場所でもあるからだ

ともかく家との格闘はつづいているし整理も終わらない、本の整理がどうしてもできないのである。簡単に捨てられないからである。
なぜ樋で失敗したのかというと水の流れに逆らう配管をしたからだともなる。下にまっすぐに流すべきところを流す管を迂回させてめんどうな場所に配管したからである。
それが失敗だったのである。それが今になって問題が起きたとなる。でも築50年となるとなんらか家が傷み修理が必要になる
ここはなにかめんどうな場所だったのである
前は樋から水がもれても流れ出しても簡単に直した、そこは見える場所であり樋を曲げたら直ったからである
家の修復でも終活でも簡単に終わらない、人生も依然として終わらないのと同じである

ただそれぞれの家が確かに郷土の歴史を語っている、私のいえもそうである。二回も水害に合い一回目は二階がないので逃げる場所がなく二階の家を建てることが悲願になっていたからである。それで二階の家を早い時期に建てて親が自慢していたのである
今でもここは街でも一番低い場所であり下水の水があふれ二年前とかでも水が家の中に入って被害があったのである
でも父親が苦労して土地を買いそのあとに建てられた家なのである。だから家には一代だけでは何代かの人間の思いが歴史があるものだとなる。
ただ正直家でも負担になってしまう、大きいと掃除するだけで負担になる。一人だと余計にそうもなる。
この家でも築50年で傷んできたのである、でも住み続けるほかないのである。

2023年05月23日

市川猿之助の両親、老々介護か (2025年問題は深刻化する―団塊ジュニアには独身者が多い)


市川猿之助の両親、老々介護か

(2025年問題は深刻化する―団塊ジュニアには独身者が多い)

2025dannkai.jpg

2025dannkai4.jpg




2025dannkai3.jpg

2025dannkai4.jpg




歌舞伎俳優、市川猿之助(47)が18日に東京都内の自宅で両親と倒れているのが発見された騒動で、亡くなった父の市川段四郎さん(76)を母の喜熨斗延子さん(75)が老々介護していたとみられることが22日までに分かった。

2025年も問題は始まっている、76歳と75歳とは団塊の世代にもなる。この世代は人口のボリュームが厚い、だから介護するにしても割合的に少ないとしても多くなる、だから2025年問題が言われるしすでに始まっているのである。
76歳の父親と75歳の母親というとき自分自身がその年代だからである。その子供たちが介護することになる
その年代が五十代になる、猿之助さんは48歳でもその年代になる。
近くの人は73歳の女性でやはりその息子は52歳とかである。
やはり早いとしても脳梗塞になり入院して介護状態になった
幸い軽くすんだので母親は自力で生活ができるので介護にはなっていないから助かったのである。

ただその後息子は交通事故や階段で足をくじいて仕事できなくなったとか不運が重なって苦労している。仕事は一か月以上休んでいるのである。それで収入もない、貯金もないから援助してくれとなる。ここでの問題は金銭的な問題もありまた人手もないということもある。何故ならその息子は独身だから妻の助けも得られないからである、団塊ジュニアは結婚していない人が多いのである
猿之助さんも結婚していなかった。そして一人っ子だった
すると相談相手もいなかったとなる。

結婚していない人また一人っ子の問題

団塊ジュニアには独身者が多い

ここに大きな負担となっていたのかもしれない、まだわからないにしてもそのことは自分と似ていると思ったからだ
私も複雑でも両親の介護で一人っ子で一人苦しんで介護したからである。一人っ子は兄弟も姉妹もいないから相談相手がいないからである。金銭的には問題ないにしてもそれだけでは介護できないからである。そして仕事やめると収入がなくなることがありやめない方がいいとしている。猿之介さんも舞台があり介護に手が回らなかったのかもしれない、ただ金銭的には相当に恵まれていたのだから何か介護する方法があったかもしれな、ただ相談する兄弟とかもいないので家族で両親とともに心中しようとしたのかもしれない、その詳細は不明にしても2025年問題はすでに始まっているのである。

ただまだ父親が76歳とかで介護になるのは早いとはなる。
でも確実にこの介護問題は深刻化する、そして悲劇が起きるのが日常化するかもしれない、家族でも核家族化とか小人数であり介護する人手が足りないからである、そして男性の場合外部に援助を求めることが苦手だからである。特に一人っ子とかなるとそうなる。でも歌舞伎仲間とか芸人仲間がいたのだから相談できなかったとのかとなる、その辺の事情はわからない、確かなことは
2025年問題は始まっているのである、それは相当に深刻であり悲劇が続出するともなる、わからないにしてもこの事件はそうした事情が背景にあり起きたとなると2025年問題がいかに深刻になるかを示した事件だったのかとなる

posted by 天華 at 21:19| Comment(0) | TrackBack(0) | 時事問題の深層

2023年05月22日

菖蒲の俳句(HIKE about iris) (beingのimage creatorで作る絵の不思議-Image Creator of Being and Haiku)


菖蒲の俳句(HIKE about  iris)

(beingのimage creatorで作る絵の不思議-Image Creator of Being and Haiku)

irisandrock2.jpg

草深く菖蒲に大岩村一つ
村一つ色合い濃くも菖蒲かな
岩一つ離れずここに菖蒲かな
貞淑な妻に菖蒲や岩一つ
池映る菖蒲や茶室に心澄む

hiddenvilliage2.jpg

これは良くできている


チャットgptチャットでも不思議なものだけどaiで生成する画像も絵画もも本当に不思議である。
文章を入れてそれにふさわしい絵画が創造される。それはなんなのだろうと思う。私は他人の絵から写真から抽象画を大量に作ってきた。そんなことができたのはコンピューターはできて作られたのである。私には全く絵の才能がないからである。でもソフトで写真でも他人の絵画でも変化させると別なものになる。ただそこで著作権違反になっているのもあった。
でもそれもオリジナルの変化でありやはり創作となっているのかもしれない
ともかくコンピューターの特徴は人間の頭脳の代わりになる。それも今まで人間にしかできない芸術の創造の分野まで深く入り込んできていることである。
ただ詩を作ることはまだできないしできない分野も相当にある。
ただ絵画を文章から想像できることには驚くのである

菖蒲と岩と村をテーマにしてbeingのimage creatorで絵画化した。ただ茶室と入れても御堂がでてきたり情報が十分でない
日本の情報が十分に取りいれていないからそんな風になった
でももっと進化すればあらゆる世界の映像が表現できるようになる。だからartとは技術の意味があり技術によって変化するのである。

でも俳句一つでも創作できるのか?また理解して観賞できるのかは疑問である。新しい絵の具のようなものともなる。新しい絵の具が生まれて表現の幅が広がったからである。

With the theme of irises, rocks, and villages, he painted it with Image Creator of Being. However, even if you put it in the tea room, the mido will come out and there is not enough information.
It became like that because I didn't get enough information about the Japan
But if we evolve further, we will be able to express images from all over the world. Therefore, art has the meaning of technology and changes depending on the technology.

But can you create even one haiku? It is doubtful that we can understand and watch it again. It's like a new paint. This is because new paints have been born and the range of expression has expanded.

mido

In Buddhism, a hall where Buddha is enshrined. It also refers to a small sized  temple.


続きを読む

2023年05月21日

空き家の庭に咲く菖蒲と残された岩 (日本の風景になった空家)


空き家の庭に咲く菖蒲と残された岩

(日本の風景になった空家)

ayamerock.jpg

perplerose1.jpg


ayamethreecolour.jpg


クリック拡大

草深く菖蒲に残さる岩一つ
夏の夕鹿狼山見え相馬暮る
菖蒲咲く白紫に黄に暮れぬ

我が庭に薄紫の薔薇一輪隠れて咲きぬ誰か知るらむ
ひそけくも桐の花散るこの道に物音もなく我一人行く
雨しとと桐の花散るひそけしや今日もこの道我は行くかな
何語る空家の庭に残される岩や草むし菖蒲咲き暮る

身近でも空家が増える、隣も空家になった。地震で壊れてそのために家を壊して空地化したのもある。すでに身近で十軒くらい見ている。
これもすぐ近くで空家化した。草が生えてそのなかに菖蒲が咲いていた、そして大きな岩が一つ残っている
草深く菖蒲が咲くというとき別に今は田舎だと咲くのはめずらしくないのである。でも空家の庭に咲いているから違っている。
この岩でも人間化してまだこの家にいるとかになる。こういう景色は原発事故で避難区域になった町や村では空家だらけであり庭でも人が住まずここと同じようになっている。
ただ地震で屋根が壊れても直している家もあり全く放置されたものとも違う、でも全く持ち主もかかわらない、放置された空家もある、それで誰も利用しないからもったないとみる
何か利用されれてもいいと思っても持ち主がいるから簡単にできないのである。
とにかく空家はこれからも増えてゆく、この辺は避難区域から移住した新しい家が増えたからいいにしても空家は確実に増えてゆくのである

鹿狼山はこの辺では原町からでも見える。400メートルくらいでありそれでも遠くから見える。この辺では高い山はないからものたりないのである。

庭にどういうわけか一輪この薄紫の薔薇が隠れて咲く、なぜか一輪ひっそりと咲き散る、桐の花もひっそりと咲き散る、桐の花は不思議な花である雨にしとしと濡れているのがあっているのである



利から金から離れられない人間 (逆に利から離れた金にならないことにこそ真の価値がある)


利から金から離れられない人間

(逆に利から離れた金にならないことにこそ真の価値がある)

人間は一時たりとも金から離れることができない。人間の関係は利益利害関係から成り立っている。だから学生時代が貴重なのはそこに利害利益のことが関係していない場だからである。
だから友情でも育まれる。でも一旦社会に出たらもう利益利害金から離れることができない。それで学生時代を懐かしく思う人も出てくる。
例えば宗教ですら今は大概カルトになっているのだがそこでも普通の社会よりご利益利権を求めている。
そういう場に入ったら頭の中が御利益と利権しかなくなる。
だから一体それが宗教なのだろうかなぜ宗教を標榜しているのだろうかそれは全くわからない。
なぜ宗教が出世する出る世の中から離脱する。つまり世の中の欲から離れて心を浄化する。そのために利権とか金とかから離れて修業したのである。
ところが出世という意味が全く正反対になった。出世とはまさにこの世の地位と富とか権力を得ることになったことでもわかる。

この世に生きることはまさに出世争いであり宗教のようなこの世から出る離脱して悟りを開くなどと全く関係ないのである
そこでは返ってあらゆる欲が肯定され欲があればあるほどエネルギーがあっていいとなっている。だからこそあれほどの人が集まるのである。本来の宗教とは正反対なものでありなぜそれが宗教を標榜しているのかまったくわからないのである。
つまりカルト教団とはもっともその聖なるものを汚している団体なのである。ただ数が多く権力を持っているので容認されているのである。

その人は自分の欲望にをむき出しにしてその欲を達成しようとしている。女性に対してもそうだしまたあけすけに金が欲しいとして働き金を要求する。でもその人の方は正直なのである。
でもカルト教団などは宗教を標榜していてもその本来の宗教を追求しているわけでもない。全く正反対のものを追求している。
だから理論的には矛盾している。でも人間は理より利を追求している。だから理論的に理想を追求してもまったく逆のものになっているのである。それはカルト教団でもそうだし共産主義でもそうだったのである。

理に合わなくても利に合えばいい

人間は別に理論などは理解しなくてもいいのである。利益になることは金になることは即座に理解する。それは発達障害の人も利に聡いのである。毎日の暮らしでになることは利益になることは即座に理解するのである。
不思議なのは発達障害の人は何か簡単な計算はできないのに算数ができないのに日日買い物して金を使っている。だから金がいかに重要なものか知っているし金がないからとにかくわずかでも安いものを買っている。人間はともかく利益になること金になることは即座に理解する。だからこそカルト教団はご利益を説き進めるからあれだけ数が増えてくるのである。

でもみんな毎日金に追われ金に使われそれが嫌になって金のない世界に行きたいとなる。現実にまた地獄の沙汰も金次第とまでなっているからだ。
それで全ての価値は金で測られる。金にならないものは価値がないものとされる。でもそういう世の中に生きているとかなにならないものこそまた金とか利益とか関係しない人間関係とか価値が本当に価値あるものかともなる。
だから学生時代は本当は純粋に学問であれ何か社会に出る前に利益ではない金と関係しないそこで友情などを育むことになる。でもそういう場でも純粋に学問や真理を追求する場でもなくなっている。将来の出世のための勉強であり社会的地位を得て裕福な暮らしをしたいそこに既に利益のための勉強となっているのである。
だから逆説的になるが金にならないこと利益にならないことそのことが何か本当に人間にとって価値あるものなのかとまでなる

日本語で遊ぶとは遊ばされるとか何かこの世の利益とは離れたところにありそれが聖なるものとされた。
遊ぶとは利益を求めないことである。でも子供なら利益なしで純粋に遊ぶということがある。でも大人になれば利益なしでは遊ぶこともしない。頭の中は利益しかないのである。金の事しかないのである。とにかくあらゆる人が日日刻刻と金の事しか頭にない。利益のことしか頭にない。そこから離れることはこのようにいる限りできないのである。

利益から金から離れられのは死かないともなる
なぜなら

死者はもう利益とか金を求めない

死者が求めているのは何か?

心より愛すものでありその人を思うことは要求されているのである。死者はもう金も要らないし何も要求しないからである。
そして死者と生者との関係でも介護でも生きているときは負担になり苦しいとなるが一旦死ぬと誰でももっとよくしてやればよかったと後悔しているのである。

なぜなら死んでしまうと何もしてやれないからである。
逆に死んだ人にとっても生きている人に何もしてやれない与えてやることはできない。だからもっと何かしてやればよかった与えてやればよかったよくしてやればよかったとなるのである
でも一旦死ねば生きている人に死者は何もできなくなるのである。だから人間は死なない限りこの世の利益から欲からでも離れることができないのである。死んで始めて利益から欲から離れることができるのである。
でもその前にこの世に生きている時でも利益とか欲から離れることは価値あることになる。つまり利害関係なく利益を追求することなく真善美とか追求することは最高に価値あることになるのである。
でも実際にこの世でそんなことは実現しない。なぜならこの世では利益からよくから金から一時も離れることができないからである。
そういう世の中で利益から離れたこと利害から離れたことそのこと自体が大きな価値があることにかえってなっているのである。


今私は天の神の作った庭園にいる
さまざまな花が咲きその花を見てて飽きない
ただ私はその花に見とれその美に讃嘆する
花々は争うことなく調和して常に咲いている
その美は神が想像したイデアである
神は示したかったのはそのイディアなのである
それは無償で見られるものである
またその果実でも無償で得られるものである
そこに金は介在しない
様々な果実を食しその神のイディなる花々を見る
そこが天国なのである。