相馬地域の水無川と紙漉きのこと【紙漉きにはきれいな水が流れる川が必須ー美濃、前和紙は有名】
石神の水無川
鹿島区の水無川
扇状地では、粗い堆積物(レキや砂レキなど)が上流から運ばれて来てたまります。
堆積物が粗いので、水がしみ込んでしまいます。平常の時に全部の水がしみ込んでしまえば水無川になってしまいます。
水無川は水がきれいである。南相馬市の原町区の水無川も石神の方でもきれいである。それは水が粗い堆積物(レキや砂レキ)
が運ばれてできたからそれが濾過するからだとなる。透き通ってきれいなのである
ただ川が多少でも深くなると濁る。真野川は深い所では濁っている
でも新田川は浅いから濁らない、それでこうした川は紙漉きに適していた。不純物を流すのにきれいな水が必要だったからである
それで石神で紙漉きを行っていた農家があった。それは戦前である。
原町だと高倉でも行われ押釜でも行われていた
そこにはやはりきれいな川がある。一番盛んだったのは相馬市の山上でありそこには紙漉き沢という地名が残っている
宇多川ではないのである。それで山上村は 生活が豊かに見えたと記している
ともかく水がきれいだと正に心が洗われるとなる。見ていて気持ちがいいのである。でも水無川でも豪雨になると急激に水が増水して洪水の被害がある。鹿島区の水無川では堤防があふれて家が浸水した被害があった
それで堤防を強化する工事をした
また原町区の水無川では新田川に水が激流となり流れ出して向かい側の堤防に当たり堤防が決壊したのである
だから水無川だからと油断できない、増水すると相当な被害がある
原町の水無川の場合上流に高倉ダムがありその水を放水したから高倉の水無川の岸辺の家は浸水して結構な被害があった。
あの時は細い流れでも水があふれだして下から砂が出て来た。砂があったのかと驚きでもあった。田んぼの畔の小川だったからである。土の下には砂があるのかと認識した。砂田とかればもともと砂地だったところを田にしたのである
礫(レキ)→砂利→砂→細砂→粘土 へと風化母岩が風化作用により粉砕され母材(2次鉱物)となり、更に浸食等による風化や腐植
など生物の関与により土壌ができる。
土壌の基礎知識
この変化があり土になる。もともとは砂でも土でも岩石だとなる母岩だとなる。
養蚕も盛んで紙を製する者が30戸なると山上入り山上村で約百軒あり三割が紙漉きに従事していた。それで紙漉き沢という地名がある。紙漉きには水が欠かせないからである。そういう条件を満たしているから裕福に見えたのである
進歩他の村より超越する覚ゆ。紙を製する者多し
初代相馬郡長大須賀次郎が着任早々郡内各地を巡回したときの記録である
江戸時代の山相馬市上村は他の村より進歩して栄えていた?
【江戸時代の馬頭観音の碑が語るもの】
いずれにしろ紙漉きは水がきれいな所ではないとできない、それで山上に紙漉き沢があり石神に水無川があり高倉はその上流である。その水無川でも水が絶えているのを見ない、鹿島区の水無川は水が流れるのはまれなのである
そうなると紙漉きには適していない、そして紙漉きが冬に行われるとき、冬は乾燥して雨があまりふらない。すると冬でも水がばがれないと困る。ただ石神村の水無川は常に水は流れていた。上流に高倉ダムがあっても戦前はダムがなかった
真野ダムも戦後にダムが作られていたからである。
下流には美濃和紙で知られる美濃市牧谷地区があるが、この地区で和紙の生産が盛んであった要因の1つに板取川の清流が挙げられる
私は名古屋から白川郷まで自転車で行った、その途中に板取村通ったのである。かなり奥の山である
板取という地名だけ覚えている。日本三大和紙は、美濃和紙、越前和紙、土佐和紙である。この美濃と越前は隣り合っている
越中であり名古屋の方から越前街道がある。美濃という時山の国であり水がきれいなので紙漉きに向いていたのである
五箇山村とかは越前にあり相馬藩に天明の飢饉の時移民してきた所である。その数も多いのである。相馬藩で人がいなくなり欠け地が増大した、その土地を利用できるということで入って開拓した。それで相馬藩では埋め合わせができた
だから相馬地域での墓地を見ると真宗の南無阿弥陀仏の墓が必ずある
ではここから紙漉きの技術が伝えられたのか不明である。山上は江戸時代に紙漉きをしていても石神、高倉、押釜は戦前にしていたのであり江戸時代ではない、戦前でも紙漉きはしていたのである
それから越中などの移民が越前和紙を作っていた場所でありそれは有名であった。それで江戸時代に技術が伝えられたのか明確ではない、調べられない、紙漉きが盛んだったのは戦前だったからである。確かなことは山上の紙漉きは一番相馬藩では古い
何故なら紙漉き沢と地名として残っているからである。明治時代に回った大須賀次郎が一番紙漉きが盛んだったと記録している
それは江戸時代から続いていたからである。おそらく原町区の押釜とか石神、高倉の紙漉きは戦前に行われていた。
山上は江戸時代から行われていて一番古いとなる
山上ではかなり馬の運送があった。なぜなら馬頭観音の碑がある。それは江戸時代の年号が記されている
意外と馬頭観音碑は多いが江戸時代のを見たことがないのである。一番多いのは大正とか昭和かもしれない
その時代に馬の運送が多くなった。だから近くに馬車屋があった。馬車が荷物を運んでいたのである
大正以降その荷物を運ぶことが増えたのである。人口も増えた。
だから経済活動も活発になった運送料も増えたとなる、それで戦後野馬追でも農耕馬とか運搬に使う馬が出ていた
それは競走馬と違って脚が太いもので早くは走れない馬だった
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