2026年03月07日

イラン戦争とアメリカの宗教の影響

イラン戦争とアメリカの宗教の影響

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福音主義と総称される保守的プロテスタントはトランプの主な支持基盤の一つだ。ピュー・リサーチ・センターによると、2024年大統領選挙で白人の福音主義者の81%はトランプに投票した。福音主義以外のプロテスタントの58%、カトリックの50%と比べても際立っている。

今回のイランとアメリカの戦争で宗教が深くかかわっている。キリスト教とイスラム教の宗教戦争の様相も帯びている。となると宗教を理解しないと本質的なものがわからない、
でも宗教となると複雑であり理解しにくいのである。石油をめぐる争いという時わかりやすいが宗教による争いは複雑怪奇になる
そもそも宗教から見れば戦争はもっともあってはならないものである、なぜなら人を殺すことを国家レベルでも容認するからである。人を殺すことを奨める宗教は世界で容認されない、だからアメリカでも大方のキリスト教の宗派はイラン戦争に反対している

2024年大統領選挙で白人の福音主義者の81%はトランプに投票した。福音主義以外のプロテスタントの58%、カトリックの50%と比べても際立っている。
福音主義はトランプ大統領を支持している、イラン戦争も支持している
でもカトリックは支持していない、それで伊藤貫氏はプロテスタントに批判してカトリックの方がまともだとしている。プロテスタントは一種の新興宗教でありそれで宗教右派となり過激化する。カトリックは2000年の歴史伝統がありそこに自ずと重みがある、だから法王は戦争には反対する。でもプロテスタントは宗教右派となり過激化する。私自身もエゼキル書を引用したりとどうしても聖書に基ずいて判断する
世界最終戦争のハルマゲドンになるというのも信じやすいのである

ただカトリックがまともなのかとなると2000年の歴史がある、その中で過ちを犯してもキリスト教の基本的なことは伝えて来た。そこは間違っていないということになる。いかなる戦争にも反対する。ともかくアメリカは世界一の軍事国家でありその軍事力の使い方を誤ると世界的大惨事になる。それを宗教が支持することは危険でありカルトにもなる。イスラエルが宗教原理主義でありアメリカがそれに同調して同盟して戦争するとか過熱化する、またイランでもイスラム教右派になると同じように過熱化して危険になる。なぜなら宗教は絶対であり妥協をしないからである

不思議なのはハメネイ師が殺害されたのは自ら死を選んだという。それは年であり最後に名を歴史に残したいからそうしたという、確かに80以上になり望むことは名誉である、すでにあらゆるものを得たとしても名誉は得られない、だからトランプ大統領でもノーベル平和賞をもらいたいとなり同じなのである。でも個人の名誉のために多くの人が犠牲になるのは問題である

ともかく宗教がかかわると奇々怪々になる。それは日本ではカルト教団が跋扈して問題を起こしたことでもわかる。そこでは殺人も肯定されて実際に殺されてもいるからである。狂信的な物となる危険がある。









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2026年03月01日

世界第三次戦争の構図−エゼキエル書の予言の現実化 【イランへのアメリカの爆撃の目的は中国をつぶすため】

世界第三次戦争の構図−エゼキエル書の予言の現実化
【イランへのアメリカの爆撃の目的は中国をつぶすため】

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エゼキエル書
ゴグはマゴグの地にあり、メセクとトバル(英語版)の大君(口語訳、新共同訳では「総首長」)とされる。 ゴグの軍隊は強力な大軍であるとされる。

人の子よ、メセクとトバルの大君であるマゴグの地のゴグに、あなたの顔を向け、これに対して預言して、言え。

主なる神はこう言われる、メセクとトバルの大君であるゴグよ、見よ、わたしはあなたの敵となる。

わたしはあなたを引きもどし、あなたのあごにかぎをかけて、あなたと、あなたのすべての軍勢と、馬と、騎兵とを引き出す。彼らはみな武具をつけ、大盾、小盾を持ち、すべてつるぎをとる者で大軍である。

ペルシャ、エチオピヤ、プテは彼らと共におり、みな盾とかぶとを持つ。ゴメルとそのすべての軍隊、北の果のベテ・トガルマと、そのすべての軍隊など、多くの民もあなたと共におる。あなたは備えをなせ。あなたとあなたの所に集まった軍隊は、みな備えをなせ。そしてあなたは彼らの保護者となれ。(口語訳聖書:エゼキエル書38章2-7節)


ゴグとはロシアでありその背後にある中国にもなる。その時代にはロシアとか中国は存在しなかった。でも中国の歴史は古いから現実にすでに存在していた。
今なぜエゼキエル書が問題になるのか、それは現実の世界の問題として現れて来たからである。そして核による世界最終戦争、ハルマゲドンが現実味を帯びてきたからである

戦争の原因は合理的に見れば

●土地の争奪戦
●資源の争奪戦

等が基本的にある。だから今度のイランへのアメリカの爆撃も原因は資源争奪戦でもある。イランの石油は中国がほぼ輸入している、それが止まると中国は崩壊する
それは石油はありゆる産業を支えている。戦争するにも飛行機であれ車であれ石油がないと燃料がないとできない、日本とアメリカが戦争になったのはアメリカから石油が輸入できなくされたとか経済制裁が原因だったともある。
ゼロ戦でも石油がないと飛べない、それで片道しかガソリンがなく帰ることができなくても特攻して行った。帰ってくる燃料がなかったのである。
アメリカは中国を叩くためにイランの石油を使わせないようにするそのためにイランを攻撃した。つまりロシアの背後に中国が存在してイランの背後に中国が存在する
その背後にあるものをつぶさない限り勝てない、確かにそう見るとわかりやすい
現代はグローバル化しているからグローバルに見ないとわからない、世界はもはや一国では成り立たない、否応なくつながっている。

ただ聖書から現代の国際状況を見るということはいかに聖書が世界的であり一民族とか国家を越えたものであることに驚く日本の歴史なら日本しか視野に入らないからである。2000年前とかに指摘されたことが現実化することを予言していたことに驚く
いずれにしろ第一イスラエルがユダヤ人が離散し2000年後に再興されること自体ありえるのかとなる。それでそのことが聖書が予言の書であることを証明している
つまりイスラエルが2000年後に再興することは大きな意味を持っている
それで人類の最終戦争がハルマゲドンが起こりそれを契機として神の約束が現実化する
キリストの再臨があるというのもそのためである

それでは日本はどう関係するのか?地政学的に日本の位置は東西を結ぶ位置にある
西側とヨーロッパからアメリカがあり東のロシアと中国とつなぐ位置にある
だから日本は重要な位置にあり日本を無視できない、東西を結ぶつなぐ位置にある
イスラエルが神が定めた場所のように日本もまた東西を結ぶ場所として神が定めたとなる。日本も大きな役割を担っている。日本を無視できないのである
だからそういう自覚を世界のの中で持つべきだとなる。小国でもその位置が役割が重要なのである。
posted by 天華 at 17:52| Comment(0) | TrackBack(0) | 時事問題の深層

2026年02月21日

生育環境で将来でも決まる人間―家庭環境が人間を作る 【山上徹也被告の無期懲役は妥当なのか?−その過酷な家庭環境】

生育環境で将来でも決まる人間―家庭環境が人間を作る
【山上徹也被告の無期懲役は妥当なのか?−その過酷な家庭環境】

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【見えない貧困】増加する若者の“ホームレス” ネットカフェなど利用で
「見えない“貧困”」に 支援受け再スタートする男性に密着取材

生育環境は植物の成長において非常に重要な要素です。植物はその環境条件に基づいて生育し、適応する必要があります。例えば、植物は光合成に必要な日照量や栄養を吸収するための土壌の質に依存します。また、植物は光合成によって多くの養分を得るため、光の波長や温度も重要な要素です。 
筑波大学

これは植物のことでも人間が影響が大きいのはどういう家庭で育ったかである
それは遺伝より影響する、若者でもまともになれないというとき生育環境が悪かったからだとなる。なにか親から愛されていない、それが致命的なのである

植物は光合成に必要な日照量や栄養を吸収するための土壌の質に依存します。また、植物は光合成によって多くの養分を得るため、光の波長や温度も重要な要素です。 

光合成という時光を受けて育つという時、光は愛であり養分を得るのは家庭からなのである。そこで愛の光を受けないと吸収しないとまともに育たないのである

それで養護施設出の人が多いというのもそうである。そこでは親からの愛情を受けるのとは違う
ともかくどんな家庭に育つかでその人の運命はほぼ決定されるともなる
ただ家庭でも多様でありどの家庭がいいとか一概に言えない、確かなことは家庭の影響は一生を左右する、例えばカルト教団にのめりこんだ親の下で育つとどうなるのか、純粋な子供の頃から洗脳されるのでそれ以外のことが見えなくなる。それも一種の虐待にもなる
でも親はそれがいいものとして強制する、子供は従うほかないから問題なのである
子供は完全な教団のロボットとして育てられる。全く他のことが見えなくなる
ただ親は良かれと思いそうする、それは親の勝手な一方的な思いであり強制になる
そしてまともな人間人格形成ができなくなる。

とにかく家庭の影響が大きすぎる、そして家庭も多様であり理解しにくいのである。
こんな家庭があったのかと驚くのである。それは自分の家族と比べてあまりにも違っている。だから不幸だと見る。ただ恵まれて育つのがすべていいのかとなるとそうはならない、苦労していないと人生の困難を乗り越えられない、何か金に困らないで育つと人に金を借りるとか人に頼ることができない、その人は事業に失敗して借金をした
でもそれを深刻に考えない、だから自分に一千万でも貸してくれと要求する
つまり金で苦労していないからそうなる。一万でも借りるでも大変になる、でもそういう経験をしていないから金など簡単に得られると思っている。
だから苦労しない人は何か困難に合うと乗り越えられない、その術もわからないからである。でも金で苦労してきた人はその術を心得ていて何とかする。
つまり苦は楽の種にもなる。逆に楽は苦の種にもなる。余りにも恵まれた家に育てば世間の荒波に放り出されたらたちまち沈没してしまう。

いづれにしろその人を見るときどういう家庭で育ったかを見ると理解する.でもその家庭も多様だから理解しにくいのである。家庭ほど複雑なものもないからである
職業でも多様でありそれを理解するのがむずかしい。いかに他人を理解することがむずかしいかである。特に現代は多様化して複雑化しているから余計にむずかしい。
こんな家族がいたのか職業があったのかと驚くのである。零下二十度の冷凍庫の中で働いたことがありそれは厳しかった。そいう仕事もある、ビルの上で働く人もいる。その仕事も多様だから理解できなくなる。ただ土木建築関係の仕事は田舎に多いからある程度は理解できる、とにかく仕事でも家庭で親の仕事から社会を知ることがあるという仕事は親が警官なら身近になりその仕事を家族の中で理解する。犯罪者ともかかわり犯罪者も理解するとなる。それで家業が多かった時代は家でじかに仕事でも理解していたから家族でもわかりやすいことがあった。家族と仕事が一体化していたからである。
今は仕事が家族と分離しているから理解しにくいのである

刑事責任の評価は結果の重大性のみによって決せられるものではなく、被告人の動機、人格形成過程、犯行に至る経緯といった主観的事情もまた、量刑判断において考慮されるべきである。本件においては、被告人が極めて過酷な家庭環境のもとで成長し、社会的に孤立した状況で犯行に至った点が注目される。

山上徹也被告の無期懲役は妥当なのか?

家庭環境を考慮することは必要でもそうしたらすべて家族が悪いとなり個人の罪は問いなくなる。でも
被告人が極めて過酷な家庭環境のもとで成長し、社会的に孤立した状況で犯行に至った点が注目される

ただ過酷な家庭環境に育っても犯罪者にみんななるわけではない、だから考慮すべきでも罪を逃れることはできない、情状酌量となると一体罪の責任は誰にあり誰に問うのかとなる。それで家族が悪い社会が悪いとなれば罪が問われないし罰することもできなくなる。



posted by 天華 at 14:42| Comment(0) | TrackBack(0) | 時事問題の深層

2026年02月19日

何故現代は哲学が求められるのか 【文明の基は宗教であり哲学である―アメリカにはないので習うべきではなかった】

何故現代は哲学が求められるのか
【文明の基は宗教であり哲学である―アメリカにはないので習うべきではなかった】

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●インフラの整備から哲学を求める時代に

世界が哲学に夢中だ。書店に行けば、ビジネス書にも自己啓発本にも、「哲学」という文字が踊る。特に日本では、90年代以降、いくつかの宗教的背景を帯びた事件をきっかけに、敬遠されていたように思える「哲学」。失われた20余年を経て、今、時代はなぜ哲学を求めているのだろう?

常時接続で失われた孤独。あるいは「長い思考力」。哲学者・谷川嘉浩氏インタビュー

何か哲学というと硬い難しいもので敬遠する、でも哲学は何故かという問いを人間は持つから一番身近なものでもある、そもそも学問が学ぶが真似るから始まり問うことから始まった。問うことがはじまりである。
現代が何故哲学が要求されるのか、それはあらゆることで問うことが増えたからだろう
インフラでもない時代は道でも橋でも作ることに疑問を感じない
でも現代は山をくりぬいてトンネルを作り新幹線をリニアを通るようにする、海底トンネルも作る。そんなことに膨大なエネルギー労力を費やす意味があるのか、そこで人でも死ぬからである。そんな犠牲を払ってまでそんな大事業をする必要があるのかとも考える。オリンピックでも莫大な金をかけてやる意味があるのかとなる。それに意味と価値を見出されるのかとなる。賛否両論はあるにしても現代にはそういうことが多いから哲学が必要になる。何でも事業がいいとはならない、それであるべきかかあらざるべきか成すべきか成さざるべきかを問うことになり哲学が必要になり庶民でもむずかしい理論は知らなくてもそういうことに直面するから哲学が時代の要求になった
世界の問題を考えるのでも哲学が必要になる。

●アメリカには見習うべき哲学、モラルがない、金がすべての世界

米国の「カナダいじめ」は「併合」に発展するか 「我が国は世界の道徳的な指導者」と考える米国民は39%に激減

経済原理だけで軍事力だけで世界を統治することはできない、その反発が世界的に起きている

日本は明治維新以降ヨーロッパから学んできた、次に戦争に負けてアメリカから学ぶようになった。でもアメリカから本当に学ぶべきものがあるのか?もちろん他国と比較して自国を見ることは必要である。でもアメリカから学ぶべきものが本当にあったのか学ぶのが良かったのかという反省が生まれた、ヨーロッパからは学ぶものがあった。でもアメリカを手本にするものがあったのかどうかそれが正しかったのかどうか疑問を持つようになった。アメリカとヨーロッパはもともと相当に違っていた、ヨーロッパの延長でも中身は相当に違うものとなった。他国から学ぶという時その基本に宗教とかモラルがある。その国を形成する骨格がありそれが宗教であり哲学でありモラルである


アメリカから学んだのは科学技術であり宗教とか哲学ではない、そもそもアメリカには哲学がない、確かにキリスト教を基本にして建国したとしてもそれも今は消失してモラル無き哲学無き国になっている、極めて物質的マテアリズムしかない、またすべてを金で計るビジネスになる世界である。他国から文明から学ぶという時モラルでもその文明の根底にありそれを学ぶ、仏教でもそうである。仏教も哲学であり仏教の僧は哲学者でもあった。
日本が中国から学んだという時でもそうである。論語を江戸時代まで学んでいた
今でも学んでいる、でも中国では論語は学べなくなり日本で学んでいるというときいかに日本が論語から学んでいたかわかる。アメリカからは科学技術は学んでもそうした文明の根幹となるものを学んでいないしそもそもそれが無いから学びようがない

アメリカから学ぶべきものは民主主義にしてもただ多数決であり多数が正しいとなるだけでありそこにモラルとして規範として学ぶべきものはない、つまりアメリカ文明なるものの実体はただ科学技術であり金を求める経済原理があるだけである。
だからアメリカを手本にすると国家でも維持できなくなる。文明の根幹に宗教があり哲学がある。イスラム文明をイスラム教を知らずして理解できない、西欧文明を知るにはキリスト教を知らなければ理解できない、宗教がモラルが文明の根幹にありそれがなければ文明国とは見れない、いかに科学技術が発達していてもそれが文明国とは言えない
だからアメリカは野蛮な国となる。科学技術と軍事力と金ですべての価値を計る経済からしか世界を見ない、アメリカは文明国ではないともなる。

アメリカ人が夢見ているのは

18世紀のアメリカ黎明期においては、ヨーロッパに比べ、出自や身分が決定的な役割を果たすことが少なかった。黄金郷の探索や豊富な地下資源のもたらす巨万の富など、志を抱き、情熱を燃やした多数の人間がヨーロッパから新大陸へと渡ってきた。「アメリカン・ドリーム」という言葉は、そんな彼らの荒唐無稽で不遜な夢を奨励し、鼓舞し続けた

アメリカ人の夢はこうして巨万の富を築き成功者になることである。それを夢見てアメリカに人々は集まったのである。人間のあくなき欲望をかなえる土地としてアメリカがあった。そしてそれが世界大に拡大したのである。世界はアメリカ人の欲望をかなえるものとしてある、だから世界でも経済からしか見ない、金儲けの場としか見ていないのである。そこにはモラルも何もない、他国はデールの対象でしかないそのために利用するだけだとなる。そんな国を手本にできるだろうか、だからアメリカ自体が内部から崩壊してゆく、いずれにしろアメリカを見本にして学ぶと日本人でもアメリカ人になる
現実にアメリカ人になっている。日本人もすべて金になった。金ですべてを計り後は関心がないとなる。トランプ大統領にデールで金で国でも売り渡すとなる

明治にアメリカがキリスト教の国だと思って留学した内村鑑三が;極端なアメリカ嫌いになったのはすべてを金で計ることでそうなった。日本人のような人情がない世界でそうなった。国には国に成り立ちがある。その根幹に宗教がありモラルがあり哲学もある。そうでなければ文明国ではないともなる、見習うべきではないとなる
ただ力関係で世界を見ることはその関係は崩れやすい、金の切れ目が縁の切れ目になる
日本なんかと付き合っても金にならない得にならないとなり簡単に切られる
中国の方が商売相手としてはいいとなり日本は捨てられる。そういう関係は切れやすい
友好が保てないのである。

ともかく文明の根底に宗教と哲学がありそれがなければ見習うものがないからお手本にできない、ただデールだけでは友好関係は持続しないことは確かである。






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2026年02月15日

ファシオンからファシズムになる危険 【高市首相のファシオンが注目されたことについて】

ファシオンからファシズムになる危険
【高市首相のファシオンが注目されたことについて】

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今回の衆議院選挙で注目されたのが高市首相であった。その着るもの
高市首相のファッションを真似する「サナ活」が広がっている
手に取りやすい価格帯のアイテムが多く、幅広い世代が購入
実用性が高く、寒い屋外での活動にも向いている

ファッション(fashion)の語源は、ラテン語で「作ること」「行為」「なすこと」を意味する「factio(ファクティオ)」です。この言葉が古期フランス語の「faceon(顔つき、形、作り)」を経由して、英語の「fashion」となり、現代の「流行」「流儀」「様式」という意味に変化しました。

高市首相が注目された選挙だった。その着るものまで注目された。女性に特に注目された
何か高市フェーバーは熱狂は何だったのか、民主主義は政策を見るとかめんどうである。するとその時々のファシオン「流行」で判断する。今回のファシオンは高石首相だった。女性でもあり余計にファシオンに注目された。
子の危険性はファシオンがファシズムになることである。その時々のファッションによって人も選ばれ政治の動向をを決める。民主主義はファシズムと全体主義と正反対のものでも大衆民主主義は全体主義にファシズムになりやすい、一般的に大衆は議論することを嫌う、そこには知識が必要であり面倒になる。特に女性は嫌う、女性は感覚的に判断する、だからファシオンを作るのは女性である。政治のファッション化になった。

古期フランス語の「faceon(顔つき、形、作り)」を経由して、英語の「fashion」となり

まさに「faceon(顔つき、形、作り)」をまず見る、だから着る物でも注目する。今回の自民党の勝利は女性を首相にしたことである。中道改革でも女性を党首にすれば結果は違っていた。なぜなら創価の実働部隊は前は婦人部であり女性であったからである。女性に訴えるものを打ち出さないと票が集まらないのである。現代は女性に訴えるものがないと物も売れないし政治でも女性に魅力がないと賛同されない、そのことでも人選が誤ったとなる。

ただファシオンになると一過性で終わる。その時々に流行で常にファシオンは変わる。そこに一貫性がなく継続されない。ただ現代は何でもファッション化する。
常に新奇なものを求め次々に消えてゆく。宗教すらカルトとなりファシオンになる
大衆民主主義はその時々で人の好みも変わる、ファッションも変わる。
だから高市人気も一過性で終わる。そしてなぜあんなに熱狂したのかと冷めると反省する。そういうことは歴史で起きていた。戦争でも国民が熱狂的に支持していたのである
まさにファシズムになっていた。だから大衆が熱狂することは危険もあるし後で反動がある。熱狂から覚めると途端に人気も喪失する。そこに堅実なものが無いからである

いずれにしろ民主主義は様々な弊害も生んだ。戦後の日本の民主主義はアメリカから押し付けられたもので熟成されていない、だからファッション化してファシズムになる危険がある。そして政治家でもどうしたら選挙に勝てるかのかとなるといかに大衆を扇動するかを考える。自民党はその扇動を高市首相にして成功したのである。
ただその反動もあり一過性でその人気も消失することもある。ともかく現代は長期的視野で見れない。短期的ファッションで終わる。長期的に継続的に見れない、実行できない、その時々のファッションで終わる。派手なことばかり注目して地味なことは無視される。でも選挙に勝つにはその時々のファッションになる。そこに民主主義の問題がある。


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2026年02月09日

中道改革の衆議院選挙の大敗はなぜ 【創価票が機能しなかった、買い被り過ぎたのが失敗】


中道改革の衆議院選挙の大敗はなぜ
【創価票が機能しなかった、買い被り過ぎたのが失敗】

中道改革がなぜ大敗したのか、大きな原因は期待した創価票が入らなかった。
なぜそうなったのか、選挙の準備ができなかった。創価というのは巨大な団体であり
でもみんなが熱心な会員ではない、そこで何百万人の幽霊会員がいる。その人達は会合にも出ない、それで選挙の時その人達に一票を入れさせるのが幹部の仕事になる
それは半年前であれ一年前であれ運動する、だから今回のように時間がないと対応できない、つまりこれだけの巨大組織を動かすとなるとそれなりに時間がかかる
そして創価の会員は池田大作会長時代とは違い熱心な人は減った。一種の憑き物がとれたようになった。

幽霊や霊が取り除かれ、正気に戻った状態

「憑き物が取れた」とは、幽霊や霊が取り除かれ、正気に戻った状態を指します。この表現は、集中しすぎた状態から解放され、元の自分を取り戻したことを示す言葉です。例えば、何かに夢中になっていたときに、ふと我に返ったときに「憑き物が取れた」と表現されることがあります

カルト宗教団の会員はこんな状態である。一種の憑依現象でもある。本来の宗教とは何の関係もない、それは精神異常でもあり社会病理学的に見るべきものである
ナチスの全体主義―ファッシズムである。社会自体がそうなる時がある。今創価であれカルト教団は憑き物がとれたようになっている。洗脳から覚めたともなる
だから創価でも会員を操作できなくなった。なぜ選挙運動ばかりさせられるのかと疑問に思い嫌になっていた人も多いからである。
池田大作が死んだこともカルト教団にとって教祖は神であり仏でもあるからそれを失うことは求心力を失うのである。なぜなら池田先生のために選挙運動するとなっていたからである。

とにかく巨大な組織でありその人達は自主性はない、だからこそ選挙でも必ずしも集団で一致して行動するわけではない、つまり上からの働きかけが必須である
そうしなければ動かないのである。浮動票のようにその時々の情勢で動かないのである
今や組織自体が一つとなり動かない、動かすにもかなりの時間が必要なのである
今回はその時間がなかった。だから立憲も期待したが期待外れに終わった
もはや創価票は幻想であり期待できない、むしろ創価と組むと逆効果になる
現実に自民党から公明が離脱してもかえって右寄りの人達が票を入れて自民が大勝した
公明党が離脱してかえって良かったとなる。公明創価を買いかぶりすぎていたのである

それは立憲でもそうだった。創価票がごっそり入ると見たがそうはならなかった。それが誤算だったのである。今や創価公明は衰退してゆくだけである。そこと組んでも伸びることはない、そもそもカルト教団と組んだことが間違いだったのである

溺れる者は藁をもつかむ

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溺れる者は藁をもつかむ」とは、困窮した状況に置かれた人が、全く頼りにならないものにまで必死にすがろうとする

立憲はまさにこれだった。公明党もそうだったのである。新党でも何ら新鮮味がなかったのである。互いに沈んでゆくだけだったのである。
posted by 天華 at 12:04| Comment(0) | TrackBack(0) | 時事問題の深層

2026年02月02日

地理はまず方角を知る 【日の昇る東と沈む西を基本として知る】

地理はまず方角を知る
【日の昇る東と沈む西を基本として知る】

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「オリエント」の語源はラテン語で「日が昇る方角」(=東)を意味するオリエンス (Oriens) である。英語のイーストやドイツ語のオスト (ost) などはギリシア神話のエオス(暁の女神)に由来する

地理で一番意識するのは陽の昇る方向と沈む方向である。小野妹子 陽の昇る国から陽の沈むへと

遣隋使の小野妹子が、持って行ったとされる書簡が「日出處天子致書日沒處天子無恙云云」(日出ずる処の天子、書を日没する処の天子に致す。恙無しや、云々)で始まります。
現代語訳すれば「日が昇る国の天子(国王)から、日が沈む国の天子へお手紙します。元気?」ってところでしょう。

ともかく地理の基本は方角を知ることである。陽が昇る方向が東であり沈む方向が西である。でも東西南北があり東西はわかっても南北がわかりにくい、南仙台駅があるがなぜ南なのか北仙台もある、仙台を中心として南があり北がある
でも常に意識できるのは陽が昇る方向の東であり沈む方向の西である 南相馬市となると相馬市の南となり合併後に名ずけられた

東の 野に炎の 立つ見えて かへり見すれば 月傾きぬ 柿本人麻呂

(読み方:ひむかしの のにかぎろいの たつみえて かへりみすれば つきかたぶきぬ)

ひむかし・・・は陽に向かうである。こういう光景は常に見ている。陽の昇る方向と陽の沈む方向は意識しやすい、だから近江では陽の昇る方向が関ヶ原の方向でありそこから東(あずま)になっている。そこが東西の境界なのである。
日本の東西は西から発展した、でも西から陽の昇る方向に東(あずま)に向かっていったのである。征夷大将軍は西から東の蝦夷を征服する称号でありその意味は東の蝦夷を支配するという役割なのである。だから家康でも征夷大将軍を名乗る
東は長く征服されなかったからである。


ともかく近江は琵琶湖を中心として湖東湖南湖西とか方角地名でわかりやすい、湖西というとき陽の沈むところだから淋しい感じになる。湖西線は淋しいとなる。何か東となれば陽の昇る方向であり明るい感じを持つ、陽の沈む方向は何か暗い感じになる
でも夕日が映える所は印象的になる。エジプトでナイル川の西岸に太陽が沈むのを見た時エジプト3000年の歴史を感じて何んとも言えない感慨にふけった。

日の沈む方向でもそれが意外なのである。明石に春の夕陽が映える、大阪に日下(くさか)とあるのは何故なのか、この地名は相当に古い、日下氏となると古代の有力氏族である。そもそもなぜ大阪に日下―日の沈む方向になるのか?そここから日の本の国の由来がある。

古代史では、神武天皇が大和へ向かう際に通過した重要地点として「河内国・日下」が登場します。

このため、日下は「日の本(ひのもと)」=太陽・東方・始まりを象徴する地として扱われることが多く、神話的な権威を帯びた地名でした

大阪が日本の最初の中心地でありそれで日下(くさかべ)氏が生まれ日本の基となった

日下部 (稲沢市) - 愛知県稲沢市の地名
日下部 (八頭町) - 鳥取県八頭郡八頭町の地名
道場町日下部 - 兵庫県神戸市北区の地名

神戸市にも日下部がありそこは陽の昇る場所になる


ともかく地理は方角地名が基本である。世界でもそうである、だから西半球というとき
陽が沈む方向である。ヨーロッパは陽が沈む方向なのである。世界史では東からオリエントから西に向かったのである、中国でも西域がありそこからヨーロッパに向かった
さらに大西洋を渡り西へ西へと向かった、アメリカの西部のカリフォルニアの海岸からは太陽が太平洋に沈む。その日の沈む方向に日本があり中国がアジアがある
西へ西へと移動して地球を一周して極東の日本に到達する
コロンブスは西へと大西洋を渡りアメリカに到達してもそこが日本だと思っていたのである。ただ日本の地理は東西の境界であり結ぶ地点にあったのである。
陽の昇る方向から沈む方向へ向かうのは人間も生物の一種だから本能的にそうなる
東から西へ西から東へと文明も興隆して衰退するのも地理的にそうなる。




2026年02月01日

世界で多党化が進む主な理由 【民主主義そのものが問われているー民主主義が独裁を産む理由】

世界で多党化が進む主な理由
【民主主義そのものが問われているー民主主義が独裁を産む理由】

1. 社会の価値観が細分化した
かつては「労働者 vs 資本家」「保守 vs 革新」といった大きな対立軸が政治を規定していました。


しかし現代は、

環境問題→参政党
ジェンダー
地域アイデンティティ
移民→日本保守党
デジタル社会→チーム未来

多党化は「混乱」ではなく、
社会の多様性が政治に反映され始めた結果とも言えます。

ただし、多党化が進むと、
連立政権が複雑化する
政策決定が遅くなる
ポピュリズム政党が台頭しやすい


今までは昭和でも平成でも二大政党で分かり安かった。自民党と社会党とかで分かり安かった。これだけ多党化するとわけわからなくなる、だから政策でも何にに重点を置くのかを見る。わかりやすいのは日本保守党が移民問題をチーム未来がデジタル社会を若者向きの問題を重点にするのはわかりやすい、他はわかりにくい。
消費税はほとんど賛成であり区別できない、ただそのやり方の方法が違うとなる
知識人に受け安いのが反グローバリズムの参政党である。ただ庶民受けにはならない、
共産党と創価は問題でも庶民に受ける。めんどうな知識は必要はない、身近に接して話だけでも聞き援助してくれる党に入れる。だから一定数の票が確保できる

中道改革は何かあいまいであり浮動票は入らない、組織票が頼りである。でも創価でも何か入れにくい。やはり公明党でないと入れにくい、組織票としてまとまりにくい。
原発に賛成とかで私は入れない、宗教政党はそもそも中道でも一つにまとまりにくい、どうしても排他的になる。そもそも信者や会員優先でありそうでないものは重要ではない、会員には利益を与えるがその他は無視される。少しでも批判して逆らうと謗法だとか仏に逆らうから罰当たるとかなる。

だから一般人からすると近づきがたい。ただ議員でも落選すると罰あたったと逆に言われる。何でも宗教で判断するからである。ではなぜ創価でも共産党でも一定の支持者がいるのか、それは最下層の人達がいてその人達の頼る党がないからである。他の新党は庶民にはわかりにくいのである
結局宗教政党はカルトは詐欺集団である。得する御利益があるのは議員とか幹部であり
その他にはない、選挙でもただ働きをさせられるだけだとなる
かといって最下層の人達が一定数いて今は増えていると勢力が増すともなる

いづれにしろ多党化になるのはそれだけ社会が細分化されて複雑になったからである
極端になると一人一人が一党ともなる。日本保守党などがそうである。保守自体が多党化している、だから選ぶ方になると困惑する。個人への人気投票なのかともなる。
高市首相自体がそうである。私が首相としてふさわしいかを決める選挙と言い、国民い問う、それは人気投票だとなる。当選すればやはり私は人気があるとなり認められたとなり喜ぶ、多党化でも個人への人気投票になる。そこに民主主義でももはや成り立たなくなる。民主主義の問題は一人一人の言い分を聞いていたらきりがない、それに答えることはできない、そこに限界があり何かを判断して決めることもできなくなる
ワーワーと騒ぐだけで何も決められなくなる。必ず反対の人がいて批判がありそれをまとめることができなくなる。結果的に良い政策でも実行できずに国民が損するとなる
とにかく支離滅裂であれ自己を主張するのが民主主義である

この辺で原発事故があっても原発いいものだと堂々と主張する。それは原発事故で避難区域になった地域であり補償金が手厚いからいいものだったと主張する
そういう人が一人いても原発事故でもそんなものかと信じて原発が増設される
その発言には責任が伴う、でも責任を自覚しないでとにかく自己を主張する
戦後こうして民主主義的人間が育成された、それは知識人だけではない庶民でも本当に自己を主張する、支離滅裂でも主張する、そして俺とお前は同じだとなる
水平化される、そこで多数が正義であり多数に従えとなる。つまり多数がすべてを決めるのでありいかに多数に支持を得るかがも問題になる、だから逆に民主主義は独裁になりカルト宗教団体とかが力を持つようになる

そこもただ一票を得ることであり人を選ばないからである。
民主主義→ファッシズム→独裁となる。トランプ大統領のような独裁的人物が出るのも
民主主義だからである。何か明快でありすっきりする。一人一人がゴタゴタ言っていたら何も決められない、だから民主主義自体が問題なのである。
それで選挙しても無駄だとなり選挙に行かなくなると民主主義が崩壊する
そいう危機的状態にもなっている、投票率が低すぎるからである。









posted by 天華 at 14:27| Comment(0) | TrackBack(0) | 時事問題の深層

2026年01月29日

帝国主義の時代への回帰【アメリカ、ロシア、中国の帝国主義の時代】


帝国主義の時代への回帰【アメリカ、ロシア、中国の帝国主義の時代】

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アメリカの西半球中心主義はヨーロッパも入っている。でもヨーロッパからは距離を置くとトランプ大統領は言う
地政学的にはどうなるのか?

帝国主義(ていこくしゅぎ、英: imperialism Caesarismまたはインペリアリズムとは、一つの国家または民族が自国の利益・領土・勢力の拡大を目指して[4][1][5]、政治的・経済的・軍事的に他国や他民族を侵略・支配・抑圧し[1][5]、強大な国家をつくろうとする運動・思想・政策[4][5]。「帝」という字は「最高の神」、天下の「きみ」を意味し[インペリアリズムimperialism)は「帝国主義」、「帝政」「皇帝制」「広域支配主義」などと和訳される。

何か人間は古き良き時代を懐かしく思い回帰する。老人は特にそうなる。昔は良かったななつかしむ。それは今と比較するからである。70代の老女がしきりに昔は隣近所でもわずかなものでも貧乏でも分かち合い助け合っていたとかしきりに言う。今はただ金を求めるしかない、近くであれ米であれ何か足りないものくれとかありえない、すべては金であり極端になるとこうして金がない者はその人の責任であり貧乏人はなまけていたからそうなったのだと助けたり協力しない。その役割は役所が担うことになる。
だからそういう貧乏な人は生活保護になり福祉の世話になる。奇妙なのは私が困って相談すると福祉に相談しろという、その人は生活保護なのである
つまり福祉関係のサービスがありそれを知ることが第一である。隣近所であれ困っても相談しても無駄なのである。

昔に回帰するという時、大きな歴史でも昔に回帰する。何か今帝国主義の時代に回帰する。帝国主義とは世界史では常に古代から2000年前とかでもあった。ローマ帝国は有名である。その後も帝国主義はあった。ペルシャ帝国とか中東にもあり中国も中華帝国である。中国は広いから中国国内で強権国家の帝国主義になる。
今は中華帝国の再現を目指す、日本でも戦前は日本帝国主義があった。

帝国主義の特徴は領土を拡張することである。だからアメリカはカナダでもアメリカになれグリーランドはアメリカの領土にするとなる。ロシアでも帝国主義でありウクライナに侵攻する。七つの海を支配したイギリスも帝国主義だが領土を拡張するというより植民都市を世界に作った。だから貿易で儲けることができた。ただ中国に売る物がなくアヘンを売ったのである。そこでアヘン戦争になった。貿易となるとこれも戦争にもなる。

アメリカでもデールと称して自国の有利な商売をする。政治も商売となる。
そこでイギリスがアヘンを売りつけたように暴利を得る。その背後に強力な軍事力があるから逆らえない。帝国主義は経済でも支配する。何故ならドルが基軸通貨になっていることでアメリカは労せずして金が入ってくる。ドルと交換しないと石油が買えないからである。もともと通貨は支配の道具であった、なぜなら通貨には王の肖像画が彫られている、それは王が支配する象徴なのである。アメリカだったら大統領の肖像画がドル紙幣に描かれる。つまりアメリカの王が支配するということである
カンボジアとかネパールの紙幣など持ち帰っても何の価値もない、ただの紙屑だとなる
帝国主義は経済金融でも支配する、その富は世界でも帝国に今ならアメリカに集まり巨大な富を得る。グローバル経済でも富は帝国主義になれば覇権国に集積される

今はその帝国主義が復活してきたのである。アメリカ帝国主義、中国帝国主義、ロシア帝国主義・・・である。その帝国主義同士が覇権を争うのである。それらが衝突するとき第三次世界となり世界最終戦争ハルマゲドンとなり人類滅亡になる
だから帝国主義は危険である悪しき過去の再現なのである。
ただ帝国主義と民主主義は相いれないのである。アメリカが帝国主義化して民主主義を推進する指導国となっていることが矛盾になる。帝国主義はアメリカ独裁になる。アメリカでもトランプ大統領が独裁者になる。私が王であり法律だともなる。私に逆らうものは許さないとなる、ヨーロッパの絶対君主のようになる。つまり悪しき昔に逆戻りする。善き昔に逆戻りするならいいが悪しき昔に逆戻りする、それはナチスの再興にもなる。ただ歴史もカルマがあり

同じ構造が別の形で現れる(歴史の類型性)
まったく同じ出来事が起きるわけではない。
しかし、

帝国の興亡
経済の循環
社会の閉塞と改革

似たパターンが周期的に現れる。

同じ構造が別の形で現れる(歴史の類型性)ここに注意すべきである、同じことの繰り返しではなく別な形で現れるから誤解しやすいのである。同じ現象に見えても違っているからである。
いずれにしろ帝国主義が再現されることは良いことではない。悪しき過去の再現になるからである。



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2026年01月28日

人類の終末が何故言われるのか 【聖書は人類のために書かれたもの―一民族のためではない】


人類の終末が何故言われるのか
【聖書は人類のために書かれたもの―一民族のためではない】

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終末時計の時刻が今年さらに進んだ理由について「核兵器、気候変動、破壊的テクノロジーのリスクが全て増大している」と語った。

なぜ終末が言われるのか、それはグローバル化して常に世界のことが報道される
それで日本より外国に注目される、日々外国のニュースが入ってくる
そうなると不安が百倍にも増大する、江戸時代に生きていた人ならせいぜい狭い村のことくらいしか知らず生きていた、現代は否応なく世界のことを意識する
それは別に悪いことではない、その結果として今や人間は人類のことを意識する
それぞれの国家や民族ではなく人類を意識する

核兵器、気候変動、破壊的テクノロジーのリスクが全て増大している

気候変動で人類は地球に住めなくなるとか核戦争で滅びるとか意識する
終末がきて人類は滅亡するとなる。そういう感覚は百年前とか千年前とか意識できない
狭い世界で生きていれば意識できない、でも聖書になるとその人類を意識していたのである。たしかに神はへブル人を選んで導いた。でも一民族の神ではなく人類の運命を決める神であった。だからノワの箱舟は人だけではない、動物も滅亡から救うために乗せられた。人間の罪が動物まで影響したのである。人間の罪のために神は動物まで滅ぼそうとしたのである。そこに人間の罪深さがあった。

人類が滅亡するという時、神が人間を滅ぼすともなる。そこに明確な神の意志があり滅ぼす、その力が神にはある。ただ核兵器、気候変動なども人類が滅びる原因になる
ともかく人類と意識するのはグローバル化の結果である。それは別に知識人だけではない庶民でも意識する。江戸時代なら村民としての意識しかないし日本国民意識もなかった。終末観は人類を意識して起きる。

聖書は一民族のことではなく人類の聖書でありそれだけの大きな視野を持って書かれたのである。そして人類の未来を予言したのである。
人類は滅びるのではなく神により滅ぼされるのである。だから必ずしも気候変動とか自然環境の変化で滅びるとはならない、それは防ぐ方法がある、でも神が滅ぼすとしたら防ぐ方法がないのである。そう考える人はない、そもそも神などないと見ているからである。でも聖書は神の業が現実に現れて人間を導いた記録である
それは一民族ではない、人類を導く書である。

第一ノワの箱舟などありえるのか、荒唐無稽なものに思える。そんなことイメージすらできない、ただそれも人類を救う生き残させるために神が命令してノワに作らせたのである。その時すでに人類が意識されていた。一民族が生き残るのではない人類が生き残るためにノアが選ばれ箱舟を作ったのである。まずその頃多様な民族が存在していた。それらを人類と意識できなかった。そもそも人類と意識されたのはここ百年くらいである。それまでは個々の国家があり民族がありそれ以外のことは視野に入らない。

今終末が言われるときそれは一民族国家の終末ではない、人類の滅亡だとなる。一民族一国家が滅亡しても人類が生き残れば人間の歴史は継続される。アメリカが滅びても今でも移民が大量に流入してくるからアメリカから人間がいなくなることはない。それは日本でも同じである。少子高齢化で日本人がいなくなっても移民が入ってくれば日本から人間がいなくなることはない、ただ人類が滅びたらどこの国でも維持できない
ともかく人間の歴史は多様な民族抗争の歴史であった。でも今は人類を意識する
民族の存亡ではなく人類の存亡が問題になったのである
それで核兵器は一つの国家滅ぼすだけではない、人類を滅ぼすから問題となった。
人類の存亡のために核兵器を廃止しろとなる。

. “終わり”は実は“転換点”の比喩でもある
終末という言葉は、破滅だけでなく「大きな変化の前触れ」を示すこともある
価値観の転換、社会構造の再編、技術と人間の関係の再定義
つまり「終わり」ではなく「別の始まり」を語っている場合も多い

これも言える。何か社会が荒廃して行きずまった時終末だとか末世だとなる。それは今までも言われたのである。ただそれは一国家で言われた。人類の終末を言われるのはグローバル化したためである。国家民族意識から人類意識を持つようになったためである

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2026年01月27日

民主主義国家からなぜ独裁者が生まれるのか? 【民主主義の行き詰まりー理想になりすぎた】

民主主義国家からなぜ独裁者が生まれるのか?
【民主主義の行き詰まりー理想になりすぎた】


意見が多様であるほど、社会はしばしば分断し、対立が深まります。

経済格差
治安悪化
既存政治への不信
複雑化する社会問題

こうした不満が蓄積すると、人々は「強いリーダー」を求めやすくなります。


民主主義と独裁国家は正反対である。でも民主主義国家から独裁国家が生まれやすい
それは何故なのかとなる。アメリカは民主主義の国家であり模範である
でもトランプ大統領な独裁的な人が出た、人気がある
その理由はアメリカは移民が多く多様な人の集まりである、言葉でも英語だけではない
ヒスパニック系が多く言葉が通じない、肝心な言葉すら通じないからコミニケーションできない。でも民主主義国家では言葉が通じなくても一票を持っているからそれぞれの個々人でも話を不満でも聞かざるえない、それは大変な重荷ににもなる
日本であれ民主主義国家ではそうなる。一人一人の言い分を不満であれ訴えであれ聞かざるをえない、それをいちいち聞いていたらとても処理しきれない

別に学問無い人でも職業に関係なく民主主義国家では自分の主張を言うことはできる
それは悪いことではない、でもその人達の言い分をいちいち聞いていたらとても処理できない、聞く方で嫌になってしまうのである
その人は原発事故の避難区に住んで移り住んだ人だが原発について私が反対意見を言うとそんなこと言うな、みんな補償金をもらって喜んでいるといって食ってかかる
それだけではない、とにかく自分を主張する。だから戦後に育った人達はみんな民主主義国家で育ったからそうなった。戦前だったらそういうことはなかった。
言っていることは支離滅裂でも私にくってかかり自分を主張する
では何を言いたいのかとなると原発のことで補償金であれ批判するなということである
補償金をもらって何が悪い、当然だとなる
つまり人間利益になること金になることになると敏感であり譲れない、そのためにいろいろ言うことになる。それを批判すると烈火のごとく怒る

民主主義国家ではどんな人でも自分を主張する。仕事でもどんな仕事でも自分を主張して自分は価値ある存在だと主張する。その価値を認めるべきだとなる
でもいちいちそれを聞かされる方になると嫌になる。掃除する人であれ何であれ延々とその仕事のことを不満でものべつとなく言われると嫌になる。それが無駄とか価値無いというものでもなく一人一人の言い分を聞くことには限度がある
そして上に立つ人であれまたみんなも勝手に言いたいこと言っていたら終始がつかなくなる。そのためにかえって独裁者が現れやすい、一人一人の言い分を聞いていたらきりがないし何もできなくなる。必ず不満があり反対があり批判がある
すると結局何もできないとなる。だから民主主義国家では独裁者が出やすい
要するにとても一人一人の不満でも主張でも聞いてそれにかなえることは不可能である
誰かに良いことは誰かにとっては悪いことになる。誰かに得することは誰かの損にもなる、みんなが得するということはない、民主主義は自分は利益を得たい得したいとなる
でもみんなが一様に得するようにはなりにくいのである

いずれにしろ民主主義国家が独裁国家になりやすいのは民主主義自体にその原因がある
かといって共産主義がいいのかとなればそうではない、何か余りにも民主主義が理想のようになりすぎたのである。そのために混乱する、アメリカ自体がもはや国として統一されず分裂するとかなる。多様性が悪いものでないとしてもとても国家として統一できなくなっている。民主主義が余りにも理想のように常に語られけどそこに限界があり
その矛盾が噴出している、だから暴動が頻発して独裁が生まれる。
では何がいいのかとなるとわからないとなる。確かなことは余りにも民主主義が理想化されたことである、それは理想に向かう一形態制度に過ぎない、それを自覚すべきだとなる。


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2026年01月25日

南国の楽園の詩【ゴーギャンの絵より―文明は人間を不幸にした】


南国の楽園の詩【ゴーギャンの絵より―文明は人間を不幸にした】

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村の女が集う
その肢体はのびやかに
石のようにどっしりと腰を下ろす
あたたかいので着飾ることはない
その着るもの差別はない
ただ豊満な肉体が誇らしい
人々は集まりなごむ
そこに時計はなく時間に追われることはない
車もなく騒音もない
波の音が響き涼しい風が吹きそよぐ
海の幸がすぐ近くにあり
種々の果実は豊かに実り
どうぞ食べてくださいと
神の手からもたらされる
またココナツのミルクを飲む
日々の糧は労せずして与えられる
そこで金に時間に追われることはない
太陽は輝き昇り赤々と海に沈む
その自然のリズムに合わせる
大輪の花があどけなく咲き開き
大きな蝶が紋もも鮮やか舞い休む
村の女が和やかに集い憩いぬ
信頼に充ちてただ共に安らぐ
そこに上下関係はない
家族のような団欒がある
何故か大きな石の貨幣がある
それは使われない貨幣である
金に追われて暮らした人には
その貨幣の意味が価値がわからない
ただの飾り物に過ぎないから
そんな大きな重いものを持ち運ぶことはできない
ここには金持ちも貧乏人もいない
人々は相集い笑いなごみ寄り合う
そこには赤裸々な身体のみが映える
その身体はふくよかに大きく映える
そこに過酷な労働はない
なぜ長いトンネルを作る必要があるのか
山をくりぬきその過重な労働を強いるのか
人間は文明を作ったがそこに安らぎはない
人々はなごみ安らふことはない
日々時間に金に追われ機械に使われて疲弊する
その体は点のようになり存在感がない
背広を着て何か常に窮屈である
そこでは伸び伸びとできない
時計は一分ごとに刻まれ機械の時間に追われる
たえず金を数え数字に追われる
その心は休まることがない
自然の時間ではない機械の時間に追われる
南の国に楽園あり
そこに過酷な労働はない
労苦なく日々の糧は与えられる
神の手からじかに与えられる
文明人は労働を善として休むことを知らない
巨大な山にトンネルを作る
その労働で死ぬ人があっても成し遂げる
それが人間の文明の成果と誇る
でもその労苦の跡は消える
残された巨大建築の礎石の跡
その建築物も消えた
文明は膨大な労働の集積
でもそれを誇るにしても虚しく消えぬ


エデンの園は寒い所にはないだろう、寒ければ頑丈な家が必要であり寒さを防ぐ衣服も必要である。また食料を得るため労働が必要になる。南国のように果実を労苦なく得ることはできない、絶えず働かなければ得られないのである。
人間が作った文明が果たして人間を幸福にしたかどうかはわからない
ゴーギャンがパリとか文明の大都市から逃れてタヒチに来たのもそうである
文明批判という時画家でもそうだが宗教でも文明を否定する。仏教でも中国の老子の思想でもそうである。キリスト教でもそうである
老子は鍬を使うことすら否定した。それによって失うものがあると警告したのである

花は働かず、紡がず、それでもソロモン王の栄華より美しく装われている

人間は営々と働き文明を作り出した。でも野の一輪の花ほどの美もなく殺伐とした大都会を作りそこで人々は和み憩うこともない。みんな疲れている。巨大なビルとか山をくりぬくトンネルとか海底トンネルとか作る必要があるのか、それに費やす労働も資金も膨大でありそれほどの犠牲を払い必要なものなのかと今は思う

山が崩れそれを直すためにまた過重な労働が強いられる。確かなことはそれほどまでに働いても人間を幸福にはしない。むしろ過重な労働で苦しむだけだともなる
人間は自ら苦しみを作り出して不幸にする。文明は人間を幸福にしたとはならない、不幸にもした。だから今は何かを成すより成さないという選択も考える
それが宗教であり哲学でありそういう時代にもなった。文明によりみんなが幸福になったわけではない。むしろ不幸に感じる人が多くなったのである









2026年01月23日

情報戦争の時代−膨大な情報を処理できない判断できない


情報戦争の時代−膨大な情報を処理できない判断できない

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現代の特徴はインターネットが普及したことで世界でも情報化した。テレビでも情報化したがインターネットの情報化は世界が細部まで情報化した。個人が情報の発信者になった
そうなると膨大な情報が日々流れてくる。それを追いかけ知るだけで容易でなくなる
ベネゼエラがアメリカの急襲で大統領が瞬時に逮捕されアメリカに連行された
それも周到に準備されていたのである。まるで007のスパイ映画であった
中国のイギリスの大きな大使館建設でも光ファイバーが地下の部屋の側を通っているから情報を盗むとされている。

イギリスのシテイ(シティ・オブ・ロンドン)は、ロンドンの中心部に位置する重要な地域で、商業活動や金融取引において重要な役割を果たしています。シティは、ロンドン証券取引所やイングランド銀行、ロイズ本社などの金融機関が集まる世界有数の金融センターであり、英国の国内総生産の約2.5%を占めています

中国がここに目を付けたのはそのためだとなる。証券とか金融も今は情報である
株でも情報であり情報で左右される。一早く情報を得れば巨額の利益を得るのである
最も情報に左右される場である。なぜなら悪い樹報が流れれば株が下がる、その情報によって大損する人大儲けする人が出てくる。
株は今や情報でありその裏付けとなる現物でも金銀でもない、情報なのである
だから空箱に石コロしか入ってなくても金銀が入ってるという情報を流せばみんな投資してその空箱でも株が上がる、なぜならその情報でみんな投資する株を買うからあがる
実体のない者でも情報に左右さてそうなる。それが情報社会なのである。

そしてあらゆる分野で専門家がいてその情報を流す、それを信じるのが現代社会である。
それは例えば医療の分野でも情報が大事である。癌についてはまだ解明されていないから様々な情報が入り乱れ惑わされる。不思議なのはれっきとした癌専門の医者でもガンには生きがいを持ち目的を持ち生きろとか精神論を言う人が結構いる。それは文系にもなる。
ただ最近では分子治療方とか最新の科学技術の治療法が出てきている。
それでも精神論を言う医者が普通にいる。正に病気は気からでありその気が滅入ると早く死ぬという。しかしそんなこと誰でも言える。癌でも他の病気でもやはり膨大な情報が専門家でも素人からでも流れる。それで迷いかえって病気を悪くする人もいる
自分もそうだった。何を信じていいかわから無くなるからである

情報を選別することがむずかしいのである。そこに専門用語が出てくると理解できなくなる。それは現代社会でどこでも起きていることである
それだけ複雑になっているからである。また世界の情報となれば簡単に理解できない
ベネゼエラとは何なのだとなれば一応地理的にはわかる。でもどうしてベネゼエラという国が形成されたのかとなるとわかりにくいなじみがないからである。日頃関心をもってい見ているわけではないからである。

情報を選別して自分なりに判断できない!
膨大な情報にふりまわされているだけ

こうなりやすい、いづれにしろ世界に起きることを理解することは簡単にできない
空間軸と時間軸で知ることがむずかしい、特に時間軸で歴史を知ることがむずかしい。
そこで必ず誤解するのである。それは別になじみがないベネゼエラとかでなくても隣の中国でもむずかしい。韓国でもむずかしいのである。今だけを見ても理解できないからである。アメリカがグリーンランドを自国の領土とするというときグリーンランドとは何かとなる。そこはロシアに近くまた中国も進出するからアメリカは防衛上必要だとなる。アメリカファーストになり自国防衛が今や先決だとなり西半球中心主義になる
モンロー主義からドンロー主義になる。そこで世界も変わる

ともかく膨大な情報が日々流れるが今や消化できないのである。それはあらゆる分野で起きている。そこで判断が誤る。別に専門家でも一部を知るだけだからその判断が正しいとはならない、つまり専門家も膨大な情報を処理できない、それでAIに頼るとなる
人間では処理できなくなっているからである。
怖いのは情報パニックになりかえって単純化した扇動に乗せられる、フェクニュースでも信じる、そして単純化したものナチスのヒットラーでありカルト宗教になる。そこでは難しいことは言わない、題目を唱えればいいとなるから庶民でも理解する。それはハイルヒットラーにもなる危険がある。余りにも複雑化した文明のアンチテーゼとしてファッシズムが生まれた
つまり現代の情報社会はもはや処理できない情報洪水に飲み込まれているのである




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2026年01月22日

神を愛するとは何なのか 【親子の愛でも何故もめるのかー無償の愛が無いから】

神を愛するとは何なのか
【親子の愛でも何故もめるのかー無償の愛が無いから】

聞きなさい。イスラエル。主は私たちの神。主はただ一人である。心を尽くし、精神を尽くし、力を尽くしてあなたの神、主を愛しなさい。」(申命記6:4−5)これがヘブル語の聞け"という最初のことばからとったシェマーとして知られていることばです。 現代のユダヤ人は、朝夕の祈りの中で、シェマ―を唱えることを最も聖なる義務の一つだと考えます 

主を求めなさい
主を恐れなさい
主に仕えなさい
主の命令と定めを守りなさい
掟を守り行いなさい

聖書メッセージ(Tヨハネ4:7〜12)『神は愛なり』
聖書箇所 Tヨハネ4:7〜12

4:7 愛する者たち。私たちは、互いに愛し合いましょう。愛は神から出ているのです。愛のある者はみな神から生まれ、神を知っています。

4:8 愛のない者に、神はわかりません。なぜなら神は愛だからです。

4:9 神はそのひとり子を世に遣わし、その方によって私たちに、いのちを得させてくださいました。ここに、神の愛が私たちに示されたのです。

4:10 私たちが神を愛したのではなく、神が私たちを愛し、私たちの罪のために、なだめの供え物としての御子を遣わされました。ここに愛があるのです。

神を愛しなさいと言うけど神をどうして愛せるのか、目に見えないものを愛せるのか
神が愛であるという時神は常に人を愛する者であり与えてくれるものである
それが神を愛しなさいというとき神が愛されることを望む。神は自ら満ち足りたものであり愛されることを望むのかとなる。
人間は常に人であれ愛されることを望む、それで神は誰であれ愛してくれる与えてくれるものと見る。だから神を愛しなさいとは何なの理解できない
そもそも愛という時愛される愛であり自ら他者をすべてのものを愛せよとなると実行できない、だから教会であれ宗教団体であれそこに入るのはみんなが神が愛してくれる与えてくれる何かもらえると思って入る、それが他者愛しなさい与えなさいと指導されると期待外れだとなる

そもそもそうした高等な愛でなくても愛にはいろいろある。親子の愛と男女の愛とかいろいろある。では神の愛という時何なのか?それは親子の愛とか家族愛とかからしかイメージできない、だからキリスト教では父の愛となる。それは親子の愛なのである
でも親子の愛は血縁の愛である。父の愛はそうした血縁とは関係ない、愛という時血縁でも親子の愛がない場合がある。それで親子間で確執がありもめる
親の愛にもエゴがあり条件があり見返りを要求する。

要するに無償の愛がこの世ではない、愛にしても必ず見返りが要求される。親子でもそうである。それで嫌になり親子でも争う。神の愛となれば無償の愛である。愛する人であれ何も要求しない、それでも神は愛されることを望み要求する。神も愛されることのである。それは何か物を与えるとかではない、神を愛することは神に仕えることであり神の掟を守ることである。だから肉親などの愛とは違う。そこに厳格な父が存在してその戒めに従うとなるから母親の愛とも違うとなる、そこが誤解しやすい、何でも許され与えられ愛されるのとは違う。

でもみんな神とはそんな厳格なものとは見ない、とにかく無条件で愛され与えられるものとみる。それで宗教団体に入るのはとにかく何かを与えてくれる愛してくれる助けてくれると見て入る。だから愛しなさい、与えなさい、許しなさい・・・とかなると実行できない、愛してください与えてくださいと思って入ってくるからである。実際はカルト教団になると一人でも会員を増やして勢力を増大させてこの世で力を持つことだから受け入れる。でも何でも与えられれ助けてくれるとはならないとなり失望する。それも余りにも勝手なものだとなる。
その神の厳しい掟を守れとなれば嫌だとなる。何か騙されたともなりやめるともなる
それも余りにも勝手な一方的な要求だとなる。自分の都合のいいように解釈してそうなる。神は相当に厳格であり女性のように甘いものではない、

とにかく愛という時、愛してくれる与えてくれることであり神でも愛することであるということは理解できない、神を愛することがどういうことか理解できない

 私たちが神を愛したのではなく、神が私たちを愛し、私たちの罪のために、なだめの供え物としての御子を遣わされました。ここに愛があるのです。

まず人間が神を愛するということはありえない、第一見えないし実在するのかどうかもわからないからである。だから人間は常に神ならざるものを愛して拝むのである
それで妬む神として神がその実在を示したのである。

弟子フィリポが「父(神)を見せてください」と願った時、イエスはこう答えました。
「私を見た者は父を見たのです」
これは、
「神を知りたいなら、私の生き方・言葉・行動を見なさい

紙は見ることはできない、でもキリストを見た者は神を見たとなる。神とは何なのかキリストの言動を見て知ることができたのである。抽象的ではなく目前に現存する者として認識できたのである。

神が愛であるという時、親子の愛とかからイメージする。でも親子の愛でも無償の愛はない、常に何かを要求する愛である。別に親子でなくても血縁でなくても愛はありうる
その方が本当の愛となることもある。なぜなら一緒に子供の時から生活しなければ血縁でも親と認識されない。そこで愛は育まれない、それで動物は親が違っていても乳をのませれば親と認識するが実の親でも認識できない、犬でも犬に育てられた猫は犬が親だとなる。そこに親の愛を感じて育つからである。

ともかく神の愛とは何なのかそれは親子の愛とかからしかイメージできない。親子の愛でも母親の愛と父親の愛は違っている。父の愛は厳格な愛になる、でも母親の愛をみんな求めてている。厳格な父親の愛は嫌なのである。
だから神を愛しなさいというとき父の愛は受け入れにくいのである

愛が最も大事なことはわかる。何故なら愛は体にも影響する。病気になったりすれば看病するにも愛が必要になる。でも医者でも看護師でも家族代わりになれない。家族のような愛を持てないからである。そこが致命的になる。
また独身者が早死にするのは愛する人がいないからだとなる。つまり愛は体に影響する。心と体は一体だからである。それは自分自身がそうだからわかる
いくら病院で治療するにしても高度な機械で診てもらうにしても優秀な医者に診てもらってもそこに愛が無ければやはり影響する。でもその愛は家族なら持てるが医者でも看護師でも持てない、そこに限界がある。癌でも周りに愛する人がいれば癌でも消えたり長く生きるというのはわかる。それだけ愛は影響する。でも何かそれほど重要視されない、常に医者に機械に薬に頼る。機械でもAIでも愛が持てないのが限界である
神が愛であるというとき愛が持てなければ神にはなれないからである。
だからいくら文明が高度に発達してもそこに愛が欠けているから殺伐としている
愛無き荒野と化している。

いづれにしろいくら愛を説いてもそれを実践することはむずかしい。それは親子の愛すら無償の愛でないことでもわかる。子供に何かを要求する愛だからである。そこで親子でも確執が生まれうまくいかないとなる。




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2026年01月19日

公明と立憲が合同した中道改革とは何なのか―名前だけ変えたものに過ぎない 【小選挙区制は政権交代するためのものだった】

公明と立憲が合同した中道改革とは何なのか―名前だけ変えたものに過ぎない
【小選挙区制は政権交代するためのものだった】

中道とは仏教用語だからわかりにくい、何か現代社会で仏教はなじまない、葬式仏教になり言葉が残っていてもそれが現実社会で意味あるものとして働かない。
そもそも創価が仏教の信者とも言えない、政治団体である。なぜなら会合があればそれは選挙のためであり一票獲得するためなのである。完全に政教一致なのである
一票入れることが信仰の証だとなる。だから立憲と組んでも中道となりなじみがない
右でも左でもないということで両方の支持を得る方便だとなる
そもそも創価でも公明党でも方便なのである。

仏教における方便は、衆生(生きとし生けるもの)を救済するために仏が用いる巧みな手段を指し、難解な教えを分かりやすく伝えるための比喩やたとえ話も方便の一種とされています

方便はサンスクリット語の「ウパーヤ」に由来し、元々は仏教用語として用いられていました。法華経をはじめとする大乗仏教では、難しい教えを人々に理解してもらうために、たとえ話や比喩を用いる方法として発展しました。現代では「嘘も方便」のように、目的達成のための一時的な手段という意味で使われることが多いですが、本来は仏様が人々を救うための智慧に満ちた方法を指す尊い言葉です。法華経では創作劇のような物語形式で教えが説かれており、それ自体が読者に気づきを与える方便として機能しています。

創価の目的は権力奪取である。異常なほど現世利益を福運を説く、でもいくら拝んでも得られない、それで政治で権力を持ち現世利益を与える。そのために選挙が仏法の戦いになる。選挙でも仏が味方するから勝つとなる。選挙が最大の信仰を試すイベントなのである。正に創価はそのための組織であり方便だとなる
つまり目的は権力奪取でありそのための方便なのである
立憲と合同したのもそのための方便なのである。だから政策でも矛盾していてもかまわないのである。あくまでも方便だからである。

ともかく仏教を現代の社会に適応させることむずかしい。それで言葉だけであり中味がないのである。仏教民主主義とか言っていたのもそうである。言葉だけであり中味はない、中道改革でもそうである。言葉だけなのである。
創価の場合はすべて権力奪取を目的にしている。そのための方便としてあらゆるものを利用する。立憲も利用されるとなる。ただわからないのは自民党から離脱したことである。国土交通省の大臣の権力は大きいものなのにそれも捨てた。権力に執着するにしては損だとなるから理解しにくい、ともかく三国志を経典のように読んでいる。それは権謀術数を教える本である。いかにして権力を得て権力を操作するかが最大の目的としている、そのための経典なのである。だからそのためには何でもする。あらゆるものを利用する。それは方便なのである。票に結び付くならなんでもいいのである。
政策でも相入れないものがある。自民党でもそうだった。でも権力奪取が目的であり矛盾していてもかまわなかった。つまり方便であり何でも利用するとなる。それはマキャバリズムである

マキャバリズム(マキャヴェリズム)とは、目的達成のために道徳よりも現実的・合理的判断を優先する政治思想で、イタリアの思想家ニッコロ・マキャヴェッリの『君主論』に由来する概念です。

一般には「目的のためには手段を選ばない」と理解されます
仏教自体権力奪取の方便として利用する。何か美辞麗句を並べてもその目的は権力奪取なのである。だから中道もそうである。そこに中味はない、方便なのである

こうなるのも小選挙区制にしたのはアメリカのように二大政党制にするためだった。
アメリカでは民主党と共和党が大統領でも4年ごとに交代する
その時大幅に変わる。政権交代して変わる。だから二大政党制になった

権力は腐敗の傾向がある。絶対的権力は絶対的に腐敗する アクトン

権力を持つと既得権者となりそれで賄賂を受け取ったり民間から様々な利便を得る
だから政権交代が必要であり二大政党がいいとなった。日本でもそれに習い小選挙区制になった。でも多党化してどこに入れていいのかわからなくなった。二大政党ではないからである。立憲と公明の中道改革が二大政党制を目指すことはそういう理屈があることは理解できる。ではただ政権を取るということの方便だとなると問題である
そもそも政党でも新しい政党はわかりにくい、名前だけを変えても中味がない
いずれにしろ選挙民からするとどこに投票していいのか迷ってしまう。

中道改革とは何なのかを今理解できない、ただ二大政党制を目指すことは理解できる
かといって中道改革を支持するかとなるとできない。その中味がわからない、選挙に勝つための方便の新政党だとなる。だからいづれまた分裂する。多党化がまねがれない
そもそも政教一致の政党が政治を歪めたのである、宗教と政治の役割は違う、それを同一化したから歪めたのである。






posted by 天華 at 17:16| Comment(0) | TrackBack(0) | 時事問題の深層

2026年01月17日

南相馬市が原発事故でなぜ分断されたのか 【合併してかえって元の町、市が意識されるようになった】

南相馬市が原発事故でなぜ分断されたのか
【合併してかえって元の町、市が意識されるようになった】

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飯館村合併の歴史

この村は、何度も複雑な合併を繰り返し、現在の名前に落ち着いている。

まず、町村制施行の1889年(明治22年)に飯樋村と比曽村、大倉村と佐須村が合併し、合成地名でそれぞれ飯曽村、大須村となった。

つづけて、1942年(昭和17年)に飯曽村が石橋村(この地名も合成地名である)を編入し、同年、大須村と新舘村が対等合併し、合成地名で大舘村となった。

最後に下記の年表にあるように、飯舘村という合成地名に落ち着いた。かろうじて、飯樋村と新舘村の一文字だけが、現村名として存続している。


そもそも歴史をたどると日本は村が単位であり藩がありその中で生活していた
村にしても小規模であり村同士でもあまり交わらないのが普通だった。
それで明治以降合併があったが例えば大倉村と佐須村が
合併するとき民情が違うと合併しなかった。その距離は5,6キロくらいしかないのにである。これは頻繁に車で行き来している今の時代とはあまりにも違っているからそうなる。5,6キロでも歩けば遠いのである。
それでも民情が違うと合併しなかった

民情(みんじょう)とは、国民の心情や実情を指します。 具体的には、国民の気持ちや生活状態を表す言葉であり、時代や社会の変化に応じて変わることがあります


今ならこんなことはありえない、それだけ近くの隣の村でも人々は交わることなく暮らしていた。言葉でも微妙に違ったりする。それが日本だったのである
そもそも日本だけでなく人間は集団化して住む。するとその集団で争いが起きる
ささいなことでも起きる。その最たるものが土地の争いである
入会権の争いが戦国時代の原因だったというとき、人間は土地をめぐる争いが基本にある。それは世界的にもそうである。領土をめぐる争いが国と国の大規模な争いに発展する。入会権ではそこに大名が介入して戦国時代になったというのもわかる
また資源をめぐる争いがある。丸森の森林、木材資源をめぐり伊達藩、米沢藩、相馬藩が三つ巴の争いとなった。それは木材は炭にもなるし資源として重要だったからである。それは今の石油と同じだったのである。

ともかく南相馬市でも小高町、原町市、鹿島町が合併した時同じようなことが起きた
それは原発事故で起きた。かえって南相馬市と合併しても前の市町村が強く意識されたのである。それは原発事故の補償金の分配で争うともなった。
なぜなら小高区、原町市、鹿島区で補償金の額が違ったからである。
でも原発は合併される前に作られていてその時南相馬市は関与しなかったのである
だから小高に東北電力で原発が作られるとなってもそれは小高町の問題であり原町市や鹿島町は関与しない、それよりそうした重大なことでも知らない人が多かった
自分たちとは関係ないと見ていたのである。これも怖いことだった

そもそも原発は一市町村とか狭い範囲で決められるものではなかった。そして危機感をもたなかった。
一市町村で決められるものではなかった。でも原発のことを理解できないから政府や東電のおもいのままにされたのである。そして地元でもかねになればいいとしかなかった。だから東北電力の原発が小高に建設されるところだった、工事も始まっていたのである。するとそれは小高だけの問題ではない、南相馬市や相馬市や広く福島県の重大な問題として検討すべきものだった。それが全くなかったのは原発が何なのか理解できなかったからである。それで小高では景気が良くなると建築土木関係の人が言っていた。
これだけの事故が起きてもそれが金いなるとなればいいとなる

いづれにしろ南相馬市が合併して返ってその前の市町村が意識されるようになった。
それは原発事故の補償金が小高―原町市ー鹿島で違っていたからである
小高は避難区域になったから一番高い、次に原町区も高い、鹿島区は30キロ外であり少なかった。つまり合併前の市町村がかえって意識される結果になった
そもそも原発は一市町村で決められないものだった。今回の事故でそれが判明した
30キロ内は住めなくなるから一市町村だけで決められない。でも原発を作る方にすれば一市町村を相手にした方がいいのである。その方が補償金でも少なくてすむからである。それは原発のことをみんな理解できないということでそう仕向けられたとなる
別に一市町村と交渉すればいいとなれば楽である。ここに原発の問題があった。

そもそもなぜ東電では福島県に原発を作ったのか、それは東京に作れないからである
場所としては東京湾があり立地的には良かったのである。管理するのにも良かった
本社から遠くなれば安全管理もしにくいからである。それで福島原発事故の時連絡がうまくいかず指示もできなかった。そのために吉田所長が悪戦苦闘したのである
責任回避のために福島に原発を作ったことが返って裏目に出たのである
原発はこのように常に危険でありそれを隠蔽して責任を回避するように働く。そして権力で安全神話を作り事故は起きないとするから避難訓練もしなかった。

ともかく事故から14年もすると冷静に振り返る。何か混乱して何であったのかわからなかった。原発がいかなるものか今になれば国民でも理解する
それでも野党でも原発を増設しろとなっていることが理解できない。それは事故当時者のことがあまり語られない、その当事者も国民に訴えないことも原因している
補償金もらって喜んでいるとかその被害でも大したことがなかったと見られる

むしろ東京の人が福島県民のために苦しみ福島県民が悪いという人もいる
国民でもなんでそんなに補償金を税金から払うのだと怒る人達もいる
国民には責任などないと思うからそうなる。国民が推進したのにそういうのも勝手だとなる。だからこそ野党でも原発増設になる。原発事故はたいしたことではないとなるからである。その責任は原発事故の当事者にも原因がある。補償金をもらうことに血眼になり補償金もらって喜んでいるとかなればそうなる。もし原発事故で人がばたばた死ぬようなことになったら原発増設など国民が認めないだろう。

確かなことは事故から14年も過ぎれば冷静に振り返りそのことの良し悪しを判断する、そのためには当事者のことを知るべきだとなる、そのために地元から発信することに意味がる。やはりその当事者でないと実感できないことがある。でも当事者でも地元でも一様ではない、南相馬市でも一様ではない、だから空間軸だけで鼻時間軸で歴史を振り返ることが不可欠なのである。



posted by 天華 at 11:03| Comment(0) | TrackBack(0) | 福島原発事故関連

2026年01月15日

人間の歴史は個々人でも国家でも失敗の記録 【失敗は歴史の教訓となる】


人間の歴史は個々人でも国家でも失敗の記録
【失敗は歴史の教訓となる】

ジャーナリズム」の定義と目的

ジャーナリズムを一言で説明すると「社会で起こる出来事を取材し、事実を伝える活動や、その成果物」を指します。

私たちがテレビや新聞、雑誌、インターネット上の記事などで日々接している情報源は、ほとんどがジャーナリズムの産物といえます!

その役割は、単にニュースを伝えるだけでなく、社会の不正を暴いたり、市民の疑問や問題意識を掘り下げたりすることにより、民主主義を支える大切な柱になることです。

ジャーナリズムの根本には「真実を追究する」という強い使命があり、正確かつ公正な情報を提供することで、社会に貢献しようとする姿勢があります。

人間の一生も失敗の記録になるが大きく国家であれ世界史であれ失敗の記録である
失敗が後の教訓となる、諺がことわざがなぜ今でも活きているのか、時代がこれほど変わっても活きている。それは人間は同じように失敗を繰り返しているからである
人間は本質的には変わらないからである。それでみんな老人になり失敗を語り後悔する
だから人間が歴史から学ぶという時失敗から学ぶとなる、なぜ失敗したのかを知ることが歴史を学ぶことになる。意外と人間は成功したことから学ばないのである

原発事故でも大きな失敗であった。ではなぜ失敗したのか?それを追求することが後世のためになる。でもその真実が記録に残されず語られないと後世の人が誤解する甚大な事故でも10年20年と過ぎるとあいまいとなり真実がわからなくなる
そして戦争で300百万人死んでもそれが美化される。西欧列強のアジアの植民地化に対抗するための植民地から解放するための戦争だったとかなる。
でもそんな思いで戦い死んだのかとなるとそうではなかった。それは後から美化されたのである。

原発事故でも同じである。もし50年とか百年過ぎたらその事故の真相もわからなくなる。その時事故にかかわった人達がどんな思いでいたのかもわからなくなる
だから事故で補償金をもらってかえって喜んでいた人がいたとなればそれは何なのだとなる、理解できなくなる。第一そんなこと公にされない、マスコミでも常に被害者として見てその被害を語る。事故で喜んでいたとか書かない、でも地元に住んでいればそれは作り話でもない、現実なのである。でもそれが50年でも過ぎればその真実は不明になる。事故の被害者の惨状のみが語られる、記録される。被害がいかにひどかったか、被害者としてのみ語られる。だから事故でも補償金もらって喜んでいたとかありえないとなる。要するにこうして過去のことは不明になりその解釈も誤ったものになる
また事実を真相が語られ記録されないことがある
何か語るのにも記録するのにも権力がないとできない、マスコミだけの語る物を鵜呑みにしていたら誤った解釈になる。でも新聞でも記録としては後世に残る

私がなぜ原発避難区域の被害者の真実をあえて不評なのに語るのか?それは真実だからである。ただ補償金でも原町区のようにもらっていたら書かないし批判しない
批判できない、あなたも十分に補償金をもらったではないかとなるからである
逆に確かに補償金が少なかったから敢えて原発避難区域の人達であれ責められても書いているとなる。すると後世の人が読んだらそういう事情があったのかとなり理解が深まる。でもマスコミや官報だけの情報を見ていたらそうはならない、第一そのことは語られないし記録されないのである。すると後世の人達に誤った情報を伝え誤解させる
すると歴史でも誤った解釈をする、300百人戦争でも死んでも美化される
戦争でもいいものだったとされる。そして戦争に加担した人達の責任は問われなくなる

いづれにしろ原発事故の失敗は教訓を残した。その真実を知り後世に伝えるべきだとなる。それが私の使命であり書いているとなる。

避難区域の拡大(30kmゾーン)
4月27日:プリピャチ市(約5万人)を避難。
その後、30km圏内の村々から約11万5千人が1986年中に避難。
1989年以降、汚染が高い地域が再評価され、最終的に約35万人が移住を余儀なくされた

ここはチェルノブリの事故から学んでいた。30キロ圏内が避難したからである
ただ十分には学んでいなかった、なぜなら事故になったらどうなるのかを想定しなかった、それで事故が起きないという安全神話が成立したのである
だから事故は起きないのだから避難訓練もしなかった。それで一番放射性物質に汚染された山の方の津島に避難したのである。今でも津島は森だと30マイクロシーベルトとかか信じられない馬鹿高く森には入れないのである
その時東電の社員がいて海の方に避難すべきだとそれに従った人は汚染されなかった
そうなったのは余りにも安全神話が強固なものとして信じていたことにある
それは戦争なら日本は神の国だから絶対に勝つというのと同じだった
つまり科学者でも神がかりになっていたのである

ともかく今になると原発中止ではなく増設しろというときその安全対策が問題になる。
それがルーズであり危機感がなくまた甚大な事故が起きるかもしれない。
それは歴史の失敗の教訓からの失敗から学ばないからだとなる。
戦争でもそうである。過去の戦争の失敗から学ばなければ同じ失敗を繰りかえす
カルマの意味は繰り返すだからである。人間の失敗はカルマであり繰り返すということである。それは個々人でもそうであり国家でもそうでありだから歴史を学ばねばならないのである。また真実を後世に伝えねばならないのである。

●歴史の証人になる意義


1. 出来事を“生きた”人
戦争、災害、革命、社会変動などを実際に体験し、
その体験を語ることができる人々。

2. 記録の外側を伝える存在

公文書や新聞には残らない、
・恐怖
・喜び
・葛藤
・日常の細部
といった「生の感情」や「肌で感じた現実」を伝える。
3. 歴史の継承者
証言は、後世が同じ過ちを繰り返さないための重要な手がかりになる。
特に戦争や災害では、証言が社会の記憶を支える。

4. 時代そのものを体現する存在
その人の人生が、時代の構造や価値観を映し出す。
個人の物語が、社会の大きな流れとつながる。


公文書や新聞には残らない、
・恐怖
・喜び
・葛藤
・日常の細部
といった「生の感情」や「肌で感じた現実」を伝える。

これはマスコミや官報では伝えられないし残らない、すると誤って歴史を見るから真実が隠されて美化されたりすると危険である。戦争は意義がありいいものだったとみることもありそれがまた戦争になる危険を孕んでいる。死者は美化されやすいのである。

恐怖、喜び、葛藤、日常の細部ーこれが語られること読むことが大事になる、でもこれを読み込むことは難しい、古文書でも読むのが困難でありそれは学者がすることになる。
原発事故の恐怖は放射性物質汚染の恐怖であり、また葛藤は原発は金になるということで反対できないという葛藤である、また喜びは手厚い補償金を避難区域ではもらったことである。そのことは公にできないものである。被害を強く訴えれば訴えるほど補償金でも高くなり国民の同情も得られるからである。被害者が原発事故でも補償金もらって喜んでいるとなると支援されなくなるからである。常に被害者として訴えていた方が支援されるし補償金でももらえるとなる。
こういうことは地元でないと実感できない、人間は実感することが本当に知ることである。だから事件があればその現場に行って実感して報道する
外国でも実感することが知ることである。百聞は一見にしかずとなる。




posted by 天華 at 13:24| Comment(0) | TrackBack(0) | 福島原発事故関連

2026年01月13日

南相馬市市長選挙ー原発になぜ反対できないのか 【野党でも原発増設の危険】

南相馬市市長選挙ー原発になぜ反対できないのか
【野党でも原発増設の危険】

桜井氏は見向きもせず「脱原発をめざす首長会議」世話人として各地の現・元首長たちと脱原発に向けた活動をするなど、一貫して地方政治の立場から国に物申してきた。

桜井前市長が原発反対を訴えても選挙で票にならず負けた。その理由は何だったのか?
それは地元ですら原発に賛成だからである。原発の被害があっても返って補償金をもらったから得したとなっている
特に30キロ内はそうである。原発の補償は30キロないだからである。それで鹿島区は除外されたが南相馬市ということで補償金はもらった。でも隣の原町区の三分の一だった、小高区になると家族が多いと追加補償が一千万になった人も普通にいる。その差が大きかった。それで小高の人で原町区に移り住んだ人は原発も反対しない、むしろいいものだったとしている
浪江の街中で原発で働いていた人もみんな補償金もらって喜んでいると言っていた
私は小高の人でも常に原発の被害を言うのでそうなのかなと同情していた。それよりちょっとでも批判するとお前はなんなのだ・情もない人間なのかと猛烈に批判されるから怖くなり今はしない、身の危険を感じたからである

何か被害者特権化した。俺たちは被害者と常に訴える、でも一方で補償金もらって喜んでいるというのも矛盾である
発達障害者の子供を持つ兄弟でその弟は障害者の兄はつねにいい子にされる。弟は福祉関係者から弟が悪いと常に責められると私に訴える、よく理解できなかったがこれとも似ていると感じた。
原発事故の避難区域になった人達を責めることはできない、そうすると地元だけではない、マスコミでも批判しないから何で批判するのだとなり何も言えなくなる。
なにか腫物にさわるようになり厄介である、だから私は関わらない、怖いからである
こうことでそもそも原発は反対できるものではなかったのである
これだけに事故後でも変わらなかった。むしろ補償金が手厚かったから原発はいいものだったとなっている
地元でも原発に反対しないとなればもはや誰も反対できない、だから立憲であれ最近勢力を増大させた参政党でも原発再開だけではない増設しろとなっている。国民民主でもそうである。何かこれだけに事故だからこんなことありえない見るがいかに金の力が大きいかか、金になれば危険でも不都合でも目をつぶるとなる。

ただ民主主義は誰でも自由に発言できる、別に原発はいいものである、もっと推進すべきだと言うこともできる
だから小高の人はあからさまに言う。それをとめることはできない。でも小高の人がそうなのかとなり意外だったとなる
何故なら常に原発の被害を訴えていたからである。それでかわいそうな人達となり援助しなければならないとなっていた
ちょっとでも批判するとお前は情もない人間なのかとなり責められる。そうして被害者として常に訴える。でも南相馬市でも全部が原発に賛成ではない,小高区と原町区は賛成である。ということは大半が賛成だとなる、補償金が多くもらったからである。
人間は金で動く、金をもらえれば許すとなる。また民主主義は数で決まる。多数決で決まるから南相馬市なら原町区が一番人口が多いのだから原町区で票をとれば当選できる。だから原町区と小高区は原発に賛成であり批判しない、でも多数決の判断の問題は責任を誰がとるのかとなる。原発に賛成とするのもいい、でも事故になったら誰が責任をとるのか?
実際は多数決だと誰も責任はとらない、それが問題なのである。

実際原発事故の責任は国民にもあり国民が推進したのである。それがわかったのが国民民主でも立憲であれ野党が原発推進である。もっと原発を増やせと訴えている。電事連とか電機連合組合は強力である。その団体の意向に逆らうことはできない
つまり国民が原発推進なのである。としたら国民全員に責任があるとなる
だから原発事故の被害者に補償金を税金から払うことに不満を言えない、責任を共有するとなるからである
でも国民となると責任を感じなくなる、それは責任がないと同じにもなる、戦争でも国民に責任があったとしても国民の責任は問いない、結局誰も責任はないとなっている

桜井前市長が原発反対を訴えても選挙で票にならず負けた。その理由は何だったのか?
それは地元ですら原発に賛成だからである。原発の被害があっても返って補償金をもらったから得したとなっている
特に30キロ内はそうである。原発の補償は30キロないだからである。それで鹿島区は除外されたが南相馬市ということで補償金はもらった。でも隣の原町区の三分の一だった、小高区になると家族が多いと追加補償が一千万になった人も普通にいる。その差が大きかった。それで小高の人で原町区に移り住んだ人は原発も反対しない、むしろいいものだったとしている
浪江の街中で原発で働いていた人もみんな補償金もらって喜んでいると言っていた
私は小高の人でも常に原発の被害を言うのでそうなのかなと同情していた。それよりちょっとでも批判するとお前はなんなのだ・情もない人間なのかと猛烈に批判されるから怖くなり今はしない、身の危険を感じたからである

何か被害者特権化した。俺たちは被害者と常に訴える、でも一方で補償金もらって喜んでいるというのも矛盾である
発達障害者の子供を持つ兄弟でその弟は障害者の兄は常ににいい子にされる。弟は福祉関係者から弟が悪いと常に責められると私に訴える、よく理解できなかったがこれとも似ていると感じた。
原発事故の避難区域になった人達を責めることはできない、そうすると地元だけではない、マスコミでも批判しないから何で批判するのだとなり何も言えなくなる。
なにか腫物にさわるようになり厄介である、だから私は関わらない、怖いからである
こうことでそもそも原発は反対できるものではなかったのである
これだけに事故後でも変わらなかった。むしろ補償金が手厚かったから原発はいいものだったとなっている
地元でも原発に反対しないとなればもはや誰も反対できない、だから立憲であれ最近勢力を増大させた参政党でも原発再開だけではない増設しろとなっている。国民民主でもそうである。何かこれだけに事故だからこんなことありえない見るがいかに金の力が大きいかか、金になれば危険でも不都合でも目をつぶるとなる。

ただ民主主義は誰でも自由に発言できる、別に原発はいいものである、もっと推進すべきだと言うこともできる
だから小高の人はあからさまに言う。それをとめることはできない。でも小高の人がそうなのかとなり意外だったとなる
何故なら常に原発の被害を訴えていたからである。それでかわいそうな人達となり援助しなければならないとなっていた
ちょっとでも批判するとお前は情もない人間なのかとなり責められる。そうして被害者として常に訴える。でも南相馬市でも全部が原発に賛成ではない,小高区と原町区は賛成である。ということは大半が賛成だとなる、補償金が多くもらったからである。
人間は金で動く、金をもらえれば許すとなる。また民主主義は数で決まる。多数決で決まるから南相馬市なら原町区が一番人口が多いのだから原町区で票をとれば当選できる。だから原町区と小高区は原発に賛成であり批判しない、でも多数決の判断の問題は責任を誰がとるのかとなる。原発に賛成とするのもいい、でも事故になったら誰が責任をとるのか?
実際は多数決だと誰も責任はとらない、それが問題なのである。

実際原発事故の責任は国民にもあり国民が推進したのである。それがわかったのが国民民主でも立憲であれ野党が原発推進である。もっと原発を増やせと訴えている。つまり国民が原発推進なのである。としたら国民全員に責任があるとなる
だから原発事故の被害者に補償金を税金から払うことに不満を言えない、責任を共有するとなるからである
でも国民となると責任を感じなくなる、それは責任がないと同じにもなる、戦争でも国民に責任があったとしても国民の責任は問いない、結局誰も責任はないとなっている

広告費の増加例: 関西電力は美浜、大飯、高浜の3原発を擁するが、年間広告費は2015年度の31億円から翌16年度に92億円と実に3倍増

赤信号みんなでわたれば怖くない

戦争もみんなで賛成すれば怖くない

原発もみんなが賛成すれば怖くない

多数が正義であり多数には逆らえない。でもその多数は責任をとらない、国民が責任をとれといっても国民となれば数が多いから責任をとらせようがない、でも人間のすることは必ずなんであれ責任をとらされるようにできている
戦争でも3百万人死んだとか原爆の被害は空恐ろしいものだったとかその責任はさけることができないとらされるのである。
そこが自覚されていないのである。誰でも発言できるのが民主主義である。小高の人でも原発雛区域の人でも原発はいいものだったと主張できる。でも責任がともなう、小高の人が一人でも原発はいいものだったと主張するとき小高区を代表して主張していると感じた、主張するのはいいとして責任を自覚しているのかとなる。

極端な言い方すれば原発事故でおめでとうございましたとまでなる。でも現実は常に被害を訴えている、つまり同情しろ南相馬市でも小高区に優先的に予算を金を出せとなる。俺たちは被害者なのだと訴える。常に援助されるべきだとなる
発言するのは自由にしても責任がともなう。その責任が自覚されない、それが民主主義の問題である
独裁政権だと一人の人間の責任が追及されるからわかりやすい、でも大衆民主主義になるとその数が多いから国民に責任があるとしても結局誰も責任を問いないのである。みんなに責任があるということはみんなに責任がないとなる
赤信号みんなでわたれば怖くないとなってしまうのである。つまりそのことが最も怖いことなのである。それがファッシズムとなり暴走するナチスになる。そこに牧者はいず家畜が暴走して全部死ぬともなる。民主主義とファッシズムは相性がいいのである。ナチスは選挙で選ばれたからである

いずれにしろ原発事故から14年過ぎても原発問題は解決しない、廃炉にするにしてもその費用であれ時間でもかかりすぎる
それほどの被害でも原発増設しろとなっているのが理解できない、それは原発事故の肝心の被害者が原発賛成になっていることにある。原発事故になっても補償金をもらえるから返っていいものだとみてしまう。その危険も見逃される。だから確実に次の大事故につながる。原発が止められないというより増設されるからである。






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2026年01月10日

盛岡市の詩


盛岡市の詩
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精緻に組まれた盛岡市の城の石垣
赤々と紅葉は映えて散り
岩手山輪郭鋭く聳え迫りぬ
陸奥を貫き北上川の滔々と流れぬ
その岸辺ケンジは足跡の化石より
太古の生物、牛を生き生きとイメージする
川にのっそりと浮かび沈む
その足跡は泥に残されていた
盛岡市は陸奥の古都
街中を中津川の流れのひびき
晩秋の日はさし静か
その音を古木と石は聞き入りぬ
ここにおもむろに人は交わり
ベンチに座り一時盛岡の人となる
せわしく過ぎゆくなかれ
奥深く記録に刻み帰るが良い
明治の古風な煉瓦の銀行
その庭に三色の薔薇の咲きぬ
秋日さしその色合いを深めぬ
ここは明治からハイカラな都会
そこにモダンな感覚の養われぬ
プラタナスの広葉の散る街路
若い人等が未来を語り歩む
いくつかの橋は古り
江戸のように行き交う
まるで浮世絵や版画のように
古い商家の壁に夕日さし
長々と柳は垂れぬ
夜青い街灯が灯り
メルヘンチックな旅情に浸る
この市街を離れて小岩井農場に
森に踏み入れば新雪は深く積もり
アカゲラの木をたたく音のみがひびき木霊する
醜き人の顔は見ずただしんしんと雪は降り積もりぬ
ここに沈黙は深く物音一つもなく
心洗われ浄められる
ここに自ずと絶妙な楽は奏でられる
その街も雪の降りメルヘンのようになる
銀河鉄道に乗り天の駅にとまる
それも一時常に場面は変化する
その駅は幻想の駅となる
雪はふりしきり赤く青く信号が点滅する
列車は雪降る中を走り過ぎて行く

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盛岡市が外国人に人気があるのもわかる。都会でも風光明媚であり歴史もある
そして賢治の詩とか啄木の短歌で価値を高めたのである
岩手県自体が魅力がある風土である。海山川と地形に魅力がある
盛岡市でも真正面に岩手山がまじかに聳える、あの独立峰を見るとまるで額縁に見事に収る。また小岩井農場とかメルヘンチックになる
あそこの森に雪の時に行った。アカゲラが木をたたく音のみが木霊していた
盛岡市でも近くに小岩井農場があり森がある。都会でも身近に自然がある
こういう場所こそ住むにはいい、田舎でも今は村のような所には住めない
様々なものが不足するからである。





2026年01月08日

今年はどうなるー次々に起きた世界の事件の感想 【貧乏でも助け合った時があった】

今年はどうなるー次々に起きた世界の事件の感想
【貧乏でも助け合った時があった】

●ベネズエラのアメリカの攻撃

事件はまず空間軸で認識する。起きるはtake place になる。まず場所の認識になる
アメリカの裏庭という地理の認識になる。アメリカはそれだけ今や自分の国を守るこことで精一杯になった。キューバ危機がありその時はソビエト連邦がかかわりアメリカはキューバに危機を感じてケネデイ大統領が戦争まで覚悟した。この時は核戦争も辞さないと決断したので世界が緊張した。米ソ冷戦時代でありアメリカは喉元に核基地を作られるとなり許さなかった。

1962年10月から11月にかけて、ソビエト連邦がキューバに核ミサイル基地を建設していることが発覚、アメリカ合衆国がカリブ海でキューバの海上臨検を実施し、米ソ間の緊張が高まり、核戦争寸前まで達した一連の出来事のこと。

今回のベネズエラのアメリカ攻撃はこれと似ている。違うのはソビエト連邦に代わり中国がその背後にあり中国をベネズエラの石油権益をアメリカに取り戻すのも狙いだった
またベネズエラの石油の大半は中国に輸出されているので中国を追い出すのが目的でもある。これもキューバ危機と同じように中国が軍事基地化される、核基地化されることを事前に止めるためである。ソビエト連邦に代わり中国がアメリカを脅かす国となった
米ソ冷戦時代から米中冷戦時代になった。

そしてパックスアメリカの時代は終わる。アメリカは自国を守るだけで精一杯なのである。だから西半球にシフトする。アジアは関わらない、そうなると台湾有事でもアメリカは関わらない、その時日本は一国で中国と対峙する。これは日本の存立危機になる
北朝鮮も中国と一体化して攻めてくる。それに対抗できるのか、つまりアメリカの西半球重視の政策は日本にとって現実的に恐怖となる。
世界が戦争になる時必ず核が問題になる。核が使われる恐怖になる
それは世界最終戦争になり人類滅亡のハルマゲドンになる。核が抑止力というが戦争になれば使われる。プーチン大統領が核を使うぞと脅したことでもわかる。

アメリカのベネズエラ攻撃は世界的に波及する。ただベネズエラという国が独裁国家でありベネズエラ国民がマドゥロ氏を支持しているわけではない、独裁国家では国民が政府を支持するとはならない。

2021年9月に公表された最新のEncoviによると、ベネズエラにおいて1日あたり1.9ドル以下で生活している「国際貧困ラインを下回る生活を送る人」の割合は76.6%で、前年の67.7%から約9ポイント上昇しています。つまり、現在のベネズエラでは国民の4人に3人以上が極度の貧困状態に置かれていることになります

その後は2015年に2万人超、2016年に5万人超、2017年には15万人超と増加ペースが徐々に加速し、2018年には一気に300万人超にまで膨れ上がりました。2019年に450万人弱、2020年に500万人弱と、その後も難民などの大規模流出は続いています。

これは異常な状態である。国家破綻の状態にもなる。こういう国では別にアメリカに支配されてもいいとなる。国家でも国民が支えるのでありその国民が国から脱出することは政府でも国家でも維持できなくなる
これは愛国心とかの問題でもない。まともに食えない状態では愛国心ももてないとなる
それは会津で薩摩長州軍に攻められていたがそこの住民は侍以外はむしろ歓迎していたのと似ている。年貢が安くなるとして歓迎していたのである。つまり庶民が国民がまともに食えないような国では政府が支配者が変わることが望まれている

現実に会津では明治維新後にヤーヤー一揆が起こった。国民に支持されない政府は別に他藩に外国に支配されてもいいとなる。独裁政権では取り巻きは利権を得ている
また麻薬販売でも利権を得ている。大統領がアメリカに逮捕されても依然として権力を維持しているのは旧勢力である。その人達はその権益を手放さない。
ただ国民であれ住民に支持されなければいずれ権力は維持できなくなる
そういうとき外国勢力が侵略してくる、でもベネズエラのような国では自国を守れない、もともと独裁者によって苦しめられた人たちが他国と戦う意志が持てない。
つまり国家を支えるのはその国の住民であり国民である。独裁国家にはそれがないから自国でも守れないとなる。

これは小国だけではないロシアであれ中国であれアメリカであれ貧富の差が大きいと国のために命を賭けて戦うことはしない、一見アメリカでも中国でも領土が馬鹿でかくても国意識が希薄であり意外とそこが弱点となり大国でも強いとは限らない、国を自ら守る支える意志がない国は弱いとなる。
ともかくアメリカはもはや世界より西半球、自国第一主義になる、その方向を明確にした。アジアは中国にまかせるとなるとアメリカが介入しないとなると日本はかなり危険な状態になる。確かなことは政府が国を守るのではなく国民が国を守る意志をもたないといくら政府で守ろうとしても守れない。そのためには貧富の差が大きいと国は分断されて他国に対抗できない、

●香港の九龍城砦の暮らし

このテレビ放送でそこで暮らした人たちがなつかしむ。その理由が自由があり助け合いがあった。住民はスラム街でもそれが全部悪いものとはなっていなかった
自由に商売もできて互いに貧乏でも助け合い生きていた。
何かスラム街だと悲惨に見えるがそこにもいい面があった、そんな所で暮らしてなつかしむということはないとみるがそうでもなかった。
それは戦後みんな貧乏であっても醤油とかわずかなものでも分け合い協力して生活していた、そのことをしきりに言う老女がいる。その人は今も貧乏なのである

貧乏人同士が助け合うが金持ちは助け合わない、金持ちは助けててもらわなくてもいいとなるからである。それで傲慢になる。インドでも乞食に恵むのは同じ貧乏人なのである。貧乏の苦しさを知っているから助けようとする。今日本でも助け合うということがない、何か貧乏でも自己責任にされる。怠けていたからだとなる。
でも貧乏人同士はわずかなものでも助け合うことがある。そいうことがかつての日本人にあった。貧乏がいいとはならないが貧乏でも人間は助け合うということがある
貧乏から学ぶものがある。日本人は豊かになってかえって非情になったともなる

ともかく人間は心が大事である、国を守るにしてもその心がなければいくら兵器を備えても守れないとなる。また豊かになってもかえって心は冷たくなる、助け合うこともなくなった。誰も貧乏にはなりたくない、でも貧乏でもわずかなものでも分け合い助け合い生きていた過去があった。そういう国だったら国を愛して守る意識が自ずと育まれる
愛国心が育まれる。
確かに今日本が貧困化している。でもそれが全部悪いものとなるとはならない
なにかいいと思えることが悪く作用する。この辺では原発事故で補償金をもらったが
復興という時補償金をもらうことが目的になってしまい補償金の多寡で争うようになった。補償金をもらえるのはいいことのようにみえてもそこにも悪く作用するものがあった。
日本は今経済だけではない何か戦後80年とかで見直すものがある
余りにも経済一辺倒になり金だけを求めるようになった。貧しくても助け合って生きていた時代を見直すべきだともなる。

今年の正月はテレビばかり見ていた。それでも結構面白い番組があった。
今年も様々な事件が問題が起きる。新年早々すでに起きている
それらをどうみるか、時事問題の深層のテーマになることは多い、
時事問題でも様々な視点がありた多角的に分析する時代である

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バウヒニアは、香港原産であり、このことから、香港の象徴として1965年に香港の市花として選ばれ[2]、また香港に関する様々な旗や徽章、紋章に描かれる。

この花は香港原産なのか空港でこの花模様のコインと交換した、それが記念だった
香港には寄っていない、でも一時でも寄れば興味を持つ
それでもこうした花とは無縁の都会であり何か魅力がない、ビジネスにはいいが観光では魅力がない、








posted by 天華 at 18:57| Comment(0) | TrackBack(0) | 時事問題の深層