社会とは何なのか―社会のために人は生きるのではない
【神から見れば人間の社会は罪の社会であり容認できない】
●社会とは何なのかーsocietyは明治以降にもたらされた言葉
人間は常に社会のために生きろと教育されるがその社会とは何なのか?
実は明治になりヨーロッパから入って来た言葉でありその概念でもわからなかった
第一社に会すと感じで表せば村の小社の会すとなる。それは村の範囲でありその村の中でもさらに一地域になる。日本人が意識する社会の範囲は狭いのである
向こう三軒両隣にもなる。でもヨーロッパだと社会ーsocietyとは相当に広い範囲をさしている。
上流の人たちが集まり交際をする社会(=社交界)もsocietyです。ちなみに、社交ダンスはsocietyの関連用語である形容詞socialを使用し、social danceとします。
サイズ感をみてみるとcommunity < societyであり、ソサエティのほうがより大きく組織化されたグループです。
そして集まるための目的としては、communityは共通の関心ごとがあります。一方、societyは組織的に共通の制度であったり文化を共有しま
日本では社会というときcommunity の感覚になる。村となればcommunityであり社会となれば広いからでる。communityは日常的に常に意識される。社会は具体的に意識されない、範囲が広いからである。だから社会のために生きろと言われるけども具体的に結び付かない、それより江戸時代なら藩に所属して侍は藩のために生きていた。藩が社会であった。藩は常に具体的に生活の中で意識されるからである。
江戸時代に国家とかは意識されない。それで天皇のことでも意識されないし知らないのである。天皇を意識するようになったのは明治以降でありそこで過剰に意識されるようになった、上から強制されたとなる。第一日本国を意識できなかったからである。
ともかく社会というとき日本では何が社会なのか漠然としている。江戸時代は村が社会である。社(やしろ)に会す社会である。その社会が会社になる。会社も社に会するとなる
現代では会社が村の代わりにもなる。そこで日々顔合わせて共同して働くからである。
今は農村でも会社で働くから会社が社会にもなる。
でも会社は社会ではない、様々な会社がありそれは社会ではない、社会とは様々な会社を総合したものであり一つの会社のことではない、でも現実は会社に属して会社が社会にもなる。社会のために生きろというより会社のために生きろという方が具体的でありわかりやすい、何か社会となると抽象的になる
いづれにしろ日本に社会とは何かわからない。だから翻訳してもそれが理解できなかったとなる。それでも常に社会のために働き生きろとなったのが明治以降なのである
その社会が何なのか明確ではないのである。
●社会のために生きろではモチベーションが持てない
人間は家族のために生きるとなればわかりやすいし現実は今でもそこが基本にある
会社で働くにしても家族を養うためであり会社のために働くがすべてとはならない。
会社といってもABCDE,,,,と様々な会社がありそれは別々な存在なのである
社会となれば総合的にすべての会社も含まれるものが社会になる
とにかく社会のために働き生きろと言うのはわかりにくい。村のためとか市町村のために生きろという方がわかりやすい、その範囲は会社より広いし総合的なものになる。
会社のためにという時は一部分だからである。
人間はその一人の個人を見るときでもその属性としてどこに住んでいるか市町村を見る
また現代ではどこの会社で働いているのかを見る。会社名を見る。大企業に働いていれば一目置くとなる。また職業も見る。職業からその人を判断する
姓名でも職業が姓になる。それは外国でもそうなる。
とにかく社会というのは何かヨーロッパでもその言葉はなかった。上流階級、貴族が
societyになっていたのは社会を作る指導する人達だからだったからだとなる
奴隷は社会の一員にもなれないとなる。だから社会は貴族階級のためにあったとなる。
社会のために生きろと言えば貴族階級のために生きろ働けともなる
貴族の奴隷として働けとなる。それが社会のために生きろというときそうなってしまう
社会のために生きろというとき何かあまりモチベーションがもてないのは具体性がないし範囲が広すぎるからである。
そして人間の存在で欠落しているのが社会という前に神の存在があり神と人間の関係が最初にあった。なぜならこの世界であれ人間を造ったのは神だからである
神がなければそもそも人間は存在しないし社会も存在しない
最初存在したのは家族である。家族が社会でもあった。人間は家族のために働き存在した。社会の前にファミリアがありそれは広い範囲の共同体であり村のようなものだった。familiyとは家族であるが家族が拡大したものであった。国家自体がファミリーが拡大したものであった。ヨーロッパでもハウスブルグ家が広範囲な国家を形成したことでもわかる、江戸時代も豊臣家とか徳川家が藩が家族の拡大したものだからである
それで聖書でも家族の物語でありその系譜が常に語られる。その系譜で最も重要なのはアブラハムであった。聖書では神が存在して人間と神がじかに結びつく物語である
そこに社会は存在しない、だから社会のために生きろと言うこともなかった
神のために生きるとなっていた。なぜなら人間の作った社会は罪で穢れそれで神はノワの洪水とかバベルの塔を破壊して民族を離散させたからである
人間の作る社会は神の意にそぐわないからそうなった。
●社会のために生きろは欺瞞
だから社会のために生きろというのは悪に生きる罪に生きることにもなる。なぜなら社会であれ国家であれ罪にまみれたものであり神の意にかなうものではないからである。
だからこそ神が滅ぼすとなったのである。社会のために生きろというけど罪にまみれた社会でありそれが別に神の意にかなうとはならない。神の意にかなうとは社会とは関係ないのである。神に意にかなうことは逆に社会に反することにもなる。だから神の意にかなおうとした預言者は迫害されてきた。人間は社会のために生きることではない、神のために生きることが理想なのである。でも社会のためにとなるのが問題なのである。
なぜこれほど社会が言われるようになったのか、社会のために働けという時その社会とは誰のことなのかとなる。社会とはあいまいであり社会を意識するだろうか、むしろ
家族とかcommunityは日々の生活で意識する。だから社会のために働けというのは何か不自然なのである。反社会的となってもその反になる社会があいまいなのである
イスラム社会だとアラーの神を認めないことは許されない、社会が信仰共同体にもなっているからである。
いづれにしろ何かというと社会のためにというのはおかしいのである
社会が何か別に善を求めるわけでもない、一体社会が何を目的としているのもわからない、でも社会のためにと常に言われる。その社会という時今ならグローバル化しているから世界のために働けとなる。でも世界でグローバル化に反対する人が増えるのは誰も世界のために働くわけではない、それでアメリカファーストにな日本ファーストになる
様々な組織団体のために働き運動する。それは社会ではなくcommunityだとなる
利益共同体であり利権団体である。カルト教団もそうである。仲間内で結束して利益を利権を共同して求めている。会員ならない者はその利権に利益にあずかることはできないのである。それは社会ではなくcommunityだとなる
社会のために働けとかなると無職の人は社会にとって許されない人になる、それは反社会的になる。でも神と人間の関係から見ると神は社会を見ていない、人間の社会は神から見て罪の社会であり容認されるものでもない。だから神が直接かかわったのは個々人であり組織団体ではない。
●アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神の意味
イスラエル人に言え。あなたがたの父祖の神、アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神、主が、私をあなたがたのところに遣わされた、と言え。これが永遠にわたしの名、これが代々にわたってわたしの呼び名である。」(出エジプト3:15〜16)
ここに社会とか組織団体はでてこないのである。それで別に社会が存在しなくても神と人は関係している。イノクは社会から消えたが神の下に存在した。神が取り上げたからである。つまり社会に存在しなくても神に選ばれた人は神の下にあり存在したとなる
神の国とは人間の社会ではない、神に選ばれた人達の国である。
人間は社会のために生きても理想の社会は実現しない、社会自体別に善なる理想の社会を目的にしない、便利な社会とかは目指している。でも理想の社会は作れないのである。共産主義社会でもそうである。それは理想を目指してもそうはならず暗黒社会差別社会になったことでもわかる。この世に理想社会ユートピアは作れないのである。
いくら努力しても作れない、神の国は神自らが造り治める国である
●この世で社会で無償で得られるものはない
例えばそこでは人間は労苦して働く必要はない。マナとして神の手から贈り物として無償で与えられる。人間は何か果物でも野菜でも誰かの手から買う時とにか苦労を言う
仕事としている人もその仕事が重大なこととして訴える。そしてその苦労に報えるべきだと強制される。それはマナとは違う。だから受け取る方も何か負担になる
これだけ苦労して作ったものを与えるからその報いを要求する、それは金になるが金だけではない、感謝であれ何かその見返りを要求するのである。
ただでくれる人はいない、ただより高いものがないというのはただで無料で与えられるものはこの世にはないのである。
そのために野に実る木の実を食べた時甘美だったのである。野の鳥は神から無償で与えられるものを食べているから幸福だとなる。
ともかく社会のためとか常に言われること自体負担になる。社会で得られるものに無償で得られるものはないからである。何かを得るとすれば誰かの労苦がありもたらされたものだからその見返りを要求される。だから人間の社会とは常に何か圧迫を感じる
社会のために生きるという時何かを暗黙の内に強制されているのである。そこに本当の自由はないのである。電車に乗るにも車に乗るのでもそこには人手がかかる。
何か社会で無料な物はない、水すら無料ではない、山の清水を飲むとき無料なのである。確かに文明化して便利でも無償でで与えられるものはないのである。人間は社会のために生きるという時社会から逃れられず生きるほかない、水を得るのにも代償がある
無料では得られない、だから社会のために生きろというとき無料のものはなく代償を要求される
人間は無報酬(金なしでは)では他者に何もしたくない―ただより高い物はないの意味 【神の国では神自ら無報酬で賜物として与えられる‐聖書の野の花の例え】