2022年10月07日

日本は森の国でありヨ−ロッパも中世は森で覆われていた (グロ−バル化の弊害と生態系の破壊の問題)


日本は森の国でありヨ−ロッパも中世は森で覆われていた

(グロ−バル化の弊害と生態系の破壊の問題)

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日本がの地形の特徴として入野がある、この野が問題なのである
これは極めて日本の地形から生まれていたからである

我が恋は まさかも悲し 草枕 多胡の入野の おくもかなしも (万葉集)

ここの入野は有名である、入野という地名は各地にある、入野とは山に挟まれた野とかなる、また山の斜面が野でもありその野の奥に入ってゆく地である
こういう地形は日本の典型としてある、だから野とは極めて日本の地形から生まれた言葉なのである
大陸だったら原になる、広々と開けた原になる、それは日本の野とは違っている
日本で平というとき地名にもあるし平氏とかもある、その平な場所とは平原のような場所ではない、山の斜面でありまたその一部分が平らな土地だったのである
日本は山国であり平らな土地が貴重だったのである
そこで山であっても田畑を作れるとなるからだ

日本がではそもそも山というとき谷間と字を当てている、また矢間とかもあてている
山とはやはり山と山の間とか谷間とかの間を利用して生活していたからそうなった
おそらく高い人間の生活できない場所は嶽となっていた、山岳である
人間はまずその生活感覚から地名でもなづける
浜というのもハ・マーはまであり間なのである、海と平地の間がハマなのである

元は野(ノ)といふのは山の裾野、緩傾斜の地帯を意味する日本語であった。火山行動の最も敏活な、降水量の最も豊富なる島國で無いと、見ることの出来ない奇抜な地形であり、之を制御して村を興し家を立てたのも亦一つの我Lギター(エレキ)フ特長であった。野口、入野といふ類の大小の地名が、山深い高地に在るのも其為で、是を現在の野の意味で解こうとすると不可解になるのである」(同上)。〈柳田国男ー地名の研究)

野原というとき野ー原が合体して生まれた言葉である、でも野の一字だと山野斜面とかになる、だから野原とは山の斜面からさらに平らな原の地域だとなる
原は日本語ではないのである

日本語と外国語の感覚は違っている、森というとき日本の森とヨ−ロッパとか中国とか大陸の森は違っている、日本の森は盛るーもるとかなり盛り上がったとかなる
何か余り森を意識した言葉ではない、林(はやす)だと生活する範囲にあり親しみやすいはやしはハヤスからきていて里をハヤス、栄えさせるという意味にもなる
森は林から離れた別の世界である

ともかくかつて深い森に覆われた世界が日本がにもありヨ−ロッパにもあった
その森で交通も閉ざされていた、森を抜ける道はあまりなかった、すると森が境界となり閉ざされた世界を形成していたとなる
相馬藩でも夜の森があるがそれは余の森であり相馬藩主が領有権を主張したのである
森は境界にもなった、川がヨ−ロッパでは境界になったが森も大陸だと森におおわれていたらそこはなかなか入ったら抜けられないような森林地帯となる
そこでその森の中で伝説が生まれたとなる
相馬藩内の双葉町の夜の森は余の森である、藩主の森とういことで領有を主張したのである
飯館村や丸森は森に囲まれた世界である、そこが地理的に一つの国となっている

五月雨や森におおわる木曽路かな(自作)

木曽路でも森の中に道があった、その時五月雨に森が煙っていた、そして奥へは行けなかった、あんな森の道があった、相当に暗い道だから昼でも暗いからそこを行くことは不気味だともなる、つまりそういう道しかない時代である
何らかでそういう森が覆っていて暗い森の道を行かざるをえない時代だった
なかなか森を抜けるさとはできない森があった、ただ日本の森は山と一体化した森であるヨ−ロッパとかの平原にどこまでもつづく森とは違うのである
縄文人は森で暮らしていた、すると相当に暗い場所で暮らしていたことになる
それは鎮守の森となったように日本人の歴史と文化で継続していたのである
森の中に神社があり街ができても森(杜)で覆われていたのである

日本では森は失われることがなかった、森の木でも全部切ったりしないからである
また羊とか山羊とかでも放牧しない、だから森は残った、ヨ−ロッパではギリシャとかでも森が喪失して岩山になっている、でも羊を追う人を山の斜面で見かけた
羊を飼うと森は喪失する、草を食料とするから樹は切られ森が喪失する
ヨ−ロッパでは羊を飼う放牧する人がみかける、そのために森が喪失したともなる
また文明を発達した地域では燃料でも森の木を使うから森を喪失しやすいのである
だからかつて森におおわれた所が都会になったりする
レバノン杉が有名だけでほんのわずかしか残っていないからである
エジプトにも森がありもともと神殿の柱は木だったとしているから森があった
文明は森を破壊して消失される、インドネシアでも原生林が破壊されてオランウータンの棲む場所がなくなったと保護される
文明は様々な資源を食い尽くすのである、それが機械化して大規模になったのである

人間はもともと自然が障壁となっていたから山で川で森でさえぎられていた
自然の障壁が国境となっていた、ライン河はローマ帝国が越せない境となっていた
ゲルマン人が住んでいてその民族は強固な紐帯を持った民族だった
イタリアが南方民族だとするとゲルマン人は北方民族の方になる
そしてゴシック建築の石の大聖堂を造った、それはドイツの樅の森を模したものだというとき独自な文化が実は自然の風土からcultivateされたものでありcultureになったのである
日本だと島国であり海に囲まれているから海に遮られていることによって独自の歴史と文化が育まれたのである

だからこの国境というのは自然国境になっている、自然に生成した国になる
日本で小国が多いのは山に囲まれてそこで自給自足していた、一つの国だったからであるその土地土地で自給自足していたのである
そして逆にコロナウィルスとかでは国境が見直されたのである、ウィルスが入ってくるのを止めるのは国境だからである
ともかくグロ−バル化は国境とか国籍とかをかえって無視する必要ないものとした
でも結果的にそこで様々な問題が生まれたのである
多国籍企業などが国家を越えて他国の森林を大型機械で伐採して破壊してオランウータンなどを住めなくさせたとか自然破壊が行われた
それは日本だって自国の森林は利用せず荒廃させて外国の森林の木材を利用したから同じである

ともかく人間はどうしても生態系を無視して生きていけない、でもこの生態系がグロ−バル化でも工業化でも破壊されつづけたのである
それはこの辺の原発事故でもそうである、空気から水から森林でも田畑でもあらゆる生態系の中で生きていたものが放射性物質に汚染されたのである
奇妙なのは川は狭いから汚染されつづけている、鮎が上ってきても苔などを食べると
放射性物質に汚染される、そして川の放射性物質は海のように希釈されないから困る
そして真野ダムとかあるがそこの下の泥には放射性物質がたまっている
そこは広いから除染されない、またしたとしても回りの森から放射性物質が流れてきて
たまるのである

確かに遠洋漁業が盛んになったけれども沿岸漁業になると森でも山でも川を通じてつながりがある、そこで生態系に準じた生活になる、遠洋漁業になると国土とのつながりは消える、また魚を大量にとるので中国でもとるようになったから日本の沿岸でサンマなどでもとれなくなったとかある、グロ−バル化というときこうしてあらゆることに影響したのである、食のグロ−バル化もあり競争があり日本がもともと海の幸に山の幸であり森の恵みがあったがそういうものも無視されて外国の木材が使いやすいとして日本の森の木材を使われずに荒廃したともなる、また養殖の魚にしても自然の者ではないから問題がある
つまりグロ−バル化は生態系を無視するからそうなる、ウィルスでも風土病だったようにその国にとどまって伝染が広がらなければ良かった
現代だとたちまち同時間でウィルスが世界中に拡散されるのである
そのグロ−バル化も頂点に達したの今である、グローバル化の負の面が大きくなったのである
日本では食料を外国に依存したことでも失敗だった、米すら不足するというとき国内で自給することを怠ったからである、それをすぐには回復できないことが問題なのである
これまでしてきたことを簡単に修復できないからである

いづれにしろもうグロ−バル化は縮小せざるをえない、それには何か無理があったのである、食糧までグロ−バル化することは危険でもあった、ウクライナの戦争でもわかった
食糧が何か争いがあると入ってこなくなる、だから外国に頼ることは危険だったのであるそういうことはうすうす感じていたが現実化したのである
人口減少が騒がれるが地球規模でも人口は増えすぎたのである、地球で養う限界になっている、グロ−バル化して食料を燃料でも資源でも費やすことはできなくなる
SDGsとは「Sustainable Development Goals」を「持続可能な開発目標」が世界的標語になったようにそれぞれの土地土地で生態系に準じた生活に戻ることでもある
そこでリストアーするのが世界的に目指す社会になったのである
接続可能というとき森でも大地でも海でも山でもそうである、生態系に準じて生活することなのである、それがすべてでない技術や開発をすべて否定するのではない、過度になり行きすぎたものになったからそうなるのである
丸森の山ごとソーラーパネルにしたら保水能力がなくなり宇多川でもまた氾濫するかもしれない、あれは本当に行き過ぎた開発なのである


2022年10月06日

金だけで解決しない人間の問題 (特に介護とか病気とかになると愛がないとできない)


金だけで解決しない人間の問題

(特に介護とか病気とかになると愛がないとできない)

●家族の限界

私が親の介護と自らの病気で苦しんできたことを書いてきた
その時来た人は一人は借金で苦しんでいる人でありもう一人泥棒だったとかまたその後に来た人も借金で苦しんでいたとか貧困で苦しんでいたか金に苦しんでいる人達だった
だからこういう人達そもそも人を助けること自体できない人達だったのである
自分が苦しんでいる、金がないと苦しんでいる
その時私の家族でも自分自身が苦しんでいても金が欲しいということで来たとなるからだそれはふりかえれば恐ろしいことである
相手が弱っているからこの際金をとるのにはチャンスだなっていたのである
それも自分自身のカルマであれ人間の恐ろしさを身をもって知った

どうしても介護とか病気とか弱者になったときその時相手の心が露骨現れるのかもしれない、強い時はそういうことはない、相手も恐れてそんなことできないからである
相手が弱った時チャンスなのである、人間の社会は食うか食われるでもある
動物でも子供とか弱ったものが狙われて食われるからである
人間にもそういうことがある、相手が困ったらと助けたりしない
助けるとしてもそこには魂胆がある、この際弱ったから金をとってやろうとなる

まず人間をみれば確かに家族はいいものである、でも家族優先であり家族さえ助かればいいとなる、他の者はしょせん他人でありどうでもいいともなる
家族内では愛があっても他者にはないとなる
そういうことはどこの家族にもあるし自分の家族でもそうだった
確かに家族愛というのは人間の基本的なものとして不可欠である
でも本来の宗教だと仏教でもキリスト教でも家族を否定したのか?
シャカは王様の家に生まれて出家したりキリストでも親を否定したりしたのはなぜか?
それは家族は必要でも家族だけの愛はエゴになるからである

●病人とか弱者の虐待の恐怖

でも家族は必要である、そこが人間の基本的な生活の場でありそこが人間として学ぶ場になるからだ、とても養護施設などでは家族の代わりになれないからである
ただその家族が基本的なものとして必要でもすべてをまかなえるとはならない
だから介護とか病気とか他でも他者の助けが必要になる
でもその時問題なのはまた家族のように接することができないことである
愛をもって接することができないのである、そこに大きな問題が生まれる
なぜならそもそも愛がもていないと必ずそれが行動に現れる、それで虐待ともなる
それは弱者相手の世界で起きやすい、病気になると弱者となる

すると医者とか看護師でも弱者化しているから権力をふるうことは容易になる
そもそもそういう立場の人は愛がないとできない
直接体にふれたりただ身体を診ているだけではない、心も関係している
愛の心がないとみれないのである、愛でももって接することがなければできないのであるでも現実は患者を機械のように見ている、ただ注射して薬を与えどこから悪ければそこを切除すればいい機械のようにどこが不具合があれば部品を交換すればいいくらいにみる
そこに愛はなくてもいいとなる、それより患者は金になるものでありいらない薬でも手術でもするとなる、つまり医は算術になる
でも患者の方でも優秀な医者となれば体をみる技術者であり腕のいい技術者を選ぶのが
普通である、愛があるかどうかなど見ないということもある

近くの開業医の医者は見立てがいいと評判だった、腕は良かったのである
でも私の母はその医者の所に行かなかった、口が悪くずけずけと言い冷たい医者だったのである、でも腕がいいから繁盛していたのである
私の母はそれで別の医者に行っていた、そこは優しい医者だと行っていたのである
でも矛盾は優しい医者が医者として優秀ともならないことである
優しい医者より腕がいい医者の方を選ぶともなるからだ

これが大工とかなると他でも技術であれば腕のいい大工さんを選ぶ、でも別にその人が優しいとか必ずしも愛があるとかあまり関係ないからである
でも実際はある人に愛をもって家を建てるということは必要である
でも大工の場合はそういうことはあまり関係ないのである
でも医者とか福祉関係はかなりこの愛とかは関係してくる
人間の体は機械ではない、心をもっているからである
そもそも愛をもって体に接するのとそうでないのでは影響するだろう
人間はとてもいくらAIで診断するとかなってもそれで全部できることはない
病気になればやはり人間には愛がないと診れないと思う

ただそういうことより医者は腕がいい医者がいいとなる、また機械とかでも設備が持っている病院がいいとかなる、優しい医者だとかその性格みたいなものを見る人はいない
第一医者にしてみても大勢を診るのだから愛とか言っていられない、何でも大勢になると愛は消失する、だから議員ですら病院で番号で呼ばれたとなり怒ったとなる
病院は数をこなさなければならないからいちいち愛だとか言っていられないのである
どこでも数が多ければそうなる、政治家などでもとにかく票を集めなければならない、数を集めなければならない、個々に対応などできない、愛など全くなく民衆と接しているのである、ただ選挙の時愛想良くしている、実際自分のことしか考えない
議員自体がそう言っているからである、学校でも生徒でも一人一人見れない、だから先生が生徒に愛をもつことはむずかしいのである
結局人間は数が問題になる、数をこなすとなるととても愛など持てないのである
家族が一応愛をもてるのは数が少ないからなのである

●金だけでは解決しない問題ー病気と介護には愛は必要

ただ愛がないとできないことがあることは確かである
それは自分自身が介護で自分の病気で経験した、その人は愛はなかった、借金して金を欲しいというだけであり愛がなかった、愛を持てる状態ではなかった
だからそういう人が来たことは恐ろしいと思った、その人は特別何もすることはなくてもたいしたことをすることでも愛がそもそもないのだから箱一つもちあげる気持もなかったいやいやながらしていたのである、そのことはその表情とか気持に現れていた
自分のために何もしてやる気持がなかった、金が欲しいから仕方なくしていたのである
そういう気持で病人や弱者にかかわることは怖いことである
その人への影響が大きいからである、病気すら悪くなるだろう
別に病気が治ってほしいということでもないからである、ただ金が欲しいというだけだからである

でも金はもっていても困っている時まず金を出せとういうことは強迫にもなっていたのである、借金していたからそうなったのである、だから借金とか負い目も持った人は弱者を助けることができない、自分のことで精一杯であり他者を見る余裕がないからである
その人はただ患者を座って見ているのも嫌だったのである、何もしないとしても嫌だったのである、そういう人が苦しい時来たことは怖いことである
その人はただ何もしなくても見守ることすら嫌だったからである
でも金で苦しんでいるとしても後で金をやることはある、でもまるで金をくれたら助ける今くれとなる、でも苦しんでいる人はそういう余裕すらないのである

とにかく人間はそもそも家族であれ個々人であれ何か足りないのである
金だけの問題ではない、特に介護とか病気の人をみるとき心が深く関係してくるのである介護とかは気持がないとできないのである、病気の看護でもそうである
それは家族でもそうなのである、その親の娘は一人っ子であり親に特別良くされたのである、でも親は冷たいとして怒って来るなと言ったという、病気で苦しんでいるのに冷たいのである、そこに知っている70くらいの女性が何かと世話を焼いている
その女性は金に困っている、でも親はその一人娘に金を預けている、それで金が欲しいとしてもその娘はケチで金をくれないといい怒ったのである

だからこうして家族ですら愛がないと介護などできないのである
兄弟でも親に良くされたのだからお前がやれとなる、そして遺産では必ず争うのである
また意外なのは60パーセントなのかまたそれより兄弟でも付き合わなくなったということが50代で多いのである、結婚して家族が別々になってそうなったともなる
だから兄弟は他人の始まりだというのは本当である
私が特別親を愛しているのは死んでも愛しているのは60代まで一緒に生活していたからなのである、それで特別良くされたからそうなった、これは他ではないことだから特別だとなる

●愛とか慈悲とか最高にむずかしい

いづれにしろ愛を言うがそれはこの世でほとんど実行されていないのではないか?
それは家族であっても実行されない、だから宗教でも愛を慈悲を説いても実行されていない、カルト教団の人に愛があるのか?多少団体内で助け合うことはあるかもしれない
でも実情はやはりエゴであり自らの欲望を追及しているのである
議員になりたいから信者を票とみて接する、その内心は他の議員と同じである
選挙の時だけ愛想良く接することである、その本心は自分のことしか考えないのである
それは数を集めなければならないからそうなる
百万とか集めるとなるといちいち愛がどうだごうだなどと関係なくなるからである

結局愛が実行されている場とかあるのか人がいるのかとなる
愛といっても恋愛もあり家族愛とかもありシャカの慈悲とかキリストの愛とかは別物である、そもそも愛、愛、といっても本当の愛が実行できるのか、そんな人がこの世にいるのかとまでなる
愛とは愛さ愛を一般的に要求している、でも自分ではなく他者を愛することが愛だとするときそれが実行している人がいるのかとなる、ただみんな愛と言う時愛してもらいたい愛なのである、それも都合いいエゴなのである
もしかしたら本当の愛を実行できる人は一人もいないとかにもなる
愛はそれだけ実行することは困難を極めているからだ

わかりやすいのはとにかく人は愛というとき愛してもらいたい愛であり見返りのある愛であり家族だけの愛であり本当の愛はほとんど実行されないのである
そこに人間の絶望があり人間も動物界とたいして変わらない弱肉強食の世界だともなる
ただ表面上は愛を装うのがこの世である、カルト宗教団体でもそうである
そういう場所は他者を弱者でも食い物にもする場なのである
それが統一教会で極端なものとして現れたのである、他のカルト教団でも同じなのである愛と慈悲を看板にしてそんな人がいるのか一人もいないとなる不思議なのである
だからこの世と何なのだろうとなる
この世こそがこうして地獄そものもなのである、動物の弱肉強食の世界と変わりないのである、つまりそういう場に生きていることこそが地獄なのである
いくら科学技術が発達してもやはり人間が地獄を生きている、そのことに変わりなかったのである

●何の返答も見返りもない死者を愛せとういことはどういうことなのか ?

死者を愛しなさいとキケルゴールの本で書いてあった、死者を愛するとはどういうことなのか?死者を愛することができるのか?
死者はそもそも何も答えない、死者が本当に存在しているのか?
そういう死者を愛することができるのか、死者を愛するとはどういうことなのか
これがわかりにくい、でも私は家族がみんな死んでしまったからそのことが気にかかった死者を愛することがわからない、でも私は特別二人の母親に良くされたから今でも二人を思っている、それは特殊な事情でそうなった

何も答えないのだけど語りかけている、何か認知症になった人が延々と死者と語っていたという、その人にとって死者は死んではいないのである
だから認知症は必ずしも人間の異常でも狂気でもない、死者が死んでも生きてると思うことは人間にとってはむしろ正常だともなる
それより死者を全く思わない人がいる、親でも思わない、そういう人こそ異常なのである人間ではないともなる、その人は生前も愛することもなかったからそうなった
ただ遺産がもらいたくて親とかかわるという人も相当数いる
そして今は経済的にも苦しいから子が親を捨てるという時代にもなっている
もしかしたら江戸時代のことではない、現代こそ姥捨て山の時代なのかともなる
老人が増えすぎたこともありそうなることもありうる、現実に若い世代は老人は早く死んでくれというときそういう心情に若い人がなっているときまさに実際に捨てないにしても心では捨てているからそれが現実化するのである

愛と言う時、愛がないというとき、何か愛が介護でも重い負担なことではない
簡単なことでも愛がないということがある
介護するにも別に重い負担のことを言っているのではない、ただ何もしないで一時見守ってくれるということを頼んでもその人にはそういう気持ちがないからその人はが側にいること自体怖いことになる、その人はいやいやながらそこにいるからだ
何もその人に愛もないどころか全くそういう心を持っていない、そんな人がいること自体怖いことである、私はそういうことを家族の介護と自分の病気で経験して来た
そうなったのも自分自身のカルマだったとなる
それは余りにも自分は家族でも良くされた結果としてそうなった

他では親に虐待されたとか親ガチャの人が多いからである、私にはそういうことは全くなかったのである、それは60歳までもそうだったのである
そのために死んでも供養して語りかけている、死んでも愛しているとはなる
死者を愛することは介護のような重い負担はない、死者は何も要求しないのである
でも死者を愛し続けることはむずかしい、なぜなら返答がないからである
また報酬もないのである、そういう死者を愛し続けられるのかとなる
ただ家族が全部死んで今になると思い出が宝になったことは言える
家族として暮らした日々がなつかしくそのことを思い出しているとき家族がまだいるようにも思える
最後は人間は記憶に生きるのである、家族がみんな死んでも記憶としては消えていない
それで思い出しては生きているように感じるのである
でも嫌なことは思い出したくない、そういう記憶もありそういう記憶は消したいのである家族でも親に虐待することはむしろ心の傷となっているからそんな親を思い出したくないとなる、その時親は親ではない、死んだ人を想ってくれない人はやはり何かそこに問題があったとなる、ただ個々の事情は複雑でわかりにくいのである




abstract mountain and forest trail


abstract mountain and forest trail

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foretress
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deep and shallow water

これは一部を切り取ったものである
抽象画は単純なものである
深さと浅いを表現している
ただ切り取ったものだから著作権の問題がある

2022年10月05日

コスモス、カーネーション、朝顔など(ようやく秋になる)


コスモス、カーネーション、朝顔など(ようやく秋になる)

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ニチニチソウ
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紫のカーネーションと母
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庭に来た四十雀



我に向き十数輪咲くひまわりやカンナの赤く映えにけるかな

三色の朝顔咲きぬ板塀に今日も通りて心なごみぬ

三色のコスモス壺にさしにけりここに調和し心なごみぬ

カーネーション紫濃しや我が母の遺影ににあう家を支えぬ

我が向かい一つきらめく秋の星神の御意にそかなうべしかな

夜のふけて幽かに一匹虫の声心の奥にひびきけるかな



カーネーションの花は母の日に送るものだった、カーネーションにはいろいろな色がある紫色もある、これは濃い紫だが薄い紫色もある
これこは仙台市で買ったものである、仙台市だといろいろな花の種類を売っている
この辺では仙台市から花を買っている、花の市場は仙台市にあるからだ
そこには外国からも入ってくるからだ
ただ今のところ自分の住んでいる町には一軒しか花屋がなくなった
花屋も維持するのがむずかしい
この紫のカーネーションは自分の母にあっていた、何か控えめであり地味だからである
もう一人の母親ははでなのである、でもここで問題なのは必ず二人の母親がいたから
どうしても二人を差別するとまずいのである
だからもう一人の母親には明るい大きな花があっているから挿すことにする

フラワーアレンジメントは野の花をとってでもできる、コスモスは川の土手に咲いていたものだからである、ただ壺も関係している、だから壺をある程度集める必要がある
私が買ったガラスの壺は安いものである、別に安くてもいいのである
何でも高価なものがいいとは限らない、その花にあったものが必要だとなる

いつも通る道にも三色の朝顔が咲いている、色が違って調和していることに心がなごむ
まずこの世の中とにかく色を一つにされる、学校などでも何か黒い制服でありユニホームを着せられる、自由がないのである
カルト教団とか軍国主義とかにもなるナチスのように一色にされる、そこは黒一色の世界なのである、個性は認められないのである
そこに調和なく心がなごむことはないのである、神の創った世界は様々な色があって調和しているのである

今日は涼しかった、ようやく秋になる、読書するとかにはいい季節である
夜がふけて一人幽かに鳴く虫の声を聴く、結局一人くらいならその悩みとか不満でも聞ける、もう五人くらい来てもその声を聴くことはむずかしくなる
今付き合っているのは一人くらいしか自分にはいない、人と付き合うのが疲れるからだ
それで引きこもりにもなったのである

ともかく人間は死んでも死んだ人と語り続けるものだと思った、何か認知症になった老人が死んだ人と話しつづけている
それを聞いて奇妙に思った、病気だからそうなったのかと思った
でも実際は普通でも死んだ人と語り続けているのである、そして死んでもすぐ忘れる人はそれだけ印象に残らなかった人なのである、でも延々と語り続けられる人は依然として生者の中に生き続けているのである

生糸取り(製糸工場)の戦前の仕事 (なぜ30分の休憩時間で早食いして死んだ女性がいたのか?)


生糸取り(製糸工場)の戦前の仕事

(なぜ30分の休憩時間で早食いして死んだ女性がいたのか?)

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10分は短すぎる、当然これだと体を壊すことがいた人はいる、早死にしたというのも本当だったのか?

https://www.youtube.com/watch?v=l8Lb5mZfyBU&ab_channel=%E3%82%86%E3%81%A3%E3%81%8F%
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私の母親が原町紡績(原紡)で働いていた、大正生れでありその頃の女性の仕事は生糸をとる仕事と女中くらいしかなかった
でも30分の休憩時間で早食いした女性がそれが元で死んだと聞いた
そのことが良く理解できなかった、でも野麦峠で有名な女工は休憩時間が10分とかyoutubeで見た
まともに休む時間もなく働きつづけたとなる、食事は味噌汁とた沢庵くらいでありそんなもので良く働けたと思う
休息時間が10分は短すぎる、だから本当に御飯でもかきこむようにして食べる
そると良くかんでいないからそれで胃が悪くなったりすることは考えられる

私の母とここの女工哀史になった人達の相違は山奥から貧農の娘が稼ぎのために出されたことである、でもその収入はかなり高いものだった、家を建てるくらいの金も稼いだとかなる、つまり貧農では食べるのもやっとだったとなる
それで正月に故郷の親元に帰ることが一番待ちどおしいことだったとしている
稼いだ金を親に与えて喜ばれるからだという
親孝行できるからだとしている、こういう時代もあったのである
子供はただ親に尽くすことだったのである

子供は親の犠牲になることだった!

今は親は子供の犠牲になる

時代が違うとこれほど違うものとなる、だから昔のことはなかなか理解できないし誤解することが多いのである
戦後生まれの団塊の世代でも子供の時は農家では農作業を手伝っていた、農休みがあるのは田植えと稲刈りで忙しい時があり子供手伝っていたからである
人手がたりなくて子供が労働力になっていたからである
中国ではなぜ男の子をほしがるかといえば男の子は労働力になるからである
私の家は店をしていて子供の時は奇妙だけど一番働かされらていた
配達とか卵買いとかさせられた、店でもその時は近隣でとれたものを買って売っていたからである、遠くからは余り物は入ってこない、運ばれない時代だったからである

ともかく戦後十数年は日本は貧乏だったのである、今とは比べようがないくらい貧乏だった、洗濯は裏の堀の川でしていたし卵も満足に食べられない時代だったのである
それで巨人、大鵬、卵焼きというようになった、卵焼きが食べることは贅沢だったのである

1961年(昭和36年)の流行語。

プロ野球の読売ジャイアンツ(巨人)と大相撲の第48代横綱大鵬幸喜、食べ物の卵焼きが当時人気があった。

卵焼きは贅沢なものだったのである、ただ農家では卵を鶏を飼っていたから普通に食べていたが農家ではない人は卵も満足に食べていないとういことがあった
子供時代は江戸時代の生活とさほど変わりなかった、燃料は炭だし街内でも囲炉裏があったからだ
それが東京オリンピック辺りから高度成長時代になり日本が世界へ復興した日本を見せることで意義があったのである
でも不思議なのは高校まで蒸気機関車だったのかということがわからなくなった
ただ原町の高校に通っていてトンネルをくぐると顔がすすけることがあって確かに高校まで蒸気機関車だったのである
そのことがどうもわからなくなった、普通の電車に乗っていたとも思っていたからである
戦後の焼け野原に生まれ生きたのが団塊の世代である
その辺は実際生きていたのがら子供でもなんらか記憶がある身近に感じる
では戦前となるとさらに江戸時代になるとまた前の時代をどうして理解するのかとなるとむずかしくなる
その一つは昼間の休息時間が10分だったという生糸工場である、それだけ過酷だったとなる
でも母が言ったのはそれほど厳しいことを言っていない、信州の生糸工場は親元を離れて仕事していたから厳しいとなった
私の母は実家から通って仕事をしていたからそういうことはなかったとみる
でも私の母親は継母に育てられたからいじめられたりしていたから別な苦しみがあった

でもその当時の感覚では生糸工場でも女性が外で働き稼げるということでそれが必ずしも重荷とはなっていなかったのである
何でも給料の代わりとして米俵何俵なのかもらったのか買ったのか継母にでも喜ばれたという、つまり女性が稼げるようになった、それも農業するより現金収入となり生糸の工場がみんな悪いものでもなかったのである
だから今の感覚ではひどいと見るが当時はそうでもなかったともみる
でも10分とか20分の休憩がないことは苦しいとなる
今では工場の流れ作業は辛い、勝手に休めないからである

その際に課題となったのは、女工を寄宿舎生活になじませること、都市生活による堕落を避けること、そして、勤勉に働かせることであった。さらに、このような要素を満たす女工を継続的に集めることも必要となったのである。つまり、産業革命期の日本では、資本家が労働者を確保し、資本主義生産に適した労働者へと育成することが必要とされたのである。
https://www.kansai-u.ac.jp/Keiseiken/publication/seminar/asset/seminar14/s205_2.pdf

ともかく過去を実感することは本当にむずかしい、本を読んだからまた映像を見ても過去を実感することはむずかしい、でも何か昔のことを再現する方法はある
団塊の世代だとやはりそれと似た経験をしている、でもその後の世代はそういう経験をしていない、すると実感できなくなるのである
ただ人間は過去を理解することが必須である
最近日本は貧困化していると盛んに言われる、でも本当の貧困とはなにか理解していないのである、理解できないのである
それは経験していないからである、例えば何でもそうだが経験しないわからないのである戦争のことをいくら聞かされてもそれが実感できない、戦争となると余りにも日常と違うからわからなくなるのである
人間と人間が殺し合うということがどういうことか実感できないのである

人間は別に今でも他者を簡単に理解できない、それはそれぞれにその人が経験したことがわからないからである
自分自身が経験したのは20代は底辺の仕事しかなかった、大学出ても底辺の仕事しか経験していないのである、だから仕事が嫌になった
その後家族に恵まれて引きこもりになり自由が与えられていたから旅をばかりしていたと自分の好きなことをしていただけである
それは家族に恵まれた結果なのである

過去を知るとき老人なら必ず昔を語る、その話を良く聞けばある程度は実感する
だから老人は語り部になる、実際に生きている人が語る時生々しいものとなるからだ
だから歴史は大きな国の歴史もあるが郷土史とかなると祖父母から聞いた話から過去を知り歴史を知るとなるのである
ただ昔を知るにはそうして祖父母から聞くとういうだけではなできない
その当時の資料を見たり映像を見たり方法がある
でもそこには想像力が相当に必要になる、私は子供時代に江戸時代のような生活をしていたからそこからイメージするものがある
でも戦後十年とかすぎて生れたりするとわからなくなるのである
10年でも世代が違うとわからなくなる、特に戦前から戦後はまるで違った社会に生きるようになっからその変化が激しくその経験をしたものしかわからないとなる

とにかく人間は過去を歴史をどうして理解するのかが問題である
それを国家の歴史というだけではない、庶民の歴史でもある
その時庶民はどう感じていたのか、それに耳を傾ける必要がある
ただもう大正生れの人は死んだ人が多い、だから直接話を聞くことはもうできない
それでも探る方法はある、それでも想像力がないとなかなかできないとなる
考古学でも残された一つの遺物から遠い過去を浮かび上がらせるのは想像力なのである

「富国強兵」の原則に基づいて日本社会の近代化を急激に促進した。政府は、近代化を実現するために必要な外貨を獲得する目的で、殖産興業政策によって、多くの産業部門に介入し、幕府から継承したものや新設したものを含む官営工場の経営にのりだした。中でも製糸業は、当時、最大輸出品であった生糸を生産して大量の外貨をもたらす産業として、国策の中核に位置づけられた。

富国強兵のための資金が必要であり外貨をかせげるのは日本では生糸を作ることだったのである
今でも兜作りの家があちこちにある、それは養蚕した農家なのである
桑畑もいたるところにある

鉄道黎明期に起きたとされる、「宿場町がすたれる」「養蚕業に悪影響が出る」「火災が起きる」などの今となっては理由にならないような理由によって、鉄道を拒否した町があったと言い伝えられている現象。各地にそういう話が残されており、信じているひとも多い。

蒸気機関車の黒煙が公害ともされた、それで養蚕の元である桑畑が汚されると反対したのが養蚕農家だった、それは福島県でもそういうことが起きていたのである
そのことでもいかに養蚕が日本の産業になっていたかわかる
相馬農業高校がもともとは養蚕を教える学校として始まったことでもわかる

原町紡績に引き込み線があり生糸を横浜に送りアメリカに輸出していたのである
原ノ町駅は平駅と同じく機関区になっていて大きな駅だったのである
そこから木材と石材とか常磐炭田あり磐城だと石炭を東京に送ったのである
鉄道はもともと荷物を送ることが主でありそれから始まった
北海道はもともと石炭を運ぶために鉄道が作られたのであり人を運ぶためではなかったのである、その時石炭が今の石油と同じくエネルギー源だったからである
輸送は鉄道でありだから駅に必ず貨物列車が入り荷物を下ろす引き込み線があった
ただ原町紡績だとそこまで引き込み線があるのはめずらしい
でも岩沼の工場地帯にも引き込み線があるから鉄道が輸送の主役だった時代があったことは偲ばれる
posted by 老鶯 at 09:46| Comment(0) | TrackBack(0) | 歴史(相馬郷土史など)

2022年10月04日

宗教二世問題の深刻 (子供の時から洗脳されてぬけられない)


宗教二世問題の深刻

(子供の時から洗脳されてぬけられない)

●学会っ子という洗脳された人や紅衛兵とかも同じ

なぜ宗教二世問題が深刻なのか?それは純粋な子供の時から家族が洗脳されているのだから子供もそれに従うからかえって純粋な子供は染まり安い
透明な水だったらそこに赤をまぜると赤一色にすぐになってしまう
それは透明だからそうなる、もしその色が青だったら赤をまぜたら別な色になる
そういうことがなく透明でありそこで一つの色に染まり安いのである

創価だと学会っ子とかいる、完全に学会で家族一体となり育った人である
そういう人を知っている、その人は創価しか見えないのである
だから疑うこともなく創価の色に子供の時から染まっている
そして大人になって一生創価しかない人間になる
その人が悪い人間ではない、かえって純粋で素直だとカルト宗教に染まり安いのである
それはヒットラーユーゲントと同じだったのである

それは宗教だけではない、共産主義でもそうだった、共産主義でも一種の宗教だからである、それで毛沢東の文化革命があり紅衛兵がそうだった
それも中国全土を席巻したのである、その主役が紅衛兵だったのである
そういう少年は洗脳しやすいのである、そのためにどれだけの被害があったのか?
これはヒットラーユーゲントとも同じだった、ハイルヒットラーでありナチスの被害も何百万人が死んだとかカンボジアでも二百万人が死んだとか空恐ろしいものだったのである

●地獄に落ちるとか罰あたるとか脅えさせ呪縛するカルト

統一教会でも魂を支配して奴隷にするのである、その教祖は実はサタンなのである
カルト教団とは何かというと人間を奴隷にするためにある
奴隷の霊を与えて支配するのである、地獄に落ちるとか罰当たるとか脅して支配する
それがサタンなのである、でも人間はそういうものに弱いのはいろいろな問題をかかえて何とか解決しようとするからである、それでサタンにも頼るのである
そもそもサタンが地獄人間が地獄に落ちるとか脅しているのだからそんなこと信じるのは馬鹿だとなる、かえって地獄に落ちるとか悩む人だと救われるとまともな宗教家が言っている

俺は地獄に落ちるんじゃないかとか罰当たるのかと悩む人はかえって救われるとしている親鸞だったら私は大悪人だといい、悪人正機説を唱え地獄は一定の住処なりと言っていたそういう人が真実の宗教家だとなる
つまり自分自身が地獄に落ちる人間だという人が真の宗教家でありお前は地獄に落ちるというのはその人がサタンなのである
なぜ地獄人間のような人が地獄に落ちるなどと言えるのかとなる
そんなことちょっと考えればわかる、地獄に落ちるとか一体誰が言っているのかとなる
それが大集団で言うと恐怖になる、つまり誰かではなく人間は大集団が怖いからそうなったのである、集団化すれば何でも正当化してナチスになったのである
赤信号みんなでわたれば怖くないになった、それが現代社会なのである
民主主義でもすべて数で決まるから同じなのである

でも人間はそういうことに意外と呪縛されやすい、とういうのは何か不幸があったり不可解なことがありどうしてもそれを解決したいとなり頼ることになる
でも人間はそうして頼る者が危険になる
この世では何でも仲介するものが危険である、宗教でも仲介するものは危険である
教会があり牧師がいたとしてその牧師は信仰を仲介する者である
するとその仲介する者が力を持つようになる、神に取り継ぐものとして力をもちカトリックが社会を支配するようになったのである
それで直接神と向かい信仰するべきだとしたのがプロテスタントだったのである

●メデア(仲介する者)になるものの危険ー牧師とか投資でも仲介するものは危険

ともかく何でも仲介するものは危険である、メデアとは仲介するものでありそれでマスコミがあり報道も歪められた、マスコミがどれだけ力をもったか、第三の権力となったのもメデアとして仲介するものとして力を持ったからである
マスコミに出れば名前が知られる、何百万人が見るとしたならそうである
その宣伝力があり力をもったのである、でもインタ−ネットが生れyoutubeなどが生まれてその力は弱まったのである、何かテレビで主役なのは司会者であり報道局を報道する設備を持っているテレビ局なのである、だから何かyoutubeで発言している人がテレビに出ると脇役になる、主役にはなれない、主役になるのは司会者でありテレビ局なのである
youtubeだと主役になっているのは一人の個人なのである

なぜ仲介する者が力を持つかというと例えば投資などわかりにくい、だから銀行で投資信託を頼む、でもその銀行はもともと投資のプロでもない、ただ仲介するものでありそこで手数料をとる、投資自体は悪いものではないにしろ素人だとわかりにくい、すると専門家に頼らざるを得ないでも銀行はもともと投資のプロではない、だから適当であり手数料をかせげばいいしかない、銀行は投資信託でも絶対に損することがないからいい商売なのである
ただそういうことは複雑な現代社会ではいくらでもある
例えば弁護士が必要だというとき自分で訴訟ができないから弁護士に頼る他ない
法律はむずかしすぎるからである、そして現代はいろいろなことで仲介者を必要となる社会である、そうなると人間は仲介者がいなければ何もできないとなっている無力化されているのである

●偽りの宗教に呪縛される人間(サタンに操作される人間)

宗教というとき実際は神仏に頼るわけでもない、そこに巨大な集団があり組織化して力を持つことになる、そういう巨大な団体に頼っているのである
その巨大な団体は権力化して社会を支配することになる、神仏を表に出していても実際は数を集めて権力を求めているのである
現代の権力は金と数だからである、神仏といってもそれはあくまでも権力を得る手段にすぎないのである、つまり実質この世を支配しているのはサタンだとなる
それは神仏に頼るのではなく権力に頼るからそうなる

とにかく宗教二世問題が深刻なのは子供の時から染まってしまうからである
それが悪いということはならないし素直なら従うからである
でもなぜ反抗期があるのか、また子供は成長すると親から脱出したくなるのか?
そうなっているはどうしても人間は独立するには必要だからとなる
また時代の差があり古いものを否定して新しい時代を作るために必要だからだともなる
世代間の対立があるのが正常である、だから幸福の科学の二世の人が親に反抗しているのは驚きである、でもそれがまともなのである
ただ親に従う者は新しい時代に生きられないのである
結局紅衛兵騒動でもまるで麻疹のように一過性で終わった、現代は一過性で終わるのが多いのである、継続しないのである、その時その時で熱狂して終わる
終わってみてそれは何なのだとなっている
一種の熱病でありそれが覚めた時、何なのだとなるのである

いづれにしろ宗教二世の問題が深刻なのは宗教の呪縛から解放されないのである
サタンに奴隷の霊が与えられて呪縛される、それが深刻なのである
簡単にやめられないのである、だから親でもそういうものを残す与えるということは罪作りなのである、簡単に捨てられないからである
そこで子供は親を恨むともなる、ただ親だからしにくい、それで山上は統一教会を恨んだのである、それだけではないそれとかかわった支持した阿部前首相を狙い殺したとなる
積年の恨みがありそうなった、だから自民党にしてもそういうカルト宗教団体と安易に票になるからといってかかわるべきではなかった
それは創価公明党も同じなのである、票になるからとカルト教団と一体化することは危険なのである、政教分離が生まれた経緯もカトリックで庶民が苦しんだ結果生れたからである、免罪符とかを売ったからである、ということは地獄に落ちるとか罰当たるとかを逃れるためにそんなものを金で買った、それが悪質なものであり信仰を仲介する者達がいかに危険なものか証明していたのである
地獄に落ちたのは実はそうして免罪符などを売った教会側の牧師とかであったからだ
地獄に落ちるなどと言っているその当人が地獄に落ちていたのである

●カルト教団を簡単にやめられないのはなぜか

でもなぜカルト教団がこの世から消えないのか?
それは人間がいろいろな問題をかかえる、それが解決できないからである
先祖が悪くて苦しんでいるとかでもそうである、そういうカルマは各自に必ずありカルマとして苦しむことになり解決したいとなる、それで仲介者に頼るのである
それが危険なのである、仲介者というとき師となるも人もそうである、習っていいとしても盲従することは危険であり偶像崇拝になるのである
現代文明社会はともかく複雑であり必ず大迷宮に迷い込む、そしてそこで怪獣に食われるのである、オウムなどがその典型だった、理系の優秀な人達がそうして麻原という怪物に食われて死刑になったのである
それは統一教会でも創価でも幸福の科学でも日蓮宗系統の顕正会なのか日本会議なのかそれらも同等なのである

顕正会が恐ろしいのは、「必ず病気が治る」「必ず幸せになる」などの甘言で誘うわりに、信仰の「功徳」は得られず、確実に「会合への参加」「新聞の購読」「年末の寄付」といった費用と時間と労力の浪費を強要されていくという点です。

「国立戒壇を放棄した創価学会に抗議する」として、約70人の男子部員が街宣車を先頭に東京・信濃町の創価学会本部に押しかけ、「責任者に会わせろ」と敷地内に乱入、乱闘騒ぎの果てに青年部長Mをはじめ12人が逮捕された。

顕正会の手法も創価と同じだった、でも日蓮宗同士でも争っていることに驚く
宗派争いが過激になる、イスラム教でも宗派争いが現実に戦争にもなっている
創価も前は顕正会と似ていたのである、でも数が多くなり反発があると会員を増やせないとして強行な折伏などはやめたのである
ただ基本的にはその実体は変わっていないのである
国立戒壇を目指すということはやめたとしても本質的には権力を得て日本を支配する
権力を握りそして御利益を分配するのである、だから野心家が入る、政治家になりたい人も入る、欲望を実現するために入る、なぜなら権力を得ることを団体自体目的化しているからである、心のことなど関係ないからである

その極端化したものが顕正会であり初期の創価と似ているのである
日蓮宗はどうしても過激にならざるを得ないのである、それで太平洋戦争でも日蓮宗を信じて戦った人もいることでもわかる
日蓮宗は武力まで肯定するほど過激なのである、それでその団体は僧兵ともなる
なぜなら組織自体軍隊組織だからである、権力を奪取するための軍隊組織になっている
隊長とか参謀とかなっているのもそのためである
だからこんなファシズム団体と政権を運営する自民党は危険なのである
統一教会問題と同じなのだが自民党の政権の一翼を担っているので責めないのである
でもいづれは会員が減って票を得られないとなると自民党は捨てる
そういう兆候がすでに現れているいるからである

●カルト教団はサタンに操作されている

要するにカルト宗教団体はただこの世の力を得る為にこの世の手法をとっているだけである、金が力となれば統一教会のように金を信者むしりとる、数が力となれば数を集める
本来の宗教とはまるで違ったものである
つまりこの世の力を得るためにサタン化したのである、堕落した天使なのである
この世に魅せられてこの世の王となろうとしている、それで宗教を利用しているのであるだから相当に悪質でありこの人達は来世では苛烈な罰を受ける
聖なるものを汚したとして罰を受ける、その罰は苛烈なものとなる
まさにそのことにこそ恐怖なければならないのだがしない、あなた達がどんな罰を受けるのか?来世で裁かれるのか、それを知ったらショックになる
でもそう思わないのはなぜなのか?そこに巧妙な仕掛けがありそれにはまっている
サタンといってもその人達がサタンではない、サタンに操られている
そうなるのは結局この世のものに魅せられてこの世で栄誉栄華を得たいためだとなる
だからはキリストが試されたのである

悪魔はまた、イエスを非常に高い山に連れて行き、この世のすべての王国とその栄華を見せて、
こう言った。「もしひれ伏して私を拝むなら、これをすべてあなたにあげよう。」
そこでイエスは言われた。「下がれ、サタン。『あなたの神である主を礼拝しなさい。主にのみ仕えなさい』と書いてある。」

カルト教団とは逆である、この世の栄誉栄華を求めて得られるとしてサタンを礼拝しているのである、結局この世に生きているのだからその誘惑から逃れられないのである
宗教さえ実はこの世の王となるための手段としてサタンに魂を売ったとまでなる
カルト教団の求めているのはこの世の王になることであり栄誉栄華を得るためである
そのためにこの世の権力を得ることが目的化しているのである
それが世俗世界ならそうなっていても理解できるが偽りとなり宗教がかかわり訳わからなくなっている、王仏冥合だとか煩悩即菩提だとかその解釈もただ都合がいいようになされる、その目的はこの世の力を得てこの世の王となるのがその教祖の野望なのである
それで奴隷の霊が与えられるのである、それは金銭的なものだけではない魂が奴隷下されるから怖いのである





2022年10月03日

真野川に鮎が上っていた (天然の鮎は放射性物質の汚染度が高い)


真野川に鮎が上っていた

(天然の鮎は放射性物質の汚染度が高い)

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シジミは比較的安全なのか?


真野川で投網をしていた人がいた、めずらしいと思って見ていた
土手に車が止まっていたので聞いた
漁業組合の人だった

今年は鮎が上るのが跳ねるのが見えなけどというと鮎は上っている、今は落鮎で大きくなっているという、そして天然の鮎は放射性物質の汚染度が高いという
それは長い間苔などを食べているからだという
特に天然の鮎は汚染度が高いという、なぜなら汚染された苔などを食べつづけいるからである
でも放流した鮎はそうではない、短い期間でありそれほど汚染されていないという
だから山女(ヤマメ)などは汚染度が高い、年中川にいるからだ
真野川の上流に水無河原の上流にもいる

そして真野川の真野ダムの下にやはり流れをせき止めたダムがあった
それが今回の大地震で壊れた、それでそこから泥水が流れ出した
それで濁った水が真野川に流れ込んだ、それは放射性物質に汚染された泥だったのである
新田川で釣りしていた人がいたが新田川で鮎は放流していないから天然の鮎だという
ということは食べると危険だとなる
とにかく真野ダムの泥には放射性物質が堆積している、そこから水道の水を利用しているから困る、そして真野ダムは大きくて除染できないからである
だからそこからどうしても放射性物質が流れたまるのである

ともかく県の人でも川を調査していたが今でもつづいているという
この放射性物質の汚染がやっかいである、いつなったらなくなるのかわからないからである
たた新田川で鮎は放流していない、真野側では依然として放射性物質を調べている
県で調べている、上流に真野ダムがありそれが問題なのである
またその下にダムのようにな流をせき止めたものがあり今回の大地震で壊れて泥水が流れた、それで一時真野川は泥川になったのである

今漁業組合の仕事はこうして放射性物質の汚染を計る仕事にもなる
真野川の河口ではしじみもとる人がみかけるようになったがそのシジミでも管理するのは漁業組合なのである、でもシジミはどうなるのかとなるとやはり放射性物質に汚染されているのか、それは良くわからない、鮎は汚染された苔を食べるので汚染される
しじみはどうなるのか、松川浦ではまだアサリとりなど許可していない

ともかく真野ダムに大量の泥がありそこに放射性物質が堆積されるさとが不安になる
だから水道の水を飲まない人がいる、相馬市でも真野ダムの水を利用しているからである川の汚染は川は狭いし海のように攪拌して薄められない、トリチウムを海に流すと問題だが川のように狭くないから拡散する、それで海に流そうとしている
それでも影響はある、でも川の問題の方が深刻だったのかとなる

放射性物質は回りの森からでも流れ出してきて真野ダムにもたまるからである
それは除染できないのである、セシウムの半減期が30年とかになるからそうした長い時間を待つほかないしまたプルトニウムとかなると二万年消えないとなるからやっかいなものなのである、だから原発は一旦事故になったとりかえしつかないものとなる
でも石油が高くなり電力を維持するには原発の再稼働しろという声が大きくなっている
でも原発のリスクが大きすぎるのである


posted by 老鶯 at 12:23| Comment(0) | TrackBack(0) | 福島原発事故関連

2022年10月02日

大学がかかわり久山町の健康増進運動はなぜ失敗したのか? (集団的平均的に人間をみたため?ー人間は個々に体でも違っている)


大学がかかわり久山町の健康増進運動はなぜ失敗したのか?

(集団的平均的に人間をみたため?ー人間は個々に体でも違っている)

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久山町でかえって大学がかかわり健康増進とかしたら病気が増えた、くも膜下出血
で死ぬ人が増えたという

それはなぜなのか?

糖尿病および予備軍発症予防
は失敗し、著明な増加が認められた 8。実際 14 年間の努力にも関わらず、糖尿病の確定診断がついた人が男性で 15.0 から 23.6%、女性で 9.9 から 13.4%と著明に増加した。
また男性では、40 歳以上の久山町住人の約 6 割が、予備軍を含めた耐糖能異常という、数字に増えていた。研究責任者の九州大学・清原裕教授も 2007 年 7 月 27 日(金)の毎日新聞朝刊 で「1988 年以後、運動や食事指導など手を尽くしたのに糖尿病は増える一方。どうすれば減るのか、最初からやり直したい」
https://www.jstage.jst.go.jp/article/jln/26/1/26_47/_pdf/-char/ja


なぜ大学で健康指導してかえって病気が増えたのか?
武田先生の言うには人間を平均として見ることはできない、血管でも様々であり人によって違う、だから血圧でも130でも150でもそれを平均としてみることはできない
別に平均より高くても健康である状態の人がいる
降圧剤とか飲んでもかえって悪くなるという、確かに人間の体はいろいろである
体重でも体形でも体質でもそれぞれ違っている
もしかしたら人間が多様な個性があるように違っているのかもしれない
私の母親は百才まで生きたけど細い体であり重いものも持てない女性だった
でもどうも血管が丈夫でそれで病気にならずに百才まで生きたようだ
ただその人の体質によっていろいろな病気にかかることは確かである

私の母親は丈夫な体ではない、そして私の母親はそもそも無理をできないから激しいことはできない、日々家の中で同じようなことをして過ごしていたのである
一方姉の方は太っていて力があり男優りだったが認知症になり85歳で死んだのである
だから何か体力がないと細い体とか繊細な体でも長生きはできる
でも以外は体力ある人でも何か急な病気で死ぬことがある
スポーツ選手が意外と早く死ぬのはやはり体を丈夫だから無理もできるから過酷な運動で体を消耗して早く死ぬのかとも見る
私自身も体は丈夫ではない、体力がない、でも別に長生きするかどうかは関係ないから
もしかしたら長生きするのかとも思う、体力があるとかないとか長生きには関係ないようだからである
ただ体力がない人は激しい運動ができないから冒険などしにくい、それで私自身が登山をして死ぬほど疲れた、それで早めにやめたのである

人間の問題は平均的に何でも分類してとか見るのは危険である、人間の体にも個性があり多様性がある、でも大学では人間を平均的にみて健康増進を計った
糖尿病には減塩食でこういうものがいいと提供した
でも減塩するとかえってエネルギーがでなくなるという
だから人間を一様に平均的に見るのは良くないのである
それは人間の体だけではない、人間そのものもみんな違っている、それはその育った環境もみんな違っている、育った場所でも家庭でも環境でもみんな違っているからだ
教育でも問題なのは人間を平均的に一様に見る、それは明治から学校教育が始まりそうなったのである、なんでも点数をつけ平均化してみる
現代文明自体が常に数字化して平均でみる、でも人間は個々に様々であり違っている
でも個々に対応できない、それでかえってヨ−ロッパの貴族は家庭教師を雇ってそれぞれの個性にあった教育をしたから天才が生まれたのかとなる

また薬でも製薬会社のもうけのために過剰にのまさせる、これも確かにある
日本人は特に薬に頼りすぎる、すると必ず薬に副作用がありかえって悪くなったりする
糖尿病が増えているというときある人は病院に半年とか入院してかえって悪くなった
まともな食事もとれないことや精神的負担も大きくそうなった
そして家に帰ってその人なりの生活をしたらかえって良くなったのである
それは家に癒す効果があったからだと思う、その人は妻はいないが家に精神的に癒す効果がある、だからみんな家で死にたいというときそれは体の問題ではなく心の問題になっているからである

ともかく人間の問題は病気でもそうだし教育でもそうだしあらゆる面でそれぞれの個性にあったように対処できない、集団的に平均的に見てしまうのである
そして病院では番号で呼ばれたとか議員でも怒っていたのである
人間は数が多くなると当然そうなるのである、一人一人をなかなか診れないのである
一人一人の体が違っていても対処できないのである
それは病気だけではないあらゆることに一人一人に対処できない
だからこそ政党があっても政党では一人一人の言うことを訴えることを聞けない
あくまでも票として数を集めることが優先するからである
人間一人一人をみるのではなく人間を数として見ている
だからそれがカルト教団でも何でもいいとなりやすいのである
まとまった票になるからカルト教団でも頼りになるとなる、でもそうして集団だけを見ていると個々のことは見ないから問題が起きる
久山町で起きたことはやはり集団的平均的に見て個々の対応がなかったからなのかとなるでも久山町は小さい町なのだからそれができなかったのかとはなる

こうして現代ではみんな集団的になり個々人は見ない、それはカルト教団でも創価でも
共産党でもどこの政党でもそうなりやすいのである
第一何百万人のものも個々に対応することが不可能だからである
いくら相談になるのとしても無理である、でも個々に対応しないと問題が解決しないことがある
前にも述べたが人間の問題はカルマが関係している、そのカルマも個々に違っていて複雑だから一様に対応できない、貧乏な人はみんな苦しいから金の面だけからみる
それはわかりやすいからである、年収いくらだとか貯金がいくらもっているとか常に平均でみる、そういうのはわかりやすいから政策として反映しやすい

でも個々人の問題はそれだけではない、それぞれのカルマがありそれが他者からわかりにくいのである、それは別に金持ちの家でもカルマをかかえているのである
それがいつか必ず苦しみとなって現象化するのである
それは個々に違っているのだから集団で平均化して解決できないのである
そのことを私は家族の介護のことなどで書いてきた
カルマの解消はそれぞれが苦しまないと解消できないのである、金だけで解決するとは限らないのである
創価とか共産党でも組織団体では平均化して一様にみる、それは票になる数を集めることが優先されるからである
そこでは問題は解決しない、何百万に何が起きているのか、そこには不可解なことが常に起きている、罰当たるなど脅しているが信じられない不幸になっている人達が無数にいるのである、人間はそれぞれカルマを持っているからいくら集団化しても個々のカルマは解消できないのである

ただそもそも人間は個々に対応ができない、せいぜい数人しかできない、わずかの給付金を配ることなどはできる、根本的には解決できないのである
そこに政治の限界がある、政治家とは別に自分の利益を追及しているのであり身銭を切って困った人を助けることなどない、創価でも共産党でも他の党でも金に困っているから助けて下さいとか言っても党として政府に要求しますとなるだけである
それは国民の税金を分配することなのである
つまり集団的には問題は解決しないのであく、だから運がめぐると言っていたけど運が関係しているのである、その運が謎なのである、それはもしかしたら神の采配かもしれないからだ、だから人為的には解決しないのかとまでなる

ともかく人間は体でも個々に違っている、その違いをみないから久山町でも集団的に平均的に見て大学が健康増進運動でも失敗したとなる
現代は何でも集団的に平均的にすべてをみる、だから人を同じように見て平均的に対処したから久山町では失敗したのかとなる
でも個々に対応することはむずかしい、だから医者とかは体だけを見ていてもわからないその家族とかどんな暮らしをしているのかとまで診ないと本当は診れないとなる
様々なことは実際は関係しているからである
それで礼文町とかは島で二千人とかの人口でありそこの医者はたいがい一人一人のことがどんな生活化しているまでわかっている、すると体だけではないそれぞれの生活を知っているから個々に対応しやすいのである
それは小さな島だからできることである、ただそこにも専門医がいないとかで問題が生まれる
結局人間の問題は余りにも複雑な要素があり一面だけを診ては解決しないのである
集団化して平均化して見ては解決しないのである

例えばスリランカでは村の人が病気になると村の人みんなで祈っていた
そういうことは医者がいない時代に日本の村とかでもあったかもしれない
薬師堂が村の中心に常にありそこで祈るほかなかったからである
でも今のような医療がないから直しようがないことはあった
でも精神的にはみんなで祈ってくれるのだからそれが効果がないとは言えない
逆に現代では地域の人がそんなことするかとなるとしない
むしろ無関心でありかえって冷たい、田舎でも助け合うなど今はない、かえって人が苦しむことが楽しいとかまでなる、何か話題がないからそういうことで害にならなければ娯楽のようになっているのである
だから田舎でも相当に人間は変わってしまった、もともとそういうことが人間にあったにしろやはり時代の影響でそうなったのである




2022年10月01日

何のために働くのか-働く意味を求める時代 (働く価値観が変わったー大会社中心の社会の終わり)


何のために働くのか-働く意味を求める時代

(働く価値観が変わったー大会社中心の社会の終わり)

●働く意味の追求

人間はまずあの人は何をして食べているのか?どんな仕事をしているのか?
それをみる

でも

何をしているのか、何の仕事をしているのか?

それと何のために働いているのかは違っている

まずあの人は何をしているのか、どういう仕事なのかをみる、大工さんなら家を建てるとか家を直してくれたとかわかりやすい、土木関係は道路を直したとかわかりやすい
それはあまり何のためとか考えない、家を直してもらえば客に喜ばれるし道を直してもらえば喜ばれる
だからこういう仕事で何のために働いているとか考えないのである
普通はいちいち何のために働いているとか考えない、金になればいいとなる
利益をあげることである、それに多少問題があり不正があったとしてもあまり考えないことがある、まず利益だ、金を得ることだとして働いている人も多いからである

何のために働いているのか?

こう考えるのは別に普通の人でも哲学者になっているのである
それで漁業者が放射性物質の汚染で魚がとれなくなったとき俺はなぜここにいるのかと問うようになった
それは漁業者は特別東電からでも政府からでも事故前も事故後も手厚い補償金をもらっていたからである、漁業権がありそれが大きな権利だからそうなった
でもそうして魚をとらないでも暮らしていけるのだけど自分はなぜ何もしないで港にいるのかと問うようになったのである

要するに漁業者の仕事は魚をとることであり東電から補償金をもらうことではなかったからである、だから魚をとっていれば魚を食べる人がいてありがたいとなっていたのであるそれで別に暮らしに困らないとしてもその人が地域社会でも何のために存在するのかとまでなった
そしてなぜ漁業関係者は船主などは特別補償金をもらっているのかとなり回りからうらやましがられた、それは事故前でも特別補償金を多くもらっていたからうらやましがられていたのである
そもそも漁業者は魚をとり提供することで地域社会でも存在価値があったからだ
海で魚をとることは結構危険でありだから漁師の仕事は地域社会にとって価値あるものとなっていたしその魚をとる人間も価値あるものとなっていたのである

人間はとにかく金にあればいいとして働くことが多い、その仕事が何のためなのかと問わないことがある、第一今は仕事の種類が多すぎるからである
利益が上がれば金になることが先決でありその仕事が何のためかなど考えない
東電とか電力会社でも電気を供給することでありそこに疑問を感じることもないしそれが有用だから誰も事故がなければ責めないしありがたいものとなっていたのである
何のためになど考える必要もなかった

●何のために働くかは哲学的問題でもある

でも何のために働いているのか、これは哲学的問題になっているのだ

ある人はゴルフ関係の道具を作っている、それは意外と近くの藤倉ゴムとかで作っていたのである、そうか、ゴルフの道具を作る仕事なのかとその人は大工さんだけど認識した
まずその人は何で働いているかをみる、それは一日一万二千円になる
二日しか働かなくても賃金としては高いなとみる
でもゴルフをしないものにはゴルフは遊びじゃないかとも見る
そしてゴルフをする人は比較的金持ちが多い、その人は金持ちの遊びのために働いているのかともなる、老人は暇なのでパークゴルフをしている、でもそれには金はかからない
本格的なゴルフとは違っているからである
でもそんなゴルフをするための人に働いてるということを認識した
すると何のために働いているのか?そうして金持ちの遊びのために働いているのかとなるこんなこといちいち考える人はいないだろう

でもこの辺で起きたことは何かいろいろ考えさせることが多かったのである
それを私は追求して来た、双葉とか浪江とか小高では避難区域になり住めなくなった
そこから仮設住宅に移り住んだ人が多い、その時何もすることかなくなりパチンコとかギャンブル通いになった
そしてかわいそうだとして外部から毎日のようにボランティアが来ていたのである
そのことで地元の人のひんしゅくをかった
あいつらは毎日遊んでいるとかなり外部から来たボランティアとか働く人は不満だったのである、汗を流して復興のために働いた人達は外部の人達だったからである

つまり働くということは何か意義があり意味がある、原発避難者は遊んでいるだけだとか不満になる、そうなるとそんな避難者に尽くすのは馬鹿げているともなるからだ
働くというとき誰かのために働くということがある
家族のために働く、子供のために妻のために働くというのも大きな動機になる
何のために働くのかとなると家族のためだとなるのも多い、その仕事の内容が何であれそうなっている人も多い、そもそも働くとは端を楽にするという意味だったからである
狭い範囲で華族ても苦労して働いているのを見て苦しいから手伝うとかが働くことの言葉の起りだったからである、だから働くといってもいろいろな動機がある
それを一がいに否定できないのである

でも最近いろいろと何のために事業でもするのかとか問題になる、そんなこと無駄じゃないかとも問われる、オリッピックがそうだった、それが何のためにするのか、意味がなくなったからである、東京オリッピックは日本が復興したということを世界に見せるためであり意味があったが今回は意味が明確に見いだせなかったからだ
そして結局そのオリッピックにあづかって儲ける人達のものだったこともわかったからである、大きな賄賂の金が流れていたからである

●何のために事業をするのか?

何のためにするのかというときある人が事業を起こした、それは何のためかとなる利益を得るためにしても何か明確ではない、都会の人に別荘を提供するためだとかまた田舎じゃ金にならないとか言っていた、つまり別荘をもてるのは東京の金持ちでありその金持を相手にしてもうけたいとなっていた
その人は技術者だから家を建てる技術とかあるからそうなった
でもここで問題なのは技術的なものと何のためにするのかとは違ったものである
この技術力があるということは理系の人である、でも何のために考えるのは文系なのである、理系の人は技術者として優秀であればいい、建物をそれも壊れない耐震設計にしてとか地盤を見たり簡単に壊れないように作る、安全を計り作る

でもこの建物を何のために作るのか?

このことは余り考えないのである、ただ鉄道にしても早く目的地に着くために技術開発をすすめる、そしてリニアを作るとなる、でもそのリニアが本当に必要なのかどうかは考えない、でも常に技術開発は奨められるのである
リニアは本当に必要なかどうかは考えない、新幹線で十分だという人もいるからだ
ただ技術開発は常にすすめられるのである、
例えば原発にしても核が危険だからやめるべきだというときでも危険でも開発はすすめられるのが価格技術の世界である
結局哲学となると

あるべきかあらざるべきかと問うことになる

それは文系的思考になる、別荘を東京の金持ちの人のために提供するために働く、その人の動機は何かというとそうして金をもうけるということだった
そして事業に失敗して借金になったのである
でも何かそういうことのために動機でしたことで失敗した、そもそもその動機を見れば
そんなことして何になるのかともなる
それで失敗したからとして自己責任だともなる、同情できないとなる

ともかく人間は何のためかなど考えない、カルト教団の人達は特に何も考えない、ただ拝んで利益があがればいいだけだとしかない、それに疑問を持つ人もいない
宗教だと特に批判できないから完全に洗脳されて従うようになる
何のために拝むのかとなると御利益福運になるからしかないのである
そして大衆は考えない人達である、だから盲目的に従う、それが大衆ファシズムになるのである、だから宗教は人間を奴隷にしやすいのである

●働くことの意義を求める

いづれにしろゴルフの道具を作るために藤倉という会社があることは知った
でもではゴルフの道具を作るためにどんな意義があるのかと問うと金持の遊びのために働いているのかともみる、そこまでいちいち考える人はいない、でも最近そういうことが問われることが多くなったのはなぜなのか?
それは橋がなければ橋が必要だしそれをいちいち考える必要はない、また道路がなければ道路を作る必要がありそれを考える必要がなかった
でもそういうものインフラでも整ってくればリニアとか海底トンネルとか必要なのかと考える、それはやはり貧乏国とは違って豊かになると考えるとなる、哲学とはやはり豊かになったから生まれるたものだとなる
食べることに追われていたら考えないからである

働くこと関しても最近何か変わっている、自分の好きなことをしろとか会社に頼るなとか会社は唯一の価値ではないとか学歴は関係ないとか何か会社中心主義の社会が変わっている、いい大学に入り大企業に入るというのが勝ち組とはならない
これは団塊の世代からすると企業戦士として会社に滅私奉公したのだからそういう考え方とか価値観とかについていけないだろう
でも組織集団が価値がある時代から個々人の価値を追求する時代になったのかとなる
でもそれが世代が違うとぴんと来ない、ただ70年くらい過ぎる価値観ががらりと変わることがある、戦争の時代は国家が最優先課題であった、でも戦争に負けると国家はなくなっていなくても国家中心ではなくなった、その変化も大きかった

それて戦争から帰ってきた人たちは戸惑ったのである
ジャングルに残って日本兵が小野田少尉のように戦いつづけていた人がいた
それは極端にしてもこの変化は何なのだと理解できなかったのである
別世界から来た人のようになっていたのである
それで自分の好きなことをしろとか自分勝手に生きろとか言うこと時代私自身はそう生きてきても理解しかねるのである

ただ働くという時人のために働くことでありそういうことは変わっていない、会社中心の働き方が変わるとういことである
そもそも戦争の時でも何で戦うのか戦争のために死ななければならないのか悩んだ人はいる、特攻隊は20代だから特にそうだった、死ぬのが嫌だったからである
いくら社会が賞讃しても死ぬのが嫌だから煩悶したのである

何のために死ぬのか?

それが後になっても尾を引いている、それは死者を供養するときでもそうなのである
つまり何のための戦争だったのか明確にわからなくなっているからである
どうしてもアジアの欧米の植民地化から解放するための戦争だったというときそれも納得できないからである

●個々人の価値を求めて働く時代ー大企業中心の社会の終わり

いづれにしろ働く価値観が変わった、大企業中心の企業戦士の価値観は変わった
個々人がそれぞれに働く価値観をもって働く、会社のためではない、人のためになるために働く、そして自己実現として自分の好きなことを究めるために働く、でもそんなことができるのか?社会では今まで許されなかったことである
でも一時代が過ぎると戦前と戦後で黒から白のように価値観が変わってしまったことがありすぐには理解できないのである
だから若い人の感覚と老人の感覚はずれてくるのである
私は好き勝手に生きてきたのだから新しい価値観でもいいとなる
第一芸術家とかだったら会社人間ではない、それぞれに美を追求するし学問でもそれぞれの興味があり個々人で追求してゆくものだからである

大企業中心の価値観はカルト教団ともにている、カルト教団も大きな会社のようになっているからだ、また軍隊組織にもなっているからだ、そこで個性は拒否される
黒だったら黒一色になる、赤だっから赤一色になるからである
そこに個性は認められないのである
でもそういう価値観も変わったとなる、個人の時代になるというときそうである
それが社会全体になるというときなかなか信じられないとなる
そうなるともともと学校とかが集団組織に適応するためのものとしてあった
社会に出る訓練として集団で行動できるように編成された
そこからして変えなければならなくなる、教育でもそこで大きく変わる
働くことの価値観が変わった、ただまだそれに気づいていない人達もいる
若い人はそういう価値観になっても適応できる
老人はそれを理解すること自体むずかしいとなるのである

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2025年日本経済再生戦略 国にも組織にも頼らない力が日本を救う【成毛眞・冨山和彦】
https://www.youtube.com/watch?v=K7S0nv2WZMY&ab_channel=%E3%83%95%E3%82%A7%E3%83%AB%E3%83%9F%E6%BC%AB%E7%94%BB%E5%A4%A7%E5%AD%A6

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2022年09月30日

運がないとあらゆることがうまくいかない (教育でも家族運とか時代運とか金運とかあり才能が発揮できる)


運がないとあらゆることがうまくいかない

(教育でも家族運とか時代運とか金運とかあり才能が発揮できる)

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私たちの社会はとても不平等です、その不平等をもたらす大きな原因の一つが偶然親から配られた遺伝子の組み合わせが生む遺伝的な素質の格差だときいうことです
それからもう一つの原因は偶然の環境です、遺伝でも環境が親ガチャであり、それで9割が説明されてしまいますー

●私の家族が特殊でも私には良く作用した

人間は生まれつきの才能とかあるけど人間が最も作用するのは運である
どういう親から生まれるかというものがあるが遺伝もあるが環境因子の作用も大きいのである、そしてこの運命自体が不可解なのである、謎なのである
私自身の運命自体不可解そのものだった、家族でもそうである
でも自分にとってはこの運命が環境が幸いしたのである
そうでなければ確実にまともに就職もできず浮浪者となり脱落者となり野垂れ死にのようになっていた
実際三流大学を出て就職もできなかったからである

でも私の家族はそのことで責めることもなかったのである
最近引きこもりとかが増えて問題になっている、引きこもりをたもり人というようになった、私自身このこもり人として生きたのである
だからこれは本当に異常なことだったのである、現実に自分自身が異常化したことを気づいたのは私を育てた二人の母親が病気になり介護になって一人悪戦苦闘した時だった
そこで社会とかかわりもう死ぬような苦しみにあった
誰も助けるものがいない兄弟もいないとかでそうなった
それも余りにも恵まれた結果としてそうなったのである

人間はなんらか不可抗力の運が作用しているとこの本で書いている
それを自分の運命から理解できる、その人の遺伝は確かに大きく作用する
遺伝的資質はどうにもならないのである、外交的な人もいるし内向的な人もいるし性格も様々だからである、自分は内向的な性格でありどうしても集団になじめない性格だった
一人っ子でもあり人とうまく協調できないのである
私の母親も内向的地味な性格の人であり似ている、ただもう一人の母親は全く性格が違っていて外交的陽気な性格だったのである
でも奇妙なことはこうして相反する性格の母親に育てられて自分はたいしてなかった才能でも伸ばすことができたのである
60まで自分のおもむくままに生きていたのである、自分の合わないことはせずにすんだのである、こもり人となると異常にしても自分には合っていたのである

●共同体があって教育もありうる

私が一番嫌だったのは学校である、学校になじめなかった、何かどうも腸が過敏になっていて集団の中に異常に緊張するのである、体までおかしくなる
今でもそうである、人間嫌いであり人間がいると緊張するのである
だから私が自然と木とか石とか山でも自然に接している自然を鑑賞するということに向いていた、そこには人間がいないからである
また体力がないということも実の一人の母親に似ていた、体が細くて重いものも持てない母親だったからである、だから遺伝的には実の母親の影響がまねがれないのである
でももう一人の母親は太っていて社交的であり男優りだった
ただそれだけではなく私の家が父親が中学で死んだ時、もう一人の母と言うべき姉がいて家が維持できたのである

必ずしも家族とか家は血縁とかでも成り立たない、家を維持するということはそれが一つの最小の共同体であり家のために生きることが女性にはある
また江戸時代なら御家大事ということがありまず御家のために臣下でも尽くし働いて維持してきたのである、つまり人間には何らか共同体がありそれを維持することが優先されるそれは必ずしも血縁とかではない、一つの共同体として機能する
それが昔の村だったのである、村とは500人くらいで成立っているときそれは一つの家族も同然だったからである、それで子供の名付け親とか村の人がなり村の子供は村の家族の一員として育てられたのである
村というのはとても一家族だけでは維持できないからである

だから教育というときそういう共同体があってこそ成り立つのである、でも明治以降学校になったときそういう共同体から分離したものとして知識だけを学ぶことになったのである、江戸時代なら侍がいたとき侍が模範としてありその侍は学校教育で育ったのではない当時の社会でエリートとしてあり学校があったとしても藩校で育てられる
その土地と密接に結びついて育てられる、村でも土地土地と密接に結びついて育てられていたのである、有機的に結合した共同体があってその中で子供でも自ずと学び体得していった、学校教育はもうそうした共同体から分離して知識だけとの教育となり福沢諭吉は教育は立身出世のためとして学問をしろとなったのである
それは近代化したとき世界中で学校が教育の場となったことは共通しているのである
その前の教育というときヨ−ロッパだったら貴族階級が家庭教師を雇い教育していたのである、学校はないからそうしていた、でも貴族には蔵書があったりして学校に行かなくても学べる環境があった、だからかえって天才でも生まれ育てやすかったのである
その人にあった教育をしたからだともなる

●教育でも田舎と都会の差が大きい

教育というとき田舎と都会で相当に差がでる、ただ教育という時何か人から教えられる
先生がいて教えられるとかなるがそうではない、先生の上に本当の師がいる
それは自然である、自然が基本的に本当の師である
でも大都会になるとこの自然がないのだから自然から学べない、俳句を作るにしても四季を知らなければ作れない、自然を見なければ作れない、季語を知るには年ごとに季語となるものを自然の中で知識ではなく体感する必要がある
すると都会ではしにくいのである、季節感にして余り感じない人工的空間になっているからだ、ただ自然といっても私は別に子供の時に自然というのは感じていない
ただ子供の時は原始的生活だった、洗濯でも裏の堀川でしていた
煮炊きは竈があり炭で暖をとっていたとなる、囲炉裏が街中の生活にもあった
でも自然がどうのこうのとは子供の時感じない、ただ父親が鮎釣りとか鰻釣りしていたし川に小魚がいたからそういうことで自然は感じていたとなる
また畑などがあり田んぼもあり回りから自然を感じることはあった
でも意外と田舎に住んでいても自然を感じない、自然を知らないのである

自然を感じるようになったのは東京の大学をでてから都会暮らしをしてから都会を嫌いになり田舎に帰って自然を感じるようになった、それでつたないものでも俳句とか短歌を作るようになり意図的に自然を感じるように勤めたのである
でも土いじりなどしていないから農業のことはわからない、田舎でも回りが田畑でも農業している人は一割とか少ないのである、今はみんな会社員か工場で働いているのである
それで意外と田舎に住んでも農業のことがわからない人がいるのである
ただどうしても田舎だから自然が無意識的にも感じるようになる
でも自然はこちらから意識的に働きかけないと感じないこともある
俳句を作ることは季語を体得しなければならない、その季語も多様だから意外とこれも自然のある場所で年々積み重ねた体験が必要なのである
それは一年とかで身につかない、相当の年数がかかる、自然を知るには実際は相当な年数がかかる、木が50年で育つように自然の時間は人間の時間とは相当に違ったものだからである、徐々に時間をかけてしか自然を知ることはできないのである

空の鳥をよく見なさい。種も蒔かず、刈り入れもせず、倉に納めもしない。だが、あなたがたの天の父は鳥を養ってくださる。あなたがたは、鳥よりも価値あるものではないか。あなたがたのうちだれが、思い悩んだからといって、寿命をわずかでも延ばすことができようか。なぜ、衣服のことで思い悩むのか。野の花がどのように育つのか、注意して見なさい。働きもせず、紡ぎもしない。しかし、言っておく。栄華を極めたソロモンでさえ、この花の一つほどにも着飾ってはいなかった

このキリストの言葉は意外と理解できない、都会ではとても理解できない
鳥をなぜ日々餌を得ているのか?何を食べているのか不思議である
餌があるのか、でも日々貯えることもなく生きているのである
それは単純なことだが人間と比べるとあまりにも違いすぎるからである
人間だったら何も貯えないとしたら不安でしょうがないからである
そのこと当たり前なことでも本当に不思議だとなる
そうして貯えもせず生きていることが不思議なのである
キリストが生れ育ったのはナザレといいう辺鄙な村にすぎなかった

だから自然は身近にあった、でもそこに行ったら何もない、あまりにもありふれた村であり町だったのである、何か特別美しい場所でもなかったのである
ただそういう場所で生きていて自然を観察していてこの言葉が生まれたのである
それが自然が師となり自然が自ずと教育したのであり誰か人に教えられたものでもないのである、だから教育はそもそも人間だけではできない、先生だけではできない
自然が最大の師なのである、それは科学的なものでもそうである
自然からかけ離れたようでももともと自然の観察から生まれたものだからである
ともかく教育といっても学校だけでは先生からでもでも本質的にはできない
キリストがこのことを言っても都会に住んでいる人は何か理解しにくいからである

大都会なら食べ物は食料でもスーパーであれ買うものでありそしてその食料でもどうして作られているのか知らないからである、ただ金で買えるものとしてしか理解できないからである、こうして現代は便利になっても本質的なことを理解できない社会なのである
野菜でも果物でもどうして作られるのかわからないのである
ただ店に並んでいて買うものとしか理解できない、そこに大きな問題が生まれている
本質的なものが理解できないのである、つまり知識と現実の生産とかの場から離れているからであるただ金で買うものとなると金の方が大事になる
でも食料を生産している人がいて食料が得られるということその現場を知らないからそのありがたみも感じないのである、つまり教育といってもそうして知識だけだと記号だけを覚えることになりリアルなものとして現実のものとして理解できないのである

●戦後にはモラルの教育が消失していた

なぜ今教育の問題がうまくいかないのか?それは知識だけの教育であり実地の社会から分離して共同体から分離して知識詰め込みになったからである
教育とはそもそも学校だけではできない、また師だけでも先生だけでもできない
その基盤に共同体があって実地の社会があってできる、現代ではその基盤がなくなったから教育とはただいかに自分のみが得する、楽に生きられるかが問題になる
そして東大を出れば官僚になり上級国民になれるかとなる、それはあくまで得するという立身出世の教育なのである、戦後の教育に道徳教育はない、知識で優れたものが得するという教育しかなかったのである

それはあらゆるものがそうだった、宗教すらカルト教団になり御利益宗教になったのそうである、資本主義社会にはモラルはなくなった
ただ自己の利益をいかに計るかしかないのである、だから教育自体ができない、ただあるのは知識教育でありいかにして受験戦争を勝ち抜いていい地位につき収入をあげ得することだしかなくなったのである
戦前はいい悪いにしろ国家のためにすべてがあった、でもそこには日本的モラルがあったそれは自分だけが利益をあげる得するとかではないものがあった

また戦前と明治とか江戸時代でも特にに江戸時代になると侍が指導者であり侍を模範することがあり侍自身もそう自覚していたのである
だからなぜ明治維新が成功したとなると侍が指導者の立場に立ったからだとなる
江戸時代に育まれた人材がえてそうできたとなる、庶民の革命ではなかったのである
でも大正とか戦前の昭和になると指導者のエリートのモラルが消失した
国民国家となり大衆国家となったとき指導者は国民が大衆が選ぶものでありそれもただ数として選ぶものであり上に立つものに自覚したものはない、やはり利益があがればいい
自己のためのものとして議員でもある、何か公(おおやけ)に尽くすものとしての自覚がないのである、それは選ばれた議員でもない、ただ地位を得て得すればいいとなるとき
自己の利益追求として大衆があるともなるからである

●運の作用が大きい人間

人間の謎は意外と運が作用していることである、だからこの本でそのことを言っているので共感した、そもそもどんな親から生まれるとか決められない、それは運命である、その親から基本的に資質が受け継がれるのである、遺伝があることは確かである
でもそれですべてが決まるかとなると決まらない、環境因子があり家族というのも複雑なのである、いろいろな家族がいてその作用がある、単に実の親がいて子がいるとともならないのである、だから不思議なのは兄弟なのに全く違った人生になる人はいくらでもいるまた兄弟でも性格とか違って同じ運命にはならないのである

◎遺伝、素質

◎環境因子

◎運

ここで意外なのは運なのである、運にもいろいろある、金運とかもあるし人間関係でも人の出合いでも運命的なめぐりあわせがあるとか運が作用している
どういう人と逢うとかでその人への影響が大きいからである
金運とかもある、時代運とかある、団塊の世代は戦争が終わり焼野原から始まったけど
食べる物も満足にない時代から始まったけど高度成長時代がありみんな豊かになった
そしてそれは日本人が優秀だったからとかではなかったのである
その時国際関係でも米ソ冷戦があり日本が共産主義の防波堤としてアメリカに重んじられた、そして朝鮮戦争があり日本が物資の供給国となり経済が復興したのである
その時鉄が不足していて子供の時鉄くず拾いして売って金になったことも覚えている
戦争で鉄が不足したからそれを日本で供給したのである
その後のベトナム戦争でもやはり戦争特需が日本にあり日本は別に戦争で被害がなくても経済的な恩恵があった
だから国家でも運が作用している、時代の運が作用している

私の家が戦後店を駄菓子屋のような店を始めて繁盛したのは別に商才があったとかではない、ただ場所が良かったのである、車がないとき角にあったので場所が良くて繁盛したのである、それも運だったのである、だから何するにも運が作用している
運が悪いといくら能力があるとか優秀だとか言っても成功しないことがある
それで財産のことをfortuneが運となっている、財産でも運があって持てるとなる
だから運が悪い人はこの世でいくらでもいる、不運に若くして死んだとか才能が発揮されずに死んだとかいくらでもいる、戦前は肺病で若い人が大勢死んで国民病ともなっていたからである、それも時代が悪かった、運が悪かったとなる
なぜなら今なら肺病は治るし死ぬ人がいなくなったからである
この肺病は悲惨だったからである、手術で灰の片方を切除した人を知っている
その人は一生身体障碍者のようにして終わった、それも悲惨だったとなる

そもそも人間が才能あったとしても発揮されずに終わった人が多い、それは様々な要因があるが運が作用している、親が悪いとかもある、親ガチャも相当にある
親に恵まれないからそれで一生が犠牲にされたとかある、カルト教団とかの二世問題がそうである、親には子供は従わざるを得ないからどうにもならないとなる
そこで魂まで支配され従属されることになる
私の場合は特別親に恵まれた結果としてたいして才能もないのに発揮できたとかなる
ただ奥手であり遅すぎたとなる、もっと早めに自覚して勉強していれば良かったとはなるでもこれも時代運であり長寿社会になったとき長い目で自らを育てればいいとなる
それも時代運である、肺病でも死ななくなっても良くなったというのもそうである
何か認知症でもアルツハイマーでも効く薬が出るとかでもそうである
時代に恵まれればそういうものも直せるとなるからだ

●運命は不可避的なもの(猫の運命)

不可避という言葉の意味は、「避けられないもの」「回避できないこと」といったような意味の言葉になります。

人間は確かにその人の才能がどうかとか言うけど才能というのは何か開発しないかぎり
発揮できない、天才だと別である、天才は努力しなくても会得するのである
普通の人はそうはならない、自らを知り自らに合ったものを努力して追求しないかぎり
才能も発揮できない、その才能となるのもわずかでも最終的に大きなものとなりうる
だから人間は生まれつきは確かにある、でもそれだけですべてが決まらない
人のめぐり合わせとかも運でありどういう人と出合うとかでも決まる
そして運という時、必ず運がいいとか運が悪いというけど運もめぐるのである
ある人は運がいいとありその運が他の人にめぐってゆく

私が猫を飼っていた、その時別な猫が餌を奪いにきた、でも追い払っていた
それは黒い猫であった、でも飼っていた猫が死んだ時、その黒い猫に餌をやるようになった、でもこの猫は絶対に慣れないのである、黒いからかわいとも言えない
でも自分自身でもなぜこの猫に餌やっているのかわからないとなる
それは飼った猫が死んだからでありその猫に運が恵みがめぐってきたからなのである
人間には何かそうした運が強制的にでも作用している
不可避的なものとして現れたとなる、確かに避けることはできるでも何か飼っていた猫の代わりとなっているのである
誰かの不運が誰かにとってはいい運となる、高度成長時代の日本は朝鮮戦争があり朝鮮人は苦しんだ、でも日本人にとっては幸いしたのである
またベトナム戦争でもそうである、日本人はやはり特需のようになったからである
戦争で死ぬこともなかったのである、このように何らか人間が運の作用が大きいのである
私の父親違いの兄の父親は事故で死んだ、結果として母が再婚して私か生まれた
でも兄は私の家では五年間は一緒に暮らしたが母の実家に引き取られた
そして離婚してその後交通事故で死んだのである
だからそもそも父親が事故で死んだことは不運だったのである
でもその不運があり自分が生まれたということになる
つまり誰かの不幸が誰かの幸いになっていることがある
国家間でも他国の不運が不幸が別な国の幸運とかにもなる
そういうことがどうしてなるのか謎なのである
ただ誰でも一生運がいいとはならない、必ず不運に見舞われ苦しむことになる
そういうことでは人間は平等なのかもしれない




posted by 老鶯 at 17:24| Comment(0) | TrackBack(0) | 教育、心理学など

2022年09月29日

東洋思想と西洋思想とは何なのか? (宗教はもともと東洋からアジアから生まれた)


東洋思想と西洋思想とは何なのか?

(宗教はもともと東洋からアジアから生まれた)

●西欧化したキリスト教ー宗教は東洋から生まれた

キリスト教でも誤解しているのはそれがヨ−ロッパから入って来たからヨ−ロッパが発祥の地のように思っている
でもアジアというときイスラエルまでアジアなのである
そもそもあらゆるものの淵源はアジアにあり東洋にあった、イスラム圏でもアジアであった、ヨ−ロッパは遅れていたのである、一時はイスラム圏内でヨ−ロッパの女性が奴隷として売買されていた、つまり今はイスラム圏内はヨ−ロッパからすると遅れた国としているがもともとはイスラムの方が優れていてヨ−ロッパは後進国でありイスラムから化学とか代数学とか学んだのである
その前にアジアがありその中心がインドだったのである、そしてインドから仏教が生まれたのである

そして宗教というときその思想はヨ−ロッパと相当に違ったものである
ヨ−ロッパの思想の形成はギリシャとかを基としている、それとローマ帝国であり政治支配が確立した、そしてカトリックがローマ帝国に公認されたとき本来のキリスト教が変質したのである、政治的になったのである
そしてヨ−ロッパとは何かとなるとその思想はキリスト教があったとしても西洋的キリスト教でありアジア的な東洋的なものとしてあったものが変質させられたのである
だからアジアで受け入れられたのはヨ−ロッパ化した西欧化したキリスト教でありそれが世界に伝えられた、特にカトリックがそうである
ただプロテスタントでもやはり西欧的価値観に基づくキリスト教なのである

そのキリスト教が資本主義を産んだというとき修道院から生まれたというときもそうである、なぜ修道院から資本主義が生まれたのか?ウェバーによると修道院だから他者に尽くす愛の集団だからそこで資本蓄積があり消費するためではない、他者への愛としての労働として資本主義が生まれたとしている
ヨ−ロッパ的思想となると必ず実用的なものとしてある、実利を追求するのである
だから瞑想とかは否定されやすい、用なるものを追求する

でももともとキリストの教えは実際は東洋的なものアジア的なものである
だからもともとあったオリジンはアジアであり東洋的なものである
それは仏教とかにもなるし中国だと老子の思想と共通しているのである
なぜなら老子の思想となると「用」なるものを否定する、無用の用というようにヨ−ロッパ的実用の思想とは違っている、ヨ−ロッパではあくまでも用を追求する
それはキリスト教でも同じである、常に慈善でも愛でも布教でも行動して強制的にもなるだから何か何もしないで禅宗のように座禅を組んで一日沈黙業をすることはキリスト教にはない、ヨ−ロッパ的キリスト教になるとそうである

●老子の無用の用の思想とキリストの教え

空の鳥をよく見なさい。種も蒔かず、刈り入れもせず、倉に納めもしない。だが、あなたがたの天の父は鳥を養ってくださる。あなたがたは、鳥よりも価値あるものではないか。あなたがたのうちだれが、思い悩んだからといって、寿命をわずかでも延ばすことができようか。なぜ、衣服のことで思い悩むのか。野の花がどのように育つのか、注意して見なさい。働きもせず、紡ぎもしない。しかし、言っておく。栄華を極めたソロモンでさえ、この花の一つほどにも着飾ってはいなかった

この言葉は西洋的な思想ではない、極めて東洋的思想なのである、老子の思想に通じている、またインド人がゼロを発明したように空の思想とも通じている
自然をよくよく観察していると不思議である、それは本当に単純なことなのである

空の鳥をよく見なさい。種も蒔かず、刈り入れもせず、倉に納めもしない。だが、あなたがたの天の父は鳥を養ってくださる。

鳥を見ているとそうである、また自然の生き物でもどうして生きていけるのか不思議になる、まず食料を貯えることはしない、日々の糧を得て生きている、でも人間だったら明日食べるものでも何でも貯える、そうでなければ不安になっているからだ
とても鳥のようには生きられないのである、そして貯えるにしても金でも何十憶の金を貯えても不安は決して消えることがない、なぜなら金でも紙幣となるとそれはいつ紙切れになるかわからないからだ、特に日本では昨今預金封鎖とかなんとか言われて本当に紙切れになる不安がつきまとっいるのである
でもなぜ鳥は明日食糧を得る不安がないのかとなる
自然と人間を対比すると見えて来るものがある、

なぜ、衣服のことで思い悩むのか。野の花がどのように育つのか、注意して見なさい。働きもせず、紡ぎもしない。しかし、言っておく。栄華を極めたソロモンでさえ、この花の一つほどにも着飾ってはいなかった

人間は絶えず働き紡いでいる、衣服を着るにしてもそうであり絶えず労働している、
自然は働き紡いだりしない、まず衣服など着ないしまとわないからである
自然のままであり衣服はない、でも別にそれで一年中寒い時でも過ごしている
そこで石油がないとか燃料がないとか悩まないし騒ぎもしないのである
天然の衣服を着せられて野にその姿は映えて美しいのである
それは私は人とも接することもなく田舎の自然を見ていた、そこでいつも見えるのは人間ではない、白鷺である、その白鷺を見て不思議なのは決して辺りを乱すことなる静々と歩み餌をあさる、餌は何なのか、確かに餌があり日々得ている
そしてその姿は天然の純白の衣を着せられて美しく田園に映えている

それは実際はいつも見ていて当たり前のことである
でも人間と比べるとそれが当たり前ではない、特殊なことになるのである
人間の悩みは消えることなく不満でも消えることなくその愚痴も消えることがない
それは金持ちでもそうなのである、いくら貯えても食糧が得られるなくなるとか不安になる、それは紙幣は紙きれになることが実際にあったしこれからもありうるからである
ともかく人間から何か不満が消えることはない、ではなぜ自然界でも鳥でもそうした不安がないのだろうかとなる、貯えもしないのに不安がない、それを見ていると不思議なのである

●なぜ自然には美があり文明(大都会)にはないのか

そしてこれだけ労働しているのに人間社会には美がないのである
野の一輪の花ほど人間社会には美がないのである、それを象徴しているのが大都会であるそこに美があるだろうか、その光景はまるでとても自然から見たら異世界であり生き物の住める所とも見えないのである、つまり文明とは美を作り出していない
これだけ労働して日々汗して働いているのに美を作りだしていないのである
すると人間の技とは何なのかとなる、その技(わざ)は業でありわざわいになる
でも自然のままに何も手をつけない自然には本来の天然の美が備わっている
その美があるゆえに人間は醜いものとしても生きていけるとなる
つまり人間がいない方が実際は自然は本来の美の世界がありそこは天国だともなるのである
田舎でそうして自然を見ていると不思議になる、人間がいない方が自然の美は映える
人間は下手に労働して工作するより自然のありのままの方が天然の美が映えるのである

だから田舎がいいとはならない、そこに人間が顔出すと醜いものとなるのである
田舎の人間の方がせこく醜い面があるからだ、何か人間が顔出すと蛇のように見えるのである、だからなぜ人間が神の最高傑作でありキリストだったら神の子とされたのに大多数は醜いのかとなる、それで神は人を隠したというとき人が表に出ないことで自然の美は映えるのである、とういうことは人間は醜悪なものであり自然にとって不必要なのかとなるのも理解できなくなる
だからこそ老子の小国寡民とか無用の用とかの思想が生まれたのである
多すぎる人間が問題なのである、でも老子の生れた2000年前は中国でも一億人くらいであった、それでも人口を多く感じていたのである
人口が多いということはどうしても自然は汚され破壊されてゆく、本当に自然の美が映えていたのは人間がいない世界だったともなるのである
そこには災いも生れないし何か不足を言うものもいないし調和の自然の中にあり美が自ずと映えていたのである

人間は自然の中で一番の邪魔なのものともなっている、人間と自然の調和はありえないのである、職業が業というときやはりカルマであり人間の職業は自然を破壊する
破壊しないと生きていけないのである、農業でも実際は自然破壊である
焼畑農業だと森を燃やして灰として肥料を得るからである
森林の破壊なのである、農業にとって肥料が最大の問題だからである、その肥料を得るために苦労して来たからである、最近は農薬にしているがこれも毒であり害になる
何らかこうして人間の営為は害をもたらすのである
老子が無用の用を言ったとき自然と接していてそれを感じたからである
人間は無用でありえない、必ず用を追求してそれが自然を破壊して汚してゆく
反れか人間の業(カルマ)なのである

●自然と調和しない人間

例えば津波でも縄文人は海側に住んでもそもそも津波の来る場所には住んでいないのである、それは直感的に危険を察知していたからである
そして縄文海進があり津浪が来た所はもともと海であり人は住めなかったのである
でもその海を埋め立てて田んぼにしたりしたから今回の津浪でそこが海になったことに本当に驚いたのである、八沢浦とかもともと海であり入江であったがそこが元の海になったつまり元の海に戻ったのである、そこに自然の大きな作用があった
ではなぜこんな大被害になったかというと自然に調和して住めない人間側にその落ち度があったとなる、でも港でも海に接していないと不便である、魚をとるにしても不便であるだから人間の利便性故に海側に港を作り人が多く住むようになった
それが一網打尽のように津波にのまれたのである
人間は自然と調和するのではなく必ず何らかで利便性でも追及して自然と不調和になっていたのである
だから松原でも根こそぎ津波で流されたことには驚いた
これも松原は稲作していて塩害を防ぐための人工林だったからである、白砂と松原は美しい光景だったけどそれはあくまでも人口の美だったのである
でもそれに気づかなかったのである、もし自然との調和した世界だったら津波の被害はなかったともなる、第一そういう場所に住まないからである

人間はどこまでも利便性を追求してゆく、その利便性が自然を破壊して汚して調和を乱す運命にある、ダムというものがいいものとしてもやはり自然の調和を乱すものにもなる
やはり自然の流れを乱すのである、またダムが崩壊することもありそうすると甚大な被害になる、それは科学技術力で作れたものはみんなそうである
その最たるものが原発だったのである、この辺では事故で人が住めなくなったからであるつまり人が住めないということは最悪なのである
でも人間は利便性を追求してゆくからどうしてもそこに技わいが生まれるのである
人間が何かを成すことは何らか自然に反するものなのである
だからこそ老子は成さずして成るという無為自然を唱えたのである
それは東洋的思想でありヨ−ロッパの実用を追求する思想とは違っている
キリスト教とは西洋的なものではない、東洋的無の思想に通じるものであり宗教は東洋からアジアから生まれたのである、オリエントは基であり発祥なのである

●西洋文明の行き詰まりから東洋思想へ

そして世界的文明を歴史を俯瞰すると西洋文明というのが行き詰まっている
それは進歩の名ものもとに世界を席巻したがその弊害も大きくなりすぎたし限界になったのである
資本主義でも西洋からヨ−ロッパから生まれたものが基になっている、それは何か自然にそうなったように見えるが一つの主義であり原理であり思想でありそれに基づいて社会が変わったのである、それは共産主義がマルクスの思想が社会を変えたのと似ている
自然発生的なものではない、人工的に作られたものであり西洋的実利思想が社会を変えたのである、もちろん人間は利便性実利が欠かせないから文明自体がそういう業を宿命をもっていたことは確かである

でもキリストの思想でも仏教でも中国の道教となった老子の思想でももともとそうした文明否定があった、それは東洋的アジアから生まれたものである
だから世界的西洋文明化してそれが行き詰まった、その弊害が巨大化したのが現代のグロ−バル化世界だともなる
でも社会主義共産主義は西洋が作り出した思想が基になっている、それは東洋的なものではない、東洋的なものはインドから発して中国に伝わりまた日本にも伝わった、仏教とかである

ただ日本でもアジアの一国だから東洋的思想がある、間の思想がそうである
日本人は間を重んじる、間とは無用の空間にも通じる、間を置くというのはそこに無用な空虚な空間を重んじる思想である、時間の間でもそうである、西洋的なものだと一秒刻みで時間が計られて間が消失する、それは人間を機械化することであり効率化することになる、でも人間はすべて効率化すると窮屈となり人間性が奪われる
人間は有用と効率化された世界でそうした無用の用とか空虚な間とかを無くすようにしてきた、それでただすべて利便性と効率化でありそれが必ずしも人間を幸福にしなかったのである

確かに鉄道は不便で利用しなくなった、でも駅で待つ時間が何か人間的なのである
待つということは期待することに通じていた、人の出合いに待つ時間があってそれが
人間的なものとなるから駅は人間的な場になっていた、でもそれが高速のSAとかなると待つ時間がないのである、車でいつもでも次の場所に行けるから効率的なのだけど待つ時間がないからかえって人間的でなくなっている
こういうことはいくらでもある、人間はそもそも歩くことがなくなったから歩くことで得られるものがわからなくもなったのである

つまり西洋的な合理性と効率の極限の追求はかえって人間を不幸にするのである
現代とはそういう西洋的なものの思想とか文明が限界に来たのである
それを経済面ば方を見ているが資本主義とかグロ−バル化経済とかでも限界に来ている
それが西洋文明に由来するのものであり東洋的な思想への回帰復古が求められているともなる、ただそれがインドにあるとか中国にあるとか日本にあるとかなればない
世界が西洋化したのだからないのである、そして何が東洋的なのかアジア的なのかわからなくなっているのた

でも西洋的なものが限界に来ている、だから何でもヨ−ロッパに追従する時代は終わっている、アメリカに追従することも不幸になるだけである
だからといってインドとか中国が東洋的なものがあり新しい文明が生まれるのかとなればないのである、東洋的なものアジア的なものが何かを見出して再構築することなのであるだからといって宗教と言っても今はカルト教団であり大衆宗教でありそれは全体主義とナチスにもなる、それを証明したのが近代文明であり何千万人が機械のようにロボットのように使われて死んだのである、まさに文明ゆえの大量殺戮だったのである
それを象徴していたのが原爆でありまたこの辺の原発事故だったのである

●自然との合一の思想としての東洋思想

何かむずかしいことではなく、単純なものに真理がある、宗教の教理とか哲学でもむずかしくなる、特に仏教はむずかくなるので敬遠する
でもキリストが説いたことは余りにも単純なものであり学者とかではなく学のない庶民でも理解できるものだったのである
その単純なものを追求するものとして自然がある、自然を良くみていると不思議になる
例えば石があるとする木があるとする、それらは何を意味しているのか
経済的には石材になるとかまた木材になるとかなる

でもその精神的意味がある、石や木は黙している、そして最も不思議なのことは人間に比べて不思議なことは石や木は害を及ぼさないことである
そんなこと不思議なのかとなるが人間を見ればわかる、絶えず他者を害すために存在している、例え暴力をふるわなくても口で悪口とか呪いの言葉すらはいている
でも石や木には口は堅く閉ざされていてそういう精神を害する悪口など言わないのであるそんなこと当たり前じゃないかとなったとしても人間は余りにも常に害になる存在なのである、存在自体がそうなのである
無用の用というとき人間は無用ではありえない、無用でいたとしても常に害になる存在なのである
石や木は害を及ぼさない、その口は閉ざされて互いに争うこともない、平和なのである
その平和も持続的であり木は大地に根付き不動なのである

人間の害悪は凄まじいものである、その最たるものが戦争であり何千万人も近代になると死んだことである、つまりもともと人間はこの世になければそんな悲惨な戦争などなかった、確かに動物と動物は食い合いをしている、でもそれである種が滅びるということはない、自然の摂理にかなって食い合いしている、動物でももし食料を貯えようとすると大量に食べ物となる動物を殺すかもしれない、でも日々の餌を得るだけだからそういうことは起こらない、人間では常に貯えることをしているからそこでかえって貯えるために争うともなる、人間は何らかで争いがさけられないのである
だからこそ石と木が争わないという時奇跡的に見えるのである
石と木に接する時平和を感じるのである

●自然と対比でみる西洋と東洋思想ー文明の融合よりどららも滅びる

自然を観察する時、動物で草食動物と肉食動物がいる、でも草食動物は肉食ではない、草を食べているから平和に見える、それでもなぜ牙があるのか、それは他の動物を襲うものではない、身を守るものとして牙がある、敵を威嚇するものとして牙がある
それを見ると国を防衛するのには一応牙が軍備が必要なのかともなる
でも人間の場合は防衛するにしても牙が必要でも過剰になるのである
そして防衛だけではない攻撃することにもなる
老子の思想の成さずして成るとは植物的思想なのである、どうも西洋的思想はアングロサクソン的思想であり狩猟的思想であり攻撃文化思想なのである

つまり肉食的動物的思想である、それで絶えず大陸ではヨ−ロッパでは戦争が絶えなかったのである
インドでは仏教だと肉食をさける、動物でも保護する、平和的民族に見える
中国は三国志の世界であり弱肉強食の世界でヨ−ロッパと共通している

とにかく宗教はアジアを東洋を起源としている、そこに草木まで成仏するとか草食的植物的思想がある、それは平和的民族ともなる
日本でも牛馬羊がいなかったとか草食的植物的民族文化がある
ただ一方で日本人は侍がいて戦闘的動物的だということにもなる
国でも民族でもいろいろな見方がある、でも目指すべきは東洋的思想の文明でありまた植物的な文明の世界観が平和を作る、東西融合文明とかなる
それを成すのが日本だと明治維新に言われた、和魂洋才である
日本の地理がそうだからである、東西融合を果たす地理にあるからだ

科学技術的物質的なものが中国でも飽和状態になってきた、経済発展はこれ以上望めないとかなっている、でも文化的なものはこれから興隆するのかもしれない
東洋的アジア的物価の復興日本だと国風文化の復興があるかもしれない
物質的なものから精神的なものへの移行が起きる、内面的哲学的宗教的時代になる
でもカルト教団は一切そうしたものと関係ない、世俗社会より世俗的な所であり精神世界など関係ないあくことなく物質的欲望をかなえるために祈っているだけなのである
そんなところから何か東洋的文化だかと国風文化だとか一切起らない
ただ一票得るための政治団体であり利権団体であり御利益だけを目指す団体なのである
そこは一切東洋とか西洋とか関係ない、あくことなく欲望を追求する団体なのである
だからこそ宗教ではないから税金をかけろとかなる、制限しろというのもそうである
正直文明といってももう新しい文明は起こらない、どっちにしろ文明は滅びるともなる
第二次世界大戦で何千万人死んだとかなるのも文明の災禍だったのである
文明故の戦争でもあったからである

●高齢化社会はアート哲学文化の時代になる

これからの時代は世界的にも中国でも高齢化する、するとどうしても今までのように若者社会ではない、ぎらぎらした欲望を充たそうとする社会ではない、確かに日本は貧困化して食べるのが精一杯だということもある
でも高度成長時代のようにな物欲一辺倒の時代ではない
例えば老人になるとその語ることで老人を評価する、ただ物を持っていると金を持っているとかで評価しないことがある、もちろんそれだけで評価する人もいる
でも老人と語る時その人がどういう人生を歩んできたのかその経験談によって語ることによって評価する、その人なり人生を語る人は価値あるとなる
それは必ずしも金があるとか地位があったとかではない、まずカルト教団で一生終わった人は何も語ることがない、その人なりの人生を語ることがない
すべて団体組織の一員としてロボットとして終わったら何を語るかをあらかじめわかる
俺はナチス党員だったと言っても誰も今は評価しないと同じである

そして物欲一辺倒の世界から精神的豊かさを求める社会になる
中国人でも最初は物欲であり爆買いだったが今は違う、日本の文化的なものを求める
逆に中国では日本の物より菓子とかでも中国にもともとあったものを買うようになっている、中国でももともとあった国のもの文化を見直しているともなる
物欲がある程度充たされるとどこの国でもそうなる
全体的には成熟社会でありスロー社会であり内面的になり精神性を求めるのである
だから逆に文化面では興隆するともなる、つまり中味の菓子の味もあるが包装とかデザインとかが重んじられるようになる、がつがつ食べて腹を満たすだけではない、茶の湯とかなると喉が渇いたから飲むというのではない一つのアートに文化となったのと同じであるそういう文化の時代であり思想を深化したりアートの時代になる
インタ−ネットもそうしたアートとか文化の交流の面があるからだ
世界の映像がアートが見られるということでそうなる、その評価も世界で刷るとなるからだ、そういうことは映画とかだと莫大な金をかけてしてきたが別に無料で個々人でもする時代になっている、インタ−ネットは世界の展覧会場にもなっているからである

例えば鉄道が衰退しているが観光としては必要だとなる、新幹線のようにA-Bと早く着くことではない、各駅停車で途中を楽しむことがいいとなる
スローでいいとなる、もちろん早いこともビジネスとかでは必要である
でも一方で途中を楽しむことも必要でありそのために鉄道も必要だとなる
そこに鉄道の効用もあるとなる、車だけでは味わいなものが味わいるとなるからだ
車だと風とか光りでも感じない、見える景色も違っている、すると旅でも車より自転車の方がいいとなる、でも自転車の旅する人はまれである、老人になればさらにまれである
変わり者となっている、でも今自転車が見直されていることも確かである
また歩くことがなくなったから歩く旅をするとそれが新鮮な経験になり江戸時代に還ったような気分になるのである

だから福島中央道とかできたがそこはただ福島市まで早く到達するだけでありつまらないとなる、でも逆に前の道路は車も通らなくなり自転車で行くのにはいいとなった
まるでサイクリング道路となったのである
それでその道路沿いの店とか食堂とか客が来ないというとき逆にそこをサイクリングとかに利用して休むとかなるといいとなる
要するに時代は常に変わる、何が幸いするかわからないのである
だからこそ未来は常に予想外になっているのである







2022年09月28日

安倍前首相の国葬の是非―祭政一致が政治でもあった (死者は誰でも美化されるそして生者によって利用される)


安倍前首相の国葬の是非―祭政一致が政治でもあった

(死者は誰でも美化されるそして生者によって利用される)

●死者は美化される

いづれにしろ死者は美化され安いのは過去が美化されやすいのと似ているのである
何かもう過去は人を害することはない、過去の人は人を害を与えないからいい人が多かったとかなるのである、親でも実際生きている時は嫌な面があった
でも死んでみるとそうした嫌な面は消失する
ただ何か今残され生きている人はやさしく見ているだけだとなる
それは何も生者に対して要求しないからである、また何かを与えてくれとも要求しないのである、するとそういう存在はあるとしたら美化されやすい、観音様のようだとかなる
これも不思議なの現象なのである

つまり死者と生者の関係には利害関係はなくなる、何らか人間は利害関係で生きている

過去は美化されのはなぜか?
 (死者は美化されるのはなぜか―利害関係がなくなるのから)


死そのものを社会的に美化したのは明治以降ですよ。
いつからという明確なものではないけれど、美化することによって死にに行く事に抵抗力をなくしているんでしょうね。つまり明治以降軍の力が強くなってからです。

株価も円高も市場が安倍総理と政策を歓迎したのです。

死んだ人のことを悪く言うとバチが当たるような恐怖感がみんなの心の片隅にあるから正直に言えなくなってしまいます。
それと、死んだ人のことを悪く言うと、人から悪い人間だと思われるからです。
結局みんなうそつきってことです。

そもそも安倍じいじが壺を日本に呼んできたのは
団塊が学生運動して国家転覆しかけたからだよ

そもそも安倍前首相が国葬にするほどの人物だったのか?国葬に値する人物だったのか
首相で国葬になったのは吉田首相だけである、すると吉田首相と同等の功績があったのかそのことでも議論すらない、権力者の一方的判断で強行された、民主主義だと常に議論があり是非が問われるがそれもなかった
結局死者は生者によって恣意的に利用される、死者を祭りあげて今生きている人が有利にする、権威を高めるとなる、そういうことはソ連時代の書記でも神のように死ぬと神のように祀られていた、つまり死は無神論者でもその前に厳粛ならざるをえないのである
だから死者は神にもなりやすいのである、生前がどうであれ死ぬと神になるというのは
原始時代からあった、死者は神になりやすいのである
日本でも先祖崇拝となるとき先祖が神となるのもそうである

ともかく自民党の権威を高めるために国葬にしたともなる、祭りは祀るからきているからである、死者を祀ることは祭りになったのである、神聖政治であり政教一致である
政治とは祀ることであり政りごとのことだからである
つまり政治も何かしら権威が必要でありただ権力とか武力とか数だけでは権威は得られない、権力だけでは権威が得られない、だから祭政一致になっていたのである
宗教が政治にかかわってきたのである

●祭政一致ー政(まつ)りごとが政治だった

天皇は国の祭司であり死者を祀ることが仕事にもなる、だから戦没者慰霊蔡が毎年あり天皇が司祭となり死者を供養して祀ることが仕事なのである
国のために死んだのだから国家的行事としてつづいている、それを日本人は否定できないのである、でも韓国とか中国にとってその死者は犯罪人としているのである
アメリカでもそうだったのである、戦争犯罪人をどうして英霊として祀るのかを問題にしている、ただ死者に対して責めないというのが日本の文化でもある
だから戊辰戦争でも官軍の戦死者でも戦士塚として碑を建てて供養している、敵味方塚として供養している、そういう文化があるのは日本だけだとなる
なぜなら大陸だと中国だと民族抗争で熾烈であり民族自体を殲滅するジェノサイドがあるからだ、墓まで暴きたして罰する、日本人はみんな日本人でありそうした熾烈な民族抗争は経験していないのである

ともかく皮肉にも阿部前首相が凶弾に倒れた原因も統一教会とか宗教とかかわりそのために殺された、政治が宗教とかかわりそのとばっちり受けて殺された
宗教と政治がからんでそれが原因となり殺された、カルト教団にだまされて人生を破壊された人がいてその恨みで殺された、ただ政治家は危険な職業である
常にテロに合いやすい、それは様々な人達がいて利害関係がありまた宗教でも安易に票になるとかで野合する、それが危険なのだけどともかく票が喉から手が出るほど欲しいとなり野合する、創価と一体化した自民党自体が野合政権である
そこに危険性がすでにありそのために殺されたともなる
でも政治家は何らか現政権に不満やら恨みを持つ人がいるからテロを受けやすい
でも統一教会がそんなに力があったのかということが理解しにくい
創価ならわかるが10万くらいの信者で自民党を動かすような力をもったのかという疑問である

いづれにしろ宗教と政治は不可分なものとして歴史的にあった、第一邪馬台国のヒメ子かが鬼道で治めたというとき宗教で治めていたとなるからだ
国を治めるにしてもそうした権威が必要であり力だけでは治められないからそうなる
カトリックがローマ帝国にキリスト教が国教化したとき政治化して力を持つようになったその弊害が大きかったので政教分離がフランス革命で起きたとなる
宗教による弊害が大きくなりすぎたのである、そもそも宗教が権力と結びつくと歪められる、なぜなら宗教は個々の心を見ることであり一つの勢力化した権力化した組織団体とは相反するのである、でも社会では心の問題より社会としてはどれだけ勢力があるかで判断する

そして日々会員を増やすことに奔走する、創価ならすべてが選挙に勝つために運動している、統一教会と似ているのである、何か映像みたらみんな集まり気勢をあげて戦う姿がテレビで映されていた、それは何で一致しているのか、日本の政治権力とかかわり日本の政治に影響して金を収奪して国まで収奪しようとする
つまり創価でも目的は日本権力の収奪でありそのために選挙運動がすべての活動として信仰となる、そこで利するのは幹部とか利権にあづかるものである
御利益を得ることが最大の目的である、あとは罪だとか罪障だとか一切問わない、欲望の否定もない、題目をあげてむしろ欲望を強くもって欲望をかなえろしかない
そしてともかく人数を集めてこの世で社会で力を持つことである
そういう団体と一体化して政権を担う自民党も危険である、それはナチスのようなファシズム化の危険がある
でもそうなったのは自民党の票田が農民とか地方から消失して支持基盤が弱くなったためである、一定数の票をが確保しにくくなったためである、そこでカルト教団であれとにかく当選するには票が欲しいとしてそうなったのである

●宗教が権力を持つことの危険

政治はこの世のことである、宗教はこの世となるべくかかわらないで来世で神の国に生きることを目的としているからである、この世にあるかぎりこの世のことにかかわらざるをえなけどなるべくかかわらない、だから運動とかならない、集団化組織して社会を変えようとはしないのである、カルト教団は政治団体でありこの世の権力を得るために日々運動している、統一教会だっから韓国がかかわり政治化して日本とかかわり日本から金を巻き上げて収奪していた、それに組していのが自民党だったということが山上のテロで暴かれた、その首謀者が安倍前首相だったのである、そういうことで自民党が攻められたので
それを隠すために安倍前首相を国葬にして覆い隠そうとしたともなる
死んだ人は罰せられないとなる、でも中国では死んだ人も墓から暴きだして罰している
それだけ激しい憎悪の争そいが中国にあったからだとなる
日本では死者に鞭うつなという文化がある、一旦死んだらその人がどんな人であれ批判はしない、美化されるのである、神となるのである

そもそもなぜ国会での議論もなく自公政権で国葬にできたのかとなる、民主主義的手続きもないのである、権力の怖さはこうして勝手に国民に強制できることである
戦争の時は突然赤紙がきて地獄の戦場に連れて行かれた、それが今ロシアで行われて反対している、権力とは強制できる力を持つことである、だから警察とか軍隊とかと結びついている、警察と軍隊を動かすことができるのが権力だからである
国葬というのもそういう国家的動員をして国民の一体感を高める、でも今回の国葬には反対する人達が多かった、だから国民総意ではないのである
むしろ阿部前首相の悪行が隠されて統一教会問題を自民党は隠して終わりにしたいとしている、そういう政治的意図がある国葬だったのである
阿部前首相がどういう功績があったのかも良く国民にはわからない、むしろ悪行が死とともに隠されてしまった、でもなぜ安倍前首相が死んだ結果オリンピックの賄賂で逮捕された人がいたり司法で悪が暴かれたのか、それは安倍前首相が死んだからだとしている
すると司法でも首相がトップの権力者で逆らえなかったとなる
それだけの権力を持っていたとなる

政治家の側にありては宗教は政治問題として扱われ宗教家の側にありては政治勢力を占めるにいたってその成功が確かめられるのである(内村鑑三)

いづれにしろ政治は宗教を利用して宗教は政治を利用して権力を強固にする
この世の権力は権勢を得ることが政治の目的であり宗教もまた政治にかかわり権力を得たいとなり政治にかかわる、このことが危険なのである
政治と宗教が一体化すれば宗教は批判を許さないから何かあると宗教をもちだして罰当たるとか地獄に落ちるとか脅迫する、それが権力をもったら現実に警察とか軍隊を動員して刑務所に入れることもできる、イスラム世界では宗教と政治が一体だから反対勢力は容認しない、宗教裁判があり法律ではなく罰を与えられる、宗教がこの世の権力を持つとどうなるのか、それを証明したのかカトリックである、この世と姦淫したのがカトリック団体だとしている,ローマ帝国の宗教になったときそうなった
そもそも宗教はいくら強制しても改悛したり信仰に目覚めるとかないだろう
あくまでもそれは自主的な行為であり強制できない、宗教は強制できない、強制する力をもっていない、この世の権力は強制する

宗教自体が権力を持つことが危険なのである、だから宗祖はキリストであれシャカであれ寝る所もなく住んでいたのは岩窟でありそこで悟りを開いたとなる
一人は浮浪者であり一人は乞食だったのである、それが宗教者にふさわしいとなる
なぜなら宮殿に住んでいたり大金持ちだったり栄誉栄華の暮らしをしていたら信仰すれば俺たち庶民でもあのような暮らしができるとなりそうした組織集団に入る
それがカルト教団なのである、世俗的な欲望を達成するものとしてカルト教団がある
だから容易に政治化する、すでに政治団体であり利益団体である、だから税金をとれというのがわかる、営利御利益団体でしかないからである
別に資本主義社会だったら利益を得ることを批判できない、でも宗教化かかわるから問題になる、宗教がかかわるとそもそも宗教でもないのに税金なしで御利益追求ができるとなるからだ

そこに宗教で偽装しているのである、だからこの偽善はいつか矛盾して災いをもたらす
要するにこの世とは人間とは余りにもこうした偽装とか偽善とか偽りが多すぎるのであるそして信教の自由を盾にして批判を許さない、でも実際は本来の宗教でもないのである
規制するという時、組織化団体化した宗教であり個々人の信教の自由ではないのである
組織化集団化自体が権力化することである、キリストが二三人いるところに私がいるというときもう百人でもいたら多いとなる、それがカルト教団になると多すぎるし数を増やして権力を得ようとする、なぜなら十人でも会員が店に買い物に行けば権力化する
会員が十人買うということでも権力化する、店ではそういう組織団体を批判できなくなる民主主義社会では数が力なのである、赤信号みんなでわたれば怖くないが民主主義でもあるのだ、それが極端になると全体主義になりナチスになるのである

●この世は偽善と無駄が多すぎる

自然をみるとそういうことが全くないのである、その美は純真であり偽りは全くない
花を見ても山を見ても動物を見てもそうである、鳥でもそうである
その相違が余りにも大きすぎるのである、その対比でみると人間社会とは何なのだろう
人間とはそもそも何なのだろうとなる、なぜこんなに差があるのか?
何かこの世で仕事するにしてもその職業でも人をだますとかが多いのである
まず金融関係がそうである、銀行など堅い職業だと思っていたが全然今は違う、むずかしい手の込んだ詐欺なのかとも思った、投資信託であれ簡単に理解できないからである
人間の職業は業(カルマ)になっている、何らか必ず職業にはカルマがある
そもそも軍隊とか警察とか医者とかもともとない方がいいのである
なぜなら軍隊が兵士がいないことは平和なのであり警察がいないということは犯罪がないことであり医者がいなければ病気がないということである

そういうものは神の国にはないからである、そこに膨大な力を尽くすことは甚大な無駄だとなる、それで高齢化社会になるとその医療費のために国がつぶれるまでになっているのだ、宗教家なども実際は無用のものなかのかもしれない、極々一部を除いて害になっている、それが膨大なカルト教団なのである、それは実際は害悪でしかないのである
老子の無用の用というとき空地などは都会ではかえって無用の空間でも必要なのであるそこで休息の空間である、びっしりと用で埋め尽くされた建物のなかに空地があることは
むしろ無用でもない必要なのである
でも人間は無用といっても害になる物が多い、人間そのものが害になる人が多すぎるのであく、無用の人にはなれない、必ず害悪をもたらすのが人間である
人間は本当は無用でありえない、そういう人がいたら貴重である
なんらか害を及ぼすのが人間なのである、政治でもそうである、プーチンとかいて戦争を起こして大害悪を作り出し貴重な若い命が無駄死にさせられる
人間は膨大な人間は無益に消尽される、無用ならいいが必ず害悪となるのが人間なのである、自然にはこうした無益なこと無駄なことをしない、自然では何も無駄なことはないのである、人間から無用に見えても無用ではないのである

宗教の専門家などいらないのである、個々人で学べるものであり教会にも寺にもましてやカルト教団などに行かなくても宗教は個々人で学べるし神を知ることができる
かえってそうした仲介者は危険である、金儲けのためとか他者を支配しようとするからである
それは宗教家だけではない、師も危険である、もちろん師にもいろいろあるから全部は否定できない、でも師も偶像崇拝になってしまうのである
だから師というのも危険なのである、師を神のように偶像化して崇める、それはカルト教団ではそうなっている、そしてまるでそのロボットのようになる
師と同一化するロボット集団化する、カルト教団はみんなそうである、全くロボットであハイルヒットラーとたいして変わらないのである、そこに個性は認められないのである
同じ色であり様々な色は認められないのである、メカニカルに一斉に動くロボット集団なのである、それが現代文明の病弊となってナチスが生まれたのである
現代文明は画一化大量生産であり地域性の文化とかを無視する、日本語でも英語にすればいいとか日本文化そのものも否定する、確かに英語は世界の共通語のようになっいるから必要である、でも日本語まで否定することはないのである
むしろ方言とかが見直さらる、方言は国の訛りであり文化でもありそこに温かみがあるからだ、標準語には温かみがないのである、数字のようになってしまうからである












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2022年09月27日

ロシア人の生死をかけた深刻な選択 (他の国でも同じことが起きるし起きてきた)


ロシア人の生死をかけた深刻な選択

(他の国でも同じことが起きるし起きてきた)

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ロシアで今何が起きているのか、それは生死をかけた選択である
ウクライナと戦うとなると死ぬことが普通にある、戦争は生死をかけた戦いだからであるすると何かそこに意義がないとやれない、それでロシアではウクライナとの戦争に消極的であり士気が低いとされる、ウクライナは自国防衛で士気が高い
それでロシアは混乱している

さらに百万人をも徴兵しプーチンが戦わるとしたら死ぬ確立も高くなる
すると死にたくない、何で死ぬまでして戦争するのか、そういう疑問が生まれる
それも深刻なのである、生死の選択にもなるからだ
祖国防衛戦でもない、わずかの土地を奪うために戦うとなるとそこに意義が見いだせないだから戦いたくないとして脱出する人たちも増えている

でも逆にそれを受けいれない、国内でプーチンに反対して戦いとなる
それもやはり生死をかけたものとなる、反対運動があるがつかまり戦場に強制的に送りこまれる、どちらにしてもその選択は命がかかっているから深刻だとみる
そもそもロシアでもそうだが国とは誰の者なのかということである
平和に住んでいる時意識しない、でも平和な時でも日本だって上級国民のために働かせられているとかある,国のためという時上級国民のために働かせられる、犠牲にされる
上級国民の奴隷だとも常に言う、つまり国家は誰のためにあるのかということである

ロシアとか中国とか巨大国家はもともと一将功成りて万骨枯るとなりやすい
ロシアはプーチンがそうでありプーチンのために犠牲になり死ぬのかとなる
だからロシア国内ではプーチンに反対する勢力もあってプーチンを倒せとなる
でもそれもロシアとかは独裁であり強固な権力がありおさえる、命令する、反対すると殺されるとなりそこで反対して殺されり国を脱出した方がいいと考える人達もいる
大陸だと陸続きだからそういうこともしやすい、でも断る国もいる

それはロシアだけではない戦争となれば死ぬのは嫌だとなるのは当然なのである
ただ大陸国家だと常に激しい民族抗争があり戦争がつづいてきた、だからジェノサイドも起きてきた、聖書でも神の命で民族を根絶やしにするジェノサイドが認められていた
それでけ民族抗争が激しいからそうなった
日本だと島国でありそうした激しい民族を抗争を経験していない、最初は百余国が争うとかあっても日本は島国であり異なった民族でもみんな一つの民族に融合したのである
だから戊辰戦争でも東北では官軍でも敵味方塚として戦死した人達を手厚く葬っているのである、それは中国ではありえないと言っている
中国だと死んでもその墓を暴いて罰しているのである
それでだけ民族間の抗争が激しいのである、日本人はそういう厳しさを知らないのであるただ明治維新後グローバル化して世界の民族抗争に巻き込まれたのである

いづれにしろ人間は死にたくない、でも死ぬとしたらその意義を求める、わずかの領土を得るために死にたくない、戦争自体にそもそも意味があるのかとなる
今回の戦争でもウクライナでも莫大な損失だった、人命から土地から建物からインフラからその損失は巨大なものであり双方ともただ消耗したというだけになる
何か奇妙なのはロシア人の優秀な人達がエリートが国を脱出する
でも戦争という時、本当はそういうエリート達は支配階級の貴族だったら率先して戦った

『貴族が義務を負う(noblesse oblige)』のならば、王族は(それに比して)より多くの義務を負わねばならない。」と書いたのが最初である[4]。

最近では、主に富裕層、有名人、権力者、高学歴者が「社会の模範となるように振る舞うべきだ」という社会的責任に関して用いられる。

ノーブレスオブレージがありそれは戦士でもあり国のために率先して戦う人達だった
日本がだったら侍だった、そして戦争とはもともとそういう支配者同士の戦いだったのである、国民全員が戦った訳ではないのである
そうなったのは世界第一次大戦とか第二次大戦からである、国民同士が全員兵士となり戦うようになったのである
日本だと西南戦争で侍集団と国民軍が戦い国民軍が戦い侍はいなくなったのである
そして国民全員が兵士にされ戦うことになった
だからこそその犠牲も信じられないものとなった、日本だと三百万人が死んだとかなる
他でもロシアでも一千万人死んだとか信じられない犠牲者を出したのである

第二次世界大戦以後大きな戦争がなかった、でもウクライナであのような大きな戦争がまた起きたことは意外だった、それはロシアが西側に攻められた防衛戦とは違う、ウクライナはソビエト連邦から離脱して独立国になったからである
だから今回の戦争では国論が統一しない、プーチンという独裁者に不満が多い
そして奇妙なのはロシアから国民が脱出する
それが極端になるとプーチンとそれに従うわずかの国民が残り戦うとなる
「プーチン、お前が最前線で戦い、もうお前に従う者はいない、お前一人で戦い」
こうまでなる、そしてロシアという国自体が消失する
だから国家とは国とは誰のためにあるのか、一人の独裁者のためにあるわけではない
スリランカでも国を牛耳っていた大統領一家が外国に追われて逃亡した
国を私物化していたからである、プーチンも国を私物化しているともなる
そして誰も従うものがいなくなったら国は消失する

いくら独裁者でも国は一人では維持できない、また強権的にも維持できない、何らか国を愛して守る自主的な人達がいなかったら国は守れないし消失する
だからロシアは今はそうして国が分解して消失してゆくのかとなる
ただ見方としてはロシアは西側にアメリカに対抗するものであり有利に展開している
報道は西側よりでありアメリカ寄りであり現実の戦況がわからないとも言う
でも大方の見方としてロシアがプーチン独裁であり積極的に戦う意志がないと見る
そもそもロシア国民が大量に脱出するということは戦う意志が本当はない
ただ日本でもグロ−バル化してひろゆきのように日本は駄目になるから脱出しろと戦争する前から叫んでいる、そういう人達も増えているのである
すると日本にも戦争となったらそういう脱出する人たちも増える
でも日本人は外国に住める人はわずかである、島国であり日本は日本国内一億総玉砕となる心情にある、つまり大陸のように簡単に逃れられないからである

いづれにしろ人間が生死をかけた選択を迫られるとき深刻である、その時何のために死ぬのかと平和の時と違って深刻に考える、行動でも迫られる、そういうことでウクライナ戦争はやはり自国の問題でもある、それは他の国でも同じなのである
中国でも台湾が欲しいからといって戦争にふみきれば犠牲者がでる
そうなるとき死んでまで台湾が欲しいのかとなる、それなら支配者がまず率先して戦場に行き戦いとなる、犠牲になれとなる、国民はみんな台湾を中国にすべきと思っているとは限らないからである

ともかく戦争は勝にしろ負けるにしろ余りにも犠牲が多すぎるのである、それで得るものもたいしたことがない、わずかの領土であり台湾にしてもそうである
ウクライナにしても争っている領土はわずかである、そのための犠牲が余りにも大きすぎるのである、とても見合わないのである、損得で考えれば戦争は損しか双方にない
でもなぜ戦争がなくならないのか、人間は愚かなことをカルマとして繰り返すのかとなるそれも人間の業(カルマ)であり逃れられないのかとなる
そしてこれだけグロ−バル化すると最終戦争のハルマゲドンになる、核戦争の恐怖になるこうして人類は滅びゆくほかないのかとなる
posted by 老鶯 at 08:37| Comment(0) | TrackBack(0) | 時事問題の深層

2022年09月26日

ようやく秋になった(秋の蝉、虫の声、里の秋)


ようやく秋になった(秋の蝉、虫の声、里の秋)

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これは松島で見た根っこだけど太い



 秋の蝉ひびきともしき牛越城

 地に根付き太き根っ子や里の秋

 里の秋畦道出合う烏かな


 一匹の虫鳴く声の幽かかな我が家に静か昼に聞き入る

 岩一つ玄関にすえ秋なれや余生なおもここに生きなむ

 岩一つ重しもここに一代に家を築きぬ秋の日暮れぬ

 我が家に昔を語る人のあれ桔梗の咲きて我は聴きにき


 今日も実際は暑かった、陽射しがまだ強いのである、昨日もそうだった、だから体調を壊した、でも夕方になったら涼しくなった、夕陽が山に没るのでも秋だった
 もう夏は終わりだろう
 牛越城は相馬藩の城でも五年で終わった、短い期間だった、相馬氏に移るまでの一時期の城だった

 ここで毎日逢うのは烏である、人はいても人とは逢わない、変なのは田舎でも人が今何しているのかわわからないのだ
 ただ一軒の家のことはそこに介護とまでゆかなくても話し相手をしている老女がいて
その話を聞くし一回だけ行ったことがありその庭が石造りの池があり立派なのである
玄関にも大きな岩がある、でもその人は糖尿病であり苦しい
介護する人が毎日のように来ているみたいだ
でも病院にいるよりは自分が苦労して一代で作った家にいるのが精神的にもいいとなる
家だ人間としての威厳を保てるからいいとなる
病院だと病人でしかなくなるからだ

我が家で故郷の昔を語った、小高の人と同級生だった、人間は最後は老人になったら何を語るかである、もしその人なりの人生を生きたら聞くに値する
それは別に地位があるとか金があるとかとかではない、その人の人生はいろいろであり
そういうもので価値があるとは限らないだ
まずカルト教団とか組織団体だけに生きた人の話を聞いても価値を見出せない
それはその組織や団体にいる人にとっては語られるけど外部の人にとっては関心もないのである
ただ何でも人は経験することが違っているから何かしら聞くに値することはある

今年は秋は遅くなった、10月になればやはり本格的な秋になる
そしてまもなく今年も終わりに向かってゆく、何か後期高齢者になったからこんな年まで生きたのかとなる、でも実際は人間は依然としていくら生きていても何かその年どうりではないみたいだ、それで加治兄とか呼ばれている人は不思議である
youtubeに出ているが本当に自分と同じ年なのに若いのもである、もう40代にしか見えない、本人は30代とか言っている、頭が白髪にもなっていないのである
40になると白髪がでてくる、禿げて来る、それもないのである
その人は年齢のことは言うな、年齢で差別するなと言っている
つまり老人は必ずしも年齢通りになっていないのだ

近くの老人は女性だけど私より10歳以上若いのに白髪で真っ白であり杖ついているのである、もう80才のようになっているのである
どうしても人間は見た感じで判断する
私は確かに体が弱っているけどまだ結構体は動くし頭も回転している、私は20代で老成していたから自分を見た人は若い時と20代と同じだと言っている
自分はおそらく20代では意外と苦労して消耗したためだろう
その後は家で引きこもりになり最近引きこもりを籠り人と改めることになった
その隠り人だったのが自分だったのである

 老人は今は平均的には実年齢より10歳引いた年齢は適正年齢である
70歳だったら60歳なのである、ただそれ以上に若い人がいる
だから現代は年齢では計れないのである

2022年09月24日

木の成長と人間の成長 (長い目で見れない人間の弱点ー時間の貴重さがわからない)


木の成長と人間の成長

(長い目で見れない人間の弱点ー時間の貴重さがわからない)

●成功をあせるな

成長の早い杉やヒノキは木材としての質が悪く、商品価値が劣ります。
成長が早いと年輪が粗くなり、強度が弱く、折れやすく、乾燥によって曲がりやすくなるためです。
成長が遅いと年輪が密になり強度が増します。年輪の色の濃い部分は1年のうちの気温の低い秋冬の時期にゆっくり肥大した所です。
ですから、山に生えている木も南側斜面より北側斜面の樹の方が成長が遅く、価値が高いようです。
幹の太さが同じなら樹齢が古いほど良いようですよ。
まあ、苗木を植えたときくらいには肥料をやるのかも知れませんがね。
木材として伐採するのは早くても50、60年はかかります。


人間も同じである、とても人間のような複雑なものは即製できない、動物だったらもう教えられることもなく生まれてすぐに環境に適応するようにできている
でも人間は環境に適応するのにも時間がかかる、だから人間を作り育てることは最高にむずかしい、いくら素質があり才能があってもそれを育み伸ばすのには時間がかかる
確かに肥料をやることも大事である、でも基本的に木を育てるのは時間である
もう育つのには成熟するには50年とかかかるからだ
それはかえってやせ地の方が時間をかけて育つからいいというのは余りに肥料がやりすぎて早め育つといい木にはならない、つまり年輪が詰まっているのは一年一年じっくり育ったからだとなる年輪の幅があるのはいい木にはならない、しっかりとした丈夫な木にならない、年輪の間隔が狭いのがいいのである

人生も終わりになるとこのことを痛切に感じる、何かも身につかずただ時間が過ぎてしまったとなるからだ、一年一年充実して生きていなかった
もしその人なりに充実した時間を生きていればやがて立派な木として育つ
でもそこに必ず時間の無駄があり何かあてもなくぶらぶらしているとかいろいろなことに気をとられているうちに時間がなくなっているのだ
先が長いと思っているけど実際は時間はあっという間にすぎる
時間はなくなってみないと自覚できない、金は小金でもいつも意識して使っている
百円でも損した得したとかなっている、でも不思議なのは百万とかもうけた損したとか
かえって意識できないことがある、人間は大きなものを意識できないのである
なぜなら日ごろの生活が基本にしているからである
日頃の生活は100円得したと損したとかなる、毎日の食費とかが金を使う感覚になっているからだ
私は遺産が入ったとしても大金を使ったことがないから使えないのである
日常感覚からはみだした金は感覚的に理解できないのである
でも庭作りとかで大きな金を使った、それでも百万単位とかである

若い時の問題はとにかく一挙に脚光をあびたい、有名になりたいとかあせることである
実際は何にも認められるものがなくてもそうなる
成功をあせることである、それが失敗の元なのである
それはやはり木のように育つ感覚をとても持てないからである
何かすぐに成功して脚光を浴びたいとなる
それは事業を起こした人にも共通している、何かもう始めたりたちまち成功して大富豪にでもなる感覚になっている、まず地道に仕事をするよりギャンブルの感覚になる
私の祖父にあたる人は警察署長だった、でも機織り工場の事業を起こして倒産した
それもおそらく警察署長だから成功すると事業を起こす前に思っていた
でもその事業についてはずぶの素人にすぎなかったのである
だから一家離散にもなりその子の私の母親は苦しんだのである
事業でも簡単に成功はしない、ギャンブルのように一挙に大金が入ることなどないのである、何かそこには地道にやることが必要になる、でも人間は一挙に脚光をあびて成功者になりたいのである、それが20代とか若くてもそうなのである
ただ天才とかいるからそれは別である、どうしても啄木のような人間を普通の人は理解できないからである

●すぐに見返りを求めるな

人間の問題で何かすぐに何をしてもすぐに見返りを求める、私はあなたにこれだけ尽くしたのだから今その尽くした分をすぐくれとかなる、返してくれるとなる
ここに苦しんでいる人がいる困った人がいる、その時人間は無償ではしない、後で返してもらえばいいですよとかならない、今返してくれとなる
それより困って苦しんでいる人を見てこれはチャンスだと借金した人が今金をくれるなら助けてやるとか脅迫することにもなる、助ける方も今困っているのだから金をくれとなるだから借金している人は人を助けることはできないと思った
推理ドラマでは必ず借金して犯罪になっているからだ
借金はそれだけすでに自分自身に負担がかかっているのだから他人の負担をもう負えないのである

つまり今苦しんで困っている人がいたらとにかく助ける、今は見返りを求めない、そうしなければ助けることはできない、だから救急車はそうしている、金がなくても何がなくてもともかく来てくれる、そうしなければ人は死ぬこともあるからだ
でも普通はそうはならない、今借金して苦しんでいるから今助けるから金をくれ、そうしたら助けてやるとかなる、そういう人はそもそも人を助けることなどできなかったのである、それで自分は苦しめられたのである
助ける時あとでそれもかなりの年数がたってからその見返りがあるともなる
私は介護で自分の病気でも何か余裕がないから他人のことなど考慮することもできなかったからだ、でも余裕ができればあの時は助けられたなと援助することにもなる
それなりに金銭の余裕ができて助けることもできる
でも結局人間はみんな性急なのである

そしてせいては事を仕損じる

人間の弱点は長い時間でみれないことである、ただ毎日今に追われているだけなのであるだから国家百年の計とかなるとできない、中国だとやはりあれだけの歴史があるから長い目で見て国家造りをしている、日本人がそもそも性急な民族になっている
それで一年で首相も次々に交代するとかなる、これもやはり問題である、そうなると長い目で見て国家を運営できないからである

行き当たりばったり」の意味は「成り行きに任せること」
「行き当たりばったり」の意味とは「その場の成り行きに任せることや、その様子」です基本的には深く考えなかったり準備を怠ったりする悪いニュアンスを持ちます

人間は例えば長く下積みとかすることも耐えられない、すぐにでも上に立ちたい、偉くなりたいとかなる、下積みで苦労することに耐えられないのである
でも確かなことは人間はすぐに成功することはない、また長い目で見れば今の世だけで成功することではない、その人の評価は死んでからこそある
また長い歴史の中で評価に耐えればその人は歴史に生きつづける
でも一時代だけで脚光をあびてもはかなく消える、どれだけの人が脚光を一時あびても消えたのかその数も多すぎる、浮き名をたてて消えてゆく
芸術にしてもそうである、後世まで残り鑑賞されつづけるものは少ない、いくらその時代で脚光をあびても忘れ去れるのが普通である
そして後世に残る物はわずかである、後はみな消えてゆく

●若きときに神を知れーさすれば余裕が生まれる

ともかく人間が成長するには時間がかかる、ただ人間は成長しつづける、70越えても肉体は衰えても精神的には成長しつづける、人間は木と同じなのである
時間をかさねて大木となる、大木は一日して成っていない、ローマも一日にしては成らずである、普通の人でも積み重ねで何ものかになる
何か自分の場合、何でも理解することが遅かった、それは学ぶことで失敗したからだろう効率的に学べなかった、学校で暗記することと試験勉強しかなかったからだ
でもかえって学校を出てから自分の興味あることを発見して伸ばしてきた
これも家族に恵まれた結果であり家族には死んでも感謝している
もし家族に恵まれなかったら自分は浮浪者とかなり野垂れ死にだったかもしれない
だから家族の影響は人間にとって余りにも大きいとなる
いくら才能があっても家族に恵まれないでつぶれてゆく人などいくらでもいるからだ
また時代運が悪くてもそうなる、有為な有能な青年が戦争でどれだけ死んだかとなるからだ、戦争は人材を消耗させるのである

ただ人間にとって大事なことは若い時に神を知れということである
神を若い時に知ればその後はあせることもなくなる、もう神との約束があり来世は神の国に行くことがすでに決められるからである、すると何もあせることもない、例え失敗してもこの世での失敗であり栄枯盛衰は世の習いである、でも確実に来世で活躍できるとなればこの世で認められなくてもいいとまでなる
実際はこの世とは来世の準備のためにありこの世で何かを完成することなどできないからである、いくら才能があってもそうである
この世では様々な障害あり認められないからである、でも神に認められているからこの世で認められなくてもいいともなるからである
つまり神に認められることは余裕ができるのである、不遇でも耐えられるともなる
それがなければ不満は尽きないとなる、それはいくらこの世で成功してもそうなのであるこの世とは一時のことであり一時の夢であり永続しないからである
永続は神の国しかないからである、実際あの人と十年前逢ったな・・・でも永遠に逢わないとなる、あの人50年前に一緒にいたけどあの人は本当に存在したのかとまでなる
それで人の出合いは何なのたろうとなる、それは瞬間的なものでもあった
あとは人間は永遠に逢わないのである、これもふりかえると不思議になる

確かなことは人間で貴重なのは時間でありその時間がたちまち消失してゆく
そして時間は二度と戻ってこない、例えあっても永遠に逢わない、そもそも人間が逢うとは何なのかこれもわからない、ただすれ違った人が逢ったとはいえないだろう
でも結局人間の出合いもただすれ違っただけなのかともふりかえるとなる
人の出合いもそれだけはかないのである、大衆化した現代なら大勢の人が一体になったようでなっていない、あとはばらばらになり一体感もない虚しいものとなっているだけである、それはあらゆる団体組織に言える、宗教団体でも同じである
烏合離散するだけなのである、そこに真の出合いなど全くないのである

ただ権力が欲しい、金が欲しいとか欲を充たしたいだけに集まる、そしてたちまち離散して後には誰もいないとなる、特に現代ではそうである、大衆化群衆化しているからだ
何か後々まで残るものがないのである、みんな一時的なもので騒いでは烏合離散するだけなのである、人間はやはり死んでもその関係がつづくものが本当のものである
私の場合は家族がそうである、死んでも語りかけ供養して関係がつづいているからだ
そういう深い長い関係は現代社会ではもう消失したのである
ただ無数の人間が烏合離散しているだけである、そして後には何も残らない虚しいものとなっているのである
別れても死んでも心が通い合えば互いに別れたことにもならない、心は通じあっているとなるからだ
人間の信頼関係も長い時間でしか築けない、それで10年間ある家で手伝いさんでも勤めた人は信用できるとなる、信頼するにも人間は時間がかかるのである

木の成長と人間

木は一年一年年輪を刻む
じんくりじっくり雨風に耐えて
その幅は狭いといい木になる
一挙に木は育たない
一年一年じっくりと育つ
大地に山に根付いて育つ
養分を一気にとって成長しない
やせた土地でも徐々に養分をとり育つ
その歳月は長い
でもやがて大木に育つ
そして大木は森に大地に倒れる
重々しく倒れ森に大地に還る
木は十分生きた、そして命を全うした
次の代の木もそうして育つ
自然の命は即製できない
そのリズムは悠長であり気長である
人間は騒がしく烏合離散して
後に何も残さない
かく長くも生きた木を後に人は思うべきかな
長き平和の日を生きよ
山のようにゆったりと木のように長く
神より与えられし命を育め


2022年09月23日

秋の松島ー俳句短歌−写真 (松島は浄土、修行の場) (半年ぶりに行った松島)


秋の松島ー俳句短歌−写真

(松島は浄土、修行の場)


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松島は海と牡丹が似合うのか、海とともに栄えた場所となる

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(観瀾亭)

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五大堂

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瑞巌寺

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走り行く電車に映える秋桜

山鳩飛ぶ実り広がる仙台へ

(瑞巌寺)

禅寺の門や松島初秋か

金地にそ紅白の牡丹大広間

殿の座に金地に梅や匂うかな

中庭に石の配置や秋に入る

(観瀾亭)

秋涼し観瀾亭に茶一服

太き根の露に見ゆや秋に入る

(五大堂)

波静か五大堂古る秋鴎

秋涼し松に囲まれ五大堂

波静か洞の仏や秋に入る

瞑目す石仏いくつ秋に入る

地に根付き太き根っ子や里の秋


(瑞巌寺)

青苔に秋の日さして石仏の瑞巌寺にそ古りにけるかな

一匹の虫の音聴くや石仏の瑞巌寺にそ古りにけるかな

門の外海の碧くも島見えて秋の日あわれ歩む人かな

(五大堂)

銀色に水面きらめき五大堂松古り囲み秋の日暮れぬ

常盤木の松の緑に五大堂秋の日さして島々暮れぬ

(観瀾亭)

秋の日や石に根を張る木の太し茶一服飲む観瀾亭かな

・・・・・・・

石仏の重なりここに祈りかな秋の日さして跡そあわれ

松の影濁らぬ海に映しつつ石の仏に秋の日さしぬ

雲晴れて島々見えるうれしかな秋の鴎も一羽飛びくる

松島の緑うるわし島の間の波に浮きゆる鴨の群れかな

名も知れぬ小島一つ松島の奥にそあれや秋の日

老夫婦たずねてあわれ松島に秋の日さしてはや暮れにけり

松島に芭蕉泊まると千金の値にあれや秋の日暮れぬ

久々に仙台に来て花を買う五色の花や我が家に映えぬ

みちのくに住みて長しも点々と秋の灯ともり電車に帰りぬ



久々に晴れたので松島に行ってきた、ちょうど松島に来て晴れた、天気予報は午後から晴れるとあったが曇っていたのでどうなるか心配だった
天気予報はあたっていた、午後から3時ころから晴れてきたからだ
松島だったらいつでも行ける日帰りコースである
これも他から見たら贅沢だとなる、ところが名所でもあまりに近くにあるとその感覚がなくなる、いつも見れるし当たり前だとかなる
松島は遠くでは常に憧れの地だった、だから芭蕉も期待して来た、でも俳句が作れなかった、その理由はわからない、場所の泊まったという宿がレストランになっていた
その三階からのながめが良かった

松島はもともと修行の場だった、修行者が僧がここに集まったのである
瑞巌寺とか寺がありその領域は広かった、他にはひなびた漁村であり漁師くらいしか住んでいなかった、でもそういう場所でも相当数の修行者が僧が集まった
それで不思議なのはどうしてそういう人達は洞にこもり修行できたのか?
必ず食べなければならない、誰かがその食事を用意しなければならない、
9年坐禅を続けたとされている達磨大師でも食事を運び人がいたのである
その食事を一人のために運ぶことも容易ではない、ここが何か見逃されている
近くの霊山でも山で修行した人達が相当数いた、でもそんなに多い僧が山の上でどうして食を得たのか?やはりあの山は岩山でありそこで食べるものがない、とすると山に誰かが食料をもっていかねばならない、それも大変な労力になる

ただ山を修行の場としてきたのが天台宗でありそれが寺の起りである
比叡山でも山に寺があり修行する場としてあったからだ、それを民間では山伏とかなり受け継いだのである、山形県の山寺でもそうである、山を聖なる場として修行したのであるだから今の都会化した完全に俗より俗化したカルト宗教団体などはまずそういうふうに
心を山で浄めるとかの志向が全くないのである
完全に政治化経済化した俗なる世界にひたり俗世界よりぎらぎらした欲望を追求しているだからこそ数もあれだけ集まる、欲をおさえよとか心を浄めるなどない
ただ煩悩即菩提であり煩悩があればあるほど救われるとまでなっている
だからそこにもう宗教が求めたものはなにもないのである

山には仙人が住んでいたとか老子が始祖の道教がもともとあってそれが仏教と混合して
修験道が生まれた、ただなぜ仏教が興隆したのかとなると山伏でも民間で山からおりて様々な人間の悩み苦しみに対して何らかの効用があり頼むものとなった
だから薬草を山でとり薬を処方したり病気には祈っていたとなる
つまりなぜ仏教が栄えたとなれば病気を直すために祈ったことによる
会津で8世紀にすでに仏教伽藍があったとか僧侶が相当数来たのは病気が治ることで祈ることからそうなったのである

ではなぜ松島が修行の場となったのか?、それもやはり山が聖なる場所であるように松島は風光明媚な浄土に見えたのである、ここで心を浄めるということで修行者が集まったのである、まず今のように大都会に人が集まりそこで生まれる宗教はたいがいカルトになる異様なものとなるのはやはり清浄な自然から遊離してしまったからそうなる
おそらく松島は海に面していて魚介類がとれるから貝とか他に魚でも食べたのかもしれない、海でとれるものがありそれを食べた、魚を食べないといっても魚もとれるのだから食べたかもしれない、どうしても今になると何を食べていたのだろうと疑問になるからだ
そもそも一般人でも食べることができなくなり乞食になったりした、そして乞食では布施されないとしてにわか僧にもなった、それは四国の遍路になったホームレスもそうだった乞食なのだが僧だとして経文を唱えて金をもらうになった、その人は全く宗教とは関係ないが食べるためにそうなったにわか僧でありペテン僧だとなる
それは昔もあったのである、ただ昔は食べることが切実だからそれを必ずしもとがめることはできないともなる、つまり乞食と僧の見分けがつかないのである
今でも僧は働く人からすると修行もしないし楽だとみられる、ただお経を唱えていればいいとなるからだ

鎌倉時代に東北にも天台宗から分かれた禅宗でも広まった、特に瑞巌寺は禅宗であり伊達政宗が禅宗だから重んじられた、武者の間とかもあり僧だけの寺ではなかった
伊達政宗の寺ともなっていたのである、禅宗と武士は相性が良かった、一方で真宗と日蓮宗は民衆化した宗教として普及した
豪華絢爛な安土桃山文化を象徴するのが黄金の襖の障壁画である
観瀾亭の障壁画模造品である、本物は瑞巌寺にある、秀吉が黄金の茶室を作ったように
黄金の時代にもなる、瑞巌寺の障壁画も見事である

東北だとやはり歴史的にも文化的にも仙台が中心になる、そこまで日帰りできることは
恵まれているともなる、福島市とかには歴史とか文化を感じないのである
二本松の城には感じる、景色もいい、東北だと私の住んでいる浜通りでも波が荒く打ちつける、荒寥としたものともなる
でも松島は入江であり島々があり穏やかなのである、こういう光景は東北にはあまりないのである、だからこそ修行する場としてはいいとなる

 松島で古人となる歟(か)年の暮

 松島で死ぬ人もあり冬籠(ふゆごもり)

 「風流行脚の途次、松島で死の本懐をとげる人もある。そんなうらやましい人のことを心に思いながら、自分はぐうたらと火燵行脚の冬ごもりを極め込んでいる」とある
 
 http://yahantei.blogspot.com/2006/06/blog-post_28.html
 
松島で死ぬ人もありというときここで修行して死んだ僧たちのことを思っていた
古人となるかもやはり死ぬことである、松島は風光明媚でありそこは死ぬにふさわしいともなる、浄土でもあり死に場所としてふさわしいとなる
江戸時代だったら松島でも一回としか来れないから余計にそうなる
いつでも行けるとなると何かえりがたみがなくなる
私はここ十年以上旅していない、今になると東京でも京都でも奈良でも大阪でも遠いとなる、別に行けるのだが何か行けないのである
家を留守にすることもあり行けることは行けても行けないのである
これだけ旅行したのだからもう悔いはないとなる
近間だけでもいいともなる、近くだと四季に行けるから別に遠くに行かなくても深化できる、松島でも春から夏でも冬でも行っていた、ただ秋には行っていなかったのである


古代における山林修行の資糧ー乞食ー蘇軾
http://renbutsuken.org/wp/wp-content/uploads/2011/04/Kobayashi3.pdf




2022年09月22日

抽象画の紋様の変化 Variation in the pattern of abstract paintings


抽象画の紋様の変化

Variation in the pattern of abstract paintings


variation of city

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abstract flower pattern
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Cherry blossom

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bamboo
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2022年09月21日

医療費が国を破産させる? (でも簡単に医療費は減らせない矛盾)


医療費が国を破産させる?

(でも簡単に医療費は減らせない矛盾)



内視鏡検査機器やこれを使った治療機器、超音波診断装置、CTスキャン装置、MRI装置、PET装置などが医療で普通に使われるようになっていることに気付かれるでしょう。これらの新しい装置や機器は精密機器で大変に高価なものが少なくないのです。

病床数が多い、在院日数が長い
薬剤価格が高い、薬剤使用量が多い
医療材料価格が高い
検査が多い
受診回数が多い
https://www.ringe.jp/civic/medical/

厚生労働省は11月9日、2019年度の国民医療費の概況を発表した。国民医療費は44兆3895億円と前年度比9946億円(2.3%)増加、人口1人当たりの国民医療費も35万1800円と同8600円(2.5%)増加した

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暴利をむさぼるたとえ。薬の売値は原価よりはるかに高く、
儲(もう)けが大きいこと。薬は売値が非常に高く、原価の九倍もするという意から。


俺は十年前から高血圧治療の為に毎月通院しているが7月〜9月までの
暑い期間は血圧が上がらない事に気が付いたから、その間は通院と投薬を
止めても良いか医者に尋ねたら拒否された。俺のような患者は全国に大勢
いると思うが、医者がこう言う了見だから医療費が下がる訳が無い

一旦医者にかかったら患者は何も言えない、医者に従いとなる、それで無駄な治療があるとは言え自分の判断で病気を判断するのも危険なのである
私自身がなかなか病院に行く時間的余裕がなく勝手に判断して死ぬところだった
なぜなら腎不全になるところだった、そしてすぐに入院して一命をとりとめたのである
だから素人判断することは危険である
そこに病気の問題があり簡単に医者に自分の病気で勝手に判断できないのである
ただこの人は自分の病状をみてそう言ったからその判断が間違っているとは言えない
でも素人判断するのは危険なこともある

でも正直ここで言っているように無駄な治療も多すぎるし投薬も多すぎる
結果的にほとんど効かないとか副作用でかえって悪くなったりする
そもそもワクチンの効き目もわからない、ワクチンの金も膨大なものだった
でもこれが本当に効いたのかとなるとそれも科学的にもわかっていないのである
つまり病気にはそもそもこうして効くかどうかわからないものが実際は多いのである
でも素人判断は危険だし医者に命令されれば従う他ないのである

そこで問題になっているのはその金が国を破産させるほどの巨額な金となっていることである、これは国民全体にのしかかる問題であり国家的問題にもなっている

ある女性は目まいしたからと医者に行きMRI検査しろとなりした
でもそのMRI検査は実際は高価なのである、それも保険で負担するから安くなっているが
その検査の効用はあるのかとなるとほとんどない場合もある
認知症になった家族をMRIで見せたがそもそもそれは何の効用もない
認知症のことなどMRIではわからないからだ
ではなぜあえて検査したのかとなると金のためだったとなる
この検査はかなり金になるからである、だからその機械自体高いから医者では実際はわからないのに検査しろとなるのである
それも保険から出るからそうなる、もし十万するとなれば簡単には頼まない
そもそも検査してもわからないものもあるし相当に高いものでないと診れない
そうして脳の検査を本当にできるものは福島県には二台しかないとしている
となると普通の病院ではとても脳を精密に診れないとなる
でも何か検査しろと医者に命令されると断れないのである

ただ自分の場合は検査してすぐに医者に行かねば死ぬところだったのである
だから病気は緊急を要することがあり医者に逆らうことはできないとなる
自己判断では死ぬことがあるからだ、でも今問題なのは余りにも過剰診療が多いことなのである
そこに膨大な金がつぎこまれて国家破産にまでなる、その無駄を簡単に減らすことはできない、医者の権限が大きいからである、また現実に素人判断も危険になるからだ
ただ医が算術となっていることも確かである
外国ではあまり老人には手厚い医療はしないというときそうである
ただ最近は延命治療はしなくなっているという、どこで生きることをあきらめるほかないとなっている、ただその判断もむずかしいのである

この医療の無駄でもなくすことは簡単ではない、それは病気に人間は弱いからである
その弱さに医者がつけこむということもある、それで金を払わせられる
でもそうでない場合もあり何か無駄なのかなど判断できない、人間社会にはとにかく無駄が多すぎるのである、その無駄が膨大なものとなる
人間の無駄といえば軍事費でも無駄だといえばそうなる、兵士などいらないと言えばそうなる、つまり軍人とか警察とか医者とかは本来ない方がいいものなのである
軍人がいなければ戦争もないし警察がいなければ犯罪もないし医者がいなければ病気もないとなる

逆に軍人がいるから戦争が起り警察がいるから犯罪が起り医者がいるから病気もある
そういう逆説成立つ、天国には軍人とか警察とか医者すらいないからである
軍人とか警察とか医者とかは社会で権力を持つ職業である
逆らえない人達でもある、その人達は命令する権力を持っている
ただ軍人は自衛隊だと今は目立たない、むしろ自衛隊とかは表に余りでない、でも一旦戦争なったら主役になるのである、だから戦争の時は軍人が一番威張っていた
今でも墓には軍人の階級が一等兵だったとか記されているのは軍人がその時は価値あるものだったからである、威張ることができるものだったからである
でも今はそういう墓を見て軍人の位を見てその人がい偉いとか見ないのである

高齢化社会の問題は医療費の問題にもなる、その金を負担するのは現役で働いている人とかにもなる、ただ保険でも介護費用でも老人は年金からでも払っているのである
若い人だけが払っているわけでもないのである
でもその額が多すぎるから負担になる、社会が介護とか病気のためにあるのかとまでなる地方の仕事で眼につくのは確かに介護であり病院であり医者だとなる
60以上になると医者通い病院通いになっている人が多いからである
糖尿病は何か医療費の負担が多いことは確かである、金のかかる病気である
近くの人はそのために払う金が多い、それで親しい手伝ってくれる人に金を払えないとなっている、糖尿病は相当にやっかいな病気なのである


2022年09月20日

昭和33年の新聞記事(3) (ラジオからテレビへの過渡期だったー女中も募集されていた)


昭和33年の新聞記事(3)

(ラジオからテレビへの過渡期だったー女中も募集されていた)

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68500円は当時では相当に高い
女中の手取りが8000円とか5000円とかなっている
そしたらいかに高いかわかる
でも私の家は中学頃にテレビを買っていたのである
父親が病気になり買ったのである

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昭和33年は何か高度成長が始まる時だった、なぜならテレビが出たからである
そのテレビの前に人がわんさと集まった、その頃テレビはみんなない、だからテレビがある所に人が集まった、その熱気はすごかったのである

ただその時代の面白いのはラジオが依然として使われていた
テレビが出る前はラジオが主役だった、ラジオだと声だけでりその声に耳を澄ます
何か恐怖小説がありその犯人の足音がラジオから聞いた時怖かった
そしてラジオというメデアは音だけであり姿が見えない
それでラジオで人気だったアナウンサーがテレビがでた時用なしになったのである
なぜそうなったかというと姿とか顔が写ると見映えが悪いと拒否される
なぜなら映像だとまず姿とか顔を見るからである
youtubeでも顔が問題になる、顔をまずみる、その人の発言することの前に顔を見る
こんな顔なのかと拒否する人もいるだろう
プログでも文章だけだったら顔が見えないししゃべることが下手でもいいとなる
でもyoutubeはしゃべゃ方を相当に影響している、声でも姿でも顔でも影響しているのである

ただyoutubeはわかりやすい、図で説明もできるしいろいろテレビのように映像を出せるからである、この写真とか図を出せることはプログでもできるのである
だから誰でもできるプログで写真と図でも動画でも一部出せるとなるとその表現力は意外と大きいのである
それでこんなものでも表現力があるなと感心するのである
これは誰でも簡単にできるものだからである
そうなると一人一人がメデアを持ったともなる、だから私は膨大なものを書いている
それはいくらでも書けるし誰も止めるものもいない、自分なり自由に書けるのである
発言できるのである、youtubeでもそうである

テレビ局と同等にもなることでテレビは衰退したのである
今までは動画となるとテレビからしか知り得ようがなかったからである
今や個々人は新聞社に出版社に雑誌社にもなれる、それがプログのようなものでもできるこの変化は大きいものである
ただyoutubeでもプログでも見られること読まれることは至難である
結局大衆受けするものは視聴率を稼ぐのはテレビと同じだった
でも別に金もかからないのだから少数者でも成り立つのである
テレビは金がかかる少数者では成り立たなくなる、宣伝費も入らなくなっている

昭和33年の新聞記事ではマスコミのことを書いているが膨大な本や雑誌が出されていた活字メデアが全盛期に入りつつあった、そしてまだ戦前からのメデアであるラジオが結構聞いていた、天皇陛下の玉音放送がラジオで成されたようにラジオが戦前のメデアであり映像に触れることはまれだった、ラジオでも大きな力を持っていた
ラジオだと手作りした人もいたようである、それほどむずかいものではないからできたらしい、昭和33年は古いものもがまだ残り新しいものが出て来る時期だった

それで不思議なのは職業の募集欄に女中と結構ある
まだ女中を東京で募集していたのか、戦前は女中が多かった、火事が電化されていないのだから頼んでいた、普通の家でも女中を二人雇っていたとかある
それだけ家事が負担だったからである、別に金持ちでなくても雇っていたのである
今なら大金持ちしか手伝いさんは雇いない、専用だと雇いない
家政婦も募集していたがこれも女中が家政婦になる変わり目だったのか?
女中に興味があるのは私の母親は大正生まれで東京に女中で働いていたからである
それは戦前のことである、でも集団就職とかあり東京に女中ではないにしろ手伝いとして働いた中卒の人がいる、だから依然として女中は東京で必要なものとしてあった
だからこの昭和33年はこうした古いものと新しいものがまじりあった社会だったともなる