2018年02月20日

北海道の大地に埋もれし者(詩)(猪狩満直など)


北海道の大地に埋もれし者(詩)(猪狩満直など)

無念の声が
北海道の厳しい
大地に埋もれぬ
その分厚い雪の下に
無念の声が埋もれる
開墾に敗れし者
その無念の声が
冬の過酷な大地に
閉ざされ埋もれぬ
雪はふぶき非情
しかしそこに挑みし者は
無益ならざれ
北海道の大地の実り
その実りを味わう者は
また悲痛なる無念の
大地に埋もれし声を聞くべし
その大地に蕗の薹
力強く芽吹きぬ
北海道の大地の春は輝きぬ
悲痛に埋もれし者も
その命の芽吹き見る
死者の願いはそこにかないぬ
そこに死者は輪を作り立ち上がる
力強いその群像を見る
死者はそこにありて
その大地と共に生きつづける

北海道の魅力はやはり北海道は広くても一つの国として見る,本州だと一部をみていても北海道のように全体を見れない,福島県だって広いから会津は別な国であり一つの県として見れないのである。そこでなかなか福島県の詩とか作りにくいのである。
北海道はあれだけ広いの一つの国のように見ている
榎本たけようの蝦夷共和国というのは何か地理的なものとしてそうなったのである。
江戸幕府が敗れても北海道に新天地を見いだそうとしたのである。

北海道に入れば空気まで違う,苫小牧に船で上陸したとき必ずその空気が違ってるのだ
澄んでいるのであるそこに野の花々が咲いている
そういう原始性が残っているから違っている
本州だとどうしても町とか市とかに出る,どこまでも広がる大地とか草原とかそういうものは本州にはない,だからそこで心まで解放された気分になる

ただそこで生活するとなると過酷である。自分など体力がないから耐えられないとなる
北海道開墾はそこで敗れた者も相当に多い,猪狩満直もその一人であり他に大勢いるのである。
彼らは北海道の実りを享受できなかった,しかしその後の人はその実りを享受する
それがまた人間の歴史だったのである。
何らかの犠牲の上に次の時代も築かれるとなる
戦争の犠牲の後に日本の高度成長があったのもそうである。
何にもない焼け野原から良く高度成長になったのは驚嘆すべきである。
でもそれは中国でも20年くらいで同じように起きていたのである。
だからそれは世界的なものであり日本だけのものではない
何かそういう力が日本に働いて高度成長になったのである。

北海道は明治になりフロンティアになった,そこから日本の新生が始まったのである。
もし北海道がなかったら日本は失業した武士などの受け入れる場がなかった
アイヌはいたにしろ手つかずの未開の地が開けていたのである。
ただ北海道で犠牲になった人達も多い,それだけ厳しい大地だったのである。

おらは反抗する
あくまで敵對する
まつ白な雪の中で
零下の寒氣の中で
このまま目をつむれるもんか
おら おららは

猪狩満直「移住民」

これはこの詩人だけではない,北海道の開墾に敗れたものは大勢いる
それらの人達の代表としてこういう人がいて詩に残したのである。




















高度成長グローバル資本主義の終わり (宗教,哲学,芸術などの内面化意味を求める社会に)


高度成長グローバル資本主義の終わり

(宗教,哲学,芸術などの内面化意味を求める社会に)


小さな庭

沈黙の深く
一人一人の
意味あるものと
顕れるべしかな
一人一人の声を聞き
雑多なる声は
騒音語となり消えぬ
小さな庭の
一つ一つの石は
確かに組まれて
意味を深める
人は意味なき世界に
生きることあたわず
小さなる世界に
その意味を求め安しも
経済のための社会にあらず
社会のための経済
その小さな世界に具現化す
グローバル経済には意味は求めがたし
ただ経済のため金のために翻弄されるだけ

今の時代は何なのか?それは実際は今の人にはわからないのである,歴史は一時代が終わったとき冷静に見れるし評価も定まってゆく,人間も生きている内は評価しにくいのである。
今の時代は何か?それがしきりに言われるようになったのが中世にもどるということである。
ただ中世とは何かというとこれまた見方がありいろいろである
日本の中世はかえって動乱の時代だったからヨーロッパの中世とは違う
ヨーロッパの中世はグローバル社会とはまるで違った閉鎖された江戸時代のような世界である。だから暗黒社会だとも言われる

ではなぜ中世なのか?それは資本主義がグローバルに展開した時代が終わったとういことである。グローバル資本主義がありえたのは投資先が常にあって成り立っていたのであるそれがなくなったとき銀行に金をあづけても利子がつかない,むしろ金をあづけると事務費とかはられることになる
そのことが何か資本主義の終焉を象徴していたのである。

日本は戦後焼け野原から何もない世界から急速に高度成長したのである。
中国とにている,中国の二十年前は再貧困国のようになっていた
それが二十年すぎたら新幹線のようなものも走るしとか日本の高度成長と同じだったのである。世界も十年単位とか20ねん単位急速に変わるものだと思った
だからその変わりように追いつけなくなるのである。
人生もまた70年単位にして急速に変化してその変化に対応できなくなる
現代は変化のスピードが早いのである。

日本が敗戦になったのはこの変化についていけないとういことがあった
戦艦大和のような船の時代は終わり飛行機の時代になったときそれは無用化されて海の藻屑と消えたのである。
20世紀は科学技術の時代である。科学技術が社会を席巻した時代である。
それと高度成長とグローバル資本主義の時代だった
そしてもう日本ではインフラ整備も終わりかえって道路でも橋でもトンネルでも老朽化して修復する時代である。また無用な道路なども作りすぎた時代にもなった
高度成長が終わり長く経済が停滞するしグローバル資本主義でも投資先がなく金融資本主義になった
金融資本主義とは本来の資本主義とは違う,ただ金を右から左とながしてし利ざやを稼ぐのであり投資しているのではないのである。
投資する先がなくなっていたのである。
地銀なども地元の企業に投資して育てるという役割があったがそれないから証券会社の支店化して投資信託とかで利ざやをかせぐだけの商売である
銀行の役割はもうなくなり消えるという時代になっていた

こういう時代は何なのか?
物理的空間的拡大の時代であったのも現代である。それは交通面で飛行機とか車社会とかなり人間は外へ外へ向かうようになった
広域社会化でありグローバル化社会である。人も物も自由に行き来することが可能になったからである。
ただそのグローバル化も移民問題などで世界的にゆきづまった
それがアメリカでもそうでありグローバル化は失敗してもうこれ以上できないとなった
資本主義も投資先がなく銀行に利子がつかないようにもうゆきづまり終わるとされているビットコインバブルなどもそれを象徴している
資本主義は必ずバブル化して破綻しやすいからである。

そして次なる時代は何なのか?ITとかAI,通信時代になった,この特徴は物の流通ではない,物理的リアル空間の拡大ではない,その中心が頭脳に左右するものであり心の世界に向かう,内面世界に向かうものである。
だから今までも物理的物の豊かさを目指すものではないのである。
その技術は精神に影響してくるものである。
そもそもインターネットを介して物の流通があってもそれよりそこで人間が情報をやりとりしていることが主だとするとそれは情報も精神の世界なのである。
膨大な情報のやりとり交通の世界になったのである。

インターネットでもその発信方法が変わる,最近youtubeを見ているとこれは学習能力がある,テレビとは違うメデアである。それも誰でも簡単にテレビのように放送できることが強みである。それでユーチュバーが生まれたのもわかる
ただそのユーチュバーが稼いでいるのはテレビと同じ手法である。
何か刺激的な映像を出して視聴率をとるのである。
でもその他にも多様であり学べるものがある
インターネットのメデアは一方的でなく対話的な面がある
だから引用して議論しやすいのである。本とも違ったメデアなのである。
どちらかというと広く浅い知識を得るメデアである。
現代は多様な複雑なの社会だから広く浅い知識も必要なのである。
それには要点をついたyoutubeが向いているなと最近思った

ただ現代はこうしてインターネットとか世界的につながるとしてもそのアイディンティティを得る場はどこなのか,それはやはりリアルに自然とか社会と結びついている場なのである。
小さな庭というときそれが拡大したのが故郷かなる,リアルな自然があり村があり町があり市がある所である
そこで意味を探求して進化させるのが人間的なのである。
だから像で考えよというときその像が都会にはない,自然がないから像として考えられないのである。毎日高層ビルを見上げていかなる像が浮かぶのかとなる
ヨーロッパでは都市が歴史的に作られそこが一つの世界となり世界観を作る
地方都市が充実しているからミクロコスモスとなり文化が興隆した
フィレンツでも4万くらいの人口だった,小都市にすぎなかったのである。
ヨーロッパではそうした小都市が歴史的に作れらて文化が育まれたのである。
日本にはそうした小都市は歴史的に少ない,城下町は都市とは違うからである。
だからこれから地方の小都市の充実がかえって望まれている
東京一極集中は文化的に不毛なのである。

自分は田舎で石とか樹とか森とか山とかのアイディンティティ化することをしてきた
そこに意味を求めてきた,それを短歌や詩にしたりした,それは意味を求めていたのである。自然の意味を求めていたのである。
それは科学技術とかとは違う芸術とか哲学とか宗教の分野にもなる
今の時代は経済一辺倒の世界が収束して宗教,哲学,芸術とか内面的な精神的価値を求める時代になる
グローバル経済社会ではとても意味など求められないのである。
それは非人間的な世界であり株の世界でも世界の賭博場のようにしている
ただ人間はそこで経済に金にふりまわされているだけなのである。
そしてそこでもうけるのは極一部の人しかなく後は世界的格差社会になったのである。

人間的な世界を求めるとき小さな庭のように狭い世界でないと一つの区切られた世界でないとできない,例えば会津は万葉時代から一つの国として意識されていたからそこで意味を深めるアイディンティティ化しやすいのである。
今の県は廃藩置県後にできたのもであり風土とか地理を歴史を考慮していないから一体感がないのである。
例えは北海道は広いのだけど原始性が残っていて一つの国と見れる
それで榎本たけようが蝦夷共和国を目指したのが理解できるのである。
北海道は自然でも原始性が残りそこに日本では別個の一つの世界を作り出すことができると明治維新の時も思われていたのである。
北海道はだから今でも蝦夷共和国を目指し得るのである。

結局戦後焼け野原から高度成長時代へと発展したが日本は高齢化したように老人になると過去をふりかえるようになる,そういう時代になった
過去をふりかえるということは老人ならどんな人でもしている,そしてその意味を求めるようになる,俺の人生はこうだったとあれも失敗だったとか悔いるのである。
そういう反省の時代でありそこから若い人も学ぶものがある
若い人だけで議論していると何か深いものの見方ができないのである。

いづれにしろ今の時代はもうグローバル経済とか金だけに経済だけに翻弄される時代は終わったという認識をもつべきである。
だから株とか投資とかで期待してそうした狂騒の世界に巻き込まれるべきではない
それは自分も最後にしたがもうやめた,結局投資信託でも手数料をとられだけであり銀行の最後のあがきとしてすすめているだけなのである。
銀行がなくなるということがまさにグローバル経済の終焉の時代を告げていたのである。ただすぐにはグローバル経済とか資本主義はなくならない,ただ傾向としてはもうそういう経済だけの世界は終焉に向かっているのである。
そういう時代認識をしないと何かまた過去の幻影にふりまわされるのである。
時代というのは社会でも常に変化しているけどその変化に対応できないのである。

とにかく小さな世界だと意味を求めやすい,禅宗だとその小さな庭に一つの宇宙をも世界を見たのと同じである。大きな世界になると社会でも自然でも意味づけることがむずかしくなるからだ,そこに自然を庭化する日本的なものがあるといえばそうである。
ただ世界的にも意味を求める時代は宗教は哲学,芸術などの時代になるのである。
インターネットとかはそういう精神世界の追及に向いているものがある
いろいろな人からの情報とか知識を得やすいからである。また対話的にもなっているからである。ただ草創期だと日常のささいなことの対話になるがだんだん成熟すると深いものの見方をする人などもインターネットに現れてきている
そして死んだ人が「心の青雲」のプログの著者の都築詠一氏だったのである。
なぜならその人はインターネットでプログを書いただけで本には出ていないからである。そういう人も出てきたのだと驚いたのである。
インターネットで発表することは発信する方にすると楽なのである
publishとはpublicであり公表するということであり公(おおやけ)にすることである。
今なら本は簡単に安く作れる,でも公表するとなると簡単にはできない
その公表するということでインターネットでは気軽なのである。
そして人間は書きながら文章で思考することがあるなと思った
文章を書くことで思考を深めている,思考を具体化しているのである。
だから自分はこうして毎日書いているのはそういうことをインターネットではしやすいからなのである。だから現代はインターネットでも文章の時代だともなる
自分はしゃべることは苦手だから文章を書く方がいいとなりプログなどは向いているのである。
文章の方が深いものを探求できる,しゃべるだけではできない,ただ広く浅くなる知識や情報だとしゃべるyoutubeの放送が向いているなと思った




2018年02月19日

南相馬市は若い世代が流出,老人が増え,生活保護が増える (国からの補助金も三年後に打ち切られ財政難に)



南相馬市は若い世代が流出,老人が増え,生活保護が増える

(国からの補助金も三年後に打ち切られ財政難に)


知人の母と息子が住んでいた家は息子が40くらいでありいわきの方に正社員として建築関係で仕事していたが仕事がないとなりその息子は決断した
東京に仕事探しに行きアパートを七万で借りて帰ってこないという
東京だと仕事がないということがない,建築関係でもそうである。
そして七万の家賃でも今は建築関係は人手不足だからやっていけると踏んだのだろう。

この状況からみてこの辺は意外と復興関係の仕事も減り仕事がない状態になっているのかその人は前はここで除染の仕事をしていた,それも終わった
まだ外部から来ている人がいるが大分少なくなっているだろう
統計的にも一段落して復興関係の仕事はもう減ってゆくだけである。

仙台のユニットバスの会社がまた家のリホームをしないかときた
その会社は百万でユニットバスを作った,ガス屋に聞くとこれは二〇〇百万かかると言っていた,確かにそれだけの仕事であり安いと思った
地元で知っている人に頼んだら三百万はかかっていた
その人の知っている大工でも仕事してもらったが何かいいかげんだった
だからあてにならないと思い頼んだのである。
この辺は何か家でもほとんど大手の住宅会社が建てている

仙台でも震災関係の仕事がなくなったからこちらの方に進出してきたとなる
つまり仕事がないということが仙台周辺でも起きているのだろう。
大きな仕事もなくなっている

そうなるとこの辺では若い世代の流出が震災直後から問題になっていた
原発避難区域ではそうなって若い世代が帰ってこないとなった
だからその知っている人の息子もそうなったのである。
その人は別に原発事故のために地元にいられなくなったとかではない
ここで仕事がないということで東京に出て帰らないという
それはここで仕事がないし生活できないと決断したのである。

まだ40くらいだからそれができた,50代とか60代になると東京とかに出て働くのもむずかしいとも思う
自分はもともと田舎志向だから東京などにごみごみした所にゆきたくないとなる
介護十年でもう東京には10年以上行っていない,そして仙台にも去年は一回しか行っていないのである。
旅ばかりしていたがここ十年は近間を回っているだけなのである。

この辺で人手不足というとき介護とか看護師とか飲食関係とかが深刻であり建築関係の仕事はなくなっている
ただそうして若い世代が流出してゆくことはここには老人ばかり増えて働き手が減少するすでに他の県より市よりこの辺は高齢化率が10パーセントくらい高くなっている
それがさらに増えてくる,南相馬市だと小高は老人の街となりそれを補佐するのは容易でなくなる,だから立派な老人ホームがあっても介護士がいなくて運営できなくている
親が住んでいても子供たちはその親を見捨てて流出したから帰ってこないのである。
親は帰ってくるというけど一旦流出したら別な土地で暮らし始めたら仕事をはじめたら簡単には帰れなくなったのである。
それで妻まで子供の方に移り住んで老人が一人小高とか復興住宅とかでも浪江の老人が残される結果になったのである。
つまり浪江の人が南相馬市にも住んでいるから実質の老人はさらに多くなっているのだ

あと三年後に国からの援助もなくなるとか補償金もすでにもらえないとかなり苦しくなる本当にこの辺は危機的状態になるかもしれない,ただそういう危機感はない
人間はそうなってみないと何でもリアルに感じないのである。
そして個々人でも介護でも病気でも自分がそうならないかぎり他人事なのである。
でも市全体が疲弊したら必ず個々人にもその影響がでてくる
だから後三年後というのはこの辺では具体的にその影響が現れてきて苦しみ感じる人々が増えてくる、生活保護だって増えれば財政負担が増えるし老人は病気になりやすいし介護になりやすいからそれが負担になる

posted by 老鶯 at 15:35| Comment(0) | TrackBack(0) | 福島原発事故関連

経済のための社会か社会のための経済か? (仲間となりうるものは誰なのか?)


経済のための社会か社会のための経済か?

(仲間となりうるものは誰なのか?)

人手不足で低賃金の理由(宮台真司)

ここで社会(仲間)のための経済のための社会の議論


この問いかけは興味深い,でも仲間とは何かなのか仲間からcompanyに発展した,仲間から会社に成ったことは理解できる
会社は今でもそこでともに働くのだから強い仲間意識をもっている
だからこそ会社人間となり企業戦士となり高度成長時代があった
仲間意識というとき江戸時代なら会社がないのだから身分社会だから身分によって仲間意識をもっていた,侍は侍で農民は農民で職人は職人で住み分けられて仲間意識をもっていた

そもそも仲間というとき一番親密なものは家族である。ただ家族からではなく仲間とか友達は家族意外のもとの仲間関係である。家族はそもそも仲間という意識から成り立っていないからである。
他人との関係で仲間意識が形成される,その仲間意識がどうして培われたのか?
それは友は共でありもともと共にする,共同して働くとかから起きている言葉である。
共同して働くことが友となり仲間となることを意識させたのである。
だから働くというとき端を楽にするということで働くとなった,それは家族が仲間が労働していて苦労していることを見て自分も手伝ってやろうという意識が生まれた
だから仲間意識は協同して働くことから起きてくる

村とか今でも協同して除草をしている,今より前は必ず協同しないと農民は成り立たないだから街内から離れて農家のあるところに住んでいる人は農家がありつきあいがめんどうだから嫌だといっているのもわかる
その人は農民ではなくトラック運転手だったり電気工だったり会社員になっていたからである。農民と協同する立場にないからそうなった
その人にとって共同しているのは会社だったのである。
ただ今は退職しているからその会社とは関係ないけどその農家のいる所に住んでいるから付き合いが嫌だと言っているのである。

ただこの仲間というのを深く考えると何なのか?
仲間内では協同しても仲間意外の人とは協同しないということがある
一つの村では協同しても他の村とは協同とはならない,利害で対立することがある
水争いとか木材資源の争いとかあった,そこで武士が加勢して戦争にもなった
ある仲間ができればその仲間内では協力するが外に対しては仲間でないから対立して戦争になる
そういうのも人間の歴史だった,部族同士では猿族とか犬族とかトーテムで形成されて仲間意識が作られた,でもその他の部族のトーテムとは争うことになる
仲間意識は必ずそうして仲間同士では協力するがその外に対しては協力しない敵対する
それで日本の村では閉鎖的でありよそ者を受け入れないのである。

この仲間意識の形成は仲間内では仲間と認めて協同するのである。
例えば今の会社だってそうである。同じ会社なら協同する関係で仲間である。
まず会社のために働くことは仲間のために働くことになる
地銀などでもまず自分たちの会社のために働くことが至上命令になる
どうしても利益をあげねばならない,だから手数料のとれる投資信託をすすめるのである顧客の利益も計ることは計るが会社の利益が会社の仲間の利益のために収益をあげることノルマが課せられている
顧客は損しても仲間(company)は損してはならないのである。
それはどこの会社でも同じだが会社意外の人をただ金儲けの対象としているとき自分たちがもうければいいとなるとき顧客から見離されることがある
顧客ともなんらか協同関係がないと協力してくれない,金はあずけないとなるからだ

そういう問題はいろんな場面で起きている,病院でも患者を仲間とみるのか?
ただ金をとれる人としてみるとそこでいらない薬を与えたりまた極端にるなといらない手術をして保険の点数を稼ぎもうける,病院にも医者にもそういうことはあり問題になる
患者をただ金をとるたげのものと見ればそうなる,仲間とみればそうはならない
その差は大きいとなる,例えば患者が友人だったりすればそういうことはしないからである。

要するにその人を仲間とみるか見ないかでその待遇も相当に違ったものとなる
ベトナム人が出稼ぎにくる,ただ安く使えるからと働かせる
でもベトナム人でも日本に来ればそれ相応の生活をしたいとなるのが人情である
それで盗むことや犯罪が多くなるのである。

ベトナム人は仲間ではない,働く道具である

そういうふうに見ている,これは経営者と雇う人と雇われる人の間でも起きている
雇う人が雇われる人をどう見ているのか?
ただ安くこき使い収入をあげれば会社の人達にとってもうけとなると見ているのか?
それは非正規と正社員の間でもあった,非正規は会社員で正社員でないから仲間ではないとかなる
仲間と認めるものと認めないもので待遇は相当に変わってしまうのである。

日本人は仲間だが外国人は仲間ではないから安く使ってもいい,日本人のような扱いにしなくてもいいというのも仲間と認めないからである。
ただ外国人でもスキルがある人は待遇が良くなるし日本人より良くなる
それは日本人にとって会社にとって利益になるからである。
ではたいして利益にならないベトナム人は最低辺でこきつかいばいいともなる
それは外国人でなくても日本人内部でも起きていることである。
だから誰を仲間とするかという問題も複雑なのである。

ただ現在のグローバル経済,資本主義は経済のために社会がある,社会が仲間意識だとすると経済が優先される,仲間のために経済が金が回っていない
そもそも誰か知らない人のために地球の裏側の人のために働いていれば物でも売り買いしていれどはそうなるのである。
例え外国から物が入っていいとしてもそれで仲間意識はもたないのである。
仲間意識は狭い範囲でしかもてない,福島県でも仲間意識をもっているのかというと広すぎるからもちにくい,それが全国になるとさらにもちにくいのである。
第一仲間意識をもったのは日本だったら村という狭い地域だったからである。

それで地元を良くするために地元で買い物しろ地元の商店で買いというとき地元は仲間なのだから仲間のために買いとなる
それからユニットバスを仙台の業者に頼んだら百万でできた,ガス屋では二百万かかると言っていた,ただ家に来ている人は建築関係者を知っていてそこに頼むべきだとしきりに言っていた,その人には庭作りなどをしてもらったからである。
それは地元の人は仲間のなのだから仲間のために仕事させろ金を使いということなのである。地元が豊かにならなければそこに住んでいる人も豊かにならない
そして病気になったり何かあったら地元の人に助けてもらうのだからそうしろ,仲間なのだからそうすべきだとなる
でもその人に頼めば三〇〇百万はかかった,その人の知っている大工はあとからあとから金を請求してきたからである。
仲間だからといって経済のためだけではせない,社会=地元とするとき地元のためだけに仲間のためにだけにすると経済の原理と反することになる
損害も受けるから金が三倍もかけて地元の人に頼むのかともなる
こういう問題も広域化したグローバル化した社会の問題である。
地銀に証券会社の人が出向して株や投資信託をすすめるのもそうである。
それは地銀の枠をこえたグローバル経済の中に組み込まれるからそうなる

地元を優先しろ,仲間を優先しろ

これが常に言われるがそうするとこういうい問題も起きてくるのである。

ただ仲間意識というのは会社だけではない宗教によっても作られる
カルト教団でもそこに所属して仲間意識をもつことはもつ,だから宗教の対立も同じ宗教だと仲間意識をもつがそうでないと深刻なの対立になるのである。
人間の対立はそもそもそうして仲間意識をもつ故に他の仲間意識をもつ人達と争いになる国があれば日本国意外の人とは仲間意識をもちにくいしそれは世界共通である。
グローバル経済は資本主義はただ経済の原理しかない,仲間など関係ないという世界である。これも一見いいようで失敗したのは人間はそうした経済だけの無機質的な物だけのやりとりのつながりに価値と意味を見いだせないからである。
イギリスはイギリスに生きてきたもののものであり外国人のものではないとかなる
外国人は仲間として認められないから移民はもういらないとなるのが世界で起きてきたのである。

つまり経済の原理だけで人手がたりないから人間を部品のようにもってくることはできない,まず仲間として認めないと人間は機械ではないのだから不満になるのである。
人間は必ずしも働く動機が経済利益の原理だけで働いているのではない
仲間のために働いているということがある,仲間と認めるから働くということがある
だからグローバル経済はそうした人間的なものを無視しているから失敗になるしそういう世界に人間は耐えられないのである。
だから経済のための社会はゆきづまり人間のための経済へと変換する
世界的市場でやりとりするのは無理だとなる

一円でも円高になれば百億もトヨタとかで損する世界は異常なのである。
そんな世界に人間はもう対応できない,それより内需型で安定している方がいいとなる
国内の仲間中心の経済がいいとなる,それは世界中で起きているのである。
アメリカだったら一体この国は誰のものなのか?
肝心のこの国を作った子孫なのに貧困化している,移民に職も奪われている
移民は仲間ではない,一時的に金を稼ぐだけの人達にすぎない,国が危機になっても協同しない奴らだとなる

現実に日本人でも韓国でも中国人でも日本で働く人は実は中国韓国の工作員であり何か緊急自体になったとき戦争などが起きれば日本で中国のために働くように法律まである
つまり中国人は中国人は仲間だけど日本人は仲間ではないとなる
だからスキルをもった優秀な人達でもそういう人こそ実は内部資料とか日本の中枢部に入るから危険だとなる
つまりその人たちは日本人ではないから日本のために尽くすわけではない,何かあったら戦争のようになったら危険分子となる
だからいくらスキルがあってもそういう人を安易に受け入れていいのかという警戒するのもわかる

だからここで問題になっているのは仲間とは何なのか?
日本だったら戦争のとき生死をともにしたから仲間である。
生死をともるするともなると強固な仲間意識をもつ
でも敵対するものは仲間ではないから殺しても平気だとなる
つまり仲間意識を強固にもつことはその外のものに対しては排他的になり殺してもいいともなる
それは別に国内でも起きている,カルト教団でもある団体組織に所属すれはその中では仲間意識を強固にもつが外に対して容易に敵対関係になる
そしてその組織や団体を批判するとその団体組織ぐるみでその人に対して攻撃する
それは宗教を誹謗するからだとかなるがそれだけではない,その団体組織内で強固な従属仲間意識をもつからそうなるのである。

いづれにしろグローバル経済は人間的なものから逸脱した経済の原理のみから成り立つからそれに人間は耐えられない,世界的にそんな経済で一体化することはない
むしろ一握りのものの利益のために働かせられているというだけになり崩壊する
そこに仲間などいないのである。金の道具としての人間がいるだけだからである。
金の奴隷として使える人間であり仲間のためになど関係ないからである。
それは金をくれと自分の家に来た人がそうである。
自分の家のために自分など仲間でもなんでもない,金をとれるものとしてしか見ていない近くに住んでいてもそうだった,そこでは完全に人間関係は断絶しているのである。
相手は金をとるものでありそれしか意味がないのである。
たとえ金持ちでも何か人間として交流がありうるからである。仲間意識だってつくりえるそれも一切ない,金あるものから金を奪えばいいとういだけの関係になる
だから金あるものから盗めばいい殺しても盗めばいいとしかならない
現代のグローバル経済は田舎でもその中に組み入れられているからそうなる
金のために経済のための社会であり他人であり仲間のための社会では経済ではないのである。そうなると仲間はいないのだから弱肉強食の社会となる
それは地獄にいるとなる,特に家族がいないものはそうなる







posted by 老鶯 at 10:50| Comment(0) | TrackBack(0) | 経済社会労働問題

2018年02月18日

人間の歴史は挫折の歴史だった (個人的にも挫折があり未来がある)


 人間の歴史は挫折の歴史だった

 (個人的にも挫折があり未来がある)


大鳥の飛翔の挫折

大鳥は
果てなき大空へ
その真澄みの空に
飛びたとうとする
大いなる志
大いなる野望
大いなる希望
大地に海に果てなし
大鳥よ
その翼を張れ
大鳥の志の良しも
そはストレートに飛び立ちぬ
あとをふりかえず飛び立てり
しかし大鳥のその半ば墜ちぬ
その志の良しも悲し
大鳥は墜ちぬ
されど大鳥は翔けぬ
かなたへと遠く高く
例え墜ちしも
大鳥はかなたに向かい
希望の地に向かい
幻となり翔りゆく
大いなる挫折
そは挫折にあらじ
次なる未来に向かう
次なる未来を作るもの
大いなる希望の飛翔なりしも
挫折を恐れざれ
高き大いなる志をもて
その実る必ず来たらむ


人間の歴史をふりかえるとき必ず挫折がある,すんなりと何でもうまくいかないのであるそれはあらゆる分野でそうなっている,政治でも経済でも科学でも技術分野でもあらゆる分野でそうである。
科学技術関係でも神話にあるようにイカロスが墜落がある

蝋で固めた翼によって自由自在に飛翔する能力を得るが、太陽に接近し過ぎたことで蝋が溶けて翼がなくなり、墜落して死を迎えた。

これも技術的なものの人間の奢りとして語られる,科学技術でもそれが発明され開発される過程で必ず挫折がある,そういう実験がつづけられて科学技術は発展してきた
常に挫折があり越えられない壁があり人間はそれに挑戦し続けてきたのである。
この神話が科学技術の奢りに対しての警告だったというのもわかる
最近では小保方が万能細胞を発明したとか話題になったがこれも実際にはなく研究の挫折だった,そういうことは他にもいろいろある,どこかで挫折してゆく
それは人間が万能ではないからでてある。
神は全能であり不可能なことはない,人間の力は神に及ばないからそうなる

政治的にも常に挫折がある,信長でも最期は本能寺の乱で野望は挫折したし秀吉でも朝鮮半島の征服は挫折した,政治でも挫折の歴史なのである。
二本の戦争でも敗戦してその野望は挫折したのである。
何かを目指しても必ず挫折する,そういうことは歴史にいくらでもある
そもそもいろいろ文明があってもその文明も最後は挫折する
例え長く栄えてもつづいてもいつかは挫折して衰退して終わる
エジプト文明でもローマ帝国でもマヤ文明でも挫折してその繁栄は終わる
挫折は宿命としてある,挫折は人間の成すことに避けられないのである。

津浪の被害でも原発事故でも大いなる挫折だった,原発神話が作られたがそれも事故で一挙に崩壊した,挫折したのである。
反れば文明の挫折にも匹敵していたのである
人間の成すことは挫折がつきものなのである。個人的にそうである。
例えば事業を起す人で成功している人は二〇人に一人なのである。
これからみればいかに事業に失敗した人がどれだけ多いかわかる
それは自分も実際にそういう人に接しているからわかった
事業を起こして成功している人はまれなのである。

では挫折したから何をしても無駄なのかとなる,個人的にも人間の成すこと挫折が多いから一層何もしない方がいいともなるからだ
ここで取り上げるのは北海道開墾に挑んで挫折した一人の詩人の猪狩満直である。
四〇歳くらいで北海道の開墾に挑んで死んだのである。
だから常に戦いだ,戦いだとして呪って死んだのである。

火のような呪いがある

そういって無念に死んだのである。そういう無念に死んだ人もまた人間の歴史では多い
なぜなら人間はそもそも挫折が宿命づけられているからである。
人間とは挫折するものだという宿命である。みんななんでもすんなりと成功などしないのである。キリスト自体が成功はしていない,十字架で終わって挫折して死んだとなる
偉人がいたとしてもみんな成功して終わるとは限らない,必ず挫折がある
ただ挫折があるとしてもではその人生とか科学の研究でも政治上のことでも無駄だったのかとなるとそうはならない
人間はやはり困難に挑戦して新たな未来を開いてゆく,それが人間の歴史だったからである。大航海時代でもやはり海を渡ることは最大の難関でありそれが成功したがそれで沈没したり挫折したものは多いのである。
みんなが挑んでも成功するわけではないのである。

人間はそもそもなぜ挫折するのかというと人間がみな死ぬということは挫折なのである。だから挫折が宿命づけられている,何をしようと人間は最後は死ぬのだから挫折なのである。そしてなかなか仕事でも完成できずに死ぬ
特に寿命が短い時は芸術家でも十分な成果は上げられずに死ぬ,啄木も病気で挫折したりと挫折が多いのである。
人間は百歳まで生きても最後は死ぬから挫折なのである。何かやり残したことがそれでもあるのが人間である。人間に限界があり挫折するのである。

だから挫折しても挫折がすべて無駄ととはならない
それより何を目指して何を残したのかが問題になる
それは挫折したからといってそれですべて無意味だとはならないからだ
かえって成功して失敗したともなるからだ
原発などは最初成功していて原発と共に未来ある街となっていた
その成功がかえって事故で挫折して無に帰したのである。

猪狩満直は北海道の開拓に挑んで失敗した,病気で挫折してもその目指したこと残したものがあり後世に伝えるものがあった
挫折したからといってそれで終わっていなかった
一方でこの辺では原発で成功したがあとで挫折して悲惨な結果になったのである。

こう考えると人間は何を目指すかが大事である,志が大事だとなる,動機も大事だとなる仕事でもその人の目指しているのは何なのか?それが問われる
ただ成功すればいいもうければいいというときそれが成功したとしても成功と言えるのかとなる,でも挫折しても失敗しても目指すものが間違っていなければそのことは時間がたって見直されることがある
確かにみんな成功を目指しているし成功しないものは認められない
でもその成功したことが悪いものとして成功することもある
カルト宗教団体などは大成功したがその成功したことが社会にとって悪であり害を及ぼすものにもなる,だから社会にとって成功が失敗だったということもある
事業をするにも何を目指しているのか志は何なのかということが問題になる
その人は事業に失敗したのは志もなにもない,ただ自分が頭がいい,有能だからそれを示したいためにまたはもうけるたげに事業を起こしたのである。
それが挫折したがもともと志も何もないのである。
だから失敗しても挫折してもそれだけのことだとなってしまうのである。
もしそこに何か高い志があればそうはなっていないのである。
例え挫折しても失敗してもそうである。

「心に青雲」のプログの著者都築詠一氏のように志を高くもてということは言える
この人の志は何であったのか?ともかく志をもっていてプログで語り死んだのである。
ここでもやはり挫折したのである。もっと語れることがあったが中途で病気で挫折したのである。
こういうことは人間である限りありふれていることなのだ
なぜなら人間の命は有限であり寿命があるのだからその内に何でもできないからである。だから大芸術家でもみんな未完に終わるのである。
何かもっと成し得たが成し得ないということで終わっているのだ
それが人間の宿命なのである。完全に成功しえるのは全能の神しかえないのである。
人間は挫折して失敗することに定められているのだ
だから問題は挫折することでも失敗することでもないのである。

猪狩満直は北海道に開墾に挑み挫折して失敗して死んだけど後世に伝えるものがあった
それを次の世代の人はくみとる必要がある
農業しか仕事がない時代であった,でもなぜ今農業が無視されているのか?
原発があった周辺でもそうである。それは全国でそうなったのが時代である。
だからこそ原発が建てられたのである。
そこで確かに成功したのである。収入も多くなったが結果的には故郷に住めなくなったのである。
農業などで暮らしていけるか,農業など誰もやりたくないと金にならないとしていたのである。だから農業をそれほど軽視することが拒否することがそもそも間違っていたのかともなる,みんな現代の贅沢を享受したいとなりそうなった
でもそこに落とし穴があった,原発の危険性はその甘い誘惑に無視されたのである。

ただ人間は誰でも楽をしたいのである。求めて苦しむ人はいないのである。
猪狩満直でも三野混沌でもそうである。それは時代で強いられたのである。
一方で山尾三省は求めて苦難に生きて六二歳で死に妻はもっと早く死んだのである。
そういうことは何か不自然に見えるのはやはり人間は強いられてしか苦しまないからである。みんな楽な道を選ぶのである。
なぜこの辺で避難区域になったところに若い人でも脱出したのかというと楽な方を求めて去ったのである。それは時代であり誰も強いられなければ苦しむのは嫌だからである。
楽な道があればそっちの方を人間は選ぶからである。
ただ楽なことだけを求めて未来が開けるのかというとそれはわからない
長い目で見ればわからない,そうして苦しんだ人は未来を開き後世の人から見直されてその価値を高めるかもしれない,一方で楽な道を選んだ人は後世の人からどう見られるのかそれは時代が変わると価値が変わるしその人生は評価されないとなる
三野混沌などはあれだけ苦しんで来てきたのにさらに最後に困難な道を行けと遺言している
たいだいこれ異常御免だとなる,猪狩満直の場合は若くて死んだから呪詛になっていたのである。

それで人間はいろいろ仕事していても未来に通じているのか?
後世の人に評価されるのか?
そういう視点から仕事しているのかとなると目前の利益だけを求めている人が多いのである。それは今の時点で成果となり利益となり評価されるが未来に通じているのか?
それはわからないのである。かえって成功して失敗していることがあるのだ
それは成功しているが故に失敗しているともなる
だから未来を見据えて仕事することが肝要にもなるが若い人にはそれが見えないのであるただがむしゃらに成果を上げる利益を上げることに費やされるのである。



北海道短歌十首(2)(見直される猪狩満直などの詩人)


北海道短歌十首(2)(見直される猪狩満直などの詩人)


北海道原始のままに飾らずにますぐに太く立ちにし樹かな

高きより滝の落ち来る新緑の巌に映えて層雲峡かも

自由なる旅人一人北海道の郭公の声かなたにひびけり

北海道大地の広くその空に郭公の声ひびきわたれり

底までも澄みにけるかな山上湖原始のままにけがれなきかな

北海道流れの清く蕗の薹芽吹きけるかなその数多しも

アイヌの顔彫りの深しも哀しかなその民滅び和人となりぬ

きれぎれのアイヌの言葉残りしも継ぐ人なくて絶えにるかな

ここにしもアイヌの民の物語深くも尋ぬ人は少なし

ラベンダーの中に揚羽舞い来たりひそみ長くまた飛びたちぬ

ラベンダーの紫つつむ富良野かな鉄路の長くまた旅たちぬ

大いなる挫折にありや大鳥の半ばとびたち墜ちにけるかも



北海道は十回くらい行っている,これだけ旅するには勤めていてはできない
自転車でも何回も行っているからだ,だから北海道はほとんど回っている
一番長い旅は苫小牧から宗谷岬をめぐり稚内に行った時だった
その時六月で稚内に桜が咲いていたのである。

その時はまた郭公がどこまでもひびいていた,その声がひびきわたる大地の広さがいいのである。
北海道の良さはまだ全体的に原始性を残していることなのである。
原始的な清純な自然に触れることなのである。
それは本州とかなるとそこには確かに自然があっても全体としてはどこもないのである。北海道は全体として原始性が残されている,それが魅力なのである。

アイヌも住んでいたからそこに物語も残されているから深く尋ねれば興味深いものとなるただアイヌ語はもう死んだ言葉だし不明となっている
それでも彫り深い顔だちの人がいてその人はアイヌの末裔なのかと見る
その顔はもしかしたら西洋的というか何かそっち系統の顔なのかもしれない
縄文人とつながっているのかどうかは不明である。
言葉の痕跡として動詞が主語によって変化するとかあり英語などに通じるものがある
アイヌ民族の謎は未だに解明されていないのである。
アイヌが存在したということ,それも歴史だったということを日本史の中に記されるべきなことは確かである。

北海道の開墾に入り猪狩満直は挫折した,でもその人を考えるとそれが大いなる挫折だったということである。
その挫折には意味があったなと思う,啄木も挫折したがまた猪狩満直などは違う
啄木は注目されているが猪狩満直などは詩人としては注目されていない
三野混沌などもそうである。
その当時は農業中心の社会でありみんな農業で生活をたてるほかなかった
それは戦後の戦争の引揚者の時代までつづいたのである。
だから戦後の引揚者が入った場所がいたるところにある
この辺でも山には必ずそうした引揚者が入って開墾した場がある
それは全国的に仕事がないからそういう場に入ったのである。
北海道でも農業中心の社会ではそうなったのである。
だからそういう時代だったとなる,時代の犠牲になったともなる
戦争で犠牲になったのと同じである。

ただ挫折したからといって今考えるとそれが無意味だったとはならない
それは大いなる挫折だったのである。北海道の大地に挑み挫折した
それは大いなる挫折でありその残したものが何なのか考察する必要がある
挫折しても大いなる挫折でありそこに未来に残すものがあった

そのことはこの辺で原発事故で前にも書いたがみんな原発にかかわる人が本当にこの辺では多かった,南相馬市でもそうである。この人も原発にかかわったのかと新たにまた知った,それだけ原発の影響はこの辺で大きかったのである。
飯館村の人も原発で働いていた,川内村は近いから三分の一が原発で働いていたのであるそれで実際は村が成り立っていたのである。飯館村はそれほどではなかった
だから一番福島県で低所得だったのである。

そして小高に住んでいた人が子供のとき親から農業だけがするなと殴られたという
それだけ農業は過酷だったから経験でそう子供に言ったのである。
その子供は原発と建築関係で渡り働いたのである。
その原発があったことが事故後は仇となり生活そのものを見直す結果ともなった
でも事故後も補償金でもめたりただ補償金だけが頼りとなり分裂したのである。
水俣でも公害があっても分裂したのは補償金のためだったと書いてある
だから三野混沌とか猪狩満直などの農民詩人が見直したのである。
その人たちの後世に残したメッセージは何だったのかとなる
それは大いなる挫折であり後世にメッセージを残したことに気づいたのである。
それは宮沢賢治でもそうである。農業は過酷でありそこに戦ったのが挫折したのである。その挫折した歴史に教訓があったとなる

ともかく北海道に十回も行ったし北海道にひかれる、だからもう北海道は第二の故郷だともなる,外国旅行しても何か原始の自然に触れることはなかなかできない
やはり歴史とか文化を都市中心に見るからである。
ただネバールには驚いた,犀がいたというのも驚きである,象でジャングルに入り観光する,つまりなぜネバールにジャングルがあるのか驚きだった
あそこには原始的自然がある,人間も高地を裸足で歩いていたのである。
ボールペンをくれというときそこにはそういうものも売っていないのである。
だから原始的な生活があり自然がありヒマラヤの高峰を望む所に生活しているのも驚きである。
そこで現実に生活するとなると過酷だとなる,それは北海道とにているのである。
中国の帰りの船で一緒になった若い人はモンゴルで羊を飼うことを習うために一年間くらい一緒に暮らしたという
冬になると一間回り痩せるという,それは冬の生活がそれだけ厳しいためなのである。
その人は北海道で羊を飼って生活をしている,羊を飼うことを広めたいと言っていた
農業大学出身だった,その人がNHKのテレビでドキュメントして放送していたのである。
その後はどうなったかわからない,でも恋人が一緒に船にいてその後結婚して子供も何人かいて生活が苦しいとテレビで訴えていた

何か自分は東京が大学時代いたけど嫌になった,それから自然志向で北海道に旅したのである。
だから自分は北海道のような所で死にたいとまでなる,東京のような都会で死ぬのも無惨である。北海道のような所に死んだら本望だ気持ちいいとかなる
つまり生きたい場所が死にたい場所なのである。東京などに生きたくないということは死にたくもないということなのである。
ただ自分の場合は遊びだったから猪狩満直のように呪いにはならない,ただ旅した思い出だけだとなる,それで思い出す旅をしているのである。






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2018年02月17日

北海道の思い出短歌十首(原始的自然が残るから惹かれる)


北海道の思い出短歌十首(原始的自然が残るから惹かれる)


北海道美し厳し一詩人命短く呪いつつ死す

開墾に挑むも成らず捨てられし家そちこに北海道かな

タンボボのまばゆく映えて草原や真昼間に鳴く雲雀のひびきけり

煙吐く十勝岳かなボプラの木丘にますぐに草萌えるかな

煙吐く樽前山に藪萱草放牧の牛たむろするかな

針葉樹厳粛にして北海道の大地の広く国を成すかも

トドマツの太くもあれな大雪山残れる雪や層雲峡見ゆ

北海道針葉樹林の黒々と打ちひびくかな原始の山見ゆ

沼一つ宗谷の果てや隠されて森の影深く陽の写し輝く

霧深く陽の輝くやこの辺りいづこやキタキツネの現れ消えぬ

霧流るえりも岬に菖蒲咲きその霧深く隠しけるかな


おらは反抗する
あくまで敵對する
まつ白な雪の中で
零下の寒氣の中で
このまま目をつむれるもんか
おら おららは

移住民(猪狩満直)


猪狩満直は四〇歳くらいで北海道の開墾に入り肺病で死んだ,絵も描いていたから相当に才能があった,でも厳しい開墾で病に倒れた,だからしきりにこうして呪っていたのである。
まず開墾となれば旅ではないのだから厳しいのである。
だから北海道にはそうして捨てられた家がそちこちにある
みんなが成功したわけではない,挫折した人も多いのである。
猪狩満直は北海道の厳しい自然と格闘して敗れ死んだのである。

北海道には本州と違うのはまだ原始的自然が残っている,それが北海道全体で感じる
北海道に入ると本州の空気まで違ってくるのである。
だから自分は十回も北海道をさまよい旅したのである。
その記憶もあいまいとなっているがこうして時々思い出して短歌と詩にしている

例えば福島県でも長野県でも県単位だと一つのものとして見れない,岐阜県の人とあったけど名古屋が岐阜県だと勘違いしていた,岐阜県はどういう地域なのかイメージできないのであてる。福島県でもそうである。ハマ,ナカ,アイヅで気候が違っているからである地形も違っていて一つの県としてイメージできない
北海道は広いのだけど一つの国としてイメージできる
そこはいろいろあるが一つの北海道として見る
そこには荒々しい原始的な自然を感じる,だから北海道に船で苫小牧から上陸したとき違った世界に来たとその時感じたのである。

旅の記憶をたどると宗谷岬に行く途中にカムイト沼がありここは本当に神秘的である。
原始の自然の沼である。こういう沼は本州では見れない,なぜか?
本州では人が住んですぐ近くに村でも町でも都会にもすぐ出るからである。
ここは町とか村でも離れていて家も少ないから自然のままなのである。
宗谷岬当たりは本当に人家もまばらだからである。
そこにはハクサンチドリとかの高山に咲く花も咲いていた
北海道には高山植物が寒いから咲いている,それが魅力的なのである

十勝岳は美瑛から見える,北海道には今も煙を吐いている山がある
樽前山もそうだった,だからここにも原始的なものを感じる
やはり北海道の魅力は北国の自然でありそれが厳粛なのである。
南国と北国でも自然が違っている,針葉樹林でありトドマツとかであり太いし荒々しいという感じになる,ドイツの黒い森とにているだろう。
そこは樅の木である。樅の木でも飯館村の奥に隠されていた樅の木には感動した
二本とかあったが太い樅の木だった,一般的に樅の木はあるがあのように太い樅の木は見ていない,同じ樅の木でもいろいろある,飯館村は森の村なのである。
この辺はまだ森がある,海から森へと通じる自然がある,ただ山はないのである。

こうして思い出す旅をしているのも介護が終わり余裕ができたからでもある
何か思い出すにしても時間と余裕が必要なのである。
介護しているとそういう余裕すらなくなっていた
冬はこうして思い出す記憶をたどる旅に向いているのだ
ストーブにあたたまり思い出す旅をしているのである。
ただ旅ももう何か終わったという感じにはなる
何か介護十年して消耗して疲れたのである。
だから旅する気にもならなくった,そのエネルギーもなくなったのかとなる


カムイト沼
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安定の時代は終わり不安定と混乱の時代へ (日本の中世の混乱の時代とにている?)


安定の時代は終わり不安定と混乱の時代へ

(日本の中世の混乱の時代とにている?)

村共同体→武家共同体→国家国民共同体→会社共同体→グローバル多国籍企業共同体→

共同体は時代と共に急激に変化した,もともとあった共同体が破壊され新しい共同体になる,その時の変化が大きかったし心理的にも相当な変化であり不安定なものとなる
そこで顕著に現れるのは今までの職を失うことである。
職を失うことは一番社会でも不安定になる,高度成長時代は職を失うということはまれである。中小企業でも安定していたのである。
今は大企業でも安定していない,というのはグローバリゼーションの中で経済が動けば世界の動向に左右されるから不安定になる
その中で熾烈な競争が強いられるし安定しないのである。
だから為替でも一円でも上がったり下がったりするとトヨタでは何百億とか損失になるとかなる,そのこと自体が常に変動する世界であり安定しないのである。
何か北朝鮮のような所で問題が起きるとすぐに株は下がり不安定化する

働き方もフリーターとかパートとかが常態化している,その日暮らし日銭稼ぎのような人が増えてくる,それは会社自体が安定していないからである。
今までなら大企業でも中小企業でもそこに勤めれば一生勤めることができた
そういう社会は安定していたのである。
だから高度成長時代は人心も安定していた時代だったとなる
フリーターとか派遣とか非正規労働者はまれだったのである。
自分のような人は特別な例外だったのである。
それがそうしたフリーターとか非正規,その日暮らしの人が常態化した社会となった

何かそうして急速に社会が変わる,それに追いついていけない社会でもある
銀行が地方でも最も安定した職業だと見られていたのである。
それが地銀が消失するとか危機になっている
それで銀行員が必死に投資信託をすすめる,もう背に腹をを代えられないからしている
それは手数料ばかりとられるもので素人は株とかではもうけられない仕組みになっていたのである。
ただ銀行は信用できると思い銀行員にまかせたのである。
そういうふうに時代が急速に変わるから追いつけないのである。

そういう変化は中世に平家の時代や鎌倉時代に起きたというので今の時代とにているというのも共通性があるのか?
その時代に海運が発達して物の流通が活発になり宋銭が出回り物価があがり庶民が苦しんだ,そこで商工業者が勃興してその人たちは社会を牛耳るようになるとモラルが頽廃したそれで親鸞などが生まれそういう悪人でも往生できるとか説いたという説もそうなのかと思う。
現代も異常に金の力が社会を席巻しているからである。
どの顔を見ても金が欲しい金から離れられないものとなっている
金のことしか頭にないのである。

自分の所に来た人もみんなそうだった,金をくれと家に手伝いに来た盗む女性がいたり事業じ失敗して自分が苦しんでいるのも関係なく借金しているから脅迫するようにもなる
銀行までが窮地に追い込まれているから投資信託で手数料をとる商売になる
それは社会全体で起きている現象なのである。
人間=金となった時代である。

そして海運が発達した結果投機的になった社会だとうい「二一世紀をどう生きるか」野田宣雄氏の見方は興味深い
海運は投機的である,沈没したりするからである。船が沈没すれば投資してもその見返りはゼロになるからだ,それは株の投資ともにているし資本主義がそういう船への投資から始まったという説もうなづける
オランダがそうした海外貿易で栄えたのもわかる,それで金余りになり最初のバブルが起きた,チューリップバブルが起きたのである。
オランダはだから最初の資本主義国家を具現化したともなる
オランダにはユダヤ人が集まりそこで金融が発達したというのもわかる
大航海時代はそうして船への投機がありそれでヨーロッパに富がもたらされたのである。植民地経営でも莫大な富がヨーロッパにもたらされたのである。

時代が変わるともともとあった共同体が破壊される,消失する,国家国民共同体が戦争で破壊されて会社共同体になった,高度成長時代があり社会は安定していた
でもその会社共同体がゆらぎ消失してゆくと不安定な時代になる
フリーターとか非正規労働者が常態化する,その日暮らしになり格差社会化する
そういう不安定な社会では犯罪も増えるはずである。
ただ犯罪自体は増えていないがモラルは荒廃してゆく
金のみが価値になり親子の間でも財産だけが欲しいとなり親は捨てられる
世界的にも金を求めて人も物も移動する,移民労働者も不安定な社会に拍車をかける
今はベトナム人が最底辺で働いているが犯罪が多くなっているのでもわかる
どうしても日本に来れば金がかかるからそうならざるをえないのである。

人間は清貧などには一般的にはなりえない,恒産がなければ恒心がないというのが普通である,何か安定して収入がなけれは人間のモラルは荒廃するのである。
田舎では特にそうなのである。土地とか家とか何か他に田畑とか恒産がないと安定しないのである。今までは銀行などは安定した職場だったのである。公務員は今でも安定した職場である。それすらこれからゆらいでくるから不安定になる
そういう社会はモラルが荒廃してゆく,すでに荒廃している
みんな真面目に働かなくもなる,投機でもうける株でもうけるのがいいとかなる
FXとかで利ざやを稼ぐとかなる,それは労働倫理が社会的に消失していることなのである一攫千金がいい真面目にこつこつ働くことは馬鹿らしいとなっているからだ

そうしてモラルが荒廃したから親鸞とかが他に新宗教が生まれたというのも現代とにているという。
もう一つの見方として今までの安定した共同体が破壊されることである。
では新しい共同体を作れるのかというと簡単にはできない,当分混乱状態になる
なんらか中世の混乱時代,戦国時代のようになる
すでになっている,もう安定はないのである。
だからこれから生きる人は若い人はその最初から困難を強いられているのだ
高度成長の団塊の世代は最初は貧乏だったけどその後は安定していたからである。

ただ中世にもどるというとき中世とか江戸時代とかは閉鎖された社会でありそこで安定したと見る,資本主義やグローバル経済とは違い内需だけで生活していたと見る
だからグローバル経済に影響されないから国内で安定してモラルが形成されるとなる
江戸時代はそうだった,貧乏でも外国人が来て言うようにみんないい顔していたとかなるそれは国内経済だけで安定していたからである。貧乏であってもモラル的に安定していたからである。侍でも庶民でも食べるものはさほど変わらない,平等だったということも日本ではあり安定していたのである。
身分社会でも安定した社会が形成されていたからモラルもありえた
現代のように金だけに価値をおく社会ではなかった,金がこれほど価値があるようになったのはやはりグローバル経済とか社会に物があふれ豊かになったからである。
農業中心の社会では米が貨幣であり貨幣そのものがすべての価値ではなかったのである。

いづれにしろこれからは混乱と不安定の時代である。
その中で生きることは容易でなくなる,アメリカが衰退して中国にどう対処するかなども大問題であり日本は危機と困難の時代に突入したのである。
この辺は原発事故で困難に直面した,その解決はなく混乱している
津浪原発事故はそうした時代の変化のときに起きた,だから日本の中世の混乱期とにているとなる

こういう時代に人間の心境はどうなるのか?

なるべく早くこの世を去ってあの世に行きたい
成仏してあの世に行きたい,極楽に行きたい
念仏を一心にあげることが救いだ
それしか望みはない

そんな心境になる,自分も早くこの濁世を去ってあの世に行きたい,天国に行きたいとなる,それが望みだとなる,老人になると先が短いとういことで余計にそうなる
ただ若い人になると欲望が強いからそういう心境になりにくいのである。
いづれにしろ鎌倉時代に念仏とか法華経とか普及したのは時代背景があった
要するにそれだけ混乱して乱れた末世であり宗教に救いを求めたのである。



posted by 老鶯 at 09:48| Comment(0) | TrackBack(0) | 経済社会労働問題

2018年02月16日

グローバリゼーションの行き詰まりはなぜ? (国家を越える共同体を作ることができないから)


グローバリゼーションの行き詰まりはなぜ?

(国家を越える共同体を作ることができないから)


人間の歴史は何か?道具を使う人間,ホモファーベルとか言葉をもつ人間とかいろいろ見方がある
重要なことは見方として人間の歴史と共同をめざす歴史だったとういことである

共同するために歴史は変化して作られてきた

言葉でも英語だったらcoがつく言葉が多い,それは共同という意味なのである。
日本語だとあうというのが語尾につく,・・・・しあうというのは合わせるという意味であり合わせるということは共同して生活することなのである。
人間の歴史は共同するための歴史だったとなる

まず家族がありそこに共同の基があり発展する,強力な有力な家族が国家の基礎にもなる家族は今でも変わらない人間の共同体としてある
ところが共同するにしても人間の社会は常にその共同体を破壊することで社会が変化した進歩したとなる
進歩というとき技術の進歩に着目するがそれとともなって共同体が変化することなのである。
共同体は常に家族が基礎にあってもより大きな共同体へと拡大して変わる
その大きな共同体を作る時,これまであった共同体が破壊される
だから歴史をふりかえれど共同体の破壊が歴史だったとなる

共同体を破壊して新しい共同体を作ることが歴史の進歩だった

歴史が変わるとき必ずもともとあった共同体が破壊されるからである。
家族があり村があり村には群れるという意味であり狭い範囲の共同体である。
それが国(くに)となるとクニは区切るからきていて境界をもうける
そしてそこが国となる,ただその国にしても今の国家とは違い規模が小さいのである。

会津嶺(あいづね)の 国をさ遠(どお)み 逢はなはば 偲(しの)ひにせもと 紐結ばさね 

国はそれなりに広い範囲だが何かそれでも自然の中に区切られた一地域なのである。
オクニはどこですかというとき今は県になるが前は藩だった,会津藩とか仙台藩とか相馬藩とかなる,そこが国だったのである。

国が大きくなるとき必ずこれまであった共同体が破壊される,大和王権になるとき蝦夷制服があり蝦夷という大和王権に反抗する共同体は破壊される
蝦夷共和国などと榎本たけようが函館の五稜郭で宣言したのはそこに新しい共同体を作ろうとしたためである。
蝦夷というときそこに一つのまとまった国は国家はなくても蝦夷と言われる共同体が存在したともなる,それはアメリカだったらインディアンが原住民がいてそこに共同体があった,でも異民族の侵入でその共同体は破壊された
蝦夷民族もそうした原住民もいたしその他大和王権に所属したくない人達がいたのであるでも大きな共同体,国家を形成するときそうした共同体は破壊される

これは常に人間社会であったことなのである。
わかりやすいのは江戸時代から明治になるとき侍という階級がなくなったことである。
侍というのは当時の支配階級であり共同体である。そこに侍の文化が歴史の中で作られてきたのである。
江戸時代は身分社会であり固定した社会だから金だけが通用するような社会ではない
身分として人は生きていたのであり金があってもそれが力を持ち得ないのである。
そして侍階級が明治維新で破壊されたとき日本は古代の天皇の臣民になった
天皇によって日本を再統一したのである。
その時ヨーロッパで起きた市民革命とかはない,貴族階級を庶民が倒すということはなかった,侍同士の戦いで侍階級をなくした戦いだった
それはヨーロッパから見ればありえない革命だったともなる

侍階級がなくなったとき日本の共同体は国民共同体に変貌した,でも国民という意識がないからそれは作られ必要があった
西南戦争で政府軍が国民軍を編成して侍の集団に勝ったことにより国民の意識をもったのである。政府軍はもう侍も混じっていたが平民主体となりそれは国民軍だったのである。国民という共同体がそこに生まれたのである。
国民というのもはもともとあったものではない,確かに日本人というのは存在した
日本語を話す人々は存在して日本民族は存在した
でも民族と国家は国民は違っていたのである。国民は歴史の中で新たに作られたものだったのである。
それは世界的に国民が形成されて今度は国民同士が戦いになったのが第二次世界大戦だったのである。

そして日本が目指したのは大東亜共栄圏である,それはやはり日本だけではない大きな共同体を目指すものだったのてある。そのためにもともとあった共同体を戦争で破壊するのである。
でもそれは挫折した,国家とは何かというときそれは歴史的に作られてきたのもであり必ずしも同じ民族ということではない,外国で民族が入り交じるからである。
国家と民族は違っているのである。
人間はより大きな共同体を目指すために歴史がある,そこでは戦争もある
戦争だけではない商業とか貿易はより大きな共同体を目指すものとしてあった
だからハンザ同盟とかは貿易のために商人が作った国家なのである。
それは今まである封建国家と対立する存在ともなる

戦前は強固に国家共同体があった,戦後は日本はアメリカに負けてその強固な国家共同体が破壊された,そして新たな共同体になったのが会社であり企業である。
企業戦士というのでもわかる,国家に忠誠を誓っていたのが会社に忠誠を誓い猛烈な企業戦士となり高度成長時代を築いたのである。
その時国家共同体は希薄化していた,何かいくらナショナリズムを煽ってももう一つ戦前のようにならないのは共同体が歴史的に変わってしまったからである。
ただ民族とか国家は共同体として根強く残る
なぜなら中国であれロシアであれアメリカであれヨーロッパの諸国であれ国家は残っているからだ,その間でまだ戦いがある

でもそうした国家とか民族を越えた共同体を目指したのがグローバル経済である
地域とか国とか人種とか関係なくグローバルに人も物も行き来する社会である。
それもまた国家を越えた共同を目指すものだったのである。
その時国家とか民族の共同体が破壊されるのである。
でも結果的には国家とか民族は強力であり反発がヨーロッパでもアメリカでも起きたのである。
グローバリゼーションというのは世界的人類的共同体を目指すものだったのである。
civilizationは文明でありその基は技術ではなくcivil(市民)なのである。
その市民は城壁に囲まれた市壁に囲まれた中での市民のことである。
でも文明とはより大きな共同を目指すものでありその基に市民があった
それはヨーロッパの歴史から生まれたのである

歴史でもエジプト文明とかマヤ文明とかローマ帝国とかあればそれは大きな共同体を形成した文明だとなる。
その大きな文明を共同体を形成するものとして共産主義がありマルキシズムの思想を基にして生まれた,これも資本主義とは違うようでグローバリゼーションとは違うようでも同じだった、なぜなら人種とか国家を越えて共同を目指したからである。
世界のプロレタリアートよ団結せよというときそうである。
それは民族とか人種とか国家を越えたものとして思想が普及して実現したものなのである
ただこうしたグローバリゼーションがゆきづまっているのはなぜか?
そこに共同しえないものとしての壁がありそれでかえってイギリスで反抗してアメリカですら反抗してナショナリズム的傾向になったのである。
経済だけで国は形成できない,国は歴史的に形成されたものでありそれを無視してもできない,国家を越えて民族を越えた共同体の理想は挫折する
グローバリゼーションとか多国籍企業は国家とか民族がない経済中心の共同を目指しているのである。
そしてそのグローバリゼーションは金だけに支配される世界となる
そこでユダヤ人は金融で支配しているとか陰謀論にもなる
ユダヤ人は国を土地をもちえなかったから金融が発達したとなる

グローバリゼーションが失敗したのは人間は経済だけで金だけで共同できない
何かそこには経済だけではないもの,共同するものが必要なのである。
それが宗教であったり民族の文化であったり歴史であったりする
そういうものを破壊して成り立つ経済だけのグローバル経済社会は人間社会にとって不可能だったとなる
それを理想としてありえない,異常な世界とも化していたのである。
世界の富がわずかの人に集中して格差社会が生まれたのもそうである。
共同を目指すならそんな極端な世界はありえないからである。
グローバリゼーションは共同することに失敗したのである。
それは経済だけを中心にしてグローバルを目指したからである。
資本主義のゆきづまりも同じように経済の論理だけでは世界は共同を目指すことができないということである。
共産主義でもその思想は経済だけの論理であり人間が生きるのは経済だけではない
様々な要素があり文化かあり歴史があり生きてきたからそれを無視することはゆきづまるのである。その文化とか歴史は人間的なものであり金だけが非情に支配する社会とは違うのである

身近なことでは例えば地銀が消滅するというとき今地銀には証券会社が入ってきている
証券会社がしていることはグローバリゼーションの経済である。
世界的に金が流通する株式の世界である。でも地銀はもともと地域に根ざし金融だったのである。それがグローバル化すると金が世界を流通するのである。
それで投資信託をして何か違和感を自分は感じたのである。
それは地域に住むものとは関係ない所で金が動いている,もうそこは人間的感覚からはずれた世界になる,経済でもそういうふうにグローバル化するともう人間の感覚から隔絶した所で動き何かその実体もつかめないものとなる
ただグローバル化とはそうした地域的なものを破壊するのである。
多国籍企業が一つの国家のように巨大になると国家でも地域でも破壊される
でも多国籍企業に所属して共同体を形成できるのかとなるとできない
なぜなら多国籍企業とは何か一部を作り生産して売るものである。
車であり薬でもそうだがそれは社会の一部であり全体ではないのである。
国とか民族とかはそうした一部を部品を作るものではなく全体のことだからである。
それは風土と一体化して作られてきたのもである。
そこに国があり故郷があるとなるからだ
そういうものを越えて一企業に所属して人は共同できないしそうあるのが人間としてあるべき姿なのである。

やまとはくにの まほろば たたなづく 青がき 山ごもれる 大和しうるはし

会津嶺でもそうだが山が国の象徴としてあるのは日本的だとなる、山に固まれた国が日本には多いからである。
そこは経済的要素だけではない,美しい自然がありそこに囲まれた国がまほろばであり故郷なのである。
だから東京が首都でもそこにはまほろば,国はないのである。
ただ経済的な膨張した都市でありそこにあるのはやはり経済的なものだけになり殺伐としたものになる,そこに文化もないし文化も起こらないのである。

グローバリゼーションの資本主義も共産主義もゆきづまり失敗した
それは当然だったのである。文化とか歴史とか自然をとかを無視して来たのだからそこに共同はありえないのである。共同は経済だけでは成り立たないのである。
世界的共同を無視するというのではない,経済だけが金だけが唯一の価値となり世界を支配する,それはドルが支配することでありアメリカが支配することに通じている
ただ人間の歴史は共同を目指す歴史でありそのことはやはり以前として追及されるが経済的なものだけを追及しても挫折するのである。
それは資本主義でも共産主義でも同じでありゆきづまるのである。


故郷意識国意識とは何なのか? (南相馬市の共同体意識は原発事故で分裂した)

ここで考察したように市町村合併でうまくいかないときより大きな共同体として結合したが原発の補償金問題などで分裂したのである。
金というのは人間を分裂させる,原発避難民が金があるからいわき市などに家を次々に建てた,それも数が多いからもともといた住民は迷惑になった
なんであいつらが家を建てられるのだ,こっちは元から住んでいるのに家も建てられないのにとか不満になった,金が万能の社会はそうしてその土地の歴史でも文化でも破壊する消費者が王様だというのもそうである。
そういう金だけに支配された現代のグローバル経済の歪みがあちこに出てきている
人間は共同を目指して歴史的に進歩してきたというとき金だけの経済はゆきずまりグローバリゼーションもゆきづまる
金は何か暴力的でありそれだけに価値を置くと社会でも世界でもゆがめるのである。
金はあくまでも流通の交換の手段であったがそれが人を何か暴力的に支配するとなる
その矛盾が格差社会となり人々のモラルも崩壊してゆく
それは世界的なことでありグローバリゼーションの実験は挫折したともなる



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故郷意識国意識とは何なのか? (南相馬市の共同体意識は原発事故で分裂した)


故郷意識国意識とは何なのか?

(南相馬市の共同体意識は原発事故で分裂した)

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冬の樹の真澄の空に今日も立つ故郷に根付き支え立つかも


故郷意識とか国意識とかはそもそもどこから作られてきたのか?
それは自然に生まれたのではない,歴史の中で積み重ねられて作られてきた
相馬藩だったら戦国時代から相馬氏が支配するようになって作られてきた
それは支配者から上からおしつけられて藩民の意識が醸成されてきた
政治行政的なものとして作られてきた
国家でもそうである。政治権力とか行政として上から支配者によって作られてきた
最初の大和王権でもそうである。それは武力により蝦夷を征伐して作られてきたものである。
でも何か故郷というときそれは何なのか?
それはそうした上からおしつけられるものとは違うもともとその土地に住んで醸成されたものである。

会津嶺(あいづね)の 国をさ遠(どお)み 逢はなはば 偲(しの)ひにせもと 紐結ばさね 

このクニはそういう政治権力とも行政単位としての国ではない
会津という国に住んで民の中から生まれ作られてきたものである。

古代でも郡とか置かれたときはそれは上からの行政の区割りであり故郷という感覚ではないし国(クニ)という感覚でもない、オクニはどこですかというときそのクニは必ずしも行政的区割りではない,村というのは緊密な共同体であり行政的な区割りとは違うのである
一番わかりやすいのが家の共同体である。だから故郷というとき家の共同体から発しているのかもしれない,故郷の故は故ある地というとき血縁の地ということもある
でも日本では血縁よりその土地に重きをおいて生活してきた
だから日本人の姓は必ず土地に由来しているのである。
必ず姓をたどると村の土地の名に由来しているのである。
つまりその土地に土着してその土地の地名を姓にしている
外国では血縁をたどるのであり土地の名を姓にするのではないからだ
そこに村の共同体があり日本人のアイディンティティがあるとなる
血縁より地縁の方が大事だったとなる

故郷意識は明かにその土地に根付き家をもち生活をはじめたとき起きてくる
そこに父母がいて祖父母がいてと家族がいて故郷意識をもつ
だからヨーロッパでハプスブルク家が発展して大きな帝国に発展したことでもわかる
家が国の基となっていたのである。
有力な家が権力をもち国を作る,それが国家となる,だから家が強固な共同体でありそれが大きな国の共同体となる,そういうことは人間の歴史にあっても不思議ではないのである。

天皇の御製歌(おほみうた)一首

あをによし奈良の山なる黒木もち造れる室(やど)は座(ま)せども飽かぬかも

自分の家も姉の同級生の橲原(じさばら)の人に木材を切ってもらい柱にした
その柱のことを良く自慢していたからわかる
その土地のもので作りその土地の大工が作りそこに住むことで家意識が生まれ故郷意識が生まれる,その土地に家をもつことは土着することになる
木のように根付くことになるからだ

共同体とはそうして作られてきたものなのである。
civilzationとはcivilとは市民のことだからである。文明は市民によって作られてきたということはどういうことなのか?
それはヨーロッパでは塀に囲まれた中に外敵から守る市民共同体を形成していたからである。そういう歴史があったということである。
イタリアでフィレンツでも他の都市でも国家と同じであり戦争もしている
日本だと藩同士が戦争しているがヨーロッパでは市同士が互いに敵となり戦争していたのである。そこでマキャベリの思想が生まれた
その辺の歴史がわかりにくいから日本では市民というのを理解できないのである。

共同意識が歴史的に作られてきたというとき日本には日本国民という意識がなかった
それぞれの藩の中で暮らしていて藩の意識があっても日本国民の意識がなかった
その国民意識が作られたのは明治維新後のことである。
それは西南戦争によって国民意識が作られたのである。
武士階級と侍でない一平民が一致して政府軍となり戦ったことにより国民軍となり国民意識が生まれた,国民意識はそれから対外的に戦争によって強固なものになった
日清日露戦争に勝ったことにより国民意識がさらに強固になり太平洋戦争で国民が三〇〇百万人が国のために犠牲となり死んだのである。
その国民意識は日本だけではないフランスでもドイツでもヨーロッパでもなかったのである。ナポレオンが出てきてフランス国民意識が生まれた
国民というものも実際はもともとなく歴史的に作られたものなのである。

日本は戦争で負けてそうして日本という国民意識も失われた
そして今度は高度成長時代になり企業戦士とかなり会社共同体意識になった
会社が最も重要なものとなった,会社に生涯所属すれば自ずとそうなる
その会社の共同体意識も今度は社会が変わり会社が倒産するとかなくなるとかなると
共同意識もなくなる,銀行なども地方では安定した職業でありエリートだったが今は消えるという危機にまでなっていた
そうなると会社に所属してもそこで共同意識はなくなる
これまた時代の変化であり共同意識もそこで変わってくるのである。

ただなぜ原発避難地域では放射能の問題があっても簡単に故郷が捨てられたのか?
それはやはり故郷でも村とかの強固な共同体意識はすでに失われていた
田舎でも専業農家は一割くらいである。あとはみんな会社員なのである。
すると村としての共同意識は希薄化するのである。
そうしてグローバル経済とかなると金だけが唯一の頼りとなり力となる
金さえあればどこにでも住めるというのもそうである。
そうなれば補償金をもらってどこでも移り住めばいいとなったのである。
金というのは金があまりにも力ももつとそうなるのである。
その土地に執着しないからである。
また商業工業化した世界は農業のように土地に執着する必要もないからである。
それで簡単に原発事故で避難して帰らなくなったということもある
放射能だけで故郷は捨てられたのかというと疑問だからである。

共同体意識というとき南相馬市が小高と原町と鹿島で合併したが今回の原発事故で合併しても補償金で分裂してしまったのである。
小高が特別優遇されたことはわかるがそれでも鹿島での不満は大きかったのである。
小高で逆に鹿島の奴らは何なのだ,人の苦しみもわからないのかと不満が大きくなった
そして外部から来たボランティアの方がいいとなったのである。
でも小高の人達は原発避難民は毎日パチンコやギャンブル三昧だったのである。
だからその人たちがなぜ一方的にかわいそうだったのかともなり自分も不満だったのである。
行政的に合併してもいろいろな過程をへて市も形成される
それはヨーロッパの市を見ればそうなっている
だから行政的に合併しても市としての共同体が作られるのには時間がかかるとなる
その時間の中でいろいろなことがあり共同体が形成される
そういうことは一朝一夕にはできないことなのである。
つまり行政的なものと実質そこで暮らす人の乖離がある,実質的共同体はいろいろな困難を乗り越えて作られる,歴史はそうして作られてきたのである
今この辺は南相馬市は原発事故で危機的状態に陥った,それを乗り越えて修復して一体化できるのか?それが問われているのである。






posted by 老鶯 at 10:39| Comment(0) | TrackBack(0) | 福島原発事故関連

2018年02月15日

白鳥の短歌十首(白鳥は神々しく魅せられる)


白鳥の短歌十首(白鳥は神々しく魅せられる)

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今日見た白鳥

白鳥の暁に映え凍る湖(うみ)

白鳥の凍れる湖に目覚め鳴くその声ひびきしみとおるかな

白鳥の凍れる湖にその翼広げ飛びたたむあかつきの空

この一日吹雪きけるかな白鳥の鳴く声ひびく北海道の夜

白鳥の北海道に映えるかな神々しくもけがれざるかな

山上の湖美し白鳥やスイスの古都を落葉踏み歩む

スイスなる古城のあわれ山険し湖の清しく白鳥浮かぶ

教会も古りて鐘鳴る白鳥の浮かび静けし湖も古りにき

白鳥の真澄の空に列をなし白さの映えてその飛行かな

白鳥の列を乱さず美しく真澄の空に翔りゆくかな

白鳥の白さの映えて神々し神の使いとふさわしきかな


絶景広がる”砂の岬”尾岱沼はオオハクチョウが見ごろ


北海道の尾岱沼(おだいぬま)の白鳥を見た,冬にも北海道に行っていたのである。
北海道は電車でも自転車でもほとんど回った,十回くらい行っていた
それだけ暇だったのと家族がいて安心して旅できたとなる

白鳥には本当に魅せられてしまうのである。神々しい感じになる,まず人間の社会のことをどうのこうのと語ってみてもそこがどんなことをしても穢れの世界でありブラックなのである。結局資本主義社会であれ社会主義共産主義社会であれ人間そのものが汚れたものだから社会もまた汚れたものになる
人間の社会に理想社会などありえないのである。

一方自然を見るとそこに神の技をみる,神の成したイデアを見る,白鳥などは神々しいものであり魅せられてしまうのである。
その神の作り出した技に美に魅せられてしまうのである。
人間でもいくら美人でも人間である限り醜いものがある
何か白鳥とか見ると自然の花でもそこに穢れない,だから神々しく感じるのである。

そして白鳥でもそのいる場所が問題である。この辺ではその場所としてふさわしくない
きれいな湖とか背景が良ければ一段と映えるのである。
ヨーロッパでは何か白鳥が映える静謐な場がある,それが古い歴史とマッチして映える
スイスで晩秋に見た白鳥がそうだった

スイスのルツエレンで見た白鳥がそうだった,山上の湖から清涼な冷たい水が川に流れそこに白鳥がいた,落葉を踏んで川沿いを静かに歩む,そこには古城もあり険しい山が迫ってくる,あそこはいい場所だと思った

神の目的は何か?神が創造したものその中に神を見る,美に神を見る,その美は神の技でありイデアなのである。神のイデアは不滅でありそこに神の創造の技を見て驚嘆する
なぜ人間はいくら社会が進歩したなどと言ってもその大都会を見ればわかる
そこにいかなる美があるのか?高層ビルを見上げて何かあるのか?
毎日蟻のように仕事に追われている,その仕事がいかにも重要なことのように言うが
それならそこになぜ美がないのか?そこにいかにその労働を強いても賛美しても絶望してしまうのである。

神の世界はそういうものではない,神が作り出した技こそ自然にこそ感嘆する賛嘆するものがありそれに魅せられてしまうのである。汚れた人間社会で死ぬより荒寥としてもそこに美があればそこで死ねば満足だともなる
都会のビルの間で死ぬのは無惨である。富豪でもうらやましくもない,自然の美の中にあって暮らし死ぬなら貧乏でも満足だということはある
ただ正直あまり過酷になると詩人が呪い死んだようになるから嫌だとなる
自分は別にそんな過酷な農業をするわけでもない,ただ旅しただけだから良かったとなる
白鳥は猪苗代湖とかでも見られるしその背景が良くないと映えないのである。
それは何でもそうである。自然の美は背景が良くないと映えないのである。


白鳥の詩

ルツエレン写真
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タグ:白鳥

night forest(数式のようにして森の抽象画ができる)


night forest(数式のようにして森の抽象画ができる)

You can create an abstract picture of the forest like a mathematical expression


forest in the evening

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night forest

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この森の抽象画の制作過程は定型化している,数学の公式のように決まった手順で作られる
ソフトの同じ操作でできる,そこに何か才能とか創造力とかも必要ないのである。
機械的に生産しているとなる,だから大量に作れるのである。
不思議なのは現実の森にこれだけ多様なものとして見ていない
単一的に黒い森のようにしか見ていないのである。
でも森でも太陽とか朝とか夕べと夜では違った森の表情がある
でも現実の森からそれが見えないのである。
それもやはり芸術の不思議だとなる,現実には見えないものを芸術化して見えるにしているのである。

The process of creating this abstract painting of this forest is made in a routine procedure, like a mathematical formula

You can do with the same operation of software, there is no need for any talent or creativity.
It is mechanically produced, so it can be made in large quantities.
It is strange that I have not seen it as diverse as this in the reality forest
It looks like a black forest on a single basis.

But in the forest there is a different forest expression in the sun or in the morning or evening and night
But it can not be seen from the real forest.
It is also making it artistic to see what is invisible to reality, which is also a mystery of art.

2018年02月14日

無常の世の短歌十首 (空家が増えたり団塊の世代が大量に死ぬ時代)


無常の世の短歌十首

(空家が増えたり団塊の世代が大量に死ぬ時代)


死ぬ前にもだえ騒ぎて声やみぬひぐらしの声耳に残りぬ

その土地に根付き朽ちにし老木のこの土地にこそ思いは残る

大原の知りにし人の眠る墓ここに生きにし思い出深しも

大原に住みにし人の病院に語りつつ死に心に残りぬ

大原に空家のありや誰か住むなお残りつつ冬の日暮れぬ

今日もまた死ぬ人ありぬ 誰なれや何か語らむ一言なりも

近くにそ空家となるもこの女のいづこにあらむ冬の日暮れぬ

家の跡一本残る松静か冬の日さして今日も暮れにき

たちまちに灰となりにし人の生その声やみて訪ふ人もなし

津浪にて消えにし村や形見とて残る碑一つ冬の日暮れぬ

捨てられし墓もありなむ何語る何か思いをここに残しぬ

亡き人の時に顕れ住みし家生きにし土地をなつかむかも

人間の世は無常である。自分はそのことを家族の死で経験したし回りでも津浪原発事故で大きな無常を経験した,人間のはかなさを経験した
死ぬ前に人はもだえ騒ぐ,でも一旦死ぬと何も語らない,あれほど騒ぎ語ったのにもう何も語らない,遺影に向かって話しても返事は全くない
その変化が大きく人間は耐えられないのである。
そうなると喧嘩していたときもなつかしいなとかなる
それはこの世に生きているときが一時だとなるからである
長いようでもいづれは死に永遠に別れてしまうのが人間である。

南相馬市立病院で一カ月入院したとき最期に語ったのが大原の人だった
その人は話することができなくなっていた,ただ最期に話ができるようになった
だから大原のことで生活したことなどの話を聞けたのである。
それもふりかえれば貴重なことだったとなる
その人の墓は大原にあるが家は空家となって跡を継ぐ人は市内に住んで住まない
それも淋しいとなる,何か今はこうなりやすい,空家が膨大に増えてくる
近くでも空家が多いし一人ず住んでいる人が多いのである。
一人暮らしの人が組で四人とか多いし空家が多い
これはここだけではない,一人暮らしと空家が多い時代になったのである。

近くに家だった跡がありそこに一本松が立っている,そこでここに家があったのだと知るが自分はすぐ近くなのに記憶がないのである。
ここに家があったという記憶がないのである。これも奇妙である,宅地整備で変わったためでもある
ただそこに一本の松が立っている,それが形見のように立っている
ここに庭があり立っている,それでここに家があったということを知る
そうでなければ荒地となりここに家があったこともわからなくなる

ともかくその土地に生きたとしたらその土地に思いは残る
何かそうした思いが残る土地が故郷でもある
だから津浪や原発事故とかで故郷を離れた人達は特に老人は悲劇だったのである。
そのことはあまり語られないがやはりその土地に生きてきたのだから思いは残る
人の生が短いとするときやはり長く一緒に暮らした人とかその土地のことは忘れがたいとなるからだ

人は次々に死んでいる,めずらしくもない,これから死ぬ人が増えてくるから駅前の農協の葬儀部門が繁盛するし都会では火葬場がないとか問題になる
田舎の仕事が介護とか医療関係とか葬儀屋が繁盛する,それで地方が活気が出るのかとなると疑問である。駅前だって葬儀屋があるのが場違いに見えるからだ

姉が火葬場で焼かれるときひぐらしが鳴いていた,姉は社交的な外交的な陽気な女性だった,だから認知症になっても同じことを千回もしゃべりつづけた
それを聞いているのが嫌になったがしゃべりつづけた
暴れたり騒いだりもした,でも死んだから何の声もない,返事もない
人生も終わってみれば一時であったとなる,そうして膨大な人が灰となり忘れ去られるだけだとなる

墓地に行けば捨てられた墓も必ずありそれらは誰なのか,何者なのかもわからなくなる
墓は最期の形見でもそれすら忘れられてしまう。
結局この世が無常ということは変わりなかった,ただ多少長く生きて死ぬかの差はあったでも長く生きても遂に死ぬ,それは変わりないことである。
人間は無常の中に生きる,無常から人間を見るべきだともなる
この世のことはすべて無常のことなのである。
だから人生でいろいろあってもこれも無常でありこの世を生きることに生に執着しないことであるとなる
それは一時のこの世のことでありそれは無常となり終わる
そういう無常の観点からこの世を人を見るべきだとなる

家の跡に残された松

ここに家があった
その跡に一本の松が残り立っている
その松は何を語るのか
その松はこの地に根を張り
枯芒の中に家なき跡も立っている
冬の日がさして静かに立っている
松には誠実を感じる
家なき跡も誠実を示しているのか
何かそう人間はありたい
人が死んだ後にあの人はどうだったとなる
死んだ後の評価は大事である
巨万の富を残しても評価されない人もいる
人間の価値は死後に正しく評価される
この松のように人は残るものがあってほしい
誠実な松がここにいつまでもまだ立っている
地に根付いてここを離れず立っている

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原発事故で避難した人々の家はまるでもぬけの殻のよう地なり残っている
それも不思議なの光景である。
あんなふうに街自体が廃墟のようになるとはイメージもできなかった
それこそ無常だとなる,津浪でも村が全部消えたというのもそうである。
そんなことがありうるのかということがこの辺ではつづいたのである。
そうでなくても人間の世は無常である。この辺ではその無常なことに津浪や原発事故で拍車をかけて無常になったのである。
街自体が廃墟化することば一軒の家が空家となり空き地となるのとはまるで違っていた
まだ人が継続して住んでいるから町全体が無常化することはないからだ
それが何を意味しているのかもわからないともなる
ただそこにも継続して人が住んでいたのでありだから愛着が残る
そういうものが失われることはさらに無常であり他とは違っている

2018年02月13日

冷える夜(猫の不思議-なぜペットブームなのか?)


冷える夜(猫の不思議-なぜペットブームなのか?)

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尻尾が焼かれた猫


猫と我ストーブにあたたまり冷える夜

猫鳴きて甘いよりくる冷える夜

声かけて猫と二人や冷える夜

我一人遺影に話かけ答えなし猫にゃおと鳴き冬の夜ふけぬ


この猫が特別自分が飼うということではなかった,いつのまにか居ついたという感覚になる,でも結構すでに五六年とか長くいたなと思う
でも自分はものぐさであり猫を飼い世話することができない性分である。
だからほとんどかまわない,家の中で糞とかするので近くによせつけずいたから
触ったりもしない,しようとすると逃げる
でもなんか猫は不思議な動物がなと思うようになった

猫との縁というものがあるのかもしれない,野良猫は多くてもやはりここに居ついた猫とは特別な縁があったのかとなる
猫の不思議はがらんとした家に一人でいる,そして遺影の母とか姉と語る
しかし答えがない,その時ニャオーと鳴いたのが猫だった,猫が答えたのである。
なんかこれも奇妙だった,猫でも犬でも家族の一員になるというのは本当である。
猫は家の中に入りいつくのでそうなりやすい

猫はこうしていると愛情が覚えるのも不思議である。
そういうことは自分はめんどうだから感じなかった,放っておいたのである。
だから一カ月くらいいなくなってこいつは帰ってこないなと思っていた
そしたら帰って来たのである。その時尻尾を焼かれていたのである。
誰かが子供なのか悪戯したのだろう。
それ以後相当おびえていた,でも今でも二日くらいいなくなるのがこの猫なのである。

猫の不思議はがらんとした家にいるとやはりそれが家族のように思えることである。
何か通じなくても話しかける,するとニャオーと鳴いて答えたりする
猫には何か心でも通じるものがあるようにも見える
ただ良く鳴くのはエサが欲しいというときである
時々魚の余ったのを分けてやっているからグルメ猫になったのである。
やはりそういうものを与えていると猫は要求するようになる
贅沢の味を覚えるのである。

ともかく今日も冷えた,夜も冷えている,しんしんと冷えている
猫と二人というのではないがそうなる
何か一人よりはいいのである。家族がいるという感覚になるのだ
それで猫に財産を残した富豪の人がいる,その気持ちもわかる
子供でも財産が欲しいというだけになり寄ってくるから嫌になったというのもわかる
実の子供ですらそうなのだから他人は金しかない,金の切れ目が縁の切れ目とみんななってしまったからである。
金持ちでもそういうことで孤独なのである。金持ちだ余計にその金をねらってくる寄ってくる人が多いのである。自分は金持ちではない,でも寄ってきたのは金目当ての人しかなかった

そういう人間を見ていると猫に財産を残した人の気持ちがわかる
猫は何を要求するわけでもない,エサをやれば満足する,その他は要求しないからだ
なぜこれほど現代がペットブームなのか?
人間よりペットを可愛がってどうするんだというのもわかる
でもそれには原因があった,人間社会が金だけを求める殺伐とした社会になっているからだ

遍路の乞食がペットを可愛がりすぎる,人間に愛情をもってほしいとか言っていたがあの人も僧侶でもないのにホームレス遍路になりにわか僧侶になってお経を唱えていた
それは信心となんの関係もない,金をやったからお礼にお経をあげるというがそうなれば乞食ではない,あなたにお経をあげてやる僧でありありがたいと思いとなるからだ
何か僧侶などでも江戸時代でもその前でもそういう僧が坊主でも多かったのである。
そうして糊口をしのぐためにただ仮に僧になっているだけなのである。
何か人間にはそうして偽善的な人が多すぎるのだ
宗教でもそういうふうに偽善として使われているのが多すぎるのである。

だからなぜこんなに異常なまでにペっトブームになるのはそうした人間に嫌気をさしてそうなっているのである。
でも自分は触れもしないし異常なほどの可愛がりはしない,女性だといつも赤んぼうのように抱いていたりする,それが本当に赤ん坊のように思えて可愛がっているのだ
女性の本能を満足させるからである。
ともかく猫は不思議な動物だなということは自分が家で飼ってつくづく感じた

私が欲しいのはあなたの財産です
あなたのことより財産です,金が欲しいのです

これが今の人間であり利益から金から離れてありえなくなった,だからその人のことを心配しているより金を心配しているのが普通だからである。それは親子ですらそうなっているから索漠とした社会になっているのだ
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雪の俳句と短歌(会津の風土から生まれるもの)


雪の俳句と短歌(会津の風土から生まれるもの)

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津川

ふりやまぬ雪や会津の悲劇かな

ふる雪や時の流れに埋もる墓

曲屋に雪の深さや奥会津

墓雪に埋もれて家や奥会津

一時や会津の雪に染まるかな

西会津芒に暮るや家一軒

(喜多方)

喜多方や積もれる雪に蔵の中

蔵の梁黒く太しも積もる雪

喜多方の蔵の梁太く冬籠もる

(西会津)

西会津芒に暮るや家一軒

西会津分かるる道や秋の暮

(津川)

川岸の凍てつく雪を踏みにけり


会津に入り雪をし踏めば深しかな雪なお霏霏(ひひ)と積りけるかな

清らかな雪に埋もれてもののふのここに死すかな時の移りぬ

会津にそ伝ゆ御仏の心かな立木観音冬深むかな

河岸に港の跡や津川かな昔栄えしも雪に埋もれぬ

西会津へ道は分かれぬ秋の暮会津は広く知らぬ奥かな

津川なれ昔栄ゆも雪埋もれともしびあわれ川面に写りぬ

みちのくの冬長しも都より遠しもここに培(つち)ふものあり

たちよりぬ塔寺の駅豆たたく人道にあり秋の朝かな




 会津嶺の国をさ遠み逢はなはば偲ひにせもと紐結ばさね

会津というとここから始まっている,古い歴史をがある。
会津はその時から国として一国として意識されていたのである。
それは歴史的明治までも変わっていない
会津藩というとき大きな藩であり明治維新の時会津の旗印が鳥羽伏見とかの戦いでも絵に残されている,会津はそして北海道に領地をもっていてそれプロイセンに売り新政府軍、薩摩長州軍と戦おうとしていたのである。
それは批判されるがそれだけ大きな藩だから外国とも組んで戦おうとしていた
会津はだから情報が山国で入ってこないということで遅れたともなるが外国をも取り込んで戦おうとしていたから当時都から離れているから遅れていたとはならなかったのである
会津は今でも福島県となったとしても別な国であり歴史的にも地理的にも別な一つの大きな国なのである。
だから福島県というのは無理して作られたものであり地理的歴史的に統一感がないのである。会津となると電車で行くと東京より遠いのである。
相馬からだと岩沼で乗り換え福島市から郡山に行きそこでまた乗り換えるから不便なのである。
自分は郡山から磐越西線で途中中山宿駅で電車がスイチバック式なので待っていたことを覚えている

中山宿駅

ここに詳しい説明がある。何かそこで待っていることを覚えている
つまりそこは待つ時間がありそれが記憶に残っていたのである。
電車は駅でもそうだが待つ時間がありそれが記憶となり残されるのである。
駅でも絶えず見送り迎える場であり人間的な場になっている
それが車とかバスとかではなりにくいのである。
駅はそういう人間的な別れと出会いの場を演出する所でもあった
とにかく自分は本当に暇だったからそうしていつも旅していた
最初は電車の旅だった,だから全国の路線はほとんど乗っているのである。

会津というとき雪国である,浜通りはほとんど雪は降らない,だから雪国のことが実感としてわからない,旅して情緒的に雪を見るだけであり雪の苦労とかわからない
現実に今回福井とか大雪になり除雪や雪かきで人が死んでいるのである。
現代だと雪国にも交通が発達しているから昔とは違う,昔だと雪に閉ざされた世界になってしまう。それもイメージしにくいのである。
だから浜通りと会津の感覚は相当に違うのである。
そこに形成される心も違ってくる,いつも海を見ているのと山を見て雪を見ているのは気持ちが相当に変わったものになる、だから雪国のことは理解しにくいのである。

心からしなのの雪に降られけり 一茶

この信濃(しなの)の雪いうときまた会津の雪は違うのである。津軽の方でふった雪も違っていた,何か明るい感じがしたのである。この感覚はそこに住んだ人でないとわからない会津の雪はやはりそこに歴史があり明治の悲劇がありその歴史とともにその雪を見る
その雪を踏むときまさに歴史を肌で知るのである。

会津はまた古くから仏教が伝わった所である,徳一とか有名である。
その理由は病気祈願のためだったという,なぜ仏教が広まったかというと病気祈願が多かった,それは法印とか山伏が江戸時代に本当に多いのも病気祈願のためであった
その病気が一番深刻な問題だったからである。
カルト宗教団体に入るのも直らない病気のためとかある
でも今はみんな医者に科学に頼っているから宗教は衰退したのである。

塔寺は江戸期を通じて会津藩領で、寛文5年(1665)の万改帳で家数89軒・人数445人。主な産物は米・麦・豆・芋・栗・稗・タバコ・麻・ゴマ等だった。村民の多くは旅籠屋や駄賃稼ぎをしていた

粟と稗は山国らしいさ作物である。タバコはこの辺は阿武隈山地で栽培して有名だった
どこでもタバコは作られていてそれで財を成した所がある、貞光町などがそうである。
貞光の「二層卯建の町並み」は有名でありウダツは財力があるから作られたし喜多方の蔵でもそうである。喜多方は会津より北にあるから喜多方になり明治以降商業で栄えた街である。
会津は侍の街旧弊なものが残ったから明治維新後発達できなかった
相馬藩だと相馬市は城下町でありそのままの町割りになっている
元の原町市は原町駅が平駅のように機関区となり木材とか石材とか物資を東京に運び繁栄したのである。駅前通りが繁栄して人口も相馬市より増えたのである。
もともと原町は雲雀が原は野馬土手で囲まれていて馬の広大な放牧場だった
そこは今の街に変わったのである。

阿賀野川沿いに津川に冬に行ったことがある,そこは雪に凍っていた
そこが昔舟運で栄えた所だとは思えなかった

江戸時代、津川は会津藩の西の玄関口でした。会津藩は物資を会津若松から津川までは会津街道で陸路輸送し、津川から新潟までは阿賀野川の水運を利用していました。つまり津川は水陸輸送の中継地であり、運上金や塩の専売による収益金が得られることから藩にとっては経済上重要な港でした。

  会津からの廻米、会津塗、煙草、薪炭、木材などは津川で船積みして新潟へ運び、新潟からの塩、海産物、綿布などは陸揚げして会津に街道輸送しました。
  船着場は「大船戸(大船場)」と呼ばれて150隻もの帆掛け船が発着し、船荷を積み下ろしする丁持衆が100人も働いていました。その近辺には船番所、藩の米蔵、塩蔵、蝋蔵、物産問屋などが立ち並んでおり、活気に満ちたこうした状況から「日本三大河港」と称されていました。

ここはもともと会津藩であった,後に新潟県に属するようになった
会津は阿賀野川で新潟と結ばれていた,会津はむしろ新潟に近く中通りとか相馬藩となると地理的にも隔絶しているのである。交通は今でも不便だからである。
会津というとき本当に広い,東西南北があり東会津とか西会津とか南会津とか北会津とかあり奥会津とかある,西会津は何か淋しい感じになる,萱が一面に繁っていた中を自転車で走ったことは記憶していて前にも書いた
萱があんなに繁っていてそれを利用されていたのだ,茅葺きの家として曲屋(まがりや)とかがまだ残っていた
会津の茅葺き職人が相馬藩に来ているのもわかる,あれだけ萱が繁っていればそれも生業となったのである。
会津は山国でも会津塗りとか絵蝋燭とか特産物が生まれ伝播した
ともかく会津には木地師とかいたりして碗を作ったりしていた
それは山国特有のものとしてあった,ただ現代になるとそうした特徴がどこでも失われやすい,ただそれでも今でも同じように雪が冬中ふるからそこは変わっていないのである。その風土から歴史と一体となったものが産物でも文化でも生まれるのである。


会津の雪の詩(会津は一つの国の文化圏ー福島県は広い)

 福島県会津昭和村の地名  (昭和村晩秋の詩)

雪の俳句(雪国に住まなければ雪のことはわからない)

2018年02月12日

人間は有能だから成功するのか? (有能な人間が危険にもなる-文明は有能な集団により作られたが滅びる)


人間は有能だから成功するのか?

(有能な人間が危険にもなる-文明は有能な集団により作られたが滅びる)

人間の社会は謎である。なぜ老子とかの思想家が生まれたのか?
文明社会のアンチテーゼとして生まれた
人間が道具をもつこと自体否定した
なぜなら人間は道具をもてば道具に使われる
それも今になると人間は機械に使われるというときそうなっている
道具にしか過ぎないものが道具に使われている

人間はまた有能になることを求めている,それも荘子になると否定している
無用の大木を称賛しているのはそのためである。
人材とか材は森全体ではなく木をその一部を材料として切り取ることである。
そういう意味があるとき人間は今や無数の材として一本の木であるものが森であるものが材として切り取られて使われる,部品化して使われているともなる

そして足の悪い人や障害者が戦争に行かずにすんだがかえって丈夫な人は戦争に兵隊としてとられて死んだ,障害をもった人は生き残った
それは日本の戦争でも言える,甲種合格とか体の丈夫な人は率先して兵隊としてとられ死んだ,それでわざわざ病気になり戦争に行くことをまねそがれた人もいる
それは非国民なのだけど戦争が終わると日本人はほとんど戦争を否定するようになった
その価値を認めなくなったからそういう人を非国民とも言わなくなったのである。
むしろ戦争した人が悪いとされる方が多かったのである。
だから別に戦争に病気を装い行かなかった人を今では責めないのである。

そもそも戦争になると戦争に有能な人が偉いとなる,戦争に有能ということは人殺しが平気でできる人間でもある,冷酷な人間が戦争に適しているし有能なのである。
だから有能だということは一面怖いことにもなる
何かブラック会社でも営業で成績をあげるのは有能だとなるがそういう人は果たして推薦できる人間なのか?あくどいやり方で成績をあげている人もいるかもしれないからだ
でもノルマを課せられているから営業成績をあげる人が有能だとされる
それは社会にとってもいいものでもない場合がある
銀行でも投資信託を強引にすすめて成績をあげれば銀行では有能な人としてみる
でもそれをすすめられて損している人も多いから社会にとってはいいとはならないのである。

人間が有能だということは一面危険なことなのである。
科学者がそうである。科学者は今では一番有能な人でありエリートであり支配者にもなる政治家とか他は今は低く見られるが科学者は聖職者のように今では見ているからだ
でも有能だということは歴史をふりかえっても強力な殺戮兵器を産み出すことにもなる
それは技術者とか科学者のすることである。
そして現代の核に結びつく結果となった,核兵器を発明したのはアイシュタインとか科学者であり最高の知性をもつ有能な人だったとなるからである。
原発を作ったのもそうした有能な優秀な科学技術集団だったともなる
だから有能だということは一面危険なのである。

人間の歴史をふりかえるとなぜ宗教が生まれたのか?
宗教とは何であったのか?そもそもなぜ東西の宗教,キリスト教でも仏教でも聖職者は僧侶でも出家して社会から離れ社会的には無能集団のように暮らしたのか?
生産活動をしない集団になった,乞食が一つの行となる
生産活動をせず布施といえば乞食ではない,僧職につくものは食料を無料で与えられるのである。社会的に見れば何の生産活動もしないのだから否定されるはずなのである。
そういう人が社会的に偉いとどうしてなったのか?
今では僧侶とかはさげすまされている,牧師だってそうである。
なんの生産活動もしない無能だとされている,宗教は世俗的価値を否定するが故にそうなったのである。

人間がそもそも有能だということは何なのか?
それ自体がわからないのである。
だから宗教ではキリスト教でも仏教でも人間が有能であることを疑問をもち否定している人間が有能であるとうことは神から見れば奢りになるからである。
その奢り故に人間の成したことは罰せられる,道具を作ることは人間として優秀なことであり有能だからできたことだがその道具によって核のように人類自体が滅亡するとまでなる

要するに道具といってもそれは最初は石器である,でもその石器でも自然界ではありえないものであり強力なものなのである。それで動物と対抗できたからである。
石の斧でも槍でも動物を殺せた,それに動物は負けたのである。
だからどれほどそうした最低の道具でも強力なものであったか知るべきである。
ヨーロッパとか西の石器は最初から大きかった,ということは歴史の出発点からして西洋は殺傷能力を高いものを作っていたともなる,兵器も西洋では発達したのである。大砲が城の時代を終わらせたというのもそうである,鉄砲でもそうである。
それが石器が鉄となり現代の核兵器までになったのである。
石器でも強力なものでありそれが核兵器までになる,そして人類はその有能さの故に滅びるともなる


一身上のことになるが自分の姉は従軍看護婦になって4年間シンガポールで働いた
戦前は看護婦になること自体相当優秀でないとなれない,それで東京まで行って試験に受かりなることができた,体も健康優良児のようであり頭も太っていたが切れていた
なんでもパキパキとする行動的な女性であった
だからいつも感心して自分はいろいろ劣っているから見ていたのである
でも最後は認知症になり無惨に死んだ,最後の言葉は「自分は優秀だった」ということを今の際まで言って死んだのである。
何か優秀なことにこだわっていたのである。事実優秀だからこそそういうことができたことは確かである。この家を作ったということも確かである。
でも最後は無能化されて死んだということがショックだった

一方で馬鹿にしていた人は正直で情の厚い親切な人だったのである。
その人は姉が認知症になっても受け入れてくれた
他の人は誰も来なくなったし嫌がったその人だけは受け入れてくれたのである。
それを見たとき何が人間にとって優秀なのかもわからなちなったのである。
優秀だと見られた人が無能化されて愚かな者だと見えた人が実は優秀だったともなる
それは何か能力かあるとかないとかではない,人間としてかえってその愚かに見えたものが人間として評価されるものだったともなる

だからこうして人間の評価もわからないのである。それは人間の歴史でも有能な人間が必ずしも成功するとは限らない,いくら有能でも時代が違うとその有能さも埋もれたりして発揮されないのである。天才でもその天才が時代によって発揮されないのである。
事業を起こして成功する人が必ずしも有能な人ではない,知っている人が事業に失敗したのは理系であり技術者でも会社を経営するとなると様々な別な能力が必要になるから失敗した,その時代の影響もある
誰も今銀行がなくなるなど思いもよらなかったからである。
事業が成功するということはいろいな条件が幸運に恵まれることも必要なのだろう。
いづれにしろいくら有能でも成功するとは限らないのである。

文明とは優秀な有能な集団が実際は作ったともなる,マヤ文明でも技能集団は支配階級になった,それは高度な知能集団だったのである。
でも最後は太陽の力が弱るとか人間が人身御供にされた
何かそうして太陽の力がなくなり滅びる日にちまで特定してカルト宗教のようになり森に放置されて埋もれたのである。
何かそれは原発とにているのだ,現代最高の有能な科学技術集団が原発を作った
それは今やその回りには人が住まない地域となり放置されて荒野化して森林に埋もれる
チェルノブエリではそこは野生が復活してノロジカとか狼まで住むようになったのとにている
人間の知性が有能さが一挙に崩壊したのである。つまり無能化されたのである。

結局人間は有能だとか優秀だとかいうけどそういうことを決めるのは全能の神しかない
人間がいくら有能でも文明を作ったとしてもそれも最後は限界にきて放置され森に埋もれる,人間は無能化されるのである。
人間がすでに有能だというとき何かそこに奢りがありそれが砕かれるのである。高きものは卑(ひく)くされ卑くいものが高くされるというのはそのことである。
そういう価値判断とか評価は人間だけでは決められないのである。

タグ:有能と無能

2018年02月11日

電車は風で遅れ鹿島駅前通りで交通事故発生!


電車は風で遅れ鹿島駅前通りで交通事故発生!

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原町から鹿島まで電車の赤い矢印が動かない
原町駅の人にインターホンで聞いてみたら徐行運転していたのである。
止まっていたわげではない,徐行運転して遅れていた



電車は風で遅れ運休になる,原町から仙台行きの電車が原町を出てもなかなか来ない
原町駅にインターホンで聞いたら徐行運転しているという
風になると風がやまないかぎり運転が再開できないから困る
あと仙台行きだと新地駅でとまり待つことにもなるから遅れるのである。

駅前通りで4時ころ交通事故があった
歩道に車がのりあげた
救急車が来たからなんなのかと思った
けが人が出たとのかと思ったがたいした事故ではなかったらしい
でも車は一部破壊された

交通事故は相馬地方で毎日のように起きている
この前は夜中の3時ころ女性が二人死んだ
20才前だった
その原因は雪が積もってアイスバーンになっていて
歩道を行かなかったからである。

車道の端を歩いていてもそこもアイズバーンになり雪が積もって避けていた
すると車道に入りそこを歩いていたのでトラックがきてはねられた
自分は自転車でそういう道路を歩いているからわかる
アイスバーンになると自転車はすべる,でも車道を行くと危険だとなる
だから歩きながらそういう道を来るほかないのである。

雪のせいで死んだとなる,そうでなくてもどこかで毎日こうした交通事故は起きているのだ
そのことを自転車屋の人と話した
いつもの人と近くの人が来ていた
あそこは人が集まる場でもある
駅を見ているのでそのことも話し合う

いづれにしろどこで事故にあうはわからない
あれが家の中につっこんでいたら大変だった
つまり家にいても危険だとなるのが交通事故である
家の中に入ることをさけてハンドルを切り塀にぶくかったのかもしれない
あんなところで事故が起きる,どこで起きるかわからないのが交通事故である

働くことは端(はた)を楽にすることだった (今の労働は端迷惑なのが多い)


働くことは端(はた)を楽にすることだった

(今の労働は端迷惑なのが多い)

労働はたいだいすべて何であれいいものだと考えている
極端な例になるとこの辺で競輪の券売り場ができた,そこに労働が生まれる,
掃除の仕事ができるからいいんだとか底辺の人は言っていた,
確かにタクシーを駅から利用する人を見ているからタクシーの収入になったり中に食堂があったり食べたりしているとか活気が生まれる
それはギャンブルでも活気が生まれるからいいんだということも国のレベルでもなっていて大きな賭博場を作り外国の金持ちに金を落してもらおうとなる

でもそういうものを作るにしてもそこで誰かが働かねばならない,サービスしなければならない,そのために人は使われる,ただ掃除の仕事ができていいから金になるものができたからいいとなるのか?
だからそういう矛盾を自分は一身上で感じた
この辺では仮設に入った人が何もすることなく大勢がパチンコ屋におしかけ通うことになった,その時パチンコ屋の掃除をしていた人かいたのである。
それは金になるから借金していた事情があってしていた
その時自分は自分の病気とか介護で苦しんでいたがその人が働いたのはパチンコ屋だったのである。それも何かこの辺の矛盾だった
原発事故でみんなかわいそうだなと外から見て援助にきていたが実際はそうして何もしないで遊んでいたのがほとんどだったのである。
だからポランティアがそういう人達のために働いていて馬鹿らしいと地元の人達と喧嘩になったのである。

この辺では働くというとき事情が違っている,もう人手不足で困っているから病院では資格のない人も看護師の補助をしたり働いている,その時まさに働くことは端(はた)を楽にするために働いている,そうならざるをえないのである。
家族だってみんな苦労して働いているときそこでのんびりしていられない,何かしら働かざるをえないのである。それが働くことだったのである
だからこの辺では何かしら働かないことは責められるような状態にある
ニートとか余計にそうなる,だからそういう人はいずらくなる
みいんな困っているのに働かないとしたら市町村自体維持できなくなるからだ
でもそういう人は実際にいるのも現実である。

ともかく働くといっても人間の労働は無数にあるから多様なのである。
その働くことが社会にとってどういう意義があるのかも価値あるのかもわかりにくくなる田舎でもみんな会社員というときどこで働いて何をしているのかもわからないのが多いのである。
ただ最近引っ越してきた女性がダイユーエイトで働いているのでそこで働いているのだとわかる,その他はわかりにくいのである。それだけ働く場が多様化してしまったからである。

例えば地銀で働いている若者は毎日一軒一軒回っている,だから働いてるなと思う
それは会社でも回りでも認めていることである。
でもその働く内容が問題になる,それが投資信託とか株をすすめるとかなるとそのために一軒一軒回っているとなると問題が生まれる
それはすべてではないにしろ迷惑なことであり害悪をもたらすことにもなる
働くことがすべていいものとして是認できないのである。
ただ会社のプレッシャーが強いからノルマを課せられているからなんとか売ろうとする
そうして働かせられる,働くというこも迷惑になり害にもなるなと思った
人間は自分のことしかから考えないから勝手である,もし自分が投資信託でもうかっていればこんなことは言わないのである。だから自分も勝手だとはなる

小さな畑で野菜作りしている女性がいる,そこでとれるものはわずかでもその労働は金にもならない,かえって金がかかる,肥料とか種とか高いのである。
その分もとれない,では金にならないからその労働が無意味かとなるとそうでもない
荒地にしておくよりそこで野菜をとれて役に立っているのである。
それは必ずしも金では計れないものがある,荒地にしておくと良くないからだ
たいがいすべての労働は金になるかしている,金にならない労働は無価値であり意味のないものとされるのが資本主義社会である。
ただ害悪になる労働もありそれは社会にとって恐怖にもなる


いらないものを売りつけられる,だんだん銀行でも保険などそうであったが脅迫して売りつけるまでなる,暴力団のようになる,それは銀行が追い詰められているからそうなるのである。生き残るためにはやむをえないとしてそうなる
事業失敗して借金したりしている人もそうなる,だから追い詰められた人間は怖いのであ
創価とかでもエホバでも他のカルト教団などが怖いのは集団化して組織化して活動している,信仰の押し売りである。それが一票を獲得するために一軒一軒回る,それも信仰とか何か社会のためだとかなる,それははた迷惑なのである。
でも組織化して集団化しているから社会で認められているから抑制できないのである。
働くが端を楽にするのではなく端迷惑になることで逆なのである。
肝心の困ってるとき誰も働いてくれないということも起きている

そういうことは他の会社でも起きている
その仕事はそんなに社会にとって有意義でなくても会社で金をもうけるためにそうしている,営業の仕事はそういうことが多いのである。
そこには必要なものがあることは確かである。
ただ銀行なら今自分の必要としているものは株とか投資信託ではなかった
何か他で金融商品で老人向きの保険があった,それが自分に必要なものだったが
銀行にとっては投資信託が手数料で金になるからすすめたのである。
それは端迷惑だったとなる

いづれにしろこの辺の事情は違っている,実際人手不足で病院とか介護で困っていても誰も働かない,でも新しくできた広いパークゴルフ場では元気な老人で一杯だとなる
要するに病院と介護だと働くことが苦しくなるからあえて金があれば人間は働かないのないのである。でも市町村が一つの家族のように考えればそうはいかないはずなのだが
それなりに規模が大きいから村のようではないから働かないのである。
村のような狭い世界だと働くということがしやすい,それはその労働を常に見ているからである。端を楽にしたいということが自然に沸き起こるからである。
そういう労働は健全だったとなる。
posted by 老鶯 at 09:40| Comment(0) | TrackBack(0) | 経済社会労働問題

2018年02月10日

銀行の窮地(銀行がなくなる)


銀行の窮地(銀行がなくなる)

銀行がなくなるというのもイメージできなかった,ただ利子がつかない時が実際は長かった,だから貯金しても何の役にも立たないとなっていた
銀行は地方の銀行でも有力な就職先だった,銀行員になれば信頼できるとか信用第一でそれだけで固い職業であり地域では一目置かれていた,月給も地方では良かった
銀行は公務員のように見ていたのである。

その銀行がなくなる?それも驚きだった
銀行は一軒一軒回ってあるきそれで地域と信頼させていた
郵便局などでもそうである。いろいろ金のことで相談したりしていた
だから信用があった,それがなぜ証券会社のようになったのか?
それは銀行が追い詰められてきたということである。
マイナス金利になり国債でももうけられない,そこでなんとか利益をあげねばならない
そこで背に腹は代えられないとなり投資信託とか株をすすめるようになったのである

そもそも銀行は金の出し入れとかで利用していない,いろいろな事務も自動化機械化する銀行の役割が大幅に減少したのである。
でも一万くらいの人口の町に支店を構えるとそれだけの金がかかる
結構かかると思う,事務員も雇っている,それを維持するだけで相当な出費である
もうそうした支店は維持できなくなっている

そしてなぜ銀行が今金融庁とかいろいろ責められるのか?
金貸しが金貸さないのでどうするとか財務大臣から言われたりする
そして金融庁から不透明な投資信託の手数料を明確にしろとか言われる
現実に投資信託の手数料などがどれだけとられているのかもわからない
示さないのである。
ある意味でだまし的なものがある,銀行がそんなことするのと自分も失敗だった
事前に情報を摂取していなのが失敗だった

銀行とは何なのか?
簡単に考えれば金貸しだというときそれを個人にあてはめる
例えば金をもっていると外からいろいろとうるさい
あいつは金をもっているけど何に使っているんだ,遊んで使っているとかなると外から見る目は厳しい,金を無駄にしているとかなる
特に田舎でそういうことがうるさいのである。
だから田舎では平等でないと成り立たないのである。
特別の大金持ちなど住めないのである。

銀行も大金持ちと比べるとにている,金があるんだから金を有効に使いとなる

銀行の金は銀行だけの金ではない,みんなから集めた金だ,たから有効に使い
社会のために使い,景気を良くするために使い

そうなるがまず銀行はリスクをとらない,金は貸さない,貸し渋りが問題になった
高度成長時代のように会社が成長しない,利益をあげないから慎重になり金を貸さない
これまでは国債で利子がついてもうけていた,だから余計に貸さない
銀行は安全志向なのである。
投資信託でも確実に手数料がとれる,それで株をもっていたが1500円くらいのとき売って投資信託をすすめられた,その株をもっていれば相当な利益をあげられた
これはその時の事情にもよるが何か一方的に投資信託をすすめられる
それは投資信託が確実に手数料をとれるからである。
手数料は証券会社と銀行と税金とでとられる,3パーセントもとられる,アメリカでは0・05パーセントくらいである。
その手数料だけでとてももうからない仕組みになっている
とにかく銀行はリスクをとらないでもうけたいのである。

投資信託でも株でもすすめるのなら損したら銀行もリスクをとるべき

でももうけたらその半分をもらうとかなれば納得するかもしれない
全く何のリスクもとらずに銀行は手数料だけはいただくという甘いものなのである。
だからもう銀行は今までとは違い一軒一軒回っても信用できないとなる
証券会社化した銀行はもう銀行ではないのである。

そしてなぜ銀行が今責められるのか?

銀行の金は会社の金とは違う,みんなから集めたものであり社会に役立ててもらいたいということであづけている,公益のために使ってほしいということなのである。
それをただ集めて使わないということで責められている
そこで株とか投資信託をする場ではないのである。
それなら証券会社になるべきなのである。現実にはなっているのだ
その変化に気づかなかったのが悪かったともなる

結局時代が変わるとき職業でも不用なものが生まれる,もう社会にとって必要ない
銀行は何の役に立っているのだ,貸し金庫くらいしか役にたたない
金貸しなのに金は貸さない,リスクはとらない,その金を有効に使わない
だからもう金をあづけても無駄だとなる
銀行はいらないと社会でみんなが思うようになる
するともう金をあづけたりしなくなるかもしれない,信用もなくなる
そして金があるのに何に役にもたっていないとなり銀行はいらないとなる

でも何か金があってもそれを有効に使うとうことが簡単にできないのである。
自分でも一千万あるとする,それを自由に使って何か役に立つことをしなさい
もうけることをしなさいとなるとむずかしいのである。
何か役に立つことは寄付したり何かできるがそこからもうけを出すことは至難になる
せいぜい鉄道の時刻表や交通案内などを駅お無料で置いた
それはたいした金でないからできた
では何か事業するとか社会の役に立つことそしてもうけを出すことはそういう経験もないしできないのである。
そうなると個人でもお前には金をもつ資格がないとなり銀行のように批判されることになる

銀行はこのように金を持つ資格がなくなっているのである。
公益性もないしもう銀行の役目がなくなっている
むしろ投資信託とかすすめると害になる存在になる
社会に害悪をもたらすものとなる
それで金融庁からも社会からも責められる
でも銀行にすれば生き残るためには手段を選ばなくなる
株だろうが投資信託だろうがもうけねばならないとなるからすすめる
人間は窮地になると追い詰められるとモラルもなにもなくなる
それは個人でもそうだが団体でも組織でもそうなる
ただ組織がそうなると社会的影響が大きすぎるのである。

それはカルト教団ともにている,常に会員獲得にノルマが課せられて勢力拡大を強いられる,一票のノルマを常に課せられている,それが信仰なのだからやっかいなのである。
そういう組織は社会に大きな圧力となり害悪になる
会社でも害悪になるものがある,その害悪は個人のレベルではないから怖いのである。
例えば製薬会社でも薬を売るノルマが課せられる,なんとか薬を売れ,薬を売るにはいろいろ恐怖を植えつけろ,宣伝しろとかなる
医者に頼みもっと薬を買わせさせろ,医者ももうけたいから薬をもっと出させろ,いらなくても薬を出させろとかなる
現実にそうなっているのが医療なのである。薬は必要でも無駄に出しすぎるのである。
こうなると働くことも社会の害悪になる

社会にはそういう怖さが常にある,何かそうして強制される
それは正義のためとかにもなるし国のためだとかもなる
だから老子の思想が2000年前にすでに生まれていたのである。
無用の用とか成さずしてなるとか無為自然の思想である。
人間は働くことがすべていいものとして作用しないのである。それは大きな害悪となる
政治否定になったのもそのためである。政治はそうした巨悪となり害悪となるからだ
本当は原発などいらなくても核兵器の準備のために必要だとかアメリカの圧力があるとかで作らせられているのだ
その害悪は巨大になるからこの辺では故郷に住めなくなったのである。

銀行も社会にとってそうした害悪ともなる,でもそれも高度成長が終わり時代が変わったからそうなる,侍の社会から侍がなくなる社会になったときのように銀行という会社組織自体がなくなる,するとやめる人が大量に出るし現実にリストラされている
もう銀行には未来はないとやめる人が出ている
結局やめて新しい道を見いだすことが正解なのかとなる
社会に害悪をふりまくとなると銀行そのものの存在価値がなくなっているからだ

ただそうなると地域にとってはいい就職先がなくなるとか地域がさらに疲弊してくるかもしれない,地銀とあるように地域に密着して存在価値をもっていたからである。
ただ何か地域に密着して新たな存在価値を見つけ出せばまた違ったものになる
それはただ時代が変わると相当にむずかしくなる
ただもう一万の町に支店をかまえる余裕はなくなる,それは無駄が多すぎるようになったからである。銀行で金の出し入れをする人は本当に少ないからである。
そういうのはみんな自動化してゆくからである。

ともかくこういうふうに次々に変わる社会というのはついていけない,時代が大きく変わるときはこうなるのか?
今まであったものが無用となりなくなる,地銀もその一つとなる
津浪であれ原発事故であれそれは大きな時代の変わり目にそうなった
だから銀行でもそういう変わり目にいらないとまでなったのである。
その変化する時代をなかなかわからない,自分は金を現実に結構損したから実感としてわかった
自分が時代の変わり目に痛みを負ったからわかったとなる
なんらか時代の変わり目にはそうして痛みを負わされる犠牲にされる人が出てくるのである。
戦争で3百万人も死んだのもそうである。犠牲にされるものが出てくるのだ

ただ時代というのはいつのまにか変わっている,それが早いから追いつけないのである。
それで老人は不利だったのである。銀行は信用できるものだという先入観があった
そういうことが裏目に出たのである。
youtubeなどを見ていればこうはならなかった,銀行のことは詳しくその内情を指摘しているからだ
youtubeはかなり役立つ,信頼性もある,だから今までの文字だけのものとは違っている
わかりやすく要点はつかめるからいいのである。本を読むとか文字だけの情報だと広く知識は得られないのである。
深い知識は本とか文字の情報がいいが浅く広くなるとyoutubeのようなものが役立つ
そういう情報世界でも変わっていたのだがyoutubeは最近見始めたから遅かったとなる

タグ:銀行
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2018年02月09日

除草剤を線路や.ホームや線路沿いにまいていた


除草剤を線路や.ホームや線路沿いにまいていた

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ホースのようなもので水を出していた,何をしているのか向こう側のホームに行って聞いてみた
そしたら勝手ホームに入ってきては困ると言われた

でもなぜそうなっているのか?
ここが無人駅だからである。
普通にホームに自由に出入りしている
駅員がいないからそうなっているのである
それで見送りとか出迎いには便利なっている
ヨーロッパなどでは自由にホームに出入りできる
自転車もそのまま乗せることができるから便利である

二人来ていたが除草剤をまいていたのである。除草しているのをはじめて見た
結構雑草で鉄道は迷惑になっていた
そのことはインターネットで調べられたから便利である
雑草は鉄道にとってはいろいろな障害になっていたのである。
乗る方にするとそういうことは考えられなかった
乗るだけだとサービスを受けるだけだとサービスしてくれる人達の苦労がわからないのである。
駅でボランティアをしてつくづくそれを感じた
何かしら毎日駅に来て仕事がある,こんなに駅が手間がかかるものだと思わなかったからだ

今日は右田の一本松を見に東京から来た人がいた,駅前の自転車屋があってレンタルできると言ったが原町にも行くのでタクシーで行くと言った
あの一本松は切られた、前から枯れることはわかっていた
とても維持できるものではなかったのだ

一本松切られてここに松原のありしは遠く昔となりぬ

こんなふうになってしまうだろう。
今は風車とソーラーパネルと高い土手の風景であり全く昔の面影はなくなった
あそこに植樹しても自然の森にはもうならない
風車とかソーラーパネルと火力発電所の煙が出ているから工場地帯のようになってしまったからだ

ともかく駅とか鉄道を維持するのは手間であり金もかかる,だからとてもローカル線で廃止になるような線は維持できない,それを誰が負担するのだとなる
もっと乗ってくれといっても乗らないし維持しようがないのだ
観光といっても限度があるしJRだけではどうにもならないのである。
バスだと市とかで援助して一部運行している
鉄道はこのように費用がかかるからできないのである。
維持したいならそれだけの金をJRに払ってくれとなるからだ
それが自治体でも財政が苦しければできないのである。
タグ:鉄道の除草