2017年08月19日

無人駅で一番困ったことが今日あった ( 切符がなく駅で料金を払うことができない人)


無人駅で一番困ったことが今日あった

(  切符がなく駅で料金を払うことができない人)


今日仕事で福島駅から来た人が乗車証明書はもっていたが切符はもっていなかった
それは鹿島駅で清算する証明書だったのである。どうしてそうなっていたのか何かありそうなった
それでどうしていいか迷っていた,それで原町駅に連絡したら切符入れに金をいれてくれと言った
前にも切符入れを回収すると小銭が入っていた,今度の金は大きい
その人は別にそのまま駅を出てもとがめられることはない
たまたま自分がいたから聞いてきたのである。

こういうことで良心的な人はいるものだと思った,かえって無人駅で金払わなくてすんだと得したと思う人もいる,自分などはそういう面があった。
その人が金に余裕があるからなのかと思ったがそうでもない,なぜなら3,4キロある自動車のリース会社のあるところまで歩いて行ったからである。
金を節約するために歩いて行ったからである。タクシーで行けばやはり1500円くらいとられる距離だから節約した

それで原ノ町駅にインターホンで連絡した,料金はわかった
その人は1940円と料金として入れてくれといったがこまかがないので2000円入れたのである。この金は大きいと思う,普通は小銭が多いからである。
その人はこの駅が無人駅だと知らなかったと言っていた
これは無人駅の一番の問題だったかもしれない
料金を無人駅では清算できないのである。みんながスイカを利用できるわけではないからだ。

このように無人駅は万能のようにみえても最も肝心な料金を回収することができないということがあった,鹿島駅は結構乗り降りがある駅なのである。
それで昨日は市の地域振興課の人が二人乗客数を調べていた
何か駅を地域振興のために調査しているのかとなる

確かに地域振興というといろいろあるが駅も大きな部分をしめているかもしれない
鹿島駅は人の出入りが結構多いのである。
今日は小高で花火大会があると浴衣を来た若い女性が電車に乗って小高に向かった
今日は小高はにぽやかになっているだろう。
通りも暗いから人が集まるのはいいことである。
ただ直通で行く電車がまれなので行きにくいのである。
その辺がまだ改善されていないのである。

蝉の声と雨(相馬六万石の城下町)


蝉の声と雨(相馬六万石の城下町)


蝉の鳴き電車の待ぬぬ駅舎かな

雨しとと蝉の声ひびき城下町

城下町出会える女や秋の雨

城下町かぼちゃの花に雨のふる

蝉の声柳しだれて城下町

城下町屋根の低くも秋の雨


六万石城跡に秋の雨しとと今日たずぬる人もなしかな


今年の気候は本当におかしい,この雨は秋雨なのか,それとも梅雨のつづきのなか,夏ななのか?季節がわからなくなっている
だから秋の雨とするのも何かあわないのである。
蝉の声にしても秋の蝉になっているがその前に夏の蝉の声があって秋の蝉になる
それがぬけているからおかしくなる,蝉の季語は夏でありその夏が早めにあって梅雨がつづているという感覚になる
ということは俳句の季節感が狂ってしまって俳句にならないともなる
俳句は季語を基にしているからそうなる
これから残暑になったらまた季節感が狂ってしまのうである。

相馬市まで用事があって二カ月ぶりくらいに行った,最初一カ月は暑いから行けなかった次に雨で行けなかった,自転車でも行けない,原町まではなんとか行った
相当に今年は体が弱った,夏ばてにもなった

相馬市は城下町の風情があるというとき実際は何もないのだか街の形が変わっていないからだろう。城下町のままの町割りになっている,だから駅前から発展した原町とは全然違っているのだ。
そして平凡なことだが屋根が一般的に低く感じられる,高いビルがない
すると何か江戸時代のような町に見えるのである。

公共施設が入母屋作りにしているのも効果的である。だから相馬市は歩いているだけで情緒がある街である。ただ何かもないということはある
その何もないということがいいということがある。
現代派はなんでもありすぎて情緒を壊しているからである

傘をさして一人の女性と出会う,なにかそうした当たり前のことに人間的なことを感じる日本には雨が多いから雨の情緒があった,それは歩いていると自ずと生れる
車ではその情緒を味わうことはできない,車は常に情緒を壊すものとしてある
自転車でも歩いて感じるものとは相当に違う。
歩いていると一軒一軒の店でも家でも見るのである。
だからこそ歩く生活なら街の通りを見るから街が活きていたのである。

城下町といっても相馬六万石となると回りは田畑であり淋しい風景だったのである。
今その名残はある,まず観光客が野馬追い意外でたずねてもここに発見するものがあるだろうか?城跡にしてもここに城があったのかとも思う
何か城下町というものも感じない,だからここが観光の目的地にはならないだろう。
でも何か街の雰囲気はそれぞれ違ったものがある。
相馬市と原町を比べると明確である。そのことはいつも言っているがやはり相馬市は城下町だからそうなっている,でも外から来た人にはわからないのである。

2017年08月18日

戦意を喪失させられた日本人 (原爆のショックは永遠に消えない)



戦意を喪失させられた日本人


(原爆のショックは永遠に消えない)


NHKの放送で「なぜ日本は焼き尽くされたのか〜米空軍幹部が語った“真相”」を見た
アメリカ軍がB29で日本を焼け野原にしたのは日本が戦争をやめさせるため,市民までまきこんで爆撃した,市民に戦意を喪失させるためにやったという
その目的はあまりにも見事に想像した以上に効果を発してアメリカでも驚いたという
原爆を落としたのも日本に戦争をやめさせるためだったと常にいう
理屈あとでどうでも言えるのである。

こうした焼け野原された日本人はその後どうなったのか?その惨状を見たときどうなったのか?

まさに言葉を失った

言葉に現せないものとしてこの世の地獄を見たのである。爆撃して焼かれた人が子供でも写されていた,それは地獄の光景だった,戦争は非道でありイスラム国だけが非道ではない,過去の戦争でもそれ以上のことが行われていたのである。
戦争というは人間の悪を最大限にひきだすものとしてある。
日本のことを非道というがアメリカの非道も信じられないとなる
それはあまり赤裸々に報道されないからわからないだけなのである。
インターネットを調べればその悪逆非道に戦慄を覚えるだろう。
そんなことがあったのかとういことである。人間の悪逆の限りが尽くされたとなるのが戦争だった
アメリカ人の悪逆非道の方が日本兵の非道よりどうしても勝っている
その悪逆非道を知ったら身の毛のよだつようなことが現実にあったということに戦慄を覚える

ピカートもナチスについて言っていたが

まさに言葉を失った

それが第二次世界大戦の結果だったのである。アメリカが正義でもなんでもない,ただ戦争の勝利者になったというだけである。
それも膨大な人命の犠牲の上に勝利者になったのである。

結局日本は戦争に負けてどうなったのか?

今でも戦意を喪失してしまった

そのあまりの悲惨さに戦争というのは口にしたくないとまでなった
だからウヨが戦争を鼓舞しても日本人は別に9条を守れば国が守れるという左翼も極端だがそもそも日本人は原爆であれなんであれ日本は戦争をする戦意を今でも喪失しているのである。
もちろん戦争をじかに経験していないものがそう言っても説得力がないことはわかる
でも戦争の悲惨さは映像でも残っている

それは津浪とかともにている,あの悲惨な状態の前に自然の大きな力の前に言葉を失ったただ茫然としているというだけだったのと同じである。
あれだけ大きな力を示されるともう何も言えなくなる,ただ自然の力に驚嘆するだけだとなる,それと同じようなことが戦争で起きていたのである。

日本はアジアから中国とか韓国から戦争のことでバッシングされるけどそもそも日本はその報いを敗戦の焼け野原で受けているのである。
なぜそれだけのことが成されたのにさらに日本をバッシングするのか?
それは「水に落ちた犬は打て」になる,弱者になるとかえってその弱さにつけこまれて個人的にひどいめにあったことを書いてきた
それは国家間でも同じなのである。

韓国や北朝鮮は常に不満をもっている,強いものにたかれつづけられた国である。
だからこそその腹いせを日本人に向けているのである。
日本人は確かに今戦わなければ国も守れないと危機意識をもつ
でも戦争で戦意を喪失してまった,悪くとれば戦争する気力がない,意気地がないともなった,それで非戦国家になり9条だけに頼る弱い国家でいいのかとなる

でもあれだけの戦争の悲惨さを見たらとにかく戦争はしたくないと別に経験しなくてもなる,自力で国を守らねば侵略されるというのもわかる
でもその戦意が喪失させられている,それは戦争が終わっても継続しているのである。
それだけ戦争の影響は大きかったのである。
日本全土が焦土となった記憶は簡単には消えないのである。

ではアメリカの戦争犯罪はこれからどう罰せられるのだろうか?
それだけのことをしたアメリカはやはり良心に怯えている
戦争を終わらせるためだったという理屈はただ理屈である。
その良心からその悪が消えることはないのである。

その報いはやはりカルマとなってアメリカに向かってくるかもしれない,なぜ今北朝鮮がアメリカに狙いを定めて核弾頭のミサイルを打ち込もうとしているのか?
それは日本もまきこむのだがやはり原爆を使用した日本を実験場としたカルマであり
核に怯えているである。
核爆弾を使ったものはまた核爆弾が落とされるという恐怖におののくことになる

国内的に人種差別でもめているようにアメリカ自体が分裂するかもしれない
人種差別が日本人に対してもあったがアメリカは白人主義だけではもう成り立たない国である。人種差別したら第一国内で統一できない,それだけ白人ではない人達が増えすぎたのである。

ともかく戦争は人間を非道にする,もう歯止めがきかない,ルールもなにもなくる
人間の悪の限りが戦争で噴出する,それが第二次世界大戦の結果だったのてある。
だから日本はその戦争を身をもって経験した唯一の国なのである。

日本人はもうどうしても戦争ができない

戦意が喪失した

それがいい悪いと関係なく戦争に負けた結果として日本人にもたらされたのである。
要するにアメリカも全土が焦土になれば戦意を喪失する
そういうことが核戦争ではなりうる,なぜ北朝鮮のような弱小国にアメリカがおびえなければならないのか?
それは核がそうさせているのである。核はアメリカでも怖いのである。
日本を空襲するとき飛行機を爆撃する体制が日本にはなかった
だから空襲も容易と見たというときもそうである。
やはりアメリカも核は怖いから簡単に攻撃できないのである。
そして核の呪いがカルマがアメリカに回ってくるかもしれない,それをしているのが北朝鮮なのかもしれない,それはアメリカだけではない,日本も恐怖である
ただ一番恐れているのはアメリカだとなっているのである。
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金の損得,人生の損得 (あと何年生きるのか?)


金の損得,人生の損得

(あと何年生きるのか?)


年金を早くもらえばすでに400万もらえた,最後までもらわなかったから繰り下げしたからそんなにすでにもらえていたのかという驚きもある。
ただたいした年金ではない,国民年金はたかがしれている
でもその400万をとりかえすのには80越えないと元がとれないというのも良くわからなかった
人間はそもそも金の計算ができない,あと何年生きるかもわからないからだ
親戚の人は60で死んで厚生年金がもらえなかった,そういうこともある
自分の母親は60才で3万もらって失敗したといっていた。
なぜならそれから100才も生きたからである。65才からもらうと5万くらいもらえたのかもしれない,そうなると差が大きくなるからだ。
それでも3万×12×40=14400000になった,千四百万になっていたのである。

自分の母親は趣味もなにもない,働くことがしかない,花さえ無駄だとしていた,田から金は使わない,馬鹿げているのはそのためた金も盗まれたが不思議なのは認知症になっていたためなのかどうかわからないが無頓着になっていたのである。
金のことが良くわからなくなっていたのかもしれない。
姉は本当に認知症になって金のことがまるでわからなくなっていた
いくら自分が金をもっているのかもわからなくなっていたのである。
それで銀行からも金をおろせなくなっていたのである。
このことには本当に驚いた。

人間は終生金に異常にこだわり生きている,普通に生きているときはそうである。自分の親も身内もそうだった,金のために大喧嘩したこともある
でも結果的にどうなったのか?そのこだわっていた金も盗まれたり認知症になり銀行からおろせなくなったのだから金はもう自分のものでなくなったのである。
自分の親は金を盗まれたといったとき笑っていたのである。
頭が正常な時は一円も無駄にしない人だったのになぜ大金を盗まれて笑っていたのか解せないことだったのである。

いづれにしろ人間は金も計算どおりにいかない,人生が計算どおりになった試しがないのだ,何か必ず不測の事態が起きる,津浪や原発事故がそうだった
そこで予定がまるっきり狂ってしまうのである。個々人なら病気になったり事故が起きたりする,それで人生が狂ってしまうのである。

だから人生など計算できないし何か損得なのすらわからない
人間は懸命に得しようとしていきているのだけど結果として何が損得かも最後はわからなくなる
得だったものが損だったり損した思ったことが得だったりもする
人生の損得など誰もわからないのである。

美人と結婚できなくて損したとか何に何しないで損したとかいろいろ老人になって後悔する、でも最後はどうでもいい,それは若い内ならそうなる
人間は結果的に何が損か得なのか,本当にかわらないのである。
結局塵となり灰となってみんな終わるだけだとなる
大金持ち地位ある人も美人も行くつく先は老いることであり死である。
それはみんな平等である。いくら金持ちでも老いを金でみんな補うことはできないからだ失われた美貌は決して帰ってこないのである。

人間はもっとうまいものを食べていれば良かったなどと最後に思わないだろう。
老いて病気になるとますどんなうまいものでも食べたくないからだ
食欲があって健康であってうまさを感じるからである。
健康なくしたらいくら金があってうまいものが買えても何にもならない
それで自分の父親は病気になりサシミを食べれるようになったが食べたくないと言って死んだのである。
明治生れの人であり一生貧乏だったが最後の二三年金持ちになったがその時は病気になっていたのである。

人生の損得など最後になると本当にわからない,何が得したのか?何が損したのか?
それも良くわからないのである。みんな得しようとして懸命に生きてきたはずなのだが最後は金をためても金をおろせなくなったとかの喜劇なのか悲劇なのか
金にそれぼと執着しても何の用もたさなくなったのである。

金は別にないよりある方がいいことは確かである。
ただ人生の損得の計算はできないということである。
結婚して得したのか損したのかそれもわからない
結婚しないで損したのか得したのかもわからない
結婚しない損は実際は自分の経験では大きかった,病気になっても誰もみるものがいないからだ。でも自由に生きたいうことは自分の場合大きな得だったのかともなる
自分の場合は社会に適合できないからそうなっていたのでありそれて得だったともなる
まず自分は無理をしなかった,疲れたら寝ているだけだから体が弱くても生きられたのかもしれない,母も体が細くて力ある仕事などできない,でも百才まで生きたのは無理をしなかったからだと言っていた

でもそれが得した,百才まで生きたのだから得したのか?それも良くわからないのである得したというか俺は生きたとかなるのは実際は危険を乗り越えたり困難を克服したりするときである。その時俺はやったとなり達成感がある
その時こそ本当に生きたことになり生の充実感を得る
でもそれは危険であり死ぬこともある,だからこそ生きたということに価値が生れる
そういう経験を一回もしないとしたら生きたとも言えないのである。

そもそも人生は損得では計れない,損したことが実は大きな得だったこともふりかえればあるだろう。運不運もあり不運にも若くして事故で死んだりする人もいる
ただわかっていることは時間をともかく人間はみんな無駄にしている
金は一円でも無駄にしないように生きているが時間は本当に浪費しているのである。
時間は金のように計算しにくいからそうなる
若いときこの先ずいぶん長いなと思っているとあっというまに時間がすぎてしまう
白髪の老人となりもう死を待つだけだとなる

要するに死を前にして人間の損得などたいしたことではないのかもしれない
大きな家に住めなくて損だったとか,うまいものが食べられなくて損だったとか,美人と結婚できなくて損だったか,いろいろ損なことを考える,でもどうせ死ぬんだとなると
そんなことどうでもいいやと最後はなる。
要するにソロモンのようになるのである。どんな栄華を生きても最後は人生は虚しい,死があるだけだとなる

あなたの若い日に、あなたの造り主を覚えよ

こうなるのである。ただ自分として後悔しているのはヒマラヤに一回しかいかずその時曇りで8000千メートル級の山が見えなかったことである。
だからヒマラヤにもう何回が行きたかったが行けなくなった
それはなぜか?そもそも外国に行けると自分では思っていなかったからだ
外国でもどこに行くか迷う,やはりヒマラヤは見物である。
十回もヒマラヤに行ったという人がいたがそれだけ行ったら満足だとなる
今の時代でヒマラヤだろうアフリカだろうがどこにでも行ける時代である。
ただ老人になり体力鳴くなと行けない,だから若い内に行くべきだったとなるが時遅しとなってしまったのである。

要するに登山でも旅行でもいつもその機会が与えられているわけではなかった。
これだけ旅行した自分でも外国に関してはそうだった,外国を知らなかったからである。
だから若い人は老人を見て何が失敗したのか後悔しているのか良くしるべきである。
このことは若い人同士ではわからないからだ
後悔しないように生きるためにはどうするのかを良くしるべきなのである。

2017年08月17日

建築現場で人手不足-死者が出る (オリンピックをやる今意義あるのか?)


建築現場で人手不足-死者が出る

(オリンピックをやる今意義あるのか?)


大手ゼネコン「大成建設」の工事現場でまた死亡者が出た。 
20年東京五輪のメーンスタジアム「新国立競技場」の建設現場で、23歳男性が過労自殺したばかりだが、また現場の過酷さを象徴するような事故が起きた。 

土木屋 塗装 やらはスジモンとまでは行かないが、近いのが多いね 
基本的に誰でもできるような職種に多い 
機械工 電機工は技術持ってるから、比較的きちんとした人が多い

建物は残るから悲しみがずっと続く 
浜松のアクトタワーで死んだ電気屋さんは知り合いだった 
浜岡のゴルフ場で資金が尽きて自殺した型枠大工の親方は友人の父親だった 
あそうだ日航機が墜落したその日だった 
この二つの建物は見るたび怒りが込み上げてくる


城を建てるとき人柱伝説がうまれのもわかる,誰かが建設工事で死ぬからそうなる
誰かが人柱になるからその伝説も生れる
そのことは現代に継続している,建築現場にこの辺で除染でも暴力団が入ってきて
治安が悪くなった,郵便局に入れ墨丸出しの若い男がきていた。

ではなぜそうして暴力団がかかわるのか?
つまり最低辺層の人達がまた前科者とかでも何でもかんでも労働者にするからである。
そういう人達は仕事を選ぶ余裕がない,明日食べものがないとなればどんなことでする
原発作業員にもなんでもなる,人間は追い詰められたらなんでもする

借金のカタに遊女にされたりパチンコ屋で働くとかとにかくもうそこに労働のモラルはない,金になり今日食べれればいいだけになる
建築現場は誰でも引き受ける,最低辺層の人達が集まる場所なのだ
事業に失敗した人なども集まってくる
それはそれなりに働く場所を与えて社会の役にたたせている面もある
アメリカの大企業が受刑者を低賃金で働かせているのとにている

ここに人間のブラックなものがあからさまに現れる,そもそも個々人の家建てるとしたらそれには意味がある,でもオリンピンクのために働くというときそこで働き死んだ者はオリンピックは日本で必要なものであり俺たちもオリンピックに貢献するのだ
日本のためになるんだとか考える人はいないだろう。
そもそもそういう人達は金をもらえればいいとしかならない

奴隷労働にされるのは借金のときがわかりやすい,もう遊女にもされるし何でも金のために働く奴隷にされる,そこに働く意義など微塵もないのである。
そういうことは普通にある,でも道路でも鉄道でも建物でもそれなりに社会インフラの整備のために働いたとはなる,そういう意識をもたなくても結果的になることはある

でもオリンピックは国民にしても今必要なのかどうか深い議論もせず行うことになった
前の東京オリンピックには国民的同意と意義があった,日本が戦後の焼け野原から経済成長した証として行われたからである。
そこに国民的同意があったのだ,今回はそれもないのに勝手に政府主導で行われるから問題が起きる

死んでまで犠牲者をだしてオリンピックをやる意義があるのか?

そういう疑問が国民の間に根づよくあるのだ。それはこの辺で行われた除染でもそうだった,飯館村で一軒の家を除染するのに一億円かかったという,それなら一億円もらった方がいいと村の人が主張したのもわかる,なぜなら後ろ森だから除染しても一時的なものであり効果がないからである。
除染費用の莫大な金は大成建設とかその他大手ゼネコンに流れたのである。
大成建設の社員は放射線量を計るモニターの下の土をとっていたのである。
だから放射線量は半分になっているが実際は倍以上なのである。

大成建設は創価と深く結びついた会社である。それは正本堂を富士山の麓に建てたときそうなった,大きな仕事を請け負ったからそうなった,利害関係で結びついたからである。宗教的建造物というとき信者がその建設にたずさわるなら死んでも信心であり成仏したとかされる,ピラミッドは宗教的建造物であるという見方がでている
王の墓ではない,宗教としての建造物ならそこで死んでもそれなりに意義があったとなるなぜならあれだけのものを建てるとしたらやはり死者が相当数でているからである。

働くということを追及するとただ金だけではない,その意義を認めて働いている人はまれだろう。まずは金が価値となり金をどれだけもらうかだとなる
でも労働で人か死ぬときそれまでして働く意義があったのか?
そんなにしてまでオリンピックには意義があるのかと疑問になる
オリンピックは血にぬられたものであり人柱の上に成り立っている
それほどに今オリンピックが日本人の総意として求められているのか?

まだ東北大震災の復興もできていないのになぜオリンピックに金を使うのかということに対して国民は合意していないのである。
ゼネコンと電通とかのためにするのかともされるのはそのためである。
そして死の犠牲までありそんなことをしてまでオリンピックををやる意義があるのかとなる

建物は残るから悲しみがずっと続く 
浜松のアクトタワーで死んだ電気屋さんは知り合いだった 
浜岡のゴルフ場で資金が尽きて自殺した型枠大工の親方は友人の父親だった 
この二つの建物は見るたび怒りが込み上げてくる

これは現場で働くものの率直な感情である。ただ電気屋でも建築現場は常に危険だから事故が起こりやすい,事故はさけられないことは確かである。
でもオリンピックとなると規模が大きいしその犠牲も大きくなるから問題なのである。
建築は戦争ともにている,道路を作ったり橋をかけたりと建築なのである。
ローマ帝国が道をはりめぐらし橋をつくり建築で大帝国を築いたことでもわかる
建築技術に優れていたから大帝国を築くことができたのである。

このことはオリンピックの熱狂があっても何か後ろ暗いものとして冷たいものとして見る今回のオリンピックはそれだけの意義がないからである。
そんな無駄なことのために労力が人命が費やされたことをどうみるのか?
この人のように怒りがこみあげてくるとなるのではないか?
posted by 老鶯 at 22:27| Comment(0) | TrackBack(0) | 時事問題の深層

駅から労働することは何になのか考える


駅から労働することは何になのか考える


仕事と労働は別物、仕事っていうのは自ら仕事を創りだすものなんだよ、 
労働ってのは寄生して汁吸ってるだけ


無人駅だけでは困ることがある。困るのは外部から来た人である。
ゴミ箱がホーム内にありわからないのである。
それから切符入れも小さいからわからない,その切符は回収しているのである。
感心するのは金を入れている人がいる,ごまかしたくないという人がいるのは感心する
自分にはそういうことがなかったから余計に感心したのである。
鉄道を支えている人のことなど考えたこともないのである。
要するに電車賃が高いとかしか考えていないのである。
それだけ自分は社会性に欠けていたともなる

今になると無人駅でそれほど何か仕事というものがあるわけではない,
ただ外部から来た人に道案内とかはある
何か聞きたいことが必ずある,それは自動化できないだろう。
80パーセントは自動化しても自動化できないものが残る

そもそも仕事は与えられるものではない,創り出すものだというとき仕事になものを見つけ出し発見する,例えば階段をキャリーバッグを運ぶのは負担になる
もしそれをもってくれる人がいたら助かるとなる
そういうことをポーターなどがいて頼むことがある
でもそうなると無料ではしないとなる,重いし運ぶのが結構な労働となるからだ
それをやる人は金をもらってやることになる

人間はつくづく他人のためにそうした重い荷物を運ぶことはない
自分が病気になったとき,遠い親戚の人はその荷物を運ぶのもを嫌がっていたからであるその人は借金しているからまず金が欲しい欲しいしかないのである。
そういう人は無償の労働など絶対しないのである。

だからボランティアでも水害や津浪のときなど泥をかきだす仕事は苦しい
川崎の人も良く原発避難者の引っ越しの手伝いをしていたと思う
重い荷物を運ぶから74才では苦しくなる,自分ったらできない
そして仮設の人達はむしろ金をもっているのだから近くで金がなくて困っている人がいたのだからその人たちに金をはらって手伝ってもらうべきだとも近くでは見ていたのである
ボランティアというとき盲人を電車に乗せることなどは楽である。
でも案内されることを嫌ったから自分でしたいということが障害者にある
いつも人を頼っているのが嫌だとなるからだろう。
そういうならいいが荷物を運ぶとなるとボランティアではしたくない,ボランティアはそうした苦しい労働には向いていない,そういう辛い労働はやはり報酬があってできるものである。

「このバックが重いのでもってもらいませんか」
「・・・・・・」
「お礼はさしあげますが・・・」
「自分は別に金に困っていませんから」

男性なら若い女性で美人なら無料でやる,その他は無料でやることはないだろう。
金をもらってもやらない,なぜなら金がある人はやりたくないことはやらない,
労働はしないのである。ただやりたいことは金をはらってもやるのが金持ちである。
芸術などは金をはらってもやりたいものである。
美でも何かを創造することは金を払ってもやりたいのが人間なのである。

人間は金があると労働はしない,あの人はキャリーバッグを重そうにして運んでいるけど自分も力はないからしたくない,金をもらってもしたくない
人間は何でも本当に金をもらったからやるだろうか?
もし金をもっていたら嫌な辛い仕事などしないのである。
だからこそ機械化自動化しているのである。
要するにエレベーターがあれば機械化されて人間の助けがいらないのである。
でもそうなるとそのインフラに金がかかるからできないのである。
新地駅とかは鹿島駅より小さいけどエレベーターがついた,それは津浪があって特別にできたことである。

ともかく駅からいろいろ考えることがある,駅から社会が見えるということもある
仕事は与えられるものではない,創り出すものだというとき社会はすべて満たされていわけではない,時代によっても社会が変わりそれで必要なものが生れる
コンビニなどは車社会になってうまれたのもである。
コンビニとか宅配とかも車社会になり新たに創り出された仕事なのである

ともかく鉄道で感じることは駅でもそれを維持するのに人の手間や金がかかっている
自動化してもやはりその自動化のために金がかかる
エレベーターを作っても電気代はかかるからである。
だからインフラは無料では維持できない,そもそもなんでも無料では維持できない
人の手間があって維持できている
だから鉄道会社では郷愁で鉄道を残せるのか?金がかかるのにその金を誰が出すのだとなる,鉄道を残せという人が鉄道を利用しないのである。
その負担は鉄道会社だけで負えきれないからそういうのも当然だとなる

2017年08月16日

死者の不可解 (死者が残すものは何なのか?ヒストリーはストリーのこと)


死者の不可解

(死者が残すものは何なのか?ヒストリーはストリーのこと)

人間の最大の謎は生きていることから死者になることである。その変化があまりに大きいから愕然とする,死者となると残るの骨だけでからである。その骨すらなくなっているのだ,一人の身内の骨は土になってなくなっていたのである。
それで娘にその骨をもっていって供養してくれということができなくなった
骨もなくなるのである。
最後に残ったものとして骨にこだわるけどその骨すらなくなっているのだ。
すると人間が残すものは何なのか?

最後に墓だとなるがその墓すら跡継ぎがなければやがて捨てられ今ではそうして捨てられた墓が山と積まれているのである。
ある島ではその墓の墓場になっているのである。
墓は簡単に捨てられないからそうなっている
だから墓を残すことはやっかいなものになる

そもそもそうして焼かれた骨がそんなに大事にされるものなのか?
第一そこに生前の人間が宿っているものなのか?
いづれは土に還り土となってしまうのである
死者がどこにいるのか?何か遺影を見ていると死者がいる感じになる
位牌にいるのかとなるより遺影に死者でも生前のままにいるという感じになる

人間が死ぬと急速に忘れられる,あれほど存在を主張したものが消える
そしてもう何も語らないのである。
要するに生と死の落差が大きすぎるから人間は死の前に茫然としているのである。

墓参りしたとしても骨をうめた墓に死者がいるのか?それも疑問である。
一人の骨は土になりそこには何人か一緒に埋まっている
となるともう個人として識別はできない,一家の墓のなかに骨も一緒になったのである。ただ名前は記されているからかえって墓にその名前が残りそこに埋められたことを示している,最後の記録となっている

でもそういう人がいたということは戸籍を見ればわかるのである。
そしたら戸籍がその人が存在した最後の証拠なのかともなる
戸籍は死後も長い間残るからである。
その戸籍とは系譜のようなのもかもしれない,系譜だと何百年も残っている
そしてわずかにその系譜から名前が残りそういう人がいたことを知る
でも名前だけでありそれ以上のことは何もわからないのである。
天皇だって名前だけしか知らない天皇が古代にはつづいているのである。
その諡号からその人となりを探っていたりする
それは戒名とにている,戒名しか残らないものがいるからだ

歴史上の有名人,偉人の墓でもいくつもあちらこちらにある場合がある,ではそこにその人が実際に埋まっているのかといとそれすらわからなくなったいる
骨がない場合もありそこに埋まっている証拠がないのである。
ただ伝説化してこれがその人の墓だと後世の人が勝手に言って墓を作っている場合もある
だから何が死者なのか不可解なのである。
死者というとき骨のことではない,その肉体が消えても残るのは何か?
歴史でもストリーというとき物語のことである。
すると個々人の物語(individual story)のことかとなる
そういうものを人間は必ずもっている,それは家族でもそうなのである。
兄弟でも全く異なった運命を生きることも普通にある
人間が生きたというときその物語にあるとなる
でも墓に興味をもってもそこから個々人の物語は探れないのである。
個々人の物語でも人間は複雑だからその物語を知ることはできない

老人が昔を延々とかたるときそれはなんのためなのか?
自分がこう生きたと知ってもらいたいからである。
それぞれの一生が語ることによって伝えられる
だから認知症になると遂に同じことを千回も聞かされることになる
それは自分はこう生きたんだと伝えたいからである。
一生とはその伝えたいことにあったからである。
死んだ途端に骨となったときそこに読み取るのは何なのか?
化学物質としての分析なのかとなるがそうではない
ストリーにこそその人の一生があったとなるとその物語を知るべきだとなる

自分の家族は五人いたがみんな死んだ,残ったのは自分一人だけである。
それぞれが家族で全く違ったストリーをもっていて死んだのである。
それは同じ家族でもこれほど違った物語をもっているのかということである。
でもその物語を全部知るのは自分しかいないのである。
だから最後は墓守ではない,その物語を伝える語り部となるのである。
老人はみんな語り部になる,そこに老人の生きる意義がある

その語ることがうまい人が伝説とか昔話を作り後世に残ったのである。
小高の老人から聞いた話は面白かった,その人は話がうまいのである。
話がうまい人とそうでない人がいる,その人を別に知識人でもなんでもなかった
でも自分が経験したことを語ることがうまかったのである。
だからそのことをプログに書いてのである。
今なら小説家とかなる,最後に残るのは骨はなく墓でもない物語だともなる
それは代々伝えられるからである。
歴史とはヒストリーだというときストリーのことだからである。
それぞれの人生は一つの個々の物語として残されるとういことである。

いづれにしろ自分の家族の一生をふりかえると不思議になる
それぞれが全く違った運命を生きたからである。

2017年08月15日

人間の評価は生前の評価である (死後に変わることはない,生前の評価で決められる)


人間の評価は生前の評価である

(死後に変わることはない,生前の評価で決められる)


親を看取ったが人間の評価は生きている内はわかりにくい,でも人間の評価は死後にもつづいている,死後にかえって冷静に判断できる
それは肉親でもそうである。親子でも他人でもそうである。
親子だと介護から看取りから葬式からその後の供養とつづく,そして死後何年かして冷静に死者をみる,人間は死んで終わりではない,ここで言うのは死後の世界がどうのこうのというのではない,生前その人がどうあったのか生きたのかという問題である。


そもそも死後のことを考えてもわからない,スピリチャルでも勝手に死後の世界を想像して言っているのである。聖書だとあくまでも約束のことであり様々なことをイメージしてはいない,その天国も実際はこの世の延長としての天国なのである。
全くこの世と違った世界を人間が想像できるのか?それはできない

例えば花園の中にあるのは天国である。その花園を別にこの世でもあるから花に囲まれた神の庭園をイメージできる,そこが天国なのである。
この世と全く違った世界を人間はイメージできないのである。
もちろん地獄も同じなのなのである。この世でまさに人間がみんな地獄を経験しているから地獄がどういうところかイメージできるのである。

人間が死後に裁かれと聖書で言われているがすでに生前に裁かれてはいないか?
人間の死にざまをみればわかる,たいがい断末魔の様相を帯びて死ぬのである。
成仏するとかしないとかこだわるけどカルト宗教団体などでもその死にざまは同じである

人を裁くな。あなたがたも裁かれないようにするためである。あなたがたは、自分の裁く裁きで裁かれ、自分の量る秤で量り与えられる。
(マタイ7)

常に日本は悪者としてアメリカでも裁いているけどアメリカも原爆など落としたことで裁かれる,神によって裁かれる国なのである。
個々人でも国でも人間には裁く力がないのである。
人間は他者評価するとき必ず自分も評価される運命にある
お前はそんなこと良く言えるなとなる,自らの不正を正さないで他者をとがめているのである。


死ぬ前に何か後悔してとりもどせない恐怖におののいている姿を見た
ある人はママ母でいじめていたので死ぬ前に悪かったとして悔いていたのである。
その人は目が見えなくなりいじめた子供に看取られて死んだ
すでに生前に裁かれていたのである。

ただ人は人を裁くことは不可能である。裁く力は人間にはない,だから裁くなと神は言ったのである。それは国と国の争いでもそうなのである。
どちらが悪いかなど裁く力は国にない,アメリカにもない,裁く力は神にしかないのである。

果たして人間は死後に特別評価されることがあるのか?
すでに生前に評価されてはいないか?夭逝する天才は別にして一般的にはそうである。
自分が言っているのは特別に功績がある人のことではない
ノーベル賞などをもらうような人のことではない

普通の家族のなかでも功績がある人はない人がいる
普通にふしだらな親というのがいてそういう人は肉親でも子供がどう評価するかである。そうなると子供すら供養の心もなくなっているのである。
さんざん親にひどい目にあったからそうなってしまったのである。
だから肉親だからといって必ずしも親だからとして何でも是認されることはないし尊ぶこともないのである。
ふしだらな一生を送った人を肉親すら敬うことはないのである。

人間が死んだからといって死者を見るとき常に生前のことを見ているのである。
死後のことはわからないからである。ふしだらな一生を送った人が死んで特別な人に変わるわけがないのである。
人間を作るのは死後ではないということである。
生きているときに作られる,人間の評価は生きている時にすでに成されているのである。すでに老人になっていればもうすでにあらゆる面で評価されているのである。

自分にとっては家族は自分が正当に評価している,結局自分に尽くしてくれたということで評価して感謝している,最後は一人は確かに悲惨な死だったが生きているときは家に尽くした人だから功績があったのである。
自分が自由に生きられたのは家族があったからだとなる
過酷な社会に放り出されたら自分は何の才能も伸ばせず終わりだった
それだけ生き抜く力がないからである。
何か家族に守られて自由に生きていたのである。
その結果として代償として介護と自分の病気で十年間塗炭の苦しみを味わったのである。
だから必ず苦あれば楽がありであり楽なだけの人生などこの世にないのである。
どんな裕福な家に生れてもどこかで苦しむことになる
それが人間の定めなのである。
ともかく人間の死後というけど実際は生前の延長として死後がある
生前と死後は切り離せないのである。
死後全く別な世界に生きることなどありえないのである。

だから実際は死後のことより今生きていることそのことが大事なのである。
死後のことをとやかく言ってわからない,今を生きることこそが大事なのである。
その今の時間を人間は常に無駄にしているのである。
そして老人になりみんな後悔しているのである。
死後は生前の延長であり生前に刻印されたものが死後にも刻印されているのである。
人間の一生を見る場合必ずそうなるからである。
人間の評価は生前の評価であり死後になると冷静に判断できるというだけなのである。

日本だけが戦争で悪者にされるのか? (戦争は喧嘩両成敗にするべき)


日本だけが戦争で悪者にされるのか?

(戦争は喧嘩両成敗にするべき)


戦争とは何かというとき戦争は対外的に起こり国を意識する,敵が存在して国家を意識する,それは国内でも同じである。常に回りが敵であり戦国時代になった
相馬藩だと常に伊達藩を意識して軍事訓練していた,それが野馬追い祭りとなっていった日本全体で見ると

百済の援軍として戦ったのは、唐−新羅連合軍です。飛鳥時代だと思います。
白村江の戦いが最初の外国との戦いである。

戦争がなければ日本でも日本という国家を意識しない,それが証明しているのは鎖国となった江戸時代である。対外的に関係を閉ざしたから外国を意識しないのである。
だから日本人だという意識もない,敵も存在しないから300年間平和だった
こういうことは世界史ではまれであり島国だったからできたとなる

そして明治維新になり外国を過度に意識させられるようになった,すでに太平洋戦争の種はこの時まかれていたのである。
吉田松陰はアジアを侵略せよと公言していたからである。
そういう過激な思想がどうして生れたのか?
それが過度に今度は鎖国状態から外国を意識させられるようになったからである。

その意識した外国とは欧米列強だった,その時アジアは中国をはじめ植民地にされていたからその恐怖感があり戦争をはじめた,それが最初はアメリカではなくイギリスだったのてある。その時イギリスが七つの海を支配していたからである。

アジアの拠点がシンガポールであり自分の姉はそこで4年間従軍看護婦として勤めた。
実際はシンガポールの向かい側のジョホールバルでありマレー戦争だった
その赤十字病院だった,つまりイギリスとの戦いでイギリスを追い出してその病院を使っていたのである。それはアジアの国が欧米列強に勝ったということで快挙だったのであるただその後はアメリカが参戦して形勢がたちまち悪化して敗戦になった

日本の明治維新はまず日本がアジアの中国でも植民地にならないために独立した国だったその時日本人は強烈に国家を意識するようになり西南戦争で武士の集団との戦いで形成された国民軍が平民の軍隊が国民の軍隊が勝った,これによって日本軍が形成されたのである。

日本は江戸時代の鎖国から明治維新になり過度に外国を意識させられるようになった
アジアが植民地化されたことの恐怖から明治維新が起こり日本はアジアに先駆けて欧米列強と戦うことになったのである。
だからすでに欧米列強によって明治維新のときから戦争がしかけられていたともなる
しかし日本だけは植民地にできなかったのである。

戦争のきっかけがアジアの植民地解放戦争だったということも一理ある
中国と戦争になったのも中国が欧米列強側に立っていからそうなった
中国は欧米列強の植民地だったからである。
だから日本が中国戦争したときなぜ独立できたのか?
日本が欧米列強と戦ったから中国人が植民地にされていた隷属を破り共産党により独立国家を形成できたとなる,日本が欧米列強と戦争しなかったら中国は独立国家になれなかったともなる

つまり欧米列強とアジアの関係で見るとき日本の戦争がだけが悪だったのか?
なぜ日本だけが悪者にされるのか?中国からも韓国からもアジアからも悪者にされるのか?それは日本がアメリカに敗れたからそうなっているだけなのである。
日本だって国内戦争だったら勝った方が負けた方を悪者にするからである。

世界史でも同じなのである。そこに善悪は通用しないのである。だから日本だけが悪者にされるは負けたからだとなる
善悪を言うなら欧米列強が善なのかとなればそうではない,つまり欧米列強がアジアに進出しなければ第二次世界大戦はなかったからである。
西部劇でインディアンか常に悪者にされていたように日本も悪者にされていたのである。
そしてアジアでも中国や韓国が日本が悪いから謝罪せよというとき戦争で負けたからである。日本が悪いわけでなくても謝罪を要求される
謝罪させることによって上位に立つ,日本の謝る姿を見て優越感にひたる
そして韓国になると永遠に謝罪せよとなり日本を下位にする
しかしアメリカに対しては中国やロシアに対してはそういうことにはならない
日本に対しては下位の国家として謝罪を請求するのである。

そしてNHKの放送は中国や韓国の意向に沿ったものとして常に編集報道しているのであるそれで右側からNHKでも朝日新聞でも左翼系は中国とか韓国(在日)の工作員が入り込んで操作しているとなる
そういうことはネットで盛んに言われるようになったのである。
そう言えばNHKは常に戦争を起こした日本人が悪いとして戦争を否定している
日本人は謝罪すべきだとして報道している,それは中国韓国側の圧力の結果だともなる
だからNHKを見ていると知らず洗脳されるのである。
日本人は悪いのだな謝罪すべきなのだなと番組を見ていると自ずとそうなってしまうのである。そしてNHKは良心的な公平な放送局のように国民には見られているから余計にそうなる,テレビは事実を伝えるものではない,放送局の意向でもって編集して伝えているのである。だからテレビを見ていると意識しなくても洗脳されるのである。

確かに人体実験したとかはひどいとなる,でもそれだけを取り上げ日本人は悪いとされるのも問題なのである。そもそも戦争は非道であり戦争そのものがそういう悪を産み出すのである。現実になぜアメリカが原爆を日本に落としたのか?
戦争自体が非道だから人間的なものをはみだして残酷非道になる
戦争は日本だけが悪いとはいえない,戦争そのものが悪いのである。
どの国が悪いとはならない,アメリカも悪いのである。
日本だけが特別悪いものとして糾弾しつづけられるのはおかしいのである。

いづれにしろ国家間の戦争とかなると争いとなると公平に裁く者はいない,勝ったもの強いものが正義となってしまうのである。
だから常に日本人が悪者とされて謝罪を要求され下位に置かれる
アメリカや中国でもロシアならそうはならない,日本だけがそうさせられているのは国が弱いというだけの理由なのである。

ともかく姉は死ぬ間際まで戦争のことを語り死んだ,それだけ戦争のことが忘れられなかったのである。特に20代の青春が戦争だったから余計にそうなったのである。
戦争の興味は自分の場合は姉から聞かされた話が生々しいものとして残る
従軍看護婦の四年間は辛いし普通では勤まらない,特に敗戦になったジャングルに逃げたときは食うや食わずになり苦しんだ
そして死ぬ間際まで認知症になっても同じ従軍看護婦の戦友のことを忘れなかったのである。青春がまさに戦争だったからそうなった,青春時代は一番印象に残りやすいからである。

戦争というときやはりNHKとか左寄りの圧力が強い,すると常に日本は謝罪すべきだということが知らずに思い込まさせられるるのである。
つまりテレビ見ていると知らずに洗脳されるのである。
なんて日本人は悪い奴なんだ,戦争の責任は日本人にあり日本人は謝罪すべきだとなるのである。そういう意図でもってNHKでも他でも番組を作っているからそうなるのである。
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2017年08月14日

お盆もすたれる? (何でも時代の影響を受ける)


お盆もすたれる?

(何でも時代の影響を受ける)


そもそもお盆に先祖の霊が帰ってくるということそのこと自体が維持できないものになってきたのかもしれない,その感覚がのみこめなくなった
ただ慣習としてお盆があるから墓参りするとかとなる
それが若い人に顕著になったというときお盆自体がすたれてゆくのか?

墓の跡継ぎもなく,墓を維持できないとかある,墓とは何かというとき江戸時代あたりだと庶民に墓はない,この辺だとホトケッポというのがあり共同墓地であり村の人を埋めていた場所である。そこには墓はなかったのである。
そして今そうした墓をもたない共同墓地を志向しているのも昔に回帰しているとなる
ただそれは昔と同じではない,墓友達とかいっても村のコミニュティは根本的に違う。

家制度ができたのは明治以降である。・・・家の墓というのは江戸時代にはない,武家でも個人墓である。墓とは特定の個人を思い出すものとして作られた
だから一家の墓とかでも知らない人がいると供養するにもしにくいのでてある。
自分の場合は父親と姉と母と兄は知っているから供養しやすい
一番かかわったのは姉と母であり終生忘れることができない生々しいものしとてある
一家の墓でもやはりその人を知らないと供養しにくいのである。

現代の社会は広域化している,昨日駅に来た人は宮城県の主審で大阪の会社に勤めているという,ここに来たのは営業のためだという,墓参りに来る人もいる
前に来た人は小高の出身で鹿島にきて新地にも墓参りしていた,その人は仙台に住んでいる,駅にいると仙台に住んでいる人が本当に多い
自分の墓地でも実家の原町の墓地でも仙台から来る人が多いのである。

故郷に代々生活する人が少なくなっている,だから家でも墓でも跡継ぎがなくなる
ただ江戸時代辺りは家は代々つづくものとしてあった
あまり変化がない農業社会だからそうなっていた
でも別に一家の墓はないのである。
墓を作るだけの富がなかったともいえる

現代人が墓に執着しなくなったのはなぜかと問えばもともと墓に執着していない
その昔にもどったのかともなる,お盆に墓参りというけどこれも江戸時代なら墓がないのだから墓参りはしていないとなる,ホトケッポという村の共同墓地に墓参りしたともなるのか?それは村人が埋まっているのであり個々人や家族の墓ではないのである。


ただ墓というのは家がなくなっても墓地にある,ここに生きていた証のように墓だけが残っていることがある,近くで事業に失敗して一家離散になった人の家の墓も残っていた
それでその人のことを思い出した,その人のことを知っているひとはもう若い人にはいないのである。
人間は死ぬとすぐに忘れられる,それより生きていても退職したりしてなにもしないと会社からも忘れられ地域でも活動しないといるのかいないのかさえわからなくなる
退職して何もしないで20年くらいたつといることすら忘れられる
それが実際は怖いことだった,それは一つの死だったのである。

今の時代高齢化社会そういう生きながら死んでいる人を大量に産み出しているのである。
家制度の上にお盆が成り立つというときそれもすたれるのかもしれない,社会が変わったからである。それとともに風習とか慣習も維持できなくなる
あらゆるものが変わることをまねがれない,ただ死んだ人を偲ぶということは変わることがない,人間であるかぎりそうなる,ただ先祖とか一家とかなると偲ぶとしても抽象的になるからすたれる
妻をなくした人が毎日あたたかいご飯をあげているというのには感心する
自分はずぼらだからそんなことはしていないからだ

ただ自分は姉と母のことは終生忘れないのである。
争いがあったにしても何か自分にとってはいいものだったのである。
姉と母がいなかったらこんな自由な生活などできなかったからである。
自分にとってはいいものだったから死んでも思っているとなる
でも親子でも必ずしも親を思うとは限らないのである。
親にひどい目にあった人は供養すらする気がないのである。
だから親だからといって親を思うとは限らないのである。
つまり親にもいろいろあるからである。毒親も普通にいるからその子は親を思わないのである。。

人間の心は偽れない,供養するにしてもそうである。死んだからみんなかわいそうだともならないのである。墓参りをしても実際は何もえられないから死んでも墓参りもしたくないというときその人は死んだ人に対して何の思い入れもないからである。
別に墓がなくても死んだ人を思っている人は思っている
それが墓参りとなり供養となっているだけなのである。
そもそもその心がない人は供養する心ももてないのである。
一番大事なのは墓があるとないとかではない,心があれば墓が無くても供養するのである
だから別にお盆がなくなっても死者を偲ぶということはなくなることはない,個々人でもそうであり供養するからである。ただ集団で国の行事のように供養するということがなくなるだけである,故人を偲ぶということはなくならないのである。

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こうして捨てられる墓が全国的無数に増えている


タグ: お盆

木槿とお盆


木槿とお盆

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写真は花を活けたらすぐにとらないとだめになる
とりかたも結構むずかしい




なにかあれここに住みつき木槿かな

雨しとと石に木槿や田舎かな

夏燕水面に触れ飛び涼しかな

電車来て黒揚羽舞う田舎駅


姉と母なお我が家にともにあれ今争わず供養するかな

畑よりとりにしダリヤ霊前に備えてでで虫つきてありにし

のうぜんのなお残り咲き雨にぬれ散りけるかな夏はすぎなむ


今年の天気はおかしい,最初に早めに暑い夏が来て次に梅雨が長引いていま感じだ
だから季節の感覚がおかしくなる,こういうことがこの頃多い
蝉にしても夏に盛んに鳴くが実際はもう秋であり秋の蝉になるけどそういう感じがない
逆に秋が早く来すぎたともなる,季節感がこの十年間くらいおかしいのである。

お盆にふさわしいの木槿の花である。何か田舎的であり素朴な感じになる
花にはいろいろあるが何かを象徴している,俳句は短いなかに深さを現す
要するに俳句は作る方より鑑賞する方が試されているのである。
短いからそこに深いものをくみ取ることが鑑賞することが必要になる
そもそも木槿の花がどういうものか深く見ることが必要になる

そして人間はある場所に定着しないと深くなんでも見れない,旅では通りすぎるだけだからである。定着する場が必要なのである。それは故郷なくてもいいのである。
ただ田舎でないと定着しても何か自然の深さを知ることはできない

知っている人が畑からダリヤをもってきた,そのダリヤを見たらでで虫がついていた
こういうのが田舎ならではではでる,ただその畑では金がかかり収穫がほんどない
ただ草むしりしているだけなのかとなる

電車が来てく黒揚羽が舞う,黒揚羽がつくづく田舎の駅にふさわしかった
駅もお盆でにぎわっている

ともかく今年は季節感が狂った,そうなると俳句でも何かうまく作れないとなる
俳句は季節感を基にしているからである。ここ十年は季節感が狂う,すると俳句の文化すら影響を受けているのである。
5,6月辺りが真夏のような時がありその後梅雨が今もつづき秋になるとなると季節感が狂ってしまうからである。

タグ:お盆 木槿

2017年08月13日

夏の光(sunlight in summer)


夏の光(sunlight in summer)

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sunlight and shodow

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 into forest in summer

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a river in summer
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a city in the sea
posted by 老鶯 at 15:51| Comment(0) | TrackBack(0) | 抽象画の部(abstract)

人生とは何かを究めること (道を究めること)


人生とは何かを究めること

(道を究めること)


日本語には道とつく言葉が多い,剣道、柔道、弓道、華道、香道、武士道、茶道、書道とかいろいろある,武道とは単に格闘技ではない,道を究めることである。
道を修めることである。宗教でも神道となり神ながらの道を究めることになる
道は極めて日本的な思想であり宗教にも通じているのだ
道を究めるというときはそれはあらゆる分野に通じている
江戸時代なら職人道があり職人は刀鍛冶でも最高の刀を作るために精進していた
それはあらゆる職業でもそうだった,特別な職業だけではないのである。
英語だとはworkである,作品を作るために精進していたとなる
江戸時代までこうして個々人が道を究めることに生きていたのである。
明治以降は会社組織になり会社がwork(作品)を商品を作るために会社員全部で精進しているとなった,だから個々人の道を感じなくなったのである。

例えば旅でも旅を究めたのが最初は西行であり次に芭蕉とかであり近代では山頭火などになる,旅を究めるというとき芭蕉のように人生自体が旅としてとらえるようになったのである。人生は旅だとしたのである。それこそ旅を究めたとなる
現代では旅というときただ保養する気晴らしという感じしかない
うまいものを食べて違った環境で気晴らしする,旅人はもういない
江戸時代だと歩いて移動するから隣の町まで行くのにも旅になっていたのである。
今は平泉まで二時間半だとかなれば旅とはならない
途中は通過して一挙に平泉につくから深い感懐も抱けないのである。

だから旅人はいない,ただ移動して気晴らしする人であり観光する人である。
旅人となることは実際は容易ではない,今になると余計にそうなる
移動しやすいからそうなる,自分の場合,自転車で旅したときある程度は旅人になっていた,一カ月くらい旅したからである。
その時必要なのは今のようなホテルとか旅館とかではない,江戸時代のような泊まるだけでいい宿なのである。特別土地のうまいものを食べることでもない,そういうものに金をかけることではない,一宿一飯の宿なのである。
木賃宿というときそういうものだった,そういう宿が多かったのは江戸時代は移動することが容易ではないから簡易な宿で良かった,移動するだけで時間がかかるからそうなった今はそういう環境が失われたから旅もなくなり旅人もいなくなったのである

ただ以前として人間には旅をしたい,別な世界を見たいということは変わりなくある,現代だとだから世界旅行が人気になるのである。
常に言っていることだけど学問の基礎は地理にあるというとき旅しなければその地理感覚が身につかないのである。近くですらそうだった
江垂のことを書いたが地理的に誤解していたのである。広い範囲が江垂だったのである。郷土史を究めるというときもやはり地理感覚が基礎にないと究めることができないのである。

いづれにしろどんな分野にしろ一芸に秀でることが生きることになる,そのために日々ある。それはつまらないことでもそうなのである。雑学すらそうである。
地名学があるとする地名など学問なのかとなるがやはり学問になる
雑学にしてもやはりそれを究めるには積み重ねが必要であり地名を究めてゆくことが必要になる,それは人間のあらゆる分野でそうなのである。

医者だったら医道を究める,やはり医者として熟達してゆく,すると神業的な神の手をもった医者になる,手術のうまい先生でそういう人はいる,ただマスコミにもてはやされる人はみんなそうとは限らない,マスコミの人の判断は何か実力ない人でも有名にするからである。
ただ本当にその分野で実力あり神業的な人がいることは確かなのである。
それはどの分野でもいるのである。人間国宝とかなるとそういう人だろう。

現代でも組織の時代でも道を究めるということはある,ただ集団で道を究めることはありえない,カルト宗教など道を究めるなどとは何の関係もない,ただ数を増やして権力をもつというだけだからである。そんてところで道を究めるなどは全くない
現代で道を究める生き方がしにくいのは組織化集団化の時代だからである。
workするにしても一人ではなできない,何か発明するにしても組織で会社でしているからである。道を究めるというとき江戸時代までは個々人で究めていた環境があった
そこに現代で道を究めることのむずかしさがある

道を究めるというときその道を究めた人に弟子入りするということがあった,師が必ずいて習ったのである。現代ではそういう関係は築きにくい,ただその道に優れた人はいる
南相馬市の病院には脳外科で優秀な先生がいてその先生に習いたいために全国から研修生が集まるというときそうである。
そういうことが医療の世界でもいろいろな分野でもある

人間にいろいろな考えがある,いろいろな人がいる,それが一貫してそれぞれの道を追及すると豊かなものになる,ただ自分のしていることが何なのかわからないことがある。
でもわからないなりに学問でも芸術でも職業でも道を究めることをしていると最後に実りがある,郷土史なども雑学のようなところがあるがやはり郷土というのをあらゆる観点から究めようとしているのである。
それが津浪や原発事故などで郷土学というものが必要だったことを知らしめたのである。原発事故では郷土そのものを失うことになり故郷とは何かとか問われたからである。
故郷を失った故郷の意味が追及されたのである。

道を究めるというとき重要なのは雑念とか欲望とかいろいろなものを遮断する必要がある
だからある意味で道を究めることは精進することは修行でもある
この世の欲望にふりまわされていると修行しにくい,精進できないからである。
そして人間に与えられた時間は限られている,たちまち時間はすぎてしまうのである。
でも後で雑学すら役に立っていることがわかる,様々な経験したことも活きてくる
だからどんな職業でも何でも自分は自分のあった道を究めているという自覚が必要なのである。ただ会社人間化しているとい俺たちは社蓄なんだよなというとき一生を奴隷として終わるかもしれない,そうして終わった人生は何なのだろうと悔いるが万事休すとなってしまう。もう人生は一回だけであり取り戻せないからである。
タグ:道を究める

2017年08月12日

津浪で判明した江垂の地名の謎 (気になる江のつく地名2-地名伝説には嘘が多い)


津浪で判明した江垂の地名の謎

(気になる江のつく地名2-地名伝説には嘘が多い)
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津浪浸水地域

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津浪は六号線を越えてきていたのである。

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「えびす」の語源は、「エミシ(蝦夷)」が「エミス」になり、「エビス」になったとされている。また、「えびす」は蛭子の神さまでもあり、水に関わりがあるから、兵庫県の西宮戎神社や大阪の今宮戎神社のように海に近いところにあるのが多いのである。

気になる江(え)の地名で考察したけど今日自転車で六号線を通ってきたら小島田は自覚していたが六号線沿いに江垂(えたり)の地名の表示があった
ここも江垂なのか?江垂は街内でもあるからこんなに広い領域だと思わなかった。
そもそも村の境はわかりにくい,江垂と小島田の境はわかりにくい,小島田はほとんど津浪の被害があった,江垂はなかった。
でも江垂まで津浪は押し寄せていたことになる
小島田の地名は湿地帯であり島のように田があるということになる,湿地帯が広がってそこを田にしたのである。地形的にはあっている

江垂の地名の起こりが都の貴人が来て水で袖を濡らしたことでその名がついたという伝説がある。江を衣垂としてその伝説が生れた,それは根拠のないものだった
地名伝説は何かこうして後世にあてつけでその由来を説明している
なぜそうした地名がついたのか後の世の人は不明になったから勝手に地名を解釈して地名伝説を作ってしまった,地名の由来の伝説は信用できないのである。
ただ地名はそれだけ古いからその由来がわからないのが多いのである。

江は水と関係しているから袖を水でぬらしたというのはあてはまっているかもしれない,ということは海が迫っていた,海水でぬらしたのかもしれない。
縄文海進があり海が奥まではいりこんでいたことは今回の津浪で実証された。
塩崎(しおのさき)はもともと海の崎にありつけられた名である。
そこに船着とか地名があるのも古代に船が着いたからその地名が残った
そして今回の津浪はすぐその近くまで津浪が押し寄せていたのである。
あそこは低い土地だから奥まで津浪が来たのである。

江垂の地名は海に面していたということで生れたのではないか?
江とつく地名は海に関係している,水と関係している
垂れるの意味は

一続きのものの端がだらりと下がる

海が一続きとしてありその端だというとき位置的にはあっている
江垂が海が迫っていたことが気づかなかったのはそれほど奥に端に海がつづいていたからだとなる
それは蝦夷(エソ)に由来していることでも縄文時代からの言葉に由来している

桜田山の下からせ縄文人の遺跡が発掘されている,そこからは鹿の骨とか海の魚の骨が発見された,そこは狩の場でもあり漁をする場でもあった,つまり海が近くに迫っていたから海の魚がとることができたのである。
海に近ければ海の幸で生活できる,その海も入江のように入り込んでいると荒くないから漁ができたとなる,だから海老はエヒでありこれも海に面して住んでいた人達である。
江垂も同じだった。
不思議なのは海老とか江垂でもそこは蝦夷という原住民が住んでいて外来の人達との争いの地点でもあった

なぜなら桜田山の下に第六天の祠があり第六天とは魔神の意味でありそれは大和朝廷に抵抗した人達としていたのである。悪者にされたのはインディアンなどともにている
西部劇ではインディアンが常に破るものとして退治するものとしてドラマが作られていたからである。戦争では強い方が勝手にドラマを作るのである。
海老にも御刀神社がありそれは海老村に蝦夷が住んでいて抵抗した,それで刀で責めて征服した地点だとなり神社が祀られた。
海老からは弥生時代の遺跡が発掘されたから相当に古い場所なのである

ともかく日本には江とつく地名が北海道でもどこでも多いのである:それはなぜか?
日本の原住民が蝦夷でありそのエゾのエが全国に地名化して残った。
それは縄文語に由来しているのである。
蝦夷というのは謎であるが大和王権が日本を統一するときその前から住んでいた原住民である。それらの人達は歴史から消えたが地名としてその存在を残していた
アイヌも蝦夷なのかどうかわからないがアイヌはむしろ蝦夷の後に来て蝦夷と同一化された民族だともなる,その前に蝦夷がいたからそうなったのである。

ともかく歴史でも考古学でも何でも地理に詳しくないとわからないきである。
地元にこれだけ長く住んでいても地理がわからない,江垂は街内と見ていたのである。
でも今回の津浪で海が迫っていたのである。それは津浪が知らしめたとなる
posted by 老鶯 at 21:09| Comment(0) | TrackBack(0) | 地震津波関係

マスコミにはリアリティのある報道がない (個人の経験にリアリティがある)


マスコミにはリアリティのある報道がない


(個人の経験にリアリティがある)


マスコミの報道に本当のリアリティがあるのか?
例えばこの辺で起きた原発事故騒動でも報道するときリアリティのある報道をしただろうか?
確かに自分が原発避難者を批判したとき小高の人などから反発をくらった
でも現実に原発避難者が何をしていたのか?毎日パチンコ通いだったのである。
その時ボランティアが来て働いていたが避難者は何もしていない,パチンコでギャンブル通いだったのである

それにも理由があるにしてもともかくそれが現実でありリアリティだったのである。
そういうことはあまり報道されずただかわいそうだかわいそうだということしかなかっただから原発避難者に文句言うことはタブーとなっていたのである
マスコミでも常にかわいそうな人達としてその人たちを批判しないからである。
今でも何か小高の人達に文句言うと怒る,俺たちはかわいそうなんだぞ
何で同情しないんだとなる,そんな奴は誰もいない,マスコミの報道を見ろとなる。

別に自分でもその時介護や自分の病気で苦しんでいたし他の人も貧乏で苦しんでいた人もいる,借金で苦しんでいた人もいる,そして何か自分にその矛盾が現れた
自分が苦しいことなど関係なく親戚の人はパチンコ屋で借金を返すために働いていたのである。別にこれは原発避難者が悪いというのではない,ただそういう矛盾を生み出したからこそ原発避難者に腹ただしくなったのである。
ただその矛盾が実はリアリティだった,そのリアリティを自分は報告したのである。
報道で大事なのはリアリティなのである。
でもマスコミではリアリティは報道されないしされたとしても確かめようがないから何が真実かわからないのである。

良く極貧のことを話題にするけどそれも嘘だったということがわかった,それもNHKがその嘘を作り出していたのである。そこに本当のリアリティが報道されなかった
リアリティとは何か?それは事実なのである。
例えばリアリティというとき時代劇でもリアリティがあって成り立つ,事実があって成り立つ,ただ人などあんなにバタバタ切れない,ただその物語に何か事実がありリアリティがありそれで見ている,全く架空のことならドラマでも感動しないのである。

リアリティというとき報道されてもその事実を確かめようがない,だから映像でも作られた映像でだまされたことがあった,イラク戦争で泥まみれの海鳥の写真が世界中に衝撃を与えフセインは悪い奴だということがすりこまれたのである。
一枚の写真が世界をだました驚きである。その報道が確かめようがないからそうなる

マスコミの報道からは本当のリアリティを事実を伝えるのではなく常に放送局の方針によって編集して伝える,例えばある番組を現地の取材でも実際は100もの写真をとっている
動画をとっているでも報道されるのは1しかない,すると実際はのこされた99の記録したビデオに本当のリアリティを感じるものがある,でもそれは見れないのである。
ただyoutubeでは単調なものでも延々と写している,それができるようになったのがインターネットである。でもマスコミではそれでは視聴率がとれないからいい場面しか写さないのである

マスコミでは視聴率を一番に考慮する,阿部内閣の新しい組閣でもマスコミはサプライズを好むというときそうである。何か目立つものがないと誰も注目しないからである。
マスコミは常にサプライズを好むのである。目をひくものがないと視聴率が上がらないからである。
ただサプライズだけに目がむくと肝心の重要な事実が見逃されてしまうのである。

人間はいくらグローバル化しても世界の事実を知ることは不可能なのである。
だからフェクニュースでも信じてしまうのである。フェクニュースでもサプライズだから見るのである。視聴率を上げるためにインターネットでもそうしているのである
まずインターネットで読まれことは至難だからである。

リアリティとは何かというときそれは平凡な人でも日々経験していることがありそれを報告すればリアリティになる,だからインターネットがでてきてそうした個々人の経験が語られる,そこにリアリティがあることを知る
マスコミでは報道するときはそれが編集されているから本当のリアリティがわからない。それで個々人のプログでもネットでもそうしたリアリティに感心することがある。
ただインターネットは何か情報が多くて混乱しているから探すのがむずかしい。

自分がなぜ津浪や原発事故で報道したときリアリティがあったかというとその現場にいたからである。だから八沢浦が元の美しい入江にもどった写真入りで報告したときここで泥の中にうまった子供の死体が発見されたのだと顰蹙を買った
それも事実なのである。では昔の入江になり波がよせて太陽の光できらきら光っていたのも事実なのである。本当にそれが美しかったのである。
福島県では海があっても入江がないからである。荒々しい波が寄せるだけの荒寥とした風景なのである。ただ入江になると波も穏やかでなごむのである。
それが津浪で再現されたことに驚いたのである。

ただ津浪ではどろどろとして瓦礫の山となったことしか報告されていない,ただ悲惨なものしかなかった,でも一部に美が生れていたのである。それも事実なのである。
でもその美が生れたことは報告されていない,すると全体的に事実が報道されていないともなる,津浪はただ地獄的なものであり何にもいいことはなかったとなる
それは事実にしても八沢浦とか他でも海になったというときそこに美が生れていたのである。特に宮城県のように入江がない福島県ではそうだった

いづれにしろ事実をリアリティを伝えることはできない,その人の目で五感で感じたものを伝えることがリアリティなのだけどマスコミで報道されるのはマスコミという組織が会社が編集したものであり本当のリアリティとは違うのである。
ただマスコミの報道にもリアリティはある,ただ意外と地元でないとわからないことがある

例えばNHKで相馬市のトマト農家が飯館村の原発避難者を採用しなかった,それは相馬市は津浪の被害が大きい,だから津浪の被害者を優先した,それは別にトマト農家が差別したわけでもないのである。
なぜなら原発避難者には手厚い補償金が支払われていたからである。
それから浪江の会社経営の人が元の仲間に仕事をくれと頼んだらあんたは補償金で億の金をもらっているから仕事はいらないだろうと断れたということをちょっと漏らした
そのことは外部の人だとのみこめないだろう。
でも地元だとピンと来る,一番補償金でもめていたからである。
でもマスコミの報道はなぜ原発避難者を差別するのかと伝えられるのである。

要するに報道というのは相馬地方から福島県とか東北とか全国レベルにさらにグローバルになると確実にリアリティを失ってゆく,事実を確かめようがないからマスコミによって操作されることが多くなる,歴史も事実が基なのだけどそれがドラマ化するとドラマが真実のように思えるのである。
坂本竜馬が英雄化されたのも司馬遼太郎の小説によってである,小説は作られたものであり事実があってもそうである。でも小説の方をドラマを真実とみるのと同じである
そこに何がリアリティで真実なのか事実なのかを見極めることができなくなっているのであ。

とにかく報道は事実をリアリティを基にすべきなのだがそうなっていない
マスコミの意図されたものが報道される,それは作られた報道だともなる
都合の悪いものは報道しないしマスコミの意向に反するものはとりあげないのである。
江戸時代のように相馬藩内とかで暮らしていれば狭い世界だから知ることがでる
しかしもう福島県でも東北でも全国レベルになるとグローバルになると報道はリアリティを失い,ただマスコミによって操作されるだけだとなっしまっているのである。
そこに報道の根本的な問題がある,それはなかなか解決策が見いだせないのである
人間は今や報道によって翻弄されるのであり自らではもうその事実も確かめようがないからそうなってしまったのである。

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八沢浦が元の美しい入江に戻った!

2017年08月11日

強者が弱者となり弱者が強者となる (賢い者が愚か者になり愚かな者が賢い者となる)


強者が弱者となり弱者が強者となる

(賢い者が愚か者になり愚かな者が賢い者となる)


人間はみんな最後に老人になるとこのことを頭ではなく現実問題として実感する
理屈ではない,現実として事実としてつきつけられる
人間はいくら人生論だとか読んでも他人事なのである。
でも現実に家族とか身近な人とか自分自身とかにじかに起きてくることは否応がでも
その事実で知らしめられる,それを自分も実際の事実として家族とかでつきつけられたから驚いたとなる

今でもその死は信じられないとなる,本当に体力的に頭脳的にも優れた人が認知症になって死んだ,それは馬鹿になって死んだともなる
身近に接していたから女性でも男性並であり男性でも怖がっていたのである。
全然人を恐れないことの驚きである。女性でもそういう人はいる
そういう人は実業家とかであり政治家であり何かをできる人間なのである。

それがあえなく認知症になって死んだということが信じられないとなる
一方は愚かと見えた人は実は愚かではなかった
認知症にもならないし正直な人で親切な女性だったのである。
そういう人はただ目立たないし何か優秀なことはないのである。
でも死にざまをみると愚かは見えた人が賢かったとなる

 わずかな人間の知恵の幅である。賢さの中にも愚かさがあり、愚かさの中にも賢さがひそんでいる。

 例えば人生を生きる時,みんな賢く生きたいと思っている,愚かに生きたくないと思っている,でもこの世を生きることは利に聡く賢く生きることが得をする
賢いといってもずる賢いとかもあり賢さがいい方面にだけ働かないのである。
あの女性は馬鹿正直で嘘をついたことがない,愚かだともなっていた
でもそれだけ正直だとなると今の世の中にいないとなる
愚直だという言葉もある,何か筋を通すとなると功利的ではなく愚直を要求される
だから賢くふるまうということは悪い面としては功利的にふるまうことである。
常に利を求めて利でもって判断する,一方でそうしないものは賢くない馬鹿だとなる

また聖書でも高きものは卑くくされるというときもそうである。
自分が偉いとか優秀だと思っている人は地位とか富のある人は卑くくされる
そういうことを身内の死とかで実際まざまざと見たから驚愕した
認知症になることはいかなる優秀な地位ある人でも馬鹿になるという恐怖なのである。
だからあまりにも悲惨だったとなる
その認知症になる人が将来二〇年後くらいに四〇〇万人にもなる
そうなると認知症になことはめずらしいことではない
最後は人間は馬鹿になって死ぬのが定めなのかとまでなる

親戚の人は理系であり常に優秀だとされていた
それで事業を起こしたが失敗した
経営者と技術者とは違うから経営には優れていなかったのである。
理系は文系を馬鹿にするが理系もまた馬鹿なのである。
人間はそもそも賢くなれないからそうなっている

人間は永遠に賢くありえない,個々人でもそうだし人類全体でもそうである。
いくら科学技術が発達しても同じである。
この辺で起きた原発事故をみればわかる,最高に現代では賢いとされた人達が科学技術者が事故を起こしたからである。
その災厄は甚大であり回復不可能までになり人は住めなくなったからである。
原子力発電を核を操作する知能があってもそれが賢さにはならないのである。

逆に核戦争になって人類が滅べば人類ほど愚かな者はいないとなる
それで猿の惑星の映画がそのことをわかりやすく指摘した
猿は人間から見て愚かな知能のない馬鹿と見ていたが人間が核戦争で滅んだのだから
人間は賢いとされた知能故に滅びたとなる

いづれにしろ人間は神のように賢くなることはできない,人間は何が本当に賢いのか賢くないのかわからないからである。
科学技術が人間を賢くするわけではない,それを悪用するのも人間だからである。
すでにドローンが兵器としても活用されてロシアのクリミヤで成果を上げていたのである常に科学技術は戦争に用いられ悪用される,だから常に人間は賢いのだが愚かだとなる

賢さを追及しても結果的に愚かなことになりまた愚かさを愚直を貫いたことが賢さに通じていたともなる,全体的な知恵とか賢さをもつのは神しかもち得ないのである。
そこに人間の限界がある。
科学技術がすべて否定されるものではない,電気でもそうである。
それが人間を賢くするものではない,むしろこの辺で原発を建てるとき金になるからと賛成した,でももしそんなものいらないとか愚直に反対したら今になるとその人が賢かったともなる
山尾三省のようなパンが贅沢などと言っているのは馬鹿だとなる
だが今になると原発事故で見直されるようになったのである。

2017年08月10日

陰(影)なる人間



陰(影)なる人間


日があたれば影ができる,人は陰(影)となり生きる者がある、男の陰は女であり妻である,華々しく注目を集める人の陰に必ず影となる人がいる
政治家でも議員の陰となる者が秘書である,俳優でも主役と脇役がある
注目は主役に集まる,陰は表に出ない,それが定めである。

この世の中に陰となる者が実は多い,多くの普通の労働者は目立たない,陰のような者である,掃除している人は目立たない,陰となり仕事する人は多い
陰の存在は主役が消えたとき意識される
主役を支えた者としての影が浮かび上がる

そして陰は影はいつでもそこにある,それは以前として目立たない,ただ陰は以前として自分を主張しない,それでいいとしている,みんな主役になりたい,目立ちたい,でもなれない,ただ主役になるのはまた風当たりが強くなる,矢面に立つことになる
主役には主役の役があるが主役あり脇役がありこの世は成り立つ

今にして気づく,影のようにいつも寄り添いあったものを,それは目立たない,影でよしとしていた。そういう性格でもあった,その性格に生きた
主役が消えたとき華々しさもまた消えた,でも影はいつまでもそこに残っていた

日があたれば影ができる,それは法則である。人の世もまた同じである。
陰となり働く人は多数である。華々しい主役はまれである。
しかしその陰には陰となり働く人がいる,人間にはまた陽と陰があり調和する
陽は陽の働きがあり陰と陰の働きがあり調和する

内なる人と外なる人がいる,それは人間の性格であり性格に人は生きる
人間にはその両方が必要なのである。
ただ本当に陰なるものは気づきにくい,その存在を意識するのは主役が消えたときであり後になる,でも陰なる存在に気づくときその影はいつまでもやはり寄り添いある感じになる,妻がある時妻は意識しにくい,死んだとき意識される

そういうことはこの世に多い,普通にあるものは当たり前にある者は意識しにくい,それが失われたとき意識する,その存在に気づく,そしてその影はやはりいつも寄り添っている,陰はなかなか消えないのである。主役は華々しいが一旦消えると忘れやすい
ただそれもその人の性格でありその人はそういうふうに生きることを宿命づけられていたのである。

まず陰なる人は主役のようになれない,その能力がないからである。
ただ陰としてのみ生きる,そういう能力しかない,しかしそれもまた不可欠なものとしてこの世にある,主役にはなれないし成りたくない人はいる
みんな社長には向いていない,主役には向いていないからだ

神が男女を造られたのは陽と陰として造られたのである。それは太陽と月のごとくでもある,陰陽の原理がこの世には働いている,太陽は男であり月は女である。
自然にも陰陽の原理が働き世の中にも働く,その定められた宿命を否定することはできない,男には男の役目があり女には女の役目がある,それを越えること否定することはてきない,否定すれば不自然なものとなり世は乱れる

一生陰となり生きた者よ,そなたは今も影としていつまでもある,主役として生きた者があり陰として生きた者がある,その両方によって人は支えられている
この世に生きる者は大方は陰である,目立たない,そう強いられているともなる
しかしそれが世を支えている,目立つ者だけでは世は支えられないのだ
目立つものには目立つもの主役としての責務がありそれを成すからこそ主役なのである。
陰なる者はそれができない,主役のようにできない,だから陰として影となり存在する
でも全く影にすぎないのかというとそうではない,それはいつまでも存在し続ける
それは主役が消えたときその影に気づくのである。
陰になり働いていた者にきづくのである。

ただ人は陰になることは嫌う,でも主役になるにはそれなり技量が必要なのである。
では陰になるものが目立たない者が存在感がないのかというとそうでもない
陰になる人は主役が消えた後々までも存在し続けるのである。
いつも寄り添い陰となり存在しつづける

太陽があり月がある,陰陽がある,それは宿命である。それぞれに補いこの世がある
その原理に逆らうことはできない,陰なるものもまたこの世を支えている
そして大方は陰なるものとして生き陰なるものとして終わるのである。
その存在は影とてし終わるかというとそうでもない,いつまでも陰なる者として支え寄り添いある

台所にたたずみあわれ我が母を思い悲しき一人料理する

この母を妻にしてもいい,毎日自分で家事を全部しているときこのことを感じた
誰も本当に家事をしてくれない,一枚の皿を洗うこともしてくれなかった
今でも実際はそうである。ただ自分が全部を負うようになったのである。

負うべきは我が一人のみ頼れずに日々一人台所に立つ

家とか家事とかは何か全部一人で負うことは容易ではないことを知った
介護の時もそうだけど家は少なくとも二人以上いて家なのである。
なぜなら留守になると誰もいないから不安になるし何か常に不足を感じるからだ
だから一人より集団で生活した方が楽である。
食べ物でも一人だと損である,古くなって食べられなくなるのが多いからである。
だから今の世の中単身で暮らす人や老人が多いことは人間としては異常なのである。
それは社会自体が歪んでしまったからなのである。
自分は自分の特殊な事情でなったのだが他でも同じだったのである。

2017年08月09日

原初の山2(mountains in the beginning2)



原初の山2(mountains in the beginning2)


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同じように見えても違っている,そういうものが大量に作られる
ただそうなると何か平凡に見えてしまう
それは自分の能力で描いていないからそうなる
ただ機械的なソフトの作用でそうなっているからである。
そこに限界があるのだがただ大量に生産できるのは機械的操作でしているからである。


This is because it do not go by action of so only mechanical software because different such things do not picture it which then is only seen in the anything ordinariness which is made in large quantities with one's ability even if they see it in the same way, and it is.
There is a limit there, but this is because it is only mechanical operation that I can produce it in large quantities.
posted by 老鶯 at 08:36| Comment(0) | TrackBack(0) | 抽象画の部(abstract)

2017年08月08日

心が通う田舎駅(詩) (機械自動化しても人間的な仕事の価値は高まる)


心が通う田舎駅(詩)

(機械自動化しても人間的な仕事の価値は高まる)


駅は母が子を待つように
あたたかく待っている場所
ぬくもりのある場所
駅はまたは無事を元気なことを
祈り見送る場所
老いも若きも男も女も
ここに住む人も
外から来る人も
様々な人が行き交い
駅は熱気を帯びる
「行ってらっしゃい、お帰りなさい」
あたたかな人間の血が通う場所
一時の出会いなれども
駅には人の心が通う場所
そこには駅員が必要なのだ
すべて自動化機械化はできない
人間は心を持っているから
あらゆる場所がそうである
心が通いあうことを願うから
薬を売るならその人の病気の直ることを
私の作った野菜を食べてください
私が苦労して精根こめて作ったものです
その手から直接与えられたら
その本当の価値を知る
ただ金を得るだけではない
物には人の心が通い物の価値が生まれる
心をこめて作られたものに価値がある
医者はいくら機械に囲まれていても
そういう心をもたないと人をかえって傷つける
今人に欠けているものあたたかい心
科学技術がいくら進歩しても
そこに人間の心が欠ける時索漠とした社会
駅で母が子を待つように
寒い日でも誰かが待っている
あたたかく待っている場所
忠犬ハチ公のように待っている
いつまでも主人の帰りを待っていた
大きな駅にはそれがない
人々はただ物ののように流れてゆく
小さな駅はかえって心が通う
そこには駅員が必要なのだ

これは別に駅だけの話ではない,どんなに機械化自動化しても人間が必要なのである。
ロボットに介護してもらいたいか?ロボットは補助にはなるが心をもてない,愛ももてない,だから人間の代わりにはなれない,未来は機械化自動化であり人間がいらなくなるということはありえないのである。

確かに鉄道の方が全自動化して運転手も車掌も駅員もいらなくできる,そうなるとどうなるのか?何か索漠としたものにならないか?ロボットに見守られている世界は情なき世界になる,それは社会全体でも言える

牛馬を必要としていたときなぜJそこで情が育まれたかというと牛馬は機械ではないからである。やはり人間の情が通じる,それで馬と結婚した娘の話が残っている
それだけ動物でも情が通じ合うから情が育まれていた,なぜこれほど犬猫のペットブームになっているのか?それは人間の情が通じる,情を求めているからである。
機械には情が通じないのである。

駅では無人化してもやはり必ず家族が見送り出迎える場所である。それはまさに家族の情が通じる場として駅がある。そういうふうに人と人が情で結び合う場所がどこでもある
駅は公共的な空間でもある,車は一台一台閉ざされた空間であり一緒に多数の人が乗りあわすことがない,乗る人は個人か家族か親しい人だけでありあとは排除される空間なのである。

電車とか駅は見知らぬ人が交わる空間でもある,見知らぬ人も行き交う場である。
それも子供から老人までみんな行き交う場である。
今はそういう場所もない,学校は子供のいる場であり病院や老人ホームは老人だけがいる場とか分離して閉鎖されている
昔の村の方が世代間で分離していないし交流が生活の中で自ずからあった
人間が世代でも男女でも仕事でも分離されて交流できないのが現代である。
そこに情が通わない歪な社会になっているのだ。

機械化自動化で人間が働かなくても良くなるということはない,逆により人間的なものが求められる,介護でも力仕事はロボットとかるが愛情ある介護は人間しかできない
機械的にできるものは機械にまかすとしてもやはりどこにも人間にしかできないことがありその価値が高まるのである。機械にはそもそも愛がありえないからである。
要するに機械化自動化はかえってより人間的なものが人間にしかできないものが価値が高まるのである。

例えば家事でも自動化してゆく,すると人間はいらなくなる,実際家事は一人暮らしでもできるようになっている
ではお手伝いさんはいらなくなるかというとそうでもない,一人暮らしの人は淋しいから話し相手に必要だともなる
そうなると話がうまいとか何か趣味があるとか家事をする能力ではないものが価値がでてくる
もちろん料理でも自動化はできないたろう。機械化自動化してもどうしても人間的なものを求める
その人間的なものがかえって価値が高まるのである。
だから未来は別な能力が求められる,より人間的なものが求められる

将棋や碁の相手は機械になった,すると娯楽にしても変わる,人間はそれでも会話を望むし人間的なもの求める
つまり娯楽も変わる,そこでより創造的なものが求められる時代になる
将棋や碁はコンピュターによって解析された,そうなるとコンピュターによっても解析されないものが価値がでてくる
自分がしている抽象画はコンピュターでしているが新たな価値を作り出したともなる
もちろんその価値はどれだけのものなのか疑問ではなる
でもやはり新しい価値が生み出したともなるのだ

2017年08月07日

JRには人へのサービスが欠けている (技術者集団であり人へのサービスは重んじていないからか?)


JRには人へのサービスが欠けている

(技術者集団であり人へのサービスは重んじていないからか?)



市で作ったトイレが障害者の団体のあさがおで毎日掃除しているという
たまに行くと見かけるけど毎日にしていた
そんなに掃除しなければならないのか?
いつもきれいになっていた,その分金がかかっていたのである。
その金は市で払うから市民が払っているともなる

なぜそれがわかったかというと向かいの自転車屋はいつも駅を見ているから知っているのである。自分は一日一二回くらいしか行かない
その人はいつも駅を見ている一日中駅を見ている
何もしなくても駅とかかわっているのである。
道案内などやタクシーのことも聞く人がいた
つまり駅には誰いない無人駅だからそうなっていたのである。

その人は駅舎が空いているのでそこを利用すればいいと言っていた
それが観光協会がなんとかでうまくいかなかったという
鹿島駅てはあそこで弁当などを売りたいという人がいるという
それなりの人が出入りしているからである。
前は売店まであった,その時はまだもっと人が乗っていたときである。

駅で弁当でも何か売りたい人がいるということは初耳だった
でも観光協会がどうのこうのとかできないらしい
JRはこうして市民が地区の人が掃除していても何も礼も言わない
それは自分もそうだった

いろいろ駅を見ているですよと言っても何も礼も言わない
それがJRだという,確かにおそらくその駅前の人も地区の人も礼など言われたことがないから言っている
何か注文をつけるとうるさいというくらいにしか思っていないのかもしれない
これもどういうことなのか良くわからない
道案内しただけでありがとうと言う人もいるのになぜJRではそうして地区でも掃除したり自分もいろいろみていて補佐しているのに何も礼も言わない
一言ありがとうとも言わない,むしろどうでもいいという感じになる
それで自動化して無人駅化する
何かJRでは人へのサービス精神に欠けているのだろうか?
その辺の事情はよく分からない
今日前の自転車屋に聞いてJRはそうだなと思った

2013.10.15

JR、ずさんなサービス品質の実態〜安全対応軽視、黙り込む駅員、顧客無視のシステム

東京駅の改札前のメイン・フロアでは、カート用のスロープが一路あるだけ。それ以外は、階段と小さなエスカレーターが一機設置してあるのみ。ほとんどの人がスーツケースを重たそうに持ち上げ、階段を上っている。


東京駅でもそういうことがあるのも驚きである。そういうのは駅員が見ているとわかる
田舎の駅ではエレベーターがない駅が多い,するとスーツケースでもキャリーバッグでも階段を上り通路をわたり改札口まで結構な労働なのである。女性もいるから楽ではないと見ている

ここの記事では駅員が何かと不親切だとかインターネットの予約でも何か人へのサービス精神がJRでは欠けていると指摘している

そもそもJRは線路の保守とかメカの点検保守がメインの仕事であり人へのサービスは別なのもと考えているのかもしれない,そういう集団であり組織なのかもしれない
サービス業だとは思っていないのかもしれない
理系とか技術者関係にはそういう人が多いだろう。

でもホテルとか売店とか経営するようになっているから今は変わっているが基本的にはそういう姿勢なのかもしれない,線路とか鉄道の技術としての保守管理がメインの仕事であり人へのサービスは付随したものでしかないと思っているのかもしれない
実際に地区の人でも自分が駅をみてしていることでも全く無関心なのである。
その駅舎でも自分たちのものではないという感じにもなる
すると機械だけおく無人駅でいいというのがJRの態度になって行くのもわかる
それはただコストがかかるからというだけではないのかと今日話を聞いて思った
機械にたいしてメカには保守点検は厳重にしているが人へのサービスは重要なものとして考えないということである。

ただ駅はJRのものだけではない,駅に来て無人駅で案内する人もいないとなると駅が街の玄関の役割を果たしているというときその街自体の印象が悪くなるのである。
駅はJRだけのも問題ではない,その市町村と密接に結びついてある
経営として人へのサービス精神からみる必要もある
駅はJRだけのものではない,それは街と一体化していることを市民でも自覚する必要がある,でも車時代になると常磐高速道でも四車線化しているように
車は乗る人が多いから便利になる,鉄道は利用する人が少ないから便利にならないのである。乗る人が多くなれば三〇分感覚に電車に乗れるようにしたりできるからである。
どうしても経営はコストなしには語れないということである。

原町の道の駅で野草展(レンゲショウマは見たことがない)


原町の道の駅で野草展(レンゲショウマは見たことがない)

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時々道の駅で野草展が開いている,さほど見るものがない,今回はイワヒバが多かった
イワヒバはいろいろ種類があるという,茨城県の太子ではイワヒバを売っているので買ってもらった,高いが品種的にはそれほどいいというものではなかった
イワヒバは岩にあうからイワヒバである
これをとるのは容易ではないから高いのである。

レンゲショシウマという花は本当に見れるのか?
こんな花が近くの山に咲いているのか?高山の花だと思った
シャンデリアのように開いている
これを自生してる山の中で見たら神秘的である。

野生の花はやはり野山に咲いているのを見たとき一番美しいし神秘的になる
この花を見たいといってもかなり山奥に入らないと見れないだろう。
花は高山植物を見てきたがそこまで行くのが苦しい

尾瀬にはいろいろ花が咲いていたけどそそこまで行くのが大変である。
至仏山に咲いていた花は神秘的だった
尾瀬にはもう一回行って見たい,でもこの年になるとなかなか行けないなとも思う
人間はこれほど旅をしても見るものがつくづく限られていると思う
だから時間が貴重なのである。

人間はくだらないことに時間を費やしすぎるのである。花を見る時間もやはり人生の中で貴重なのである。花のことを知らない人が多い,すると何か欠けていることになる
女性でも四〇代の人が生け花もしていない,農家に嫁いでも花のことを知らないのである美人でも何か大きなものを欠けていることに気づいた

一般的に男性は花に興味がない,だから花屋で男性が花を買いにゆくと変に見られてしまうのである。
ただ別に野草展では男性の人も花を育てている,そういう趣味の人はいる
やはり高山植物は神秘的である。今になると見れないものとなってしまった
人間は何か何をするべきだったとか必ず老人になると悔いる

それは時間が無駄なことに費やしているからそうなるのである。
時間を有効に使っていないのである。
そしてその貴重な時間がいつかはなくなってしまうのである。
今になると自転車旅行もできないとかなる
時間があっても今度は体力がないとなりできないとなる
つまり時間でも体力でもいつまでもあるものではない,限られたものとしてしか人間には与えられていないのである。




2017年08月06日

津浪の原発事故の後の生態系の変化 (チョウトンボを見た)


津浪の原発事故の後の生態系の変化


(チョウトンボを見た)


チョウトンボは今まで見ていない,津浪が起きてまもなくチョウトンボを見た,それはどこから飛んで来たのか?
山元町の海岸地帯に湿地帯が残っていてそこに貴重なトンボが生息していた
その辺から飛んできたのか?この辺では今までみかけたことがない
一時異常に蝶が一面に津浪の跡の原っぱを埋めつくすように集まった
あの現象はなんであったのか?
塩分が多くなってあんなに集まったのだろうか?

今日チョウトンボをみかけたのは六号線から塩崎の方に行く道である。
一瞬見た,津浪が起こったときから見ていない,とするとこの辺に生息しているのか?
今年は長か少ない,キャベツ畑が減っているからだとも言う
アゲハチョウも少ない,ただ海老の所の湿地化したところで赤とんぼが一杯飛んでいた
赤とんぼが群生して飛んでいるのも最近みかけなかった
トンボは沼地があると繁殖しやすい
一時津浪の跡に沼地化して糸トンボなどが繁殖した
でも今は埋め立てられから沼地は消えてイトトンボもみかけない

何か魚釣りの餌をとるために網で堀りをすくっている人がいた
何にもいないと言っていたが堀といっても下も両側もコンクリート化していれば生物は棲めないだろう,みんなコンクリートの堀にしたからメダカもドジョウも生物が棲めないのである。

鷺はもどってきている,蛙も田んぼに盛んに鳴いた,その時復興を感じたのである。
田んぼは生態系としてありそこで生物が生きていて鷺などの鳴き餌にもなっていた
原野化したときはノスリが集まった,原野にカヤネズミなどが増えたのたろう。
しかし人間の肉眼では見えない,ノスリには見えるのだろう。

ともかく蝶はへった,前は小さい蝶でも揚羽類でももっといた。今はたまにしかみかけない,ただ森とか山の方にはまだみかける,放射能の影響などはわからない。

人間は今高度に文明化して生態系を意識しないで生活している
エネルギーが石油とか原子力になると今生活している生態系とは関係なくなる
石油をとりにゆくのは中東であり日本の地元とは関係ないのである。
そのために中東の紛争にもまきこまれる

江戸時代から戦後十年は自給自足の生活がつづいていたのである。
エネルギーは蒸気機関車だと石炭であってもそれは日本でとれたものだったからだ
あとは炭焼きとなれば地元の森林を使っていたのである。

それで入会権というのはもともと森を守るものとしてあった
それはその山で炭であれ山菜であれ山の幸を分け合うものとして山や森を守ってきたのである。
ところが明治維新で私的所有権が過度に認められたとき山は割り山になった
無数に分割されてしまったのである。
入会権として山を守ってきたのはそこで生活をしていたからである。
日本の森や山を利用しなくなったときかえって森も山も維持できなくなったのである。
間伐もしないのは木を利用しないからそうなる
そして利用しないからかえってそこを利用しようとするとき今ならソーラーパネルになるのである。
森でも山でも田畑でも利用しないと廃れてゆき荒廃してゆくのである。

自給自足の生活は自然の生態系で生きることだった,その生態系が原発事故の前から文明化によって破壊されていたのである。
だからこそ今や田舎でも生態系を意識して生活していないのである。
田畑があり森があり山があっても農民は一割にも満たないから生態系を意識して生活している人は田舎でも少数派なのである。
自給自足の生活なら別に意識しようとしなくても意識していたしそうでなければ生きていけなかった,今は田舎でも生態系を意識しなくても生きていけるのである。

むしろ石油や原子力の方を常に意識する,そこから電気が生れるから電気は欠かせないものとして意識する,電気があれば別に森や山などのことを考えないですむ
東京で一千万住んでいてもその人たちは生態系など意識しない
ただ水不足になったりするとき山から流れる水を意識するのである。
石油や原子力から水は作り出せないからである。

原発事故では何が起きたかというと生態系が破壊された
結果として空気も水も汚染された住めなくなったのである。
東電などで原子力発電にかかわった人は地元の生態系など関係ないのである。
ただ事故になった結果,地元の生態系を破壊したから東電の人も田舎が何で成り立っているのか生態系を意識したとなる
でも東電の人達はここに住まないし東京に住むから生態系とは関係しないのである。
だから今回の東電の原発事故は文明のありようまで問われたのである。

それは日本の大企業でも多国籍企業でもインドネシアのオラウータンの住んでいる森を破壊する,それは生態系を破壊するからオラウータンも住めなくなるのである。
それは人間も住めなくなるのである。
最低限生態系が維持できれば水でも飲めれば田畑でも維持できれば森林でも利用できれば生き残れる,でも生態系を破壊されたら住むことはできなくなるのである。

津波によっても生態系は破壊された,でもまた元に自然はもどる,自然には回復力がある
でも原発の放射線はプルトニウムなら二万年消えないとかなる
生態系にそういう毒が残り続けるのである。それが自然の災害と科学技術の災害との相違だったのである。
ナイル川の定期的な氾濫は土を肥えさせる泥を運んできた
だからそれは害あるものではなかったのである。それがエジプト文明を作ったともなっていたからである。
それは自然に従う文明であり現代文明は原子力発電とかなると自然に逆う文明だったのである。


17:51 アップ

チョウトンボはハグロトンボだったかもしれない,ちらっとみただけであり確かめなかったのが失敗だった,なぜならチョウトンボが一羽だけ生き残ることは考えられないからだ
まちがいなく震災直後に津浪の後に見たのはチョウトンボだった
追いかけてみたからである。今回はちらっと見ただけだからである

夕方に十数羽,鷺が飛んでゆくのを見た,五六羽は見たことがある。
こんなに多く見たことはない,前には鷺の巣があった
これだけ鷺ももどってきたということである。
それは田んぼが増えて生態系が回復してきたからである。
生態系が回復することが復興でもある


十数羽鷺の群れ飛ぶ夕暮れや久々に見て心地よしかな
posted by 老鶯 at 16:47| Comment(0) | TrackBack(0) | 福島原発事故関連

2017年08月05日

阿武隈山地の影(詩) (行政区域としての廃藩置県には無理があった)


阿武隈山地の影(詩)

(行政区域としての廃藩置県には無理があった)
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海があり森があり飯館の阿武隈高原がありかなたに
吾妻連邦が見える




阿武隈山地の影が覆っている
常に阿武隈高原がさえぎる
水鏡の峠を越えれば
安達太良山を望む
川俣はまた別な世界
いわきは東京に近い
通勤列車が東京へ出ている
いわきから複線になっている
相馬地域は仙台圏なのか
常に阿武隈高原地帯がさえぎる
その影が覆っている
中通りは遠い
その地理的障壁は消えることがない
人の心はその地理の中に閉ざされる
浜通りは常に海からの風が吹く
その風が開放的にする
しかし海は津浪のように恐怖をもたらした
阿武隈山地に閉ざされて
海は恐怖をもたらし閉ざされる
人間の運命は自然によって
あらかじめこ定められている
その定めを越えることはできない
その地の宿命の中に生きる

地理というのがいかに人間に影響するかである。人間は地理によって作られるのである。その地理の定めを越えることはできない
福島県は阿武隈山地で浜通りと中通りが分断されて中通りと会津も分断されている
そういう地理的宿命は帰ることができないのである。

人間の心もそうした地理や風土によって作られてゆくのである。
阿武隈川山地の不思議は日本列島が大陸から分離して形成される途上で古くから存在していた,古い山脈なのである。地層が相当に古いのである。
だから地盤が安定しているから飯館村に核廃棄物をの貯蔵庫を地下深く作るとかの意見も出たのである。

浜通りにとってこの阿武隈山脈の影響は相当に大きい
物心両面でさえぎられてしまう,その影が大きくのしかかってくるのである。
なぜ地理がこれほど影響するかというとやはりそこに住み生活していれば地理の影響を一番受けるからである。

日本は結局山国だからどうしても山にさえぎられる,その山の中に閉ざされる傾向が強いそういう地理である。どこまでも広がる大陸的平地はない,必ず山でさえぎられるのである。だから日本という国は本来は意思疎通がむかしい国である。
父なるラインとかドイツのように国土を象徴してまとめるようなものがないのである。

福島県でも広いから新潟県がどこなのかという話題になった
越の国の範囲となるが東北だという意見もある
どうもその新潟が相馬地域ににているのだ

東北開発促進法の中では東北地方の定義として「青森県、岩手県、宮城県、秋田県、山形県、福島県及び新潟県の区域」と記されている。

福島県と新潟県が一体化してとらえている,相馬地域も福島県でもあり仙台圏の中にも現代では入っているから中途半端な地域だともなる
新潟県は会津地域にも入る,すると東北なのかともなる
結局は北陸となると富山県が中心でありその富山県は越の国であり大伴家持が古代に赴任してたように奈良か京都を向いている,さらに大阪を向いている
新潟県が向いているのは関東でり東京だとなる,それは福島県ににているのだ
つまりどっちつかずの地域になっているのである。

ただ米沢市は上杉家の藩であり上杉謙信の領地としてあった
それで今の玉野村で丸森の森の木材資源をめぐって伊達藩と上杉藩と相馬藩が三つ巴で争ったのである。だから上杉謙信から歴史的に越の国の影響も及んでいたともなる

ともかく廃藩置県は地理を無視したものであり歴史も無視したからそこで何か一体感をもてないものにしたのである。
会津と新潟は一体の県とした方がわかりやすかったかもしれないのである。
そういうことはいくらでもあるのだ
相馬地域が福島県になるのも何か不似合いだった,そういうことは全国でいくらでもありそれでいろいろもめてもいるのである。
行政区域と地理とか歴史とか風土の区分けは別物なのである。
行政区域としての廃藩置県が地理的歴史的文化的風土的区域化したものとは別物である。明治維新からの廃藩置県はそこで無理があったのである。
それは行政区域としての県という単位であったからである。

福島県は地理的に隔絶されて一体感がもてない


福島県は地理的に隔絶されて一体感がもてない


昨日は仕事できた郡山市の人が駅にいた,車を運んできたらしい,帰りは電車で岩沼を回り帰るという,そうなると結構遠い,直通だから途中乗り継ぎがないからいい
あとは墓参りにきた福島市のばあちゃんだった,墓参りに来る人は増える
お盆だから増える

駅には人の流れがある,郡山市は30万都市で福島県では一番大きい,だからここから仕事に来る人は多い,福島市はそれほどでもないのは県庁があり公務員の市だからとなる
経済活動を一番しているのは郡山市である。
だから郡山市を県庁にするということでもめている

福島県は大きすぎる,だから実際はいわき地域と郡山地域とか福島市地域とか会津とか相馬地域とかに別れいてる,郡山市と福島市は交通の便がいいからつながる
でも福島市は仙台福島区とか言われるのは新幹線で20分くらいで行き来できるからである交通の便がいいからそうなった。

相馬地方は仙台とのつながり深い,高速でもつながったからますますつながりが深くなる電車でも仙台を行き来する人が一番多いのである。
仙台の方の人と結婚する人も多いのである。仙台市相馬区のようにもなる

ただもし福島市と鉄道ができて30分くらいで結ばれれば福島市も近くなるのである。
会津でもそうである,交通の便が悪いから交流がないのである。
新幹線のようなもので結ばれたらそうした地理的障壁はなくなるのである。

郡山市が発展したのは原野であり何もないところから発展した,安積疎水で猪苗代湖の水を利用した結果として発展した,三春の方が城があるから古いのである。
でも三春は山の中であり発展しなかった。二本松は中世の山城から発展した。
ただ平地があるのは福島市と郡山市と会津若松市である。
やは明治以降は平地があると発展しやすいとなる

福島県は地理的に統一感がない,地理的一体感がないのである。
浜通りと中通りは阿武隈高原でさえぎられていて障壁となり遠い感覚になる
中通りと会津はやはり遠い感じになる
前にも書いたけど廃藩置県は地理とか歴史とかを無視して無理やり作られたことでそうなったのである。

だからそもそも福島県のアイディンティティなど作り得ようがないのである。
会津なら会津のアイディンティティは地理的歴史的に作りやすい
福島県になると作りえようがないのである。

福島県の地理は本当に複雑である,会津などで山が多くて深いからそこを知るだけで容易ではないとなる,そこに魅力もあるのだが福島県は地理的歴史的に一体化することは無理になる,福島県の特徴は地理的に断絶された県だとなる
例えば山形県だと最上川で一体感をもてるかもしれない,ドイツのライン川が父なる川としたように地理的に川で結ばれて歴史も作られてきたからそうなる

福島県に阿武隈川があったとしても確かに郡山市から福島市から宮城県の亘理まで流れている,その川から一体感を感じるということもない,相馬地方とは関係ないからである。会津磐梯山が福島県の象徴的山のように見えても相馬地方からは全く見えない
むしろ霊山からは吾妻山が見えるから吾妻山の方が親しいとはなる

会津県とか二本松県とか磐城県とかになる構想があったがその方がわかりやかったとなるでもそうなると磐城太田駅があるように磐城として相馬地方は組み入れられる
相馬だけでは小さいからそうなる
相馬地域は独自性を保てないとなる,何か仙台市相馬区であり磐城相馬区とかなってしまう,相馬地域が何かそうした中途半端な地域なのである。
ただ相馬藩としてあるときそれはそれで独自性を保っていた歴史があったのである。

ただ原発事故で相馬藩だった所が一番被害を受けたから全体的に縮小した。
そして衝撃的なのは少子高齢化で将来を見ると阿武隈高原地帯には人がいなくなる
今も飯館村などでも原発事故で極端に人口減少が起きているが別に原発事故がなくても
将来的に阿武隈高原地帯には人が住めなくなるような状態になることが予想されていたのである。

津浪とか原発事故はここだけではない,何か日本の将来を先取りした地域になったのである。三陸でも高齢化であり漁業だけではやっていけないとかなっていたのである。
後継者もいないとかなっていた,だからそんなところに今さら金をつぎこんでも無駄だと官僚が本音を言ったのである。じじばばしかいなところに金をつぎこんでも無駄だと本音を言ったのである。それはこの辺でも原発避難区域になった所に言える
じじばばしか残らない地域で復興できるのかとなったからだ
そこはうば捨て山になってしまう

自分としては村々が広範囲にありその地域独自の生活をしているとき魅力を感じる
でも今やインフラの維持に都市部の180倍もかかるとかなると無理になる
昔の自給自足だったらいいがそれだけ金がかかるから税金がかかるからその税金が地方交付税とかで東京都民でも払うから不満になってくるのである。
炭焼きしていたような時は違っていた,自分の生活を自分の村でまかなっていたから都会とは関係なかったからである。

そうなるとコンパクトシウティとかコンパクトタウンとかコンパクトビレッジにするほかないとなる,もう原発避難区域になった所はそうなっている
街から離れた周辺部には住めない,それは小高でも浪江でもそうである。
飯館村でもそうである。蕨平などは40軒あっても一軒しか帰らないとか周辺部にはもう人が住めないのである。

福祉でも医療でそういう広い地域は一軒一軒回るだけでも手間なのである。
人が集まり住んでいると回るのも楽だから医療でも福祉でもサービスをする側にとってはその方が手間も金もかからない,少ない人員でやれる
そして人手不足になっているからコンパクト化が必要になっているのである。

mujyuuka1.JPG
20150年には阿武隈山地には人が住まなくなる
元の森林にもどってしまう

日本ではこの辺でもそうだが原野化するとそこに木が生えて森林化する


2017年08月04日

JR無人化基準は、1日の利用者が700人。  (この基準だと相馬市とか原町,亘理以外は無人駅になる)


 JR無人化基準は、1日の利用者が700人。


 (この基準だと相馬市とか原町,亘理以外は無人駅になる)


   鹿島駅
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この数字は2017年度は6年ぶりに常磐線が開通したので変わっている
2017年度の乗客数はかなり増えているようだ
なぜなら3倍に増えたと言っていたからである。
ただ震災前から乗客数は減っていたのである。

JR九州や北海道では、無人駅を大量創出することを決定している。九州では大幅に安価となったセキュリティドアが開発され、採用も決定している。
一方で、JRのホームから転落する事故も相次いでいる。上場したJR九州では、利益最優先政策から、現在の駅数566駅のうち、既に無人駅が281駅に達しており、さらに今後、最大で100駅弱も無人化する計画を有している。

国交省は14日、JR京浜東北線の蕨駅で、盲導犬を連れた男性がホームから転落し、電車と接触して死亡した事故を受け、鉄道各社に対し、1人でいる視覚障害者を見かけた際は声をかけることを駅員に徹底するよう指示する方針


JR九州

筑豊線7駅無人化 反対要望書提出へ 14日に直方市と鞍手町 /福岡


別の無人駅では、外国人が券売機の前で困っていました。片言英語で声をかけると、500円玉入れて290円のボタンおしても切符が出てこないようです。画面をよく見ると、10円が釣銭切れのようです。幸い私の財布に小銭が多く入っていたので、両替してあげたのですが、

名鉄瀬戸線を使っている友人は、向かいに座った客がおう吐したので車掌を呼んだところ、すぐ汚物を片付けたことや、その道具を持っていたことに驚いていました。
また、急病人発生で無人の清水駅に臨時停車して、駅員もいない中運転士と車掌で救急隊まで引き継いだことに対し、乗務員の対応に感心するとともに、もっとひどい心臓発作とかだったらどうするのか、

年配の方など、機械に弱い人にとって、券売機の操作が分からなければ、使いにくい鉄道になります。私のように機械の不備で待たされるような場合も同様です。ましてや国際化、高齢化が進む中、ソフト面のサービスも重要と考えます。

鉄道会社はワンマンや無人化で取りこぼす運賃よりも、人件費の方が高いのは分かってますからね

筑豊本線の無人化に反対するよりも、北九州市や自治会などで簡易委託駅として維持管理する方向に努力はできないんだろうか?
JR九州の駅員配置駅でも業務委託駅は多く、むしろ直営駅(その鉄道会社の従業員が駅員であるところ)は少ないでしょう。

一応の基準は、一日あたりの利用客数が700人以下であるということです


福岡)駅無人化計画に反対 視覚障害者ら1万人超の署名

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あすからJR吾妻線 2駅を無人化 利用者から不満の声 
更新日時:2017年3月31日(金)

昨年度の1日平均の乗車数は群馬原町が488人、万座・鹿沢口が205人で、記録が残る2000年度の3、4割程度。無人化は「駅の利用状況などを総合的に判断した」(同支社)という。 

美幌駅を無人化とする計画の撤回を求めた要望(北海道)

どの程度利用者数に減ると無人駅になるのか?
という点である。これまで散々、利用者数などの数値を出してきたが
利用者数だけでは無人駅化する、しないの目安にはならないのではないかと思う。
なぜなら、これらの駅よりも利用者が少ないのに有人の駅も日本中、あちこちにあるからである。
逆に、なぜ利用者が少ない駅なのに有人駅が存在するのか?


100段近い階段のある福吉駅は、無人になったら高齢者や障がい者は乗り降りできず、観光や親せきも来られなくなる。
 対応は?

福吉駅と一貴山駅の無人化   中止して下さい!


車イス等は、(乗る時も降りる時も)深江駅に連絡あれば、係員が出向いて対応する。
 車イス利用者には、JRが説明をする。

九州が無人駅化を押し進めている,その数も200以上とか多い,もうローカル線を維持できない状態になっているだろう。危機的状態なのかもしれない。
ワンマン化も進んでいる,そこでも車内で突然の自己とか事件があって困った
無人化は何か突然の事故の時に対応できない,人がいないのだから安全がない
確かに自動化の技術は進んでいるが安全が計れない

鹿島駅が自動化したことで乗車証明書をとることが意外とわからない,外から来た人はわからない。自動化しても何か必ずわからないことがあり駅員がいれば聞きたいことがある盲人の問題もある。一人の盲人が通っているが前は隣の駅員を呼んでいた,危険を感じていた,今日は補佐したら別にいいという,何か遠慮を感じたのと障害者でも自力でしたいということがあのかもしれない,自分は駅員でないから遠慮するということもある
駅員だったらこき使ういうことがある。ボランティアだと遠慮することがある
ボランティアと何かあいまいな存在なのである。
善意でやるのはいいがサービスを受ける方は嫌がることもある

いづれにしろ無人化に反対するのは全国的にある。それがインターネットでわかった
こういうときインターネットが力を発揮する
相互にリンクすれば無人駅化反対の運動が全国的に拡大するということがある。
ただその解決方法は自治体がかかわるべきだとも言う
つまりそれは市町村の問題でありJRだけの問題としては解決しないからである。

ただ一日平均の乗客数が700人以下が無人化の対象になるとき相当に厳しい
JR九州だと半分が無人化する,常磐線でも相馬市と原町と亘理をのぞいて無人化してしまうのである。それだけローカル線の状況は厳しいのである。
そういうことを市町村でみんな自覚している人は少ない
みんな車を利用しているから鉄道のことに関心をもたないからである。
それでますますJRでも無人化をすすめることになる
市町村の問題として問題意識をもつ人も少ないからますます無人化が増えるし
鉄道はこれからも危機的状態が加速してくる
ただ高齢化社会で高齢者が車に乗れなくなるとき鉄道が見直されるかもしれない
それより少子高齢化で人口が全国的に減るときもうローカル線はどこも維持できなくなる廃線になると予測している,インフラの整備に手間も金もかかるからである。

業務委託駅とかにして無人化を防ぐということはありその方向に向かうのか?
これもやはり住民が要望したり自治体がかかわらないとやはり無人化はすすむ
JRだけにまかせていればそうならざるをえないのである。
タグ:無人駅反対